キミの眼球にキスをする
アネット・グノーとの出会いは2年前、王立学院に入学して3日目のこと。
「アナタ、一応婚約者ですから紹介しておきますわ。わたくしの無二の友人にして親友、腹心の友、アネット・グノーさん、グノー子爵のご令嬢です」
10歳の頃に家同士……主に護憲元老院議員同士の父達の思惑が合致したことで勝手に将来の伴侶となって以来、早く死ねと願ってやまないオディスティーヌ・ル・オスマヌスの紹介だった。
「寄宿舎の同室で、わたくしたちすっかり意気投合しました。生涯の友としてこれから末長くお付き合いしていくつもりですので、渋々……いえ、嫌々、本来なら視界にも入れたくないのですが、アナタの下世話で横暴の餌食にしたらわたくしが黙っていないことをお忘れなきように、という念の為に紹介しておきます」
「グ、ググググググ、グノー家3女、アネットでございますっ」
制服のスカートの裾を持って糸繰人形のほうがマシともいえる貴婦人の礼をしたアネットは完全に緊張で上がっていた。
「バ、バス、バスス、ティアヌ大侯爵閣下にはいつも父がお世話になっておりまして、あの、あのっ、ご、ごごごごごきげんよう」
オディスティーヌがすかさず耳打ちする。
「アネット、バスティアヌではなくバスティーユさま」
「ひえっ、も、ももももも申し訳ございません!!」
屋敷の勝手口に集まって残飯の施しをねだる乞食のように頭を下げたアネットはとても愉快だった。
「オディスティーヌ……いくら友達がいないからと言って操り人形を腹心の友などといって紹介してくるなんて……気が狂ってくれたのかい? ありがとう、さあ精神病院に行こう」
「わたくしはマトモよ!!」
そのときオディスティーヌがギャーギャーと五月蝿く喚いていた内容は全く覚えていないが、スカートの裾をギュッと握りしめて顔を真っ赤にし、涙をこらえて唇を嚙みしめていたアネットのことはよく覚えている。
それが僕の初めての精通だった。
それからというもの、学院内でアネットを見るたびにドキドキして、彼女の声を聞くたびに身体中がゾワゾワして、気が付けば彼女を目で追っている自分がいた。
丸眼鏡の向こうの気弱な眼差しが僕を見て怯えるたびに、初めて出会った時の衝撃的な快感が蘇る。
巨乳と顔と家柄しか取り柄の無いオディスティーヌが、持ち前の身勝手さと厚顔無恥、そしてクソのような偽善で学院中で暴れまわるのにただ振り回されるだけのアネット。
注目――非難――羨望――期待――
それらすべてを一身に受けて自己発光するオディスティーヌの影に隠れ、人畜無害以下としての認識しかされないアネットだけが、僕の純潔を惨たらしく惨めに汚し奪い去ったのだ。
アネット、我が愛しの残虐処女。
それから月日が流れ、学院に入学して3年。
僕はいまだに彼女に触れたことがない。
「つまり両者の間には不平等が成り立つわけだ、例えば君たちのうちこれまで何人がその求める声に耳を傾けてきたのかというと――」
「お言葉ですが先生、すべての求めに応えることは物理的に不可能です。それこそ不平等を生んでしまいかねない」
陽の光がたっぷり入るテラスで行われる思想学教師の茶会には学院内でも論客と名高い数名の生徒たちが集められて、老人の先進的な戯言を熱心に聞き入り、彼に反旗の一番槍を切りだした僕を論破しようと言葉の粗を内心よだれまみれで探していた。
それっぽいことをツラツラ語ってみせると待ってましたとばかりに二方向から「ちょっとまった」「しかしそれは」と声が上がって勝手に場が温まりだす、頭のいい馬鹿ほど議論が好きで、あとは勝手にやらせておけばいい。どうせこの世でモノを言うのは金と権力で僕はすでにどちらも持っている。学院にいるのはそれをさらに巨大で不動のモノにする為の知識を得ることと、あとは人脈作りだ。
海の向こうの荘園から取り寄せたコーヒーを飲んで、気難しい顔をして欠伸を殺す。
(あー、ダルい……)
早く終われと願った茶会がようやく終わり、愚民臭さを部屋に持ち帰るのも嫌だったので散歩がてら少し遠回りして寄宿舎へ帰ろうと学院の中庭を歩いていると、薔薇の庭園に続くマロニエの並木道のベンチによく知る灰色を見つけて身体が勝手に動いた。
鼓動が早くなる。
「……はっ」
息が弾む。
柔らかな鋸葉の影に隠れて、僕の最愛の大罪人がベンチで静かに座って眠っていた。
喉が鳴る。
(ね、寝顔を初めて見た)
このまま起こさず持ち帰れないだろうか、どうにかしてこの寝たままのアネットを……いや、そもそもこんなところで1人で何をしていたのだろうか? オディスティーヌでも待っているのか?
興奮を抑えながらそっと息を殺し、足音を立てずに近づいて彼女の隣に座ると少しだけアネットの細い身体が震えたのが分かった。
ああ、これは……寝たふりだ。
(なぜ? こんなところで寝たふりを……趣味なのか? 誰かに視姦されたらどうするんだ)
まさに僕がしようとしていたところで……ああ、そうか。彼女は僕が来たから寝たふりをしてやり過ごそうとしたのか。
じっと見つめているとアネットの顔色がドンドン悪くなっていくのがわかる。早く立ち去ってくれ、そう嘘の寝顔にアリアリと浮かんでいてどう考えても心地よい昼寝を貪っているふうではない、とんでもない大根役者だ、オペラ・ガルニエの役者たちがコレを見たら卒倒するだろう。
(震えている)
プルプルと、こんなところで僕と2人きりになってしまって怯えている。
(可愛い)
薔薇の庭園は花が咲き誇れば生徒たちで賑わうが今は花季を過ぎている、だからこのマロニエの並木を通ろうなんて人間はさほどいない。ゆっくりとするにはいい場所かもしれない、特に男と2人きりになるには……うってつけじゃないか!
(じっくりアネットの寝顔を見れる日がこんなに早く訪れるなんて、しかもこんな近くで)
幸せだ、1度も祈ったことのない神よ感謝いたします。
(目を開けない)
これはもっと近づけるチャンスじゃないのか?
同じベンチに座る僕たちの距離は人1人分しかない、しかもいつも五月蠅く邪魔なオディスティーヌはいなくて、アネットは僕をやり過ごす為に寝たふりを継続中だ。きっと起きても僕を相手にするのは無理と判断しているのだろう、愚かな娘だ。
そっと腰を浮かせるとホッとしたようにアネットの身体から力が抜けたが、すぐに座り直すと今度は氷のように固まった。
僕たちの距離はほとんどなく、ほんの少し身じろけば触れてしまう。僕の右手なんて彼女のスカートの裾の上で、柔らかい布の感触だけで身体が熱くなってくる。
あと少し、ほんの指ひとつ分の距離は僕の誠意だ。
(すごくいい匂いがする)
じっと横顔を見つめる、鼻先がくっついてしまうんじゃないかというほどの距離にいると鼻腔がアネットでいっぱいになる。甘い、花ともミルクともつかない柔らかで生々しい……
(これが女の匂い)
香水じゃない。あんな上書きだけのキツイ香臭とは違う、本物の女の香り。
胃の腑をグツグツと煮えたぎらせる、これが。
(触りたい、触りたい触りたい触りたい触りたい触りたい触りたい触りたい触りたい触りたい触りたい触りたい触りたい触りたい触りたい触りたい触りたい触りたい触りたい。少しだけならいいだろう、彼女は眠っていることになっているんだから、今なら触れる。どこでも好きなだけ……イヤ、駄目だ耐えろ)
嘘の寝顔を脳裏に焼き付ける。
(肌が白い、頬にそばかすの痕……、耳は意外と大きい、口に含んだら柔らかいんだろうか。首が……なんて細い、片手で折ってしまえる)
試したくて腕がうずいた。
触らない、触らない。を呪文のように心中で繰り返し、左手でアネットの首を掴むように広げてみた。案の定彼女は怯えてしまって、それがとても愛おしい。
左手を触れずに添えたまま首筋を視線で舐って制服の上から肩の丸みを凝視する。小さくて丸い肩、本当に僕と同じような骨がこの肉の内側にあるんだろうか。思い切り抱きしめたら砕けてしまいそうなほどに小さいじゃないか。
(はあ……ああ、ああっ、今すぐにっ)
女の肉体に腹の底から歓喜がせりあがってきてブルっと獣のようにわが身が震えた。
むしゃぶりついて、彼女の繊細な内側を乱暴に暴いてしまいたい。怯えて恐れて泣く彼女の涙を僕の眼球で受け止めたい。
(目、そうだ……眼鏡)
眼鏡を外した顔を見たことがない。
そう思ったら首の大きさを楽しんでいた左手が勝手に動いて、アネットの丸眼鏡に指をかけていた。指に灰色の柔らかな前髪が当たり僕の硬い皮膚を撫で、サラサラと落ちていく。
起こさないようにそっと、いや、彼女は起きているけれど……
(目を開けないで、今は……アネット、アネット……まだ眠るキミでいて)
眼鏡を外す。
呼吸の仕方を忘れたかのように息が止まって、喉がキュウッと絞まる。
(これがキミなんだね、本当の無防備な素のキミ)
いつもこのガラスに阻まれていたつぶらな瞳を守るのはキミの脆弱な瞼だけ。
何物にも遮られないキミの素顔。
アネットの眼鏡を持ったままスクッと立ち上がり、踵を返す。
後ろは振り返らない、そのまま一直線に寄宿舎まで足早に帰る。すれ違う学友たちへの返事もそこそこに自分の部屋へ帰ったとき、ドッと汗が噴き出した。
「はは、ははははははっ、ははははは!」
やった! やったぞ!
「ああ、アネット! アネット! 僕のアネット!!」
ベッドにダイブして隠すように持ってきた丸眼鏡を胸に抱く。
これはもう僕のモノだ。
「ああっ、あっ、はははっ、アネット、キミの一部が! 僕の部屋に!」
この硝子が彼女のあの目を守っていたんだ。
この鉄のフレームが彼女のあの柔らかい髪に常に撫でられて……
これはアネットの一部だ、道具だけれど道具じゃない。彼女が世界を見るための道具であり第2の眼球!
「はぁ、あぁ……ははっ、あっ、はぁ、はぁ」
我慢が出来ない、もう無理だ。
両手で大切に包み込みながら丸眼鏡に唇を押し当てた。僕は今、アネットの眼球にキスしている!!
「アネット、アネット、アネット……んっ、ん、はぁ」
舌でフレームを舐めた、彼女の灰色髪に常に触れていたであろう部分。
僕のモノだ、僕が汚している、僕のモノだ。僕だけの!!
血管が切れそうなほどに脈打つ。
脳裏には怯えて目を閉じた、何物にも守られていないアネットの顔。
(いつかあのまぶたを僕に開いて)
そしてありのままのキミの目で僕を見て。
それがかなったなら僕は――キミの眼球にキスをする。