28から32まで。
28
中島守人が住む四階建て公団住宅の前に、二階建て公団住宅がある。
そこに一台の軽自動車が、駐車場に止まらずに住宅側面の階段の前につけて停まる。
後部スライドドアがピーピー慣らしながら開くと、慣れぬ松葉杖を車外に突き出しながら、美凪が降りる。
「じゃあ、階段気をつけて。夜も戸締り、火の用心でね」
葛城由美子は、そう言うと、今夜も遅出勤務に出かける。
昨日も遅くに帰宅して、昼前に起きられず、今日の昼の迎えに遅刻した。
お母さんごめんね。美凪は心の中で謝った。内緒にしているバイクのことや、深夜暴走のこと。
もう今回のことで潮時かな、とも思う。
階段を上がる前に敷地内の、駐輪場を見る。
カバーの掛かったままの、美凪のバイクがあった。
しばらく乗れないな。
思わず、ため息が出る。
慎重に階段を上がり、曲がって直ぐのドアの前にたつ。
中に入ると、ベランダの窓を開け、空気を入れ換える。
道路一本挟んで建つ、四階建て公団住宅の四階の窓を見るとはなしに見る。
レースのカーテンが揺れている。
窓が開いていて、網戸にしているのか。四階だから開け放したままでも、泥棒は入らないか。
今頃はまだ、中島くんも井上くんも学校だなと、少し寂しいような気持ちになる。
ひとりって嫌だな。
テレビでもつけるかと、目を離す刹那、窓に人影が見えた。
「あっ、中島くんだ」
以前、知り合って間もない頃に、お互いの家が向き合っていることを初めて知った。
美凪が最初に守人を見つけて、四階に向かって手を振り、気づいた守人も振り返してくれた。
なぜだか三階のお爺ちゃんも勘違いして、まるで機械仕掛けの人形のように手を振っていた。
その日の登校時には、その話題で盛り上がった。
「サボりか」
美凪は、ベランダに出ると、あの日のように手を振った。
こちらを見ているようで見ていない。
思い切り息を吸い込むと、
「おーいっ!なっかじっま、くぅぅぅぅんっ!」と叫んでみる。
すると、気づいたのか、一旦姿が見えなくなる。
美凪のスマートフォンが震える。
みると、
「お帰り。元気そうで良いんだけど、大声で呼ばないで」とメール。
「どうしたの?」
打ち返すと、
「転んで右手首、折れた」と返信が来る。
「まじでっ?どんなコケかたしたの?」とやると、しばらく間があって、
「バイクでコケました」
美凪はすぐに、きびすを返すと、玄関も閉めずに階段を下りる。
松葉杖が、自分の脚のように動く。
一直線に、駐輪場へ。
カバーをめくると、あちこち傷の入った愛車が、隠れるようにひっそりたたずんでいた。
まさかと思い、愛車で一番お気に入りの、ティアドロップフューエルタンクを見る。
凹んでいるように見える。
違う違う。太陽光の加減のせいよと言い聞かせ、手でなぞってみると、やっぱり・・・。
凹んでいた。
美凪は、涙目でそこから四階を見上げると、神に祈りを捧げるように、守人が謝っていた。
29
ひとりはベッドに横になり、もうひとりは、座布団に座り、右手をテーブルの上に置いていた。
「仕方ないよ。乗ったことないんだし。逆にそれくらいの怪我で済んでよかったと思う。三人で買ったバイクだし、元々はわたしが蒔いた種で、こんなことになったんだから、ホント、ごめんね」
美凪は、ベッドから謝った。
椅子に座っているのもきつそうだからと、横になりなよと言ったのは、守人だった。
「いや、自分が不甲斐ないよ。バイクを舐めてた」
守人はため息をつく。つられて美凪も。
「弁護士の伯父さんがいつも言うんだ。『どんな小さなことでも、舐めてかかると大ケガをする。常に気持ちを一定に保って、ことに掛からねばならない』とね」
「弁護士の伯父さんは、今も東京なの?」
美凪は、話を変えようと、訊いてみた。
「うん。伯父さんの担当する弁護は、企業に起こる問題に対処する弁護士だって聞いたよ。労働事件とか企業法務とか言ってた」
「大きな会社のなかの弁護士なんでしょ?凄いよね」
「うん。僕もああなれたらいいなって勉強してるよ。今もその企業でいろいろあるらしい。この間聞いた話では、警察官僚が天下りしてきたって言ってた。ここだけの話だけどなって」
「へぇ~」
天下りはよく聞くワードだ。あまり良い感じではない。
「その人がなんでも、ストーカーにあってるって相談されたらしいけど、その後のことは聞いてないからわからない」
ストーカーか。美凪は父のことを思い出した。
あの女は今、どこでどうしてるんだろう。
「そう言えば、あの夜、鳥野郎に会ったわ。走りながらナンパしてきて。そのあとの、つり目もしつこくて、それもストーカーの素養があるのかもね」
鳥野郎の意味するところはわからなかったけれど、あの夜の騒々しさや、まるでドラマの中に放り込まれたような体験を思い出すと、今でもドキドキする、守人だった。
「あの港で、倒れてる葛城を見つけたとき、勇二のやつ、泣いたんだ。何度も葛城の名前を呼んでさ」
自分のことを心配して、泣いてくれた井上くんを想像すると、胸が熱くなる思いの美凪だった。
「あ、ヘルメット返さなきゃね。家に戻って取って来るよ」
時計をみて、そう言った。
守人も、もうすぐ勇二が来るのに、葛城と二人でいると、空気が気まずくなるのではと思ったから、ヘルメットを口実に席を立ったのだった。
いつものように立ったつもりだった。いつもの癖で右手をついてしまった。よろめいた。よろめいた先が、ベッドだったのは、単なる偶然だろうか?
「あっ!ごめん」
なんとか、のし掛からずにすんだ。
真横に、美凪の顔。
見慣れたいつもの顔。少し緊張が走ったよう。
意識している。気持ちが高揚する。
左手を顔の横につく。
上から見下ろす、守人。
近づく顔と顔。
瞬きを繰り返す、美凪。
心のどこかで、井上くんともしたのだからという、言い訳めいたものが、膨らんでは弾けた。
顔を背けた。
その先にある、スマートフォンが振動して、机の上を暴れている。
数分経ったろうか。
目の前に、目を閉じた守人がいた。
「これは、フェアじゃない。抜け駆けは、ダメだよな」
そう言うと守人は、離れた。
そのまま、なにも言わずに出ていった。
美凪は、静かになったスマートフォンを手に取ると、開いた。
勇二からのメールだった。
30
守人は階段の下で、勇二が来るのを待っていた。一緒に、美凪の部屋に行くためだ。
持ってきたヘルメットは、シンプソン。
あの夜、最悪の場合、もうひとつヘルメットがいるかもしれないからと、美凪のお母さんに鍵を預り、家の中から持ち出したのだった。
実際は、使わなかったけれど。
勇二の姿が見えた。自転車に乗り、右手をあげている。
「よぉ、右手は大丈夫か?」
「おつかれ、ボチボチだよ」
そう言って、右手を持ち上げて見せた。
「さて、本題だ」
勇二は、あぐらをかき、二人を見やる。
守人は体育座りを、美凪は左足の下にクッションを置き、持ち上げておきながら、背中にも大きなクッションを置いて、ベッドの上で座っていた。
「俺たち、ボーリングしてたんだ。俺のボロ負けで」
「そこから?」
美凪が言うと、
「まぁまぁ、これは伏線ってやつさ」と言われて、黙る。
「俺はいつでもマイボール、マイシューズ持参で、その夜もそうだった。
3ゲーム終わったその時、俺の左手の小指が、ピクピクと動いたのさ。葛城が、ピンチだって」
「そうだ。 そう言えば、なんでわたしの居場所がわかったの?」
美凪は、訊ねる 。
鹿児島中央駅の時も、谷山港に助けに来てくれたときも。
「だから、これこれ」と勇二は左手の小指を立てる。
ハイハイと美凪は、にべもない。
「実は、それなんだ」
守人は、二人が美凪にプレゼントしたアライのヘルメットを指さした。
美凪が、怪訝な顔で見ていると、
「小型のGPSを取り付けたんだ、僕らで」
「まぁ、こういう頭を使うことは、守人が中心だけどな」と勇二。
「そうなんだ。ナビのあれでしょ?自分の現在地がわかるやつ」と美凪。
「勘違いしてほしくないのは、僕らは葛城の行動を監視するためにつけたんじゃない」
守人の言葉を遮るように、
「わかる。わたしが事故ったときのためね」と美凪が言う。
「そうそう。お風呂とかトイレとかのときは、俺たち目を閉じてるから」
勇二が、茶化す。守人が鼻から息を吐く。
「GPSって、見えるの?」
「それはない」
美凪の質問に、間髪おかず守人が応える。
実直なのだ。
「で、谷山港での、本題に移るわけだ」
勇二は、本題が好きらしい。
31
実際、美凪は、つり目に追われていた中山の山の中から、正確にはガードレールを蹴飛ばしたあとからの、記憶が曖昧だ。
「電話が繋がって、心底ホッとした」
勇二の言葉に守人も大きく頷く。
「葛城が港に着いたとき、俺たちもすぐそばまで来ていたから、行動は早かった。位置を見極めると、俺たちはすぐに葛城とバイクを、倉庫裏に隠した。
すぐに、パトカーが来た。葛城が、つり目っていうやつだ。
停車して、二人の警官が降りてきた。
葛城が気絶していたし、逃げるにしても、逃げ切れないと思ったんだ。だから、気をそらして時間稼ぎをするしかないと考えた。
俺は、マイボールを海へ放り込んだ。守人は見て知ってるけど、すげぇカッコいいカラーリングのボールで、葛城にも見てほしかったほどだ」
わかったから次々と、守人が手を振る。
「そして、叫んだ。『マジかよっ!バイクが海に、落ちたぜっ!だれか助けてくれっ』てな」
話の道筋は、美凪にも見えてきた。
「警察も深追いで転落水死とマスコミに騒がれるのは嫌だったんだろうな。すぐにレスキューと救急車が来たよ。その間に、俺たちは、スルスルとバイクを押しながら、逃げたのさ。
ちなみに、気絶した葛城は、重かったけどな」
また、余計なことをと、守人は思いながら、
「でも、勇二は、『葛城っ、死ぬなっ!』って泣いてたよな」と片頬を上げる。
「あ、あれは鼻水だ」
器用なことができるのね、と言おうとして言葉がつまった。
美凪は、いつの間にか泣いていた。
「大丈夫か?」と守人。
「うん、うん。ごめんね。なんか、泣けてきた。井上くんも中島くんも、ほんとにありがとう」
みんなが優しい笑顔になった。
警察に父親を殺されたに等しい仕打ちに合い、そこから恨み辛みで生きてきた。
オートバイの気持ちよさを知るも、警察を嘲笑う道具に使い始めた。
自分自身の恨みを晴らすための行動は、気づかぬ間に、勇二と守人を巻き込んでいた。
そして、ついには危険な目に合わせてしまった。事実、守人は大ケガをおってしまったのだ。
「俺が葛城を背負って、そろそろと走る。守人は葛城のバイクに乗る。もう、ガソリンは切れてたんだ。不思議だけど、かなりEマークを割り込んで切れていた。よく走ってこれたもんだと、思ったよ。これも、三人の『愛』かなって思った」
それには美凪も守人も頷いた。
「そして、守人は俺の知る限り、五回はコケたな。立ちゴケってやつ。まぁ、仕方ないよな、葛城も許してやってくれ。修理は俺の知り合いで、腕の立つのがいるから、明日にでも取りにこさせるよ」
美凪は、何度も頷いた。
ふたりの温かさを感じていた。
そのあとも、涙は止めどなく流れては、三人の絆を強くした。
32
少しの時間だったけれど、三人とも黙った。でも、それは、なにも言わなくても、心が通じた瞬間だった。
今まで感じたことのない、この空気感。このひととき。だれもがそう感じていた。
「まっ、そういうことで、話は終わり。ちょい、小便してくるわ」と勇二が席を立つ。
残されたふたりは顔を見合わせ、クスっと笑い合う。
トイレから出てきた勇二を見て、美凪は即効気づいてしまった。
社会の窓が半閉めだった。最悪なのは、シャツが、つまみ上げるほどに、飛び出ていた。
美凪は、守人に目線で、あれ、あれっと伝えるけれど、実直真面目な守人は、目を潤ませて、自我をさ迷っている。
勇二が座る。すると、シャツが跳ね上がる。短い尻尾が、喜びに上向きになったようだ。
「でもさ、これは嫌みじゃなくてさ、葛城のお陰で、ドラマチックな経験をしたよな?」
「あぁ、普通の高校生じゃ、体験できないな」
守人も相づちを打つ。
そうじゃない、そうじゃないと思っているのは、美凪だった。
「でも、俺のマイボール、見せたかったな」
勇二が言うと、
「僕もある意味、あれは葛城の意見を聞きたかったな」と守人。
マイボール、マイボールと連呼されても、今の美凪には、下ネタにしか、聞こえなかった。
それでも、ふたりの嬉しそうな顔を見てもう、暴走行為はやめよう。
美凪は、そう心に誓った。