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ヒマワリ姉妹のラプソディ

作者: 双色

 /prologue




 沈むような青色の中で、セミの声に乗る音を聴いていた。

 向日葵に囲まれた黄色い世界に降り注ぐのは、青い空の日差しだけ。

 少女は、背丈に合わないヴァイオリンを必死に持ち上げ、押さえつけ、やっとそれっぽい格好で音を紡いでいる。乱雑でまとまりがなく、リズムも音程も滅茶苦茶な演奏だった。

 どこから拾ってきたのか木の空き箱の上に立って。泣きそうになりながら負けじと音を紡ぐ、強がりな姿が溶ける日差しに霞む。

 向日葵畑を抜けていく風が黄色い花を揺らした。

 小さな箱の上、必死になって音を追いかけている少女がいて、風に揺れる向日葵が擦れ合う音に交じって手を叩く無垢な少女がいた。――ここは三人だけのコンサートホール。夢の奥深くに埋葬した、忘れてしまったいつかの想い出だ。


“汚ねえ音”


 演奏を終えた少女に感想を問われて素直に答えた。子供ながらに配慮など微塵もない。思ったまま、正直な感想を隠さずに。当時の自分にはまだ、相手を思って気を遣った言葉なんて用意できなかったのだ。だから。

“……でも”

 それに続く言葉にもまた嘘はなく、純粋で装飾のない有りの侭だった。

 青く澄んだ夏空に、夢の跡を見上げた。

 そこにいた少女が大輪の笑顔を咲かす。向日葵畑、光る汗と、そして強い風が吹き抜ける。世界はまるで祝福するみたいに優しく柔らかく、彼女の声を包み込んだ。

“わたし、世界一の音楽家になりたい!”

 楽しかった過去の日々と、これからの未来を見据え――目が覚める前に微睡む少女の笑顔を見る。晴れやかで明るく美しい、心からの幸福を噛み締める笑みだった。

 それから十年間、彼女に同じ笑顔を見ることはなかった。



 /1



 心地よい音色に抱かれて、それがまるで揺り籠に響く子守唄みたいに感じた。

 同時に、吹き込んだ微風が涼やかな音色を連れて空に帰る。

 暗転した意識を覚醒させたのは、とんとん、と誰かに肩を叩かれた衝撃だった。

 囁き声が耳に馴染んだ音色で聞こえてくる。

「お兄ちゃん」

 発音と同時に息が耳にかかる。

 俺は横目に隣の席を確認した。どうせこの教室には俺込みでも三人しかいない。一人は絶賛演奏中、なので誰が俺に呼び掛けたのかなど考えるまでもなかった。そもそも声で解るし。目があって、夏佳が軟らかく微笑んで見せた。

「おはよう。そろそろ終わるよ」

「さんきゅ」

 風がカーテンを揺らす。

 遙佳の演奏が静かに終わりに向う。緩やかな曲調から徐々に下降していった旋律が最後、長い余韻を飛行機雲みたいに引いて溶ける。その間の空気に固唾を飲み、独特の緊張感に呼吸を忘れる。溶けていく音の波と演奏する少女の表情が重なって、無限にも感じる終演の一瞬――ぱっ、と大きな琥珀色の瞳が開いた。そして。

「どうだった?」

 間髪入れない。こいつ、音楽家の癖に演奏後の余韻の大切さを知らんのか。

「どうって……んまあ、いつも通り綺麗な音だったと思うぜ」

「それって褒めてるの?」

「褒めてるよ。いやあ、いい演奏だったなあ――」黒板消しが投擲されてドストライクだった。「――はごぁ!」

「感情が籠ってない! もう、いい。いいから帰って寝ろ」

 口から黒板消しを引っ張り抜く。なんてことしやがんだこいつは、と目で訴える。つうかなんだその『どうせあなたにはクラッシックは解らないでざましょ? お下劣ですことねぇ、オーホホホホホホホホホホ』みたいな蔑みの目は。

「夏佳、どうだった?」

 幼馴染みによるヴァイオレンスが行われる中、自分だけは関係ないですよー、みたいに涼しい顔をした夏佳は喉を鳴らして微笑し、

「あたしも普段通りよかったと思うよ」

「むぅ……夏佳まで」

 俺の時と態度が違うのですが、遙佳さん。という意思を孕んだ視線は、うっさい黙ってろバカ! という威嚇を煌めかす眼光に打ち消された。まったくもって理不尽だ。

「心配要らないよ、お姉ちゃん十分上手いって!」

 お姉ちゃんのファン第一号はあたしだから! と胸を反らす夏佳である。立ち上がり様、ショートカットが揺れる。ついでに、この体育会系女子には重荷にしかならんであろう発育良好な双丘も。短いスカートが跳ね上がり、危うくその先に視線が届いてしまうところだった。周りを憚らないというか、もしかしてわざとやってんのか? ……あ、目が合った。にやり。はい、確信犯決定。侮るな、今更おまえの身体になど何の情欲も湧かない。

 ……なんか遙佳がめっちゃ睨んでる。待てよ、勘違いするなよ詮索もするな!

 遙佳がパイプ椅子に腰を落とし、宝物のヴァイオリンを使われなくなって久しい年季入りの教壇に置く。七月も第二週。台風さながらの期末テストが過ぎ去って夏休みへの穏やかな時間が流れる。いつまでも続けばいいと願うような日々の中にいた。

 それは、遙佳が留学を一ヵ月後に控えたある夏の日だった。

 談笑する同じ顔のショートカットとロングヘアの二人を眺めながら、ふとポケットに手を入れる。そしてそこにあったある一通の封筒が、思えば始まりだったのかもしれない。



 /2



 八月某日。

 旧館の空き教室にて待つ。

 午後六時。こないと、すごくおこる。


 呼び出しを強制する短文が細く丸みを帯びた線質で踊っていた。昨日知らぬ間にポケットに紛れ込んでいた手紙の内容である。差出人不明、匿名希望の文末にはその意図が記されていた。

 日本で最後のライヴ。

 そこまで読んでようやく俺は、この手紙が『招待状』なのだと思い知る。もう一度、無理矢理書き崩して筆記体にしたみたいな封筒の表題を黙読する。なるほどそういうことか。

 納得しながら、俺はいつもの旧館空き部屋へ脚を運んだ。

 遙佳と夏佳は双子の姉妹である。

 姉、遙佳は文科系で、その認知も影響してか妹の夏佳は体育系の少女として校内に知れている。天才ヴァイオリニストとして活躍する姉と、入部から半年で部を県大会ベストエイトまで持ち上げた妹という組み合わせの姉妹を知らぬ者はこの学園内にはいないだろう。

 なにせ見た目も美人だし。客観的に。

「い、いんとぅろ、でゅーす……招待、する」

 歪な発音で英単語(なのである)を口に出す夏佳が恐る恐る単語帳を捲る。ほらあれだ。でっかい輪で長方形の紙を纏めた奴。表にスペルを書いて裏に意味を書いた暗記用アイテムだ。

 放課後、いつもの空き教室にて。ただ今ここは遙佳の単独コンサートホールではなく、夏佳の補習対策教室となっていた。補習が決まってからは毎日ここでお勉強タイムを取っているのが日課だ。

「よし、正解っ」

 なにが正解だよ。

 かちり。時計の針が音を立て同時にチャイムが鳴る。音が響くや夏佳は広げていたテキストを翻す。閉じた問題集と教科書とノートを脇にして、なんだか知らないがにこやかに鼻歌を歌い始めた。なんのつもりだろう。

 勉強はいいのか、という俺の問いに、

「うん。休み時間だもん」

 いいけど。チャイム通りに再開もするのかよ。

「お姉ちゃん遅いね」

「留学の話とかで、乙川のところに行くっていってたな」

 ついでに練習も見てもらっているのだろう。結果俺の家庭教師タイムが延びて迷惑を被るのは事実なのだが、しかし遙佳の夢とは秤に掛けられない。黙って待つとしよう。

 あれ、こいつ、今明らかに見せしめた溜息吐きやがったぞ。

「お兄ちゃんは? いいの、お姉ちゃん行っちゃって」

「だから」

 いつもと同じことを繰り返す。しかたない。どこか逃避にも似たその言葉で自身を正当化する。

 夏佳は親指の腹の上でシャーペンを旋回させ、そのまま連続ソニックを始めた。

「お兄ちゃんはさ、お姉ちゃんのこと好きなの?」

 唐突に訊かれて思わず吹き出しそうになった。口の中に烏龍茶でも含まれていたなら、今頃夏佳は盛大に水を被っていたことだろう。動揺しているわけではないのだが、今まで訊かれなければ意識もしなかった事柄に自分が慌てているのは否定できなかった。

「あのな、おまえ……そんなの今更だろ」

 ただの幼馴染、それは周囲の環境が変化する度説明を重ねた諸設定だ。

「そんなだからずーっと彼女がいないんだよ」

「うるさいって」

「なんだ、本当にいないの?」

「な……」

 罠だったのかこん畜生!

「じゃあ、あたし立候補してもいい? ねえ、いい?」

 びしりと挙手を斜めに倒してこちらの鼻先に突き付けてくる。スポーツ少女らしく飾り気のない丁寧に角を磨かれた自然体の爪が眼球直前に躍り出た。怖いから。などと思いつつ、夏佳の手首を掴んで降ろさせる。

「だから言ってるだろ、今更だって。今からおまえらをそんな風に見ろって言われても無理だよ」

 身を乗り出していた夏佳の肩を押して着席させる。

 いわば二人は俺にとっても家族みたいなものなのである。そのはずだ。

「ふふん……兄妹かあ……じゃあいいよ、試してあげる」

 目を細めてからかうように悪戯な瞳を微笑ませる。不敵につり上がる口元から視線を下げていくと、白い指先は半袖シャツの首を締めるネクタイを弛め始めた。するりと扇情的に青いネクタイが机の上に落ち、中指と人指し指が胸元を広げる。深い渓谷を前屈みになって見せ付けるように身を乗り出し、白い丘の間に輝くロケットペンダントが揺れた。

 左手の指が頬に絡み付く。甘い、粘膜を刺激する酸みたいな匂いが漂い、

「ねえほら……お兄ちゃん、今妹の身体見ながらどう思ってる?」

 蠱惑的に笑う唇が接近してきて――

「そこ。なにしてるのよ」

 いつの間に扉は開かれていたのか。ヴァイオリンケースを肩から提げた遙佳が、なんともいえない、強いていうなら呆れとか蔑みとかいった感情が渦巻く瞳でこちらを眺めていた。透明な壁を隔てているみたいに、遙佳と他二名との温度差はある意味絶望的だった。

 その中で、夏佳は至って冷静に平静へと回帰を果たす。というか元々ふざけていたのだろう。この雰囲気を一切放棄したからりと輝く笑顔を溌剌とさせた。夏佳が言った。

「お兄ちゃんの調教だよ。ところで遅かったねお姉ちゃん」

「……うん。まあね」

 おいおい。なんか無視できない一言があっただろ。勉強は大丈夫なのかという問いに頷いた夏佳は、すると手早く荷物を纏めて跳ね上がるように席を立った。がたん、と後方に無人の椅子が船を漕ぐ。一歩で背後に回り込んだ夏佳に囁かれる。

「ほらね。幼馴染みなんていってもこのくらいで――簡単に女の子になっちゃうんだよ」

 多分遙佳には聞こえていない。吐息みたいな微笑が首筋に掛かり、

「早く素直になりなよ、時間、ないんだから」

 見慣れた髪の短い幼馴染みが走り去っていく。遙佳の脇をすり抜けて振り返った夏佳は、自衛隊員よろしく額に手を翳し高らかに叫んだ。

「では、あたしは部活に行ってきまーす!」

 そう言い残して、廊下を爆走していく。部屋に残されたのは、俺と遙佳だけだった。



 /3



 遙佳が現れたのは夏の空が茜に焼ける頃、下校時間まで残りわずかなタイミングである。律儀にも顔を出した遙佳だが、こんな時間から練習するつもりなんだろうか。どうせなら乙川の世話になればよかったのに。個人的には救われた心地でもあるけど。

 走り去る妹を見送ってから部屋に入った遙佳は窓際に固めてある机の一つにヴァイオリンを置き、一つに腰を下ろした。芸術家のやることかよ品がない。

「夏佳となにしてたの?」

「なんでも」

「調教ってなに?」

 俺は全力で苦笑した。いらん話題を残していきやがる。非常に傍迷惑な奴であるまったく。

 話題を強引にでも逸らすために咳払いをする。

「で、随分長いこと、なにしてたんだ?」

「乙川先生と留学の話してた。あのさ、向こうの学校に推薦の枠持ってるのってね、乙川先生なんだ。でさ、留学生の話は一応わたしで決まってるけどまだ変更できるんだって」

 それは……待てよ、それはどういうことだ。不安になっている自分がわかる。あからさまな動揺が心拍を速めた。留学生は変更可能――それはつまり遙佳以外の誰かがこの期に及んで候補に挙げられているとか、そういうことをいってるのか?

「そうじゃなくて。……わたしは、それでいいのかなっ……て」

「? 大丈夫だよ。俺、音楽は詳しくねえけど、おまえなら大丈夫だって」

 昨日も夏佳がいっていたことだ。遙佳は少し心配しすぎている。

「だから違うのよ。そうじゃなくて……っ」

 語気を強めて、反響した声に自分でびっくり。肩を浮かせて遙佳が閉口する。今ので驚いたことによるのか、また平淡な口調に戻った。

「行っていいのかなって、本当に。少しだけ不安なのよ」

「こっちに残りたいのか?」

「……わかんない」

 そしてそれに次ぐ言葉が遙佳の口から飛び出そうとする瞬間、てっきりターンが自分へ移ったものと思った俺もまた同時に声を出した。まだ言葉になる前の声が互いにぶつかり合って霧散した。

「悪い。どうした?」

 発言権を譲ると、しかし遙佳は「なんでもない」と首を振った。会話を詰まらせた後では言い難い言葉だったのだろうか。ならばと遠慮なく俺はその権利を受け取る。なんとなく流れが切れて気恥ずかしいが。

「夢なんだろ、『世界一の音楽家』になるって」

「……」

 沈黙。

 ……あの、黙られるとこっちもなんか恥ずかしいんですが。思いつつ遙佳の顔を見ていると、琥珀色の視線はついと窓の外に飛び出した。外した瞳を片方だけちらりとこちらに覗かせて、唇を尖らせ呟く声が聞こえた。

「……ばか」

「え、なにが……つうかなに?」

「なんでもない。うるさいもういい」

 なんだよこいつ。

 急に怒り出した遙佳はぷんすかきのこ雲を頭上に打ち上げながら大股で歩き去ろうとする。来てからまだなにもしていないが、ケースを持っていることから足取りは帰途だと思われる。帰るつもりなのだろうか。それしかない。

「遙佳? おい待てってはる――」

 べしーん、と鼻骨を打つ衝撃は、慌てて追い掛けた俺の進行を遮る扉との衝突により生まれた。

「ってえ――なにしやがる!」

「うるさい! ついてくんなさっさと帰って寝てろばか!」

 帰るなら方向は同じなのだが。

 結局俺は憤然と大地を踏み鳴らす遙佳に駅の改札で追い付き、ご機嫌を伺いながらの帰宅途中では鳩尾に意味不明な打撃を三回ほど喰らい、数え切れない罵詈雑言をその身に浴びたのだった。

 いつも通りの風景だ。そう思っていた。

 明けて翌日に、遙佳が留学を辞退するなどと言い出すまでは。



 /4



「二季、ちょっと時間あるか?」

 呼び止められて脚を止めるも、内心は振り返ることを拒否していた。自分の脚を止めた相手が誰であるかを理解していたからだ。そのいけすかない声の主に、けれど俺は渋々体を向ける。あまり待たせるのもよろしくない。主に旧館で待つ夏佳に。

「なんですか、乙川先生」

 乙川慧士とは音楽界においてそれなりに普通でない権威を持っている。現役時代は向こうでの公演も開いていたらしい。乙川の名前を世界に知らしめた出来事は二つ。十五年前のイタリア公演と、そして六年前の衝撃引退だ。この男は、元世界的ヴァイオリニストなので、言い換えれば遙佳の目指す場所、夢の成功者だった。

「渚原の話だよ。渚原遙佳な。彼女のことで話がしたい」

 爽やかな笑顔を浮かべる。俺はといえば、相変わらずそんなこいつが気に入らなくて目を背けた。中年の癖に若々しく、堅苦しいスーツを完璧に着こなすこともあればラフな服装までばっちり似合うオールラウンダーだ。今は白衣を纏っている。

 音楽の教師だろ、あんた。なんで白衣だよ。

「遙佳がどうかしたんですか?」

「うん。彼女、留学にあまり乗り気ではないんだよ。君、何か聞いてないかな?」

「……残念ながら」

 余計なお世話だと無言で訴える。その心配をする役割は俺であっておまえではない。

「残念だ」

「すいませんね、力になれなくて」

 いやいや、と手を振ってあっさり去っていく。白衣の裾が靡き、マントみたいだった。

「頼むよメトロノーム、君が彼女の旋律を支えてやってくれ」

 気障ったく吐いた台詞に、自分の眉間に皺が寄るのを感じる。駄目だこいつ、生理的に受け付けない。早く死なないかな。と、腹立たしいばかりの捨て台詞を残した乙川は教室一つ分を空けてから顔だけを振り向かせ、「冗談だよ。なにかあったら頼む」と正常な日本語に訂正した。知るか。



 しかし乙川の言葉が思うよりも冗談にならないことに、俺は当日中に気付く。

 旧館の空き部屋には誰も訪れず、することもなくおまけに何となく気分が晴れなかった俺は昔からそうしていたように、気分転換の為に向日葵畑に赴き、そこで遙佳の姿を見つける。遙佳は遙佳で、何か悩みでもあればすぐここにやってくる癖があるのだ。

 どうやら、乙川の杞憂はそれに留まらないのかもしれない。

 ここにきただけでも十分な根拠になるのに、珍しく真剣な顔をして胸のロケットを見詰めているのだ。母親が遺したその黄金の輝きを、普段は首から提げているそれをわざわざ外して。

 ぐっ、と小さな手がペンダントを握りこんだところで俺は声を掛けた。

「よお、遙佳」

「へ――? あ、え、なんでっ、えっと」

 左手のヴァイオリンを放り投げない勢いだ。

 防衛本能からかペンダントは腰の後ろに隠している。盗らないから。

 驚愕の顔色は変わらないのに、瞳にはまださっきの儚げな葛藤の色が残っている。

 ……この様子だと。

「乙川の話、本当みたいだな」

 俺は乙川の話をそのまま遙佳に伝えてやる。この、内心を隠す能力が著しく欠如したヴァイオリン少女は、それが他人に伝播していたことに驚き、そして次のようなことをいった。

「弾けなくなったのよ、ヴァイオリン」

「なんだそれ」

「音がでないのよ、ほら……ね?」

 左手のヴァイオリンを持ち上げて、軽くその弦を弓が撫でる。確かに音はない。正確には弓が弦を振動させることで音は出るのだが、本来の重厚さというか、響きというものがない。演奏というよりも確かにそれは『音』でしかなかった。

「不安、なの。このヴァイオリンは、お母さんの形見だから」

 遙佳の母、ヴァイオリニスト渚原佳織は十年前に公演先の異国で他界した。姉妹に渡された金のロケットと、遙佳が引っ張り出してきたヴァイオリンは今や形見であり家族を繋ぐものとなっている。

 そして悲しみから遙佳を支えたのは、母と同じ演奏家になるという夢だった。

「それ、乙川には相談したのか? ヴァイオリンが壊れたって」

「ううん、まだ」

「だったら見せようぜ、あいつ、元ヴァイオリニストだし」

 なにかわかるかもしれない。

 言って急かすように手を取る。手首に、遙佳の肌に触れてふと思い出したのは昨日の夏佳とのやり取りだった。ほんの、些細なことで――簡単に女の子になっちゃうんだよ。……俺は遙佳の手首を解放して、音楽室への同行を促した。

 なにをやってるんだろう。こんなことは今更だ。

 でも確かに。

 遙佳と手を繋いだのは、その肌に触ったのはどれくらい久し振りのことだったか。



「魂柱」

「こんちゅう?」

 虫のことだろうか。音のおかしくなった遙佳のヴァイオリンを乙川に見せると、奴は一通り目を通してから端的に結論を下した。

「簡単にいったらヴァイオリンの音を響かせる、調整する部品なんだが、そこがなくなってる」

 初めからそういえばいい。何故素人に理解できない専門用語を使うのか。俺はちらりと遙佳を窺い見る。部屋の入り口で、戸のすぐ隣に凭れている遙佳は診断の結果には特に表情を変えることをしなかった。ちなみにこいつは事態を理解できているのだろうか。

「渚原、最近調弦したのはいつ?」

「昨日、先生と話した後で」

「場所は?」

「学校」

「学校のどこ?」

 そこで一瞬遙佳は俺を見て、

「教室で……その、ホームルーム教室」

「ちょっと待った。昨日って、旧館に来る前だよな」下校は一緒だっから間違いない。「何でわざわざ教室に戻ったんだ?」

「場所は、魂柱が倒れたりするから、できるだけ静かな方がいいの。あんたがいると気が散るもん」

「……そうかい」

 少し拗ねる。

「夏佳とお取り込み中だったし」

「それには大いなる誤解があるけどな!」

 その様子に乙川は苦笑しながら、あっさりと話題を持ち直す。

 本当に素晴らしい手際で、俺を枠の外に押しやった。

「代わりを作るのは難しいだろうな。ある程度合うものは出来ても、昔みたいな音は出ないよ」

 一拍を置いて、横目が俺を捉えた。乙川は伝聞の口調で続ける。

「これが君の演奏の支えになっているなら、少し辛辣なことを言わないといけないね。善処するけど、来月に間に合うかどうかは保障できない」

「いや、わたしは……」

 気付くと、会話している両者の視線は一点俺へと集められていた。一方は感慨もなく、遙佳の事情を話した俺を無意識に眺めているのだろう。一方は……遙佳の瞳は何を訴えているのか。

「わかった。じゃあ探そう」

「え?」

 いったのは俺で、疑問符を付けた感動詞は遙佳のものだ。同じタイミングで乙川の目の色も変化する。純粋に驚きを表す目が、どこか遠くなった。

「探すって……魂柱の大きさは直径六ミリほどだぞ」

「大丈夫ですよ。ありがとうございました乙川先生」

 早口に話を終わらせて、門番みたいな遙佳にアイコンタクトして退室を誘う。間の悪いことに本日は大掃除が執り行われた。方法は……ごみの集積場を探すしかないな。小さな部品ではあるらしいが、見付けられないなんて諦めるのは早いだろう。



 わかってはいたけど、やっぱり凄い量だな。

 諦観にも似た溜息を吐いて、倉庫の中に詰め込まれたごみ袋の山を見上げた。

「ねえ、本気なの、こんな中から探すなんて」

 自分でも正気を疑う。思ったよりも作業は難航しそうだ。

「もういいよ、帰ろうよ」

「……まあ、こりゃあ流石にな」

 手近にあった袋を持ち上げて外に放り出す。これだけの量がありながら、どれがどのクラスのいつのものかわからないから、地道に一つ一つ漁っていくしかない。気分としては最悪だな。これ。

「取り合えず俺が探しとくから、おまえはもう帰っていいぞ」

 こんなこと任せられないし。汚れ仕事は俺だけで十分だ。

「なんで?」

 結び目を解いたところで控え目な声がする。俺はごみの群れに目を通しながら背中で聞いた。

「だっておまえ、夢なんだろ」

 その夢が遙佳にとって大切なものだと知っているから。

 いつかの笑顔を覚えているから、放っておけない。

「…………違うよ」

「なにが?」

「もういい」

 結局その日、遙佳はそれ以上何も言わなかった。結果からいって魂柱は見付からず、下校時間になって用務員のおっさんに摘み出されるまで作業は続いた。無駄なことだとは思う。今日探した分に件のごみが含まれているかはわからない。とはいえ倉庫に入っていた半分ほどは探したのだ。見落としがあったか、それともそもそもなかったのか。

 なんにしても次の手を考えるしかない。それが疲れ切った心身で出来る思考の全てだった。

 その次の手には都合三日を要した。夏休み開始から三日後のことである。

 ヴァイオリンケースを持った遙佳を引き連れて、町の楽器屋を片っ端から訪問して回った。なくした部品を見つけることが厳しいとわかったので、ならばと、同じ物を用意してもらおうという考えである。

 乙川がいうには、遙佳のヴァイオリンは古い型な上に使い込んでいるため、合うものを作るのは相当困難であるらしい。しかし決して不可能とはいっておらず、それならやってみる価値はあるだろう。

 半日が過ぎた頃になって、印刷してきた用紙に一つ斜線を加える。既にこの周辺の楽器屋は回り尽くした。結果はどこも芳しくなかったが。そもそもこの小さな町の楽器屋なんてのはそれほど規模の大きいところではない。歴史も浅ければ幅も狭いのだ。

「大丈夫か遙佳?」

「うん、大丈夫」

「ヴァイオリン、俺が持とうか?」

「だから、大丈夫だってば」

 体を回して、背中に担ぐ形のヴァイオリンを庇う。俺だって無理にとはいわない。体面上いっておかないと気分がよくなかったのだ。しかし強がってみても遙佳の疲労はかなりのものだろう。体力はある方だが、炎天下に荷物を背負って歩き回れば普通の女子はへばる。虚勢でも上出来だ。

 辺りが暗くなる時間に帰宅の電車を捕まえ、隣の席で遙佳は寝息を立てていた。いわんこっちゃない。ヴァイオリンケースを抱き締めるように小さな顔を乗せて目を閉じていた。俺はポケットから楽器店リストを取り出して目を通す。三分の二は今日で潰れた。期待していなかったとはいえこれは少し堪える。……遠くなるだろうけど、次は専門店にでも出向いてみよう。乙川ならコネでも持っていそうだ。

 電車に揺られ、最寄り駅に到着する。起こすのも悪いから、遙佳はおぶることにした。結局そのまま家まで送っていく形になる。遙佳を送り届けて、入れ替わりに夏佳が飛び出してきた。

「楽器屋さん回ってたんでしょ。お姉ちゃんのヴァイオリンの部品探して」

「まあな」

 お陰様で三日返上だよこっちは。

「……お兄ちゃんさ、自分が無駄なことしてるって、気付いてないわけないよね?」

 冷ややかな笑顔で詰め寄って、とすん、と倒れるように――見方によっては抱き付くような体勢になる。戸惑いながら俺は、

「なにがいいたいんだよ、夏佳」

「無駄だって、だから。部品云々は言い訳だよ。ただお兄ちゃんに引き止めて欲しいだけなんだよ、お姉ちゃん。行くなって、言って欲しいんだ。――なくしてないよ、部品。自分で持ってるもん」

 あっけらかんと夏佳がいって、沈黙が漂う。

「大切なヴァイオリンを蔑ろにして、それでも。素直になればいいだけなのにね」

 継ぐ言葉を、俺も夏佳も口にしない。鉛の空気は重なって厚みを増していくばかりである。静寂は終わらず、気不味さだけが停滞した。やがて、

「いいけど。あたしとしてはラッキーだし」

 おどけた風に夏佳が笑う。

「まだ探すの?」

「探すよ、それでも。時間があるなら目一杯使って」

「……あたしが嘘いってると思うから?」

 それが。

 そのことが。

「嘘なら助かるんだけどな」

「え?」

 苦笑している。自分でもわかる。そうだ、そんなこと――わかっているんだ本当は。自分が臆病だからこうして逃げようとしていることも知ってる。今が心地いいから壊したくないと思ってることも全部。俺は夏佳を引き剥がした。

「……呆れた。本物のバカなんだ、お兄ちゃん」

「かもな。でもいいよ。決めたんだ、あいつの夢を応援する、て」

「お姉ちゃんがそれより別の物を優先しても?」

 夏佳の質問に、言葉では返答しなかった。ただこれまでの自分に嘘がなかったと、それだけの意思を籠めた視線で返す。呆れた。今度は夏佳の目がそれをいう。なんだかもう口に出すのも億劫に感じているみたいだ。

「わかりました! 一生バカやってろこのバカ! あたしはもう知らないんだからね!」

 怒声を挙げて憤然と振り返る。家に入る一瞬前に一瞥をくれて、それが最後になった。轟音が鳴って扉が閉まり、きっと夏佳はあの内側で鼻を鳴らしているだろうとか取り残された俺はぼんやりと思う。

 勝手にするさ、最後まで。でも、それでいいのか。そう思って一度振り返り――二階の、遙佳の部屋のカーテンが閉まるのを俺は見た。



 どうするべきかわからなくて、楽器屋巡りは一時中断していた。遙佳とも夏佳とも会っていない。空白だけが積もってどんどん拗れていった。何をしているんだろうか。そんな迷いがあったから、俺はいつものようにその場所を訪れた。

 その日、その場所で、彼女の音を聴いたのはきっと偶然じゃなかったと思う。

 なにかあれば、迷いがあればこの場所に――それは昔から俺達に共通する習慣だったのだから。

 黄色い景色に溺れる音を聴いた。

 空の青に透き通るように涼やかな音色に気付く。どこからともなく流れてくるそれはヴァイオリンの音だった。それも――誰が聴き違えても俺だけは間違えない。何年も傍にあって響いていたそのメロディーは――遙佳の奏でるヴァイオリンの音だ。

 自然、歩調が早まった。思い出に追い付くように駆け出して懐かしい夢を見る。背の高い黄色い花の海を駆け抜ける小さな三つの背中を追い掛けた。転びそうなくらい全力で、どこまでも無邪気に跳ねるいつかの三人を追う。その先に、遙佳がいた。

 音がぴたりと止む。足の早い風が過ぎて黄色い海を揺らす。歓声に似たざわつきに埋もれて、遙佳は小さく口を開いた。

「わたしね、留学することに決めたよ」

「ヴァイオリンはもういいのかよ。大事なものなんだろ?」

「いい、もう」

 音が止んだ――そもそも音はなかった。遙佳はヴァイオリンを手に持って立っていただけなのだから。だって遙佳のヴァイオリンには魂柱がない。演奏なんてありえないんだ。俺が聴いていたのは記憶にある過去の旋律で、それも今はない。よく覚えていないんだ。こんなに近くにあった音なのに。

「ごめんね、わたしの我が侭で振り回して」

 首に提げたロケットを握る。愛しそうにそれを眺める横顔に胸騒ぎがした。姉妹がいつも提げているロケット。彼女の大切な、その中には今、なにが入っているのだろうか。不安の正体はその予感だった。

 遙佳は、それを首から外して、

「もう一つ謝らないと、嘘、ついててごめんね」

 止める間もない。振り返った泣きそうな笑顔が金色に煌くロケットを見詰め、そして。

「全部、忘れて。……あなたには夏佳がいるし。わたしも、一人で大丈夫だから――」

 遠くの、落日に届けとばかりに放り投げた。

 風が吹く。夕陽を浴びて一層輝きを増したペンダントは風に煽られるように、まるで空に溺れるみたいに遠く彷徨い、金色の海の中へと消えて行った。

「おまえ……もしかしてあの中に」

 いや、それ以前に。

「……あのペンダントも、大切なものじゃなかったのかよ」

 ヴァイオリンと同じ、二人の母親が姉妹に預けた家族の繋がりがあのペンダントだったはずなのに。まるでなんでもないガラクタのように投げ捨てた。

 いや違う。

 俺は見ていた。それを投げる直前の遙佳の顔を。苦渋に歪んで、強がりも失せた泣きそうな顔を確かに見ている。知らず呟くように訊いていた。

「なんで、そこまでするんだよ」

「……」

「なあ、遙佳」

 口調は自然強くなる。

 冷たい雫が頬に落ちた。先刻まで真っ赤に燃えていた空を今は曇天が覆う。夕立が近い。

 暗くなり始める景色。絢爛だった向日葵の群れは太陽を見失って項垂れているみたいに見えた。

「……怖かったんだ、わたしは」

 ぽつり、落ちる雨粒みたいな声がする。

「あなたが夏佳と仲良くしてるのを見て、自分がいない間に――わたしが、一人になるんじゃないかって怖かった。勝手だよね。妹なのに、幼馴染なのに。でも迷ってた。留学したら、帰ってきたときにわたしの居場所がないんじゃないかって」

 それは先日、夏佳にいわれたこととよく似ていた。

「……ごめんね。本当に、ごめんね」

 雨が降り始めていたから遙佳の頬に流れる雫が果たして涙か雨かわからなかった。あるいはわかろうとしなかったのかもしれない。それをわかってしまえば、耐え切れなくなってしまいそうだったからわからないようにした。

 覚束ない足取りは彷徨うようで、そんな歩調の遙佳が歩み寄ってくる。

 まるで迷子みたいだ、と他人事みたいな思考が浮かんだ。

「ごめんね……ぜんぶ、終わりだから」

「遙佳!」


 振り返ったその顔を――きっと、永遠に忘れないだろう。

 泣きながらぎこちなく笑った少女の顔を。


「絶対、見つけるからな! 捨てさせないからな!」


 なんで、素直に。

 いかないでくれ、っていえなかったんだろう。 



 遙佳がいなくなった後、壊れた機械みたいに向日葵の海でペンダントを探した。

 彼女が投げ捨てたものを探してもう一時間くらいが経つ。雨は焦らすような小雨が少量降るばかりでまだ本降りにはなっていない。夕立というにはあまりにお粗末だ。

 風は強く、ペンダントは軽い。最初の落下地点から距離は開いているだろう。目で追えた場所からその周辺を重点的に探す。膝を突いて、視線を下げて。昔だったらもっと探しやすかっただろうな。こんな腰が痛くなることもないし。

 ……見た目だけは、子供の頃みたいだ。こんなどろどろになったのは随分久し振りに思う。

 向日葵の茎を掻き分けて、ふと自分は何をしているのかと疑問が浮かんだ。だって遙佳はもういいといっていたのに、俺がこんなことをしている意味がない。むしろ余計なお世話なんじゃないだろうか。こんなことを続けても遙佳に負い目を作るだけだ。

 冷たい雫に頬を打たれた。勢いを増した雨が折れかけた心に叱咤する。

 こうしている自分が馬鹿だということはわかっていた。それでも止められないのは俺が――

「……ほんっとに、バカ。もう、言葉も出ない」

「俺も、我ながらそう思うよ」

 唐突なその罵倒に軽口を返す。少なくともそれくらいの空元気は残っているらしかった。

 焦げ茶色の土から目を離して灰色の空を見上げる。汗と雨でシャツが張り付くのが気持ち悪い。

 ちらりと窺った夏佳は透明のビニール傘を差していた。部活帰りなのだろう、制服を着ているし鞄を肩から提げている。家に帰ったら遙佳の様子が可笑しくて、勘のいい夏佳のことだから察してここにきたのだろう。

「なんでそうまでするの。もう意味なんてないってわかってるんでしょ」

「わかってるよ。だからこれは俺が勝手にしてることだ」

「意味わかんない。もういいじゃん、お姉ちゃんが自分で捨てたんだし」

「俺が、なくしたくないんだよ」

 そうだ。なくしたくない。

 遙佳の夢を応援したいとか、それだけじゃなかった。俺は夢を語る遙佳が、その遙佳が奏でる音が好きだったからここに置き去りにして欲しくない。そんな自分勝手の為に、こんな意味のないことを繰り返しているんだろう。

「バカ。バカバカバカ。……バカだよ、お兄ちゃんもお姉ちゃんも、あたしも」

 ぴしゃりと音がして、その方向を見ると夏佳もしゃがみ込んでいた。傘を放り出して、膝が汚れるのも気に留めず、俺と同じ視点になって辺りを見渡している。

「あたしだって……お兄ちゃんのこと、好きなのにな」

「……ごめんな夏佳」

 手探りで入り組んだ茎の奥に手を伸ばす。夏佳とは顔を合わせなかった。どんな顔すればいいのかわからない。だからひたすらに自分の作業に没頭し、ペンダントを探した。

「謝らないで」

 指先に冷たい感覚。まだ少し遠い。

 肩を捻じ込んで、頬を地面に押し付けて背筋を伸ばす。届くか? ……届くさ、絶対に。

 掌に小さな何かを握り込む。その手を引き戻し、中身を確認するのと夏佳の声が重なった。

「そんなお兄ちゃんを、あたしも好きになったんだから」

 指を開く。泥塗れの手の中に光るロケット。年月を経て褪せた金色の塗装。

 それは紛れもなく、彼女と夢を繋ぐ鍵だった。小さな小さな宝箱がそこにある。

 扉を開いて、中にある写真を見た。姉妹と母親の幸せそうな笑顔を背景に――なくした夢の欠片が、探し求めた木片、ヴァイオリンの魂がそこにあった。

「ああ……ありがとう、夏佳」

 全身から力が抜けていく。脱力と共に項垂れて、濡れた大地に体を沈める。

 見上げた視界を透明の傘が覆う。夏佳の濡れた笑顔に力なく微笑みを返した。

 それはいつかの少女を真似た強がりだった。



 /5



 あれから二週間が過ぎた。

 見つけた部品は夏佳から遙佳に渡してもらい、ヴァイオリンは修理に出されたという。夏佳と直接会ったのはそれが最後になる。遙佳とは、あの日以来顔を会わせていない。学校にも行っていないし、どこかに遊びに行くこともなかったので当然だ。

 だから遙佳の声を聞くのもこれが丸二週間振りである。

 教室に入ると第一声、遙佳の不機嫌そうな声が俺を咎めた。

「遅い。わたし、三十分も待った」

「……いや、集合は六時だって」

「そんなの知らない。時間指定までして、あんたの為に弾くんだから自分は先にくるのが当然でしょ、ばか」

 まるで今まで口を利いていなかった相手とは思えない。それくらいにいつもの調子で遙佳はぷんすか小言を撒き散らす。二週間前のことはもう気にしていないのだろうか。

 こうなるに至る経緯は全てのごたごたが起こる前日のあの手紙に遡る。遙佳が日本を去る前に最後、この場所で予定した特別コンサートへの誘いに僅かな期待を込めてやってきたのだ。そうしてこの再会がある。

 意外なことに夏佳はきていなかった。

「よく……これたわね。あんなこと、あったのに」

「お互い様だろ。おまえだってきてくれたんだ」

 適当に近くにあった椅子を引き寄せる。

 遙佳がケースから取り出したヴァイオリンを構えた。

「……なにかが変わればいいと思ってた。でも、あなたは変わらないことを望んでた。だから――」

 すぅ、と遙佳の瞳から色が褪せていく。沈む眼光が、彼女と世界を隔てるように。

「わたしは、全部捨てようと思った。大切なものだから」

 遙佳が大切にしていたもの――綺麗だと信じたものと同じ物を俺も持っていた。

 今もまだここには夏の残滓がある。それが本当に綺麗なもので大切なものだから、

「わたしは……色褪せる前に捨てようと思った」

 俺は首を振って、呟くように口にする。

「……俺は、綺麗なまま信じ続けようって決めたんだ」

 二人の声は違っていた。

 想い出は消えていく。忘却に色褪せ、価値がなくなると信じた遙佳と俺の思いは異なる。

 だからこれは、このコンサートは最後の問答だ。

 遙佳が鼻を鳴らして、息を吸い込んだ。

「ふんだ。……それじゃあ、始めるわよ」

 ゆっくりと遙佳が目を閉じて、どこか室内の空気が張るのを感じる。指揮者不在の為、演奏の開始は奏者の呼吸に刻まれる。無限に感じるほどの空白を無呼吸で待ち、弓の先が静かに弦に触れた。

 彼女の音が世界を渡る。

 地平線の彼方からやって来る。世界の果てに消えるような透明で、けれど確かな厚みを持つメロディーの波が揺らす。序奏は大人しく控え目でありながら、こちらの心の隙間に滑り込んで意識を鷲掴みにする。嫌でも鼓膜はその音を拾った。

 目を閉じているみたいな心地だ。体が余計な機能を停止させて音を集積している。だから目は見えていても意味がない。捉えた景色はヴァイオリンを持つ遙佳の姿のはずなのに、見えているのは五線譜に踊る無数の音符だった。強制的に意識の全部が演奏に引き釣り込まれている。

 大切な物を捨てて――旋律に乗って声がする――全部置いていこうとした。

 今のままなら壊れないから。

 全部――あなたが悪い。

 風が吹き抜けるような序奏。後に連なる震撼を思わせる中盤の演奏に拳が力を籠める。心臓が早鐘を打ち始めた。加速していくメロディーに置き去りにされる。彼女の演奏が訴える悲痛を間違いだと、否定する俺を嘲笑って五線譜のサーキットをラップを上げながら走り抜けていく。穏やかに軽く閉じられた瞼、流れるように動く弓、全てが連動して音を紡ぎ出す。

 なのにあなたは何も気付かないふりをした。

 夢を応援すると、的外れを繰り返した。

 だから私は。

 ――変わらない今を、壊れる前に永遠にして遠くに行くことを決めた。

 音から遙佳の想いが聴こえる。価値観を摩擦させる演奏を介した問答は、けれど成立しなかった。俺は遙佳の何一つを否定できない。圧倒的な演奏に魅せられていた。うっかり自分が持ち続けた想いを放棄してしまいそうなくらいに。

 駆け上がる曲調が激しさを持っていく。

 昂る鼓動は熱を帯びる。徐々に高音へと移っていく演奏に置いていかれまいとしていた。旋律の背中を見失わないように追いかけた。思えばこんなにも真剣に遙佳の演奏を聴いたのは初めてだ。だっていつも隣にあったから、なくなるなんて思っていなかった。

 音が弾む。

 心臓が跳ね上がった。

 五線譜を縦横無尽に駆け回る振幅に全身を包まれていた。ただ演奏を聴いているだけで自分の全てを打ちのめされている気分になる。それだけ遙佳の奏でる旋律は圧倒的で、そこにある想いは純粋だった。夢も要らない。想い出も要らない。変わらない未来なんて欲しくない。なんでわかってくれないの? 私が欲しいのは――。……敵わない。差は開いていくばかりだ。音を聴いて否定すればいいだけなのに。

 どうして。

 こんなにも悲しくて胸の奥が熱い。

 想い出を抉られて泣き出したくなる。

 ついていけない。追いつけない。絶望の中で膝を曲げた。

 もう彼女はどこにもいない。ここは冷たい終わりの闇。

 その中で。

“汚ねえ音”

 そんな声を聞いた気がした。

 気付けばそこは黄金の日差しの中、蝉の声や風の音が騒がしい夏の向日葵畑だった。

 懐かしい、夏の夢だ。

“でも”

 かつて遙佳の演奏を聴いた感想を思い出す。背丈に合わないヴァイオリンを支えるだけで手一杯だった遙佳の姿は奏者とはいえず、ただそんな存在に憧れた一人の少女でしかなかった。当然演奏なんて呼べることはできやしない。雑然と弦を弾き、時にたどたどしく、時に激しく、時に柔らかく――そうして紡がれる幾千は点でばらばらの旋律だった。

 けれどその音は、


“俺の、大好きな音だ”


 偽りのない心でそう答えた。

 そして少女は笑う。心から、拙い演奏に送られた称賛を噛み締めるように、夏の日差しよりも眩しい無垢な笑顔を満面に湛えて、


“わたし、世界一の音楽家になりたい!”

 その夢を、高く遠く青い空に放った。


 ――ぁ…………あ――嗚呼。

 そうだったんだ。ずっと忘れていたのはこれだったんだ。

 演奏がクライマックスに入る。

 弓が虚空に踊り、音が螺旋を描いて舞い上がる。世界が揺れていた。

 全てが共振してオーケストラを生み出す。共鳴する破壊圧の前で俺の声など届かない。遙佳はずっと遠くにいる。勝敗は既に決していた。俺はこの時点で脚を止め、膝を屈していたのだから。

 澄んだヴァイオリンの独奏に連なる幾つもの音色が夢を語る。

「……だったんだ」

 呟きが漏れた。

 敵わない。――そう、知っていても。

 鼓動は狂ったように跳ね回って熱を帯び、血液は蒸発しそうなくらいに熱い。何度否定され、引き離されても、それでも嗚咽を吐きながら追い縋ったのは何の為に。黙っていては追いつけない。立ち止まるには余りにも、俺は、まだなにもしていない。

「好きだったんだ、この音が」

 声を出して、先を行く彼女に追い縋る。

 ずっと昔からそうだった。

 だから遙佳の夢を応援しようとか、そんなのは全部言い訳に過ぎない。夏佳の言う通り俺は最後まで自分勝手だ。この旋律を忘れたくない。だから必死になっていた。

 少しだけ、音がずれてきた気がする。

「ずっといっしょにいたいよ。俺だって、引き止めたかったよ……ッ」

 でも駄目なんだと誰かが叫ぶ。その夢を邪魔しては、ならないんだと。

 だって俺は、ずっと、夢を語る遙佳の笑顔が好きだったから。その笑顔もこの音も大好きだから失いたくない。願いと想いは相克する。二つは交わらず、そして互いに壊れ合う。失いたくないと願うから、想いに反して彼女の背中を押した。

 今からでは遅いのだろうか。

 矛盾していてもいい、壊れるくらいの想いを声にして。

 なんで、もっと早く素直にならなかったのだろう。

 もっと早く叫ばなかったのだろう。

 遙佳は何度もその機会をくれていたのに。

 わかってる。もう意味がないことなんだって。遅すぎたんだって。

 それでも言わなくちゃ――俺はあの日から、ずっと――――


「俺だって、おまえが好きなんだよ!」


 堪えることなんてできなくて、気付けば叫んでいた。

 椅子から腰を上げ、駆け出しそうになる脚を制する。飛び出してはいけない。まだ演奏の途中だ。旋律の波は二人を別つ境界。手は届かなくても、だけど声は届く。その声で、彼女の背中を追いかける。

 押し寄せる彼女の声と向き合う。

 目を逸らしていたから否定できなかった。

 始まる前から負けていた。でも今は違う。今だけは、自分に素直になって。

「全部好きだよ! 強がりも、泣いてる顔も、笑ってる顔も、この音も何もかも――!」

 遙佳は。

 閉じた瞳から一筋、涙を流していた。それでも演奏は止まらない。終盤に至りいよいよ纏まりのなくなった音は、普段の遙佳の演奏とは程遠いまるで素人のそれだった。

 旋律が巻き起こす風に呼応する。駆け上がる音階。五線譜が廻る。世界を満たす音符が爆発した。いつかの日に帰るように、願いも想いも巻き込んで。それは、結末へ向う演奏の開始した最後の疾走。

「誰よりも、俺はおまえが好きだよ! ずっとあの日から、俺はおまえが好きだった!」

 嗚咽を喉の奥に押し込んで、だからしゃくり上げるみたいに顎が震えている。遙佳はあくまで表情を変えずに演奏を続けた。その姿がいつかの夏の日にいた強がりな少女を思い出させる。

「だから――待ってるから安心しろ……!」

 閉じていく音に鼓動を合わせて。

 想い出に駆ける三人の背中を追って。

 忘れないように、声が枯れるくらいに叫んだ。その、いつかの想い。俺は、ずっと――


 黄金の夏の海。

 青い空に声を高らかに。

 夢に向って走る彼女の背中を一生見失わないよう、追い続けると誓った。


「――おまえが夢を叶えるまでずっと、俺はおまえのことが好きだから!」


 長い音引きが始まった。最高地点まで延び上がった旋律が緩やかに下降していく。飛行機雲みたいに果てしない音の線に情景が滲む。忘れかけていた夏の日を忘れないよう、強く胸に仕舞い込んだ。

 がたんと音がした。それが椅子の倒れた音だと気付いた時、体はもう駆け出していてヴァイオリンごと遙佳を抱き締めていた。腕の中に漏れる嗚咽を聴く。互いの息が掛かるほどの距離に彼女を感じる。小さな肩は震えていた。

「約束だよ……ぜったいだからね」

「約束する、絶対だ」

「じゃあ、わたしも、わたしも好きでいるから……ぜったい好きでいつづけるから……!」

 強く引き寄せる。

 少しして、力を緩めると僅かに後退した遙佳の表情が覗いた。

「最後に聞かせて……どうだった、わたしの演奏」

 涙を溜めた目で問われ、俺はその質問に答える。

 言葉は決まっていた。

 忘れないように、もう失くさないように。

 そこで俺は、十年振りに遙佳の――夢の中の夏にある笑顔を見たのだった。



 /epilogue



「おまえだろ、これ書いたの」

 フェンスに腕を乗せて、指に挟んだ用紙を隣でパック牛乳を吸い上げている夏佳に見せた。それは今から二ヶ月くらい前の夏の日にふと現れた『招待状』である。

「ん? なんのことかな」

 昼休みの屋上(もちろん立ち入り禁止だ)にはグランドからの声だけが響いていた。夏佳はおどける風に惚けてみせるがそうはさせない。ねたは上がっている。逃がしてなるものか。

 俺は封筒を持ち上げ夏佳の目の前でそこに書かれたアルファベットを指でなぞった。

「『introduce』は招待するじゃなくて、紹介するだろ」

 しかも動詞のままだから物凄く間抜けな感じになっている。遙佳自身が書いたならこんな間違いはないはずだ。後、演目がヴァイオリンなら普通は『ライヴ』なんて言葉は使わない。手紙は俺が居眠りしている間に忍ばせていて、遙佳にも……たぶん似たような手口を使ったのだろう。

「敵に塩を贈ったんだよ。あたしがお兄ちゃんをとっちゃってもいいようにっ」

 かばっと腕に抱きついてくる夏佳をバックステップで回避すると、軽い落下音の後に短い悲鳴が聞こえた。以下、小言遮断モードに意識を切り換える。

「もう……なんだかな! あたし、諦めないからね! ぜったいだから! あたしだって一生お兄ちゃんが好きだもん!」

 ぽかぽか叩いてくる。地味に痛い。制裁を加えるべく伸ばした俺の腕は軽やかな身のこなしによりかわされる。本当に、なにもかもが移り変わっても、こいつはずっとこのまんまなんだろうな。呆れたのか安心したのか、小さく息を吐いた。

 ほら、おまえの好きな日常は、ここにあるよ。

 夏佳が飛行機雲を指で追いかける。白線の先、青い空の下に続く地平線の向こうには今もきっとあの音を奏でる彼女がいる。

 こうして日々は過ぎていく。彼女の夢が叶うまで後どれくらいだろう。まあ、今は気長に待っていればいい。どんなに時間が経っても色褪せない大切なものを俺は見付けたのだから。

 待っていよう。

 大好きな彼女の音が帰ってくるその日まで。


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