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筆者おすすめ短編集

異世界転移したら、麗しの執事様にお夜食をご馳走になりました

作者: 五条葵

 香菜はとにかく疲れていた。職場で急な欠員が発生して、思わぬ長時間労働になったのだ。なんとか仕事を終え、アパートにたどり着いたのは、もうどっぷりの日付も変わった頃。


 仕事は嫌いでない。とはいえ限度がある。疲れで意識が朦朧としていた彼女は、アパートの外階段が、夕方まで降り続いた雨で、随分と濡れていたことにも気づかなかった。


「やっと着いた。とりあえずさっさと寝て……ってわぁ!」


 一刻も早く部屋に入ろう、と階段を駆け上がった香菜は疲れのせいか、足をもつれさせる。悲鳴を挙げ、慌てて手すりに手を伸ばすが時すでに遅し。体が宙に浮き、一瞬時間が止まる。後頭部に衝撃と強い痛みを感じた香菜の意識は一気に真っ暗になった。






「あなた、何者です? 名を名乗りなさい。なぜここに?」


 どのくらいの時間が経ったのか、ようやく意識を取り戻した香菜の耳に突然鋭い声が降ってくる。パッと目を向けると、厳しい顔つきの盛装を纏った男が、自分を見下ろしていた。


「あなたこそ誰ですか? それにここはどこ?」


 自分を凝視する男に、若干の不快さを覚えつつ香菜は質問を返す。男は警戒を解かないまま、端的に答えた。


「私はクレイグ。ルーディス子爵邸の執事をしています」

「ルーディス子爵? どういうこと? ここは外国?」

「あなたがどこの国の人かは知りませんが、ここはメルシェル王国ですよ。なるほど、その服装……もしかして……迷い人ですかーー」


 意味がわからない、とばかりに質問を重ねる香菜にクレイグはランタンを向け、そこでなにやら納得したようだった。


「迷い人? 確かにここがどこかもわかりませんが……」

「いえ、時折いるのです。全く別の世界から来る人が。あなたの住んでいた世界にメルシェル王国という国はなかったでしょう?」

「……はい。ーー別の世界? 別の世界!? もしかして私は」

「世界を渡ってこちらへ来てしまった、ということですね」

「そ、そんな……私! どうすればいいんですか?」


 異世界転移。アニメや小説で見たことはあるけれど、まさか自分に起きるなんて思っていない。慌てて周囲を見渡すと、確かにそこにはさっきまでいたはずのアパートはなく、暗い森の中だ。


 とにかく何かがおかしい。そのことに気づいた香菜を、急に底知れない不安と悲しみが襲った。


「わ、私……。本当にどうすれば!? もう帰れないんですか?」


 次々に溢れてくる涙。そんな彼女に少し困ったような表情をしたクレイグだが、それからスッとハンカチを渡した。


「私も『迷い人』は初めてです。ただここは子爵邸の敷地とはいえ森の中。もしよければとりあえず屋敷にいらっしゃいますか? 少しは落ち着くでしょう」


 彼女に手を伸ばすクレイグ。知らない男の誘いなんて乗るべきではないのは分かっている。かといって他に選択肢もない彼女が黙って頷くと、クレイグは存外丁寧な仕草で「失礼」と言って、ひょいと彼女を姫抱きにする。そして、実は目の前に合ったらしき、大きな屋敷の中へと彼女を連れていった。


「とりあえずこちらのソファでお休みください。もしなにかあればこのベルを。私は少し外します」


 香菜を小さな部屋のソファに寝かせたクレイグは、そう言うとスッと部屋を出ていく。暖炉があるようで、部屋の中はほのかに温かい。その温かさが今の香菜にはとても心地良い。このままもう一度元の世界へ戻れないかな? そんな希望を抱きつつ、泣きつかれた彼女はいつの間にか、眠りについていたのだった。






 どのくらい眠っただろうか。不意にドアがノックされ、香菜の意識が覚醒する。


「どなたですか?」

「クレイグです。入っても?」


 返ってきたのは先程の男の低い声だ。香菜が返事をして、体を起こすと、なにやらトレーを持ったクレイグが部屋に入ってきた。


 あらためて明るい部屋で見ると、スラリとした長身に黒の燕尾服と赤いリボンタイ。顔立ちは整っており、真っ直ぐな黒髪はしっかりと撫でつけられ、後ろへ流されている。香菜を拾ってくれたクレイグ、という男はなかなかの美青年なようだった。


「起こしてしまい申し訳ございません。しかし、ソファで寝入っては体を痛めてしまいますので。あと食事をお持ちしました。いかがでしょう? シェフが寝てしまった後なので、私が作ったもので申し訳ございませんが……」


 クレイグの持つトレーには、確かにいくつか食器が並んでいる。とてもいい香りがしていて、急に香菜のお腹がぐぅと音を立てた。


「えっと……その、いただきます。何から何まですいません」

「いえ、こちらこそ先程は怪しんで申し訳ございませんでした。ではどうぞ、こちらのテーブルに」


 クレイグに促されるまま、香菜は部屋の真ん中の小さなテーブルへ向かう。並んでいたのは海とトマトの香りのするスープにパン、そしてワインの入ったグラスだった。


「ディナーの余り物ですが、その分食材は良いものを使っています。近くに良い港があるんですよ」

「そうなんですね……では、いただきます」


 元いた世界の習慣に倣い、手を合わせた香菜は、それからスープを一口、口にする。と、彼女の目がパッと見開いた。


「お、おいしい……。美味しいです、クレイグさん」

「それは良かった。さ、ごゆっくりどうぞ」


 スープの具材はトマトと貝だ。しかし、だしには魚や海老のような味もする。香菜には馴染みのないハーブのような香りもするが、不思議と嫌な感じはしなかった。


「食欲があるようなら安心です。良ければパンもどうぞ。アイオリソースをつけてから、スープに浸せば幸せな気持ちになれます」

「フフッ。分かりました。やってみます」


 クレイグのすすめに従い、香菜はスープの隣の皿の薄切りのパンにも手を伸ばす。いわゆるフランスパンのようなものだろうか? 添えらえた白いソースはほんのりにんにくの香りがし、パンに塗ってからスープに浸すと、両者の風味が際立って、さらに食欲が湧いてくる気がした。


「とっても美味しいです!」


 昼から何も食べていなかった香菜は、夢中で手を動かす。あっという間にスープとパンを食べきり、グラスのワインを飲み干す。そうしてようやく香菜に、周囲を観察する余裕がでてきた。


「ご馳走様でした。えっと……クレイグさん! クレイグさんは……執事なんですよね? お料理も仕事なんですか?」


 自分と向かい合って座る男は、確かに昔1度だけ行った、執事喫茶にいたような服装をしている。


 物腰も含め、執事と言われてもなんの違和感もない。しかし執事の仕事、といえば、お客さんをもてなしたりすることではないのだろうか?


 香菜の頭の中に浮かぶ執事像は、「おかえりなさいませ、お嬢様」と微笑むあれだった。


「いえ、私の仕事はこの屋敷の人事や金品の管理、あと屋敷にいらっしゃるお客様への対応です。食事づくりは専門の料理人がいますよ」

「では、どうしてクレイグさんが料理を?」

「趣味です。遅い時間まで仕事をしているとお腹が空きますからね。シェフとは昔馴染みで、時折厨房を使わせていただいているんですよ。さ、香菜さん? おかわりはいかがです?」

「あ、では……もう少しだけ」


 クレイグは笑顔でスッと立ち上がり、1度部屋を出ていく。彼が持ってきてくれたスープのおかわりもしっかり飲み干して、香菜はお腹いっぱいになった。


 お腹が満たされれば、多少なりとも前向きになれる。まずはお礼を言わなければ、と香菜は立ち上がった。


「クレイグさん。ご馳走様でした。ありがとうございます」

「いえ、喜んでいただけたなら何よりです」

「この御恩は一生忘れません。では……玄関は向こうでしたよね」

「えぇーーってちょっと待ちなさい、香菜さん! まだ外は暗いですよ。それにどこへ行くのです?」


 香菜の感謝にニッコリと微笑むクレイグ。しかし続く言葉には、少し慌てたようだった。


「どこへって……決めてませんが……きっとどこかには街もあるのですよね? そこで仕事でも探そうかと……」

「それは止めませんが……あなたはまだこの世界について何も知らないでしょう? 少なくとも暗い中での一人歩きなんていけません」

「そ、そうなんですか?」

「もちろん。後ほど馬車を手配します。ですが、もし良ければ香菜さん? あなた、うちで働きませんか?」

「こ、ここで!? ですか?」


 突然の提案に素っ頓狂な声を上げる香菜。一方クレイグはというと、キラリと目を光らせた。


「先程私に見せてくれたお辞儀。こちらの世界とは違うものでしたけど、随分と綺麗でした。前の世界では誰かにお仕えを?」

「お仕えって……そういう訳ではありませんが、ホテルで働いてました。お客様のいる仕事なので、そういう意味ではお仕えしていたとも……」

「ホテルーー使用人学校時代に聞いたことがあります。質の良い宿屋のようなものですね。なるほど、ますます気に入りました。少し待っていてください」


 そう言うと、またしても席を外すクレイグ。すぐ戻ってきた彼が手にしていたのは数枚の書類だった。


「実は奥様付きの侍女が一人、実家の都合でやめてしまいまして、代わりとなる方を探していたのです。いかがでしょう? 私が言うのもなんですが悪くない条件だとおもいますよ」


 いつの間にかお仕事モードに入っているクレイグが、香菜に書類を手渡す。この国の給料事情がどんなものなのかはとんとわからないが、少なくとも衣食住は確保出来るし、休日や昇給もあるようだった。確かにどんな仕事があるかもわからない街へ行くより安全かも知れない。香菜は割と即断即決するタイプだった。


「分かりました。私、ここで働きたいです! 使用人としては未経験もいいところですが……」

「もちろん、きちんとお教えしますよ。女中頭がもともとは本家で侍女をしていたので詳しいでしょう。それではこちらにサインを」


 差し出されたペンを借り、香菜が書類にサインする。香菜の新しい人生が始まったのだった。






 そうして、ルーディス子爵夫人付きの侍女となって1月半。香菜はようやく新しい生活に馴染んできた。


 子爵、というから貴族としては下位なのだろう、と最初は思っていた香菜だがとんでもない。香菜が仕えることになったのは、このあたり一帯を治める侯爵家の跡取りだった。ルーディス子爵、というのは侯爵家が持つ爵位のうちの一つらしい。


 ただ、子爵は結婚を機に最近本邸から出たばかりらしく、子爵邸の使用人はまだ少ない。


 まずは執事のクレイグ。侍女としての経験も豊富なメイド頭のクレアと、彼女を補佐するメイドのダリア。子爵付きの従僕ロッシに料理人のプレマン。御者、護衛、修繕担当を兼ねるゴードン。


 本来は倍以上の人数が必要らしいが、とりあえずあとは通いの使用人達で賄っているらしい。おかげで少々忙しいが、みんな良い人ばかりで香菜はホッとしていた。以前務めていたホテルはあまりにも大きくて、正直苦手な人もいたのだ。


 そしてそんな彼女が仕える子爵夫妻は、21歳と20歳とまだ若い。しかし、さすがは侯爵家の跡取りと思わせる落ち着きと貫禄の持ち主だ。子爵夫人は隣領の伯爵家の出身で二人は幼い頃から許嫁だったとか。贔屓目なしの美人である彼女は、この世界に疎い香菜にも心を砕いてくれる優しい雇い主だった。

 そんな訳で割と順調に新生活を開始した香菜。そんな香菜の密かな楽しみが、たまにクレイグが作ってくれる夜食だ。


 クレイグの趣味が料理だ、というのは本当らしく、時折夜食を作っては香菜に振る舞ってくれる。


 夜更けの使用人用ダイニング。今日の夜食は、チーズの香りが食欲をそそる、グラタンのようなものだった。


「わあ! 美味しそうです、クレイグさん。これは?」

「細かく割いた牛肉のシチューに、潰したじゃがいもとチーズを載せて焼いてあります。このあたりに昔からある料理なのですけど、シチューはディナーの残りですからね。美味しいですよ」

「それは楽しみです! 早速いただきます!」


 クレイグの夜食はだいたい、子爵家のディナーのリメイクが多い。だが、それは材料の質がとんでもなく良い、ということだ。クレイグのいたずらな瞳に香菜は頬を緩ませ、手を合わせると早速スプーンを手にとった。


「ハフッ……美味しい! このシチュー、コクがあって、お肉も柔らかくて、とっても美味しいです!」

「それは良かった。シチューはプレマンの得意料理ですからね。伝えておきましょう」

「……。そ、その、このチーズとじゃがいものまろやかさが合わさるのが、またとっても美味しいですよ。さっすがクレイグさんです!」


 クレイグの言葉に慌ててフォローを入れる香菜。だがクレイグは気にした風でもなく、スプーン片手にニコリと笑った。


「元の料理を美味しく活かせていたなら、それが一番でしょう。そう言ってもらえると光栄です。さて、私もいただきましょう」


 クレイグは上品にスプーンを動かして、シチューを口に入れるクレイグ。すると彼の顔がほころび、香菜は思わずドキッとした。


「うん、我ながら上出来だ。そうだ、香菜さんは明日お休みでしたよね。私も今日は仕事が終わってますし、ワインでも開けましょうか」

「は、はい……お願いします」


 クレイグは、一旦席を立ち、どこからかホクホクとした顔でワインを持ってきて、2つのグラスに注ぐ。


 仕事中のクレイグは、何が起きても硬い表情を変えない、真面目一筋な印象の人だ。そんな彼がこの時間になると、クルクルと表情を変えるのが、香菜の心をドキドキさせる。


 こころなしか鼓動も早くなった気がするのは、ワインを飲んだから、ということにしておいた。


「本当にクレイグさんは料理が上手ですよね。料理人を目指せばよかったのに」


 今度はグラスを傾けるクレイグに、なんともいえない色気を感じ、誤魔化すかのように口を開く香菜。一方、そんな香菜の心の内など知らないだろうクレイグは、グッとワインを煽ってから彼女に微笑んだ。


「子供の頃はそれも考えたのですが……父も祖父も執事でしたからね。やはり私も執事を目指すことにしました」

「お父様も執事だったんですねーーうちと同じです。両親ともホテル務めで、気づいたら背中を追ってました」

「おや……そうだったのですね。やはり子は親の背中を追いがちなのでしょうか」


 なんとなく口にした言葉に、クレイグは「おや」といった顔をする。そういえば香菜は子爵家にきてから、あまり前の世界、特に向こうの人の話をしていなかった。


「どうでしょう? ホテル務めは勤務体系が不規則で。全然家に帰って来なかったので、こうはなるものか! って思ってたんですけどね。でも何回かだけホテルで見た制服姿の二人はすごく格好良かったので、やっぱり追いかけてたのかもしれません」


 その結果過労で事故死とは……と香菜は自嘲気味に笑う。一方クレイグはそんな香菜に穏やかに頷いた。


「確かにうちも父はいつも忙しそうでしたね。こうはなるもんか! って気持ちも、でも格好いいと思う気持ちもよく分かりますよ」

「で、結局いつも大忙しなんですね」

「ええ、どうしてこうなったんでしょうね?」


 子爵家の使用人を束ねるクレイグは、端から見てもものすごく急がしそうだ。なんでこの道を選んじゃったのか。お互いに言い合って、それから二人してくつくつと笑いあった。


「……この前本家の侯爵様とお会いして、元の世界に帰れないのが確定してしまいましたが……でもこうしてちゃんと働いて、幸せに暮らしているって伝われば良いと思います」


 本家にいる現侯爵閣下は「迷い人」に関する研究者でもあるらしい。彼曰く、「迷い人」は時折現れるものの、元の世界に帰る方法は、数百年謎のままらしい。それも香菜が不意に両親の話をしたくなった理由かもしれなかった。


「……きっと伝わってますよ」

「ーーありがとうございます」

「どういたしまして。さ、もう一杯いかがですか?」

「えっと……じゃあもう一杯だけ」


 今日の香菜は少しだけ酔いたい気分だ。恭しくワインを注いでくれるクレイグを見上げつつ、香菜は遠い世界の人達に思いを馳せるのだった。






 それからもクレイグとはちょくちょくと夜食を共にした。それだけでない。いつぐらいからか、たまの偶然で二人の休みが重なると、一緒に街へ出かけることもあった。


 互いに口にはしないけれど、香菜はそれをデートだと認識していた。そういう日には大抵、同僚侍女のネリーがコーディネートをしてくれる。香菜の後に侍女として採用された彼女はおしゃれに造詣が深く、その辺りに疎い香菜にとっては、仕事上でもプライベートでも頼れる味方だった。


「はい! 出来た。今日は前回と違って大人っぽく仕上げてみました。もしかしたらキスの一つくらいもらえるかもよ?」

「キスって! 私とクレイグさんはそんな関係じゃ……」

「でも好きなんでしょ? あの朴念仁にはもっとグイグイいかないと駄目よ。あ、首尾は聞かせてね」


 横からそんなことを言うのは、もう一人の侍女メイベル。行儀見習いで侍女となった、大商家のお嬢さんだ。

 明らかな人手不足もあって、子爵家の使用人はどんどんと増えていく。子爵夫人に付く侍女も、香菜含め3人になった。彼女たちから見て自分とクレイグの関係はどう見えるだろう? と最初は不安に思っていた香菜。しかし幸い二人共彼氏持ちだったこともあり、香菜の恋を応援してくれた。


 そこにはクレイグの徹底して仕事とプライベートを分ける姿勢。あと、夜食を作ったときには、香菜以外の使用人にも配って回っていることも関係しているだろう。


 二人共、


「香菜とクレイグ様がデートすれば美味しい夜食が食べれるもの! だからどんどんデートしてね」


 と笑ってくれていた。






「見てください! クレイグさん。たくさんのトマト、あっちには大きな牛肉がーーあっ、あれはチーズを売っているんですよね」

「えぇ、頼めば切ってくれますよ。それより香菜さん? あんまりはしゃぐと転んでしまいますよ」

「あっーーすいません、つい」


 今日二人がやってきたのは領都にある大きな市場。日本にいる時はテレビでしか見たことのない、活気あふれる様子に香菜は大興奮だった。


「よくある市場、といえばそれまでのなのですが……向こうにはこういった場所は?」

「ありましたけど……プレマンさんみたいなプロが行くイメージですね。もしくはもっと観光地のようになっているか。そもそも私は料理出来ませんしーー」


 そんなことを話しつつ二人は、あちこちの店を見回る。次の夜食について相談しながら、あれこれ買って回るのは、新鮮でとても楽しいひとときだ。


「それにしてもいろいろ買いましたね。スパイスとかハーブとか……知らないものも多いです」

「ええ、私も久しぶりなのでつい買いすぎてしまいました。さ、お疲れでしょう? どこかで休憩しましょう。あっちには美味しいサンドイッチ屋がありますし、あそこの芋のフライも絶品です。甘いものがよろしければ、向こうのラズベリーのパイなんておすすめですよ」

「うーん。どれも魅力的!」


 クレイグの提案に「選べない!」と頭を抱える香菜。そんな彼女にクレイグが、


「全部買って分けっこしましょう」


と提案し、香菜が破顔して賛成する。


 こうして二人の仲は少しずつ、けど着実に近づいていく。少なくとも香菜はそうだと思っていた。






 それは香菜が子爵家へ来て1年ぐらいしたある日。香菜の前で珍しくネリーが不満をあらわにしていた。


「ね、ひどいと思わない? 遊ぶだけ遊んでバレたらポイなんて……旦那様が拾ってくださったから良かったもののーー」

「えぇ、本当にひどい話だと思うわ」


 ネリーが怒っているのは、彼女の友人に起きた不幸についてだ。さる伯爵家に努めていたその友人は、伯爵家の家令と恋仲になる。ところがその伯爵家は職場恋愛を禁じていたらしく、ネリーの友人は家令との関係がばれて、伯爵家を解雇されてしまったのだ。


 なんでも家令は関係がバレると、


「自分は彼女にしつこく迫られていただけで、困っていた。仕方なく相手をしていただけだ」


 とネリーの友人を冷たく切り捨てたのだという。優秀な家令や執事はどの家でも重宝されるらしく、その分多少の横暴は見逃される。ネリー曰く、彼女の友人に起きたような悲劇はよくあるらしい。


 幸いその友人は、ルーディス子爵の計らいで、今は子爵家のパーラーメイドーー主に来客対応を担当するメイドーーとして務めている。とはいえ子爵が彼女を拾わなければ、今頃彼女は路頭に迷っていたかも知れない。ネリーの怒りは当然も当然だった。


「香菜も気をつけなさいね。クレイグ様に限ってそんなことないとは思うけど……でも男は豹変するわよ」

「あ、ありがとう。気をつけるわ」


 香菜にそう言うと、ネリーはそろそろ休憩も終わりだから、とお茶をグイッと煽り、使用人用のダイニングを出ていく。


 一方残された香菜は今さらながらに不安に駆られていた。エリーの言う通り、クレイグは決してくだんの家令のような人ではないと思う。


 しかし、そもそも自分たちの関係を子爵夫妻はどう思っているのだろうか? 職場恋愛云々についてなにか言われたことはない。けれど実は、自分とクレイグが仲良くしていることを、あまり快くは思っていないかもしれない。


 最近クレイグが忙しいらしく、あまり一緒の時間を取れていないことも、香菜の不安をさらに煽った。


 前までは、なんだかんだ週に1度くらいのペースで夜食を共にしていたのだが、気づけばもう1月も一緒にごはんを食べていない。


 仕事中はもちろん顔を合わす。けれど、そういう時のクレイグは完璧な執事の顔だから、格好いいけれど、香菜のことをどう思っているのかは分からなかった。


 香菜の不安は募るばかり。そうしてついに香菜は決定的な言葉を耳にしてしまった。






 ある日、真夜中にふと目覚めてしまった香菜。喉の渇きを感じて使用人ダイニングを目指していた彼女は、応接間から光が漏れているのに気づいてしまう。思わず興味本位で近づくと、話しているのは子爵夫妻にクレイグ、それに料理人とメイド頭の相槌も聞こえてきた。


「では、出立は1月後で……代わりの者への引き継ぎもそれなら十分でしょう……」

「でも寂しくなるわね……」

「仕方ない。もう決まったことだ。これからも頑張ってくれるだろう?」


 誰か屋敷を辞めるのだろうか、駄目だと思いつつ思わず香菜はそっと聞き耳を立てる。


「それにしても思ったより早かったのね。もう少し余裕があると思ってたのだけど……」

「まあ、クレイグの決めたことなら間違いないだろう。な?」

「はい。遅かれ早かれこうなるとは思ってましたので。万事手配は済んでおります」


(待って……辞めるのってクレイグさん? もしかして私とのお付き合いがバレちゃったから?)


 冷静に考えれば、必ずしもそういう話でもないことはわかったはず。だが、とにかく不安でいっぱいだった香菜の頭はすぐにクレイグが辞める、という言葉で埋め尽くされる。そして気づいた時には、応接間のドアを開け放っていた。


「待ってください! 全ての責任は私にあります。なのでどうか! 辞めさせるなら私を!」


 そう叫びながら部屋に入った香菜へ、5人の視線が一斉に注がれる。そこで香菜は自分のしたことに気づき、慌てて膝を折った。


「あっ……私ったらなんていう無作法を。奥様! この罰も甘んじて受けさせていただきます。ですので、ですのでどうかクレイグさんを辞めさせるのだけはーー」


「待ちなさい、香菜さん。あなたは随分と勘違いをしているようだ」

「えぇ。とにかく落ち着いて? こっちに座ってちょうだい」


 突然部屋に乱入してきた香菜に驚いた子爵夫妻。けれど、香菜の言葉を飲み込むと、子爵夫人は香菜の手をとって、空いていた椅子に座らせてくれた。


「あ、ありがとうございます奥様。……それに申し訳ございません」

「いえ、良いのよ。きっと偶然私達の言葉が聞こえちゃったののね。ーーところでクレイグさん? これはどういうこと? 私、あなたは女の子を泣かせるような人じゃないと思ってたのよ?」


 香菜の手を励ますようにそっと握った子爵夫人は、それからキッと表情を変えてクレイグを睨む。その強い視線にクレイグはたじろいだが、鋭い視線は他の5人からも彼に向けられていた。


「クレイグ……まだちゃんとしていなかったのか。ーー全く……まあこの際だ。私達は席を外すからちゃんと説明して、あといい加減けじめをつけろ」

「は、はい。旦那様」


「さ、ウェンディ? じゃあ僕達は部屋に戻ろうか?」

「ええ、そうね、あなた」


「プレマン! 私達も行くわよ! せっかくだわ、もうちょっと付き合いなさい」

「いや……あの、私は明日も朝早いーー」


 子爵はクレイグに何やら厳しく言付けた後、妻と共に部屋を出ていく。女中頭のクレアもまた、ワインボトル片手にシェフのプレマンを引きずっていった。


 二人だけが残された部屋には若干の沈黙が流れる。しかし、先に口を開いたのは香菜の方だった。


「……先程は申し訳ありませんでした。盗み聞きをするつもりはなかったのですが……」

「いえ、こちらこそ、意外とここの廊下は声が漏れるのを忘れていました。突然こんな話を聞いたら驚くでしょう。ーーそれで香菜さんがされた誤解についてですが……」


 クレイグの言葉に香菜がゴクリと唾を飲み込む。その後に続いた言葉は意外なものだった。


「お屋敷を辞めるのはシェフのプレマンです。辞めると言っても一時的なものですが……王都の料理店で修行をするのです」

「修行!? ……ですか?」

「えぇ、プレマンは優秀な料理人ですが、侯爵領から出たことがない。彼はそれを引け目に感じていたようで、前々から修行に出たいと言っていたのです。もともと本家で働いていたのを、無理を言ってこちらに来てもらったので、彼の希望はできるだけ汲んで差し上げたかったのですよ」

「そういえば……以前そんなことを……つまり、もしかしなくても私の早とちり……」


 香菜の全身から力が抜け、同時に周知で顔が真っ赤になる。そう考えれば、廊下で聞いた話も辻褄が合った。


「いえ……確かに私達の話を途中から聞いたら勘違いもするでしょう。まあ、そんな訳で私は生涯旦那様にお仕えするつもりです。香菜さんもどうか、ここで働き続けてくださいね」

「はい! もちろんです。旦那様や奥様が許してくださる限り、ずっとここにいるつもりです」


 その回答にクレイグは微笑む。かと思うと、彼は突然グッと顔を引き締める。それから彼は彼女の足元に膝をつき、真っ直ぐな視線を彼女に向けた。


「さて……それでもう一つのお話ですね。最近忙しくて、なかなか香菜さんと私的な時間を取れてませんでした。でもそれには理由があったのです。ーー香菜さん、私と結婚してくださいませんか?」

「へ? 結婚……私とですか!?」


落ち着いた声で、そんなことを言うクレイグ。その言葉を反芻し、それから香菜は目を見開いた。


「はい。あなたと過ごすうちに私は、あなたと生涯を共にしたい、と思うようになったのです。ですが、あなたを妻にするにはそれなりの準備が必要。そう考えていろいろしていたら、そのーー」

「まさか、それでここ最近時間が?」

「ええ……そのとおりです」

「も、もうーー順番が逆ですわ!」


 真面目な顔をして頷くクレイグに香菜が叫ぶ。呆気に取られるクレイグをよそに、香菜は不満を並べた。


「もう……最近クレイグさんがちっともお夜食にもデートにも誘ってくれないから、てっきり愛想が尽きたのかとばっかり……どうして先に言ってくれなかったんですか? 準備ならその後でも良いでしょう?」

「ですからそこは……準備を万端にして……」


 香菜の言葉にクレイグは申し訳なさそうに肩をすぼめる。そんな彼の様子に香菜は脱力した。


「も、もう……本当に真面目なんだから」


 以前から分かっていたが、この執事様はとんでもなく真面目で、そしてどこか不器用だ。そしてそんなところも含め、香菜はクレイグのことが大好きだった。


「ーーそれで答えですよね? それはもちろん、喜んで!」

「ほ、本当ですか?」

「本当って……もう結婚の準備までしてるんでしょ?」

「まあ、そうなのですが……」

「でしょ? 大体私、好きでもない人とはデートなんてしないわ。でも良いのですか? 私はご存知のとおり異世界出身で、文字通りどこの骨とも分かりませんよ?」


 そんなことを言う香菜にクレイグはグッと表情を引き締め、香菜と目を合わせて言葉を紡ぐ。


「もちろんです。あなたのご両親にご挨拶せず、攫ってしまうのは申し訳ありませんが……必ず幸せにします。どうぞ身一つでお越しください」

「クレイグさん……じゃあ、遠慮なく。ーーこれから一生よろしくお願いしますね!」


 そう言うと香菜はクレイグの胸へと飛び込み、クレイグはそんな彼女をギュッと抱きしめ、額に口付けを落とす。


 二人の様子に、ドアの外からはいくつもの歓声と拍手が聞こえ、二人は「みんなそこにいたのか?」と顔を見合わせたのだった。






 ある日の深夜。香菜は「プンプン」という擬音が聞こえそうな表情で腰に手を当て、クレイグを見上げていた。


「クレイグさん! あなたったらアンに私達の馴れ初めを話したでしょう!?」

「ええ、アンに聞かれましたので。昔の可愛らしい香菜さんを思い出したらつい、長話をしてしまいました。ーーもちろん今も香菜さんは可愛く、美しいですよ」


 一方クレイグは、そんなことを言いながら、ややシワが目立つ香菜の手を取り、軽く口付けを落とす。白髪が目立つような歳になったクレイグ。しかし同時に、一層振る舞いに気品がでてきたクレイグの行動に香菜は顔を真赤に染める。そして恥ずかしさを打ち消すかのように首を何度も横に降った。


「ーーじゃなくて、なんで話しちゃうんですか? あっという間に侍女たちの間に広まってるじゃないですか?」

「ああ、なるほど。確かに彼女たちの情報網は侮れません。が、なにか問題が?」

「大有りです! みんなして『香菜さんみたいな恋がしたい!』って大盛りあがりしてたんですから。……恥ずかしいですし、それにメイド頭としての沽券にも関わります」

「それは失礼。けど、香菜さんのメイド頭としての立場は多少では揺るがないでしょう?」

「まあ! それは身内びいきってものだわ」


 二人が結婚してはや30年ちょっと。香菜達が仕えていた子爵夫妻は順当に侯爵位を継ぐ。

 着実に経験を積んだ香菜は今ではメイド頭に、もちろんクレイグも執事を続けていて、二人で国内有数の侯爵家を支えている。

 香菜とクレイグはアンとカーク、という子どもたちに恵まれる。香菜とクレイグの子どもたちもまた、侯爵家で使用人として働き、二人の背中を追いかけていた。


「まさか!? 本当のことですよ。さ、それより香菜さん? 久しぶりに夜食はいかがです? 腕によりをかけました」

「ほら、そうやってはぐらかすーーまあ、気になりますけど」


 やや不満顔を浮かべる香菜。しかし「夜食」の2文字には抗えない。そうして視線をテーブルに動かすと彼女の表情が一気に満面の笑みに変わった。


「わぁ! 確かにご馳走ですね。これ全部クレイグさんが?」

「えぇ、明日は結婚記念日ですから。腕によりをかけましたーーたくさん作りましたから、屋敷の皆さんにもお配りしてますよーー」

「……ああそれで。メイドたちが『毎日香菜さんの結婚記念日なら良かったのに!』って騒いでたのね」


 そう。明日はクレイグと香菜が結婚して何十回目かの記念日。ありがたいことに、侯爵の計らいで二人揃っての休みを頂いている。そんなこともあり、今日の夜食は普段以上に気合が入っているらしい。


 テーブルの上に乗っているのはグラスとワイン。そしてクラッカーの上に様々な具材を載せたカナッペだ。


 燻製のサーモンに酢漬けのニシン、グリルしたチキンにナッツと人参のオレンジ和え、そしてトマトのピクルス……一つ一つ違う具材の載ったカナッペは、ハーブやフルーツも飾られて、見た目も素晴らしい。何よりその種類の多さと彩りがご馳走だ。


「さ、香菜さん? 誕生日の前祝いと参りましょう」


 そう言ってクレイグは、スッと香菜の手をとりテーブルへいざなうと、椅子を引いてくれる。お仕着せにエプロン姿の香菜。しかし、クレイグにこうされると、一人のレディになった気分で、くすぐったくも嬉しかった。


 クレイグが慣れた手つきでワインを注げば、二人きりの小さな祝宴が始まる。軽くグラスを掲げて乾杯し、それから香菜は早速カナッペを1枚口に入れた。


「んんーー美味しい! さすがクレイグさん。私、クレイグさんの作るパテ大好きよ」

「これはこれは……喜んでいただけたら幸い」


 香菜が口にしたのはナッツを混ぜ込み、スパイスを効かせた豚肉のパテが載ったカナッペ。クレイグ得意の一品は香菜のお気に入りだった。


 カナッペを頬張るごとに満面の笑みで絶賛する香菜に、クレイグの頬もゆるゆると綻ぶ。


 異世界にやってきてはや数十年。香菜には今も、夜食をご馳走してくれる麗しの執事様がいる。

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― 新着の感想 ―
宣伝をたまたま見かけて気になったので読ませていただきました! なんというか、読んでいてとてもほっこりしました。香菜さんとクレイグさん、二人の食事シーンがなんとも見ていて微笑ましく、暖かいですね。 …
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