60からエピローグまで。
60
翌日の学校も普段通りだった。
何も知らないみんなのなかに、守人と美凪は、これが日常か、と思い、私たちは貴重な体験をしたのかもしれないと思っていた。
昨日、帰宅してからも、
「勇二くんのお見舞い?意識を取り戻して良かったね。若いから治りは早いよ、美凪みたいに」と母に言われ、
「う、うん。一旦帰って着替えてから、バイクで行ったの」とお見舞いに行ったことは確かだから嘘ではないと、自分に言い聞かせながら、答えた。
一旦帰った時間が、朝と夕方で違いはあったけれど。
心配させるからと、上野あけみとの事は、黙っていた。
「ねぇ、お母さん」
「なに?」
「嘘つきって嫌いだよね?」
「好きな人はいないよね。でもね」
「うん?」
「子供のつく嘘は、嫌いじゃない」
首をかしげる美凪に、由美子は言う。
「それは、子供が自力で成長している証拠だから。もちろん悪い嘘は駄目って叱るけど、相手を思いやる嘘や誰かを庇う嘘は、しょうがないよね。嘘も方便ってやつだよ」
ひょっとしたらお母さんは、何もかも知っているのかもしれない。
「美凪もいずれ、あたしのもとから巣立つんだから、あたしを超えるための嘘なら、許すよ」
美凪が棒立ちのままでいるのを、由美子は抱き寄せて頭を撫でた。
「ずっと、あたしの子だもん。それは変えられない」
指輪を返すのは、お母さんが犯人逮捕の知らせを受けてからにしようと、美凪は思った。
61
学校が終わった後に守人と、勇二のお見舞いに行こうと約束した美凪は、その時になってやっと、勇二の長文のメールが、当の本人からのものではないことに気づいた。
そうか、あのときスマホは上野あけみがもっていたし、走行中の「メールを」と言う言葉も、あの長文のメールを指していたんだ。そう思うと、夕方が待ち遠しかった。
ひとりで読む、勇気はない。
やっぱり、夕方が待ち遠しかった。
夕方が来た。
ふたりは連れだって、勇二の病室に駆け込むように入った。と、言うのも道すがら美凪が、上野あけみのメールのことを守人に話したからで、早くみたいと駆け足になったのだ。
「実は、すべての謎が解けるかもしれないんだ」
入るなり、守人が興奮しきって言い放った。
なんのことかわからずにいる勇二に、美凪がスマートフォンを渡す。
「昨日、渡すの忘れてた。ごめん」
ありがとうと言う勇二の、そのスマートフォンを指差し、
「この中に、謎を解く鍵がある」と名探偵なにがしかのように、見栄を切る。
「わたしのでも見れるから、中島くん、読んで」と美凪のスマートフォンを受けとると、すでに表示済みの画面を読み出す、守人。
〈わたしは今、あなたのお父さんのお墓の前にいます。
今から、あなたにだけすべてを話します。
あなたのお父さん、高崎裕也に初めて会ったのは、わたしが幼い子を連れて、鹿児島に帰ってきてからひと月たったくらいの頃でした。〉
「つまり、上野あけみが離婚したあと、芸能界から引退してからのことだ」
守人が、注釈を入れる。
〈人は辛くなったら、故郷に帰ればやり直せる。そう言うけど、わたしにとってはそれはまったくの、嘘だった。
こんな世の中だから、田舎のお爺ちゃんお婆ちゃんまで、わたしの過去のことを知っていて、顔を会わせても知らんぷり。
親戚だって寄るな触るなと、突き放したわ。
親からも、お前たち、どこかへ行ってくれないか、とまで言われたの。
就職先も見つからず、友達にも見放されてわたしは、ふと気づくと、踏み切りに立ってたわ。
朝まだ早い一番列車を待って。〉
62
〈朝靄のなかから現れた彼は、まるで空から舞い降りた天使のように感じたわ。
それが、高崎裕也だった。
「何してるんです?危ないですよ」
裕也はそう言いながら近づいてきた。わたしはうつむいて放っといてって、叫んだわ。
そんなわたしに彼は、
「何があったかは聞かない。けれど、今の君は背中を丸め地面を見ながら後ろ向きに駆けているようなものだ。いつ何が起こってもおかしくない。
人生は変えられる。
いつでも、君が前を向きさえすれば、変わるんだ。
選択できる未来はいつでも無限に転がっている」
はっきりと一言一句覚えている。
わたしは、彼に救われたの。〉
「あのとき」
美凪が口を開く。
ふたりが美凪を見る。
「坂道を下りながら、わたしも父と同じ事を叫んだの」
時を隔てて人を救うために、父と同じ事を言っていた。そう思うと美凪は、心のなかが温かくなるのを感じた。
〈話が長くなるからここからは要点だけを書くわ。若い子は長文が嫌いでしょ?〉
美凪に問いかけるように書かれたところを読まれると、少なからずドキドキする。
〈わたしのことを調べればすぐに、わたしの遍歴がわかると思う。こう見えて少しはわたしも、人気者だったのよ。
前向きになるってことがこういうことだとすぐにわかった。
選ばなければすぐに仕事は見つかった。夜の仕事だけど、託児所も、その専門のところをお店が紹介してくれた。
生活が安定してくると、心の拠り所が欲しくなった。
小さな子供と二人きりで、もの足りず寂しかった。
日に日にわたしは高崎裕也に頼っていった。
頼りきった。
依存しきっていた。
一日のメールが百件超えることがざらになったとき、裕也からメールが来た。
『妻が君とのことを心配している。悪いけど、回数を減らしてくれないか?』
今思えば、優しい申し出だった。
でも、その時のわたしには出来ない相談だった。そして、その原因を奥さんだと決めつけたわ。〉
「明らかに依存症だな。勝手すぎる」
勇二は憤る。
「依存症は簡単には治らない。病気事態が悲劇なんだ。葛城のお父さんは悲劇に巻き込まれたんだ」
守人が一度目を閉じて、鼻根を揉む。
続ける。
〈嫌われたくないから、メールはできるだけ抑えていた。でも、なにかが欲しかった。裕也の何がが。
必死に探したわ。踏み切りのそばの駅に一日中、待っていたこともある。
見つけた時は嬉しかった。ひと月に一度、朝一番の電車で、その駅に得意先回りで寄るらしいことを突き止めた。
顔は出さなかった。目的は家を探し当てることだったから。
それから、すぐに家を見つけた。
何度めかの朝、ごみを出す奥さんを見た。顔は前から調べていたから間違いはなかった。 誰もいなくなると、すぐに高崎のゴミ袋を取り出し、漁ったわ。〉
「きっと、こうやっているうちに、髪の毛も見つけたんだろう。葛城は大丈夫か?」
「うん。大丈夫。ありがとう。もし倒れても、ここ、病院だから」
気丈に笑う美凪だった。
メールは続く。
63
〈何回めかのゴミ漁りの時だった。
「君、何してる?」
突然声をかけられた。振り返ると、中年の男。見覚えがあると思ったら、お店によく来るお客の男だった。
職業を隠す人は公務員、それも警察関係よって、お店のみんなで噂してた、その男が目の前にいた。
「最近ゴミ捨て場が荒らされているという苦情があった。きみだね。一緒に来てもらうよ」
裕也が通報したのか?そう思った。
悲しくもなった。
男は警察手帳を見せた。
でも、私服だったし、車も普通の乗用車だった。
おかしいと思ったけど、車に乗った。
走り出してからすぐに、
「君、なかなか美人だね。君のように綺麗な人があんなゴミ漁りなんて似合わないよ。なぜあんなことを?」
それから、わたしの過去のことも話し出した。
なにもかも知っていた。
わたしは震えていた。裕也にバレるのが一番怖かった。だから、内緒にしてくれるか、そう聞いたら、それは君次第だよ。と言って、ホテルに連れていかれた。〉
「こいつがきっと、前署長の河野仁だな。最低なやつだ。それに店の常連客で上野あけみを調べていたのなら、ひょっとしたら始めから、この機会をうかがっていたのかもしれない」
守人が吐き捨てるように言った。
ふたりも頷いた。
上野あけみの人生を聞いていて、少しだけ同情の気持ちもわいてきていた。
「ついてない女。だけどそれも自分が蒔いた種が原因・・・」
勇二は呟く。
〈情事のあと、電話が来ていることに気づいたわ。かけ直すと、借家の大家さんだった。
火事だった。燃えたの、家もわたしの娘も。〉
「なんてこと」
美凪は顔をおおう。
「何で三才の子供をひとりにしたんだ」
勇二も左拳を握る。
〈原因は電気ストーブ。唯一の暖房器具だったの。子供が寒いだろうとつけっぱなしにしていた。でも、言い訳にはならない。何もかも失った気がした。
その時、河野が言ったわ。
『わたしとここに来たことは、黙っていろ』
確かに不都合なことだと思った。わたしにも負い目がある。
それに、わたしにはモデルの頃の過去の遍歴がある。またマスコミに取り上げられる。今度は子殺しだと書かれるかもしれない。混乱したわ。
全部わたしが悪いの?じゃあ、誰に、どこにこの怒りを、悲しみをぶつければいいの?そう思ったら、悪いのはわたしを遠ざけようとした高崎裕也なんだと思い始めた。
彼さえいなければこんなことには、ならなかった。
わかっている、理不尽でわがままな話よね。でも、娘を亡くして、気が動転していたし、実らない恋ならいっそ壊してしまえと思った。そして、
『さっき話していた高崎裕也に罪を被せられないか?』
そう河野に相談していた。〉
64
「愛しすぎて、相手にされなくなって、今度はその相手がこの世からいなくなってしまえばいいのにと、思うことはあるだろうけど、上野あけみの場合は、病気のせいからか、ひどいな。それに自己防衛本能も強い」
自分の心を守るために、相手を悪者にすることはあるけど、とも守人は言う。
近頃の女性は強くなった。
女性が犯罪を犯すときには、陰に男がいたものだが、今では自分自身の欲望を満たすために犯罪を犯すことも珍しくない。
そう考えると、上野あけみは、男に頼らなければ生きていけないタイプとも言える。
「ここからは急いでたのか、誤字脱字が多いから僕が補完していく」
守人は読み続ける。
〈裕也が亡くなったとき、悲しくてずっと泣き続けたわ。勝手なことをと思うだろうけど、ほんとのことよ。
無罪になったことが何よりの救いだった。
罪の意識からか、毎晩のように裕也の夢を見た。なにか言いたげだったの。そして、ある晩はっきりと聴こえたの。
『俺の仇を打ってくれ』
河野はもともと東京の人間だから、戻っていたのね。そこで、友人が社長をする企業に呼ばれて再就職した。
その情報は、県警の刑事が教えてくれたわ。まっとうに聴いても教えてくれなかったのに。
裏切り者はどこにでもいるらしい。
ちなみにこの場合は、天下りとは言わないらしいわ。 奥さんに先立たれて、子供もいなくて、60前には前倒しで定年退職してるから、体力はあったようで、東京でも愛人を囲ってた。
性欲は人並み以上なのに子供ができなかったなんて、皮肉なものだわね。
でも、その愛人が金の無心ばかりする女で、別れたがってたの。
そこへわたしが、河野の行き付けのクラブを探し出して働いて、偶然を装おって、近づいたの。
嘘かほんとか、俺と結婚してくれって言ったわ。それでその愛人と別れられると思ったのかしらね?〉
「そして、ホテルで上野あけみは河野仁を刺し殺した」
守人は長くため息をついた。
実際は殺しの手口まで詳細に書かれていたけれど、それは今後、このメールを見た警察なり裁判所の判断材料になるだけで、今この場で読む気にはなれなかった。また、必要もないと守人は考えた。
最後の文章を先に読み、これは伝えるべきかと悩んでいた守人だったけれど、
「わたしなら大丈夫だから、読んで」と美凪に促されて、読むことにした。
〈もうすぐあなたが来る。あなたがバイクに乗ってたなんて、知ったときにはとても嬉しかったわ。
最初で最後のツーリング、レーシングかしらね?
楽しみだわ。これで心置き無く、裕也の元に行ける〉
「死ぬ気だったらしい。だけど、さっき葛城が言った、坂道での言葉がお父さんと同じだったから、思い出して死ぬのを思い止まったのかも知れない」
確かに、あのとき抵抗すれば出来ないことはなかった。叫んではいたけれど、大人しく止まってくれた。
美凪は思い返して、目を閉じると、「お父さんありがとう」と囁いた。
65
城島隼人は三人分の缶コーヒーを持って、井上勇二と葛城美凪の元に、急ぎ足で来た。
どうやら彼は、常にせかせかしているらしい。
「どうぞ」とまずは美凪に渡し、
「お前も飲むか?」と笑いながら、勇二に渡す。
「あっざーす!」
勇二はそういう嫌みには慣れている、というか、わからない。
鈍感である。
温かいコーヒーが、五臓六腑に染み渡る。
「さてさて、そろそろ帰るか」
城島が、残念だけどなと、寂しそうな笑顔で、ふたりに問いかける。
「そうですね。わたしならもう少し熊本を流してから帰っても、日のあるうちに帰れるけれど、ふたりがね」
そう言って笑う美凪は、少し大人びて見えた。
勇二と城島は顔を見合わせ異口同音に、
「美凪が速すぎんだよ」と口を尖らす。
天草五橋から、松島展望台にいた。
「ねぇ、勇二。ここから愛を叫ぶと結ばれるって知ってた?」
美凪がかまを掛ける。
「えっ、マジでっ?」
「マジでっ」
ほんの数秒、勇二は考えていたけれど、すぐに大きく息を吸い込むと、
「俺は、葛城美凪がっ、大好きだぁぁぁぁ!」と叫んだ。
城島は向こうを向いて笑い、美凪はオッケーサインを見せた。
「み、美凪もやってみろよ。気持ちいいぞ」
そう言われて、
「わたしは恥ずかしいから出来ない」と答えた。
なんだよ~と、揉んどり打つ勇二を、笑いながら抱き締めた。
「ほんとに、ありがとう。ずっと、ずっと愛してる」
帰りは、ほどほどに飛ばしていた。
すべての悲しみや苦痛や忘れたいことが、走り去る彼方に置き去りにされていく。
あの日病院で、三人で話したこと。
「このメールを警察に渡して、どうなるかはわからない。でも、もう僕らにできることはなにもない。あとは警察を信じるしかない」
守人はそう言い、二人を見る。
ふたりとも頷いて、
「これから始まるんだね」と美凪が言い、
「そうだな、やっとだな」と勇二が美凪の肩に手を置く。
ちょうど夕食の時間になった。
運ばれてきた食事を、
「わたしが食べさせてあげる。右手が使えないと不自由でしょ?」と甲斐甲斐しく、スプーンを握る。
にやけ顔の勇二を見ながら守人は、黙っていた。
勇二が元々は、左利きだということを。
「じゃ、僕はお先に」と守人が席をたつ。
早いねと、美凪の言葉を背にさっさと出ていく守人。
「あいつさ、コレ、出来たんだよ」
勇二が小指をたてる。
「うそっ?マジでっ?」
「マジでっ」
どうやら、他校の、同じく弁護士を目指す女子らしいと、勇二は言う。
ふたりはホッとしていた。ふたり付き合い出してからずっと、気がかりだったのだ。
「すべてはこれから始まっていくんだね」
城島は呻く。
「あいつら、飛ばしすぎだよ。ここに警察官がいること、忘れてんじゃないだろな?あっ!」
そこで思い付く。
「僕も、警察官だってこと、忘れちゃおうっと」
クラッチミート。
加速する。
風になる。
なにかも忘れられる。
ただひたすらに、前へ。
止まったら倒れてしまう。
だから走り続ける。
前へ。
前へ。
前を向け。
そうだ。
前進あるのみ。
それが、生きてる証なら。
エピローグ
射し込む太陽光から、昼間だとわかるくらいの狭い部屋。
彼女は、レーシングスーツのジッパーを上げる。
ギシギシと革のスーツが、鳴る。
ヘルメットを、取る。
レーシンググローブも。
耳からイヤホンを外す。
その先端から流れ出る、ONE OK ROCK「Change」。
彼女はおもむろに立ち上がると、ドアを開ける。
とたんに侵入してくる、エキゾーストサウンド。
チームスタッフがすぐに駆け寄る。
オーケー?
オールオーケー。
短い会話。
バイクが待つ、その場所にたどり着く。
そこでも同じ、会話を交わす。
ゲートが開く。
彼女がバイクを押す。
チームスタッフの一人が後ろから、押す。
クラッチミート。
火が入る。
鼓動が始まる。
跨がる。
「GO!美凪っ!!」
スタッフが離れる。
加速する。
サーキットへ流れ込んでいく。
バイクと魂を吸い込んでいく。
おわり