第1話 空の向こう側
八月の終わり、電子レンジの回る音だけが、藤枝優翔の部屋に響いていた。
両親はまだ帰ってこない。いつものことだ。
テーブルには、母の丸い字で「夕飯は冷蔵庫にあります」とだけ書かれたメモ。
温めたハンバーグを口に運びながら、優翔はリモコンを手に取った。
特に見たい番組があるわけじゃない。
ただ、静けさを埋めるために、何か音が欲しかった。
チャンネルを変えた瞬間、画面いっぱいに広がる琵琶湖の青が目に飛び込んできた。
――鳥人間コンテスト。
有名な番組だ。
毎年なんとなく目にしてきた。
でも、今年はなぜか、指が止まった。
画面の中では、巨大な翼を持つ機体が、風を待っている。
チームのメンバーが機体を支え、パイロットが深く息を吸う。
観客のざわめきが遠くに揺れている。
機体がゆっくりと動き出す。
パイロットの足が地面を蹴り、翼が風を掴む。
ふっと、重さが消えたように機体が浮き上がる。
その瞬間、優翔の胸の奥が熱くなった。
飛んだ。
人が、自分の力で空を飛んだ。
画面の中のパイロットは、風を切りながら静かに前を見つめている。
その表情は恐怖でも興奮でもなく、ただ“まっすぐ”だった。
優翔は息をするのを忘れていた。
「……飛びたい」
気づいたら、そうつぶやいていた。
初めて見たわけじゃない。
でも、今年の映像は胸の奥にまっすぐ刺さった。
理由はわからない。
ただ、心が勝手に反応した。
番組は続く。
チームが抱き合って泣いている。
失敗して悔しがる姿も映る。
夜通しで機体を作った話、仲間との衝突、最後の挑戦。
優翔は、画面の中の彼らが羨ましかった。
自分には、あんなふうに本気で何かを語り合う仲間はいない。
友達はいるけれど、昼休みにゲームの話をする程度だ。
深い話なんてしたことがない。
でも、それよりも――
「俺も、あれをやってみたい」
その思いの方が強かった。
番組が終わる頃には、優翔の心は決まっていた。
理由なんていらない。
ただ、飛びたい。
それだけで十分だった。
翌日。
夏休み明けの学校は、湿った空気と蝉の声に包まれていた。
数学の授業中、優翔はふと窓の外を見た。
白い雲がゆっくりと流れていく。
その向こうに、昨日の映像が重なる。
「藤枝、聞いてるか」
先生の声に、優翔は慌てて前を向いた。
クラスの何人かが笑う。
優翔も苦笑いで返す。
でも、心はまだ空の方に残っていた。
放課後、友達と別れたあと、ひとりで帰る道。
空は夕焼けに染まり始めていた。
優翔は立ち止まり、そっと空を見上げた。
風の流れが、胸の奥をかすかに揺らす。
「……やってみよう」
誰にも聞こえない声でつぶやく。
その瞬間、胸の奥で何かが静かに灯った。
まだ何も知らない。
紙飛行機すらまともに飛ばせない。
仲間もいないし、相談できる相手もいない。
東京では飛ばす場所すらない。
それでも――
飛びたい。
その思いだけが、確かにそこにあった。
優翔は、ポケットの中でスマホを握りしめた。
「まずは……紙飛行機から、だな」
小さく笑って、歩き出す。
こうして、藤枝優翔の“空を目指す物語”が始まった。




