未来へ
文学賞一次選考落ちの作品ですが、出来の悪い子ほど可愛いので、供養のために挙げておきます。
皆様と出会ってくだされば幸いです。
未来へ
何にかはたとへて言はむ海のはて雲のよそにて思ふ思ひは
少女は花のなかにうずくまって泣いていた。
はらはらと花びらが散りかかるその木立は、幼い頃に両親と来た思い出の場所にある。
橘の白い花が、こぼれるように咲いていた。
ー来年も、その次も、またその次も、ずっと、ずっと先の未来でも、みんなでまた来ようね。
そう約束したのに。
少女の両親は、別々の道を歩き出した。少女は、父と母を愛していたから、その両手は離れて行くふたりを繋ごうとして、幼い膝に力を込めて、足を大地に踏みしめた。だが、父と母は、別々の車に、別々の新しい相手と乗って、別々の明るい世界へ乗り出して行った。少女は腕の下からふたつに裂かれてしまった。
どちらかを選ぶことなんてできない。
わたしの血も肉も皮膚もぜんぶ、お父さんとお母さんとの思い出と一緒だもの。壜のラベルを剥がすように捨てることなんて出来ない。
わたしは半分の幽霊になってしまった。
そう彼女はー「未来」という名の少女は思った。
無邪気さも、幼さも、平和な夢も、唐突に終わりを迎えてしまったようだった。
自分の涙が塩辛い。まるで悲しみの海に溺れているようだと思った。海上を漂い、夜明け頃にやっと、海藻や貝殻と一緒くたに無人島に打ち上げられる。そんな気持ちだった。
これから、どうやって生きていけばいいのだろう。
針の落ちた時計で、どうやって時を測ればいいのだろう。「家」が無くなってしまったら、どこへ帰ればいいのだろう。
未来は、故郷の街を歩きながら、回想に耽る。
ーお休みの日に、みんなで水族館へ行きましたね。
誰にともなく、語りかける。
わたしは、ペンギンの水槽のところで立ち止まって、一時間も動かなかったのでした。ーこの公園の芝生の上で、トランプしましたね。カードが風に煽られて、散らばって、お父さんは大慌てで、よその家族のところにまで走っていって、平謝りしていたっけ。
私が手品のキットを買ったのは、このショッピングモールでしたね。
おじいちゃんの経営する喫茶店でマジックを披露すると、お客さんみんな喜んでくれました。
そのおじいちゃんも、今はもういません。
おばあちゃんが、よく源氏物語や今昔物語や、菅原孝標女の話を、わかりやすく現代の言葉で話してくれましたね。今でも、空で五十四帖の巻名を誦じることができます。
優しいおばあちゃんも、今はもういません。
家族との思い出を、ひとつひとつ埋葬するように、彼女は一人で、故郷の街を旅していたのだった。それは、思い出の葬式だった。
一日の終わりに、懐かしい銅像に挨拶するため目を振り向けた。五井駅から国分寺台まで伸びる更級通りの、中央分離帯の上に、「彼女」はいた。
長年国語教師を勤めていた祖母の薫陶により、古典教育を受けていた未来には、同世代の少年少女よりも遥かに、「彼女」のことを身近に感じることが出来た。祖母は、日常の言葉で、まるで自分の仲の良い幼友達について語るように、平安時代の、ひとりの女性について語ってくれたからだ。銅像は、菅原孝標女の十三歳頃の姿。彼女と同い年だ。虹の橋の上に佇んで、その目は雲の遥か遠くを見晴るかしているように見える。
市女笠を傾げた、未来と同じ年頃の、美しい少女の銅像。
幼い頃の未来には奔放な空想癖があって、それはいつも、ひどい嵐の夜、雷に打たれた銅像が、生命を得て、動き出し、語り始めるところから始まる。
少女の銅像が、翌朝、未来の通う学校のクラスに転校して来る。
「初めまして。菅原孝標女です。」
席は勿論、未来の隣である。ふたりは無二の親友になる。
街じゅうを股にかけて、二人で大冒険を繰り広げる。
数々の難事件を解決し、なんやかんやがあって、昔の大名の埋蔵金を発見して、大金持ちになる。
そんな昔の、お気に入りの無邪気な空想を懐かしみながら、未来は、目に見えるもの、一つ一つにさよならを告げた。
何を見ても、何かを思い出す。どの場所も、お父さんとお母さんとの思い出ばかり。
胸がいっぱいになって、花の影に隠れて、声を放って泣き出した。
涙で濡れた目を瞑って、目を開けた。
すると、彼女は、別の場所、別の時代にいた。
「額をつきし薬師仏の立ちたまえるを、見すてまつる悲しくて、人しれずうち泣かれぬ。」と更級日記にある。
花のなかに立っていたと思ったら、未来の少女は薄暗い御堂のなかにいた。
目の前に、奇妙な服装をした、同じ年頃の、過去の少女がいた。
少女は、額を床につけて、熱心に、一心に祈っている。見ていると、吹き出したくなるような、それでいて、哀しくも、愛おしくなるような、真剣な様子で、祈りを捧げている。手をすり合わせたり、胸を拳で叩いたり、額で床を擦ったりしている。未来は、耳を澄ませた。少女は、こう祈っていた。
「京にとくあげ給ひて、物語のおほく候なる、あるかぎり見せ給へ。」
(京に早く登らせて、物語がたくさんあるという、そのある限りすべてをわたしに見せてください。)
念仏のようなものを口ずさんでいる。
平安貴族の服装をしたその少女が、閉じていた目を開く。
光のなかに、未来がいた。
未来のまわりには、光輪のように、咲いては散る花橘が、湧きかえる噴水のように、こぼれては咲き出していた。
少女は「ひゃあああ。」と叫んで、腰を抜かした。
「私は、夢を見ているのでしょうか。ああ、薬師如来様。かたじけなや。」両手を合わせて、涙を白い頬の上に転ばせながら、言う。
「どうやら夢じゃないよ。」
自分の頬をつねりながら、未来が答える。
「ここは、どこ。」
見知らぬ少女は、問いには答えずに、膝で立ち上がると、走り出して、見えなくなった。しばらくすると、両腕いっぱいに、座布団をたくさん持って来た。床の上に投げ出し、
「ささ、お座りください。」と頬を上気させて言う。
言われるがままに、未来は座布団の山に攀じ登る。
にこにこと、手を合わせて、少女は未来を見上げている。涙に濡れた眼が、きらきら光っている。時々、握り拳を振り回し、歓喜のうめき声を挙げている。
未来は、期待を裏切るのが心苦しくなって、座布団の祭壇の上で、手で印を切り、厳かに仏像の真似をしててみせた。それから吹き出して、笑いが止まらなくなり、座布団の山から転げ落ちた。
「大丈夫。」
少女が心配そうに覗き込んでいる。
悲しい涙が、いつの間にか、楽しい涙に変わっていた。
貴族らしい服装をした少女も、未来の笑顔を見て、ぷっと笑い出した。ふたりで肩を突き合って笑い転げた。理由もなく、ただ可笑しかった。
「あなた、お名前は。」
「わたしは、未来。あなたは何ていうの。」
少女が、正座で背筋を伸ばして、はきはきと、ものを言っている様子。しかし、少女の声が、聞き取れない。何度繰り返しても、名前の部分だけが聞き取れないのだ。声に靄がかかったように。
何遍か繰り返した後、諦めた。
「おかしいね。なんで名前だけ聞こえないんだろう。」腕を組んで、二秒くらい考えた後で、
「まあいいや。」
と少女はあっさりと諦めた。
「なら、お姫様がいいな。わたしのこと、お姫様って呼んでよ。」
「お姫様。」
呼ばれて、少女は、きゃっきゃっと笑う。
未来は、国語教師だった祖母の教えを思い出して、
「浮舟様。」と気を利かせて呼んでみた。源氏物語に登場する、美貌の姫の名前である。
「だあれ、それ。でも、なんだかとっても素敵な名前ね。」
この時、菅原孝標女は、まだ、その生涯の情熱の源泉とも言うべき源氏物語と、運命的な邂逅を果たしていない。彼女の伯母である藤原道綱母から源氏物語全巻を貰って、
「后の位も何にかはせむ」と耽読するのは、まだ少し先の話である。
「お姫様、僕と踊ってくれませんか。」ふざけて、未来はひざまずいて、声を低くして言う。
少女は、顔を真っ赤にして、座布団に顔を埋めて、足をバタバタさせて、
「そんな。そんな。本当の、お姫様みたいに。」
未来はおかしくなって、この奇妙はお姫様の周りをぐるぐる歩き回りながら、手を口
にあてて、
「よっ。お姫様。」「お夕顔様。」「お浮舟様。」
「すぐれてときめき給う御方様。」
と、四方八方から呼びかける。その度に、この姫は身悶えて笑い声をあげて、喜ぶのだった。
「はああ。疲れた。」
ひとしきり遊ぶと、満足したのか、姫は両足を投げ出し、顔を扇で仰ぎながら、
「それで、薬師如来様。あなたはどうして遥々天上から、こんな賤が家においで下さったのですか。」
「人です。私は、人というものですよ。仏様ではありません。あなた、人を見たこと
がないの。」
「ははあ。本当かな。そんな変てこな服装をして。」
「あなたこそ変な服のくせして。」
「何よ。失礼ね。京で一番の流行の服だって、家に置いてあるんだからね。姉様が着ているところを、見せてやりたいな。それはそれは綺麗なんだから。姉様はね、世界で一番綺麗なのよ。」
「ふうん。あなた、お姉さんがいるの。いいなあ。いいなあ。お姉ちゃんと、服の着せっことか、あたしもしてみたかったなあ。」
未来には弟も妹も、これから先、生まれてくる可能性はないのだと思うと、どうしようもなく悲しくなって、また泣けてきた。
「あなたは兄弟姉妹がいないのね。なら、私の妹になりなさいよ。」奇妙な姫は、にっこりと笑った。涙を指で拭いてくれた。「あなた、よく見ると、可愛い顔してる。ねえ、源氏物語ごっこしようか。」
「よく見なくても、可愛い顔だよ。源氏物語。おばあちゃんから聞いて知ってるけど。随分、趣味が古いんだなあ。」
「何言ってるの。源氏物語は、最近出たばっかりの最新作よ。どんな素敵な物語なの
かしら。聞きたいなあ。知りたいなあ。」
「知らないものを、どうやってごっこ遊びするの。でも、あたし知ってるよ。それが、どんな話なのか。」
「嘘。嘘ですよ。嘘はおよしなさいよ。」
「本当だよ。昔から、お婆ちゃんから聞いていたもの。学校の授業でも習って、漫画
でも読んだし。」
「嘘。嘘。いや、嘘でもいいや。ぜひ聞かせて頂戴。」お姫様は、未来にしがみついてきた。
「お願いよ、薬師如来様。その源氏物語がどんなものか、わたしに聞かせて欲しいの。
私に、物語を教えてよ。」
「わたしの街に行けば、この世にある限りの物語を、図書館で読めるよ。」
「あなたの街と言っても、それは仏様の街のことでしょう。浄土でしょう、涅槃でしょう。極楽へ行けば、何だって読めるかもしれないけれど、わたしは、今この目で読みたいの。どうしても読みたいの。」
「困ったなあ。話して聞かせてあげられるほど、あらすじをはっきりと覚えていないの。」
あれだけ祖母が熱心に教えてくれたのに。もっとたくさん聞いておけばよかった。優しいおばあちゃん。わたしが怪我をして入院したとき、まるで自分が怪我したように泣いてくれたっけ。たくさん物語を読み聞かせてくれた。手を手で包んで、悲しい時は、楽しい話を。嬉しい時には、少しだけ哀しい話を。
未来は、亡くなった祖母がしてくれたように、奇妙な姫の手を、自身の手で包みながら、物語をした。ふたりは、時の経つのを忘れて、物語のなかに没入した。「そうだ。服の着せ替えしましょうよ。」
姫君は、物語をひとしきり楽しんだ後で、未来の手を取ると、御堂を出て、彼女の住まう屋敷へと誘って行った。
恐る恐る、物陰を伝い、藪の蔭、木の影、塀の影に身を寄せて、本殿へ忍び寄った。
柱の影に隠れていたところを、家の召使いに鉢合わせしてしまった。
ぎゃっ。未来は、喉首を締められた山猫のような声をあげた。お姫様は、恐怖のあまり、顔面蒼白の蝋人形のようになっていた。
「おや。お嬢様。今朝は、お天気がよくて、風が気持ちいいですなあ。」と家人は姫に向かって鷹揚に笑いかけて、荷物を抱えて去って行った。
「どういうこと。他の人には見えてないの、あなたのことが。」
「わからない。」二人は、お互いの肩にしがみついて、たった今起きた怪異について相談しあった。
「もう一度ためしてみようよ。」
未来は、突然、大人たちが集まって仕事の相談をしているところへ躍り出ると、はちゃめちゃに手足を動かし始めた。テレビやネットで見たダンスをごたまぜにしたものだった。大人たちは、神妙な顔をして、うなずきあったり、土の上に図を描いたりして、真面目に相談し合っている。
未来は、そんな大人たちの前に踏みはだかって、体を上下左右に揺さぶって、飛び跳ねて、滑稽なダンスを踊り狂った。ちらっと未来が視線を投げると、姫君は、中庭の木立の陰に四つん這いになって、声を押し殺し、笑い死にしそうになっていた。
それから、人目を盗んで、唐櫃の蔵ってある部屋へ行くと、服の着せ替えをして遊んだ。
華麗な単を着てウィンクをして投げキスをしたり、大人の男性が着る衣冠を着て、品を作って練り歩き、笑い転げた。
遊び疲れていると、乳母らしい、きれいな、優しそうな女性が、姫君に声をかけた。
一人で、着替えをして遊んでいると思われたらしい。散らかし放題をたしなめる声にも、優しさの影が滲んでいる。
一目で未来は乳母が好きになった。
乳母は、玻璃の器に、林檎を切って盛ったものを、部屋に運んできた。
「二人分。」と駄々っ子のようにピースサインをしてねだる姫君の言う通りに、二人分の林檎を盛って来た。首をかしげる乳母に、いたずらっぽく姫君は笑う。
乳母が去ると、二人はねそべって、だらしない様子で林檎を食べた。蜜が濃く、甘かった。
「あれ、わたし、なんか薄くない?」
夕まぐれの頃になると、日が薄れるにつれて、未来の影も薄れていくようだった。
「未来。帰るの。帰っちゃうの。」姫君は泣き出しそうだ。
「わかんないけど、またすぐ来るよ。」
「きっとだよ。また物語聞かせてよ。きっとだよう。」
そのまま、ちぎれそうなほど激しく手を振る姫君の前から、未来は忽然と姿を消した。
気がつくと、未来は、不思議な空間のなかに迷い込んでいた。
目の前に、大きな門があった。奇妙は人影がふたつ。
「あなたたちは、誰。ここは、どこ。」
「俺は、逆夢。」「僕は、正夢。」
双子の童子である。甲冑武者の大鎧の姿だった。緋威の鎧である。優雅で、美しく、厳しい。二人揃って、見栄を切って叫んだ。
「ここは、時の大関門。」
「あなた、兜が重そうじゃない、大丈夫?」咄嗟に、未来の手が伸びる。
「うるさい、無礼な。」
よろめいた逆夢が頬を赤らめて叫ぶ。
「君の兜の緒、緩んでるじゃない。結んだげるね。」
未来は屈んで、お姉さんらしく正夢の顎の下に手をかける。
「やめなさい。何をするのですか。」
小さな太刀に手をかける正夢の顔は、しかし、だらしなく綻んで真っ赤である。
「いいから、いいから。」
「やめろう。」抗う声に、力がない。
「なんだ貴様。なんだか母様の匂いがするぞ。離れろ。」
腕で未来を押しのける逆夢は、しかし、目一杯涙ぐんでいる。
「お母さんはどこにいるの。」未来が訊く。
「はぐれちゃったんだ。」
冷静な態度を崩さなかった正夢が、甘えるような、すがるような声で言う。
「うんうん。逆夢と正夢。お姉ちゃんが、お母さんを探してきてあげるから、泣かないでね。」そう言って、二人を抱きしめる。
泣いている時に、自分がそうして貰いたかったように。
「誰が泣くものか。貴様、武士を辱める気か。」
逆夢が鼻をすすりあげながら言う。それから、悔しそうに呟く。
「やっぱり、いい匂い。母様の匂いだ。」未来は笑う。
「まだそんな歳じゃないよ。」「どうすれば、また姫に会えるの。わたし、どうしてもまた彼女に逢いたいの。逢う約束をしたから。」
「この大扉を通れば、貴様は、元居た時代へ帰れるだろう。だが、その代わり、二度と、その姫君とやらに逢うことは罷りならぬ。」
「そうなのか。困ったなあ。」額を叩いて、
「どうにか、ならないの。」
「ならぬ。」不敵に、逆夢と正夢がせせら笑う。
「あなたたちは、どうしてここにいるの。ここで何をしているの。」
「われらは、時を喰らう闇の世界の化け物から、時の門を守る大任を仰せつかっているのだ。」
「何だか、物騒だね。大丈夫なの。」
「心配は要らぬ。」逆夢は、小さな胸をいじましく張っている。
「我らがこの門を守るのだ。」正夢が鼻の穴を膨らませる。
「時の大関門」は、まるで小さな港のように、黒い海に取り巻かれている。扇の要に門があり、放射状に広がる部分に、宇宙の闇が轟々と打ち寄せている。
不意に、ドロドロと不吉な太鼓が響いた。
法螺貝を長々と吹き鳴らす音が聞こえて来た。
「敵襲か。」
先ほどまでとは打って変わって、弓の弦のようにぴんと張りつめた双子が、波打ち際に走り寄り、闇に目を凝らす。大手門の両脇にある燭台の燄が、赤黒く波を色塗る。
陰鬱な闇の世界から、黒い船が幾千艘も波間を割って近づいて来るのが見えた。
「来るか、闇の亡者どもめ。」逆夢が柄に手をかける。
「下がっていなさい、娘御。」「何言ってんの、子どものあんた達が下がってなさい。」と、未来がふたりを背中から抱き上げるように、はがいじめにする。二人は、ジタバタとする。
「でも、ありがとう。守ろうとしてくれて。」眼を瞑って、しみじみと言う。
「大丈夫だ。なりは小さくても、百人力だ。」逆夢は、力瘤を作って見せる。
「未来!戦いが終わったら、たくさん、褒めてね。」
正夢は手を大きく振りながら、小舟に乗り込む。錨を上げて、艫綱を解いている。
逆夢が、銀鋲打った太刀で魔を祓う。
「かっこいい!」
黒き血を啜る魔物が倒れる。
だが、次々来襲してくる。
正夢が、黄金の燃える矢を次々に射放ち、地獄のような黒と赤色の船を沈めていく。だが、キリがない。二人の顔にも焦りが見える。
未来の服のポケットが暖かい。ポケットに手を入れると、手応えがあった。取り出した熱い光は、手の中で大きく膨らんだ。
「手品セットだ。」
六歳の頃、祖父の喫茶店で披露して、満座の大喝采を博した手品のセットだった。とっくに処分したと思っていた。
折り畳みステッキと、小さなシルクハットを手に構える。帽子の縁をなぞり、「エイッ。」と叫んでステッキを振るや否や、夥しい数の鳥、鳥、鳥が燃える光の翼を羽ばたかせて、虚空へ飛び出す。
そうして、闇の怪物たちを嘴で突き枯らしてしまった。
無事に戦いを終えると、逆夢が、一冊の書物を手に持ってやって来た。
「助太刀の礼だ。この本を開け。」
見覚えのある本だった。祖母の書斎にあった「更級日記」だった。手擦れがして、研究者らしく、付箋がいくつもついている。祖母は、ほとんど誦じるまでにこの本を繰り返し読み込んでいた。そうすると、「本と心を通わせて、仲良くなれるの。」と教えてくれた。
未来は、「更級日記」を取り上げ、胸に抱いた。それから、ページを開いて、文章を読み上げた。
目の前の風景が溶けて、鎧武者の双子も、大手門も消えて、未来は、溶けた硝子のような飴色の隧道のなかにいた。
光の射す方角を目指して歩いた。
未来は、再び過去の姫君のいる時代へとやって来た。
姫君は、少しだけ大人になっていた。
背と髪が伸びていた。
未来は、最初少しだけ緊張した。
自分の知っている彼女では、既に無くなっているかもしれない。
姫君は、夜通し書物を読んでいたのか、腫れぼったい目を瞬くと、パッと笑顔になった。
「未来!こいつめ!」
猫のように未来に飛びかかる。
「どこにいたの。何してたの。何年も便りも寄越さずに、この白状者。」頬ずりしてくる。
それから肩を掴んで、まじまじと未来の顔を眺める。
「変わってない。あなたは少しも変わってないのね。」未来は、自分が元居た世界のことを語った。
「そう。あなたは未来から来たの。未来では、物語が、どこにいても、どんな時でも、簡単に手に入るのね。素敵ねえ。まるで夢みたい。」
海の上も、空の雲の上も、鉄の翼で飛ぶことができる。機械仕掛けの鉄の牛車で、たったの数時間で京へ登ることができる。銀河の向こう側へも行けるのだと言うと、姫は、おかしそうに声をあげて笑った。
「へえ!最高に興奮するよ。面白い物語ね。」
「物語じゃないよ。本当の未来の話だよ。」
「あなたは、極楽浄土に生きているのね。そんな世界なら、戦も、飢饉も、病も、何も悲しいことは無いのでしょうね。」未来は首を振る。
「全然、そんなことはないんだ。悲しいことは、未来でも、たくさんあるよ。数えきれないくらい。」
「どれくらい。」
「海の波を数えるくらい。」
「涙の海の量は、今も昔も変わらないのね。」
姫君は語りながら、亡くなったばかりの乳母のことを考えていたのかもしれないと、未来は思った。更級日記を読んだから、彼女の身の上に何が起こったか、解ってしまうのだ。
「大好きな乳母のお姉さんが、亡くなったの。」思った通り、姫君はそう語った。
「私を母親みたいに育ててくれた人だったの。
もう一度、逢いたいなあ。そのためだったら、なんだってするよ。花の咲いては散るのを見るたびに、思い出して、泣けて仕方がないのよ。」語りながら、姫君は泣いていた。
「目が見えなくても、耳が聞こえなくても、乳母だってわかるよ。
あの優しい手に触れたら、絶対に間違えないよ。」
未来は、何を言っていいかわからずに、ただぎこちなく、肩を抱いた。
「ありがとう。未来が来てくれて、本当に良かった。」その次に会うと、彼女はまた少し大人になっていた。
夜中に火事が起きて、家が丸々焼け落ちてしまったという。飼っていた猫も焼けて死んでしまったという。
未来には、慰める言葉もなかった。二人で土饅頭の前で手を合わせて泣いた。
今回は、前よりも、長い間一緒にいた。
二人は、いつも一緒に起きて、寝て、遊んだ。
暫くして、姫君の、優しい姉様が亡くなった。
荼毘に伏して、煙が青空へ、一直線に昇っていくのを、手を繋いで、一緒に見送った。
姉様の形見の子どもたちを左右に寝かせて、みんなで川の字になって眠った。荒れた板家の屋根の隙間から洩れて来る月の青白い光が、子どもたちの顔を照らしているのが、死人のように思えて、姫君はたまらなくなり、袖で覆って、抱き寄せた。その時、未来も一緒にいて、肩を震わせて、声を押し殺して泣いている彼女の頭を、ずっと撫でていた。
未来と、姫君と、姉の遺児である子ども達と、一緒に遊んだ。子ども達には、なんとなく、未来が見えるようだった。
ある日、みんなで庭に出て、相撲を取った。
力自慢の甥が姫君の腰にむしゃぶりつくと、それきり、姫君は、動けなくなった。力に圧倒されたのではない。押しまくる甥の幼い体を、抱きしめるようにして、両腕で包んだまま、凍りついたように、動けないのだ。
不意に、未来が大声を張り上げた。
「頑張れ。頑張れ。姫君。負けるな。負けるな。姫君。」
皆が呆気に取られている中を、未来は、手を胸の前で回し、足を上げる。チア・ガールの真似だった。未来が足を天高く蹴り上げると、子ども達も笑って真似をした。皆で、声を合わせて叫んだ。
「頑張れ。頑張れ。姫君。負けるな。負けるな。姫君。」「どっせい。」姫君は、雄牛のような勢いで足払いを決めて、甥子を地に沈めた。
久しぶりに屈託なく青空を仰いで笑った。
すると、投げられた甥子も、他の子どもたちも、嬉しそうに、心から安堵したように、笑い声をあげるのだった。
「梅の花が咲く頃に、また帰ってくるね。」
紅梅の裸の枝を見上げ、未来はそう言って、帰って行った。
帰る時は、薄明のなかに瞬く星のように、ゆっくりと消えていく。
そして、未来の笑顔だけが、いつまでも姫君の胸に残るのだった。
未来は、それきり、もう姫君の前に現れなかった。
『未来へ。
未来へ。また、お手紙を書きます。
水の紙に、明るい涙を筆に滲ませて書きます。
今度は、物語ではありません。本当の、あなた宛の手紙です。
あなたに読んでもらうために書き貯めた、たくさんの未熟な、可愛い物語たちではないのです。
ー梅の花が咲く頃に、また帰ってくるね。
あなたは、そう言っていたのに。わたしは、毎日、毎日、庭の梅の花を、見てたんだよ。
あなたが早く帰ってきますようにって。
未来の世界で、あなたと一緒に遊んだ日々のことを、私は、いつかきっと忘れてしまうのでしょう。海の渚で拾い集めた虚せ貝や、流木のきれはしを懐かしむように、ただ感情の残滓だけを、手でなぞって感じることができるだけになってしまうでしょう。
未来。わたしはあなたに逢いたい。
遠い雲の海の向こうにいる、あなたにもう一度会いたい。
ある夜、夢の中で、あなたが、枕元で、たどたどしく、私の書いた日記を、一文一文、読んでくれた後、夢から醒めて、私は何時間も何時間も泣きました。
たとえそれが夢だったとしても、懐かしい、子どもの頃の思い出のあなたに会えたのは、とても嬉しかった。
あなたの唇から、私の父や母、夫や息子達、幼い頃可愛がってくれた継母、死に別れた姉様のことを聞いたとき、私はどれほど嬉しかったでしょう。あなたは、読み上げながら、何度も、何度も泣いていましたね。姉様の形見の子どもたち。侍従の大納言の姫君の猫。愛おしい。ただただ、懐かしい。優しい乳母の思い出。それから、等身大に作った、あの薬師仏像。お別れするとき、どれほど悲しかったでしょう。大好きな皆に、もう一度目の当たりに再会したような喜びに、私は泣きました。
今は、ひとりぼっちで、夜になると寂しくて、泣きたくなります。
悲しみは尽きることはありません。
昔が懐かしくて仕方がありません。
そんな時に、あなたが来てくれたのです。
ありがとう。未来から来た、私の可愛い薬師如来様。やがてわたし達は、言葉になって、またお目にかかりましょう。
私たちは、言葉から生まれ、言葉の海へと帰るのですから。
未来のわたしと、昨日のあなたが、いつか再会する日が来るでしょう。
叶えられなかった祈りが、違う時代の、どこか遠くの違う自分のために、思いがけず叶えられることが、きっとあるはずです。
未来で交わされる、幾千の言葉が聞こえて来るようです。
「お帰り。」「ただいま。」
「ありがとう。」「嬉しい。」
「本当。」「大好き。」
「愛してる。」
愛の言葉は、今も昔も、変わらないのですね。
なんて飾り気がなくて、軽いのでしょう。それなのに、どうして、こんなにも胸が熱く、痛くなるのでしょう。
私は、顔も名前も違うあなたを、一人一人を、心から愛しています。
此の夜は彼の夜へ、言葉を繋ぎます。燭火のように、先の火を後の火へ送ります。この地で、これまで生きて、これから生まれる、かけがえのないひとりひとりの、言葉のなかに、全ての想いは生きています。
万巻の書物のなかに眠る、数多の言葉たちよ。
海の波を数えるよりも、空の星を数えるよりも、もっともっと数多い、愛の言葉たちよ。
未来。わたしはあなたに逢いたい。お願い。もう一度わたしの手を取って。幼い頃のように、時が経つのも忘れるほど、物語をたくさん聞かせて。
またあなたとふざけて、お腹が痛くなるまで、たくさん笑いたい。
何度でも、何度でも繰り返して言います。
未来。
あなたの行手に、どうか光だけがありますように。
未来。あなたの未来に、どうか幸福が待っていますように。
がんばれ。がんばれ。未来。
負けるな。負けるな。未来。
どこにいても、どんな時も、わたしは、あなたを心から愛しています。』
微睡から目覚めると、未来は、また時の大関門にいた。
四方の闇の海から、天から、赤と黒の魔群が雲霞のように迫っている。
白い貴婦人のような猫が闇の中から、のどかに鳴きながら姿を現した。
頭を下げると、猫も頭を下げる。含羞が見て取れる。高貴の猫である。
「あなたは、誰。」
「私は、大納言の姫君。」と猫が語った。「さるべき前世の因縁により、ある人に、たくさん可愛がって貰った猫です。
あなたを現世にお送りするよう、夢の中で、ある人から仰せ付かりました。私の後に、ついて来て下さい。」「さあ、行くんだ。」
見違えるような凛々しい青年に成長した双子の武者が、そこにいた。勇ましい武者ぶりの出立ちだ。二人は、逞しい腕で、重厚な扉を一息に開いて、光の中へ未来を誘う。
「さあ。ためらわずに進んで。決して振り向かないで。」
「ねえ。逆夢、正夢。戦になんて行かないでよ。今度こそ殺されてしまうよ。」未来が叫ぶ。
「ありがとう、未来。」と逆夢が笑う。
「君に出会ったおかげで、戦う決意が生まれた。」
「僕たちは、ここに閉じ込められていたんだ。戦う意志を失って。」
「いいじゃない。一緒に逃げましょうよ。それが駄目なら、私も一緒にここで戦うから。」
二人は首を振る。
「時を乱す闇は。また何度でも、ここにやって来る。時の環を、俺たちが閉じなければならないんだ。」
「僕たちは、もう死んでいたんだ。ずっと昔に、戦で街を焼かれて。母様も父様も、戦で亡くなった。」
未来は顔を覆って泣き出した。
「未来。無駄なんかじゃない。ここで出会ったこと、起きたことは、お前のなかに残って、お前が未来へ運んでくれる。俺たちは、生き続けるんだ。どうか、未来では、戦のない平和な世を生きてくれ。」
「未来。君に祝福を。」
未来は、二人の若々しい頬に、菫の花のような接吻をする。
晴れ晴れと、二人の若武者は笑っていた。ちぎれるように身をもぎ離して、未来は大手門の中へ歩を進めた。
「大納言の姫君」と名乗った謎の猫が、迷わずに進んでいくのを、必死に追いかける。
「姫君。姫君。」
あの懐かしい笑顔を、心に念じながら。
目覚めると、暗い夜だった。
未来は、思い出の場所にいた。
うずくまったまま、眠りに落ちていたらしい。
顔をあげると、父と母が、目の前にいた。顔面蒼白になって、汗まみれになって、見たことのないような、獣のような血走った目をしていた。穴ぐらから飛び出してきた、二匹の動物のようだと未来は思った。父と母は、内臓からほとばしるような声で、叫んだ。
「未来!」
ふたりを見た瞬間、涙が、心に刺した短刀を一気に引き抜いたように、血潮のように熱い涙が、どっと溢れた。
「離婚しないで。いつまでも、いつまでも一緒にいて。ずっと、わたしの家族でいて。」
叫んでいた。泣き喚いていた。地団駄を踏んで、ふたりの胸の中で暴れていた。
未来の両親も、激しく泣いていた。ふたりが、向かい合って涙することなど、もう何年も絶えて無かったのだ。
ぼろぼろに傷ついた、お互いの姿をそこに見た。
そして、お互いのために心から、許しを乞うた。
その夜、父の運転する車に揺られながら、未来は幸福な夢を見た。夏の明るい日に、海辺をドライブする夢だった。
大人になった未来と、姫君が、サマードレスに、ヒールの靴を履いている。
オープンカーで、溢れるような陽射しの中を、湾岸道路を飛ばす。
「どこへ行くの。」
と聞かれれば、笑ってこう答え、加速するだろう。
「未来へ。」と。