新しい花。 新しい風。
十二月のある日、僕はバルザック美術館を出ると、ブローニュの森へ向かって歩いた。振り返るとセーヌ川があり、エッフェル塔が驚くほど近い。
「この辺か……ここまで来たから、ついでだな」
そうついでだ。
前から来たかった美術館に来たついでだ。
ここ16区は高級住宅地として知られている。食料品店も雑貨屋も、パリのほかの街とはどこか違う。マルシェで扱われる食材は品が良く新鮮だ。
住む人の意識も高い。
治安がよく静かで、街路樹の手入れも行き届いている。
瀟洒な建物が並ぶ街を、僕は一人歩いた。
そう。
あそこへ行くために。
「ここか……」
目的地に着いた。
パッシー地区の一角にある元貴族の館。少し前まではリノベーションをして、図書館として利用していた建物だ。
「立ち入り禁止か……」
建物の周囲には綱が貼ってある。
訪れた親子連れが、公園に入れないことに気づくと、立ち去って行った。
「ここに夏樹が図書館を建てるんだな」
図書館の建物自体は大きくない。蔵書もそれほどではないと聞いている。周囲の敷地が緑の多い公園になっていて、住民の憩いの場となっている。
「ふーん」
新しい図書館の構想は、すでに公表されている。
灰色のコンクリートの建築物が、この街に建つことでかなり話題となった。
―― 間もなく取り壊される貴族の邸宅。
その役目を終えた後、一度は市民のための図書館として再生した、歴史と伝統を物語る象牙色の石造りの館。
それが間もなく姿を消し、代わりに夏樹の造る灰色のコンクリートタイル張りの図書館に生まれ変わるのだ。
僕はしばらくの間それを眺めていた。
「さてと……もう一つの目的地に行かなきゃな」
プーランヴィリエ駅からメトロに乗る。
降車口あたりに立っていると、女学生が二人、ひそひそと話をしながらこちらを見ている。
なんか失礼になるようなことをしたのだろうか? と、思ったけれど、そういうわけではないみたいだ。なんか嬉しそうだもの。
こっちは気分良くないよね。
でも、態度には表さず放って置くと、いっそう嬉しそうにしている。
なんなんだろう?
そんな嫌な気分はすぐに終わった。
サンジェルマン=デ=プレ駅に到着したんだ。
その前に立ち寄るところがある。
喧騒をくぐり抜け、小道に入ったところにles quatre saisonsパリ支店がある。
「こんにちは」
店員に挨拶をすると、
「いらっしゃいませ」
と、笑顔で迎えられる。
「あら? 茉莉香? 今日は……あのね。しばらくお休みするの」
と、女性の店員に言われた。
「どこか具合が悪いの?」
「うーん」
店員が曖昧な笑みを浮かべている。
「大丈夫。茉莉香に会いに来たわけじゃなんだ。お茶が欲しいんだ。アップルティーをください」
そう言うと、店員は笑顔で茶葉を図り始める。
一度に買う量はいつも同じなんだ。
無くなるころ、僕は再びここへ来る。
「それじゃあ」
と、言って別れを告げると、
「寒いから気を付けて」
と、送り出された。
そこから少し歩いたところにあの家がある。
二人が暮らすあの家が……。
エレベーターで目的階へ昇り、部屋に到着すると、僕はインターフォンを鳴らした。
「はぁ〜い」
懐かしい声がする。
やがて、ぱたぱたと廊下を歩く音がして、ドアが開けられた。
「いらっしゃい」
茉莉香が迎えてくれた。
大きな瞳を縁取る長いまつげ、優しい笑顔。
お化粧もしていない頬が、上気して輝いている。
髪を後ろで一つに縛り、エプロンをかけていた。
「寒かったでしょ。夏樹さんはもうすぐ帰ってくるわ。ストーブの前で待っていて」
茉莉香が笑顔で僕を招く。
今日は、夕飯をごちそうしてくれることになっているんだ。
「義孝君。学校はお休みよね」
「うん」
「講義は?」
「順調だよ。高校を休学して語学留学をしておいてよかった」
「偉いわよね。義孝君は」
茉莉香が感心したように言った。
「クリスマスは?」
「下宿先の人が一緒にどうぞって……」
「まぁ。よかったわ」
茉莉香がほっとしたように笑う。
茉莉香……。
少し痩せたみたいだ。夏樹に苦労させられているんだろうか?
でも、すごく幸せそうだ。それに前にも増して、ずっと優しそうに見える。
「ショコラがいいかしら」
「うん。あ……あの。僕、お土産が。茉莉香はこれが好きだよね……」
そういって、les quatre saisonsで買ったアップルティーを出した。
「まぁ! ありがとう! でも、気を使わなくてもいいのよ」
そう言って、茉莉香はショコラをテーブルに置く。
狭いアパートに不釣り合いなオーク材のテーブル。夏樹のお気に入りだと茉莉香が言っていたっけ。
「でも、よかったわね。お母さまが留学を許してくれて」
パリに来てから、僕と茉莉香がゆっくり話をするのは初めてだった。
「うん。亘さんがママを説得してくれたんだ」
「ええ。そう聞いているわ。でも……」
茉莉香が不思議そうにしている。
無理もない。ママを知っていれば、そう考えるだろう。
「なんていうかな。まぁ、僕は学問に向いている。みたいなことを言ったんだ。」
「そうなのね?」
茉莉香が笑顔で相槌を打つ。
でも、納得がいかないみたいだ。
「……それとね……“義孝君は、一つの道を究めさせた方がいい” そう言ったんだ」
「ええ」
「……あと……“協調性を求められる仕事は向かないかもしれません。” とも、言ったんだ」
「まぁ! 亘さんがそんなことを!」
ひどく驚いている。
「うん。でも、すご〜く。遠慮しながら言ったよ」
亘さんは、ものすごく言いづらそうだった。
その時の様子を思い出すと、気の毒になるほどに……。
でも、それは効果てきめんだった。
「まぁ……」
茉莉香がちょっと悲しそうな顔をする。
僕は知っているんだ。茉莉香が僕を可哀そうだと思っていたことを……。
「亘さんは、ものすごく気を使って言ったけど、ママは、すぐ何のことかわかったんだ」
普段感情をあまり見せないママが、亘さんの言葉に一瞬たじろいだ。
あの時のママの顔を僕は、これからも忘れることはないだろう。
だが、すぐに平静さを取り戻すと、亘さんの話に耳を傾けた。
無関心を装いながら……。
「……」
茉莉香が僕の話を黙って聞いている。
「でも、こうも言ったんだ。“義孝君は知力が高過ぎるんです。並みの人の中では苦労してしまいます” ってね」
「そうなのね……確かに、義孝君は頭がいいわよね」
茉莉香は少し安心したようだ。
「僕、学校でいろいろあったからね。ママはそういうことにすごく敏感なんだ」
亘さんが帰った後、ママは僕を部屋に呼んで、いろいろな質問をした。
どんな勉強をしているのかとか、何を身に着けたのか、とか。
ママはそれまで、亘さんのことを僕の面倒を見る保父ぐらいにしか考えてなかった。亘さんが正規の職員になっても、それは変わらなかった。
だけど改めて僕と話してみて、それを改めたようだった。
「よかったわね。亘さんが説得してくれて」
茉莉香には、どうやって亘さんがママを説得したかがわからず、気になっていたようだ。僕の話に安心したように笑った。
それでも、まだ解決しない疑問は残っているようで、
「ねぇ。でも、なぜパリ大学なの?」
と、聞いてきた。
「それはね。亘さんの講義の中に出てきたんだ。ヨーロッパ最古の大学で、12〜13世紀、中世に設立された大学だって。僕、すごく興味を持ったんだ」
「そうなのね!」
茉莉香の顔がぱっと輝いた。そして……
「でも、なぜ、フランス現代文学なの?」
と、また尋ねてきた。
「それはね。亘さんの講義は思想史で、古代から現代まで通したものだったんだ。それでカミュやサルトルに興味を持ったんだよ」
「まぁ! すごいのね! 私、中学生の頃は、将来のことなんて考えていなかったわ」
茉莉香が目を丸くして驚いている。
ちょっと気分がいい。
「じゃあ、これからは義孝君にいろいろと教えて貰わないとね」
僕も嬉しい。これからは茉莉香とフランス文学の話ができるんだ。
今までこうして話す機会がなかった。お互いに忙しすぎたからね。
こうやって互いを知ることで、安心し合えるんだな。
初めて知ったよ。
「いい匂いだね」
僕が言うと、
「ふふ。そうでしょ? ピラフと鶏肉のクリーム煮よ。デザートもあるわ!」
「へぇ! 楽しみだ! 茉莉香の手料理って初めてだよね!」
―― ピンポーン ――
インターフォンが鳴る。
夏樹だ。
「おかえりなさい!」
茉莉香が迎えに行く。
やがて、茉莉香と一緒に夏樹がやってきた。
「ただいま茉莉香ちゃん」
そう言って、茉莉香の頬にキスをした。
はーん。
まだ、“ちゃん” 付けなんだ。
笑っちゃうよ。
夏樹は僕の方を向くと、
「よお!」
と、声をかけてきた。
茉莉香が痩せたのに比べて、夏樹はなんだか太ったみたいだ。
でも、だらしない太り方じゃなくて、男らしくなった。
穏やかになった顔だちを、緊張感が引き締めている。
「さあ。お食事にしましょう! お料理を温めなおしてくるわね」
僕は夏樹と二人きりになった。
「学校はどうだ?」
夏樹が質問してきた。
親切そうに。
「順調ですよ」
一応大人の対応をしないとな。
せっかく招待されたんだから。
「クリスマスは? よかったらここに来れば?」
「下宿先に招待されています」
誰が新婚の家になんか!
馬鹿な事言ってるや。
年が明けたら、図書館の取り壊しが始まる。
そうなったら、夏樹は忙しくなるんだ。
このクリスマスが終わったら、二人は当分ゆっくりと過ごせない。
「さあ! たくさん食べてね!」
茉莉香が料理を並べ、僕たちは食べ始めた。
「これ美味しいね。ピラフもチキンも。レストランで食べるみたいだ」
「夏樹さんのお友だちの叔母さんに教えて貰ったの。食堂をやっているのよ。今度、みんなで行きましょう」
「うん。今度行こう」
一応同意はするけど、夏樹が一緒なのは面白くない。
食事の合間に、夏樹が話しかけたり質問をしてきたりして、僕は一つ一つ答えていった。
狭いアパート。でも、清潔に片付けられている。窓には暖かな色のカーテンがかけられ、オーク材のテーブルが広々として気持ちがよい。
やがて、
「ワインがあるのよ。義孝君は飲む?」
茉莉香が言った。
「うん。少しなら」
僕が答えると、茉莉香が僕と夏樹のグラスにワインを注ぐ。
そして自分のグラスにはペリエを注いだ。
あ……れ?
僕は違和感を覚えた。
茉莉香は飲まないのかな?
結婚式のときは、少し飲んでいたよね?
―― え?――
“茉莉香はしばらく休むのよ”
les quatre saisonsの店員の曖昧な笑顔が、頭の中でぐるぐると回る。
僕は目の前が暗くなるのを感じた。
「まぁ? 義孝君どうしたの?」
茉莉香が心配そうにのぞき込んでいる。
「ホントだ。どうした?」
夏樹も。
こいつは前よりも鈍感になってる。
「なんでもありません」
僕は平静を装った。
服の下に嫌な汗をかいたのは、暖房が熱すぎるせいじゃない。
何か塊を飲まされたような気分になった。
そのあとの食事は、味なんてわかりゃしない。
聞かれたことには笑顔で答え、相槌を打った。
夏樹の声がやたらでかく聞こえる。
そして、それに合わせる茉莉香の笑い声……。
茉莉香が痩せようと、苦労しようと、幸せになれるのは夏樹のそばでだけなんだ。
僕とフランス文学について語り合おうと、呼び捨てで名を呼んでも、それがなんっだっていうんだろうか?
時間がのろのろと過ぎていく。
僕は、茉莉香に気づかれないように、何度も時計を見た。
「今日は招待してくれてありがとう」
時間だ。
ようやく解放される。
「あ……ちょっと待ってね」
茉莉香が棚から何かを持ってきた。
「これ……」
そう言って、缶から茶葉を取り分けて、別の器に移し入れた。
「これね、les quatre saisonsの新商品なの。おすそ分けするわね」
「?」
僕は、話を聞くでもなく聞いていた。
それが今、なんの意味があるというのだろうか?
「由里さんのお嬢さんがね。今年十六歳になったの。希花さんというの。そのお祝いに作ったお茶なの。『espoir』っていうの。希花さんの名前が由来なのよ」
僕は、僕を目の敵にしていたおばさんを思い出した。
まぁ、僕にも落ち度がないわけあじゃぁない。
確かに美人だった。僕のママと違って女らしい人だった。
茉莉香は茶葉の入った缶を僕の顔に近づけた。
ふんわりと華やかな香りがする。
maricaの控えめな香りとは対照的だ。
「薔薇の香り?」
そう言うと、茉莉香はにっこりと笑って、
「そう。薔薇の香りをメインに調合してあるの。希花さんは、由里さんに似てとても綺麗なお嬢さんなの。きっとエレガントな女性になるわ。早いわね。私が義孝君のママに初めて会ったとき、希花さんはまだ小学三年生だったの。あ、義孝君と初めて会ったのは、義孝君が中学二年生のときだったわね」
そうなんだ。
茉莉香はあの時十九歳。僕は十三歳。
そのとき、すでに茉莉香のそばには夏樹がいたんだ。
初めて茉莉香にあったとき、温かい光のようで、僕は吸い寄せられるように茉莉香に近づいて行ったんだ。
ママは忙しくて僕にかまっていられなかった。パパは優しかったけど、何かが違う気がしていた。学校や塾は僕をちやほやするだけだった。
でも、茉莉香は違っていた。それまで僕の知らない温かさで、僕に接してくれたんだ。
あの気持ちが何だったのか、今の僕の気持ちがなんなのか。
今でとなっては、もうわからない。
―― espoir ――
希望。
希望の希という文字は、希、少ない……。
そんな意味なんだ。
それを望むのか……。
手に入るかどうかわからないものを……。
希望。
そんなものを有難がるなんて、ばかばかしい気がする。
でも、
「ありがとう」
礼を言う。
茉莉香が玄関で送ってくれた。
「よいクリスマスをね。また遊びに来てね」
手を振りながら何度も言う。
その声は温かく、泣きたくなるのは、なんでだろう。
僕は夜道を一人歩く。
街はクリスマスのイルミネーションに照らされ、人通りも多い。
とぼとぼと歩きながら……。
「あ……れ?」
僕は気づいた!
そうだ!
夏樹は自分勝手な奴なんだ!
人間の性格はそう簡単には変わらない!
だから! だから!
時々、今日みたいに、茉莉香に会いに来て励ましてあげなくちゃいけない。
来年は夏樹も忙しくなって、茉莉香をほったらかたしにするだろう。
外国暮らしをするには、知り合いが一人でも多い方がいいに決まっている。
それに、僕が一生懸命勉強すれば、茉莉香の仕事の役に立てるはずだ!
僕はまだ茉莉香を助けることができるんだ!
僕は自分の思い付きに惚れ惚れとした。
「僕って天才!」
思わず声が出る。
雪が今にも降りそうな夜空を、街路樹の明かりが覆い隠している。
人ごみの中をうきうきとした気持ちで歩いると、ぶつかりそうになった千鳥足の酔っ払いが、陽気な赤ら顔で謝ってきた。
僕は親切に、
「Pas de proble me」
と、答えてやった。
酔っぱらいは、急に酔いが吹っ飛んだような真顔になって。
何やら丁寧に詫び始めた。
なんなんだろうね?
帰りに道に僕は思った。
―― 希望。
そんなものは気休めかもしれない。
でも、きっと、ないよりはいいのだろう。
僕は今、ようやく初めて会ったときの茉莉香と同じ年齢になったばかりなんだ。
僕の人生は、まだ始まったばかりで、新しい道を見つけなくてはならない。
そう、自分の道を……。
北風が冷たい。
でも、ふさいだ気持ちを拭き晴らすには、もってこいだ。
僕は、夜道を一人歩いて、下宿先へ向かった。
ここまで読んでいただいてありがとうございました。