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男装の乙女は海神の子を宿して  作者: 宇津木 しろ


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第5話 真

 葵の腹は日に日にふくらみを増していった。

 一方で華子は、綿を仕込んだ偽りの腹を誇示し、社交界に顔を出しては喝采を浴びていた。人々は盲目的に彼女を信じ込み、対照的に葵を嘲笑した。


「男の跡取りのくせに……腹を膨らませて」

「贅沢のしすぎじゃないか」

「華子さまの真似事かしら? 滑稽だわ」


 絹の妊婦服を得意げに揺らしながら、華子は鼻で笑った。


「兄さま、偽物の腹など、おやめになったら?」


 葵の肩がぴくりと震えた。

 ――これまで黙って耐えてきた。笑われても、罵られても、唇を噛みしめて嵐が過ぎるのを待つしかなかった。


 だが、このときだけは違った。


 掌に触れるふくらみが熱を帯びて脈打つ。中に宿る命が、まるで「負けるな」と告げるように動いた気がした。

 守らねば。この子を。母として。喉の奥が焼けるように熱くなった。


 弱いままではいけない。沈黙に甘えてはいけない。未来を奪わせてはならない。


 ――初めて、葵は唇を開いた。


「――偽物は、どちらでしょうか」


 静かだが、刃のように鋭い一言だった。それは恐怖を押し殺し、母としての覚悟に裏打ちされている。


 華子の顔色が見る間に変わり、下唇を噛みしめる。怒りと羞恥に震えるその姿に、周囲のざわめきも凍りついた。


「な、何が言いたいのよ!」

 

 華子の叫びに、葵は一歩も引かず、静かに言い放った。


「華子――あなたが一番、分かっているでしょう」


 その瞬間、妹の顔はたちまち真っ赤に染まった。肩を震わす華子を背に、葵は背筋を伸ばし、きりりとした態度でその場を後にした。背広の裾が翻るたび、彼女の歩みに迷いはなかった。


 廊下の陰からその姿を見ていた澄海は、ふっと微笑んだ。

「……葵。君は、強い。私などより、ずっと」


 その声に気づいた葵は振り返り、困ったように目じりを垂らした。

「見ていたのですか……。私、少しは強くなれたでしょうか」

「ああ。とても」


「……私には、お守りがあるのですよ」

 葵は胸の奥から何かを押し出すようにして、懐に忍ばせていた小さな銀糸の髪飾りを取り出した。

 その瞬間、澄海の表情が驚愕に固まった。


「それは……」

 蒼い瞳が、揺れた。

「なぜ君が、それを……」


 葵は小さく息をのむ。

「母の形見です。この髪飾りは、ずっと私を守ってくれました」

「君の母は……何という名だ」

「美雪――御鷹美雪」


 その名を聞いた瞬間、澄海は息を呑み、深く言葉を失った。

 やがて長い沈黙ののち、口を開いた。


「……美雪。忘れるものか。彼女は……私の祈りに応えてくれた人だ」


 澄海は、葵へと告げた。

「その髪飾りは、私が美雪に贈ったものだ」


 葵の胸が大きく波打つ。

「母に……?」


 澄海は静かに頷いた。遠い記憶を辿るように、彼の声音は低く、切なげだった。

「美雪は優しく、芯のある人だった。人の娘でありながら、私を恐れず、ただ信じてくれた。――彼女こそ、私を人にした祈りの主だった」


 葵は言葉を失い、手の中の髪飾りを強く握りしめた。唯一の形見が、母と澄海の「愛の証」であったとは。驚きと戸惑いの奥で、不思議な温もりが胸を満たしていく。


 ――私は、母の祈りを継ぐ者なのだ。


 そう悟ったとき、葵の瞳には迷いが消えていた。



 ――あれは、まだ葵が生まれる前。

 月光の淡い夜、ひとりの少女が祠に佇んでいた。


 彼女の名は美雪。

 まだあどけなさの残る面影に、凛とした気品を湛えていた。

 美雪は幼いころから欠かさず祠に祈りを捧げてきた。人に笑われようとも、海に語りかけることをやめなかった。


 「どうか……この国を、守ってください」

 震える声で捧げた祈りは、誰に届くとも知れぬものだった。


 だが、その夜だけは違った。


 寄せる波がほの白く光を帯び、深海のような蒼の中からひとつの影が立ち上がる。

 銀の髪が潮風に揺れ、蒼い瞳がまっすぐに彼女を見つめた。


 「……呼んだのは、そなたか」


 驚きに、美雪は息を呑む。けれどその声は不思議なほど怖くはなく、むしろ胸の奥に沁み入るように温かかった。


 それが、澄海との出会いだった。


 それから幾度も祠を訪れるうちに、澄海と美雪のあいだに言葉が生まれていった。

 夜ごと、波音に包まれた祠で向き合い、互いの胸の奥を少しずつ語り合う。


 ある夜、美雪はふいに空を仰ぎ、囁くように告げた。

「……わたしは、幼いころに両親を亡くしました。あまりにも突然で、まだ子どもだった私は、泣き叫ぶことしかできませんでした」


 澄海は何も言わず、耳を傾けた。


「けれど、そのとき――海を見たのです。あの果てのない青が、悲しみを包んでくれました。どんなに泣いても、波は変わらず寄せて返して……。海を見ていると、心が少しずつ落ち着いていったのです」


「……そうか」

「だから、祈ることがわたしの習慣になりました。海に語りかければ、孤独な心も慰められる。……その先に、あなたがいたのですね」


 澄海の胸に、じんわりと熱が広がっていった。

 

「美雪」

 彼は低く、深い海底から湧き上がるような声で呼んだ。

「君の祈りは、私を人にした。孤独に沈んでいた私を、この世界につなぎ止めたのは君だ」


 しばしの沈黙ののち、彼は懐に手を差し入れ、一つの細工を取り出す。月光に照らされ、銀糸がきらめき、繊細な光を散らした。


「これは……?」

 美雪が驚きに目を見張る。


「海の底で織り上げた銀糸の髪飾りだ」

 澄海はその装飾をそっと美雪の髪に差し、柔らかく微笑んだ。

「私の心の証。これを持つ限り、君は守られる。……どれほど時が流れても」


 美雪の頬を、一筋の涙が伝った。

「……ありがとうございます。澄海さま」


 その声は風に溶け、波に抱かれて遠くまで響いた。

――しかし、その恋は人の手に引き裂かれ、ついに果たされることはなかった。幽閉と政略の鎖に縛られた美雪は、玄道に嫁がされ、命を散らした。


 だが、祈りだけは消えなかった。彼女の遺した祈りは葵へと託され、澄海の目の前で再び形を得たのであった。



 一週間後。葵は工場の片隅に設けられた小部屋で、記者会見の準備をしていた。机の上の原稿用紙には、何度も書き直された文字が並んでいる。


 背後で、お雪がそっと声をかけた。

「本当に……発表されるのですね」


 葵は静かに頷き、髪飾りを胸に当てた。

「はい。――私は女であると公表します。そして、汐見澄海の花嫁であると」


 お雪の瞳に涙が光る。

「ついに、心からお嬢様とお呼びできるのですね」


 葵は彼女の肩を抱き寄せ、微笑んだ。

「ありがとう、お雪。あなたがいたから、ここまで来られました」


 窓の外では、雨が静かに降り続いていた。その胸には、確かな炎が灯っていた。

――母の祈りを継ぐ者として。

――ひとりの女として。


 葵は、決意を携えて会見に臨むのだった。

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