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第11話  心裏の先に

 なぜ、こんなことになっているのか。

 呆然と立ち尽くす男はそのことで頭が一杯だった。

 ――嘘だろ……?

 確かに残るとは言った。街の人々の避難に少しでも役に立てればと思っていた。

 だが、それらはあくまで、いよいよとなったら自分も避難することが前提。ここまで深く関わるつもりなど毛頭なかった。

 それがどうして、こんな事態へと陥ってしまったのか。

 ――なんだよ、これ……!

 望んでこんな場に立っているのではない。

 小さな正義感に身をゆだねたが故の翻弄。いくつかの不慮が重なった結果の産物。彼が描いていた未来図は決してこんな形ではなかったが、今更悔やんだところで現実はすでに、ここにある。

 眼前には、数百という数の兵士がいる。その全員がこちらを注視しているのだ。

 もう後戻りはできない。不本意だろうとなんだろうと、この結末を招いたのは彼自身の決断によるものなのだから。

 一刀は戸惑いから身動きが取れない。そこに容赦なしの声が届いた。


「どうされた天の御遣い殿? 皆がお待ちかねじゃぞ?」

 

 管輅だ。

 一刀はやり場のない感情から右隣に立つ老人を睨み返す。が、それも束の間。意識はすぐに別へと向く。

 周囲の熱視線が全身をじりじりと焦がすのだ。

 当然だ。

 今、一刀は窮地の濮陽で救世主のひとりとして祭り上げられようとしているのだから。

 あの後、城外への脱出を諦めた一刀たち一行は、宮城へと直行。城に詰める兵士たちに助力を買って出たのだ。

 その申し出に初めこそ無反応だった兵士たちも、それが悪名とはいえ天下に轟く"飛翔の呂布"と"神速の張遼"だと知るやいなや、表情は喜びと興奮で弾けた。

 その上、そこへ"天の御遣い"という新たな天啓までもたらされればどうなるか。

 中庭に集う兵士たちの眼差しは、まさしく敬仰のそれであった。


「ぁ、ぅ――」


 冗談じゃない。

 そう内心で毒づき、目を逸らした一刀は再び老人を睨みつける。

 しかし、空しい抵抗は受け入れらるわけもなく、管輅はただ静かに首を横に振るだけ。

 これも当然のことだ。先刻"我が預言の救世主"と仰々しい前口上付きで一刀を紹介して、兵士たちを焚きつけたのは、他ならぬ管輅なのだから。


「何をしておられる救世主殿。いい加減、腹をくくったらどうじゃ? 救いたいんじゃろ? 彼らを」


 台詞と共に、力強く背を押され、一刀はつんのめりながら一歩、二歩と前にでる。

 救世主とは程遠い、なんともみっともなく間抜けな登場だろうか。通常なら嘲笑が起こってもおかしくない場面だろう。

 ただ、そうはならなかった。


「「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオ」」


 むしろ兵士たちが向ける歓声と期待感は高まるばかり。膨大な熱の塊となって襲ってくる。

 一刀は踏みとどまるので必死だった。


「――――」

 

 逃げ出したかった。

 知らず知らず、爪が深く食い込むほど堅く握っていた両の拳。解けばその掌は汗でしとどに濡れていた。


「くそッ、くそ……!」


 情けない。

 この状況でもまだ踏ん切りのつかない自分自身が。

 わかっているはずだ。この窮地において"天の御遣い"の肩書きが彼らにどれだけの勇気を与えるかも。轟く呂布、張遼の武名に、天のひと文字が連なるその意義も。そのために為すべきことも。

 覚悟の有無も、一刀の都合も、もはや関係ないのだ。

 今、求められているのは絶望を照らす希望の光。たとえそれが偽りの光だったとしても、生き延びるためには必要なもので、真偽も善悪すらも関係なく、最初から他の選択肢などありはしなかった。


「…………」


 いや、それでも最後に選択の余地があるとするなら、それは意志だろう。

 最後まで流され続けるか、あるいは、己の足で踏み出すか。訪れる未来に違いはなくとも、きっと何かが違うはずだ。

 だいたい、見掛け倒しだろうと何だろうと、無力よりは何千倍もマシだろう。


「ああ……、わかったよ」

 

 なら何を躊躇することがあるのか。どう転んでも変更のきかない一本道なら、せめて精一杯の見得を切って進めばいい。第一、この一本道を行くのは自分だけではない。

 じいさんも恋も張遼さんも陳宮も一緒だ。皆はもう前に進もうとしている。なのに巻き込んだ張本人だけがいつまでも不貞腐れていてどうする。

 ――救いたくないのかこの街を……!!

 答えは決まりきっていた。


「俺は北郷一刀。預言……っ、預言の――天の御遣いだコンチクショウオオオオオオオオオッ!!」


 突き上げる拳はただ己を鼓舞するために。

 割れんばかりの大歓声が中庭を包んだ。


***


「いや~、なんかもうめっちゃ盛り上がったな! 特にあの、"この街は俺たちの手で守るんだ!!"やったっけ? あっこなんかもう最高頂やったわぁ~"んだ!!" のキレがよかったわぁ~痺れたわぁ~」


 先ほど聞いた演説を真似ながら、霞がいやらしい笑みを浮かべている。

 ここは、濮陽でもっとも豪華な一室。今は主不在となっている領主の執務室だ。

 ひとまず守兵の掌握に成功した五人は、今後の方策を錬るために中庭から場所を移した。

 部屋の脇には見るからに値が張りそうな調度品が飾られ、最奥に鎮座する領主の机は、ここで日々の政務が行われていたのか疑いたくなるほど綺麗に整理されている。

 皆は自然とその一角へ集まる。部屋の片隅で膝を抱えて小さくなっている一名を除いて。


「うううううううう」

「あーらら」


 どういう訳かは知らないが、彼は"天の御遣い"とやらを名乗ることにかなりの抵抗があるらしい。

 まあ確かに、天を自称する者など、かなり痛々しい性格の持ち主か、よほどの変人だと霞も思う。そういう意味では、彼の反応は真っ当であることの証拠とも言えるのだが、


「おーい、何してんねん御遣いさま~? そない隅っこで縮こまっとらんとこっち来たらええやん?」

「やだ!! しばらくそっとしといて!」

 

 思いの外に拗ねられた。移動の合間に散々、冷やかしたせいだろうか。恋もその様子を心配そうに見つめているが見守るだけに留まっている。

 まあ確かに、今思えば、彼は彼なりに必死だったのだろう。たとえ後ろで聞いてるこっちの方が恥ずかしくなるような青臭い演説だったとしても大真面目だったのだ。それをあんな笑いものにして、少々やりすぎたかもしれない――などと反省することは微塵もなく。

 というより霞は悪戯猫のように目を細め、


「なんでや~? ついさっきまで歓声に応えて、嬉しそうに何度もこうして拳を突き上げとったんは、御遣いさまやんかぁ~?」

「いやああああああああああああああああああ!!」

「にししし」


 とはいえ、あまり悠長にしていられる時間はない。

 先ほど受けた物見の報告によると、敵はいよいよ本隊が合流し、既に陣を展開させつつあるらしい。名残惜しいが、彼を苛めるのはまたの機会にしよう。


「よっと」


 霞は豪勢な領主の椅子に深く腰掛けると組んだ両の脚を机上に投げ出し、さっそく本題を切り出した。

 

「んで、じいさん。肩書きはええとして、実際のところ膝の間に頭めりこんどるソレは戦力になるんか? 腰にぶら下げるもんはぶら下げとるんやし、それなりの心得はあるんやろ?」

「心得はある。じゃが剣の才は月並。実践経験は皆無。統べる才……も、おそらくないじゃろうな」

「なんや。そっちは見たまんまかい」


 少しだけ残念そうに口を尖らせる霞だったが、視線をすぐに隣へ移し、


「だそうや。音々どないする?」

「ちょ、ちょっと待ってほしいのです」


 すると音々は書棚に置かれていた紙の束から大きな白紙を一枚手にとり、机上に広げるとそこにささっと筆を走らせる。


「よし、完成です」


 流れるように描かれたそれは濮陽周辺の見取り図だ。短時間で走り描いたわりにはよく出来ている。

 一緒に覗き込んだ老人もその仕上がりに関心したようだ。ほう、と小さく感嘆し、


「これはなかなかに大したもの。小さき軍師殿は筆の扱いも秀逸であられるようじゃ」

「あ、あたりまえです! これくらい恋殿の軍師としては当然なのです! 特に騒ぎ立てることではないのです!」


 などと口では言っているが、やはり褒められて嬉しいのだろう。

 音々は得意気に説明を始めた。


「まずはこれを見てほしいのです。御覧の通り、濮陽城は北面には黄河が広がり、東面にも支流が流れこむ要害の地です。特に、船団を持たない黒山賊にとって、北は鬼門。大軍での渡河がほぼ不可能な以上、進攻手段は東西から城壁を沿うように迂回するしかなく、そんなことをすれば到達までこちらから滅多打ちにされ放題で被害は甚大です。つまり! 先だって我々が考えなければならないのは、東西に南を加えた三箇所の守りです」


 音々は北門に×印を書き込む。


「そこで、南門の守将には恋殿を、西門には霞を配置します。東西に横長な立地を考慮すると、この布陣以外には考えられません」


 続いて、南門に呂、西の門に張のひと文字が書き込まれた。


「と、いうことはじゃ、東を……」

「はい、そうです。残りの東門はアレがなんとかしやがれなのです」


 そして、最後の東門には馬と記される。もちろん、ここに馬さんはいない。いるのは馬鹿だ。

 霞はその馬鹿の元へと視線を向け、

 ――アレにどうにかできるんか……?

 依然として小さく丸まったままの男を見ていると、嫌がおうにも不安が募る。

 今回の相手は賊徒とはいえ、曲がりなりにも濮陽正規軍を破った軍勢だ。

 物量でもこちらは圧倒的に劣勢で、どこか一箇所でも守りを破られてしまえば挽回は難しい。つまり、勝敗の鍵をこの戦場を知りもしないズブの素人に託すようなものなのだ。普通に考えれば分の悪い賭けだろう。

 ただ、霞がその懸念を口にすることはなかった。

 その程度のことを音々がわかっていないわけがない。であるなら、この差配は対策済みなのだろう。

 ――たしか東門の前には橋がかかっとたな……。

 さて、この地の利をどう活用するつもりなのか。

 じっと地図を眺めていると、遅れて馬鹿が騒ぎ出した。


「――って、ちょ、ストーップ! 一回止まって! 待ってよッ!」


 膝の間から頭を引っこ抜いた男は慌てて立ち上がり、音々へと飛び寄った。

 音々はこれを蔑みの目で観察しながら、


「……なんですか? 急にうるさい奴ですね。さっきまで今にも死にそうな顔していたくせに。いえ、もういっそのこと本当に死んでくれてもよかったのですが」

「――こら! 人に軽々しく死んでもいいなんて不吉なこと言っちゃいけません! 人を呪わば穴二つって言うでしょ? どんなに憎い相手でもそういう事言ってると自分も不幸になっちゃうんだから! ……って、まず俺、君に何か恨まれるようなことした? してないよね? 今日初対面だもんね? ね?」

「はい。しかし出会った瞬間から存在そのものが激しく不愉快です」

「――存在否定!? どうしろってんだよそんなもん! つか無理だぞ、絶対、無理!! 俺に指揮官なんか務まるわけないだろ!!」

「なら大人しく戦場で死んでいただいても結構です」

「――結構なわけあるか!! それもう完全に計画的犯行じゃねえか!!」


 男がさらに詰め寄り抗議を続けるが、音々は顔を背けてこれを完全無視。彼も負けじと再び正面に回り込むが、音々はプイッ。彼はさらに回り込んで音々はプイッ。彼がどれだけ回り込んでも音々はプイッ。

 恋はそれを心配そうに横目でチラチラと気にかけるがそれだけで、老人の方も呆れているだけで特に仲裁する気はなさそうだ。

 はてしなく不毛な時間が訪れた。

 ――あかん。これほっといたらいつまでも終わらんやつや……。

 仕方がない。

 俺は無能だ! と土下座で力説しながら擦り寄る男を、幼女が足蹴にし続けるという世にも面白い構図を惜しみつつ、


「音々」 


 視線が重なり、数秒。音々は諦めるように大きくひとつ息を吐き出した。


「はぁ……、最初からおまえに期待なんかしてないのですよ」

「へ?」


 彼女の筆が素早く動く。

 東門の正面。川にかかる橋を地図上に書き加え、書き終わるとそこに×印。


「と、いうわけです」

「――いや、わかるわけなーい! いや、ホントお願いします! ちゃんと説明してください! この通りです!!」 


 再び勢いよく土下座する男に、音々は辟易しながらも渋々説明を始めた。


「……いいですか? 東門への進攻には、この川を渡る必要があることくらいはわかりますよね?」

「うんうん」

「なら今回の場合、その渡河には二通りの方法しかありません。この橋を渡るか、または川を直接渡るかです。しかし、そこまで大きくない川幅とはいえ、この時期は深さも流れも十分で、泳いで渡るのには、さぞかし骨が折れることでしょう」


 そこで、


「橋を落とします」

「橋を……?」

「はい。そうすれば圧倒的な兵量を誇り、既に勝った気でいる敵軍は、わざわざ面倒な渡河を強行するよりも、他門を攻略しようと考えるはずです」


 つまり音々が言う"なんとかしろ"は東門守備の指揮をしろという意味ではなく、あくまで橋を落とせという意味だったのだ。


「この緒戦、こちらの目的は二つです。ひとつは当然、何としてでも敵の攻勢を跳ね返して、時を稼ぐこと。そしてもうひとつは"大"勝利を得ることです」

「……なるほどのう。此度の一戦、軍師殿はただの勝利では物足らぬというわけじゃな?」


 老人の言葉に音々は頷き、


「敵はまだ我々の存在には気づいていないのです。なら今が浮かれまくっている敵の出鼻を挫きつつ、最大の動揺を与えられる最初で最後の好機。と同時に、その延長線上にしかこちらの勝機はないのです。つまり、ここで勝利以上の戦果が得られないようなら――、後はないのです」

「「…………」」


 "後はない"その言葉に二人が押し黙った。

 ――まあ、しゃーないわな。

 彼らだってこの先に厳しい戦いが待っていることは、拙いながらも覚悟していただろう。だが、改めて明確な言葉にされたことで、はじめて本当の実感を得たに違いない。

 これまで戦とは遠い日常を生きてきた者たちだ。認識が甘いと咎めるのは酷だろう。


「よしょっと」


 霞は椅子から跳ねるように降りる。敢えて明るい声色をつくった。


「ちゅうことはや、逆に音々にはそこさえ乗り越えてまえば勝ち筋が見えとんのやな?」

「はい。まだいくつか問題は残されてますが、なんとか」

「なら問題あれへん。決まりや」

 

 綿密な計画を今練る必要も時間もない。音々に勝算があるならば、この場はそれで十分だ。

 何より、この二人には先々の軍略を細々と説き聞かせるより、その場その場で目先の目標だけを与え続けた方が、余計なことを考えずに済むだろう。


「腹くくりぃー。こっからは正真正銘、命の取り合いの時間や」


 一同がそれぞれに覚悟の頷きを返す。

 勝ち取るために。生き抜くために。守るために。

 それは霞も同じだ。

 この劣勢を覆すのは並大抵のことではないし、あるいは窮地に陥ることもあるだろう。

 だから相手が誰であれ、常に全力で叩き潰す。

 戦場に己の価値を見出し、戦場に生きる者だからこそ楽観はない。

 ――果たさなあかん誓いがある。やるからには、もう二度と負けは許されんのや。

 霞は身体の芯からふつふつと沸き立つ武人の滾りを感じていた。


「ほな、いくで」


 が、やっぱりそこでも空気の読めない男がおずおずと右手を上げ、


「あのぉ、すいませーん」

「……なんや?」

「ひとつだけ不安っていうか質問が……」

「だから、なんや!」

「い、いや、その、もし敵が橋を落としても、無理やり川渡って攻めてきたらどうするのかなーって」

「は? そないなこと……、あれや」

「あれ?」


 霞の代わりに音々が言う。


「なんとかしやがれです」

「え?」


 老人が言う。


「だそうじゃ」

「え?」


 恋も言う。


「だって」

「え?」


 くすりと笑い、霞は言った。


「そういうわけやから、頼むで。天の御遣いさま」

「――ええええええええええええええええ!?」


 こうして防衛の準備は着々(?)と進み、そして――、その時はすぐにやってくる。

 濮陽から南にわずか二里(約八百メートル)の地点。遮る物もない平地のど真ん中に五万もの大軍勢が布陣を終えるのは、直後のことであった。


***


「申し上げます。どうやら濮陽の連中は東門の橋に火をかけ、焼き落とすつもりのようです。いかがされますか、于毒(うどく)将軍?」

「ほう。橋を落とす、か。……悪足掻きを。ならば両名に伝えろ。狙うは南と西とな」

「はっ」


 于毒――そう呼ばれた風格を漂わせる筋肉隆々で、恰幅のいい壮年の男は、兵士が天幕を後にするのを確認すると、すでに勝利を確信しているかのように余裕の笑みを浮かべる。その顔は複数の切り傷と豊かなアゴ髭を携え、いかにもな強面だ。


「フン、あれらにはそれぞれ一万の兵を与えた。堅固とはいえ千にも及ばぬ兵しかおらん城だ。今更、橋のひとつやふたつ落としたところで何ができるというのだ」

 

 いくら城攻めは守備側に利があると言えど、その戦力差はあまりにも大きい。

 これまでいくつもの戦場を経験してきた者ゆえの余裕だ。彼には濮陽を手中に収めるまでの筋書きがはっきりと見えている。


「がっはっははは、精々、足掻け!! 高みの見物といこうではないか!」


 本営の天幕をくぐり、今まさに進軍を開始しようとする己の軍を見送りながら男は笑う。まだ確定していない未来に男は笑う。この戦に負ける要素はないと男は笑う。

 しかし、彼はまだ知らない。この戦場には二匹の怪物が混ざりこんでいることを――。

 戦がはじまった。


***


 ――南門、城門前。

 開戦早々、賊徒たちは慄いていた。


「お、おおお、おい!! なんだよ今のッ!」

「――し、知るわけねーだろッ! あんなの見たことねえよ!!」

「い、今、地面ごと揺れたぞ……?」


 城門の前に立ちはだかるたったひとりの女に釘付けだ。

 彼らはしかと目撃した。

 一気呵成に突進する味方が突如として爆ぜる瞬間を。

 方天画戟の一振りが地滑りのような轟音を鳴らす様を。それも、欠伸交じりのお気楽な一撃が、だ。

 その剛撃はあり得ない威力を誇り、これはまさに火薬技術も確立していない世界における爆撃。あまりに非常識な現象を前に、賊徒たちは金縛りにでもあったかのように動きを止めていた。

 指揮官とおぼしき男の声が響く。


「何してるダ! 相手はたったのひとりでねぇか! 立ち止まってねぇデ、さっさと押し潰しちまえ! でねぇとオラが叱られちまうダろ!」

「し、しかし白繞(はくじょう)将軍! 今のはどう見てもただことじゃありませんっ!」

「――しかしじゃね!! ただだろうがトドだろうが、おめぇらは黙ってオラの言うこときいてりゃいいダ!! それができねってなら、今すぐ潰しちまうダぞ!!」


 白繞と呼ばれた巨腹の大男は二の足を踏む自軍の兵士たちを睨み付ける。

 手には身の丈と変わらない巨大な棍棒持ち、今の言葉が単なる脅しではないことを証明するかのように、それを大地に叩きつけた。


「「!?」」


 ずしりと響く重低音は十分な威力と迫力だ。白繞の膂力も並外れていることが窺い知れる。

 さらに言えば、彼らは皆、これが単なる脅しで済まないことも知っている。


「くそ……」

「やるしかねえよ」

「こうなりゃヤケだ!」


 躊躇いながらも覚悟を決めた兵士たちは、数だけを頼りに再び女へと雪崩れかかった。

 が――、


「……おそい」


 今度は横払い一閃。女に迫った兵士たちは断末魔を上げる暇もなく胴を真っ二つに斬り裂かれ、一面におびただしい量の鮮血が吹き上がる。

 突如として現れた血染めの大幕。視界を覆われた後続は、何が起こったのかまったく理解できず、揃って足を止める。

 そこで彼らを待ち受けていたものは、またも戦慄だ。

 最前列。運よく生と死の境界線をギリギリで踏みとどまった青年は、真っ赤な雨に濡れながら腰を抜かしていた。


「あ、ぅ、ああ、あ、ぁ……、あああああ!!」

 

 雑草の如くあっさり刈り取られ、無残に転がる上半身と下半身の群れを目の当たりにして、血の気の引ききった顔には恐怖の色しか浮かんでいない。


「ば、化け物……」


 青年が思わず口にしたそのひと言は、この場に居合わせたすべての者の共通認識だったことだろう。

 彼らは痛烈に理解させられた。

 この化け物と白繞のもたらす恐怖とでは、まったく釣り合っていないということを。

 あんなちっぽけな恐怖を理由に、なぜこんな化け物と対峙しなければならないのか。

 元から尊敬や信頼ではなく、目先の損得だけで結ばれていた主従関係だ。兵士たちを繋ぎとめていた鎖は、より強大な恐怖の前に粉砕される。


「み、みんな殺される……? い、いやだ」


 彼らの心に去来する感情は後悔か、それとも諦念か。 

 少なくとも小刻みに激しく震える体には、一片の戦意も残されてはいない。

 誰からともなく、本能的に後退を始めた。

 一歩。二歩。

 わずかに距離が開くと、女が小首を傾げて言う。


「……終わり?」 


 応じる者は誰もいない。弱気に流れた者たちの心にあるのは、死にたくないという感情と、どうすればこの場をやりすごせるかという思考だけ。絶句が唯一の解答だ。

 すると女は返事を待つのが煩わしいとばかりに、血濡れた方天画戟を大きく一振りし、


「なら……、いく」


 ゆらりと女の身が左右に揺れた瞬間だった。


「――ヒ」


 強烈な悪寒と共に、青年の横を疾風が駆け抜け、再び轟音が戦場を飲み込む。

 逃げることはおろか、身じろぎひとつできなかった彼が恐る恐る振り返ると、そこには後続の兵士たちが次々と()()()()()()()に変えられていくというおぞましい光景が広がっていた。

 勇気を振り絞り立ち向かう者も。助けを請いながら逃げ惑う者も。恐怖に泣き叫ぶ者も。皆、等しく終わりを迎える。

 血が大地を赤く染め、臓腑と悲鳴が飛び交うこの場所は地獄としか表現できない。

 肘から先しかない誰かの腕らしきモノが目の前に降って来ても、青年にもう反応はなかった。


「…………」


 許容量を遥かに超えた恐怖によって、正常な理性はとっくに失われている。

 それほど一方的だった。

 浮世離れしたその武はあまりに苛烈で、あまりに凄惨で、あまりに強い。

 女が進めば、無数の死が訪れる。すべての抵抗はまったく意味をなさず、例外なく死ぬ。人の生命が驚くほど瑣末に散っていく様は、とても同じ人間のなせる業とは思えなかった。

 言うなれば、それは神の御業――。


「武神……」


 前線が崩壊するには、さほどの時を要さなかった。


「ギャアアァァア!」

「ば、化物だああああッ! こっちにくる、たすけ――うわアアアアアアア!!」

 

 武神は人の群れを踏みつぶす。効率的に。淡々と。

 白繞軍は圧倒的な力でねじ伏せられ、ただただ蹂躙されるのみだった。

 兵士たちは阿鼻叫喚の中で撤退の合図を待つまでもなく、我先にと蜘蛛の子を散らすように逃げだしていく。


「いやだ!! 死にたくない!!」

「こ、こら! おめぇら逃げるんじゃネ!」


 瓦解した戦線に白繞の声を聞く者はもう誰もいない。

 それを言うなら、白繞自身の戦意もとっくに揺らいでいる。彼の言う"逃げるな"は戦えの意味ではなく、"自分を置いて逃げるな"の意味合いが強い。

 薄々気がついているのだ。

 あれは触れてはならないものだったかもしれない、と。

 あれは絶対強者だ。あれには何があっても勝てはしない。対峙したこと自体が間違いだった、と。

 ただ、それでも白繞がまだ戦場に踏みとどまっていられるのは、ひとえに将としての意地だった。

 生まれは卑しく学もない彼が現在の地位にあるのは、偏にこの怪力があったからに他ならない。

 ならば、たとえ負けるとわかっていても、一合も刃を交えずして逃げるわけにはいかない。賊徒と呼ばれる身だからこそ、己の武には誇りをもちたかったのだ。

 

「オラだって……!」


 白繞は覚悟を決めるかのように、近づく破滅の音に向かって構えた。

 地響きと悲鳴が近づいてくる。

 そして崩れる人垣の隙間から、ついに羅刹の視線を感じた刹那――それが彼の限界であった。


「――ハヒィ」


 生まれて初めて味わった異次元の畏怖。

 白繞はわずかに残っていた意地も矜持も誇りもすべてかなぐり捨て、さらには退路上の味方を薙ぎ払って遁走するしかなかった。


***


 同時刻、西門――。

 こちらでも既に戦闘は繰り広げられており、南門と同じく城門の前にはひとりの女が立ち塞がり、押し寄せる兵士をひとりずつ斬り伏せていた。

 今も左右からの刺撃に、身をほんのわずかに捻り最小の動作でかわすと、視認するのも難しい程の速さで銀光が走り、首が二つ飛んだ。


「あーもう、どんだけおんねん。キリないっちゅーの!」


 飛龍を思わせるその偃月刀は一振一殺。最小だからこそ最短最速で人間を屠り、軽口とは裏腹に、その周囲には首のない骸が無数、折り重なっている。

 紛れもない化け物だ。

 

「す、睦固(すいこ)将軍! このままではいたずらに兵を失っていくばかりです!」 

「わかっている。しかし……あれはなんだ? なぜ濮陽にこれほどの……」


 睦固と呼ばれた将軍には明らかな動揺が見て取れた。

 その容姿は、病的なまでに白い肌と肩まで伸びる白銀の髪が印象的な小柄の女性だ。

 だが彼女もこれで歴とした一軍の将。いくら化け物相手とはいえ、たったひとりを相手にこのままおめおめ引き下がるわけにはいかない。

 戦場を睨みつける碧い瞳が力を取り戻す。

 すぐさま睦固は動いた。

 

「全軍、横陣展開! 化け物に構う必要はない。奴がいくら強くても、所詮ひとりよ。無視して城門をこじ開けるか、城壁を越えてしまえば、数に勝る我らの勝利!」

「「おおおおおおおお!!」」


 続いて部隊長の復唱と銅鑼が数回打たれ、陣が大きく左右へ広がる。前方三列がそのまま飛び出した。


「ちぃ」


 こうなるとさすがの化け物もすべてを捌ききることは不可能なようだ。思った通り、近くを過ぎる幾人かの首をは飛んだが、進軍はとまらない。


「よし、これなら……、いける!」


 再びもたげた勝利の弛緩。

 だが、対する化け物に焦りの色はまったく見られず、


「残念ながら、そうは問屋が卸さへんのやなぁ」


 いや、むしろその口元は不敵に綻び、


「――放て!!」


 途端、矢の雨が降ってきた。

 この機を狙って、ここまでずっと身を潜めていたのだろう。城壁上に数百の守備兵が突如として現れ、あらん限りの矢を射掛けてくる。

 風切りの音が駆ける兵士を次々と貫き、睦固軍の進軍が鈍った。


「っ、おのれ……だが、まだだ!! 我らを侮るな!!」


 それでも睦固の兵は止らない。

 彼らはよく鍛えられ、よく統率されていた。敵の不意打ちにも彼らの士気は衰えず、次の命令を待つまでもなく梯子(はしご)を、破城槌を抱えて、ひるむことなく突撃を続ける。


「ここが正念場よ!! 全軍吶喊!!」


 睦固も直刀を掲げ、自ら後続の先頭に立ち、全軍突撃を敢行。呼応する兵士たちは雄たけびを上げながら勇敢に進軍する。

 将が導き、兵が切り開く。信頼によって見事に練られた軍勢は強い。

 一糸乱れぬその進攻は並みの相手なら圧倒できたことだろう。事実、彼らはそうして幾多の戦場を勝ち抜いてきたのだから。

 

「なるほど。王肱を負かしたんもマグレってわけやなさそうやな。せやけど――そうは卸さへん言うてるやろ!!」

「なっ――」


 今回ばかりは相手が悪かった。城門に到達しようとしていた兵士たちの首が瞬く間に飛ぶ。

 女は気炎を吐くと城壁へ向かう兵には目もくれず、城門に一点集中。偃月刀が今まで以上の速度で縦横無尽に死出の銀線を結ぶ。

 他方、城壁に掛かる梯子は守備兵によって徹底的に倒されていた。

 いくら睦固軍が数で優ると言っても一度に掛けられる梯子には限度があり、登れる人数にはさらなる制限がかかる。頭上で数百人が待ち構える城壁を登り切るのは、容易ではない。

 壁に向かえば(はた)き落とされ、門に向かえば首が飛ぶ。かといって臆して立ち止まれば、弓に狙い打たれる。

 

「馬鹿な……」


 兵士たちの無残な散り際に睦固の嘆きが溶けていく。

 誰がこんな悪夢を想定できるというのか。

 世の英傑たちに比する豪の者が存在するなんて情報は、何も聞かされていない。

 もはや天災だ。落雷のごとく突然、降ってわいた化け物が、大優勢と思われていた戦局を、たったひとりで拮抗させてしまったのだ。

 数に頼った特攻はあまりにも勝気に逸った蛮行、死の行進。そして、ここから先は更なる苦渋の我慢比べとなる。

 この化け物の体力が尽きるかのが先か、城壁上を押さえるのが先か、それともこちらが損耗を許容できなくなるのが先か――。


「弓兵を前に!! 急いで撤退の準備を――」


 スタンッと足元に刺さる矢を苦々しく見つめ、睦固は一時撤退を決断せざるを得なかった。


***


「か、勝ったんだよな俺たち……?」

「ああ、勝ったんだよ俺たち!!」

「……うおおおおおおお勝ったああああああああ!!」

「うわあああああああああああああ!!」


 南門に続いて西門の賊軍も撤退したことを確認した濮陽城内では、こうした歓喜の声がいたる所で沸き起こっていた。

 兵士だけではない。街に残る選択をした民たちも戦勝の知らせに家を飛び出し、路上で抱き合いその喜びを分かち合う。


「助かったんだ!! 助かるぞ俺たち!!」

「あぁ、奇跡じゃ……奇跡が起きたんじゃ。ありがたや」


 それは一刀も同じだ。

 東門にかかる橋を焼き落とした後は、ただただ敵がこちらにこないことを祈っていたが、同時に二人のことがずっと気がかりだった。

 こちらに敵がこないということは、その分を二人が負担することになる。

 相手は万の大軍だ。まともにぶつかれば、いくら後世に名を残す豪傑といえど敗北は必至。一刀はなんとか無事に戻ってきてくれと、都合のいい未来を祈ることしかできなかった。

 ところがだ。

 いざ蓋を開けてみれば、どういうわけか、二人は呆気なく賊軍を撃破してしまう。

 その知らせを聞いた一刀は、居ても立ってもいられなくなり、東門から走って宮城に戻ると、勝利に酔いしれる人々を見つめながら内城門の前で二人の帰還を待っていた。


「それにしても、どうやって勝ったんだろうな……」


 報告をすべて聞く前に飛び出してしまったために詳しいことはわからない。

 一体、何をどうすれば万の軍勢をほとんど単騎で追い返せるのか。

 一刀にはまったく見当もつかないが、何かしらの策が用意されていたのだろう。


「おい聞いたか!? 呂布さまはおひとりで一万の敵軍を圧倒したらしいぞ! 万人敵とはこのことだな!!」

「それを言うなら、張遼さまもおひとりで千を超える敵兵を切り捨てたらしいぞ!! 一騎当千とは張遼さまのための言葉よ!!」


 少なくとも、そこかしこから聞こえてくる二人の英雄譚は信じがたい。

 それならまだ陳宮が軍略の超天才幼女で、とっておきの策を講じたと考えた方が、いや、これも十分常軌を逸してはいるが、多少は現実味がある。 


「……ははは。そりゃ確かに、前に見た関羽さんもひとりで何十人もの山賊相手に大立ち回りしてて、ビックリしたっていうか正直、かなりひいたけど。けど、あれとは規模が違いすぎるよ、いくらなんでも」

 

 まあこの手の話題は盛られるのが常だ。絶体絶命からの逆転劇だっただけに、その活躍に大きな尾ひれがついてしまうのも無理はない。

 それだけこの勝利は、絶望の中にあった濮陽の人々にとって劇的だったのだ。たとえ悪名高い董卓の重臣であろうと、今の彼らには救世主に見えているに違いない。

 それに比べて自分は……。そう考えた途端、一刀から喜色が消えた。


「何が天の御遣いだよな……」


 矮小だ。己は。

 御大層な肩書きを背負ったところで、何が変わったわけではない。

 目の前で困っている人を助けたいとは思っても、街や国を救うなどという途方もない意志を抱くことはできない。

 しかし、彼女たちはそれを成し遂げた。


「でも俺は無力で……」


 違う。本当は一刀も気がついている。

 もし仮に、相応の力を持っていたとしても、きっと戦場の最前線に立とうとは思わないことを――。

 つまり、覚悟の問題だ。

 それは表層的で短絡的な意識では到底、届きようもない。

 一刀にもっとも足りないものは力でも肩書きでもなく、結局は断固たる信念だった。


「…………」


 周囲の高揚とは対照的に、一刀はひとり沈む。

 何も変わっていない。

 己の無力さを嘆き、大切な人を傷つけ、それでも前に進もうと決めたあの日から何が変わったというのか。

 あの夜、もう逃げないと誓ったはずなのに。依然として言い訳ばかり並びたてて。

 理想とは程遠い。

 必死の思いで一歩を踏み出しても、先に進んだ気がしない。

 何が人助けだ。何が守りたいだ。何が天の御遣いだ。

 自問は次から次へと浮かび、自答の間すらあたえずに消えていき……。

 俯く男に声がかかったのは、そんな時だった。


「おっ? なんや出迎えか? ご苦労さん♪」

「ただいま」


 一刀はすぐさま視線を上げる。そして、そのまま絶句した。

 確かにそこには、無事に戻った二人の姿がある。あるのだが、しかし、全身べっとり上から下まで、赤黒く血で染まった激戦の痕跡はあまりに鮮烈で。

 何より、これが彼女たちの傷によるものではなく、すべて敵の返り血だと確信できることに、理解が追いつかず、


「ってどないした? 人の顔見るなり無言で固まって」

「いや……その、そっちこそ、どうしたっていうか、なんていうか……一番足りなかったのは覚悟じゃなくて、やっぱり認識だったかなって……?」

「は? なんやそれ?」  


 あの英雄譚は、もしかして本当のことだったのかもしれない。

 一刀は改めてこの世界の英傑たちのぶっとび具合を確認しつつ、やっぱり、かなり引いた。

 どこか余所余所しいその態度は、宮城に戻るまで続くことになる。


***


 一刀たちは再び執務室に集まっていた。

 張遼と恋も返り血を落とし、すっかり身なりを整えている。

 全員が席につくと、さっさく陳宮が始める。


「――さて問題は、ここからです! 恋殿の大活躍に浮かれたくなる気持ちもわかりますが、それはこれまでです! 本当の戦いはここからなのです!」

「……たしかに、敵はまだ諦めて帰ってくれたわけじゃないもんな」


 ただ、それをさっきまで一番浮かれていた人間が言うのはどうなのかと一刀は思うが、ツッコミより先に管輅が言う。


「ほほう。ならば我らが小さき軍師殿は今後をどうお考えなのかのう?」


 どうもこのじじい、陳宮にだけ甘い気がする。やはり人間年をとると、自然と孫世代には骨抜きにされるものなのだろうか。

 まあ、ともあれ、彼女の言う通り、戦いはここからがまさしく正念場だ。


「おそらく、次戦は明朝。敵軍は初めから総攻撃をしかけてくるはずです。しかも、今度は油断も手加減もなしの全力突撃。その攻撃はすべての城門に及ぶ可能性があります」

「え、ちょっと待ってよ。すべての門って、東は橋落とせば、まず大丈夫だって言ってたよな?」


 一刀の問いに、音々はわざとらしく息をつき、


「はぁ~、これだから素人は……」

「な、何がだよ!」

「いいですか? 一度しか言わないから、その耳かっぽじってよぉ~く聞きやがれです。まず今回、敵が東に軍を向けなかったのは、単にそこまでの労力は必要ないと判断したからです。そんな手間をかけなくても、ちょちょいっと城を落とせると踏んでいたからです。要は舐めてくれたおかげなのですよ。ですが、先の敗戦で敵も目の色を変えたに決まっています。恋殿や霞にあれだけボッコボコにされて、次もまた正面から馬鹿正直にぶつかって来ると思いますか?」

「……な、なるほど」


 えっへんと胸を張る陳宮を、老人がまた甘やかしているが、もう放っておこう。とはいえ、彼女の言っていることは総じて正しい。

 こちらは寡兵。物量に勝る相手はいくらでも戦場を選ぶことができる。敵の大将が相当な馬鹿だったとしても、さすがに張遼と恋とのガチは避けてくるに決まっている。

 となれば――。


「あれ東門、やばくね?」

「だ、か、ら! 最初からそう言ってるのです!」

「じゃ、じゃあどうしたらいいの!?」

「そ、それは……」

「それは?」

「……それを、その、今から考えるのですよ!」

「威張るなよ!!」


 そして、問題はこちらがどんな策を用いるにしても、圧倒的に駒が足りないことだ。


「どうすんだよ! 敵ってめっちゃいっぱいいるんだろ?」

「五万です」

「五万!?」


 たとえば、敵が自軍の損害を完全に無視できるのならば、その五万の軍勢をただ四分割して、すべての城門を同時に攻撃すれば勝ちだろう。


「一門あたり一万二千五百の軍勢を相手にしろってかのかよ!? 俺にできるわけないだろ! 死ぬ自信しかないぞ!」

「そんなことわかってます! おまえこそ威張るなです!」

「威張ってねえよ! 生きるのに必死なだけだよ!」


 陣営内で万の軍勢と個の力、あるいは、少数部隊を指揮して対抗できるのは二人しかいない。

 しかし、守るべき城門は四箇所ある。勝敗は引き算をするだけで明らかで、追い詰められたこの局面をひっくり返すには、足らない"二"を補う策がどうしても必要になる。


「だったら文句ばっかり言ってないで少しは考えろなのですよ!」 

「考えてるよ!」

「ハハハ、何言ってやがるんですか? おまえが考えたくらいでなんとかなるなら、とっくに解決してるのですよ!」

「な――!!」


 張遼がついに席を立った。


「うっさいねん二人ともッ!! ごちゃごちゃとさっきから!」

「「――――」」


 五人の作戦会議はまだまだ続く。


***


 一方、辛酸を舐めさせられた黒山党側でも、無数に連なる野営の一張にて軍議は行われていた。

 

「――なんだこのザマはッ!!」


 ひと際、大きな天幕を突き破らんばかりの怒鳴り声は、この軍の総司令官、于毒によるものだった。


「も、申し訳ありません! し、しかし、お言葉ではありますが、我らもあのような化け物がいるとは聞かされておりませんでした! これまで官軍や諸侯の将とも幾度となく相まみえましたが、それとはまるで桁が違います。あれこそ世に謳われる英雄英傑と同等の者だと思われます!」

「そうなんだナ! あんな化け物にオラが勝てっこ――」

「黙れッ!! いくら自分たちの敗戦を正当化したいからとはいえ、何だその言い訳は!! 英雄英傑だと? そんな人物がほいほい現れてたまるか!! 恥を知れ!!」


 平身低頭の睦固と白繞に向かって、于毒は自分の椅子を蹴りつけた。

 怒りは収まらない。

 それだけ彼にとってもこの敗戦は予想外だったのだ。

 まさか勝利を約束されたはずの戦いが、たかが数百を相手に手も足も出ずに敗走するとは。その上、敵将にすっかり脅える腹心たちの姿を見せられれば、こみ上げる感情を制御するのは難しい。


「こんな馬鹿げたことがあってたまるか!!」


 そしてそれは単なる怒りだけではない。彼は密かに焦りを感じ始めていた。

 ひとつは兵糧の問題だ。

 五万もの大軍勢を飢えさせないためには莫大な兵糧が必要になる。が、荷が増えればそれだけ軍の動きは鈍くなる。城から引きずり出した王肱を廩丘で奇襲し、一気にそのまま濮陽を落とすという戦略上、持ちこめる兵糧は多くなかった。

 二つ目に他勢力の介入だ。

 王肱を撃破してから三日。そろそろ周辺の諸侯にも報せが行き渡った頃だろう。

 彼らにしてみれば賊討伐の大義を掲げながら、堂々と東郡を手に入れられるまたとない機会とも言える。必ず動いてくる勢力があるはずだ。その何者かに背後を突かれてはたまらない。

 ただ、そのどちらも猶予はまだある。

 兵糧も、今日明日くらいの備えはある。他勢力の介入にしても、近隣諸侯が戦支度を整えてこの地に到着するまでには、どんなに早くても後三日はかかるだろう。それまでに濮陽を陥落させてしまえば何の問題もないのだ。

 だというのに、于毒がこれだけ取り乱しているのは、彼もまた()()()()()()()()()()()()()()()からに他ならない。


「何が化け物だ! 自分たちがどれだけ無様な醜態を晒したかわかっているのか!!」

「「…………」」

「き、貴様らッ!!」


 無言で俯く二人に、于毒は思わず拳を振り上げる。

 しかし、その拳が落とされる前に、

 

「お止めなさい、将軍。これ以上お二人を責めるのは酷が過ぎると言うものです」


 一体いつからそこにいたのか。天幕の入り口で男が佇んでいた。

 暗がりから徐々に露になるその姿は、頭から黒の外套で全身を覆った怪しげなもの。見慣れた者でも不気味さを感じずにはいられない。


「此度の敗戦はすべて私の責任です。ですから、その鉄槌を受けるべき者がいるとすれば、この私です」


 彼は于毒の前までやってくると白繞たちと同じように片膝をついて頭を垂れる。

 その登場に虚を突かれ、少しだけ冷静さを取り戻した于毒は、蹴り倒した椅子を戻して腰をかける。

 しかし、数秒後にはその不気味な男の発言によって、椅子は再び倒れることになった。


「――い、今なんと言った!? 呂布に張遼、だと!? そんな馬鹿なっ!?」

「はい。将軍のお気持ちはよくわかります。さすがに私も我が目を疑いました。まさか濮陽にあんな大物が紛れ込んでいようとは。しかし、残念ながら間違いありません」

「…………」


 あまりに衝撃的な報告に于毒は呆然と立ち尽くす。

 一時は大陸最強を謳われた董卓軍を支えた重臣の名だ。連合軍に敗れ、今は行方不明とされたいた両名がなぜこの場にいて、立ちはだかっているのか。

 これでは事前に聞かされていた筋書きとまるで違う。そうと知っていればこんな危険な橋を渡る気はなかった。


「――は、話が違う! 濮陽なら労せず手に入ると言っていたではないか!! それが呂布に張遼だと? 元董卓軍の残党を相手にする時間など我らにはないのだぞ!!」

「はい。おっしゃられる通り彼の者らは強く、退けるのは難く、その出現は紛れもなく誤算。ですが……、労せずと言ったことは依然、相違ございません」

「ふざけるな! いくら敗残の将とはいえ呂布と張遼だぞ! いや、奴らがいる以上、他にも元董卓軍の将兵がいてもおかしくない……。それを相違ございませんだと? では何か? 貴様ならあれに勝てるとでも言うのか!!」


 于毒は今にも殴りかからんばかりの剣幕で男へと詰め寄った。謀られたのかもしれない――、そんな疑念がよぎったからだ。

 しかし、その者はなんら悪びれる様子もなく、


「まさかまさか。私、というより我々では、彼女たちの守る濮陽城とまともに攻城戦を行えば、よくて共倒れといったところでしょうか」

「な、なんだとッ!!!」

「ですから――」


 男はくすりと声をたてる。


「戦わなければよいのですよ」

「……た、戦わない? どういう意味だ」

「落ち着いて考えてみてください、将軍。敵はなぜわざわざ東の橋を()()()()()()()()()()()のかを」


 濮陽軍が東門への進行路を断った理由を額面どおりに読み解けば、橋を落とすことでより堅固な防衛体制を築いた、となる。もしくは、こちらの目を西と南へ向けさせ、呂布、張遼と確実に対峙させることが目的で、出鼻を挫くという観点では最良の策と言えるだろう。

 だが、それは裏を返せばこうともとれる。


「あちらの隠し玉は呂布、張遼までが限界」


 もし仮に、濮陽の防衛体制が元董卓軍の将と敗残兵を取り込み磐石だったのなら、あの時点で橋を落とすだろうか? いや、まずない。橋の再建にはそれなりの労力と費用がかかる。それだけの損失を払うのならば、せめてこちらを十分にひきつけた上、退路を立つ形で落とすなどしてもっと有効活用するだろう。

 にもかかわらず、濮陽側はそれを選択しなかった。なぜか?


「……奴らは何よりもまず、我々を東門から遠ざけることが先決だった、か」

「ご明察です」


 男が頭を上げた。

 目元は目深に被った外套でよく見えず、唯一、黒に塗りつぶされていない口元だけが動く。


「あの城には将軍が懸念されるような歴戦の将兵はもう隠されておりません。つまり濮陽の兵力は本日確認できたものを除くと、多くて五百ほど。合わせても千が上限でしょう。渡河という多少の苦労は残されてりますが、化け物が住まう西、南を攻めるよりは遙かに少ない被害で済むでしょう」

「……その話、信用しても――」

「無論、ご安心ください。西、南を牽制しつつ他を攻めれば、勝利と濮陽は将軍のものです」

「そ、そうか! ……よし、ならば貴様の策に乗ってやろう!」

 

 豪気を取り戻した于毒の笑い声が天幕に響く。

 日も傾きかけた空には、まもなく夕闇が訪れるだろう。

近づく決戦の時、勝敗はいかに――。

読んでいただきありがとうございます。


お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、今回登場した睦固、名前が当て字です。

本当は「睦」がよく似た別の字なのですが、正しい字が上手く表記されないので……。

于毒、白繞、睦固は史実で一応登場する人たちです。中には(あざな)すら不明な人もいますが。


後、以前も賈詡を賈駆と表記していますがこれは恋姫の公式に従ったものです。

微妙に史実と名前が違う人いますよね?


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