49から53まで。
49
ドルフィンポートの美凪の元に、乗用車が止まる。
運転手は見知らぬ、角刈りにスーツ姿の男性。
「大丈夫か?待たせた。乗りなさい」
後部座席の窓から顔を出したのは、城島隼人だった。
美凪は、勇二が去った方角を気にしながら、乗り込む。
そんな美凪を気遣ってか、
「警察が威信をかけて追っている。大丈夫、捕まえるさ。それに、彼も助けるっ」と力強く声をかける。
無言で頷く美凪だった。
美凪を乗せた乗用車が仙巌園前を通過しようとする時、城島隼人の携帯が鳴った。
「失礼」
そう言って、スーツの左ポケットからスマートフォンを出す。
「はい。城島」
話し出して、数秒後。
「なんだとぉぉぉぉ!逃げられたぁぁぁぁっ!!」
城島隼人の地声の大きなことは美凪も知っていたけれど、その時の怒声には、飛び上がらんばかりに驚いた。角刈りの運転手も、声に圧されて頭を前に倒す。
その後は、窓側を向いて、囁くように喋っていたが、夜の暗がりに反射する窓ガラスに映る城島隼人の苦渋の顔を、美凪は見ていた。
城島の口元が、井上、事故、病院と単語を続けている。
通話を終える。
城島が振り返ると同時に美凪が、問いかける。
「井上くんがどうしたんですかっ?病院って?事故って?」
「落ち着きなさい。まずは井上君の家族に連絡したい。電話番号を教えてほしい」彼のスマートフォンが見当たらない、とも言う。
美凪が自分のスマートフォンから電話番号を教えると、
「それで、井上くんは?」と訊ねる。なにかが喉を圧迫して、吐きそうだった。
城島は、視線をそらして、前を向きながら、ゆっくりした口調で答える。
「大変、危険な状態らしい」
「もどってくださいっ!病院へっ、井上くんのところへっ!!」
叫ぶ、美凪。
角刈りの運転手は、城島署長の命令の前に、車をUターンさせた。
ボタンを押す。
屋根の一部が反転、パトライトが赤く回転する。
サイレンを鳴らす。
鹿児島市立病院へと、飛ばす。
50
面会謝絶、絶対安静。
井上勇二は、ICU(集中治療室)に、いた。
駆けつけた家族も、会うことが許されない。
医者である勇二の父が、担当医から話を聞いてきてからの、落胆した表情を見て、美凪ならずとも、そこにいたみんなが、視線を落とした。
「神様・・・」
美凪は、祈る。
城島隼人は署に戻ると、陣頭指揮をとった警部の説明を聞く。
「上野あけみを、中央公園地下駐車場に追い詰めました。出入り口を封鎖。人の出入りする階段、エレベーターにも署員を配置。万全で望んでいました」
警部は汗をかいていた。顎から滴る。それほど太っているわけではない。室温も寒いくらいだ。
ただひとつ。城島隼人署長が、熱気をはらんでいることを除いては。
「地下駐車場、管理室の監視カメラの映像です」
パソコンから送出された映像が、プロジェクターに映し出される。
上野あけみがバイクを、1.5トン貨物の前に止め、荷台から梯子を二本引き出し、その上を半クラッチを上手く使い、並走して上がる。次いで、引き込まれる、梯子。
一分もしないうちに、赤いコートの金髪ロングヘアーの上野あけみが、荷台から飛び降りる。
「ここまでを見て、我々は、上野あけみを金髪ロングヘアーの赤いコートの女と認識。階段並びにエレベーターから上がってくるのを、待ちました」
い並ぶ警察官の前で、汗を拭く。
続ける。
「しかし、そのような女は、どこからも出てきませんでした。そして、次にこの映像です」
それは、階段とエレベーターの昇降口の監視カメラの映像だった。
赤いコートの上野あけみが、壁に吸い込まれていく。
居合わせた警察官らが、息を飲む。
「これは、監視カメラの角度によるもので、実はここにトイレがあるのです」
相変わらず可哀想なほどの汗をかきながら、警部は続ける。
トイレと思われる壁から、ニッカポッカにファー付のジャンパーを着た、スキンヘッドの小男が出てきた。
眉毛はなく、マスクをしている。
黄色い工事用ヘルメットの顎紐を首に、後ろに垂れ下げた格好で、階段を上がっていく。
「これが、上野あけみです。そして、我々は、みすみす目の前を通りすぎる被疑者を、捕らえることができませんでした」
警部は、主に署長に向けて、頭を下げた。
つまり、上野あけみは、巧みに監視カメラを利用していたのだ。
そして警部は、さらに顔を紅潮させ、言いにくそうに眉根を寄せて、唇を歪めやっと、
「このあと、現場付近の個人店のバイク店が襲われ、店主所有のオートバイ、ホンダCBR1000RR、色、レプソル、つまりオレンジに近い色、一点が盗難にあっております」
城島署長が目を見開く。
警部は脱水症状で、今にも倒れそうだった。
51
意識不明。
祈るしかない状況で、井上くんのお母さんが、着替えや諸々の物を取りに行かなければならないから、あなたも乗せていくわと、美凪は帰ることになった。
一時も離れたくはないけれど、会うことすらままならず、まして家族のなかにいることが、はばかられた。
自分の撒いた種。心の中のもうひとりの美凪が、囁く。
車内では何も言えず、家の前まで送られて、ありがとうございますと、お辞儀をする。
「目が覚めたら必ず連絡するから」と言われて、彼女だと認められた気がして、涙が溢れた。
家では、由美子が起きて待っていてくれた。
「お腹は空いてないかい?」
首を横に振る。
「もう遅いから、寝なさい。明日には良いことがきっと、あるから」
そう言われて、うん、うん、と頷いては泣く我が子を、抱き締める由美子だった。
翌朝。
スマートフォンが振動した。
一、二時間ほど、うつらうつらしていた美凪は、井上くんのお母さんからだと思い、スマートフォンを取った。
画面には、「井上勇二」からの着信と表示されている。
出る。
油の切れた錆び付いた歯車のような声音で、上野あけみは喋る。
「誰にも言わずに、あんたのお父さんのお墓においで。来れば、あんたの大切なものを返してあげる」
一度、学校に行く振りをして、日勤の由美子が出掛けたあと、家に戻る。
ジャンプスーツに着替えて、アライのヘルメットを被る。
城島隼人にメールを送る。
勇二とお揃いのジャンパーのポケットにしまい、ファスナーをあげる。もう見ることもないかもしれない。
Z900RSに火が入る。
「勇二・・・」
静かに、スタートする。
向かう先は、父高崎裕也の眠る、鹿児島県志布志市。
52
「僕も連れていってください」
そう電話をいれた中島守人は今、城島隼人のとなりに座っている。
朝の登校途中に美凪が、忘れ物をしたから取りに戻ると言って、帰ったきり戻ってこないので、守人もすぐにとって返した。
すると目の前を、美凪のバイクが行き過ぎるところだった。
一大事だと城島に連絡すると、城島も美凪からのメールを読んだばかりだと言う。
城島は国道10号線に待つ、守人を拾ってくれた。
「彼女は、僕たちのヘルメットを被ってるんです」
乗るなりそう言う守人に、怪訝な顔で見る城島。
「これです」とタブレットをみせる。
「なるほど。GPSか」
すると、前席の角刈りのドライバーが、シートの間からマイクを渡す。
渡されて城島は、叫ぶ。
「容疑者上野あけみは、大隅半島鹿屋市かその周辺に潜伏している模様。全車、そちらに急行せり。曽於、志布志、鹿屋、肝付署にも、応援要請を打診せよ」
そして、苦虫を噛み潰したような顔になり、
「今度こそは、必ず逮捕する。いいか、全員聞けっ!けしんかぎぃ、きばっどっ!」
了解、了解と返答が続く。
上空には、警察航空隊のヘリコプターが、先に飛んでいく。
霧島市国分下井海水浴場を右に、交差点を過ぎると、三差路になる。
左に建設会社の巨大な看板を見て、美凪は右へと進路をとる。
左に行けば志布志市に多少近いけれど、ずっと山道だ。海岸線のこちらの道を選んだ方が、飛ばせる分、意外と早いかもしれない。
そう美凪は考えた。
その三差路の付け根のコンビニから、そろりと赤白のバイクが、美凪を追い始める。
息を潜めるように、
プルクラッチ。
シフトダウン。
ミート。
一気に美凪のバイクを抜き去ると、蛇行を始める。
こいつだっ!美凪は一瞬にして悟る。
油断している道中に襲ってきたんだ。
福山地区の坂を登り始める。
亀割峠。
霧島市国分福山の名産、黒酢のカメを運ぶときに、揺れたり落としたりで割ることが多かったことから名付けられた。
それほどに蛇行する、中央黄線の二車線の山道。
山の木々が覆い被さるように繁っている。
すぐに頂上に着く。右眼下に海が見えた。
と、すぐに左に、急坂を下る。
すぐに右カーブ。まさに、下りのヘアピンカーブ。
その時、美凪はあることに気づいた。
上野あけみのバイクのブレーキランプが点りっぱなしだった。
勇二が言っていた、普通と大型では、雲泥の差があること。上野あけみはレーサーだけれど、大型バイクのレースには出ていないこと。
そして、公道では経験が浅いのではないかと言うこと。
最後は美凪の憶測だが、外れていないと、確信する。
勝機はある。
今こうして走りあってることに、なんの意味があるのかわからないけれど、上野あけみは狂ったその頭の中に、未だにレースの勝ち負けの記憶だけが残っているのではないだろうか?
寂しい人生を送ってくると、過去の一番輝いていた頃の記憶だけが、甦ってくる。
上野あけみはその栄光に、すがっているのではないか?
「可哀想な、ひと」
美凪は呟くと、牛根地区の狭い二車線をウネウネと走る。車道沿いに家々が立ち並んでいる。年配者が、平気で道を横断する。
右カーブ。
上野あけみの目の前に突然現れる、お婆さん。
すれすれでかわす。
倒れるお婆さん。
美凪も距離をおいてかわす。
ミラーで見ると、
「こあーっ、あんねどがぁ!」と手にした大根をふっている。
安心して、上野あけみを追う。
53
いつ、上野あけみは父を好きになったんだろう?
ふと思う。
海岸線の緩やかな道になる。
遅い冬の朝日が、すぐ横に静かに凪る海に時を知らせる。
喘息を持っていた父高崎裕也は、幼い美凪と遊ぶときも、休み休みだった。
時に咳き込む父の丸まった背中を小さな手で、「大丈夫?」と何度も何度もさすっていた。
笑いながら父は、「もう治ったよ。ありがとう、美凪」と抱き上げては、頬擦りしてくれた。
そんな切ない日々。
小さな心に思いやりと温かい気持ちを教えてくれた、父。
どうして?どうして上野あけみは、父を好きになってしまったんだろう?
寂しかった上野あけみに父が、ほんの少しの慈愛の水を注いでしまったから?それが発端。
でも、それは、だれもがする、思いやり。
いけないのは、上野あけみ。
そう、いけないのは、あの女。
目の前を走る、あいつだ。
二台のバイクは、朝の陽光の中を、疾走する。




