いつか忘れてしまうなら、それは今
桜混じりの雨。
桜が散っている時に雨が降ったのか、それとも雨が降ったから桜が散ったのか。
どっちなのかな。
大粒の雨に混じって舞い落ちてきた花びらが、白い車のボディーに張り付く。
無音の車内は、ワイパーの機械音が大きく響いていて、無機質な車内と舞い落ちる桜がなんだかアンバランスだ。
「なんで晴れないかなぁ」
独り言を言う。
長い時間運転して、桜を見に来たのに。
平日で、しかも雨が降っているせいか歩いている人は思ったよりも少ない。
大通りから、細い路地に入った。
しばらく緩やかな上り坂の住宅街を進むと、突き当たりに神社の参道がある。
大通りとは違い、ここは誰もいない。
近くの駐車場に停めて、後部座席に置いておいた折りたたみ傘を広げる。
真っ赤な傘が視界を緩やかに遮った。
本当は晴れた日に来たかったけど、仕方がない。
空を見上げて大きく息を吸い、それから階段を登る。
平日の雨混じりの神社の参道には誰もいない。
ここに来たのは一年前の同じ日だったけど、あの時は晴れていたし、それから隣には彼がいた。
涙が溢れそうになるけれど、ぐっと堪えてこの先の神社を目指す。
わざわざ3時間かけてここまで運転してきたのは、彼との思い出を全部忘れるため。
ここが最終目的地だ。
一年前の記憶が鮮明すぎて消えない。
あの日は急な階段を登り切り、苔むした鳥居の下に立った。そして、振り返ると街が一望できたのだ。
笑い合った声も耳の奥に残っている。
幸せだった時は、沢山の人の話し声も街の雑踏も、全部楽しい音だったはずなのに。
今は違う。
すべてが自分の存在を認識してくれてないかのように、簡単に通り過ぎてしまっている。
自分という存在が、他の人からは景色の一部でしかなく、人として認識されていないような。
透明になったというより、空気より軽い何かなったような気がして、ここにいるという感覚がない。
何を見ても何を食べても、曖昧な日常の1日でしかなく、日々の記憶として残らないふわりとした何かの中に身を置いているようだ。
急な階段を登り切り、呼吸を整えて振り返る。
天気が悪くてあまり街が見えない。
去年とは全く違う。
運が悪いのは今に始まったことじゃないわ。
苦笑いをして、ポケットから携帯を出し耳に当てる。
それから目を閉じて、彼の顔を思い浮かべた。
「もしもし?私。今、あの神社にいるの。元気?」
発信番号を押さずに、電話をしているフリをする。
ここは絶対に知り合いに会わない場所。
安全圏だ。
だから、電話をしているフリなんていうバカな遊びもできる。
「今は、新しい部署にも慣れたし、1人で運転する事にも慣れたの。…新しい彼はまだできていないわ」
1人で会話を続ける。
誰にも繋がっていない電話は無音だけど、頭の中で彼の声が再生される。
『他に好きな人ができたから。ごめん』
その声に答える。
「薄々気がついていたよ。自分を悪者にして、私から別れを切り出させるという最低最悪な事をしなかった分だけユルす」
『別れよう』
俺が悪いとか、言われなくてよかった。
アナタが悪いとも言わなくてよかった。
どっちも悪くない。
今ならわかる。
初めからちょっと違った価値観と。
初めからちょっとズレていた好みと。
それを見ないふりして突き進んだから、離れてしまった。
どこかで、2人で折り合いをつけることもできたのに。
それをしなかったから。
「未練が残ったのは私だけなのよね?アナタの影を引きずっていたのは私だけなのよね?わかった。私に気持ちがないのはよくわかったわ。バイバイ」
別れを告げられた時の私と、あの時のアナタの顔と。
今なら全てに決別できる気がする。
すぐに悩む私、ちょっと神経質な私、彼を今でも好きな私。
全て捨ててしまおう。
携帯をポケットに仕舞うと、落ちてくる雨音を聞いて、空を眺めた後、傘を閉じた。
少し強くなる雨は髪を濡らし、コートを濡らすけれど気にしない。
ゆっくりと階段を下り車まで戻ると、白い車が桜の花びらでピンク色に染まっていた。
駐車場は桜の木の下だったからだわ。
ちょっと神経質な以前の私なら、花びらが張り付くことを気にしたけれど、今の私は気にしない。
雨で濡れる事も好きじゃないけど、それも新しい私。
まあいいか。
これも新しい自分の始まり。
車に乗ろうとした時だった。
「お姉さん、そのままじゃ風邪ひくよ?」
声の方を見ると、駐車場側の地元の美容院から高齢のマダムが顔を覗かせている。
鮮やかなオレンジ色の髪と、大ぶりのピアスがよく似合うけれど、古い街並みの住宅街には似合わない存在感のあるマダムだった。
「今、お客さんおらんから」
そう言って手招きするので、好奇心でお店に向かう。
ドアをくぐると、昭和にタイムスリップしたかのような空間が広がっていた。
オレンジの髪に鮮やかなブルーのワンピースを着た高齢のマダムがここの店主なのに、空間とマッチしていない。
綺麗に引かれたアイライナーと、綺麗にカールしたまつ毛で、化粧品売り場からやってきたかのような完璧なメイクもまた、昭和感あふれる店内とは対照的だ。
「コートを脱いで?ハンガーにかけておくから」
そう言ってマダムがタオルを出してくれた。
マダムは窓際に置いた1人がけの使い込んだソファーに座り、私にも座るように促す。
横にあるガラスのテーブルには、女性向けの週刊誌が積んであり、その奥にはポットと湯呑みが並べられている。
きっと常連のお客さん達はここでお茶を飲んで帰るのだろう。
湯呑は形もサイズもバラバラだ。
「アンタ、行く時は傘さしてたのに、なんで閉じて降りてきたの?」
「なんとなく雨に濡れたくて。見てたんですか?」
マダムは笑いながら頷いた。
「ここから参道がよく見えるのよ。まだ4月の雨は冷たいから、気をつけないと」
湯呑みを手に取ると、ポットからお茶を注いでくれて私の目の前に置いた。
「ありがとうございます。あの、不躾なお願いなんですけど、髪を切ってもらえますか?」
いつものサロンとは違う手作りのお店。
古めかしいドライヤーや、見たことのない重厚なカット用の椅子に興味を惹かれて思わず言ってしまった。
「私、いつもはお婆さんの髪しか切らないのよ?ほら、私もお婆さんだから。若い人は若い美容師に切ってもらった方がいいんじゃない?」
「いえ。ここでお姉さんに切ってもらいたいんです」
「本当に?希望と違うって文句言われても、切ったら戻せないよ?」
脅すような声を出して、オレンジ色の自らの髪を指差し、怖い顔をして見せる。
綺麗にメイクされた顔からは怖さなんてない。
「いいんです。お願いします」
初めて入る美容室で初めてショートカットに挑戦する。
失敗したら、その時考えよう。
そう思えたのは、全てを捨てると決めた今日だからかもしれない。
「本当に?」
「本当です」
長い髪が好きな自分とお別れ。
きっとどこかで幸せに暮らしているであろう彼の事を考える自分ともお別れ。
思い出に浸る自分ともお別れ。
感傷に浸る自分ともお別れ。
思い出は塗り替えて行くものなのよね。
この神社に来た思い出は、マダムと出会った思い出に塗り替える。
「色も変えてください」
「アンタ、OLさんでしょ?いいの?」
久々に聞く、OLという言葉に笑顔になる。
「オフィスカジュアルな会社なんで、ライトブラウンまでは大丈夫なんです」
「そうなの?でも、色はやめとこう。ここは白髪染めしか置いてないからね。で、どんな髪型にするの?口で言われてもわかんないから」
マダムは週刊誌を持ってきた。
「この中の誰風の髪型にするか教えて、って。あら、やっぱり若い子みんな髪長いじゃない」
アイドルのスキャンダルが報じられたページを見て、私を見る。
カラーページのその記事は、アイドルグループの集合写真と、スキャンダルを起こした本人のアップの写真が出ていた。
アイドルにショートカットはなかなかいないと思うけど、とは言わない。
「やっぱり、胸まである髪が流行りなのよ。アンタの長さでちょうどじゃない!」
髪を切りたがらない美容師もなんだか面白い。
もしかして、久しぶりに。
本当に久しぶりに面白いと感じているのかもしれない。
「髪よりもさ、その濡れてヨレたメイク直して行く?メイク直しの化粧品くらい持ってるでしょ?」
目の前に大容量のメイク落としジェルを置かれる。
「お肌のお手入れだけは得意なのよ」
さっき初めて会ったとは思えないくらい話しやすい気さくなマダムは、勝ち誇ったような顔をする。
「メイク直してもらえますか?」
「アンタがするのよ。若い子のメイクはわかんないから」
「お姉さんのメイク、凄く綺麗だからメイクもお願いしたいです」
「成人式の着物の時しか若い子にメイクしないのよ?それでもいいの?」
「はい。髪はお姉さんくらいの長さにしてください」
「私くらい?ってことは肩までね。アンタも頑固だね?わかったわかった」
髪を切りたがらず、メイクもしたがらないマダムが面白い。
そして一時間後、髪も心も軽くなって、お店を後にする。
白い車は更にピンク色になっていた。
新しい私は、携帯のアプリを開き、一番初めに出てきた音楽をかける。
変えられないものもある。
住むところも変えられないし、仕事だって変えられない。
でも、選択は変えられるし、行きつけのお店だって変えられる。
これが新しい自分。
彼との思い出をいつか忘れるだろうけど、忘れるなら早い方がいい。
マダムと出会えて、新しく思い出を塗り替えて。
他の思い出も塗り替えていこう。
捨てる事は簡単じゃないけど、手放す努力は必要。




