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20 SPECIAL DOBUNEZUMI BROKEN


8月の終わりから9月にかけては、よく雨が降る。


夏の終わりを告げるように、蝉の鳴き声を静かにかき消して、しとしとと降り続ける。


普はこの時期が鬱陶しくて嫌いだ。


雨の日は足元が濡れる上、傘の持ち運びが面倒で、出かけるのが億劫だし、ぐずついた空の暗さに辟易とする。


――雨の日は、湿気で火種が上手く機能しなくて、ダンジョンネズミを焼くときに難儀したものだ。


そんな大昔の記憶が刺激されて、余計に苛立ちが募る。


夏の終わりの長い雨に、普の機嫌は気圧よりわかりやすく下方を這っていた。


しかし、そんな長雨以外にも普の心を乱すことがあった。


ドブネズミが、壊れた。


ここで言うドブネズミとは、遠川 或斗という16歳の少年のことである。


ダンジョンネズミをうんざりするほど食べた記憶から、普はげっ歯類が嫌いだ。当然本物のネズミを飼っているわけではない。


遠川 或斗は、5年前に同じパーティメンバーだった親留 未零という生意気なガキの幼馴染だ。


黒髪黒目、出会ったときは服装は薄汚れて、俯きがちで暗い目をしていた、生きぎたないだけのまさにドブネズミそのものだった。


幼馴染のことを5年も気にかけずのうのうと暮らしていたくせ、自分が世界で一番不幸だと言わんばかりの雰囲気を醸し出す様子が反吐が出るほど気に食わなかったため、殺す気で殴ったらほんの若干マシになった。


それから紆余曲折――主に或斗の失態由来であるが――あって、普は致し方なく自分の家に或斗というドブネズミを住まわせている。


もう3ヶ月は経つだろうか、或斗はようやく家事の要領を掴んだのか雑用も手早くなり、見苦しくこけていた頬も丸くなってきた。


思えば色々あったものである。


愚かな言動にイラついて殴ったり、馬鹿過ぎる行動に呆れて蹴り飛ばしたり、演技で殴り飛ばしたり、何となく気に食わなくて打ったり、湿気にムカついて張り倒したり、勝手に行方不明になったのに腹が立ってビンタしたり。


ストレス解消用サンドバッグのことではなく、或斗の話である。


普にとっての或斗という少年は、手加減しないと死ぬのがちょっとめんどくさいサンドバッグであった。


しばくと何らかの反抗的な、あるいは消極的に反抗的な反応が返ってくるので、そこそこ本気で殴ってもヘラヘラしている高楽のアホより殴り甲斐があった。


その感覚は子供にとっての音が出て光る玩具に近いのだが、普は己のそういう幼稚さに無自覚である。


ともかく、或斗は今まで普に嫌というほどしばき倒され、その度に生意気にも反抗的な空気を出し続けていたのだが、ある日からそれが一変したのである。


夏の半ば、「カージャー」という敵組織幹部との戦闘があった。


普はその中で珍しいことに、そして不甲斐なく腹立たしいことに、いくらか負傷した。


この5年のうちに日本最強と囃され始めて以降、人前で傷を負うことは初めてだったのではないかと思う。


普と敵幹部の戦いは拮抗していたが、確かにあのまま戦い続けていたら、普が倒されることもあったかもしれないというほどの激戦であった。


そんな中で、非常に馬鹿げていて度し難いことに、或斗は普の援護に回り、自身の能力の酷使によって死にかけた。


パッタリと倒れて、器用にも目と鼻と耳から同時に赤黒い血を流す様は不細工を通り越してトラウマレベルであった。


普でなければ夢とかに出てきそうな悲惨な有様だった。


すぐに一番近い普のコネが効く大病院へぶち込み、その後或斗が目覚めてから、二度と馬鹿なことをやらかすな殺すぞ、と脅しつけたのだが、それ以降だ。


それ以降、或斗の様子がおかしい。


普と目が合えば笑うし、それを見て何となくしばいても何か嬉しそうに笑う。


奇妙極まりない。


正直言って気持ち悪い。


流石にその状態が1週間も続けば、普も或斗に訊かざるを得ない。


何かを企んでいるのか、外で変なものを拾い食いしていないか、最近頭を強くぶつけることがあったか、等々。


しかし尋ねられた本人ときたらきょとんと不思議そうに首を傾げるだけである。


ついでに何故か少し嬉しそうに笑う。


ドブネズミが、壊れた。


普の心当たりは1つだけである。


やはりあの夏の夜、脳の酷使によってどこかイカレてしまったのかもしれない。


このまま壊れたドブネズミと同居するのは、普のストレスに直結する。


雨の日は出来れば出かけたくないのだが、そうも言っていられないほど普は日頃から多忙であるし、どちらにせよ定期的に元所属パーティである『暁火隊』本部へは顔を出す必要がある。


普は或斗へ、普の留守中はマンションの部屋から1歩も出るな、宅配にも引っ越しの挨拶にも宗教勧誘にも出るな、と厳命し、1人『暁火隊』本部ビルへ向かう。


細々とした仕事や知り合いへの挨拶を終えると、普はまず医務室へ足を運んだ。



「或斗くんの体調?」


「はい、やはり8月のあの日の影響がまだ強く残っているのではないかと思って」



医務室勤務の田村医師は或斗の容態を一番よく分かっている人物だ。


半月以上が経った今でも、時々或斗を医務室に呼んで経過観察として診察してくれている。


そんな田村医師曰く、「異常なし」。



「身体的にも、記憶や感情面にも、どこもおかしなところはないね。やっぱり当日S級ポーションを使ったのが良かったんだろう」


「そう、ですか……?」



普から見れば明らかにおかしいのだが、田村医師は医学分野、特にダンジョン発生以降の人体変異やポーションの作用などについても精通した、学術的にも実務経験においても第一人者と呼べるほどの人物だ。


田村医師から問題なし、と言われたなら、医学的には問題ないのだろう。



「普くんも心配症だね。もう少し或斗くん本人にも分かりやすく心配してあげれば良いのに」


「いえ、そういうのじゃないです」



普自身のQOLクオリティ・オブ・ライフに関わってくる話である。


ひとまず、医学的に見れば或斗は正常であるらしい。


であれば他に原因がある筈だ。


あまり気軽に頼って手間をとらせたくないのだが、『暁火隊』で、というか普の知る人間の中で最も信頼出来る日明に相談してみることにした。


本部ビルの最上階にある日明の執務室で、普は時間をとらせることを詫び、或斗の奇妙な様子と、そうなるまでの経緯について説明した。



「何が原因なのか分からず、気味が悪くて困っています」



そう普が言うと、日明は堪えきれなくなったように噴き出し、何故か微笑ましそうな顔でクックッと笑った。



「眞杜さん?」


「いや、悪いわるい。馬鹿にしているわけではないんだ」



と言いつつも日明はやたらと嬉し気に笑っている。


こういう日明の笑い方には覚えがある。


普が魔法剣士の後輩であった未零に訓練をつけてやったり、そのクソガキにおちょくられて怒っていたりするときにたまに見せた笑い方だ。



「お前にとっては良いことだよ」



日明はそういう風に濁して、肝心の原因と直し方については教えてくれなかった。


日明の貴重な時間を浪費させるのも嫌であったし、憮然とした顔をして反抗するようなこともしたくなかったため、普は首を傾げつつも執務室を出る。


こうなっては仕方がない。


本当に仕方がない、気が向かないどころか業腹であり、出来れば取りたくない手段ではあったが、『暁火隊』には情報という面では普よりも専門的な人間が存在する。


その人物、情報部の実質的統括である栞羽 拡は珍しく本部ビルの食堂で遅い昼食をとっているところであった。


普は栞羽と相性が悪い。


日明から頼りにされているのがまずムカつくポイントであるが、その他にも不真面目で軽薄な言動、突如起こす珍妙な動作、品のない物言い。


人一倍も二倍もしている努力を余人に見せないスカした姿勢も気に入らない。


後半については同族嫌悪に近いものがあるのだが、普は己のそういう幼稚さに無自覚なのである。


しかし今回だけは頼らざるを得ない、或斗について田村医師や日明よりも詳しいのはこの女だけであろう。


普は昼食中に時間を割かせることを一応詫び、或斗の奇妙な様子について相談した。


栞羽はサラダチキンとブロッコリーとゆで卵を食べる手を止めず、いつも通りの不真面目な態度で聞いていたが、普が話し終えたところで一旦口の中のものを飲み込み、箸を置く。



「ていうか虹眼くんって元々ちょっとおかしくないですか? 主に被虐耐性とか」



普ちゃんとの同居に堪えられるなんてダンジョン適性は無しでも聖人適性はAですよ、とのたまう。



「うるせえぞろくでなし適性A女。良いから何か思いついたこと話せ」



栞羽は腕を組み、何か、何かねぇ……と頭を捻っていたが、急に真剣な面持ちになると、普を真っ直ぐ見た。



「わかっちゃったかもしれません」


「もったいぶらずに話せ」



栞羽は真剣な顔のまま普を指さした。



「人を指さすな。折るぞ」


「虹眼くんの奇妙な様子、その原因はズバリ…………恋ですよ!」



殺そうかなコイツ。



「ホラ普ちゃんってば無駄に顔が良いじゃないですか。それに何だかんだ言いつつ絶対守ってくれるわけですし、乙女的にはポイント高いんですよね、まあ虹眼くんにそんな乙女心があるかどうかは知りませんけど、あとアレですね、ストックホルム症候群、虹眼くんは普ちゃんとの同居と暴力によって精神が摩耗し、空気中のアルゴン成分より希薄な普ちゃんの頼り甲斐と無駄な顔の良さについクラッと来ちゃったんですきっとそうです、ああなんて気の毒な虹眼くん、未零ちゃんが見たらどんなにか嘆くことでしょうか、でも成人男性と未成年男子の禁断の愛ってそれはそれで燃えますよね、これで相手が普ちゃんじゃなくてスパダリ不動産王とかだったら言うこと無しです、ある日闇オークションの商品にされてしまった幼気な虹眼くん、ステージで司会が叫ぶ自分の命の値段、そんなとき一際通る声でスパダリ不動産王が言うわけです、100億って、それで虹眼くんは」



普は1行目のあたりでさっさと席を立ち、意味不明な熱弁を続ける栞羽を置いて食堂を去った。


また人生の時間を無駄にしてしまった。


普は悩んだ。


他に或斗の異常に心当たりがありそうな人物……頼りたくないというか、もはや人間としてとるべき最後の手段ではあるが、一応いなくもない。


もしかしたら、万が一、億が一、無量大数が一くらいの確率で役に立つかもしれない、その可能性を否定しきれなかった普は、本部ビル1階に行き、受付嬢に話しかけて仕事の邪魔をしている高楽を蹴り飛ばした。



「わ、普パイセンどうしたんすか?」



軽く5mは転がり回ったはずなのだが、平然と起き上がって何もなかったかのように話しかけてくる高楽。


高楽は普の1つ歳下で、『暁火隊』のナンバーワン・タンクとして何かと便利に使い回されている男だ。


普はこの高楽とも相性が悪い。


というか、高楽については相性とか以前の問題な気がする。


高楽は、馬鹿である。


もう純粋な意味で、頭が悪い。


そしてそれを全く気にせず能天気に生きている。


あと若い女と見れば本当に見境がない、『暁火隊』に所属する10代~40代の女性で、高楽に絡まれたことのない者はいないだろう。


栞羽とはまた違う軽薄さであり、普にとっては唾棄すべき性質であった。


そんなわけで普は『暁火隊』に在籍の頃から高楽を殴り、蹴り、締め上げ、関節を極め、何度となくぶっ飛ばしてきたものだが、1度として高楽が懲りたことはなかった。


頭の悪さとタフネスの高さがこうも厄介に同居している人間はこの男以外居ないと思う。


であるからして、この高楽が何らかの真っ当な意見をくれるとは普も1mmたりとも思ってはいなかったが、1つの問題に対して最善を尽くさないことは普の信条に反する。


普は一方的に或斗の異常な様子について話し、何か意見を出せと命じた。


高楽はポエー……という効果音のしそうな間の抜けた顔で聞いていたが、一転顔をキリッとさせて言う。



「意見出したらかわいい女の子紹介してくれます?」


「死ね」



普は高楽の顔面を右ストレートで殴り飛ばした。


また数mほど床を転がる高楽。


しかし、今日の高楽は一味違った。普に文句を言ったのである。



「もー! 普パイセンはそうやって毎回殴りコミュニケーションをとりますけど、普通は嫌われますからね! 俺くらいですよパイセンの暴力に耐えられるの!」



高楽はそう言ってから閃いた! とでも言いたげな顔をして、パチンと指を鳴らす。



「あ! 分かった! 普パイセン、ついに或斗くんに愛想つかされたんじゃないすか? DVは家庭をダメにしますよやっぱ!」


「死ね」



やはり人生の時間を無駄にしてしまった。


普は高楽を殴って1階の壁まで吹き飛ばすと、苛立ちも顕わにその場を去った。


或斗の生活の面倒を見てやっているのは普である。


食事を作っているのも服を買っているのも装備のメンテナンス費入院費その他諸々のすべての金を出しているのは普なのだ。


普があのすっとろくて救いようのない馬鹿をやらかす或斗を見限ることこそあれ、普が或斗に愛想をつかされる筋合いはない。


人は一般にこれをモラルハラスメントと呼ぶのだが、普は己のそういう幼稚さに無自覚であった。


――愛想つかされたんじゃ――忌々しくも高楽の声が脳内で反響する。


そんな筋合いはないと思いつつも、あれだけ面倒をみてやったドブネズミからそう思われている可能性があると思うとやたらとむかっ腹が立った。


このまま収穫なしに帰るのも……と思っていたところに、資料を持って階段をパタパタ忙しく昇降している人物に気付く。


天倉 美来里、或斗がミクリと呼んでいる友達らしい。


普はミクリのことをハツカネズミと呼んでいる、主に或斗の前と心の中で。


何となく貧相でチョコチョコと動き回る感じがネズミ類を思わせるのである。


よく考えたらミクリの方が栞羽より高楽のアホよりよほど或斗の変化には詳しいのではなかろうか、普はミクリとあまり親交が無いので失念していた。


普はその長い足でサッとミクリに近づき、ワタワタと持っている資料の束を取り上げる。



「どこまで持っていくんだ」


「し、此結さん!? えっと、4階の資料室までで……あの、私自分で持てますよ!」


「少し相談がある。先払いだと思って持たせろ」



有無を言わせない口調で資料を持ったまま4階へ向かう。


オタオタと後ろをついてくるミクリの雰囲気はやっぱりネズミとかリスとかそういう小動物のそれであった。


相談事があるからといって、普は普段異性にこういうことはしない。


普の顔の良さはほんの些細な行動によってでも異性に好意を誤解させる恐れがあるからだ、面倒くさいこと極まりない。


しかしこのハツカネズミ、ミクリは普の顔にキャーキャーしない珍しいタイプの女子である。


かといって、3度も命を助けてくれた或斗相手にもそういった感情は抱いていないようであるし、平凡に見えてその辺り一風変わっているというか、変な女子だ。


まあそのお陰で普は他に人の居ない資料室という、一般的な女子なら勘違いを起こしそうな状況下でミクリに相談を持ちかけられるのだが。



「或斗くんの様子ですか?」



ミクリは普に運んでもらった資料を棚へ整理して入れながら、不思議そうに聞き返した。



「ああ、明らかにおかしいんだが、何か心当たりは無いか?」


「うう~ん……」



ミクリは資料整理の手を止め、真剣な顔で悩む。


前2人とは大違い、もうこの時点でにじみ出る人徳が違う。


或斗はたまにミクリの人格について天使か何かかもしれない、と素っ頓狂なことを言っていたが、栞羽の馬鹿と高楽のアホの相手をした後の普には若干その気持ちが分かった。


普の脳内で天使の輪と羽をつけたハツカネズミの図が浮かぶ。


疲れの出てきている普の脳内に気付くことなく、ミクリは申し訳なさそうに言った。



「すみません。私と話してるときは前と特に変わったところはないですね……」


「そうか……」


「でも、それって此結さんの前だけってことですよね。じゃあ、或斗くんの此結さんに対する感情が何か変わったのかも……?」



フッとさきほどのアホの愛想つかされた説が浮かび、普は無意識に眉を寄せた。


ミクリは普の顔を見て、慌てて言葉を足す。



「き、きっと悪い変化じゃないですよ! 此結さんに対して、前よりもっと好意的になったとか……!」



好意的、普は或斗のへにゃっとした笑みを思い浮かべる。


キモい。


好かれるようなことは今まで通り一切していないはずである、それはそれで何が起きたのか分からず不気味だ。


そういった話をミクリにしても仕方がないので、普は相談料として千円をミクリに押し付け、恐縮するミクリを置いて資料室を出る。


ミクリにもわからないとなると、もう本当にお手あげである。


他に或斗のことを知っている人間……脳裏に一瞬小太りの男性のニチャついた笑みが過ったが、普は瞬時にそれを消した。


絶対にない、顔を合わせたくない。


帰るか。


そう思って歩いていると、2階の掲示板の前で脂ぎった小太りの白衣の男性と会ってしまう。


茂部である。


分析所に居るはずの茂部が何故ここに、と思った普は、茂部の手元を見てやはり顔から一切の感情が消えるのを自覚する。


茂部は掲示板に「あまね新聞」を掲示しに来ていたようだ。


「あまね新聞」とは!


此結 普ファンクラブが1~2ヶ月に1度発行している、普の最近の動向や活躍のまとめ、オフショット(本人承諾済み)、茂部の普たん♡コラムなどが掲載されている、狂った刊行物である。


しかし日明が本部掲示板への掲示を止めないあたり、『暁火隊』本部内にも需要があるということだ。


存在自体が意味不明であるし、需要があるのも恐怖である。


名前が「あまね新聞」なのも嫌だ、何か表記が絶妙に気持ち悪い。


そんな狂気の産物を手に持った茂部は、普の姿を見ると瞬時にやに下がった気持ちの悪い笑みを浮かべる。



「ハァハァ……普たん……こんなところで会えるなんて……運命(ディスティニー)……」



普は茂部と接するとき、立ったまま瞑想状態に入ることでその言動を出来る限り記憶に残さないよう努めている。


茂部の言動は出会った当初からおかしかったが、茂部の大学の先輩である日明の証言によると、普に会う前までは生真面目で愛想の無いのが珠に瑕なだけの優秀な科学者であったらしい。


今の変態仕草からは想像もつかない人物像である。


それ以上日明に苦渋を飲んだような表情をさせるのも辛かったので、普は茂部関連の話を日明へ振らないようになった。


それが現在のセクハラの嵐に繋がっている。



「普たん……雨の日でも普たんの周りは輝いている、ネ……♡普たんの輝きでおじさんの目が潰れちゃったら、責任とってくれるカナ? ナンチャッテ! おじさんゎ、責任をとりたい側だナ~♡」



普はふと思った。


今茂部をぶん殴ったらどうなるだろうか。


これまでは日明への遠慮と純粋な茂部への怖気で暴力を振るうに至らなかった普だが、殴れば普通に黙らせられるのではないか?


脳内シミュレーションしてみた。


普が殴る、茂部は吹き飛び、鼻血を出しながら普を見る、そして言う……「これが普たん♡の愛の鞭……! この痛みが、普たんのキモチってコト。。。♡ 殴ると殴られる、これはもう初めての共同作業と言っても過言じゃないね……ハァハァ」口も切れて血の滲んだ歯茎を剥き出しにしてニチャリと笑う茂部の姿がありありと想像出来てしまった。


嫌すぎるイメージ映像に、普は目を覆った。


そして嫌な閃きが普の脳を貫いた。


殴っても嬉しそうにしている……これは今の或斗の異常と同じ現象なのでは?


普はセクハラをさしはさみながら普へ心配の声をかけてくる茂部を完全に無視して思考を巡らせる。


ある日或斗が此結 普ファンクラブの会員証を手に、「普たん♡のファンクラブ58980番になりました!」と、茂部に似たニチャ笑いをしている姿を幻視する。


頭がガンガンと痛み、喉にこみ上げる吐き気。


絶対に嫌だ。


普は周囲をオロオロとうろつき、精密検査がどうとか心配なのかセクハラなのか分からない発言を繰り返している茂部の前から無言で去り、悍ましい未来を回避するための方策を考える。


もう藁でも良いから縋りたい、一縷の望みをかけて、普はスマホのインターネットブラウザで検索をかけた。


『人間 壊れた 直す』


出てきたページは9割が人間関係の修復についてとかいう、普には全く縁のない話題ばかり、残り1割は精神病についての記事であった。


この世に救いはないのか、普はネット記事の海を漁る。


すると、そのうちのとある記事にこう書かれてあった。


『人間関係は簡単に直るものではありません。昭和の家電のように叩いて直すなんてことも出来ないのですから』


普はなるほど、と思った。


その足で自宅へ戻ると、或斗が廊下を雑巾がけしている。



「あ、おかえりなさい普さん」



やはり笑顔である。


不気味すぎる。


普は或斗を呼ぶと、今までと違って全く無警戒に近づいて来た或斗の胸倉を掴み、とりあえず顔面をボコボコに殴った。


状況が理解出来ていない或斗の肩を蹴り、腹を蹴り、足とか腕とかも思う存分踏んだ。


ものの30秒ほどで或斗は使い古した雑巾よりボロボロの半殺し状態となった。


床で這いつくばる或斗はゼェゼェと息を途切れさせながら言う。



「何、で……今、俺、半殺しに……された、んですか……?」



普は言い放った。



「何となく」



或斗は気を失う直前にポツリと零した。



「理不尽過ぎる……」



ヨシ。


これがいつもの反応、あるべき形である。


普は心から安堵し、1人頷くと、気絶した或斗を抱えて『暁火隊』本部医務室へ放り込んだ。


或斗の突然の大怪我に田村医師は驚愕、経緯を普から聞き出すと、滅多に見せない鬼の形相となった。


長雨の音がしとしとと聞こえる医務室の床に正座させられた普は、小一時間田村医師から説教を受け、その後田村医師から話がいったらしく、日明からも執務室に呼び出されて懇々と叱られた。






或斗が『暁火隊』医務室での治療を終えてヨロヨロと出てくる。


今回の負傷はC級ポーションで済む程度であり、田村医師からも重傷じゃなくて良かったとのお言葉をもらった。


が、実はC級ポーションとはダンジョン攻略の中層くらいで使う、割とお高く効果の高い品なのである。


『暁火隊』の医務室だから無料で使ってもらえたけれども、普通なら割と命に関わる状況下で使われる薬であって……何が言いたいのかというと、何となくで同居人にC級ポーションを使うほどの怪我を負わせる普は異常であるということだ。


自分で怪我をさせておいて医務室に担ぎ込んできた普は今、日明の執務室にいるらしいので、帰る時間を合わせるにはどこかで時間を潰さなければならないだろう。


『暁火隊』本部に来ることも多くなって、そこそこ慣れた本部の食堂へ或斗が松葉杖をつきつつやってくると、小休憩をしていたらしいミクリが驚いた顔で駆けてくる。



「或斗くん、どうしたの!? その怪我……!」



また危ない目に遭ったのか、と心配するミクリには非常に言いづらいのだが、大した話でもないのに濁して隠し事をされたと思わせる方が嫌であるため、正直に言った。



「いや、ちょっと普さんにボコボコにされて」



そう言うとミクリは理解できない、という顔をして、やはり真剣に心配してくれた。



「えっと…………怪我の具合は、大丈夫なの?」


「C級ポーションを飲ませてもらったし、半殺しで済んだから問題ないと思う」



半殺し、という単語にミクリは顔を青くする。


そして周囲を見回してから言いづらそうに小さく或斗へ尋ねる。



「それって……大丈夫なの? 或斗くんと、此結さんの関係って……」



なるほど確かに、友達が同居人から突然半殺しにされていたら驚くし、同居人との関係が悪いのかと心配にもなるだろう。


ミクリの懸念はもっともである。


しかし或斗は笑って答えた。



「まあわけもなく半殺しにしてくるけど、普さんって殺したいほど俺のことが大事らしいから大丈夫」



ミクリはポカンとしてから、頭の上に疑問符を浮かべ、傾けた首の確度でわけのわからなさを表現した。


その反応に或斗もクスクスと笑う。


窓の外では長雨が止み、平和な巻雲が青い空に秋模様を引いていた。


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