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男装の乙女は海神の子を宿して  作者: 宇津木 しろ


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第1話 偽りの跡取り

「私は、男じゃない。……本当の自分で、生きたい」


 夜、海辺の御鷹(みたか)軍需工場。窓から外を眺めながら、ひとりの青年が立ち尽くしていた。

 御鷹(みたか) (あおい)――齢十七歳。


 背広に包まれた姿も、短く切られた髪も、すべてが「自分」ではない。胸を締めつけるサラシの奥、わずかな膨らみだけが女の証だった。


「……でも、どうすればいい?」


 かすれた声は、さざ波に溶けて消える。だが次の瞬間、機械の響きとともに、重い足音が忍び寄ってきた。


「――葵! お前には今日、埋立予定地の視察に行ってもらう」


 父・玄道だ。背筋を正したまま、葵は素早く振り返る。


「あの辺りには……海の神の祠がありますが」


 その言葉に、玄道は鼻で笑った。


「海の神? 妄想だ。海は埋め立ててこそ価値がある」


 吐き捨てるような声に、葵の胸はかすかに疼いた。かつて、この蒼波国(あおなみのくに)は海とともに生きてきた国だった。古い文には、海神と人が寄り添い、互いに暮らしを支え合った時代が記されている。だが、千年前の大津波を境に、人々は恐れを抱き、信仰は静かに途絶えていった。


 ――海神など、いないほうが世は安らぐのだ。


 そう言い放つ父の横顔は、信仰を否定するというよりも、何かに苛まれているように見えた。


「しかし、それは……」

 言葉の途中で玄道の手が振り下ろされ、頬に鋭い痛みが走った。


「お前は口答えするのか!」

 作業員の手が止まり、機械が甲高い警告音を響かせた。

 そこに、控えめな声が割り込む。


「兄さまが海神を恐れるなんて――『男らしく』ありませんわね」

 ずきり、と胸が痛む。振り返ると、そこには妹・華子がいた。


 華やかな巻き髪に、西洋仕立てのワンピース。淡い桃色のドレスには金の刺繍があしらわれ、社交界でも一目置かれるその容姿は、葵とは正反対だった。


 その隣には、華子の婚約者・加賀谷(かがや) 蓮臣(れんしん)が立っていた。品の良い背広に、冷えたような笑みをたたえていた。


「君が跡継ぎとは……あまりに心もとないな」


 悪びれずに言い放つその声にも、葵はただ一礼して答える。


「恐縮です。ご指摘、肝に銘じます」


 くす、と華子が笑った。その笑みが、葵は何よりも嫌いだった。甘やかで優しげに見せかけながら、実際には誰よりも人を見下している――そんな響きを含んでいるからだ。


 「……申し訳ありません、お父様。行って参ります」

 

 葵は深く頭を垂れ、追い立てられるようにその場を辞した。


 工場の喧噪を背に、夜気の漂う埋立地へと足を向ける。足音だけが響く中、ふと歩みを止めた葵は、背広の内ポケットに手を差し入れた。


 取り出したのは、小さな銀糸の髪飾り。灯の乏しい闇の中でも、ほの白くきらめくその形見が、胸の奥を震わせる。

 ――母の残してくれた、唯一のぬくもり。


 耳に甦るのは、幼い日の記憶だった。


 「葵……これは、あなたの幸せを守ってくれるものよ」


 母・美雪の声は柔らかく、「葵の髪に似合うわ」と微笑んでくれた。その一瞬が、葵にとって何よりの宝だった。


 だが、背後から怒号が飛ぶ。

「男子を女のように育てるなど言語道断!」

 

 玄道の手によって母の腕は引き剥がされ、髪飾りは床に落ちた。その日を境に母は病に伏し、妹を産んだ直後に帰らぬ人となる。


 ――葵に残されたのは、この銀糸の髪飾りだけだった。


 潮風が葵の頬を濡らした。やがてここに工場が建ち、煙と轟音が満ちるのだ。


 目の端に、苔むした小さな祠が映る。人影はなく、波と風の音だけが響いている。

 気づけば祠の前に立ち、膝を折って掌を合わせていた。こうやって祈るのは――何年ぶりだろう。


 目を閉じると、胸の奥でひっそりとしまい込んでいた言葉が、こぼれ出す。


 「……私は、男として生きています。でも、心のどこかで……本当の自分を、生きたいと願ってしまう」


 喉が詰まるような苦しみとともに、声が震える。


 「そんな願い、間違いなのでしょうか。こんな想いは……生きていてはいけないものなのでしょうか」


 風が、止んだ。


 海は、ひとときの静寂に包まれていた。人々が気づかぬほどの、ほんのわずかな揺らぎ。何かが――目覚めた。


 寄せては返す波が、静かに形を変える。蒼く揺れる光のなか、ひとつの影が、海面を割って現れる。葵は息を呑む。


 ――そこに、ひとりの青年が立っていた。

 裸足に藍の衣をまとい、銀の髪が月光を受けて淡く揺れている。蒼い眼差しが、ただまっすぐに葵を射抜いていた。


 「私を……呼んだのは、そなたか」


 声は、波音の奥から響いてくるようだった。葵はとっさに一歩、あとずさった。


 「はい……御鷹 葵と申します。誰、ですか?」


 「私は蒼海尊(そうかいのみこと)、人の名を汐見澄海(すみうみ)。蒼波国の海を護る者……そなたの声が、私を目覚めさせたのだ」


 葵の唇が、震えた。まさか、と思う一方で、どこかでわかっていた。あの祈りは、確かに誰かに届いていたのだと。


 「私の、祈りが?」


 「誰にも届かぬような声で、誰にも言えぬ願いを胸に秘めていた。……その苦しみが、波の底まで、沁みとおった」


 澄海はそっと近づいてくる。葵は肩を強ばらせながら、それでも目を逸らさなかった。


 「……私は、ただ……」


 「そなたは……女として、生きたいのか?」


 ――時が止まったようだった。


 その問いに、葵の胸は強く震えた。誰にも言えなかった願いを見透かされたようで、逃げ出したいのに、どこか救われたようでもあった。唇は乾き、声にならない。それなのに、瞳は逸らせなかった。


 「……はい」

 葵は、こくりと小さく頷いた。


 澄海はそっと手を差し伸べ、葵は自然にその手を取っていた。触れた瞬間、胸の奥にずっとしまい込んでいた何かがほどけていく。


 「私は弱い。父にも、妹にも……本当のことなど言えない」


 嗚咽まじりに零れる声を、澄海は迷わず抱きとめた。その腕の温もりは、海に抱かれるように優しかった。


「弱いのは、私も同じだ」

 彼の声は静かだったが、力強かった。


「今の私を支えているのは、そなたの祈りだけだ。君が祈るから、私はこの姿を保てる」


 葵ははっと顔を上げた。澄海の瞳が、まっすぐと葵を捉えていた。


「……私が、あなたを……支えている?」

「そうだ。そなたが私に形を与えてくれたのだ」


 囁かれた言葉に、胸の奥が震える。


「葵。私の力は、祈りがなければ続かない。今の蒼波国には、もはや信仰を捧げる者はいない。そなただけが、私を信じてくれている」

「そんな……」

 父・玄道の嘲りが脳裏をかすめる。――海の神なぞ古の妄想だ、と。

 けれど、今ここに抱かれている温もりは、決して幻ではない。


 澄海は銀の髪を揺らし、儚げな笑みを浮かべた。

「葵。ありがとう」


 その微笑みに胸を貫かれ、葵の唇から、途切れ途切れに言葉がこぼれる。

「……私は、あなたを守りたい。あなたのために、祈り続けます」


 その声は、か細くも真実を宿した意志だった。波音がふたりを包み、月光が祠を照らす。

 孤独に閉ざされていた葵の世界に、澄海という存在が光となって差し込んでいた。


 それから幾晩も、葵は祠を訪れた。

 月明かりの下、澄海は人の姿を保ちながら、ただじっと海を眺めている。


「波の高さで、明日の天気がわかるんですよ」

 葵が何気なく口にすると、澄海は驚いたように目を瞬かせ、ふっと笑みを浮かべた。


「なるほど。そなたは海をよく知っている。……私の目より確かだ」


 その笑みに胸が熱を帯びる。

 彼と語らえば、工場で浴びる嘲りや父の怒声が、遠い世界の出来事のように思えた。


 ある夜は、澄海が手ずから小魚をすくい上げ、掌に光る鱗を見せてくれた。

 またある夜は、葵が亡き母の話を打ち明け、澄海は黙って彼女の肩を抱いた。


 短い逢瀬を重ねるうちに、葵の胸は少しずつ満たされていった。

 もし自分が本当に「女」であったなら──妻として、澄海のような男を支えたい。そんな願いが、いつしか心の底から芽生えていた。


 そして、その夜。


「そなたは……ある人に似ている。私がかつて、愛した人だ」


 不意に洩らされた澄海の言葉に、葵は瞬きをした。

「どのような方でしたか」


「そなたのように優しく、芯が強く……そして、最後まで私を信じてくれた。だが運命は、私たちを引き裂いた。いまも心の奥に、その人はいる」

 澄海は懐かしむように目を細め、遠い海の向こうを見つめた。


 葵の胸に微かな痛みが走る。

 それでも彼女は、責めるのではなく確かめるように口を開いた。


「……では、なぜ、私を気にかけてくださるのですか」

 

 澄海は目を伏せ、苦く笑った。

「最初は――あの人に似ていたからだ。けれど、今は違う」

 銀の髪が夜風に揺れ、蒼い瞳が葵をまっすぐ映す。

「そなたは彼女よりもずっと不器用で、ひたむきで……誰よりも愛おしい。私は、そなたに恋をしている。愚かな神だ」


「愚かだなんて……」

 言いかけて、葵は息を呑む。澄海の瞳には、涙の光が宿っていた。

 沈黙ののち、彼は葵をまっすぐに見据えた。


「そなたは、私の花嫁だ。葵──ずっと探していた」


 その囁きは潮騒に溶け、葵の心を静かに満たしていった。


 澄海は強く葵を抱き締めた。体温が重なり合い、孤独と痛みは波のように遠ざかっていく。


 夜空から星が降り注ぎ、海は満ちていった。


 その瞬間、葵は確かに知った――この人となら、偽らずに生きていける。

 自然と、身体のすべてを委ねていた。


 そして、ふたりの鼓動は一つに重なり、未来を結ぶ契りとなった。



 それは、ほんの小さな違和感から始まった。工場の油の匂いに吐き気を覚え、足もとがふらつく。体の奥で何かが変わっていくのを、葵は恐ろしく感じていた。


「兄さま……また具合が悪いの?」

 華子の冷ややかな声が背後から刺さる。横に立つ蓮臣は、薄笑いを浮かべた。

「男のくせに、弱々しい。これで御鷹の跡取りとは、世も末だ」


 葵は返す言葉を持たず、ただ俯いた。

 そのとき、工場の奥から父・玄道の怒声が飛ぶ。


「葵! また仕事を怠けているのか! この軟弱ものが!」

 葵は必死に立ち上がろうとするが、吐き気に喉がつまって動けなかった。


「お父様……兄さまを跡取りにするなんて、もう無理ですわ」

 そう嘆く華子に、すかさず「私がいます」と蓮臣が口を挟む。


「華子、蓮臣。もっともだ――だが、葵は私の血を色濃く継いでいる。御鷹家を継ぐ者として生きねばならん。覚悟しろ」

「……かしこまりました」


 声が震えているのを悟られまいと、葵はそのまま駆け出した。油に濡れた床を踏むたび、靴底が不規則に軋み、短い悲鳴のような音が続く。


 葵にとって唯一の救いは、女中のお雪だった。夜更け、吐き気に苦しむ背をさすりながら、彼女はそっと囁く。


「お坊っちゃま。本当は、お嬢様とお呼びしたいのですが」


 葵は目を閉じ、唇を噛む。

「……私は、跡取りだから……」


 お雪は首を横に振り、柔らかに微笑んだ。

「いいえ。あなたは、あなたのままで」


 その言葉に胸がじんわりと温まる。――お雪はもともと母付きの女中だった。奥ゆかしく、変わらぬ優しさを持つ彼女は、母亡き今もなお葵を支えてくれている。


 赤らむ頬をひとしずくの涙が伝った。ようやく心が救われた気がした――そう思ったのも束の間。


 朝方、屋敷を鈍い衝撃音が包んだ。

 お雪は寝間着姿のまま飛び起き、慌てて廊下へ駆け出す。視界に飛び込んできたのは、壁に手をつき、苦しげにしゃがみ込む葵の姿だった。


 額には脂汗が滲み、顔色は青ざめている。


「お坊っちゃま! どうされたのですか」

「……お雪。何だか、とても気分が悪いんだ……」


 胸を押さえる葵の様子に、お雪の表情が険しくなる。


「どうか病院へ参りましょう。私が必ず手配いたします」


 誰の目にも触れぬよう、彼女は密かに段取りを整え、葵を町の病院へと連れ出してくれた。


 診察室で医師が口を開いた瞬間、時が止まったように思えた。


「おめでとうございます。ご懐妊です」


 言葉が空気を震わせたのに、耳に届くまでに長い時間がかかった気がした。

 

 どうしよう。私は男として生きねばならぬのに? 初めに生まれた感情は、そんな戸惑いだった。

 

 その次に浮かんだのは、澄海の微笑みだった。優しく自分を包み込むような笑み。――彼との子だ。

 そう思った瞬間、視界はにじみ、涙が頬を伝った。


 どうして泣いているのか、自分でも分からなかった。

 けれど、これだけは確かだった――孤独ではない。自分の腹に、小さな命が芽生えている。


 震える指先で、背広の内ポケットに忍ばせた銀糸の髪飾りを掴む。

 母が遺した唯一の宝。冷たいはずの金具が、いまはじんわりと温かく感じられた。


「……お母さま……」


 声にならぬ囁きがこぼれる。あの日の春の陽だまりのような笑顔が、鮮やかに胸に甦っていた。

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