貴族ごっこは、そろそろ終わりですわね
白薔薇の咲き乱れる庭園で、その言葉はあまりに唐突だった。
「本日をもって、ヴィクトル・グランディールは、アメリア・ローズベルグとの婚約を破棄する」
ざわめく貴族たちの視線が、一斉に私へと向けられる。
社交界で“完璧な令嬢”と謳われた私、アメリア・ローズベルグの、初めての“失態”を楽しもうとでもいうように。
「破棄、ですか?」
私を妬む令嬢たち、ヴィクトルに媚びる家臣たちが、笑いを押し殺すように、そして見下すような視線でこちらを見ていた。
夏の初め、侯爵になったばかりのヴィクトルは、気取った仕草で腕を組み、隣には見覚えのある女性を侍っていた。
身内の相次ぐ不幸により急に当主となったこの人は、手に入れた権力でやりたい放題だった。
この女性との噂は耳にしていたが、まさか公式の場で、こんな茶番を仕掛けてくるとは。
ふふ、まあ、事前に手に入れていた情報ではあるのだけれど。
「君の冷たさに耐えかねていたんだ。今の僕には、真心をもって寄り添ってくれるリディアのような存在が必要だ」
リディア。ああ、屋敷の侍女ね。
貴族たちの目が私に集まり、くすくすと笑う声が混ざる。だが私は、ただ静かに、笑った。
「それは残念ですわ、ヴィクトル様」
私は、そっと会場の中央に立ち、舞踏会のように優雅に一礼する。
「皆さま。ここで一つだけ、お伝えしておきたいことがございます」
沈黙が落ちた。
「我がローズベルグ家とグランディール家は、今期の大陸横断貿易の利権において、相互に代表契約を交わしております。その上で――2つの家の代表権、つまり正式な契約の締結権は、この私、アメリア・ローズベルグにあります」
「なっ……!」
ヴィクトルの顔色が見る間に変わる。
「その理由は明白ですわ。今回の貿易契約は、両家の婚約関係を土台にした“家同士の連携事業”として立ち上げられました。そのため、父である公爵が病床の今、――爵位が上であるローズベルグ家嫡長女である私が、双方の利害調整役および契約責任者として任命されていたのです。貴族議会にもその旨は届け出済みで、署名された書類も王立商業局に保管されています」
騒然とする場内。
「しかし――」
私は一拍置き、はっきりと言い切った。
「本日をもって、婚約は破棄されました。つまり、グランディール家は本契約における“提携対象”としての前提を自ら放棄したことになります。したがって、契約はその効力を失い、無効となります」
ヴィクトルの口がわななき、言葉にならない音が漏れる。
「私にとって吉報がございまして、実は、我がローズベルグ家は本日、新興商業連合との間で独占貿易契約を締結いたしました。そして、ヴィクトル様には、凶報がございます。今後、グランディール家は貿易市場から――正式に、排除されることとなります」
誰かが息を呑む音が聞こえた。
「なぜ排除される!!」
ヴィクトルが叫ぶ。
「契約は、義務と信頼の上に成り立ちます。それを蔑ろにしたのは、どちらなのか。――少し考えれば分かるはずですわ」
どよめきが起きた。
「違反をなさったのは、あなたです。事前に通達なく婚約破棄を行う、つまり契約不履行に該当します。そして何より――あなたは、当該貿易契約で動いた資金の一部を、正式な使用目的から外れ、私的に――そちらの女性へ贈与していたと記録されています」
ヴィクトルの顔が凍りつく。
「これは、王国財務監査院による調査で明らかになった事実であり、監査記録と通帳の写しはすでに王都に提出済みです。名目上は『広報交際費』と記載されていましたが、実際にはあなたの愛人関係にあった相手への継続的な金銭供与であり、これは王国法第十二条『信託財産の私的流用に関する背任罪』――通称、『貴族資産背任の大罪』に該当します」
貴族たちがどよめく。
「そしてこの罪は、発覚した時点で爵位の即時剥奪および所領の一時凍結、王都の査問会議への強制出席を義務づけられている重罪です。……王国が与えた信任と爵位を、あなたは軽々しく裏切ったのですわ」
会場が凍りついた。
ざわめきは一気に消え、空気が張り詰める。
「爵位剥奪の手続きも、間もなく正式に通達されるでしょう」
ヴィクトルの顔から血の気が引く。隣にいたリディアは、突如膝をつき、泣き崩れた。
そのとき――
一人の老貴族が、重たい足取りで前に出た。ヴィクトルの遠縁にあたる伯爵家の当主だ。
「……貴様、なんという愚行を……!」
老貴族は怒りを押し殺した声で、吐き捨てるように言った。
「グランディールの名に泥を塗っただけではない。王国全体の信用を揺るがせたのだ。これでは我ら一族すべてが疑われる。お前は自分だけでなく、血を分けた者たちすら巻き込んだのだぞ!」
別の親戚筋の婦人も口を開いた。
「もはや擁護のしようもございません。即刻、領地に戻り、謹慎を――いえ、それすら許されぬ身となるでしょうが」
次々と浴びせられる非難の言葉。
かつては彼の栄光を笠に着ていた一族の者たちが、今や手のひらを返すように口々に責め立てていた。
ヴィクトルは、何か言い返そうとしたが――
唇を震わせただけで、言葉を出せなかった。
もはや彼をかばう声は、誰一人としてなかった。
私は最後に微笑んだ。
「夏は終わりますの、ヴィクトル様。あなたが高位貴族の名を盾に遊ぶ季節も、もうおしまいですわ。それでは皆さま、暑い中お集まりいただきありがとうございました。夏の終わりにふさわしい、すてきな思い出になりましたわ」
私は優雅に一礼し、背を向けて歩き出す。
薔薇の小道に足を踏み入れると、白薔薇の甘やかな香りが風に乗って、私の頬を撫でた。
あの騒がしさが嘘のように遠のき、静けさだけが残る。
空は晴れ渡り、真夏の陽光が揺れる花々をきらきらと照らしていた。
私はその下をゆっくりと進む。まるで幕が下りた舞台から、ようやく自分の人生へと戻っていくかのように。
そして、庭園の出口で一人の青年が私を待っていた。
幼いころ、夏の別荘地で一緒に草むらを走り回った、あの夏の日の隣にいた人。別の道を選び、互いに離れ離れになったけれど、偶然の再会は、この夏にふたたび私を彼の隣へと導いた。
「よくやったな、アメリア」
懐かしくも誠実な声。静かに、けれど確かに、私の選択を肯定する、まっすぐな言葉だった。
私は微笑み、そっと彼の隣に並んだ。
この一夏で、彼が私に向けていた想いに気づかぬほど、私はもう愚かではない。
けれど今は、まだこの距離のままでいい。焦ることなく、少しずつ、新しい季節を共に歩いていけばいい。
「……ふう。長い夏だったわ」
涼やかな風が、庭の薔薇を揺らした。
その香りとともに、ふと私は空を仰ぐ。
――あの頃。
幼い私は、この空の下で泣いていた。
婚約、義務、役割。
望まぬものばかりを背負って、それが“貴族令嬢”というものだと、ただ耐えてきた。
けれど今、私はようやくその殻を破ったのだ。誇り高きローズベルグの名を背に、誰の所有物でもない“私”として――。
「ありがとう、カイル」
私は小さくつぶやいた。それは、彼に向ける言葉でもあり、そして何より、自分自身への祝福でもあった。
白薔薇の香りがそっと背を押す。季節は、静かに、けれど確かに移ろっていく。私は、これからを生きていく。自らの足で、誰にも支配されない未来を。
そして隣には、ただ優しく寄り添ってくれる人がいてくれた。
白薔薇の庭を抜け、私は新たな季節へと、彼と共に足を踏み出した。
END