帰り待ち
車一台通るのがやっとの細道、住宅街。男女二人並ぶ帰り道。沈みそうにない夏空の太陽が、二人の影を陽炎ゆらめくアスファルトの上に投げつける。
「んなぁ、あっつい……。 それだけならまだしも、かくなる上に蒸しあっついっ!」
と、襟元を激しくばたつかせる女。
「なんだよお前。昨日まではすこぶる蒸し暑い南の島で悠々とくつろいでいたくせに。日本の暑さでうなだれるなよ。一体何しに行ってたんだ」
と、連日塾に箱詰めで勉強に励む男が、心底憎らしげにぼやく。
「はあ? 何よ、言いがかり? あんたらはクソ真面目に受験勉強してるけど、旅行行くかどうかなんて私が決めることでしょ? 私は旅行に行くと決めた。あんたは勉強すると決めた。だったら、自分で決めたことに終始集中しなさい。人のなりふり気にしているようじゃ、天下の第一高校合格なんて、夢のまた夢ねぇ?」
と、学年最下位常連の女が、得意の長広舌で散々に挑発する。
「お前に言われたかねえわっ! みんなは我慢して受験勉強に励んでいるんだ! なのにお前は平日堂々海外旅行しやがって。いや、海外逃亡というのが適切か。とにかく、勉強の苦しみから逃げたお前なんか、全校落ちてしまえばいいんだ!」
「教科書開くだけが勉強じゃないわよ。それに、私は推薦で受けるの。だから、適当に書類用意して、適当に面接すれば、後は優雅に校門をくぐるだけなよ―。らーららら―」
はたから見ればたわいもないが、本人たちはジョークもない、中3の切実な悩みに縁取られた会話の一幕。通り過ぎる同校の低学年は、いずれはこうしたぎすぎすの空気に飲み込まれるのだろうかと、不安の眼差しを向ける。
「そうそう。そういえば、石山君はどこの高校を受けるんだっけ」
「……知らねえよ、石山のことは」
ぶっきらぼうな返答に、女は不意に突き放されたように感じて、泡のような怒りがふつふつと込み上げた。
「なによ。別にあんたにきいたわけじゃないし。それとも何? あんた、石山君の代弁者か何か?」
「代弁者で何か悪いか」
「悪いわよ。頭脳明晰な石山君の代弁者を務めようなんて、百年早いわっ! 江戸時代から出直して来なさい!」
「江戸だあ? おいおい、今から百年前は1923年。関東大震災の年だ。日本は大正だぞ? 出直すのはどっちの方だよ逃亡者」
「うるさいうるさいうるさぁい! 教科書の知識開けかして人の揚げ足とるな! 江戸も大正も同じようなもんでしょうが!」
「全然ちげえよっ!」
「ふん。まあ、いいわ。今から百年前は大正時代ね。ほぉら、これで私もあんたの常識を一つ手に入れたわ。けっ! 知識なんて、所詮こんなもんよ」
「それだけ覚えても何も意味ないだろ」
「もとより知識なんて成績以外に使い道のないものでしょう。そんなにガリ勉で身につけた知識を見せびらかしたいなら、石山君と勝負すればいいじゃない。どっちが教科書の本文をより多く覚えているかで。もっとも、石山君の知性の前には、手も足もぐうの音も出ないでしょうけど」
「っつ、だからお前っ、石山はっ」
「ねぇ? 石山君?」
「……へっ?」
血の気が引いた。暑さが消えた。男の顔から生気が抜け落ちた。足を止めて、蝋人形のように固く立ち尽くす。それは無理もないことであった。女が話向けたその先、「石山」と呼んだ、そう呼ばれるべき人物など、前後左右のどこにもいなかった。
「……おい、お前。何、言ってんだよ」
男の声が、か細く冷たく震える。
「あ? 何言ってるって、何よ」
女は今までと変わらぬ声色を続ける。
「何って、お前っ、今、『石山』って……」
「ええ。石山君が、どうかしたのかしら?」
「どうかしただって!? お前の方がどうかしてるだろっ!」
激昂の勢いで道端に詰め寄る男。目は限りなく見開かれて荒ぶり、ぐらぐらと刻み動く唇の内側からは、浅くて速い蒼白の呼吸が乱れ出ていた。
「んなっ、ど、どうしたのよいきなり! あんた、とうとう頭おかしくなったの!?」
「だから、頭おかしいのはお前の方だろうがっ!」
立て続けに素っ頓狂に叫び上げる男に、女も周囲の通行人も、ただならぬ気味悪さとおぞましさに胸を蝕まれる。
「……」
「……本当に、知らないのかよ、お前」
「……知らないって、何を」
男は即座に答えなかった。目を閉じて、気持ちを落ち着かせるように、小さくゆっくり息を吐く。しかし、吐いた息も、そして吐いた後も、男から黒い震えが消えることはなかった。
「……石山は、死んだんだよ」
「えっ……」
女は言葉を失った。達者な口も、だんまりと回転が止まる。しばしの沈黙が、二人の間に広がる。
「石山、君が、死んだ……?」
「……ああ、そうだよ」
「なんで……。ねぇ、なんで!? どうして!? どういうこと!? 石山君が死んだ!? そんなわけないわよっ! だって私、今日学校で石山君と話したし、勉強だって教えてもらった! 死んだって、バカみたいな冗談やめてよっ! だって、今だって、石山君は、ここに……」
そう言って振り向いた先、女の目に今まで映っていたはずの石山の姿は消え失せ、ただ、西に傾く陽光に、二人だけの影が伸びている。それだけであった。
「そっ、そんな……」
立つことすらままならず、女は力を失って腰から崩れ落ちた。
「……石山は、お前が海外に行ってる間に、死んだんだ。不慮の交通事故で」
「不慮の、交通事故? ……何よそれ。不慮って、どういうことよ」
女は、「不慮」という言葉に甚だ納得がいかないようだった。
「突然車が突っ込んできたんだ。運転手は持病持ちで、突然意識を失ったらしい。それで、制御きかなくなった車が、石山に突っ込んだ。……全く、やり切れなくて、たまらないっ」
男の声が潤み、かすむ。女は歯で歯を噛み砕くほどに強く食いしばり、手で手を潰すほどに強く握りしめる。
「……え?」
声になりかけた吐息一つが、女の口から漏れ出る。
「ん、どうした」
「……いや。何か、急にポケットの中が、気になって」
そう言いながら、女が慎重に取り出した手のひらの上には、角のない丸い消しゴムがあった。黒ずんだ短いカバーには、長年の愛用を感じさせるものがあった。
「こ、これ、石山が使ってた消しゴムじゃん。どこにもないって、探していたやつ。なんでお前が持ってんだ?」
「しっ、知らな……、くはないわ。今思い出したけど、その消しゴム、私が旅行行く前に石山君から借りたものよ。たしか、返すの忘れて、そのまま海外に行ったんだわ」
「な、なんで忘れんだよ。馬鹿かよお前っ!」
「だからあんたに言われたくないわよっ!」
「うるさいっ! 今はそんな言い争いをしてる場合じゃないっ! ……お前、今日、確かに石山の姿をみたんだよな?」
「ええ。話もしたし、なんならついさっきまで私たちの後ろを歩いていたわ」
「んじゃあ、やばいよこれ。俺らきっと、石山に恨まれてるに違いないよっ!」
「はあ? なんでよ」
「なんでも何も、一番の元凶はお前だよっ! 石山の消しゴムを勝手に持ち出しやがって! きっと石山は、とうとう見つからず終いの消しゴムを無念に、俺たちをたたろうとしてるんだ。あの消しゴム、確か去年死んだお婆さんからの贈り物で、相当大事にしていたはず。お前が返さなかったせいで、石山は恨めしくついてきたんだ。そうだよ、絶対そうに違いないっ! どうしよう、俺たち、こ、このままじゃっ、石山にっ」
天衝く一音。張り詰めた痛々しい瞬きが、怒涛に激走する男を一撃で粉砕した。
「……やめてよ、もう」
男はひりひりと染みる頰に手を寄せる。女は重鎮な剣幕を静かにたたえていた。
「死んだ石山君をそう言うの、やめてよ」
頰の痛みが秒に進んで増していく、男はそう感じた。
「石山君は、私たちを恨んでなんかいない。消しゴムを返さなかったのは、確かに悪かったけれど、でも、恨んでなんか絶対ない。だって石山君、すごい嬉しそうだったから。いつも静かな石山君が、あんなに嬉しそうに笑って話してるの、初めて見た。きっと、きっとだけど、私と話せて嬉しかったんだと思う。別れる前も、別れる時も、別れた後のどの瞬間にも、いなかったのは私だけ。だから、すごい遅れちゃったけど、石山君は私と話せて、本当に、ただ純粋に嬉しかったんだと思う」
家も塀も電信柱もひび割れたアスファルトも、景色織りなす全てのものが、女の言葉を受け取るように、あたりは静まり返っていた。男は、まだ赤らむ頰から手を離す。
「……そう、だよな。ごめん。お前の言うとおりだ。石山は、ずっとお前を待っていたに違いない」
「ねえ。石山君が亡くなった場所はどこ?」
「え? えっ……と、学校近くの魚屋を右に曲がって、真っ直ぐ進んだ先の交差点だ」
「そう。それじゃあ、行きましょう。この消しゴム、返さなくちゃ」
「……ああ、そうだな」
うだる暑さはいつの間にかたけなわを過ぎて、閑散とした夕色の空気が街を包み込んでいた。事故があった交差点。付近に立つ一本の電信柱。その根本には、数輪の白い花束とともに、数種のお菓子と飲料水が供えられていた。女はその中に、消しゴムを置き添える。そして、二人は目を閉じて手を合わせる。二人は石山の幸せを祈る。それぞれの「ごめんね」を捧げながら。
「よし。んじゃ、帰るとするか」
「ええ、そうね」
踵を返して帰途につく二人。名残惜しさを尾に引きながらも離れようと歩み出したその時。
「……へ?」
女は止まって、振り向く。
「ん、どうした」
「……なんだか、『ありがとう』って、今聞こえたような気がして」
「……いや、きっと言ったよ。俺も、なんかそう聞こえたような気がする」
二人の頭上に広がる濃緑の木の葉が、風にそよいで静かにざわめく。
「帰ろうか」
「ええ」
男女二人並ぶ帰り道。沈みつつある夏空の太陽が、二人の影を陽光きらめくアスファルトの上に投げつける。涼しく快いそよ風が、二人の間を柔らかに吹き抜けて行った。