第2話 華子の策略
ある夜、御鷹家の廊下を抜け出した華子は、ふと外の気配に気づいた。
月光を頼りに庭を抜け、海辺へ向かう。潮風が冷たく頬を撫でたとき、視線の先に――見知らぬ青年の姿があった。
銀糸のような髪が月を受けて揺れ、深い蒼の瞳は水面を映す。人のものとは思えぬ美貌であった。
華子は思わず息を呑んだ。
「まあ……なんて美しい。まさか、あれが海神さま?」
声は風にさらわれた。青年は振り返ることもなく、ただ静かに海を見つめている。
誰なのだろう。どこから来たのだろう。胸が高鳴り、目が離せなかった。
やがて波音にかき消されるように、その姿は月影とともに淡く揺らめき、見失ってしまう。
「……夢、だったのかしら」
華子は胸に手を当てた。熱い鼓動だけが、現実だった。
数日後の夜。
華子は廊下を歩く葵の影に気づいた。ひそかに後を追うと、その足は迷いなく海へと向かっている。
「兄さま、こんな夜更けにどこへ?」
波打ち際に着いたとき、月光が海面を白く照らしていた。
そこで彼女が見たのは――あの美しい青年の姿だった。
「……兄さまと、何をしているの」
華子の心臓が激しく打った。恐怖と嫉妬が一度に押し寄せ、息が詰まる。彼女は気配を殺して身を隠し、二人の会話に耳を澄ませた。
「澄海さま……私、子を身ごもりました。あなたとの子です」
震える声で告げる葵を、澄海は強く抱きしめる。その蒼い瞳が、夜空の星よりも輝いた。
「葵……ありがとう。これほどの喜びが、ほかにあろうか。私の花嫁……そして母となるそなたを、心から祝福する」
葵の頬に涙が伝う。澄海はその涙を指先で拭い取り、柔らかな声で囁いた。
「共に海底の神殿で暮らそう。誰にも傷つけられぬ場所で――そなたと子を守りたい」
胸が熱くなる。しかし葵は、苦しげに首を振った。
「ごめんなさい。家を、放り出すことはできません。でも、いつかは――」
その答えを耳にした瞬間、華子の視界がぐらりと揺れた。
「そんな……そんなはず、ない……!」
爪が手のひらに食い込み、血が滲むのも気づかない。月光に照らされたその顔には、嫉妬と恐怖が入り混じり、狂気の色が宿っていた。
そして、心の奥底で黒い声が囁いた。
(あの子さえ、壊してしまえば……)
海の波は岩を呑み、粉々に砕けていった。
その夜を境に、葵に課せられる労役は容赦なく増えていった。華子は微笑みを絶やさぬまま、葵にだけ重たい帳簿を押しつけ、書類の山を積み上げていく。
「兄さまなら、できますわ」
甘い声音の下に潜む棘を、葵は痛いほど感じ取っていた。
日が昇り、日が沈む。休む間もなく机に向かい続ける葵の指は震え、額には冷や汗が滲む。
胸の奥に芽生えた小さな命を守らねばならないと知りながらも、無理を重ねるしかなかった。
華子はそれを知っていて、さらに仕事を与えた。ほころんだ笑みの奥で、確かに願っていたのだ。
――兄さまの身体を壊してしまえ、と。
ある晩更け。帳簿に視線を落としていた葵の視界がぐらりと揺れた。
文字が滲み、机に突っ伏しそうになる。吐き気がこみ上げ、胸の奥が締め付けられる。
「……っ」
必死に椅子から立ち上がったが、足がもつれ、床に膝をついた。
たちまち、全身から力が抜けていく。
廊下の向こうで、足音が駆け寄った。
「お坊ちゃま!」
お雪の悲鳴を聞きつけ、屋敷の奥から人々がざわめき立つ。しかし彼らは誰一人、葵に手を差し伸べようとはしなかった。
華子は口元に扇を寄せ、冷ややかな声で言い放つ。
「兄さまは、軟弱すぎるのですわ」
その瞬間――。
屋敷の窓が震え、潮の匂いを含んだ風が吹き込んだ。煌々と照る月を背に、銀の髪が翻る。
「……葵!」
蒼い瞳が光を宿し、汐見澄海が姿を現した。床に倒れ込む葵を一瞬で抱き上げると、彼は怒りを隠さず人々を見回した。
「そなたらが……この身をここまで追い詰めたのか」
低く響く声が屋敷を揺らす。まるで海底から轟く波の音のように重く、誰も言葉を返せなかった。
葵は腕の中で微かに呻き、目を開ける。
「……澄海、さま……」
「もう、無理をするな。私がそなたを守る」
その声は凪いだ海のように優しかった。葵は頬を濡らしながら、安堵の吐息を漏らす。
澄海は彼女を抱きしめ直し、はっきりと告げる。
「葵は私の花嫁だ。誰にも傷つけさせない」
屋敷に重苦しい沈黙が落ちた。
「男」である葵が、花嫁とは? 誰もがそう思ったが、澄海の気迫に、口を開くことはできなかった。
そのとき――華子の瞳が熱に浮かされたように澄海に吸い寄せられていた。
銀の髪、深海を閉じ込めたような蒼の瞳。そのあまりの美しさに、思わず扇を下ろし、口を開く。
「海神さま……わたくしこそ――」
だが、次の瞬間。
澄海の蒼い視線が、鋭く華子を射抜いた。
冷ややかな刃のような眼差しは、一言の言葉さえ許さぬ圧を帯びている。
「……っ」
胸を突き刺されるような衝撃に、華子は息を呑んだ。頬が赤く染まるのは羞恥のためか、それとも屈辱のためか。
女中が慌てて「お嬢様……」と声をかけるが、華子はただ唇を噛みしめ、凍り付いたように動けなかった。
澄海は、そんな華子をもはや眼中に入れず、葵を抱いたまま海へと歩を進めた。
「葵……もうここには留まるな。そなたと子は、私の命だ」
胸を震わせるほど強く、まっすぐな言葉であった。だが、葵は力なく首を振った。
「……私は御鷹家の跡取り。あと少しだけ、時間をください」
その瞳に宿る葛藤を見て、澄海は何も言わず抱き締め直した。
――彼女が自らの意思で選べる日が来ることを、ただ信じて。
やがて澄海は葵の耳もとに低く囁いた。
「葵……私の居場所を見せよう。深き海の底に、そなたを休ませたい」
白い指先がそっと葵の唇に触れる。瞬間、ひやりとした感触が胸に広がり、肺の奥まで澄み渡る。
「……これで、海の底でも息ができる」
葵は驚きに瞳を見開いたが、次の瞬間には澄海の腕に支えられ、静かに水面へと沈んでいた。
月光を透かす水面が遠ざかり、群青の海が広がる。光の粒子が舞い、色とりどりの魚が行き交った。
「まぁ……きれい……」
葵が指さした先に、小さな橙色の群れが散ってゆく。
「これは?」
「海金魚――人はクマノミと呼ぶ。つがいで寄り添い、決して離れぬ魚だ」
答える澄海の声音には、どこか優しい微笑が混じっていた。葵は頬を染め、胸の奥に甘い温もりを覚える。
やがて辿り着いたのは、海草に覆われた静かな神殿だった。柱は珊瑚のように白く輝き、床はやわらかな藻に敷き詰められている。
「ここで、しばし休みなさい」
澄海は葵を海草の床へ導き、そっと髪を撫でた。
「子守唄だと思って聞いてくれ。……昔の話だ」
その声音は、波の揺らぎのようにゆるやかだった。
「私は海の中に生まれ、生まれつきひとりだった。だが海を従わせることができた。しだいに人々と関わり、神として崇められるようになった」
「……そうだったのですね」
葵はまどろみながら、その横顔を見つめる。
だが澄海の瞳が翳る。
「しかし、やがて人々は、私を捕らえ、力を利用しようとした。逃れようとした私は……大津波を起こしてしまった」
澄海の声は苦く沈んだ。
「そのとき奪った命を、私は今も忘れられない。だからこそ、人との縁を自ら断ち、信仰も途絶えていった」
深海を閉じ込めた蒼い瞳が、悲しげに葵を映す。
「もう、同じことは繰り返さない。二度と……」
葵は目を伏せ、胸が痛んだ。
「……何も、知りませんでした」
澄海はかすかに首を振り、葵を抱き寄せる。
「だが、祈る者がひとりでもいれば、私はこうして姿を保てる。……ありがとう、葵」
その言葉とともに、澄海の唇が葵の額に触れた。潮の香りとともに、やさしい温もりが広がる。
葵は瞳を閉じ、ただその口づけに身を委ねた。神の孤独と人の祈りが溶け合う、その一瞬が永遠に続くように――。




