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男装の乙女は海神の子を宿して  作者: 宇津木 しろ


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第6話 玄道

 美雪の心には、いつも澄海がいた。

 夫としてそれを知ったとき、玄道の胸を焼いたのは愛ではなく――嫉妬だった。


 どれほどの言葉を尽くしても、どれほどの仕草を見せても、あの女の眼差しは決して自分に向かない。彼女のすべては、海の神ただひとりに捧げられていた。


 葵が生まれたとき、玄道は思った。

 ――この子だけは、私の手元に。誰にも渡さぬ。賢く、身のこなしも軽く、慎ましい子。


 だからこそ男として育てようと決めた。それは愛の形をした執着であり、父の名を借りた鎖でもあった。


 だが華子が「澄海の子を宿した」と吹聴したとき、玄道の苛立ちは頂点に達した。虚妄にすぎぬ、狂言だと分かっている。だが心の奥に燻る炎は消えず、己を焼き尽くさんばかりに燃え広がった。


 またしても――そう、またしてもだ。海神は、いったい何度、私から奪えば気が済むのか。


 そして、その日が訪れた。

 御鷹邸の大広間に、澄海は蒼き光をまとって姿を現した。


「玄道。話がある」


 澄海の声に、玄道の目が細められる。

「海神が我が家に何の用だ。華子のことか?」


「違う。葵だ」


 その名を告げられた瞬間、玄道の眉がぴくりと動く。

「葵……? 葵にお前と何の関わりがある」


 一呼吸置き、澄海は静かに言った。

「彼女を私の妻としたい」


 たちまち玄道の顔に朱が差し、憤怒が奔る。

「なにをふざけたことを!」


「ふざけてはいない。彼女は私の子を宿している」

 葵の膨らんだ腹が脳裏に浮かび、玄道の瞳が血走った。

「おのれ……海神……!」


 狂気に濁った眼が澄海を射抜く。

「またしても私から奪うというのか!」


 憎悪のままに、玄道は澄海の胸ぐらを掴み上げた。

 だが、澄海は微動だにせず、その蒼い瞳で彼を射返した。


「奪うのではない。守るのだ。――お前は何度、葵を傷つけた? もう、誰にも……葵を傷つけさせない!」


 その言葉とともに、大地を揺るがす轟音が鳴り響いた。


 黒雲が空を覆い、豪雨が大地を打ち、怒涛の津波が押し寄せる。御鷹邸の石壁をも呑み込まんと、海は荒れ狂った。



 工場の片隅、記者会見の準備を進めていた葵とお雪の耳に、轟々(ごうごう)と海鳴りが届いた。地を揺るがすような低音が壁を震わせ、窓の外では黒雲が渦を巻いている。


「お嬢様! 外に出ては危のうございます! どうかお止めください!」

 お雪は必死に袖を掴んだ。


 だが葵はその手を振りほどいた。

「行かなくては……!」


 腹に手を添え、転ばぬように駆け出す。海辺ではすでに人々が悲鳴を上げ、津波を恐れて逃げ惑っていた。


 葵は必死に足を運ぶ。ぬかるみに足がとられる。しかし、止まらない。向かうのは、御鷹邸だ。あの場所に、彼がいる――嫌な予感が胸を突き動かしていた。


 そして目にした。大広間の庭先で、玄道と澄海が激しくもみ合っている。


「やめて!」

 葵の声が張り裂ける。


 澄海の手を掴み、彼女は叫んだ。

「澄海……あなたは、海の底で言ってくれたでしょう。もう同じことは繰り返さないと!」


 荒れ狂う波音を背に、澄海は苦悩の表情で振り返る。

「だが……そなたを守るためだ!」


「葵! この邪神に惑わされるな!」

 玄道は血走った目で叫んだ。声は怒りに濁り、なおも澄海の胸倉を掴もうとする。


 空は黒く裂け、稲妻が奔る。大地を揺るがす波の咆哮。――その中で、葵はゆっくりと両の手を胸に重ねた。


「海よ……鎮まって」


 鋭い叫びではなかった。母が子を包むような、穏やかで深い祈りだった。

 ――守りたい。腹の子も、澄海も、すべてを。


 不思議なことに、狂乱していた波が、葵の声に応えるように静まっていく。黒雲は裂け、嵐の力はみるみる弱まった。やがて、ただ潮騒だけが残る静寂。


 葵は息をつき、震える指先で腹を撫でた。そこに宿る小さな命が、確かに彼女を支えていた。その温もりが、怒れる海神さえも鎮めたのだった。

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