第二章:シートベルト
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体がぐったりとしていて力が入らない。
頭が鈍く痛い。
あれほどうるさかった水の流れる音はいつの間にか消え
その代わりに静かな振動と電子音が響いていた。
ここは何処…?
そうだ…
彼の名を叫ぼうとしたが
思うように呂律が回らない。
それでもなんとか口の中で
その名前を呟く。
「リィーン…?」
ゆっくりと瞳を開けた。
暗い。
暗い箱のような場所の中を
光りの筋がたまに魚のようにキラリキラリと光っては流れていく。
不思議なところだ…。
さっきの井戸とはまた違った場所にいるという認識だけは持てた。
だがしかし、じゃあ、ここはどこなんだ?
ゆっくりと体を起こそうとしたところで
ベルトのようなもので体が固定されていることに気付く。
「あ…目が覚めたかい?」
突然右のほうから人の声が落ちてきた。
驚いて目を見開く。
暗くてよくわからないが、
だが…
間違いない…。
その聞き覚えのある声。
少しずつ目が慣れてくる。
きらきらと輝く金色の髪、
銀縁のフレームの奥にグリーンの瞳…
「羽鳥…翼?!」
思わずその名前を呪文のように唱えた。
はっとして
自分が今車の中に居ることに気がつく。
ベルトをはずしゆっくりと身体を起こした。
車が赤信号で止まる。
「おっと、助手席はベルトつけてね。
さっき白バイがいたから見つかったら切符切られちゃうよ。」
そういいながらにこりと微笑む羽鳥翼の横顔が
なぜか幻覚のように思えた。
状況が把握できない。
言われたとおりとりあえずベルトを締めなおすが…、
なんで僕は車に乗っているんだ?
倒されていた座席を起こす。
リィーンは?
リィーンはどうした?!
周りを慌てて見回すが車内には僕と羽鳥翼以外だれもいない。
え…ちょっとまって…
車?!
赤信号?!
白バイ?!
「ここは何処ですか!!」
思わず大声で叫んだ。
あまりに突然大きな声をだしたので
一瞬車がよろけたような気がした。
「あ…すみません…」
大声を出してしまったことを詫びる。
「もうすぐで君の家に着くよ。
疲れているだろうけど手身近に説明するからよく聞いて。
君は元の世界、金倉に戻ってきた。
君と引き換えにイネ=ノは元居た場所に帰ったよ。
でね、
イネ=ノがこの世界で君、つまり射川竹人として暮らしていたんだ。
数ヶ月間だけだけどね。
とりあえず君は家に帰ってほしい。
君が帰らないとご家族の方たちにまた心配をかけてしまうからね。
詳しい話しはまた近いうちにしよう。
体調が整ったらここに連絡して。」
そういうと羽鳥翼はワイシャツの胸ポケットから一枚の紙を取り出して僕に渡した。
見ると電話番号やアドレス、住所、大学の学部などのプロフィールが書かれている。
よくわからないがとりあえずそれを制服の胸ポケットの中にしまい込んだ。
「さぁ、着いたよ。」
そう言われ窓の外を覗き込むと
ああ、なんて懐かしいんだろう。
僕の…見慣れた懐かしい光景…、自宅が薄暗い背景の中静かに、
だがどことなく暖かい雰囲気を持って佇んでいた。
窓にはオレンジ色の柔らかい明かりが灯っている。
しかし空気は冷たい。
風が吹くたびに耳が痛んだ。
と…頬をポロリと涙が零れ落ちた。
助手席のドアを開けた羽鳥翼がそれに気付く。
「大丈夫?立てるかい?」
ブレザーの裾でそっと涙をぬぐうと軽く頭を振った。
「大丈夫です。」
ゆっくりと立ち上がるも一瞬ふらりとよろけた所を羽鳥翼に肩を
押さえられた。
「とにかく今日はゆっくり眠って。
明日も体調が優れないなら学校を休むといい。
それと、これはイネ=ノから預かったんだ。
体調が戻ったら読んでみるといい。」
そう言って渡されたのはプラスチックの小さな塊。
何だ、これ?
見たこともない。
消しゴムよりも細長く薄い。小さすぎてなくしてしまいそうだ。
「フラッシュメモリー。パソコンに差し込めばデータを読み取れるから。」
少しずつ、少しずつ僕は現実に引き戻されつつあった。
頭がくらくらする。
羽鳥翼に家まで送ってもらった礼を述べると
白い車は住宅街の大通りの方へと静かに消えて行った。
僕はバイオリンケースと学生かばんを持ち直した…
って…え?!
バイオリンケースとかばん?!
なんで?!
井戸の水に流されたんじゃ…。
確かにかなり土で汚れてしまっているが
濡れてはいない。
もう訳が分らない。
とにかく寝よう。
疲れすぎていて頭の中を整理しきれない。
ポーチを開け
両脇に咲いたプランターの小さな小花に出迎えられながら
玄関のドアに手を掛けた。
と…
内側から鍵が開く音がした。
そっとドアが開き、
室内からまぶしい光の筋があふれ出す。
ドアの向こうに誰かが…。
ドアがそっと開く。
階段踊場からステンドグラスの真っ直ぐな光りが
その人物を色々なガラス色で包み込んで幻想的な
景色を作り上げた。
そこではっと息を飲む。
青白い髪に…
スカイブルーの瞳の少年…???
「リィーン…?」
「お兄ちゃん?」
その言葉にはっと我に帰る。
もう一度見直すと
黒い髪に黒い瞳、そしてパジャマ姿。
紛れもなくそこには僕の弟、明人が立っていた。
そして僕の瞳を真っ直ぐに見つめてこう言い放った。
「また会えたね、“竹人君”。」
え?
「僕だよ、リィーンだよ」
明人がにやりと不気味な笑みを作って見せる。
次の瞬間
視界がぐにゃりとマーブル模様にねじれるのが分った。
と、体をどこかにぶつけたらしく激痛が走ったが
意識は真っ暗な闇へと真っ逆さまに落ちて行った。