19 彼の本当
或斗が目を覚ましたのは、山火事の夜からまる3日経っての朝のことだった。
起きてしばらくは頭が重く、視界がぼやけていた。
ぼやけた視界で確認するに、どこか見知らぬ病院の個室のようであった。
或斗の横には点滴のパックがかかっていて、腕に針が刺さっている。
目を覚ましてから1時間前後は、脳が体の動かし方を忘れたかのように体が思う通りに動かず、声もかすれきっていて、人に自分の目覚めを知らせられず、どうしたものかと思った。
目覚める前のこと、あの山火事の夜の戦いを思い出すなどして時間を潰すのにも限界があって、もしかすると自分の体はこのまま一生動かないのか、と悲観が入り始めた頃、首からゆっくりと動かすことが出来るようになった。
ようやっと上体を起こせた頃、『暁火隊』本部医務室勤務の田村医師が病室に入ってきたので、或斗は驚いた。
何故見知らぬ病院にいるのだろう、と目を瞬かせた或斗に、というか或斗の目覚めに気付いて、田村医師は早足で或斗のベッドへ近づくと、いくつかの健康状態チェックを行い、大きな問題がないことに安心したようだった。
声のかすれは水を含ませてもらえれば治った。
指先など末端の痺れは時間と共に回復するだろう、と田村医師はまず或斗の不安を解消してから、眉をひそめてお説教モードに入る。
「結論から言うとね、君は死ぬ直前でした」
田村医師が重々しい口調で語ったところによると、病院に担ぎ込まれたときの或斗は本当に脳死一歩手前だったらしい。
S級ポーションを脳に直接投与するなんて初めての処置だったそうですよ、と田村医師は或斗の受けた処置を簡単に説明してくれた。
脳が焼けて駄目になるほどの高温を発していたことが原因だったため、高ランクポーションを脳室内に直接注射し、無理やり回復させたのだとか。
あと少し処置が遅ければ、悪くて死ぬか良くて重篤な後遺症が残るところだったと懇々諭される。
この病院は山の麓から少しの街にある『暁火隊』と提携している大病院であるらしく、S級ポーションなど普通の病院では取り扱っていないか、あっても普通は使ってもらえない。
要するに、普のコネを最大活用してようやっと或斗の命は繋がれたらしい。
田村医師は或斗の症状を詳細に知る者として、経過観察のために『暁火隊』本部から出張してきてくれたらしい。
「ダメだよって言って1ヶ月以内にやらかす子がいるとは思わなかったね」
「それは本当に……はい……」
言い訳のしようもない。
なんだか虹眼の発覚の時も似たような経緯だったような気がする。
今度は事故からではなく、ただ或斗の選択の結果だった。
だから無理をしたことは謝らないけれど、心配をかけたことには謝った。
田村医師は、「もう二度と無理をしちゃいけないよ」という言葉に曖昧に笑って誤魔化した或斗を見て、深々とため息をついた。
「まあ、ダンジョン攻略者なんて皆そんなものではあるけれど……」
腕を組み、難しい顔で一定の理解を見せてから、田村医師は釘を刺す。
「君が無理をした分、心配する人たちがたくさんいるってことは忘れてはいけないよ」
「……はい」
「でも、無事に目が覚めて良かった」
田村医師は険しい顔を作るのをやめて、いつものほっこりとした笑い方をして言った。
その雰囲気に、日常へ帰ってこられたことを実感して或斗もようやく安堵出来た気がする。
「はい、或斗くん、リンゴ剥けたよ」
「ありがとう……あの、自分で食べられるよ」
「まだ指先に少し麻痺が残ってるって聞いたよ! 絶対安静なんだから、こういうときは任せて!」
ミクリは皮を剥いて切ったリンゴを或斗の口元へ差し出した姿勢のまま動かない。
或斗は目を覚ましてからずっと、病院で待機していたミクリから存分に看病をされていた。
麻痺が残っているといってもほんの些細なもので、細かい文字を書くなどでなければ困ることはない。
自力で立ってトイレにも行けるし、リンゴの皮を剥く……のは元々の技量の問題で或斗が上手く出来るか怪しいところであったが、食べるくらいは普通に出来る。
よってこの、高楽あたりが見たら怨念の涙を流しそうなシチュエーションも必要なものではないのだが、ミクリの心配と使命感に水を差すのも申し訳なく、或斗はミクリから差し出されるままにリンゴを食べた。
「おいしい?」
「うん、おいしい。不思議だよな、数ヶ月前までリンゴなんて贅沢品、年1で食べられるかどうかってところだったのに」
或斗が1人暮らしを始めてから1度だけ、なけなしの金をはたいて買ったリンゴは萎びていて、結構酸っぱかった。
今口にしたものは旬を外れているというのに、以前食べたものと同じ食べ物なのか疑うほど、甘くて瑞々しかった。
「そっか、或斗くんの孤児院って結構……厳しい噂があるところだったよね。私は孤児院ではリンゴとミカンはたまに食べさせてもらってたなあ」
このミクリを育てた孤児院なのだ、それは温かく、或斗の居た孤児院なんかよりずっと良い環境だったことは間違いないだろう。
そうして育った孤児たちが自立した後、恩返しに仕送りなどして、孤児院は更に良い環境になる、という正のスパイラルが生まれているのだと思う。
孤児院の話題で、或斗はあの偽りの楽園で幸福に過ごしていた子供たちのことを連想した。
一応初めに、田村医師から或斗が一番重症で、普は低級ポーションを飲んで即日回復、高楽に至ってはかすり傷もなかったとは聞いている。
普も大概だが、高楽の体はどうなっているのだろうか、火事の前から普にボールよろしく蹴り転がされていたはずなのだが。
「その……ミクリは聞いてる? 俺が寝てる間に今回の件がどうなったかとか」
こうして友達とほのぼのしている時間も大切にしたいと思うけれど、あの後のことは知っておかなければならない。
顔を引き締めた或斗を見て、ミクリもリンゴを置いて姿勢を正し、後方支援部隊として共有されている情報を話してくれた。
「うん。まず、あの孤児院で育てられていた子供たちは一旦『暁火隊』が保護することになったんだって。一般常識が欠けている部分が目立つみたいだから、『暁火隊』の関連孤児院へ預ける前に一通り常識を教えるべきだって話になったらしいの」
高楽さんのお陰で子供たちはほとんど怪我もないみたい、と聞いて或斗はホッと息をつく。
流石に慣れない山道を夜中歩いて下っていくにあたって転んだ子供などは居たそうだが、ポーションを使う必要もないほどの軽傷らしい。
「一応ね、『カージャー』に何か体に仕込まれていないか分析班の人が検査もしてくれるって」
或斗は、人格はともかくとして能力は確かな茂部を思い出し、それならあの子供たちはもう安心だろうと思った。
高楽は元気が有り余っているくらいだそうで、一旦別の任務に駆り出されているという。
適性格差については普で重々理解していたと思っていたのだが、また別種の強靭さを発揮する高楽の体には驚かされる。
ちなみに高楽は自他ともに認める残念頭脳を持つ男なので、子供たちの教師役などはとても務まらない。
教師役についてはおそらく情報部の誰かがつくことになるだろうとのことだった。
「此結さんは今回の件について、日明さんへ報告するために『暁火隊』本部に戻ってるよ。きっと今頃報告書を書き終えてるところじゃないかなあ」
或斗は密かに胸を撫でおろした。
今回は普の援護をして気絶した上、また普に運ばれて病院へぶち込まれている。
絶対に何やかやと理由のついた罵倒と暴力が飛んでくるに違いない、正直なところ不在には心細さより安心感の方が大きかった。
血を流していた姿の記憶が最後なので心配ではあったが、即日回復したとのことでもあるし、まる3日も寝込んだ或斗に心配されていたと知られた日には「お前みたいな味噌っかすと一緒にするな」と張り倒されそうだ。
そんなちょっとした安寧に感謝していた或斗に、ミクリが悪気なく言う。
「でも、或斗くんが目覚めたって連絡はもう本部にもいってるはずだから、向こうでのお仕事を終えたらすぐ来てくれると思うよ」
或斗の未来に暗雲が立ち込めた。
普が或斗の護衛役をしてくれていることは変わっていないので、どうせそのうち顔を合わせることにはなるのだが、出来るだけその時は遠い方が普も忘れて……くれなさそうだな、じゃあ一緒か。
梅干しを含んだような酸っぱい顔をしている或斗に首を傾げつつ、ミクリは共有を続ける。
「此結さんが孤児院から持ち出してくれてた資料が、『カージャー』が世界的にコッソリ運営している構成員養成所を見つけるための一助になりそうなんだって。でも、『カージャー』のことだから場所や運営母体の偽装をすぐ変えちゃって、見失う可能性も高いって」
それでも国内のいくつかは確実に押さえられるだろうって言われてるみたい。
ミクリの言葉に、或斗は何とも言えない心地になる。
『カージャー』の構成員になどなるべきではない、子供たちはそんな未来から救われるべきだ。
しかし今回の子供たちのようにまだ何も知らされず、ダンジョン社会の厳しさを知らない無垢さを持っている子供たちはもしかしたら、偽りの楽園から引きずり出した『暁火隊』を恨むこともあるかもしれない。
特に、ダンジョン適性の低い子供は……誰しもが或斗のような特別な力や、ミクリのように強い心を持っているわけではないのだから。
或斗は考えてもどうしようもないことだ、と頭を振って余計な念を払う。
『カージャー』は潰さなくてはならない、いずれ必ず或斗はそうする。
であれば、子供たちの問題は今だけのことでもなく、子供たちもあるべき姿に戻るだけのことなのだ。
日明や普はこんなことで悩みはしないだろう、或斗は未だに抜けない自分の弱さに辟易した。
「或斗くん、大丈夫?」
「ああ、ごめん。大丈夫……そういえば、バル=ケリムたちは?」
あの状況下で追跡が出来たとは思えないが、バル=ケリムについては特殊幽銀で追尾出来るようになっている。
『暁火隊』であれば、或斗が寝ている間に再捕縛まで終えていそうな気がした。
或斗がバル=ケリムの名前を出すと、ミクリは眉を寄せて少し辛そうな顔をした。
「それが……」
ミクリが言いづらそうに語った内容は或斗を驚かせるに十分であった。
バル=ケリムは、孤児院のあった山から少し離れた別の山の中で死体となって見つかったのだという。
近くを探索してみても、エノクらしき死体はどこにも無かった。
状況から、バル=ケリムは「カージャー」から見捨てられ、情報漏洩を防ぐために殺されたものと考えられる。
「……酷いよね、仲間を殺すなんて……」
或斗の脳裏に、或斗のためであればゾエーを殺すと言ってのけたバル=ケリムの姿が浮かんだ。
奇しくもバル=ケリムは自分が処分される側に回ってしまったのだ。
続けて聞いたところによると、バル=ケリムの死体は茂部が解剖し、モンスター融合実験の原理を解明することなどに使われるらしい。
ミクリは「カージャー」の幹部だとはいえ、普通に弔ってももらえないバル=ケリムの末路に同情を寄せているようだった。
「……ミクリには、話しづらいことだったよな。ごめん」
優しいミクリの顔がかげるのは、或斗にとっても心が痛むことだった。
そう言うとミクリは大きく首を横に振り、自分の頬をむにむにとしてキリッとした表情を取り繕う。
「ううん、私も、強くならなきゃだから」
無理はしないでほしいと思う或斗だったが、それを口にするのはきっとミクリへの侮辱になる。
或斗はああ、とだけ頷いて、これからのことに思いを馳せた。
さて、そんなミクリが栞羽からの「バル=ケリム調査報告書」とまとめられた紙束を持ってきたのは或斗が目覚めてから2日後のことだった。
絶対安静と重々言われている身の上である、病室での時間をかなり持て余しており、任務に関わることでもやるべきことが発生したのは喜ばしいことだった。
機密、と赤い字で印字された調査報告書には、バル=ケリムの素性やモンスター融合実験についての話が記載されていた。
バル=ケリムの死体から得た遺伝子情報や手術痕、ワクチンによる抗体の種類、歯型にその他諸々の情報を全て掛け合わせて栞羽は何とかバル=ケリムの素性に辿り着くことが出来たそうだ。
その辺りの細かい手段は記載されていない。多分グレーゾーンないしブラックな手法を使ったのだろう。
バル=ケリム、本名「グィエン・バン・チェット」、チェットが名前らしい。
45歳で、東南アジアの小国ミゼールポレンの小さな村出身の、元は生物学畑の研究者だったという。
ミゼールポレンの国立大学の学生であったが、ダンジョン発生後のモンスター氾濫により故郷の村が滅び、帰る場所を無くした。
その後は政府の研究機関に属し、モンスターやダンジョン発生後に変異した人間の生体解剖を含む非人道的な研究を行わされていた。
こういった研究については混乱期にはどこの国でも似たようなことが行われていたと噂されているが、ミゼールポレンについては近隣の仮想敵国によって研究内容が公に暴露されてしまった。
ミゼールポレン政府は研究機関の暴走と発表し、バル=ケリムたち研究者を切り捨てたらしい。
おそらくその後食うにも困っていたバル=ケリム、その頭脳と技術に「カージャー」が目をつけ、接触したのではないかとのことだった。
バル=ケリムを解剖して得られた情報としては、モンスターとの融合実験にはダンジョンコアが深く関わっているだろうという見解だった。
茂部の長々した理論を要約するには、バル=ケリムの夢魔との融合箇所、脳の辺りにダンジョンコアの放つ独特の魔法的波長が確認出来たという。
どういった手順で行われているのか、実験におけるダンジョンコアの使い方、手術の場所、知りたいことだらけで困る、早く他の「カージャー」幹部を生きたまま解剖させてほしい、という茂部の要望は見なかったことにした。
研究分野のことは或斗の知識では完全に理解しきれない茂部の所見くらいのものだったが、栞羽からの共有事項に大いに気にかかることが書かれてあった。
バル=ケリムの本名と、死体から偽造した生体情報を使って再度バル=ケリムの拠点から得られた全ての情報を洗い直してみたところ、1つだけ「カージャー」共有のものではないだろう謎の暗号文が出てきたそうだ。
その暗号をバル=ケリムの個人情報を駆使して解析してみたところ、モンスター氾濫で既に滅んでいるバル=ケリムの故郷の村の座標と合致したのだという。
栞羽は、バル=ケリムが「カージャー」に対してさえ隠していた何かがあるのかもしれない、との見解を示している。
引き続き調査を続け、目途が立てば現地への調査班を組むことも視野に入れているそうだ。
バル=ケリムの死体が手に入ってから5日も経っていない間にこの膨大な情報である、おそらく栞羽も茂部もまた徹夜続きなのではないだろうか。
かわいらしい系統の顔の目元に浮かぶどす黒い隈を思い返し、或斗は栞羽が倒れないように願った。
茂部は別にいい。
調査報告書を読んでいる間に、ミクリは後方支援部隊の仕事で呼び出されていった。
話し相手もいなくなり、シンとした病室。
他に出来ることもなし、もう一度報告書を読みなおそうと書類を捲ったところで病室にノックがある。
ノックの主はこの病院の看護師であった、或斗もここ数日で何度もお世話になっている人だ。
はて、夕飯の時間には早く、田村医師の経過観察は午前中に終わっており、何かあったのだろうか。
呑気に首を傾げた或斗に、看護師は笑顔で爆弾を落とした。
「遠川さん、此結さんが東京からお見舞いに来られましたよ」
或斗は咄嗟に面会謝絶に出来る理由を探したが、午前中の経過観察では調子は良好も良好、明日には退院出来そうだね、とのお言葉をいただいている。
急な腹痛とかで気絶出来ないかな、と思っている間に看護師は去り、或斗は閉められたドアを見て恐々としていた。
入院期間、伸びるかもな。
この2ヶ月強、或斗と普は半日以上離れていることはなかった。
それがここ数日間会わなかった、しかもミクリという人型和み発生装置に看病されて過ごしていただけに、或斗は暴力罵倒耐性が下がっている自分を自覚する。
これから起こるだろう暴言暴行祭りを思うと胃がキリキリと痛む。
そうは言ってもいずれは通る被暴力の道である、逆に病院内ならすぐ治療してもらえる分、マシかもしれない。
或斗が諦観を浮かべ、遠い目をしていると、病室の扉がガラ! と乱暴に開けられる。
長身、容姿端麗、怒りのオーラ、どれをとっても普その人である。
普は病室の扉を開けたところで一旦立ち止まり、ベッドの上で上体を起こした姿勢で居る或斗を数秒見ていたかと思うと、今度は静かに病室に入り、扉を閉める。
視線を彷徨わせ、今まで読んでいた書類をサイドテーブルに置いたり手元に戻したり、と挙動不審さを見せる或斗の予想に反して、普はしばらく口を開かなかった。
それどころか普は無言のまま病室の入口付近で止まっていて、或斗に近づいてくることもない。
何を言っても藪蛇になりそうだと考えて、或斗は何も言えずに固まっている。
段々暴力に対する危機感よりも気まずさが勝って、別の意味で胃が痛んできた。
或斗は自分がどちらかといえば口下手なことを自覚している、こういうときに何と言えば良いのか、パッと出てこない。
まあ相手が普である以上、一般的なことを言えたとしてそれが正解になるとも思えなかったが。
こんなとき……こんなとき、未零なら場を和ませる冗談の1つでも言えたのだろうか。
いかにも言えそうだし、未零ならその後普が怒って罵倒してくる流れまで楽しんでいそうだった。
或斗は普に何も言えない。
ただただ気まずさだけが、降り積もる埃のように病室に堆積していく。
或斗がいっそナースコールでも押すか? と頓珍漢な考えに及んだ頃、普がようやく口を開いた。
「体調は」
離れたままの普は、或斗が予想していたような暴言の修飾語を一切省いた短い問いを投げてくる。
異常現象ではあったものの、見舞いに来た人間からかけられる言葉としては一般的ではある。
「ポーションが効いたらしく、元気です。後遺症なんかも運良く残らなかったそうで」
或斗も変に捻ることなく返した。
助かったのは99%普のコネのおかげらしいので、それについても「ありがとうございます」と礼を言う。
残りの1%は運だそうだ。
或斗の返答を聞いた普はやはり或斗の方へ近づいてくることなく、黙り込んでいる。
或斗はもちろん体験したことはないのだが、一般的に言われるジェットコースターの一番高いところに向かっている気分、あるいは爆発しそうな爆弾を目の前にしたときの居心地というのはこういう感じだろうか、と腹の底が浮き立つような落ち着かなさを感じてきた。
あまりに普らしくない挙動と病室の沈黙、緊張感に堪えられず、或斗は口を滑らせる。
「殴らないんですね?」
言った瞬間、これ藪をつつくどころか丸刈りにしたな、と後悔したが、やはり意外なことに普は暴言を吐くことなく短く答えた。
「…………眞杜さんに固く止められてる」
あ、止められてなかったら殴ってたんだ、という謎の安心感、日明に対する感謝の念が湧き上がる。
そして病室は再び重たい静けさに包まれる。
或斗は今までの普とのやり取りを思い返し、1に暴言2に暴力ではあったけれども、或斗と普の間では暴力さえも一種のコミュニケーションとして機能していたのだなあと半ば現実逃避に入った。
無論殴られたいと思っているわけではないが、普がいつもの調子を発揮せず、黙りこくっているのがいつもの倍以上に怖く、そして同時に心配でもあった。
まさか来るまでの弁当で腹でも壊したわけではあるまいし、そもそも適性Aの理不尽の塊は食中毒ごときで調子を崩さない。
ぐるぐると考えるも、やはり或斗には何を言えば良いのか分からなかった。
1つだけ、おそらく言うべきなのだろう言葉はあったけれど、或斗はそれを口にしないと決めている。
今回、倒れて死にかけるまで多視の虹眼を酷使したのは或斗の覚悟の表れである。
どれだけ正論パンチで心を打たれようと、物理的に蹴り転がされようと、謝罪だけはしないと決めていた。
カチ、カチ、カチ、と旧式の時計の針の音だけがする病室。
ミクリももうしばらくは戻ってこないだろう。
そう広くもない個室なのに、何歩かの距離の先に居る普が酷く遠く思えた。
緊張を孕んだ静けさの支配する病室で、一体何分経っただろうか。
ようやく普が或斗のベッドへ、ゆっくりと近づいてくる。
普は或斗が上半身を起こして横たわっているベッドから1歩の距離で止まり、或斗を見下ろしていた。
その形相には憎悪さえ感じるほどの怒りがあり、練りに練られた本気の殺意が或斗の肌を刺す。
或斗の背中を冷や汗が伝った。
長い間無言だった普は低い低い、怒りを極限まで織り交ぜた声で或斗に言った。
「勝手に俺より先に死んだら殺す」
「勝手に俺の前から消えたら殺す」
シンプルかつ矛盾を芯にした言葉は、やはり殺意を込めた眼で睨みつけるように吐露された。
或斗の黒い瞳と、普の夜を燃やす陽のような瞳が交錯する。
普は過去一番怒っていて、普自身の命を助けた或斗を殺さんばかりに憎悪していて、そこには暴力も暴言も無いが、いつもよりずっと手厳しい反応である。
それでも或斗は、普の燃えるような怒りの目が泣いているように見えた。
普は泣いたりしない。誰よりも強いから。
けれど、彼の中にあるせいいっぱい、から零れた声が聞こえた気がした。
或斗は少し黙って、普の言葉を反芻する。
初めて会った時には殺されかけ、その後は暴言暴行のオンパレード、未だにドブネズミ呼びがデフォルト。
心配していたと周囲が言うのとは反対に、普はいつも怒っていて、怒りをそのまま或斗にぶつける。
或斗は16歳で、ちょうど未零が行方不明になったのと同じ年頃の子供だ。
日明から頼まれたということもあって、或斗の身を守ることに手を抜かない。
そのどちらの事実からも、普の或斗への感情そのものは見えてこなかった。
或斗が普と出会って、この夜明け色の瞳で目を覚ましてから、2ヶ月強。
未だに普と或斗の間にはブラックボックスがある。
けれどようやく、或斗の目に普の本当が見えた気がした。
或斗は普の目をしっかりと見つめて、微笑んだ。
「死にません」
「俺はどこにも行きません」
だからどうか泣かないで。
此結 普という人は、この5年間、ずっと1人で負の感情を抱え続けてきたのだろう。
それすらも原動力として、1人きりで走り続けてきたのだろう。
「俺は貴方を1人にしません」
強い人だ、それはダンジョン適性というだけではなくて、心が、人間としての芯が強い人なのだ。
それでも1人きりで走り続けることで、どれだけ摩耗しただろう、どれだけ苦しんだだろう。
たとえ負の感情をぶつけるオモチャでも良い、走り続けるのなら根性だけでついていく。
「普さんの隣で戦います。戦わせてください」
普の持つ或斗へのブラックボックスの中身は、わからなくてももう構わない。
或斗が決めたから。
普を置いて死なないこと、普を置いてどこにも行かないこと、普の隣で戦い続けること。
普を、守ること。
不器用過ぎて、責任感が強すぎて、理想が高すぎて、優しすぎる人がこれ以上傷つかないように、或斗が見ている。
これだけが、或斗と普の間の目には見えない本当だ。