第3話 嘲りの宴
三日後。
都の寂れた神殿には、国中から人々が集まっていた。大理石の柱に囲まれた祭壇を、潮の香を帯びた風が吹き抜ける。
葵と結ばれたとき、澄海は力を取り戻した。葵は人々に忘れ去られた、真の祈りを捧げたからだ。
その存在が孤独を解き、新たな命を宿したことで、海神は再び、この世に確かな姿を持つことができた。
そして今、澄海は人の姿を保ったまま神託を告げる。
「我は蒼海尊――汐見 澄海」
その声は潮流のように大地を伝う。
「海神様……!」
「本当に……本当に、いらっしゃったのだ……!」
ざわめきは波のように広がっていく。
「神の御子らよ、よく聞け」
重々しい一言に一転、人々は息を呑む。
「かつて人の祈りを遠ざけ、力を失ったのは我が過ちであった。だが再び祈りに呼ばれ、力を取り戻した今、我は人と共に歩む道を選ぶ。我は伴侶を見いだし、すでに子をなしている」
澄海がそう言い終えた瞬間、広場は歓喜のざわめきに包まれた。
祝福の声が波のように広がっていく。
神託は瞬く間に国中を駆け巡り、誰もがその花嫁の名を求めて語り合った。
葵の耳にも、その神託は届いていた。胸が熱に包まれ、あの日、自分を抱きとめた腕の温もりが鮮やかに甦る。
一方、参列していた華子の顔は蒼白に歪んでいた。唇はわなわなと震え、扇を握る指先は白くなるほど力がこもっている。
「……そんな……海神さまが、ほんとうに兄さまと……」
声は掠れ、胸の奥から絞り出すようだった。
美しくもない、男のような女。そんな女がなぜ、海神さまに選ばれるの? 自分こそが、海神の花嫁であるはずなのに。
思えば、幼いころからずっと、葵は常に自分の先を歩いていた。
「お父様、ご覧くださいませ。宿題の習字です」
七歳のある日、華子は習字を父に差し出した。何度も書き直した自信作だったが、玄道は一瞥して言った。
「……この程度、葵なら五歳で書けた」
その一言で胸の誇りは砕け散り、耳鳴りだけが残った。
悔しさの奥で、華子は悟っていた。葵に勝てるのは「女の美しさ」だけだ。
だからこそ、髪を飾り、華やかな衣を纏い、兄の前に立ち続けてきた。
――それなのに。
顔を強ばらせた華子は、やがて視線を落とし、唇に微笑の影を浮かべた。
次の瞬間、脳裏にはひとつの策略が鮮明に形を成していた。
(ならば――私が)
その思いつきは、嫉妬に濁った心を焼き尽くす炎のように広がっていった。
*
澄海の神託が国中を震わせてから数日後。
社交界の大広間は、人々のざわめきで揺れていた。その中央に立つ華子は、白絹のドレスに身を包み、恍惚とした笑みを浮かべる。
「皆さま……どうかお聞きくださいませ。わたくしは、蒼海尊、汐見 澄海さまの子をこの身に宿しております」
刹那、広間にどよめきが走った。驚愕の声、歓声、拍手――熱狂が一気に広がっていく。
華子はうっとりと視線を巡らせ、人々の喝采を全身で受け止めていた。
だがその傍らで、蓮臣の顔色はみるみる色を失っていく。婚約者であるはずの華子は、一度も彼を見ようとしなかった。
やがて彼女は、冷ややかな声音で言い放つ。
「蓮臣さまとの婚約は、これをもって破棄させていただきます。わたくしは、海神の花嫁となるのです」
――空気が凍りついた。人々の視線が一斉に蓮臣へと注がれる。彼は硬直したまま言葉を失い、唇だけが震えた。
「は、華子……それは……冗談だろう?」
「冗談ではございませんわ。あなたのような凡庸なお方より、海神さまの御許へ参る方が、私にふさわしいでしょう?」
冷酷な宣告だった。蓮臣は顔を引きつらせ、声にならない呻きを洩らした。周囲の人々は冷笑を隠さず、その場は嘲りと興奮に支配されていく。
――蓮臣は、華子に切り捨てられたのだ。立ち尽くすその姿は、栄華を夢見た若き青年の末路そのものだった。
その頃――。
工場の一角で、葵が図面を広げていたときだった。慌ただしい足音とともに、お雪が駆け込んでくる。
「お嬢様……! 華子様が……ご懐妊を」
その言葉に、葵の手が震え、広げていた図面が床に滑り落ちた。耳にした瞬間、心臓が激しく脈打つ。
「……そんなわけが、ない」
唇が震える。澄海がそんなことをするはずがない。そう信じたい。
けれど華子が向けてくる冷ややかな笑みを思い出したとき、背筋に悪寒が走った。
――もしかして、自分と澄海の子のことを知られているのではないか。
無理な仕事を押しつけてきたのも、子を害するためかもしれない。疑念がじわじわと胸を侵食していく。
周囲では、華子を祝福する声が飛び交っていた。
その喧噪の中で、玄道はひとり眉間に皺を刻んでいた。
「……またしても、またしてもだ……」
拳を握りしめ、その掌からは汗が滴り落ちる。やがて、吐き捨てるように声が漏れた。
「女はこれだから信用ならん」
そして初めて、彼の目が葵をとらえた。
「だが、お前は違う。御鷹家を決して捨てまい。私によく似て才覚もある。……まだ磨く必要はあるがな」
意外な言葉に葵は息を呑んだ。父から褒められた記憶など、これまで一度もなかった。
だがその響きは、喜びよりも重苦しい枷のように胸に残った。
(私は……どうすべきなのだろう)
家を継ぎ、男として生きるべきなのか。
それとも、家を離れ、女として、母として――。
答えを見いだせないまま、葵は静かに腹に手を添えた。そこには、小さな命が確かに息づいている。
――その瞬間、工場の窓ガラスがわずかに震えた。外では風もなく、海は穏やかなはずなのに、どこからともなく水音が響く。
葵の身体の奥で、知らぬ力がひそやかに息づき始めていた。




