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第10話  点心乱漫

 中天にさしかかる太陽が、真っ青な空の画布に白い輝きだけを薄く重ね塗る。突き抜けるような秋晴れだ。

 空に境界はない。どこまでも続く地平線も、その内側に溶かし込んでしまうのではないかと思えるほどに広く澄み渡る。

 雲ひとつない見事な青天を頂くここはエン州・陳留。中原と呼ばれる大陸文化の中心地に位置し、漢都・洛陽にもほど近い。そのため、交通の要衝として陳留近隣の街道網は古くから発達し、近年ではその強みをより生かそうと一層の整備に着手。現在、陳留は多くの行商が集う大陸屈指の商業都市として知られている。

 その急成長は二年前、陳留に赴任したある新人太守の手腕によるものだった。

 ひと口に街道整備といっても戦乱の世でそれを実現することは容易ではない。

 流通の利便を高めることで人と物が集まり、国は富む。理屈としては誰でもわかる簡単なものだが、一方で物流の迅速性を高めるとは、敵の侵略も容易にするという負の側面も併せ持ってしまう。

 いくら経済的に有意義な施策であろうと、国そのものが存亡の危機にさらされてしまうのでは本末転倒だ。

 ゆえに古今より多くの指導者は国防をなによりも優先した。街道の要所に関を設けるのも同じ理屈。領土の安定が大原則で、その上に国家の繁栄が存在する。

 しかし、その者はそんな古い慣習には囚われず、周囲の反対を押し切って己の信念と確固たる自信に従った。そして、見事にその正しさを証明してみせたのだ。

 変革者の名は曹操孟徳、真名を華琳という。

 生まれは沛国、(しょう)。祖父は、宮中で三十余年、四帝に渡って仕えた大長秋・曹騰。華琳はその孫として生まれながらに多くの関心を集めることになる。が、しかし、彼女の成長は必ずしも期待通りの評判を伴うものにはならなかった。

 幼少期の華琳は素行がすこぶる芳しくなかったのだ。

 今とは正反対と言えばわかり易いだろう。卓越した才気の片鱗は既に見せていたものの、当時はとかく放蕩を好み、その素晴らしい能力を専ら怠惰や悪戯、嫌がらせにだけ発揮するという有り様だ。

 その傾向は年々酷くなるばかりで齢十を数える頃には、品行方正とは無縁な者たちとばかり友誼を結び、華琳自身も取っ組み合いの喧嘩くらい日常茶飯事。傷だらけで帰ってくることもしばしばだった。

 当然、そんな華琳の素行に周囲の大人たちは曹家の将来を案じ、どうにか更正させようとあれやこれやと苦慮した。が、すべては徒労。天才の問題児ほど性質の悪いものはない。

 華琳にはありきたりな道徳を説いても通じないどころか、逆に秀逸な屁理屈でやり込められてしまう。ならばと力づくで解決を求めても、並の大人が二、三人程度ではまったく歯が立たず、完膚なきまでに蹴散らされてしまう始末。おまけに彼女には曹家の嫡子という地位まで加わっているのだからもうお手上げ。

 さらに曹家の系譜は少々特殊で、嫁入りの母は言うに及ばず、当主である父の曹嵩も曹騰とは血縁がなく養子の関係。それゆえ曹嵩は養父に対してまったく頭が上がらず、最悪なことに、その養父が華琳の後ろ盾となっていたのだ。

 その孫馬鹿ぶりがまた並じゃない。華琳が盗みを働いたと聞けば叱るどころかよく逃げたと誉めそやし、乱闘をしたと聞けばよく勝ったと誇らしげ。花嫁泥棒騒ぎの際などは、まるで英雄譚を聞く少年のようにはしゃいだ程だ。無論、すべての被害者に対して曹騰は真摯な謝罪と償いを行ったが、それでも華琳を叱ることは終生なかったと言われている。

 また、そこは曹嵩も同様で、血の繋がらぬ偉大な養父と、養父が溺愛する実の娘に結局、強い態度を示すことはできなかった。

 まさに小さき暴君。周囲の大人は誰も彼女を止められない。

 だが、そんなやりたい放題の日々が永遠に続くことはなく――。華琳の奔放な生活は曹家を揺るがす大事件をもってして終焉を迎えることになる。

 ある日のこと、華琳はさる人物の屋敷へ押し入り、七人の衛兵を斬って逃亡するという暴挙にでたのだ。

 それ以上の委細は不明。曹家は即時の身柄引渡しを要求され、さすがの曹騰もこれには眉をひそめた。

 華琳の所業があまりに度を越えていたから――ではない。相手が悪すぎたからだ。

 曹騰をして顔色を曇らさざる得ないその者の名は中常侍・張譲。中常侍とは大長秋に次ぐ宦官職位で、曹騰が退役後、帝の寵愛を背景にして宮中の実権を握るに至ったのがその人だ。つまり、今回の事件は時の権力者に真っ向喧嘩を売った形と言える。

 曹一族は対応を巡って揺れに揺れた。

 選択を誤まれば曹家そのものが根絶やしにされかねない。張譲とはそれを実行するだけの権力と冷酷さを併せ持っている。一部では保身から要求通り華琳を即刻差し出すべきだという意見まであった。

 しかし、曹騰がこれを断固として拒否。張譲の要求は一方的すぎると跳ね除けるが、張譲もそれではいそうですかと大人しく引き下がる手合いではない。曹家には脅迫紛いの要求が何度も突きつけられることになる。

 これに対して曹騰は長い宮中仕えの人脈を最大限に活用しながら粘り強い交渉を重ねた。

 いくら張譲が中央の実権を握っているとはいえ、すべての者を言いなりにできるわけでない。少なからず反張譲派の者たちは存在し、曹騰はこれらと接触、連携することで事態の膠着化をはかる。

 つまりそれは、こんなどうでもいい争いで宮中の覇権にケチをつけたくないだろう? という曹騰からの意趣返しでもあり、さすがの張譲も強行策は避けるはずだという計算に基づいてのことだ。

 結果は、目論見通りに華琳の処遇を第三者の裁定に委ねるという譲歩を引き出すことに成功する。

 さらに、華琳にとって幸いだったのは、その裁定を任されたのが橋玄という厳格と誠実を絵に書いたような人物だったことだ。

 橋玄は極刑を望む張譲の圧力にも屈せず、あくまで公明正大に役目を務め、その上で華琳への処罰を一年間の蟄居(ちっきょ)にとどめた。

 こうして祖父の尽力と天運に恵まれた少女は辛くも命を繋ぎ、しかし、この機を境に劇的な変貌を遂げることになる。

 蟄居中、自室に籠もる華琳はありとあらゆる書物を読み漁った。朝から晩まで。寸暇を惜しんで。とにかく持てる時間のすべてを知の探求にあてる。

 蟄居が解かれてからもその勤勉さは変わらず、以前のような粗暴な振る舞いはまるでなかった。彼女は常に礼節を重んじ、新たに武芸にも力を入れるようになる。

 自堕落に満ちていた日々が夢か幻だったかのように自らの心身を限界まで苛め抜き、そのあまりに禁欲的な生活は周囲が心配する程で。だが、その弛まぬ努力があったからこそ原石のままだった天賦の才は光り輝く珠玉へと磨き上げられていったのだ。

 そうして月日はあっという間に流れていき、皆から悪童の記憶がすっかり風化した頃。世は再び彼女の名を知ることになる。

 鬼の北部尉――曹孟徳。それは当時の洛陽を賑わせた華琳の異名だ。

 北部尉とは洛陽北門の警備主任に授けられる官職で、曹家の家柄を考えれば些か低いようにも思えが、これはあくまで彼女自身の強い要望によるもの。腐敗の進む洛中の現状を知るには最適な職だと判断したためだ。

 そこで華琳は徹底した働きぶりを見せる。

 時に苛烈とも言えるその姿勢には非難の声も少なくなかった。なにせ華琳は相手がたとえ皇族だろうと法を曲げることをよしとしなかった。鬼と呼ばれるのもそのためで、畏敬と誹謗が半々といったところだ。

 ともあれ、それが華琳の出発点となり、北部尉の後は、頓丘県令や議郎といった職を歴任し、そして大陸史上最大規模の農民一揆となった黄巾の乱を契機に騎都尉へ任じられると、そこが大きな飛躍の場となる。

 華琳は数々の戦場で目覚ましい武功を重ねた。

 中でも大きな功績となったのは、黄巾の乱において最大の激戦地とされる潁川(えんせん)の戦いだ。彼女はそこで二万もの黄巾軍相手にたった千五百の官軍を率いて大勝利を収めてみせる。これは各地で苦戦が続く官軍にとって、反転攻勢の転換点となる大戦果であった。

 こうして曹孟徳の名はいよいよ天下に知れ渡ることとなり、反乱の終息を見るとその立役者は陳留太守へと奉じられる。

 そして、赴任からたった二年で陳留を大陸有数の大都市へと押し上げた今。その玉座には放蕩三昧だったあの頃を思わせる高笑いの音が割れんばかりに鳴り響いていた。


***


「――くくっ、あはっ、あははははっ、よく言ったものね! この曹孟徳を天下の簒奪者、乱世の奸雄、だなんて!」


 先刻、易者に告げられたばかりの言葉を口ずさむ華琳の声色はいつになく明るい。聞く者が聞けば烈火のごとく怒りだしそうなそれを喜んでいる節さえあった。

 ここは陳留、謁見の間。

 つい先程までこの場では管輅なる易者によって華琳の卦読みが行われていた。その内容は先の通り、とても喜べるものではないはずなのだが、何故か本人はご機嫌で彼には十分な褒賞まで与えている。

 しかし、玉座の前面に居並び、一部始終を耳にしていた重臣たちはそうもいかない。華琳の態度に困惑の表情を見せながらも、その眼差しは一様に険しく、中には明確な怒りの色を灯し続けている者もいた。

 主を貶され寛容でいられる程、忠義心の希薄な者はここにはいないからだ。

 とはいえ、その忠節を向けるべき人間がこうして喜んでいるのだから、怒りの矛先が定まらない。不要に静まり返る謁見の間には、無邪気な笑い声だけがよく響いている。

 そんな状況を見かねて、ひとりの女性が玉座へ歩み寄った。


「華琳さま」

 

 彼女の名は夏侯淵、真名を秋蘭。華琳の右腕とでも言うべき存在で、従姉妹にもあたる。幼き日から華琳を知る者のひとりだ。


「本当によろしいのですか。あのままあの者を帰してしまって」

「ええ、構わないわ。彼は私の要望に応えただけよ。そして彼の言う通り、曹孟徳は天下を窺う者にあらず。天下に挑み、天下に覇を唱える者よ。簒奪? 奸雄? 結構よ。面白いじゃない。そうでしょう?」

「は、はあ……」


 返答に窮する秋蘭を楽しみつつ、華琳は改めて思う。

 本人を前に平然と苦言を言ってのけた胆力といい、たかが卜占ひとつに身命を賭す気構えといい、管輅は易者にしておくのがもったない程に見事だった、と。

 これまでに見てきた多くの紛い物とは明らかに違っていた。華琳が思う易者や占者といった人種の実態とは、易経と称してただ権力者に媚び諂いの言葉を見繕うだけの実にくだらない者たちだ。だが、管輅はその枠に当てはまらない。真偽はともかくとして、少なくとも彼の言葉には揺るがぬ信念があり、保身や打算の情はまったく感じられなかった。

 何より、その締めくくりの言葉が華琳を強く惹きつけてやまない。


『天下とは貴殿が考えておるより遙かに深淵にして遠大じゃ。前途は多難と卦にも出ておる。ひとり高見を決め込んでおるようでは足元をすくわれるじゃろう。努々、ご注意めされ』


 思い出すたびゾクゾクする。

 前途は多難。足元をすくわれる。そんな不吉な進言に心が躍る。

 改めて断わっておくが、華琳は占いの真偽には毛ほどの興味もない。むしろ端から信じていない。その上で、示された強敵の可能性にときめいているのだ。

 そうでなくては面白くないと。まるでそんな未来を待ち望んでいたかのように。


「深淵にして遠大? いいわ。ならその(きわ)、この曹孟徳がきっちり見極めてやろうじゃない。……必ずね!」


 天に媚びず、天を恐れず、天にむかって啖呵を切る。それが覇王を覇王たらしめる激情の証であった。


***


 「……追われてる感じじゃないな」


 出店の物陰に身を隠し、混雑する通りの様子を窺う男は、そこから顔だけ半分覗かせる。

 一刀だ。

 日課の稽古を消化し、時間潰しにと街をぶらついていた彼は、たまたま前を歩く管輅の姿を見つけると考えるよりも先に身体がそう動いていた。

 南皮の二の舞だけはご免なのだ。余計な面倒に巻き込まれてなるものかと、一刀は周囲を入念に探る。


「…………」


 しかし、どうやらそれは杞憂だったようだ。

 通りを行く管輅に慌てている様子はなく、また、その後ろを追う不審な人影もなさそうだ。一先ずは無事に終えたらしい。

 一刀は物陰から出て、目の前を通り過ぎようとする管輅を呼びとめた。


「じいさん」

「む、一刀か。なんじゃこんな所で。ワシを待っておったのか?」

「まさか。暇だったからちょっとぶらついてたんだよ。それより、そっちはどうだった?」


 ぶっきらぼうに問いかけると、管輅はわずかに目を細めて、フッと小さく笑う。うむ、と続く声色はこれから自慢話を披露するように弾み、


「多少の高慢さはあったが、あれは確かな才覚と気概を備える王の器じゃな」

「うっへ、じいさんが椿以外の人間を素直に褒めたのはじめて見た」

「まあ、陳留くんだりまでわざわざ会いに来た甲斐はあったかのう」


 素っ気無い表情とは裏腹に、言葉の端々から抑えきれない高揚感が伝わってくる。曹孟徳とはそれだけの人物だったのだろう。

 ――じいさんに認められるくらいなんだからよっぽど凄い人なんだなぁ……。

 つられるように一刀の妄想も膨らんでいくが、まさか今朝出会った少女こそがその人だと知る由はない。その真実に触れられるのはまだ先のことだ。

 ともあれ、管輅がこの様子なら下手に喧嘩を売るようなことはなかったのだろう。ようやく一刀は胸を撫で下ろし、


「んじゃ、これからどうする? 今日はもう予定ないんだろ? ならせっかくだし、もっと街を見てまわりたいんだけど……って、聞いてるじいさん?」 


 だが、その途端。先程までの様子が嘘のように管輅から喜悦がすっぽり抜け落ち、何かを思い出したのか、老人は一瞬だけ顔をしかめ、


「……駄目じゃ」


 とそれだけ告げて、止まっていた歩みまで再開させる。

 一刀は慌ててその背を追い、


「ちょ、待ってよ、じいさん。どうしたんだよ急に」

「どうもこうもない。すぐに平原へ帰るぞ」

「え、すぐってまさか今から?」

「そうじゃ。宿に戻り荷物をまとめ次第ここを発つ。よいな?」

「……へーい」


 何もそこまで急ぐこともないだろう、と思うものの、一方で、気持ちもわかる。きっと平原に残されている椿のことが心配なのだろう。

 こればかりは仕方がない。一日でも、一時でも、一分一秒でも早く戻りたいと思うのが年頃の娘を持つ父親の心情というものだろう。一刀だって椿のことは心配なのだから、管輅のそれは相当なはず。ここは余計な口を挟まず、黙って従うことにした。

 しばし無言の時が二人の間に流れる。気まずいわけではなく、別段、話すことがないだけのそんな時間。

 沈黙に気を使わなくてもいいだけの関係はあるつもりだ。過ぎ行く街並みを眺めながら、一刀はそのまま肩を並べてただ歩く。

 ただし、それは隣から不穏なぼやきが聞こえてくるまでのことだった。


「いつ追っ手が差し向けられんとも限らんからのう」

「……は? え? 追ってって――おい! 今なんてった!?」


 管輅も多少の負い目はあるのだろう。逃げるように顔を背け、


「まあ、その、なんじゃ。おそらくは大丈夫じゃと思うんじゃが、取り巻きの連中は随分と殺気だっておったからのう。念のためじゃ」

「――おまあああああっ! ふざけんな! 何が念のためだよ! どうせまた余計なこと言っただけだろ! 今度は何言いやが――っ、いや、やめた。知りたくない。聞きたくない。俺は断固、無関係だ!」

「かっかっかっかっか」

「笑い事じゃねえからな!!」


 年甲斐もなく大笑いする老人に、一刀は無意識で手が出そうになるが、ぐっと堪える。

 倫理観からでない。いざ殴りかかっても間違いなく返り討ちに合う悲しい現実からだ。

 ――このクソじじい! いつか一発ぶん殴ってやる……!

 この後、一刀は半時もしないうちに慌しく陳留を発つことに。

 そして、陳留から無事出立した二人は、街道沿いの宿場を泊まり繋ぎながら移動すること丸二日。二百里ほど北に位置する濮陽に到着したのは、正午過ぎのことだった。


***


 濮陽はすぐ北を黄河が流れ、その立地上、水路と陸路を繋ぐ要所として発展する城塞都市だ。

 その市となれば大変な活気に溢れ、人も物も大いに賑わい、ところが、そんな繁華な通りに似つかわしくない男がひとり。浮かぬ表情で練り歩いていた。


「……まいったな。椿に何買おう」


 お土産選びとは存外難しい。

 ひと思いに、えいやと決めてしまえばそれまでなのだが、一度真面目に考え始めると中々思考の迷路から抜け出せなくなってしまう。

 まして贈る相手が年頃の女性とくれば、一刀にとってそれは迷宮並の難易度だった。


「何を選べば正解なのよこれ」


 一刀は手当たり次第に出店を覗く。 

 あれでもない。これでもない。目に付くものはとりあえず手にとってみたが中々ピンとこない。逆にこれだと思うものは予算を大きく超えるものばかり。そうして品物選びに時間がかかればかかるほど選別の敷居はますます高くなっていく。

 悪循環だ。椿ならきっと何を贈っても喜んでくれるとわかっていても、どうせならとびっきりの笑顔を見てみたいと思ってしまう。そうなってはもう妥協も難しい。

 人知れず人波を捌く足取りも早まっていた。早く次の店へ。意地に押されて逸る気持ちが前の集団を追い抜かせる。

 混雑を抜けて開けた視界。新たな活気が飛び込んできた。

 

「点心、点心はいかかですかぁ~!」


 それは元気に呼び込みをする女性の声。一刀より三歳は年下であろう可愛らしい女の子が、年季の入った屋台の前で売り子をしている。

 声に釣られ目にした点心はどうやら出来立てのようで、もんもんと真っ白な湯気を立てながら蒸し上がった小麦特有の、ほんのり甘い香りを辺りに漂わせている。


「……点心か」


 ごくり、喉が鳴った。


「――って、いやいやいや! た、食べ物はなしでしょ。だって平原に着く前に腐っちゃうし、うん」

「あっ、そこのお兄さん! おひとつ、いかかですか? うちの点心、すっっごく美味しいですよ~!」

「げ」


 しまった、と思った頃には売り子が点心籠を抱えてこちらへ小走りで駆け出している。

 すぐに目の前までやってきた彼女は、愛嬌のある笑顔と一緒に籠を掲げる。

 間近になった分、諸々増した破壊力に口内の涎も増量だ。正直、かぶりつきたい。しかし、一刀は誘惑を振り払うように首を振り、

 ――お、俺はあくまで土産を買いに来たんだっ……!

 そうだ。買い食いなんかしている場合ではない。懐の銭は管輅から土産を買うために渡されたもので、無駄遣いなど言語道断だ。ここはびしっと断わらねば。


「ま、また今度ね! 用事もあるし!」


 だが売り子もそう簡単には引き下がらない。ここが商機とばかりに点心をひとつ籠から取り、一刀の鼻先に差し出すと、


「まあまあお兄さん、そう言わずにぃ~。ほら、ほっくほくですよ~?」

「くっ――」


 それであっさり勝負ありだった。


「えへへ、まいどあり~」


 十秒後、そこには嬉しそうに点心を二つ受け取る負け犬の姿が。

 良心の呵責はどこへやら。“点心食わねば土産は買えぬ”と今思いついた格言らしき何かを呟くと、一刀は道端でさっそくホフホフと頬張りはじめる。


「うまっ!!」


 満面の笑みを浮かべながら、さらにひと口、ふた口。学校帰りによく食べたコンビニの豚マンを思い出しつつ、しかし、それとは全く違う、素朴ながらも味わい深い餡を無心で飲み込む。

 のど越しの強烈な熱さもなんのその。一刀は構わず三口目を頬張り、そこで不意に、夢中だった口の動きがぴたっと止まる。


「……ん?」


 視線を感じるのだ。それもかなり強い視線だ。明らかに誰かに見られている。

 点心をかじる顔は誘われるように右へ向き、


「点心」

「――うおっ」


 いた。手の届く距離という予想外の近さでこちらを――というか、右手の点心をガン見する女性が。

 年の程は同年代だろうか。女性としては短めな茜色の髪が活発な印象を窺わせ、上半身は旅人然とした麻の外衣で纏いながらも、短腰巻(ミニスカート)の裾からは褐色の太腿を大胆に覗かせる。

 そんな美少女が露骨に涎を(すす)って食べかけの点心を物欲しげに見つめているのだ。


「……点心」


 よほど空腹なのだろう。うわ言に続いて豪快な腹音がぐうう、と聞こえてきた。

 頭のてっぺん付近から伸びる触覚のような長い癖っ毛も、心なしか徐々に元気がなくなり垂れ下がっていくように見えるが、これはどんな原理なのだろうか。

 それはさておき、腹ペコ娘は表情こそ無気力だが、髪と同じ茜色の瞳はやたらと鋭い。

 どうやら訂正が必要なようだ。これは物欲しげなどという穏やかなものじゃない。捕食者だ。獲物を捉えた猛禽類の双眸だ。

 ――な、なんか右手ごと喰いつかれそうな気がするんですけど!

 彼女は今にもこちらへ飛び掛ってきそうな気配を帯び、口の両端からは啜りきれずに、涎が小川をつくっている。

 このままではやられる。そう身の危険を確信した一刀は襲われる前に平和的解決を図ることにした。

 

「ね、ねえ君、よかったら食べる? 食べかけだけど」

「……いいの?」


 手を噛まれるよりはよっぽどマシだ。

 いいよ、と点心を差し出すと、彼女は萎れていた癖っ毛をピキーンと伸ばし、そのまま一刀の手から直接、点心をパクリ。ひと口で残りをすべて口の中に収めてしまい、膨れる頬っぺたはリスのようにパンパンだ。


「ホイヒィ」

「え、嘘……。や、やだこれ。なにこれ。なにこの感じ!」


 一刀の胸を締めるつける感覚。それは未だかつてない衝撃。

 ――おお、神よ! この世にまさかこんなにも愛らしく食事をする生物が存在していたなんて……!

 一瞬で魅了された男は一心不乱にもぐもぐしている彼女に尋ねる。


「あ、あのさ、よかったらもう一個食べる?」

「……ん」


 こくりと頷くのを見て、管輅への土産だったそれを何の躊躇もなく包みから取り出し、そのままゆっくり彼女の口元へ近づける。

 パクリ。

 彼女はまたもひと口ですべて頬張った。

 ――なにこれえええええええ!!

 一刀の理性が正常に働いていたのはここまでだった。


「す、すいません! 点心ください!」

「はい、まいどーって、さっきのお兄さんじゃないですか! おかわりですね、まいどあり~!」


 それは恐ろしい罠。綺麗な薔薇には棘があるもの。ならば、可愛い食いしん坊娘が棘を秘めているのもまた然り。

 凶暴なまでの愛くるしさは何人たりとも逃しはしない。彼女は食料を貢がせる天性の才能を有していた。

 しかも、本人はこれを意識することなく天然でやってのけるのだから、とても一刀が手に負える代物ではない。

 嵌ってしまえばもう後はただ深みへと落ちるのみ、だ。


「……もうない?」

「あ、すいませーん! もう籠のやつ全部ください!」


 一刀は彼女が求めるがままに点心を与え続けていく。食欲旺盛な彼女はとんでもない速度で点心を平らげていくが、一刀も負けじと口に放り込む。その度、言い知れぬ暖かさで心を満たされながら。

 それはさながら、さえずり続けるヒナ鳥にせっせと餌を運ぶ親鳥の境地だ。無償の愛に酔いしれるこの鳥はきっとアホウドリ科に違いない。

 もっとも、どれだけ献身的な子育てをしようとも、特別天然記念物級の間抜けにはヒナの巣立ちを見届ける機会は訪れず――、


「えっ? ちょ、嘘……、やだこれ……。なにこれ……」


 尽きたのだ。銭が。管輅に貰った土産代は綺麗さっぱり、あっという間に、彼女の胃袋へ。

 今更我に帰っても遅い。

 しかし、こちらの事情を知らない彼女は、なおも一刀の袖をくいくいと引き、


「食べちゃ、ダメ?」

「ごめんね。その、もうお金が無いんだ」

「……ん、わかった」


 残念そうにそう頷くとまだまだ食べたりないのだろう。彼女は出店をじーっと見つめていた。

 その姿に有り金を根こそぎ溶かされた後悔よりも、これ以上食べさせてあげられない無念さを感じてしまうあたり、一刀はかなりの重症だ。魔性にあてられ、財布の中身よりもっと大事な何かを失ったことに本人は気づいていない。

 ともあれ、銭はなく、点心どころかもう土産も買えない。

 どうしたものか。この状況をどう管輅に言い繕うべきか。焦りによって多少回復した思考を巡らしていると、いつの間にか彼女が小首を傾げてこちらを見つめていることに、一刀は気がついた。


「……困ってる?」

「え、えーと、その……」


 どこか申し訳なさげな彼女に、そうです、とは言えない。

 もちろんこうなった原因は彼女にもあるのだが、だからといって彼女の責任ではないだろう。財布が空になるまで散財したのはあくまで自己責任のはずだ。


「……ううん! 大丈夫、大丈夫、あはははは」


 本当? と呟く彼女に、精一杯の強がりの笑み見せ、誤魔化すように話題を変えた。


「それにしてもさ、よっぽどお腹へってたんだね君! 点心何個食べたっけ? え~っと……」


 一、二、三、と指折り数えると、彼女はフルフルと小刻みに首を横に振り、


「君じゃ、ない。……恋」

「れん?」

「ん。恋は、恋」


 名前だと気づいた一刀は、ああ、と頷く。それから改めて、


「そういえば自己紹介がまだだったね。俺は一刀。よろしくね、恋」

「ん、……一刀」


 二人の談笑はしばらく続いた。


***


 人波に揺られ、若い男女が通りを歩く。あれからしばらくして、一刀は恋を誘って市を一緒に見て回ることにした。

 道の両脇を多様な露店が軒を連ね、そこを行き交う人や物や音や匂い。それらが雑多に混じり合う空間を一刀が先を行き、制服の裾を掴んだ恋がトコトコと後ろをついてまわる。

 そのいちいち愛らしい仕草に一刀の頬は自然と緩んでしまう。

 ここしばらく、底意地の悪くシワだらけな仏頂面と二人きりの時間が長かっただけに、改めて感じる市の活気と彼女の癒しは心の保養にもってこいだった。

 足取りは軽く、視野は広い。

 周囲の賑やかさに負けないよう、恋としっかり顔を合わせて一刀は言った。


「そういえば恋はどこから来たの? 旅をしてるんだよね?」

「北」


 北? という一刀の疑問に、恋は頷き返し、


(しあ)音々(ねね)も、一緒」

「ああ、さっき言ってた一緒に旅をしてる人たちだね。じゃあ、皆で北の街から来たんだ?」

「ん」

 

 どこか満足げな相槌に、一刀もつられて笑みがこぼれる。

 口数こそ少ないが、恋は本当にいい子だ。出会ってからの時間は短いが、それくらいはわかる。同じ場所で同じ行動をしていても、ひとりの時より断然楽しいのがその証拠だろう。

 恋はただ隣にいるだけで心をほっこりと暖かい気持ちにさせてくれるのだ。もっとも、飲食の屋台ばかりに興味を示すその趣向は、まったく土産選びの参考にならなそうだったが。

 ともあれ、すっかりデレデレの一刀は会話を続ける。


「俺もさ、管輅ってじいさんと二人で旅してるんだけど、このじじいが口煩いのなんの。毎日小言聞かされて、うんざりでさぁ。恋の身近にはいない、そういう面倒な人?」

「…………」


 どう答えるかをモジモジ悩む姿を、一刀は数秒ほど堪能した後、


「いるんだ?」


 意地の悪い問いかけに、恋は遠慮がちにこくりと首を前に倒す。


「霞と、一緒」

「あははは、恋も毎日被害にあってるの?」

「ん、霞すぐ怒る」


 そりゃ大変だ、と一刀がおどけてみせると、恋も続いて小さく笑う。

 本当に穏やかな時間だ。心が洗われる。

 だがその一方で、一刀はこれまでの会話の中で少しだけ気にかかることもあった。

 というのも恋は北方の地から三人で旅を続けているらしいのだが、その同伴者はどうも親兄弟という雰囲気ではないのだ。

 恋のようなうら若き女性が同郷とはいえ親類縁者以外の者と長旅をする目的はなんなのか。現代なら友達とちょっと観光で、といった理由も成立するのだろうが、この時代でそれがまかり通るとは思えない。


「ねえ恋。恋はどうして旅をしてるの?」


 それは本当に何気ない質問で、特に何かを考えてしたわけでもなく、会話の流れからごく自然に発生したものだ。

 だというのに、そのありきたりな質問がこれほどの不発弾を掘り当てようとは思いもしなかった。


「……仇討ち」

「――え?」

 

 およそ恋にはそぐわない物騒な単語と、背中を氷柱で貫かれるかのような強烈な殺気に、一刀は言下に足を止めて周囲を見回す。

 ――な、何だ今の……!

 ところがその目に映るのは、やはり、賑やかな市と、ほんわかとこちらを見つめる穏やかな恋。ならば、あんな全身が総毛立つ殺気はどこから放たれたのか。

 ――か、勘違い、だよな……?

 そうであって欲しい。いや、そうに違いないと願いながら、


「ね、ねえ恋――」


 と呼びかけた時だった。

 一刀は周囲のある変化に気がつき、直前まで出かかった言葉を噤んだ。


「……?」


 それは遠く前方で起きたざわめきがきっかけ。

 はじめは喧嘩でもはじまったのか思ったが、どうも違うらしい。喧嘩でありがちな怒号や罵声はまったく聞こえてこない。にもかかわらず、騒然はなかなか止まらず、むしろ広がっている。それもある時を境に伝播の勢いが爆発的に跳ね上がり、明るく賑やかだった街が見る間に騒乱へと変わっていく。


「おいおい、なんだよこれ?」

 

 何が起きているのか。将棋倒しのように混乱が混乱を呼び、悲鳴混じりの叫び声も聞こえ始めた。

 もはや慌てふためく人の群れは明確な不穏を孕んでいる。


「ちょっとやばいかも」

「……やばい?」

「うん。いくらなんでもこれは普通じゃない」


 相変わらず恋だけはのほほんと構えているが、一刀は急いでその手を取る。

 どうも嫌な予感がする。この場は早く離れた方が賢明だと本能が告げている。

 ――宿へ戻ろう。じいさんなら何か知ってるかもしれない。

 と、その矢先。それは思いがけず向こうの方からやってきた。


「一刀!」


 聞き慣れた枯れ声に目を向ければ、そこにはとても老体とは思えぬ速度で駆ける管輅の姿があった。

 そのあまりの迫力に一刀が呆気にとられるのも束の間。駆け寄る管輅に手首を掴み上げられ、


「探したぞ! こんな所におったか!」

「い、痛いって! どうしたんだよ、そんなに慌てて? ひょっとして、この騒ぎと関係が――」

「大ありじゃ! つい今ほどワシも知ったんじゃが――っと、ええい、その話は後じゃ! ともかくすぐにでも街を出るぞ!」

「えっ? 街を出るって、ちょっ――!?」


 途端、一刀は腕を引かれ、力ずくで引きずられる。

 萎びた身体のどこにこんな力があるのだろうか。抵抗する間もなかった一刀はいきなりのことでつい恋の手を放してしまい、


「あ」

「――恋!」


 立ち竦む彼女の姿は、あっという間に人波へ消えていた。


***


 先ほどまでの盛況な街の様子は見る影もなく、どこもかしこも只ならぬ騒乱で染まっている。

 通りの露店は軒並み戸口を閉ざし、行き交う人は混迷に飲まれ、中には家財をまるごと大風呂敷で包み、持ち出そうとする者までいる。街全体が無秩序な半狂乱状態に陥っていた。

 無理もない。この街は間もなく敵の襲撃を受けるのだから。濮陽の主である東郡太守・王肱が賊軍との戦に敗れたのがその原因だ。

 ことは数日前――。

 黒山党と呼ばれる賊軍が国境を越えたという報を受けた王肱は討伐軍を自ら率い、濮陽より東に約百里ほどの廩丘(りんきゅう)近郊にて激突。

 しかし、いざ戦が始まると圧倒的に有利と目されていた王肱軍は賊相手に遅れをとったばかりか、壊滅的打撃まで被って潰走を余儀なくされる。そして快勝の余勢を駆った賊軍はここ濮陽を標的に進軍中であるという知らせがつい先程届いたのだ。

 その結果、まず城の守備を預かる者たちが大混乱へと陥った。

 王肱の消息は不明。濮陽に残されている兵力は乏しい。援軍を頼むにしても時間はかかり、皆が一丸となって篭城戦に臨めばいくらかの時は稼げるとはいえ、もしその援軍が間に合わなければ――、略奪。暴行。強姦。殺人。放火。ありとあらゆる非道が繰り広げられることになるだろう。敗北の先に待ち受けている運命は賊軍による一方的な蹂躙でしかありえない。

 ゆえに彼らが迫られるのは、“虚ろな勝利を目指すか”それとも“確たる惨劇から逃れるか”という過酷な二択。どちらを選択しようと失うものは大きいだろう。となれば、より確かな方を選ぼうとするのが人の性というもの。結局、守兵の多くは後者に心の針が振れてしまう。

 大勢が決してしまえば崩壊は早かった。指揮官も兵卒も我が身可愛さに立場を忘れて我先にと逃げ出す。そのことは役人や街の有力者へとすぐに知れ渡り、いよいよ街全体が紛糾に包まれる。こうして人々は大挙して恐怖から逃れようとしていたのだ。 

 ところが、今。そんな潮流に逆らい、通りを逆走する者がひとりだけいた。

 その者は自身の等身程もある細長い木箱を片腕で抱え、豊かな胸元をサラシで覆い、袖のない藤色の外套を肩でなびかせ、腰元が大胆に開く袴姿で疾走する。


「――おったッ!」


 城門目掛けて注ぎ込む、まるで濁流のような人波を縫いながら、彼女はある一点だけを目指して進んでいた。

 それは人混みに翻弄されるがまま、右往左往する茜色。目標は恋だった。


「捕まえたで!!」


 勢いそのまま、彼女はその腕を掴むと素早く引き寄せる。


「ったく、こんな所で何ぼーっとしてんねん!」


 心配や安堵をごちゃ混ぜにして彼女は叱りつける。恋が大切だからこその怒りだ。


「…………」


 だが、当人は反省するどころか何やら考え事でもしているようで、今もなお、ぼんやりと足元をみつめている。

 恋! ともう一度耳元で叫ぶと、彼女はようやくこちらの存在に気づいた。


「……霞?」

「はいはいそうや霞さんや! どこまで暢気やねん!」


 霞は混雑から脱出するため不思議そうに小首を傾げる恋を一端、細い路地に引き入れる。そこで改めて大げさに肩を揺すってひと息つき、


「かー、のんびり屋もええ加減にしてくれんと! 周り見たら非常事態やってことくらいわかるやろ!」

「……?」

「……あぁ~、もうええわ。とにかくこれでなんとか間に合いそうやし。音々とは城外で落ち合うことになっとるから急くで」

「出発?」

「せや出発や。はよせんと身動きとられんようになってまう。わかったら飛ばすで、恋!」


 霞はそう言って恋の手をしっかり握ると小路地を飛び出し、再び激流の中に身を投じる。――ものの、その疾走には先程のような勢いはなく、


「ん……?」


 おかしい。霞は左右に首を振り、


「あれ? なんやいくら走っても周りの景色がちぃとも変わってへん気が――って、アホか! 何を一生懸命踏ん張ってくれてんねん!? これじゃ進まんやろ恋!」

「……いや」

「何がや!? 右手か? 右手が気に入らんのか!? ほなら左手貸しい!」


 苛立ちながらも霞は握る手を変える。


「いくで!!」


 が、今度は直後に尋常ならざる力の反発で急停止させられ、

 

「いや」

「――ああ、もう!!」


 乱暴にその手を振りほどくと、霞は向き直った。

 恋と力比べをしても無駄なことはよくわかっている。ここは多少の時間はかかってしまうが話をするしかない。


「……しゃあなしや」


 霞は落ち着きを取り戻すために深く長い息をつく。それから俯く恋の両肩にそっと手を置き、諭すように語りかけた。


「なあ恋? ここはもうすぐ戦になるんや。はよ逃げんと巻き込まれてまう。そないなことになってしもたらアイツらに見つかってしまうかもしれへんやろ?」

「いや」

「……せやな。見つかってしもたら大変なことになる。うちもイヤや。せやから行こう? 外で音々も待っとる」

「いや」

「ぐっ――」


 イラ立ちで目じりが吊りあがるが、瞬時に無理やり押さえ込んだ。

 感情的になっては駄目。今は時間がない。なんとか恋の機嫌を取り成して一刻も早くこの場を去らねばならない。

 霞はそう己に言い聞かせながら本心を隠し、似合わないとわかりつつも、最大級の慈母の心で微笑みかける。


「……ほな、何がイヤなんか霞さんにもわかるように言うてみ? 恋かて状況はわかっとるやろ? 怒らへんから、な?」

「いや」

「――喧しいわ!! なんでやねん!」


 慣れないことをするものじゃなかった。

 気恥ずかしさからカッと身体が熱くなり、霞はさらに声を荒げる。


「人がこんだけ優しく聞いとるのに、馬鹿の一つ覚えみたいにさっきからイヤイヤて! 自分あれか、思春期こじらせたガキか!」

「いや」

「――もうええっ!!」


 取り付く島もないとはこのことだ。何を聞いても“いや”の一点張りではどうにもならない。さすがに呆れ果てしまう。と同時に、恋が何をそこまで拘っているのかが、霞は不思議でしょうがなかった。

 確かに恋は普段から何を考えているのか分かり難いところはある。いつもおっとりのっそりで協調性があるとは言いづらい。しかし一方で、こんな我侭を言うことは滅多になく、これほどまでに明確な自己主張を見せることは本当に珍しい。

 これまでの付き合いの中で思い当たるのは、それこそ、彼女たちが流浪の旅をする理由となった、あの時くらいなものだった。

 だが、そうなると恋はここでアレに比する体験をしたことになり、それはどうしても考えられず、


「ちょっと目を離しとった隙に何があったんや……?」


 霞がそうぼやいていると、恋がぼそりと呟いた。


「一刀、……探す」

「……は? 一刀? 誰やねんそれ?」

「お礼」

「お、お礼? 一体何の――て、ちょまっ!?」


 途端、霞の腕を凄まじい力で引かれる。反射的に踏ん張った足は抵抗空しく地面から引っこ抜かれ、その身は半ば宙に浮き上がり、


「いや」

「ひっ――」


 霞の悲鳴と、その合間に聞こえた囁き声はそのまま雑踏の中に沈んだ。


***


 一方、城外へ向け先行していた管輅と一刀は、予想に反して未だ城門を遠目にしか確認できない距離で立ち往生していた。

 三つの通りが合流するこの地点は密集度が高く、二人は思ったように前へ進めない。

 城門に近づけば近づくほど人が押し寄せ、思った以上に身動きが取り辛く、何より、一刀が強引にその足を止めていた。


「――も、戻るじゃと!? 何を考えとるんじゃ、馬鹿者! 賊どもはもう間近に迫っておる! 一刻も早く脱出せねば戦に巻き込まれるんじゃぞ!」

「わかってるよ」


 激流の中心で立ち塞がるその背には、後方からもいくつもの批難と罵声が投げつけられ、突き飛ばさんばかりに身体をぶつけていく。

 誰もが必死だ。生きるために形振り構わず城外を目指す。いくら流されまいと全力で踏みとどまろうとしても、一刀は弾かれるように通りの脇へと押しのけられてしまい、否応なしに管輅も続く。

 そして脇の袋道まで押し運ばれたところで、ようやく身体が流れから解放されると、一刀は先ほどの質問にこう答えた。


「俺、恋を探すよ。ほら、さっき俺の隣にいただろ? 紅い髪の女の子。友達になったんだ」


 だが、管輅は何を言われたのかが瞬時には理解できなかったようで、徐々に濃いシワが眉間に刻まれていき、


「友達じゃと……?」


 さらに一拍おくと深い渓谷が完成。嫌味たらしい言葉が続いた。


「はっ! それはよかった、めでたいめでたい! じゃが、その娘も今頃、必死になって避難しとるわ! ほうっておけ!」

「そうかもしれない。けど、もしかしたら逃げ遅れてるかもしれないだろ。だったらほっとけない」


 恋のおっとりとした性格を思えば、その可能性は決して低いものではない。旅仲間と無事に合流を果していればいいのだが、むしろ、仲間を探して彷徨っている方が想像に難くない。


「だから探さないと」 

「――他人の心配をしておる場合かッ!」


 もっとも、それを恋の人となりを知る由もない者に察しろというのは無理がある。

 不機嫌をとっくに通り越した老人は、紅潮した顔でなお怒鳴りつける。


「そもそも探すと簡単に言うておるが、この人混みの中、どこを、どうやって探すつもりじゃ!」

「わかるかよ、そんなの。けど、とりあえず、はぐれた場所まで戻ろうと思う」

「だからそれが馬鹿じゃと言うておるんじゃ!! 戻ってどうする! その娘がそこで待っておるとでもいうのか! 娘がおらん時はそこからどうするんじゃ!!」

「それは……」

「まったく、いつもいつも考えなしに思いつきだけ行動しよって! おぬしは一体どこまでお人好しなんじゃ!」


 それでもなお、一刀が拒絶の沈黙を続けると、管輅は何かを察したのだろう。やれやれと怒り肩を落として、こちらに胡乱な視線を向けてきた。


「おぬし、今、何を考えておる?」


 数秒の躊躇の後、一刀は意を決するようにこう答えた。


「なあじいさん……、じいさんなら、どうにかならないかな?」

「どうにか、じゃと? それは、はぐれた娘のことを言うておるのか? それとも、この街のことを言うておるのか? どちらじゃ?」

「…………」


 両方だ、とは言えなかった。

 一刀だってわかっている。この状況で街を救う方法なんて到底持ち得ないことを。そして、それを自覚させるために、敢えて管輅が回りくどい言い回しをしたことも。そうわかっているだけに何も言えない。

 力なく落ちた肩を強く叩かれた。 


「一刀よ。前にも言うたが、おぬしが人助けをしようとする心は、まったくもって正しく尊いものじゃ。それはおぬしが他人に誇れる数少ない美徳じゃろう。じゃがの――」

「わかってる」


 何度も言われたことだ。

 己の正義を振りかざしたければ、それに見合うだけの力を示さなければならない。

 今回なら、賊を追い返すだけの強大な武力や、対抗策を講じれるだけの卓越した知性。あるいは、譲歩を勝ち取るだけの莫大な財力に、多くの人間を動かせるだけの圧倒的な影響力など。そうしたおよそ一刀には持ち得ないだろう力が必要とされている。

 それらを持たざる者は、結局のところ資格なき者でしかないのだ。

 持たざる者がいくら息巻いたところで何が変わるものでもない。力なき正義など所詮は欺瞞。これまで幾度となく痛感させられたことだ。そんなことは言われるまでもなくわかりきっていた。

 だが、たとえそうした厳然たる現実の前に屈さざるを得ないとしても、心中に拭いきれない抵抗感があるのもまた事実。一刀はこのまま一切合財を見なかったことにするのはどうしても嫌だった。

 今、多くの者がこの街を脱しようとしている。

 誰だって戦に巻き込まれるなんてまっぴらだ。戦火が間近に迫っていることを理解できたなら犬猫だってそうするだろう。

 しかし、それは当事者ではないから言える台詞であって、この街で生まれ、この街で生き、この街の他に生き場のない者にとっては軽々に判断できることではないことだろう。

 人は獣とは違う。築き上げた暮らしを容易に手放すことはできない。野生を捨て文明を得た代償に、人はその身ひとつだけで気ままに生きていくことが難しくなった。

 事実、こういった場合、積極的か消極的かの差はあるものの、街に最後まで残るという選択をする者は少なくない。

 ――くそっ……!

 一刀は堪らなく嫌だった。そんな人々を見捨てるような行為が。耐え難かった。立場が違うとはいえ、いち早く逃げ去ったという兵士たちと同じ行動をとるのが。

 自分と彼らは違う。本質的な部分でその証が欲しかったのかもしれない。

 だとすれば、せめて恋だけでもと思うこの気持ちすら、それを満たすための自己満足でしかないのかもしれない。

 だとしても、黙っては見過ごせない。見過ごしたくない。

 その狭間で一刀は揺れていた。


「…………」


 二人の会話は止まったまま、鳴り止まぬ喧騒だけが緊迫した時の流れを伝えるよう耳朶に触れる。

 おそらく残された猶予はもう長くない。それでも一刀は悩み、また管輅も動かない。この一角だけが世界から孤立するように静まり返る。

 そうして、さらに十の時が無為に経過した時――、


「見つけた」


 路地の入り口に彼女はいた。左の肩には長い木箱を担ぎ、右手にはどういうわけか、ぐったりとした女性をぶらさげて、こちらを真っ直ぐ見つめている。


「――れ、恋!?」


 一刀は思わず管輅を押しのけて駆け寄る。

 どうしてここにいるのか。右手に引っさげている女性は誰なのか。何故早く逃げなかったのか。聞きたいことは色々あるがどれも上手く言葉にはならず、もたついているうちに、

 

「ありがと」

「……え?」


 恋は“点心”と小さな声で付け加えた。

 それで一刀も理解する。その感謝の意味を。そして、この一言を伝えるためだけに恋は自らの危険も省みずやってきたのだということも。

 

「っ、……そっか」


 乾いた笑いが自然に漏れていた。

 馬鹿馬鹿しかったのだ。恋の突拍子もない行動がではない。あやこれやと理由をつけて動けなかった自分自身が、だ。

 ――やめよう、もう。

 後悔を言い訳にするのは。

 過去から学ぶフリをして。狭間で葛藤するフリをして。自分はこれだけ悩んだんだから彼らとは違うんだ――なんて自己満足に浸るのはあまりに卑しい。真に現状を憂う者がすべきことは分不相応な正義を羨むことでも、手頃な葛藤で罪悪感を薄めることでもないはずだ。

 やれることをやればいい。出来得る範囲で、己の信じる偽善を振りまけばいい。そんな当たり前のことを彼女が改めて気づかせてくれる。何度、同じ過ちを繰り返せば成長するのだろう。

 

「こちらこそありがとう」


 そう伝えると、一刀は深々と頭を下げ、そのまま管輅へ向き直る。浮上するその眼差しにはもう先ほどまでの迷いはなかった。


「じいさん。俺、やっぱりここに残るよ」

「――なっ、なんじゃと!? 何を言っておる! その者が探すというておった娘なのじゃろう!?」

「うん」

「ならばもう用はないはず! さっさと街を出るぞ!」

「嫌だ」


 一刀は首を横に振る。

 恋の純粋さに触れ、胸には奮い立つものがある。多分に感化されたそれを思い上がりとするか否かは紙一重だが、なんであれ膨らんだ正義感は一刀を後押しする。

 たとえ英雄にはなれなくても、出来ることがあるならやるべきだ、と。

 ゆえに一刀は大真面目に大馬鹿を言い出した。


「俺、このまま逃げるのは嫌なんだ。ほら、逃げ遅れたお年寄りとか、親とはぐれた子供とかいるかもしれないだろ? 街を賊から救えなくたって、そういう人たちの力になら俺だってなれると思うんだ」

「――じゃったらまず目の前で困っとるお年寄りの力にならんか! 何が、逃げるのは嫌なんだ、じゃ! いつ賊の軍勢が襲ってくるかもわからん状況じゃというのに、どういう思考回路をしとるおるんじゃ、おぬしは!!」

「どうって、だからやれることをやりたいんだよ。そりゃ戦になんか巻き込まれたくないし、怖いさ。けどこのまま見過ごすのは罪悪感っていうか嫌悪感みたいなのがあって、とにかく嫌なんだからしょうがないだろ?」

「それのどこがしょうがないんじゃ! 素直に逃げればいいだけの話じゃろうが! なんでもかんでもすぐ首を突っ込もうとしよってからに、ワシはおぬしのその野次馬根性が嫌じゃわ! ひよっこはひよっこらしく黙って師のいうことを聞いておればいいんじゃ、馬鹿者め!」

「……はあ? 自分だっていっつも好き勝手やって問題起こすくせによく言うよ。陳留でだってそうだろ? 誰のせいで逃げる帰る羽目になったんだっつうの。あー、思い出したらなんかムカついてきた」

「――なんじゃと!」

「――なんだよ!」


 管輅は掴みかからんとばかりに迫り、一刀も負けじとにじり寄る。


「この大馬鹿者がッ!!」

「うっせクソじじい!!」


 互いに顔を突き合わせ、超至近距離で競り合う二人の剣幕は通りの喧騒にも負けていない。

 意地でも引かぬと大声を張り合い、思いの丈をぶつけ合う。だが、それはあっという間に単なる悪口の応酬へと移行した。

 孫と祖父といってもいい年齢差の二人が人目も憚らず本気の喧嘩だ。聞くに堪えない論争はしばらく続き、その最中、一刀の腕は袖伝いでくいっと引かれる。

 振り向けば、なぜか嬉しそうに恋がこちらを見つめている。一刀は一転、ニコっと柔和な表情を瞬時につくり、


「うん? どうしたの、恋? あ、大声に驚いちゃったかな? なら心配ないよ。このクソジジイはさっき話した口煩いジジイだから平気平気」

「誰が口煩いジジイじゃ!!」


 隣からすかさず異議が飛んでくるが、その後の喚きも含めて全部無視した。

 すると恋は手にぶらさげている女性を引っ張り上げ、


「霞」

「ああ、その人が……って、恋。さっきから気にはなってたんだけど、大丈夫なの? なんかその人具合悪そうだよね」


 一刀が心配そうに覗き込むと、その女性はおもむろに顔だけを起こした。


「――ちょいまち」


 乗り物酔いでもしたかのような真っ青な顔色とは裏腹に、こちらを睨む鋭い双眸。その視線は一刀のつま先から頭のてっぺんまでつぶさに観察する。

 そこから窺えるのは、思いっきり警戒されているということで。


「……え、あの?」


 初対面で何故ここまでの警戒感を抱かれているのか。理解が及ばない男はその雰囲気に呑まれ、じっとしていることしかできない。

 なんとも言えない時間が数秒。

 眼球の上下運動が数往復繰り返されると、紫髪の彼女は視線を恋へと移した。


「なあ、恋。ウチにはさっきからコレが何度も恋のことを恋って呼んでるように聞こえたんやけど、気のせいやんな……?」

「ん、あげた」

「なんや、そうかあげたんか。いやーウチはてっきりコレが勝手に――って、あ、ああああ、あげたッッ!?」


 恋がもう一度頷くと、彼女は病人の様相から一転。血相を変えて飛び起き、


「――な、何考えとんのや!! 今日会うたばっかりなんやろッ!? 冗談やんな! ネタやんな! そうやろ恋!!」


 鷲掴みされた恋の肩は力任せにガクガク揺れる。その凄まじい勢いに茜色の小さな頭が鞠球のように前後左右に激しく跳ねる。

 あ、う、と細かな呻き声を出すだけの恋を見かねて、一刀が代わりに答える。


「あ、あの、恋とはさっき市で――」

「うっさいッ! 横からいらん口挟むな! ウチは恋に聞いとんのや! 外野は黙っとらんかい!!」

「――ひいいいい!?」

 

 一刀は壊れた人形のように何度も頷く。

 恋の言っていた通りだ。彼女はすぐ怒るし、それに激しくおっかない。身長的にはこちらが若干見下ろしているはずなのに、人間的には完全に見下ろされていた気がする。これが本能的に上下関係を認識させられるという感覚なのだろうか。道理で恋が彼女を茶化すのを渋ったわけだ。

 ともあれ、脅える男は迫力に押されて数歩後退。しかし一方で、さすが年の功というべきか。彼女の強烈な威圧にも管輅はなんら怯まず、むしろ入れ替わりで前に出て、


「いや、黙るのはおぬしらの方じゃ。外野と言うならそもそも横から入ってきたのはそっちじゃろうて。今大事な話をしとるんじゃ。これ以上邪魔をせんでもらおうか」

「……なんやて?」 


 二つの剣呑な視線が激突。場の空気が刺々しく凍てついた。


「え、ちょ……」


 二人は睨みあったまま微動だにせず、このままではいつ衝突が起こってもおかしくない、とても危険な雰囲気だ。

 だが、あいにくと一刀には管輅を諌める手段も、初対面の女性を取り成す心得も持ち合わせていない。

 ――どうすりゃいいのよ!?

 だいたい、現状からして意味不明すぎる。何故もっとも接点のない者同士が事の中核をなしているのか。例えるなら、友達と互いの友人を紹介し合ったら“はじめましてくたばれ”といきなり罵りあいが始まったくらいの突拍子のなさだろう。どうしろというのか。

 唯一助けになってくれそうな恋も我関せずで大きな欠伸しているし、本当になんだこれは。難易度が高すぎやしないか。

 一刀はただただ狼狽しながら事の経過を見守ることしかできない。

 膠着を打ち破ったのは紫の彼女だった。


「……あかん、やっぱ聞き捨てならんわ。ウチらが邪魔? ハッ、笑えん冗談やな、じいさん。誰のせいでこない面倒な事になっとると思っとんねん」

「知るか。おぬしらの事情などこれっぽっちの興味もないわ。用が済んだならとっとと失せい。取り込み中じゃと言うておろうが」

「あーあー、ウチかてこんなとこさっさと失せたいわボケ! せやけどな、恋の真名が関わっとんのやから、はいそうですかとはいかんのや! なんでや? なんで今日はじめて会うたばっかの、しかも、こない何の取り得もなさそうな平凡顔した男に、恋が真名で呼ばれなあかんねん!」

「え?」


 真名。一刀にはあまり馴染みのないそれだが、その重要性については知っている。劉備たちの真名をうっかり口にして殺されかけたのも今は昔だ。

 だからしれっと悪口を言われた事よりも、一刀はどうしてこの場面でその単語が取り出されたのかが気になり、


「今、あの真名って聞――」


 だが、この闘争にそんな隙間はなかった。


「知ったことか! それは一刀とそっちの娘の問題じゃろう! 一刀がいくら品性の欠片も感じられん間抜け面をしておってもおぬしには関係あるまい! それこそ外野は黙っておらんか!」

「関係あるっちゅうねん!! 恋はウチの大事な仲間や! その仲間が、こない人の忠告も聞かんと無謀な夢をいつまでも追い続けて、挙句、周りに余計な苦労ばっかしかけてそうな男に真名を許した? なんやそれ? おかしいやろ! 騙されとるとしか思えんわ、ほっとけるかい!」

「馬鹿馬鹿しい! 確かに一刀は周りに面倒ばかりかけおる迷惑極まりない男じゃ。現に今も街に残るなどと言い出してほとほと困り果てておる。そこは否定せん。じゃがな、決して人を騙すようなマネはせん! なぜなら――」


 管輅はそこでこちらをチラリと見やった。

 ――じ、じいさん!

 いい加減、言われなき誹謗中傷に心痛も無視できなくなっていたところだ。管輅からの援護とはいささか面映いところもあるが、断わる理由はない。腐っても師弟だ。期待を込めて頷き返し、


「あやつには人を騙せる程の度量も知性もないからの!」

「――うおいッ!」


 まんまと裏切られた男はずっこけながらも二人の間に割ってはいった。

 おかしい。展開がおかしすぎる。


「ちょっと、さっきからなんだよこれ! 黙って聞いてれば二人してなんで俺の悪口ばっかり! 関係ないだろ!」

「「――関係あるわ!!」」

「ひいいいい!?」


 一刀は再び大きく仰け反るが、ここは引き下がらない。

 二つ並ぶ鬼の形相は腰が抜けるほど怖いが、いがみ合っていたはずの両者が、何故ここにきて完璧な同調を見せたのかも込みで理解の及ばぬことが多すぎる。まずはそこからだ。


「と、とにかく一端落ち着こう! じいさんも、君も、こんなところで喧嘩してる場合じゃないだろ? ね? ねっ?」

「「…………」」


 さすがにここは二人も異論はないらしい。多少なりともまだ自制心が残っていてくれたことに感謝しつつ、一刀は尋ねた。 


「それで、まず、恋の真名についてなんだけど――」


 しかし、一刀の言葉をそこで途切れ、またしても新たな声に塗りつぶされることになった。


「れ、れれれ、恋殿の真名を呼ぶとは何事ですかあああああああああ!!」

「へ?」


 それは通りからこちらに向かって猛然と突き進み、接近するにつれ速度をドンドン加速。小さき弾丸となって一刀を目掛けて踏み切った。


「――必殺! 陳宮ぅうううう鬼狗(キック)――――ッ!!」

「ふぼォオオオオオオオオオオッ!!」


 無防備な鳩尾(みぞおち)に強烈な飛び蹴りを受け、くの字に折れ曲がる一刀は地面で一度弾んでから突き当たりの生垣へ頭から突っ込む。

 勢いは十二分。メキメキと枝を折り、その身体は膝先だけを残して生垣の中に埋まった。


「死にやがれですッ!」


 激しい痛みと一事的な呼吸困難に悶えながらも、枝葉の隙間から一刀が見たもの。それは、パンダの刺繍がはいった黒帽子をかぶる完全なる幼女だった。

 ――な、ぜ、だっ……!

 何故、どう見ても十歳にも満たない女の子に、こんな酷い仕打ちを受けなければならないのか。

 何故、初対面の彼女は今もなお、親の仇でも見るような目でこちらを威嚇し続けているのか。

 そして何故、今日はこうも最後までしゃべらせてもらえないのか。

 思うところは多々あるが、とりあえず一刀が最初に選んだツッコミは、

 

「……なんで、奇跡的にキックの意味が現代と――」


 だが、やっぱりその台詞もあと一歩のところで潰えることになり。

 何者かに足首を掴まれた感覚がしたその瞬間、視界が凄まじい勢いで縦に振られ、直後、目の前が一気に暗転。


「―――」


 それが、一刀が意識を失う直前に見た光景だった。


***


「はぁ~あ……。どないしよ。こんな所におったら不味いっちゅうのうに……」


 もうこれで何度目だろうか。運んできた木箱の上に腰掛ける霞は、両肘をついて大きく溜め息をつく。

 唐突な乱入者――音々の登場から二刻あまり。彼女たちは依然として濮陽城内、あの狭い路地に留まり続けていた。

 というのも――、


「どうしてですか恋殿! そんな奴に触れてはなりません! きっと世にも恐ろしい病気持ちにきまってます! ばっちいのです! 危険なのです! 放っておけばいいのですよ! ですから――」

「ダメ」

「恋殿ォオオオ~~~~~~~~!」


 といった具合で、恋はまるで野良犬を拾ってきた子供のように、その男を片時も離そうとせず、その場を一歩も動こうともしない。それが彼の意思を尊重しての行動なのかは定かではないが、よほど気に入っているのは確かだろう。

 どこに惹かれているのかは甚だ謎だが、真名を許したのはどうやら伊達や酔狂ではなさそうだ。膝に乗せた彼の髪を心配そうに撫でる仕草はいかにも優しく、その様子を音々が羨ましそうにも憎らしそうにも眺めている。

 もっとも、この状況を作り出したそもそもの原因は、本来なら城外で落ち合う予定だった音々が、乱入ついでに挨拶代わりの一撃をかましたからであり、また、恋が生垣に埋もれたそれを引っこ抜くのに、力加減を誤まるどころか、勢い余って地面へ思い切り叩きつけたからに他ならないのだが。

 ともあれ、こうなってしまったら恋を残していくという選択肢がない以上、もう打つ手なしだ。

 霞は早々にただの溜め息製造機と化し、つい先ほどまで音々と一緒になって恋から彼を力ずくで引き剥がそうとしていた老人も、今や向かいの板壁に手をつき別の意味で激しく息を吸って吐いてしている。

 

「……しゃあない。腹くくるか」


 代わり映えのしない光景に見切りをつけ、霞は俯き加減だった身体を起こして、すっかり閑散とした通りに出る。

 あの激流のごとき人波は既になく、遠くに見える正門は閉じられていた。


「あーあ、まさに嵐の前の静けさやな」


 時間切れだ。おそらく賊軍はもう間近に迫っている。仮に今からあの門を開けてもらい城外へ脱出したところで無事に逃げ果せる可能性は低いだろう。

 賊が見逃してくれるとは思えない。むしろ積極的に捕らえられ、城内の情報を聞き出そうとするはずだ。

 つまり、

 

「逃げるにせよ戦うしかない。せやったら、ここで一気に叩いた方がマシってか」


 時間はかけられないのだ。もたもたしていては奴らにこちらの存在を気取られてしまう。そうなる前に邪魔な障害を蹴散らし、ここを去らねばならない。

 その困難さを思うとまたも溜め息が出そうになるが、霞をそれを飲み込んで後頭部を雑に掻いた。

 不本意な選択肢ではあるものの、決まったことだ。ならもうウダウダと愚痴っていても仕方がない。それに、悪辣な賊徒から無辜の民を守るというこの状況は嫌いじゃない。むしろ武人の血が騒ぐ。


「やったるか、って……ん?」


 すると霞のやる気に呼応するように、例の男がようやく意識を取り戻したらしい。さっそく彼を中心に輪をつくり四人でワイワイガヤガヤやっているのが見える。


「…………」


 よかった。霞だってそう思わなくもないが、しかし、彼のどこか悠長な横顔を見ているうちに別の感情が込み上げてくる。

 ――ええ気なもんやな……!

 やる気が殺る気へ。霞は荒い足取りで路地に戻り、男に言った。


「お目覚めか? なら起き抜けで悪いんやけど、自分、落とし前だけはきっちり払ってもらうで?」

「え、落とし前ってなんの……?」

「…………」


 意識の戻ったばかりの彼だ。状況を掴みきれていないだけで、ワザととぼけているわけではないのだろう。だが、それはそれで腹が立つ。霞は彼の首根っこを掴んだ。


「――ちょ、ちょっと!」

「いいから見てみ、あれ」


 そのまま路地を出て、引き摺る男に示したのは堅く閉ざされた城門。現状を手っ取り早く把握させるにはこれが一番だ。

 彼はうしろから続いて出てきた恋たちと同時に、あっ、と声を漏らすと、散々っぱら目をしばたたかせ、


「……え、ちょま、えええええええええっ!? なんでさ! なんで門閉じちゃってるの!?」

「そら、誰かさんがいつまでも寝腐っとる間に、敵さんがお出ましになったからやろな」

「敵がって……、じゃ、じゃあなんで俺ごと城外に連れ出してくれなかったの!? 運んでくれればよかたじゃん!」

「そら、ここに残る! て喚とった誰かさんのご大層な意思を酌んで、恋が動かへんかったからやろな」

「恋がって……、いや、けど、なんで――」

「あーもうっ! なんでなんでうっさいねんボケェ!! そんなんこっちが聞きたいわ!! なんでこんなんに恋が懐いたんや!!」

「――ひいいいいいいいいい!?」

 

 脅える男を恋に投げつけ、霞はフンッ、と鼻を鳴らす。

 知れば知るほどわけがわからない。恋がここまで懐いたのは(ゆえ)くらいだろうに、面影どころか共通点もまったく見つけられない。これはまったく別の生き物だ。

 ――けど、それも一端、保留や。

 ひと呼吸。

 それからこれまでとは違う、凛と芯が通った声で霞は言った。


「とにかく、こうなった以上、ウチらに残された道はひとつしかない。音々」

「はいです」

「策は任せたで。時間との勝負や。ウチも恋も全力全開。出し惜しみはなしや」 

 

 その一言で、音々には十分だ。了解です、と短い返答がきた。


「恋はそれを離したらあかんで。絶対に逃がさへん。意地でも働かせたんねん」

「ん」


 恋も頷く。ちゃんと意図が伝わっているかは疑問だが、とりあえず嬉しそうに彼をガッチリ羽交い絞めしているのでよしとしよう。なにかとワーギャーうるさい男の口を塞いだのも上出来だ。

 霞は視線を次へ移す。 


「んで、じいさんはどないする? いくら人手不足やいうても“ただの老人”を無理やり引っ張り出すのはさすがに気が引けるし」

「よく言うわ。そう聞いておる時点で腹の底が透けておろう。が、まあええじゃろう。一刀を御し切れんかったのはワシの責任でもある。ただし――」


 老人の目が追求の色を帯びた。


「いくらワシが老い先短い老骨だというても、“ただの小娘”に従う道理もあるまい?」

「…………」


 それはまずこちらの素性を明かせという要求だ。霞がこの老人を只者ではないと感じていたのと同様に、あちらも何かを感じ取っていたのだろう。

 可愛げのないじじいや、とは思うものの、拒むつもりはなかった。出し惜しみなしと言った以上、これも範疇に含まれている。それにどうせ遅かれ早かればれることだ。

 

「せやな」


 霞は木箱の前に立つとその蓋を蹴り開けた。


「――恋」


 言うと同時に、木箱の縁を押し出すように踏みつける。

 中身が飛び出した。

 宙に舞うのは二本の長得物。霞は両手でそれぞれを掴むと一方を素早く恋へと投じる。そして、残るもう一方で余勢そのまま木箱を真っ二つに叩き斬ると、


「ウチは張遼、字は文遠や。んで――」

「呂布、奉先」


 その名を高らかに名乗ってみせた。


***


「ンンンンン――ッ!?」「なんと、これは……」


 恋に口を塞がれているためくぐもった声にしかならなかったが、一刀は大いに叫んでいた。

 当然だ。まさか目の前にいるのが洛陽決戦以来、行方不明とされる二将だったとは。

 新幹線の座席で、たまたま国際指名手配犯と相席するような奇跡が目の前で起きれば、誰だって取り乱すだろう。さすがの管輅でも絶句している。

 しかもそれとは別に、一刀にしてみれば、

 ――二人とも正史とイメージ違いすぎだろ!

 とりわけ恋のギャップがひどい。

 あの愛らしく点心を頬張っていた女性が、実は千年以上の後世にまで最強の武人として伝わる、あの呂布だと言われても、脳が簡単には受け付けてくれない。

 三国英傑たちの女性化についてはこれまでの経験で多少の耐性をつけたつもりでいたが、まだ足りなかったようだ。

 今改めて、心の三国志像が粉々に砕けていくような気がした。


「まあ、っちゅうわけやから、二人ともこっちの指示に従ってもらうで」


 そして、ようやく少し落ち着いた頭である可能性に気づく。

 ――指示ってなんの……?

 現状、賊軍は間近に迫り、逃げ遅れた一刀たちは絶対絶命と言っていい。あまりの急展開にどこか実感が欠如して悠長に構えていたが、これは紛れもない現実だ。今更ながらに恐怖心で身体の芯が震えるが、そこに、天下に名を轟かせる二人の猛将が現れたのだ。

 一見すると渡りに船。突然振って沸いた光明。まさに救世主と言えるだろう。

 だが、そうではない。

 張遼と名乗った彼女は先程言ったのだ。“道はひとつしかない”と。“策は任せた”ともだ。

 ――道ってどんな道……? 策って何の策……!?

 そこに“落とし前は払ってもらう”の台詞を加味すると……、


「それから北郷一刀、やったか? ウチらをここまで巻き込んでくれたんや。ぜっっったいに、最後まで付き合ってもらうで」


 そこには救いなんてなかった。


「――ふご、ふごふごッ!!!」

「おお、なんや。ウチと戦えるのがそんなに嬉しいんか? そかそか」

「ふごオオオオオオオオ」

「……無事に生きて帰られたとしても、椿に何を言われるやら……。ワシはもう知らんからな」


 こうして、どうにも締まらない雰囲気の中、四人の濮陽防衛戦が――、


「……う、うぅぅぅ、この陳宮公台も」


 も、もとい。五人の濮陽防衛戦が始まろうとしていた。

 ちなみに、すっかり名乗りを上げる機会を逸した音々は、この後もしばらく拗ねていたらしい。

読んでいただきありがとうございます。

今回は作中にもあるアホウドリについて。


アホウドリは漢名で信天翁、英名ではalbatrusと書きます。

ゴルフ好きの人には英名の方が馴染みがあるかもしれませんね。

で、なぜこんな不名誉な名前なのかと言うとですね、この鳥、離陸と着陸が異常に下手で簡単に捕まえられる、らしいです。結果、乱獲の末に今では特別天然記念物に指定されています。

さらに、学習能力も0で何度捕まっても人間を恐れない様子からアホウドリと名付けられたようです。ちなみに、漢名の信天翁とは天から餌が降ってくるのを信じて待つ鳥という意味だそうです。

どっちの意味でもウチの一刀くんとは重なるところが多そうです。


ただ、そんなアホウドリも飛翔能力は鳥類の中でもトップクラスを誇ります。

一刀が高々と飛翔する日は……いつになるやら。


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