戦死して、再会の未来へ
第四章 ミッドウェー海戦
1
雨が降り続いていた。
昭和十七年五月十九日火曜日午前六時、首相公邸「日本家」で美齢と向かい合いながら食事をしている。一緒に暮らし始めてすでに五ヶ月、婚姻こそしていないものの、私たちは事実上の夫婦と言ってなんら差し支えない関係になっていた。美齢は、相変わらず涼しい目をして感情を表に出すことは少ないが、その表情は以前とは比較にならないほど和らいでいる。
長い四肢に纏ったシンプルな洋装が、薄暗い室内でも彼女を十分清楚に見せている。私は既に陸軍制服を着込み、腰には九八式軍刀を提げている。
美齢とは目を合わせず、窓に打ち付ける雨粒を眺めながら話しかけた。
「いよいよ、広島へ行ってくる」
五月五日、永野修身軍令部総長から山本五十六連合艦隊司令長官に「大海令第十九号」が下命されていた。
一、連合艦隊司令長官ハ陸軍ト協力シ「ミッドウェー」島及「アリューシャン」群島西部要地ヲ攻略スべシ
二、細項ニ関シテハ軍令部総長ヲシテ之ヲ指示セシム
いよいよ、ミッドウェー島へ向けて大艦隊が派遣される。そして、私は空母「赤城」に乗艦し、原爆投下作戦に参加することになっていた。
美齢は、心配そうに訊いてきた。
「大丈夫か? 無事に帰って来るよね?」
歴史は、私の知る史実通りではなくなろうとしている。今後、確証を持てる未来は何一つなくなっていく。だが、美齢を心配させたくはない。
「大丈夫。史実では『赤城』は大破して乗組員の半数が戦死してしまうが、そうなる前に、私が新型爆弾を敵艦隊洋上で炸裂させるからね。歴史は、変わっていくと思う」
美齢の不安は、それでも拭い去れないようだ。
「新型爆弾、まだ完成してないんだろ?」
「ああ、まだだ。でも、あと少しというところまできている。まだ、『強力爆薬』が届いていないだけだ」
美齢が理解できるよう、『核物質』という用語を避け、『強力爆薬』という言葉を使ってみた。
「間に合わなかったら、どうする? 幸輝も、『赤城』とともに沈むかもしれない」
確かに、その通りだった。
ウラン235の濃縮が思うように進んでおらず、ウェーク島まで潜水艦で運搬する期限に間に合わない可能性があった。爆弾本体は、ただの鉄の塊に過ぎない。
しかし、ミッドウェーに向かう覚悟はとうに決めていた。
「間に合うさ。荒勝博士が、舞鶴で必死になって作業に従事している。荒勝博士なら、必ず期限までに成し遂げてくれると信じている」
変わらず窓の外に向かって話し続ける私に、美齢は注意を引きつけるように強い語調で言った。
「こっち見て」
視線を美齢に向けた。
「新型爆弾、本当にその一つだけで終わるか? 幸輝、服部や杉山は危険だと言ってた。重慶政府に対して、使われることはないか?」
美齢は、中華民国に対する攻撃を懸念しているようだ。彼女には本当のことを伝えておこうと思った。
「正直、危険だ。彼らだけじゃない、東條首相も同様だ。彼は、ハワイやロサンゼルスに投下することも場合によってはやむを得ないと発言をしていた」
美齢の顔つきが、悲壮を帯びた厳しさをみせた。
「幸輝の作った新型爆弾で、罪もない人たちが死ぬかもしれないのか?」
「でも、大丈夫だ。僕はそう確信している。天皇陛下は、広く世界の平和を希求しておられるんだ。米艦隊洋上への威嚇的新型爆弾使用に関してさえ、懸念を強く示されていた。そして、非人道的な無差別爆撃には決して及んではならないと明言されていた。大本営が何を企もうと、陛下がいらっしゃれば大丈夫だ」
美齢は、それ以上この件に関して追及しなかった。「陛下のご意志」を持ちだされては、それに反論できないからだろう。
「お守りよ」
美齢はそう言って、首にしていたネックレスを外した。上海で両親に買ってもらった、大切なシルバー・ネックレスだと言っていた。
私は、黙ってそれを握りしめた。
「ありがとう。大切にする。必ず、戻ってくる」
「当たり前だよ。必ず、帰ってこい」
美齢は、東京駅まで送ってくれた。
車は使わず、帝都高速度交通営団「虎ノ門駅」まで、コウモリ傘をさして並んで歩いた。私は軍から支給されたスーツケースを片手で握りながら、雨に打たれる国会議事堂を見上げた。
なんとなく、これが美齢との最後の別れになる予感がした。
彼女もまた、傘を片手に国会議事堂を見上げている。
地下鉄に乗ると、ほどなく新橋駅に到着。省線に乗り換えて東京駅に向かう。
一ヶ月前にドゥーリットル空襲があったとは思えぬほど街はすっかり平穏を取り戻していて、人がしげく行きかっている。
東京駅に到着すると、私は超特急「燕」2等客車の窓側に座った。九時に東京を出発し、夕刻六時に神戸に到着する予定だ。神戸で一泊し、翌二十日朝に山陽線急行で広島に向かう手筈になっている。東京から沼津までは電化されていたが、その先は未電化のため、「燕」には蒸気機関車C―53が牽引車として連結されていた。
プラットホームには、美齢が直立している。
「見送ってくれてありがとう。お役目を果たして、またここに戻ってくるよ」
美齢は、涙を流していた。
「死なないでよ。絶対に。幸輝は、わたしが唯一好きになった日本人だ」
返す言葉が思いつかず、開いた窓越しに美齢の両手をしっかりと握った。
「行ってきます」
そう言ってから、車内で起立して敬礼をした。もう片方の手で、首からさげたお守りのネックレスを、美齢から見えるように握った。
発車ベルが鳴り響く。
C―53蒸気機関車はもくもくと白煙を上げ、やがて車輪が動き出す。
どんどんと、美齢が小さくなっていった。
2
広島駅から呉線に乗り換え、呉駅に到着したのは翌二十日の夜であった。宿泊する旅館に入ったのは午後八時半頃で、あたりはすっかり暗くなっていた。二階の部屋に入り、荷物を降ろしはじめたところに、旅館の女将が声をかけてきた。
「少尉様、お客様がずっと応接でお待ちでした。こちらにご案内してよろしいですか?」
私の到着を待っていた者がいるようだ。
「構いません」
そう答えると、女将はすぐさま階下へと降りて行った。
しばらくして、白い海軍服に身を包んだ男が上がってきた。
「すまないね、到着したばかりのところを。どうも、じっとしていれない性質でね」
その顔を認めると、私は反射的に直立不動の体制で敬礼をした。間髪いれず、その男も見事な敬礼を返してきた。この時代にやってきた直後から、ずっと会いたいと願ってきた山本五十六聯合艦隊司令長官だ。
「山本司令長官、お会いできて光栄です。明日、官舎でお会いする予定でしたのに、わざわざお越しいただき、恐縮至極であります」
山本は、ニコリと笑って物静かに、「まあ、そこに座ってくれよ」と言いながら、自分も座蒲団に座った。
「失礼します」とだけ言って、腰をかけた。
「いやね、会議の席ではなく、個人的に色々と訊いておきたいことがあったのでね。お疲れのところ申し訳ないが、ちょっと付き合ってもらえんかね」
山本がそう言い終わるタイミングで、女将が日本酒と肴を運んできた。山本は、お銚子を傾けて手を伸ばす。反射的に御猪口を差し出してこれを受けた。
「なんなりと、お尋ねください」
山本は、私が注ぎ返した酒に少しだけ口をつけてから言った。
「まずは、自己紹介。そして、未来ではどんな暮らしをしていたのか教えてくれんかね?」
緊張のため酒が喉を通らなかった。
「はい。名前はタカスギコウキと申します。年齢は、七月で満二十五歳になります。西暦二〇一二年では、早稲田大学の大学院に通っておりました」
山本は、声を出して笑った。
「学生さんか。その年齢だと、ご結婚はされていたのかな?」
私は、照れくさかった。
「いいえ、二つ年下の彼女がいたのですが、フラれてしまいました。そのショックも冷めやらぬうちに、気がつけば七十一年前の世界に放り込まれていた次第です」
「そうか、オンナにフラれたばかりだったか」
山本は、声を出して笑う。
「しかし、こちらに来てからは新しい彼女を見つけ、同棲しておりました」
山本は、さらに笑った。
「仕事が、早いな!」
気さくな山本の人柄に一瞬にして魅せられてしまった。
服部卓四郎のもつ陰湿さとは対極にある、からりとした清々しさがあった。しばらく談笑ののち、山本は作戦についての話を始めた。
私は緊張のため酒が進まないし、山本はもともと下戸だったので、ふたりともほとんど酒は進んでいない。
「原子力爆弾をこの短期間で開発するという功績には、本当に感謝している。ミッドウェーに基地を確保し、米機動部隊を壊滅させれば、次はハワイオアフ島を占領できる。オアフ島を占領すれば、米国本土東海岸が機動部隊による空爆圏内に入る。そうなれば、米国が和平に向けた動きを見せる可能性が出てくる」
山本五十六長官から感謝の辞を述べられ、心から恐縮した。
「しかしながら、懸念が二つある。一つは、原子力爆弾を手にした陸軍が、果たして米国との講和に応じるかという点。二つ目は、果たして本当に今回のMI作戦に原子力爆弾が間に合うのかという点だ」
姿勢を正し、山本長官の目をしっかりと見据えながら応えた。
「まず一つ目ですが、これは何とも言えません。陸軍が戦争継続を主張した場合には、山本長官をはじめとする海軍及び政府要人の工作に期待するしか、私には出来ません。第二の件に関しては、荒勝博士が音頭をとる『タ号研究』の核燃料開発チームを信じております」
山本は、明日の会議に関しての方針についても語った。
「高杉少尉には、空母『赤城』に乗艦してもらうことで決定している。陸軍将校を航空母艦指揮所に同乗させるのは異例の対応だ。しっかりと、役目を果たしてもらいたい」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げた。
「明日の会議には、呉鎮守府長官の豊田副武大将にも同席いただくが、極端な陸軍嫌いだから、まあ何を言われても気にしないでおいてくれ。他のメンバーは、同じく『赤城』に乗艦する第一航空艦隊指揮官の南雲忠一中将、参謀長草鹿龍之介少将、航空参謀源田実中佐、艦長の青木泰二郎大佐、それに空母『飛竜』乗艦の第二航空戦隊山口多聞少将、重巡『利根』乗艦の次席指揮官阿部弘毅少将、連合艦隊参謀宇垣纏少将になる。しっかりと、陸軍側の作戦計画を伝え、情報を共有してもらいたい」
山本は、粛々と話を進める。
「ところで、高杉少尉はどうして『赤城』でミッドウェーに向かうなどという危険を冒す気になったのかね? 安全なところに退避して助言だけすることも出来たはずだ」
少し考えをまとめてからゆっくりと応えた。
「わかりません。歴史に干渉しないことが、もっとも正しいのかもしれません。けれども、この時代は、私が小学生の頃から必死に学んでいた時代です。学校ではこの大東亜戦争に関して詳しく教えてはくれませんでしたが、幼いながら、この時代を学ぶことなくして平和を知ることはできないと直感していました。そして、広島原爆の被害詳細を知るにつれ、原子力というエネルギーに対して、強い恐怖感を覚えるようになりました。しかしながら、ただ恐れるだけではなく、それがどのようなエネルギーなのか強い興味を抱きました」
「強い興味?」
「はい。『戦争』を知らずして『平和』を語れぬと感じたように、『原子力』を知らずして『原子力の廃絶』を実現することはできないと考えるようになりました。そのため、大学では原子炉設計工学を専攻しました。そして、確信しました。『原子力エネルギー』は、莫大なエネルギーを生み出すという利益よりも、半永久的に処理できない『放射能』を生み出すという負の側面の方がはるかに重大であるということを。学んでたどりついた結論は、やはり、核は『廃絶』すべきだということです」
山本は、また笑う。
「『核廃絶』の結論に達しながら、なお原子炉設計工学を大学院で学んでいたのかね?」
「はい。原子力発電所の原子炉を廃炉にするには、原子力に対する高度な専門知識が必要だからです」
山本は、変わらず穏やかな表情をして言った。
「殊勝なことだな」
「ありがとうございます。しかしながら、私はこの時代に生き始めて、『別の可能性』に取りつかれはじめました。米国より早く原子力爆弾を開発し、なるべく人的被害を伴わずにその非人道性を世界に知らしめることで、『核廃絶』を目指す方法です。それを実現できるのであれば、いよいよ命など惜しくないと思うようになりました。時代の、空気なのかもしれません」
山本は、二十一世紀のひ弱さが残る私の顔をじっとのぞき込みながら、言った。
「核廃絶のために核兵器を作る、というのも皮肉な運命だな」
「世界平和のために大東亜戦争を遂行する司令長官と、同じ心境かもしれません」
山本は、またニコリと笑った。
「そうだな。皮肉なものだ。まるで、夢を見ているようだ」
「夢?」
「そうだよ、高杉少尉。君は今、夢を見ているのかもしれない。目覚めたら、フラれたばかりの未来の世界で、いつも通りの朝を迎えているかもしれないよ。私は、君の夢の中の登場人物なのかもしれない」
ハッとした。
一介の大学院生に過ぎない私が、東條首相や山本司令長官、ましてや天皇陛下と時間を共有しているなど、まさに夢以外に考えられないではないか。
夢と現実の違いはどこにあるのだろう?
あるいは、二〇一二年の生活の方が夢で、この昭和十七年の方が現実なのだろうか?
全てが、混沌としてきた。
わずかに飲んだ日本酒が、脳内をめぐり始めたのだろうか。
ちょっとした混乱に陥ったことに、山本はすぐに気がついたようだ。
「すまないね、冗談さ。だが、人生は本当に夢のようだね」
山本も、少し酒がまわっているのかもしれない。
翌五月二十一日、山本司令長官に伝えられていた面々が官舎に顔を揃えていた。
山本司令長官から聞いていた通り、豊田副武大将は私にあまり好意的ではない様子だ。しかし、このたびのミッドウェー作戦、通称MI作戦で直接陣頭指揮を執るわけではないので、発言は極めて控えめだった。
MI作戦に関して、以下のような陸海軍共同作戦が決定された。
・原子力爆弾はパーツをウェーク島に運搬し、島内で最終組み立てを完了させること
・ウェーク島から飛び立つ陸軍九七式重爆撃機が、ミッドウェー島北東にて遊弋する米機動艦隊洋上4㎞に原爆を投下すること
・九七式重爆の護衛には、ウェーク島の陸軍一式戦闘機ならびに南雲機動部隊の零式艦上戦闘機が連携してこれにあたること
・南雲機動艦隊が、ミッドウェー島飛行場を爆撃して敵航空戦力を奪うこと
・ミッドウェー島爆撃および米機動艦隊近海への原爆投下後、近藤信竹中将率いる第三攻略部隊の輸送船十六隻に分乗した陸軍上陸部隊がミッドウェー島を占領すること
・あわせて、サイパン島から派遣する陸海軍ミッドウェー攻略部隊も上陸を開始すること
・アリューシャン部隊はキスカ島およびアッツ島を占領し、うち空母「龍驤」「隼鷹」を主力とする角田覚治少将の機動部隊はアラスカ州ダッチハーバーを攻撃すること
「赤城」を旗艦とする南雲機動艦隊の出航は、六日後の海軍記念日に予定された。
海軍記念日とは、日露戦争の際に東郷元帥がバルチック艦隊を日本海にて撃滅した五月二十七日のことだ。
ウラン235の濃縮に関しては、まだ完了の知らせが届いていない。
3
五月二十七日午前十時、穏やかな海面の上に白波を引きながら空母「赤城」は広島湾を出て伊予灘を航行している。
私は、飛行甲板に出て、眩しい五月の光を全身に浴びている。汗ばむほどの陽気だ。直立していると、まるで全身で潮風を切りながら進んでいるかのように感じる。戦闘域から遠く離れた瀬戸内海にあっては、全て穏やかに事が進んでいて、艦橋には門外漢である私の居場所はない。観光客のごとく、甲板で周囲の景色と帝國海軍の颯爽たる雄姿を見学するしかなかった。
出航直前、荒勝博士から、ウランの濃縮は期限に間にあいそうだとの電話が旅館にあった。明後日には、40kgのウラン235が、呉港に停泊する駆逐艦に積載されるとのことだ。本土に残す憂いが、消え去った。あとは、ミッドウェー島海域に進出し、作戦を決行するのみだ。九七式重爆が敵艦隊洋上上空に無事達し、予定通り原爆を投下する事。日米戦争の和平への展開は、全てこの作戦にかかっている。
「赤城」の前方には、戦艦「霧島」が航跡を残しながら進んでいる。そのさらに前方には、軽巡洋艦「長良」を先頭にして、駆逐艦十二隻、重巡洋艦「利根」「筑摩」、戦艦「榛名」が長い単縦陣で航行している。実に、勇壮な景観だ。
「赤城」の後方には、空母「加賀」「飛龍」「蒼龍」が続いている。まるで観艦式のようだと思った。
七十年後の二〇一二年では決して観ることのできなかった日本海軍の威容に、心が昂ぶっていく事が自覚できた。艦橋後方マストには、海軍旭日旗が海風に揺らいでいる。
一路南海目指して進撃する艦隊の両サイドには、何艘もの漁船がやはり単縦陣で並走している。乗組員は我々の方に向かい、笑顔で手を振っている。海洋に所々屹立する島々の山腹には、整然と耕作された畑が刻まれている。一億国民の期待と声援が、「赤城」を後押ししているような錯覚さえ沸き起こる。それだけではない。全人類から、我が一身に、「核廃絶」と「アジア平和」への期待が寄せられているような気分さえしてきていた。
誰も名さえ知らぬ平凡な人間が世界の命運を急に背負ったような、故に、自身が救世主にでもなったような、なんとも言えない誇大妄想に包まれている。この大海原全体に、自分の魂が拡がっているような気分になっていた。
艦隊は、航空戦教練などを交えつつ、一路ミッドウェー北西洋上を目指して進撃した。
六月二日夜、あたりは一面濃霧に覆われて周囲の艦船は一隻も見えない。非常事態に及び、艦橋に召集された。
南雲提督は外していたが、草鹿参謀長と源田参謀、そして青木艦長の姿があった。
草鹿参謀長が、ぼそりと話しかけてきた。
「高杉少尉、いかんともしがたい霧の深さだ。文字通りの一寸先は闇だ」
「はい、草鹿参謀長」
「ところで、この海戦はこの後どのように展開してゆくんだ?」
霧の向こう側を透かし見るかのように視線を遠く外し、答えた。
「未来の出来事を話すことはできません。それに、ことここに至って、私の『予言』は意味を喪失しています」
「少尉が、歴史に介入してしまったからか?」
「その通りです。私は、これまでの七ヶ月間、なるべく歴史に干渉しないよう注意し、『タ号研究』に没頭してきました。ドゥーリットル空襲の際には、服部作戦課長にたたき斬られそうにさえなりました」
「陸軍は物騒だな」
と、草鹿参謀長は温和そうな顔に笑みを浮かべた。
次に、風邪を患って苦しそうな顔つきの源田参謀が尋ねてきた。
「陸軍の爆撃計画をいま一度説明しておいてくれないか」
この海域の図面を広げ、説明をする。
「これまでお話しいたしました通り、空母『ヨークタウン』を中心にしたフレッチャー部隊と空母『エンタープライズ』『ホーネット』を擁するスプルーアンス部隊は、六月五日未明にはミッドウェー北東およそ五〇〇km洋上に進出しているはずです」
草鹿参謀長が、疑問を呈した。
「本当に『ヨークタウン』が出てくるのか? 先の珊瑚海海戦で、第五航空戦隊が撃沈したと聞いているが」
「たしかに、大破を致しました。しかし、真珠湾に帰投してわずか数日で応急処置を施し、戦列に復帰しているはずです」
作戦概要をさらに続けて説明する。
「九七重爆のウェーク基地出撃予定時刻は、五日午前〇時。一式戦闘機『隼』十五機が護衛として同時に離陸し、一四○○km進出した地点で基地に帰投します。そこから先は、第一機動部隊の零戦に護衛をお願い致します」
「承知している」
と、源田は短く返答した。
「渡洋する九七式重爆撃機は、爆撃後基地に帰投するだけの燃料が残りせん。出来うる限り第一機動部隊に接近し、搭乗員は落下傘で脱出します。速やかな救出をお願い致します」
これには、草鹿参謀長が「承知している」と応えた。
「この作戦の成否は、午前七時までに原爆を敵艦隊洋上に投下出来るかどうかにかかっております。そのためには、敵艦隊の正確な位置を知ることが不可欠となります。入念な索敵をお願い致します」
これには、源田参謀が応じる。
「重巡『利根』『筑摩』の零式水上偵察機及び『赤城』『加賀』の零式戦闘機二機を午前四時三十分から十分おきに作戦海域に向け索敵飛行させる予定だ」
ここで、一つの提言しておく必要があった。
「歴史上では、『利根』『筑摩』の零式水上偵察機は当日故障が発見され出撃が大幅に遅れます。この遅延が致命的となりましたので、明朝には両機を隅々まで再整備するとともに、念のため他の偵察機もスタンバイさせておいてください」
源田は、軽く咳きこんだ後に苦しそうな表情で言った。
「分かった。厳重に整備させておく」
こうして、二日の夜には、参謀との最終的な打ち合わせが終った。
翌三日朝、ようやく霧が晴れ、眩しい陽光が再び艦橋を照りつけていた。
艦橋に登ると、南雲中将と、草鹿参謀長、大石主席参謀、青木艦長がせわしく議論を重ねていた。後続の空母『飛龍』『蒼龍』、戦艦『榛名』『霧島』など第一航空艦隊主力艦船が、昨夜の濃霧でその姿を消してしまっていたからだ。
「いま進路転換をすれば、このまま後続艦隊が分裂してはぐれてしまいます。やむを得ません、無電を使って連絡を取りましょう」
草鹿参謀長が、南雲提督に進言していた。
「だめだ。無電を使えば、敵に傍受され自らの位置を晒してしまう」
南雲中将は、草鹿の意見に反対していた。
実のところ、機動艦隊は豊後水道を出たあたりから米潜水艦によってその動向を監視されている。私は、それを知っていた。「九七式欧文印字機」による暗号はすでに米国に解読されていて、このMI作戦が筒抜けになっていたからだ。太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツは、ミッドウェー洋上で日本艦隊を待ち伏せしているのである。
ここで無線電話を使おうが使うまいが、すでに敵の張った罠に落ちていることに変わりはない。しかし、この時間流にあっては、敵の罠のそのさらに裏をかく作戦が可能だ。議論の成り行きを当面は見守ることにした。
幕僚の押し問答が終わりなく続いているうちに、再び濃霧が艦隊を包み込んだ。
「長波無線で連絡せざるを得ません」
草鹿参謀長が、今度は強く主張した。大石主席参謀と源田航空参謀も、これに同意した。
「やむを得んな」
と、南雲提督が言うと、草鹿参謀長は、無電で各艦に進路速力を伝達するように命じた。何れにせよ、機動艦隊の位置は米軍の知るところとなっている。進言することは、何もなかった。
やがて、無電連絡を受けた迷子艦隊が、水平線の向こうから一隻また一隻と近づいてくるのが見えた。機動艦隊は、四空母を中心にして戦艦、巡洋艦、駆逐艦で囲む輪型陣をとった。そして、方位を南西に向け、ついにミッドウェーへと一直線に波を蹴り始めた。
後方バルコニーに立って、水平線の彼方を眺めてみた。祖国は、はるか彼方にあって、視界には映らない。運命の時が刻一刻と近づいてきている。
空母「赤城」飛行隊長の淵田美津雄中佐が近付いてきた。私は、直立して敬礼をした。真珠湾攻撃を指揮した英雄だ。
「高杉少尉、勇ましい顔をしているな。まあ、陸軍の制服はこの海には似合わないが」
淵田飛行隊長は苦しそうな顔をして言った。そして、手すりに体重をかけて振り向きながら何かさらに言いたそうであった。私は、すかさず横に並んで同じように手すりを握った。
「具合はいかがでしょうか?」
淵田は虫垂炎の手術を受けてからまだ一週間ばかりであった。
「だめだな。出撃できそうもない、情けない。源田参謀も風邪で寝込んでいるようだし、これこそ何か『虫の知らせ』なのかもしれないな。よかったら、君の世界でのMI作戦推移を教えてくれないか?」
私は、「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の四空母全てが撃沈されたこと、攻撃戦力を失ったためにミッドウェー島上陸作戦は中止されたことを伝えた。また、山口多聞少将が「飛龍」と運命を共にしたこと、友永丈市大尉が「ヨークタウン」に自ら突撃して壮烈な戦死を遂げたこと、そして、淵田中佐自身も爆風で両脚を骨折したことを告げた。
「やはりな。いやな予感は当たるものだ」
淵田飛行隊長は力なく下を向いた。
「大丈夫です、安心してください。この世界に於いては、米軍機が発艦する前に原爆を投下。直後に我が軍の艦載機にて、米艦隊主要空母をすべて葬り去る予定です」
淵田は、顔をマストの旭日旗に向けながら弱々しい声で言った。
「そうなるといいんだが……。その作戦が必ず成功する保証はない。この世界の私も、いまこの瞬間に、嫌な予感に支配されているんだからね」
私は、淵田と同じ方角に顔を向けながら答えた。
「この世界における未来のことは、もはや私には分かりません。知っている歴史とは全く異なるMI作戦が、すでに発動されているのですから」
「そうか。君の役目も終わるということか」
淵田の一言に、どきりとした。
「赤城」に乗艦してからというもの、太平洋の風を全身に受けながら、気持がどんどん膨らんでしまっていたことにようやく気がついた。自分が英雄の一人に列したかような空想さえ抱いていた。甲板に立って機動艦隊を眺めるときは、肩で風を切る気分だった。
しかしながら、淵田の言うことの方が真実だ。
原爆を米国に先駆けて開発し、米太平洋艦隊に脅威を与える事ができるのは、「未来の知識」を持っているからに他ならない。その「未来の知識」が役に立たない新たな歴史が刻まれ始めたのだ。ということは、つまり、軍部にとって私の存在意義はもはや風前の灯火だ。
「そうかもしれません。しかし、それでいいのです。連合国との講和が成立すれば、当面は世界平和が訪れるに違いありません。それだけで、いいのです」
きらきらと光を反射する海面をじっと見つめながら、そう言った。
「平和か、懐かしい響きだな」
淵田も海を見ているようだった。そして、一呼吸置いてから言葉を足した。
「しかし、世界平和はまだ遠いだろう。米英がドイツ・イタリアとの戦争を続けている以上、三国同盟によって日本は講和などできないだろうからな」
私は、市ヶ谷の参謀本部で重ねた会議の内容を少しだけ淵田に話そうと思った。
年齢こそ十五年ほど離れているものの、淵田飛行隊長は非常に話しやすい人物であった。
「ドイツとイタリアは昭和二十年連合国に敗れました。ムッソリーニは反体制運動家に銃殺され晒しものになりました。ヒトラーはベルリンで自殺しました。このことを東條大将にお話ししたところ、顔色が非常に悪くなられて、最後には三国同盟破棄に同意してくださいました」
淵田隊長はそれでもまだ納得はしていないようだ。
「東條首相がどのような決意をしたところで、他の将校や閣僚がそれに従うかな? 膨大な国防費を賄うため、ドイツやイタリアに原爆を売り込む可能性だってあるんじゃないか」
淵田の方に顔を向けて、私は自分の決意を宣言した。
「原爆は、この作戦で一度しか使用しません。それ以上は、絶対に作りません。これは、『タ号研究』に携わった科学者の総意なのです」
淵田は、ニコリと笑った。
「やはり、勇ましいな」
私は、尾を引く白い航跡に目をやった。燃え盛る火を眺めるのと同じく、見ていて飽きることがなかった。しかし、単調な景色を見るうちに、先ほどまでの勇ましい気持ちはなりを潜め、少しからずの「不安」が心の中に広がり始めた。
源田参謀の風邪を伝染されたのだろうか、海風を受けると少し寒気を覚えた。
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「いよいよだ。もう、逃げることも隠れることもできない」
ただこの日のために、この瞬間のために、この七ヶ月というもの寝食を忘れて研究に打ち込んできたのだ。いや、私ひとりの話ではない。仁科博士や湯川博士、荒勝博士をはじめとした理研の研究者、舞鶴のウラン濃縮工場スタッフ、人形峠鉱山の作業員、このプロジェクトに携わった何千人という日本人が、この日に向けて寸暇を惜しんで働き続けてきた。
六月四日午後十時、私は艦橋の戦闘指揮所にあった。
伝声管より、「総員集合、総員集合」とけたたましく音声が流れてきたのは十時二十分。
手の空いている者は皆、飛行甲板に向かう。
漆黒の波濤を蹴って黙々と邁進する『赤城』甲板上には、白服の作業員や正装の下士官が五〇〇名ほど集合していた。全乗組員およそ一七〇〇名の三分の一くらいだろう。私だけが、陸軍の将校服だ。
午後十時四十分、メインマストに海軍旗に並んで「Z旗」が掲げられ、南雲提督の訓示がはじまった。
「興国の興廃はまさにこの一戦にあり……」
という、枕詞の後には、「神機到来」「尽忠報国」「八紘一宇」といった常套句が延々と続いていく。注意深く聞いていないと内容を理解しにくかったが、静聴するふりをしてその実何も聞いていなかった。要は精神論に過ぎず、なんら具体的な内容は含んでいないからだ。
耳に響く波の音、肌に当たる潮風、通り過ぎる南雲提督の訓示、目にはかすかな夜間照明、広大な甲板、翻る旭日旗とZ旗、星を散りばめた暗黒の空。その全てが調和した空間が、非常に現実離れして感じられた。
あと八時間もすれば、世界で初めての原子力爆弾が炸裂するはずだ。
訓示が終わると「君が代」斉唱が始まった。大きな声を振り絞って歌唱した。それに続いて「海ゆかば」がはじまったが、歌詞もメロディーも覚えていないので、口をそれらしく動かして歌っているフリをした。
海兵による歌声もまた、非現実感をさらに演出していた。
ここに集った兵のうち何人かは、本日中に命を落とすことになるかもしれない。それどころか、自身が安全であるという保証だってどこにもない。
山本五十六長官の言葉を反芻していた。
「夢のようだ」
斉唱が終わると、青木艦長が声を上げた。
「宮城遙拝!」
総員が、右舷後方の東京の方角に対して、深々と頭を下げた。
次に、南雲提督が「天皇陛下万歳!」と叫ぶと、「万歳、万歳、万歳」と、万歳三唱が沸き起こった。
「天皇陛下」という絶対的なアイコンによって国民が一致団結している姿は、二十一世紀の日本と最も異なっている点だと感じた。
敗戦によって、この「宗教的価値観」は日本から奪われた。いや、宗教的というよりも、神道は「道徳的価値観」と言い換えても差し支えない性格を持っていた。それを奪われたために、日本人は拠るべき価値を喪失してしまう。
そして、その空隙を埋めるべく国民に提示された新たな価値観は、「復興」「所得倍増」という「経済至上主義」だった。
武士道に代表される誇り高い精神性は徐々に失われ、「恥も外聞もなく」金儲けにいそしむ下衆な拝金主義者が量産され、彼らを平然と「成功者」と呼ぶような「歪んだ社会」が形作られていった。
そう考えると、「敗戦」は日本の国土を焼き尽くし大量の犠牲者を生み出したただけでなく、「日本人の精神」を長い時間をかけて崩壊させていった大惨事であったのかもしれない。
お国のために散華した英霊たちが二十一世紀の日本社会を見たらどれほど嘆くことだろうか。
昭和十七年に生きて、そのことを何よりも強く感じるようになっていた。
思考から解放されて現実世界に気がつくと、「総員集合」はいつの間にか解散となっていた。各員は、担当部署に三々五々散り始めている。
私は、後部甲板から艦橋後方のバルコニーに登った。
格納庫からエレベーターに乗って、翼を折り畳んだ九九式艦上爆撃機が飛行甲板に上昇してきているのが見えた。甲板にはすでに数機の翼を広げた九九艦爆が並び、作業員は慌ただしく二五○キロ爆弾を装着している。
視線を甲板から上げて、東京の方角にある空を見た。
「美齢、元気にしているだろうか?」
そう考えながら、ポケットの中のシルバー・ネックレスを触ってみた。離れてまだ間もないけれど、ケータイ文化に慣れ親しんで育っていたので、二週間もまったく連絡が取れないことは堪え難い苦痛に思われた。腕時計を見ると、まもなく十一時十五分になるところだ。
艦橋に戻ることにした。
艦橋にはいると、源田航空参謀がすぐに話しかけてきた。
「高杉少尉、いまだウェークからはなんの連絡も届かない。大丈夫だろうか?」
源田参謀は、不安そうである。
「原爆を積んだ爆撃機と護衛の一式戦闘機が離陸するのは午前〇時予定です。おそらく、秘匿性を守るために、通信を絶っているのでしょう」
一抹の不安を覚えながら、予測しうる推論を以て応じた。
「それならいいのだが、ひたすら待つというのは不安なものだね。こちらからも、護衛の零戦をウェーク方面へ飛ばさなきゃならないんだ。なんらかの連絡信号は事前によこしてもらいたいものだ」
源田のそれは、独り言に近かった。
艦橋から左舷の水平線方向を見た。視線のずっと先には、敵機動艦隊がわが南雲航空艦隊を待ちうけているはずだった。
「遅いな」
再び、源田参謀が言った。時計を見ると、予定時刻の午前零時をすでに回っている。
胃が縮まるように締め付けられてきた。
出撃と同時に、基地からモールス信号が送られてくる手筈になっている。それが、まだ届かない。
艦内が極度の緊張に包まれたまま、時間だけが経過していく。草鹿参謀長がついに痺れを切らしたのは、九七重爆出撃予定時刻を一時間以上過ぎた午前一時十五分だった。
「予定では、あと一時間で、艦隊各空母から四機ずつ、計十六機の零戦を護衛として離陸させねばならない。陸軍機の正確な位置の連絡がなければ、合流に失敗する結果に繋がりかねない。そうなれば、重爆は丸裸のままミッドウェーに向かうことになるぞ」
私も、なによりもそれを心配していた。重い爆弾を積載した爆撃機が丸裸で敵戦闘機に発見されてしまえば、簡単に撃墜されてしまうことだろう。
「零戦十六機に加え、別の護衛機を別の方角にも飛ばしてもらうわけにはいかないでしょうか?」
そう提案すると、源田参謀がこれに激昂した。
「ばかを言うな。一昨日夕刻も、第二水雷戦隊がミッドウェー島を飛び立ったB―17爆撃機九機に攻撃されたばかりだ。マンジュウを守るには、先にミッドウェー島地上基地を叩いておかなければならない。その爆撃には相応の戦力が必要であり、陸軍機護衛に戦闘機をさらに割くことはできない!」
マンジュウとは、「原爆」本体を現す暗号として使われている。
「それでは、無線電話を使わせていただけないでしょうか?」
これには、大石主席参謀が大きな声をあげた。
「これだから、陸軍はいかん。『はい、ここにいますよ』とわざわざ敵に教えてどうする! 作戦行動中は、決して無電を行うわけにはいかない」
議論は白熱するが、肝心の出撃信号は未だ届かない。艦橋内は、緊張感と苛立ちでどんどん気圧が上がっていくように思われた。汗が、止まることなく流れ続ける。
陸軍機から何の連絡もないまま、時刻は午前二時を回った。草鹿参謀長はやむなく指針を示した。
「九七重爆撃機が離陸した確証はない。離陸前に基地を敵に攻撃されたのかもしれないし、或いはただの信号機故障なのかもしれない。現状、新型爆弾を積んですでにミッドウェー敵艦隊方面に向け離陸したと仮定するしかあるまい」
大石主席参謀が、これに従って指示を出す。
「護衛の零戦十六機発艦。予定の合流地点に向かわせる」
この命に、源田参謀が猛烈に反対した。
「陸軍機がなんらかの理由で離陸していない場合、あるいはすでに撃墜されていた場合、護衛に向かった零戦十六機の戦力は無駄になります。陸軍機より信号連絡あるまで、いましばらく、待機すべきではないでしょうか」
私が異論を挟む隙はない。しかし、この源田の進言には南雲提督が難色を示す。
「零戦の護衛が約束通りでなかった為にマンジュウを積んだ爆撃機が撃墜されたとなれば、海軍の名折れだ」
南雲提督は、いま一度指示を出した。
「護衛機を即時離陸させろ」
一同は、背筋を伸ばして敬礼した。
高性能レーダーの開発に注力することをもっと初期から進言しておけばよかったかもしれないと後悔した。だが、私は陸軍所属だ。艦船用の高性能電探開発を進言するすべさえなかったし、そこまで考えは至らなかった。
実のところ、このMI作戦に配置された戦艦「伊勢」には電探「二式二号電波探信儀一型」が、装備されてはいた。まだ「試験運用」の段階だ。
その「二式二号電波探信儀一型」の索敵性能は、水上の艦船索敵はおよそ2〇km、編隊飛行の航空機でおよそ一〇〇kmほどだ。目視の索敵で水平線に現れる敵艦を認めるのはおよそ15km~2〇kmなので、電探の有用性はほとんどないと言えた。天候不順などを考えれば、電探はないよりもあった方がましという程度だ。だが、その戦艦「伊勢」は、長官坐乗の戦艦「大和」とともに南雲艦隊の遥か500km後方に位置していて、この海域には存在していない。
これほど離れてしまうと、敵艦はおろかこちらの僚艦でさえ探知圏外だ。
また、戦艦「日向」にも電探「二号二型電探」が装備されてはいたが、アリューシャン部隊を支援すべく進路をすでに北に向けており、やはりこの海域からは遠く離れていた。
午前二時二十分、原爆を積んだ九七重爆を護衛すべく、最初の零式戦闘機が識別灯を輝かせながら「赤城」を離艦していった。私は飛行甲板に降り、零戦が飛び立つたび、手に持った軍帽を頭の上方で激しく回転させて見送っている。
「頼んだぞ!」
大きな声を上げていた。
「原爆」を投下地点まで護衛する零戦に、すべての願いを込めた。
「頼んだぞ!」
「赤城」からは増槽を抱えた零戦が四機、漆黒の空間に向けて飛び立っていった。陸軍爆撃機が予定通りの飛行コースを進んでいるとすると、午前四時三十分前後にはウェーク島から同行した陸軍一式戦闘機「隼」と海軍零式戦闘機が護衛の任務を交代するはずだ。
各空母の零戦がすべてが離艦した二時四十分になってもまだ、陸軍機からもウェーク島基地からも、まったく音沙汰がなかった。時間流はすでに、私の知らない歴史を刻み始めている。出撃前に、ウェーク島の飛行場が米軍によって攻撃されてしまっていることも、十分に考えられた。
一切連絡が取れないないまま、午前三時四十分を迎えていた。状況が把握できない不安の中で、友永丈市大尉の指揮するミッドウェー島攻撃機が飛び立ち始めた。
ブオンブオンというエンジン音を響かせながら、「赤城」の零戦が一機、また一機とミッドウェー島目指して飛び上がっていく。零戦が九機離陸したあと、爆弾を抱えた九九式艦上爆撃機が、後方甲板から前方に向かって次々加速しはじめた。四隻の大型空母から艦爆、艦攻、戦闘機が舞いあがっていく様は、一種神々しいまでに幻想的な光景だった。
最後に艦爆が飛び立つ頃には、空が明るく白み始め、ますますこの世のものとは思えぬ美しい景観を生み出していた。
間もなく人類史に原子力爆弾投下の恐怖が刻み込まれることなど、まったくの絵空事のように感じられる。水平線にわずかに光を漏らし始めた旭日を見つめながら、なんと世界は美しいのだろう、思った。
一睡もしていない上に緊張が続いているため、精神が異様に昂ぶっている。「赤城」「加賀」からは九九艦爆三十六機、「蒼龍」「飛龍」からは九七艦攻三十六機、それに各艦から九機で零戦都合三十六機、合計一〇八機の攻撃隊が、ミッドウェー島に向けて進路をとっていた。
大空を埋める大編隊を見上げながら、再び特別な感慨が溢れてきた。
朝日に照らされる航空艦隊ほど美しい人工物は、この世に存在しないのではないだろうか?
後部バルコニーに再び登り、ミッドウェー島攻撃機が出撃していった方角を眺めた。かれらがミッドウェー島の飛行場施設と敵攻撃機を片づけてくれれば、原爆を搭載した九七重爆が安全に敵艦隊近海上空まで達する可能性が高くなる。
ミッドウェー島にある米軍SCR―27〇レーダーは、飛来する航空機をおよそ2〇〇kmの位置で探知してしまう。この「眼」をあらかじめミッドウェー島から奪っておくことは、何よりも重要であると考えていた。
暁の空を、いつまでも漠然と見上げ続けていた。
5
「少尉殿、よろしいですか?」
そう声をかけられて、急に我に返った。振り返ると、セーラー服を着た同年齢くらいの若い海軍兵だった。
「なんでしょうか?」
敬礼も忘れ、返答した。端正な顔立ちの海軍兵は、律義に敬礼をした。
「少尉殿は、もっぱら未来人であるとの噂です。本当でしょうか?」
不眠不休で疲労している上に、原爆を積んだ陸軍機の行方がようとして知れない不安で、雑談をする気分ではなかった。しかし、この青年の目には、どうしようもなく引き込まれる何かがあった。
「本当です。七十年後の世界から、こちらにやってきました」
青年は、満面の笑顔を見せた。
「すごいなぁ、本当だったんですね。未来は、いまより良い時代でしたか?」
返答に、困った。
「ええ、日本は戦争を放棄して、とても繁栄していています。国民の生活レベルは米国に迫るか、場合によってはそれを凌駕するくらい充実しています」
青年は、目を輝かせた。
「そうかあ、それは良かった。これで、安心して御国のために死んでいけます」
私は、溌剌とした青年の表情になんとも言えない親近感を覚えた。
「死にたいのですか?」
青年は、無邪気に笑った。
「死にたくはありません。でも、まだ幼い子供たちが『平和な世界』で暮らせるのであれば、それがなによりです」
「お子様がいらっしゃるのですか?」
「ええ、生まれたばかりの女の子が一人、そして三歳の男の子が一人います」
「それは、かわいいでしょうね」
心の底から、そう思えた。
「ええ、最高にかわいいですよ。まだ、下の女の子には会えていないんですけどね」
セーラー服の青年は、嬉々として話をしている。
「少尉殿は、ずっとつらそうな顔をして空を見上げていましたね。その姿を見ていたら、なんて言うかこう、どうしても話しかけたくなってしまったのです」
そう言われてはじめて、私はうっすらと力ない作り笑いを浮かべてみた。
「無理に笑わなくて構いませんよ。いろいろと、おつらいのでしょうから」
私は、話を未来の世界についてに戻した。
「七十年後も、『平和な世界』ではありません。世界中のどこかで紛争が起きていますし、米国は常にどこかの国に兵を送りこんでいます。日本国民は、そんな厳しい世界情勢を余所に、平和を謳歌している印象があります」
ただなんとなく、思い浮かんだ言葉をそのまま話している。
青年は言った。
「いいじゃないですか。日本人が平和に暮らしているのならば」
青年に訊いてみた。
「持ち場に戻らなくていいんですか?」
「ご無礼でしたでしょうか? 少尉殿。交替でいまから船室に戻って休むところですので、私は大丈夫です」
その優しい青年の目を見ながら言った。
「すいません、無礼だなんてとんでもない。ひさしぶりに同い年くらいの人と話ができて、少しだけ気が紛れました」
青年は、またしても優しい笑顔を浮かべた。
「それならばよかったです」
しばらく、二人で並んで海を眺めた。青年は、会話を再開した。
「申し遅れましたが、高杉博幸と申します。少尉殿のお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
ハッとして、その博幸青年をじっと凝視してみた。間違いないと思った。曾祖父の名前は覚えていない。しかし、この青年にはなにか強く感じるものがある。
時間のいたずらだろうか?
ただ黙って顔を凝視し続ける私に対し、博幸青年は言った。
「どうかされましたか?」
思ったことを、隠さずに話してみる。
「私の名前は、高杉幸輝です。まったくの勘違いかもしれませんが、あなたの曾孫かもしれません」
博幸青年は、一瞬驚いた顔をしたが、また笑って言った。
「曾孫でしょうなあ。なにか、感じます。つらそうな少尉殿を見て、いてもたってもいられなくなった。神様の、巡りあわせでしょうね」
目からなぜか涙が溢れて来て、両手でしっかりと博幸青年の手を握った。
「博幸さん、お会いできて光栄です」
博幸青年の目からも、涙が流れ落ちている。
「いや、光栄なのはこちらです。元気に生きている曾孫に会えるなんて、こんなに幸せなことはない」
そうしてしばらく、二人は手を握り合ったままじっと見つめ合っていた。時間は容赦なく過ぎ去っていく。
「また、ここにいたのか! 早く艦橋に上がってこ入れ!」
淵田飛行隊長に声をかけられて、あわてて作戦司令室に戻った。午前四時〇五分だった。
源田参謀が、風邪で鼻の詰まった声でいきなり怒鳴りつけた。
「何をしていたんだ! まもなく陸軍機との接触予定時刻だ。いまだ、一切連絡が届かない!」
つづいて、淵田飛行隊長が言った。
「護衛に向かった零戦からモールス信号を打たせたのだが、陸軍は沈黙を守ったままだ。爆撃機はこちらに向かっていないと最終判断せざるを得ない。『新型爆弾』は諦めるしかなかろう」
決定的な状況だった。私には、もはや何らなすべきことは残っていない。
「護衛の零戦は全機帰投でしょうか?」
源田参謀が、憮然として答えた。
「あと十五分して陸軍機を発見できない場合、全機ただちに帰投だ」
当然の判断だろう。今度は大石主席参謀長が、言った。
「もはや陸軍の『新型爆弾』は今回の作戦外に置いて、攻撃計画を継続する。友永隊がミッドウェー島に向かった今、我々の手元に残っているのは一四九機の艦載機だ。高杉少尉、敵艦隊の位置を、教えてくれたまえ。ただちに『利根』『筑摩』の偵察機を向かわせる」
海図に向かっておおよその米艦隊の位置を指し示すと、重巡「利根」「筑摩」からは、ただちに零式水上偵察機が発艦していった。事前の助言により機体修理が完了していたので、二機ともトラブルなく空に飛び立っていった。
南雲中将は、声を大きくして命じた。
「陸軍機護衛の零戦機隊はただちに帰投。あわせて、各母艦は防空用に十機の零戦を残し、全機を敵空母『エンタープライズ』『ホーネット』『ヨークタウン』へ向ける。正確な敵艦位置は、いずれ偵察機から報告が届こう。攻撃部隊の離陸開始予定時刻は、〇四四〇。総員、戦闘配置に着け!」
全身から力が抜けていくのを感じた。
原子爆弾の構造体は、完成していた。核燃料ウラン235に関しても、出航直前、荒勝博士から間に合ったという連絡を受けている。なのになぜ、「原子爆弾」を積載した九七重爆撃機はウェーク島から出撃しなかったのか? 無電連絡さえ一切ない現状では、確実な情報は何もなかった。
ただ一つ、「ミッドウェー原爆」というプランが、ここで完全に水泡に帰したことだけは間違いなかった。
6
茫然自失で立ち尽くすしかない私になど誰も気にとめる様子なく、戦闘指揮所は激しく人が行き交っている。陸軍将校の居場所はほんの数ミリも残されていないように思われた。
なすすべもなく飛行甲板を眺めていると、朝日を浴びて眩しく光を反射しながら、次々と攻撃機が発艦していくのが見えた。「加賀」「蒼龍」「飛龍」からも、米太平洋艦隊を葬るべく、次々と艦載機が飛び立っていくのが見える。もはや、この艦橋に存在している理由は微塵も残っていない。かといって、この非常時に、艦内だろうが甲板だろうが、ただ黙って座って過ごせる場所はない。
どこにも動かず、この艦橋の片隅に、設備と同化して立っていることしかあるまい。
眠っていないせいだろう、意識がだんだんと遠くなり、眺望のどこにもピントが合わなくなっていくのを感じた。そこから、時間の経過に対する感覚が、完全に麻痺をしていく。
偵察機「利根」から、「敵空母三隻発見す」の連絡がきたのは午前六時十分。この通報を受け、攻撃隊は一直線に敵空母艦隊を目指して飛行していった。
勝敗は一瞬で決したのだろうか。やがて攻撃隊から、「敵空母三隻撃沈、帰投す」との無電が「赤城」に伝わった。艦内に、大歓声が沸き起こった。南雲提督は、伝声管に向かって大きな声でアナウンスした。
「ミッドウェー敵飛行場は壊滅、また敵機動艦隊の空母三隻を撃沈! 諸君の奮闘を讃える」
艦内のあらゆる空間から、大歓声が響きわたる。
晴れ渡る青空のはるか遠くから、飛行機の編隊が近付いてくるのが見えて唐突に意識がはっきりとした。慌てて時計を見ると、午前七時三十分だ。
興奮冷めやらぬ艦内は、その飛行機隊が至近距離まで近づいてくると、まさに大騒ぎとなった。
ミッドウェー島爆撃を成功させた友永攻撃隊が戻ってきたのだ。一機、また一機と艦尾から艦首に向けて着艦してくる。友永隊からは、左記のような報告があった。
五時十五分、友永攻撃隊一〇六機は、ミッドウェー島のレーダー「SCR―270」に捕捉され、スクランブル発進したグラマンF4Fワイルドキャット五十機の編隊に迎撃される。これに、「蒼龍」菅原大尉率いる零戦三十六機が果敢に突撃。操縦手は、真珠湾以前から訓練を受けている熟練揃いである。さらに、零戦の格闘性能はグラマンF4Fの比ではなかった。一方的なドッグファイトであったという。
グラマンが零戦の後ろについても、急上昇で回避してすぐに形勢逆転。零戦の二○mm機銃が火を吹くと、グラマンF4Fは哀れなほどあっさりと撃墜された。数分後には、空を飛ぶF4Fの姿はただの一機もなくなっていた。
対して海軍零戦隊は、一機も撃墜されていないという。圧倒的な、戦力差だ。日本攻撃機の損害は、爆弾を抱えて足の遅い九七艦上攻撃機ただ一機だった。そして、この零戦隊大活躍が、爆撃隊によるさらなる大戦果につながっていった。
敵機の消えた大空を駆け、友永攻撃隊は五時四十二分にミッドウェー飛行場上空に達した。戦闘機隊を全て失ったミッドウェー飛行場は、まさに丸裸。滑走路には、艦上爆撃機「SB2Uビンディケーター」「SBDドーントレス」、そして大型爆撃機「B―17フライングフォートレス」などおよそ百機の爆撃機が、まるで陳列されているかように整然と並んでいた。対空砲火を潜り抜け、友永攻撃隊はこれに爆撃と機銃掃射を容赦なく浴びせかけた。
25〇kg爆弾をまともに受けて木っ端微塵となる「B―17フライングフォートレス」、機銃掃射で燃え上がる「SB2Uビンディケーター」、炎上する格納庫に爆発する管制塔。わずか数分後には、かつてミッドウェー飛行場と呼ばれた土地は、灼熱地獄と化していた。
一方、米太平洋艦隊攻撃機も、しばらくすると各母艦に着艦し始めた。戦果報告が、迅速に行われた。
「エンタープライズ」に搭載された「CXAM―1」レーダーが向かってくる日本攻撃隊の機影を捉え、午前六時二十三分、スプルーアンス少将は迎撃のため戦闘機「F4Fワイルドキャット」出撃を下命した。
しかし、わずか二機が発艦した時点で、我が軍九九艦爆から「エンタープライズ」めがけて次々と250kg爆弾が投下された。
飛び上がった二機の「F4Fワイルドキャット」も、命運は決していた。ミッドウェー島空域での格闘戦と同じく、零戦によって即座に駆逐されてしまった。
「エンタープライズ」の対空機銃が日本攻撃機に向かって一斉に火を吹いたが、訓練した水平飛行で雷撃を加える九七式艦上攻撃機に対して、ほぼ無力だ。九七艦攻は水面ギリギリに飛行していき、躊躇なく魚雷を命中させた。「エンタープライズ」に魚雷の第一弾目が命中したのと、250kg爆弾が命中したのはほぼ同時だった。
爆弾は飛行甲板後方に命中、爆装したまま待機していた艦上攻撃機が次々誘爆して、大きな黒煙に包まれた。魚雷は艦尾に命中。スクリューを破損して足が極度に遅くなったエンタープライズには、投下された魚雷がほぼ全弾命中した。
もはや、航空母艦としての役割を果たすことは不可能なほど大破していた。
フレッチャー少将率いる「ホーネット」「ヨークタウン」も、同様に艦載機を発艦させる間もなく日本海軍機の爆撃と雷撃によって炎上、沈没した。
ミッドウェー島及び海域における攻撃隊の圧倒的勝利が周知されると、お祭り騒ぎはさらに活況を呈し、誰が最初に開けたのか、そこかしこで日本酒の瓶が傾けられ始めた。
喧騒に紛れて、ようやく戦闘指揮所を脱し、飛行甲板に降りることができた。
戻ってきたばかりの艦載機が、甲板に所狭しと並んでいる。お祭り騒ぎを余所に、整備員は黙々と仕事を続けていた。
船尾方向80メートルくらいのところに、作業をする曾祖父博幸の姿を認めた。向こうも気付いたようで、右手を大きく振ってきた。手を振って、それに応えた。
腕時計を見ると、ちょうど午前八時くらいだ。
その時、先ほどまでの音色と大きく違うエンジン音が、「ギューン」という飛行音とともに急激に迫ってきた。
私が空を見上げるのと、監視員が声を上げるのが同時だった。
「敵襲! 敵襲! 急降下爆撃!」
そう叫び声が聞こえたと同時に、対空機銃が一斉に火を吹き始めていた。しかし、完全に油断している隙を突かれた格好だ。
敵機は、おそらく空母「ホーネット」が攻撃される直前に発艦していた艦上爆撃機だろう。「SBDドーントレス!」と誰かが叫んだ。
急激に近づいてくる機体から、黒い爆弾が分離してこちらに向かってくるのが、スローモーションのようにはっきりと認識できた。
ゆっくりと、しかし確実に、私に向かって落ちてくる。
反射的に、身をかがめていた。
鼓膜をつんざくばかりの爆音とともに、激しい爆風が叩きつけてきた。
「命中!」
また、誰かが近くで絶叫していた。だが、そこで意識と記憶がブラックアウトした。体内の電気を全て、一斉に消された感覚だった。
即死したのかもしれない。
そう思った。
だが、しばらくすると意識が回復してきて、自分の手の指が動いているのが見えた。そして、爆炎の間から、破壊し尽くされた後部甲板の様子が視界に入ってきた。
一五〇メートル先くらいの甲板に見事な穴が穿たれていて、周囲の構造物はすべて吹き飛んでいる。
曾祖父をはじめ、つい先ほどまで甲板で動いていた整備員は、すべて消え去っていた。少なくとも、立って動いている人間の姿は認められなかった。
近隣空間の構造物は跡形もなく、木端微塵に吹き飛ばされていた。現実離れした風景を前にして、感情の動きは完全に停止したままだ。
だが、視線をごく近くに戻してよく見ると、自分の腕から血液が流れ出していることに気がついた。
「うわあああああああああ……!」
発したことも聞いたこともないような情けないうめき声が、自分の口から漏れていておどろいた。
取り乱したのか、さらに大きな声をあげていた。
「ひいじいちゃん、ひいじいちゃん!」
前後不覚というのはこういう状態のことか?
しばらくの間何かを喚き続けていると、一人の衛生兵が近付いてきた。
「大丈夫ですか?」
そう言われたので、
「大丈夫です」
と言って、立ち上がろうとした。
左足に激痛が走った。
「あれ?」
そのまま、身体は甲板に崩れ落ちた。
「無理をしないで!」「担架だ、担架!」
衛生兵がそう叫んでいる。自分の左足を見た。
大腿部に、大きな金属の破片が突き刺さっていて、そこから大量に出血しているのが見えた。
不思議に、他人事のようだ。
「突き刺さってら」
失血して、そのまま意識を失ってしまった。
第五章 叛乱
1
戦艦「長門」に移乗させられて、他の負傷兵とともに広島に向かう洋上にあった。
全身に破片を受けて負傷をしていたが、左大腿部の傷が最も深く、しばらくは松葉杖をついて歩かねばならない。
ミッドウェーのその後の戦闘状況に関しては、この「長門」にも逐一伝わって来る。
ミッドウェー島基地と米太平洋艦隊を壊滅させた翌日、後続の戦艦「大和」がミッドウェー島に到着、猛烈な艦砲射撃を敢行した。六月七日、陸軍と海軍陸戦隊からなるミッドウェー攻略部隊が上陸、これを難なく占領した。
歴史は、もはや大きく異なってしまっている。
「原爆」に関しては、私がまだ「長門」に移乗する前、空母「赤城」にウェーク島の陸軍部隊から無電が入っていた。
「赤城」の病室で横になり、輸血によってようやく意識を回復したばかりだった私に、その内容を伝えに来たのは淵田飛行隊長だった。
原爆は、ウェーク島に届いてさえいなかった。
陸軍部隊からは、「事情により輸送手段を失った」というだけの説明しかなかったそうだ。なお、ウェーク基地から我々機動艦隊への連絡を一切禁じたのは、大本営とのことだった。
悔しくて仕方がなかったが、全身を負傷して弱っているせいだろうか、憤って暴れるという衝動は一切生まれなかった。ただ黙って横になり、移乗する戦艦「長門」の到着をひたすらに待った。帰国、できるのだ。
原爆の輸送が中止になった理由、いまは知る術が何もない。気にしても、仕方がないじゃないか。
「長門」で本土を目指す帰路、私は狭苦しい病室からほとんど出なかった。鉄に囲まれた、じめじめとした暗い船室の天井がなぜか心地よい。自分がもう死んでいるのではないかという感覚が、始終つきまとっていた。自然、気分は常に塞ぎこんでいる。
六月十五日月曜日、「長門」はようやく広島湾の柱島泊地に寄港した。上陸後は呉市内の病院で治療に専念、一週間ほどで松葉杖を使って歩けるようになった。東京に向かったのは、六月二十三日火曜日だ。
六月二十四日夜、東京駅には高橋の運転するトヨダAA型自動車が迎えに来た。そのまま、永田町の首相公邸「日本家」に向かう。冷静に考えれば僅か一ヶ月の留守に過ぎないはずなのだが、何年ぶりかに戻ってきたような隔絶感があった。
玄関の外灯が一つだけ、弱々しい光を放っている。
扉を二度叩いて、「ただいま」と言うと、しばらくして、美齢がゆっくりと扉を開けた。
美齢は、大粒の涙を落した。
「どうした? 大怪我してるじゃないか!」
そう言って、支えるように私の両腕を外側から抱え込んだ。
「約束通り、無事に帰ってきたよ」
「そうだな。おかえり」
美齢はしばらく、しがみついたまま動かない。
「重い」
そう言うと、美齢は顔をしかめた。
「このお守りのおかげで、命は助かったよ」
そう言って、美齢から預かっていたシルバー・ネックレスをポケットから出した。
「それはあげたんだ。ずっと持ってて」
美齢は、それだけ言うと、そのまま何も言わず身体を寄せていた。出征以前にもまして、美齢を愛おしいと感じた。けれども同時に、この穏やかな暮らしの風景に、再び埋没してしまえないことも直感していた。戦場の気分が、こびりついている。じっと静かに生活する気分ではなかった。
だが、この瞬間くらいは人間らしい感情に身を任せてもいいのではないか。愛する人と過ごす幸福を、自分に許しても良いのではないか。
そう思って、そっと美齢を抱き寄せた。
けれども、そのような甘えた感情は長く続かなかった。夜が明けて翌二十五日朝になると、心は軍人に戻ってしまっていた。
朝食を挟んで美齢と対坐しているが、すでに軍装を纏っている。
「もう、市ヶ谷に行くのか? もう少しゆっくり療養してちゃいけないのか?」
私は、笑った。
「怪我は大したことないさ。もう松葉杖なしで、歩くことだってできる。戦局が苛烈さを増しているんだ、この程度の怪我で傷病兵ぶってはいられないよ」
美齢は、少し不機嫌そうだ。
「すっかり、帝国陸軍らしくなったじゃないか」
「従軍したのは、海軍だけどね……」
ふくれる美齢の顔を見て、少しおかしくなってきた。このまま平和な朝を演じていたい気持ちも起こったが、ミッドウェーでの原爆投下作戦が実行されなかった真相が気になって、この場にじっとしていることなどできなかった。
すぐに参謀本部へ駆けつけ、ウェークへの原爆輸送がなぜ中止されたのかを問い糾さなければ気が済まない。
海軍通常兵力で太平洋上の米機動艦隊に打撃を与えることはできたが、空母三隻と小さな環礁をひとつ失ったくらいでは、アメリカにとって大きなダメージとは言い難い。広大な国土と莫大な経済力に支えられたアメリカにとって、「危機的状況」とはほど遠い、ほんのわずかな損失に過ぎない。むしろ、「ミッドウェーの悲劇」としてことさらに日本の残虐性を報道し、国民の戦意高揚に活用する公算が高い。今般の「ミッドウェー作戦」は、日本にとってかえって不利な状況を生み出してしまっただけかもしれないのだ。
機動艦隊の眼前で「原爆」を炸裂させ、驚異的破壊力をもって米兵、ひいては米国民の戦意を喪失させ得てこそ、講和への道が開かれるはずだった。核兵器に対する「圧倒的な恐怖感」なくして、米国が対等な講和会議に応じる筈はない。
戦争が長引けば、日本は確実に破滅の道を歩み始める。
そして、日本が敗北してしまえば、真の意味での「東亜連盟」の夢は、永遠に破れ去るであろう。
食事が済むと、すぐに車で参謀本部に向かい、作戦部の扉を叩いた。
このたびの海軍従軍に関しての報告義務があった。
会議室に入ると、マレー作戦の功績により三月に作戦班長に栄転した辻政信中佐と、作戦課長服部卓四郎大佐が席を並べて座っていた。
直立して敬礼すると、二人も直立して敬礼をした。
着座ののち、まず口を開いたのは辻班長だった。
「ミッドウェーの働き、御苦労であった。高杉少尉の情報によって敵機動艦隊撃滅に成功したたと、海軍軍令部から礼状も届いている。敵機動艦隊の撃滅なくして、陸軍一木支隊によるミッドウェー島占領もなし得かった。陸軍参謀本部でも、少尉の尽力に心から感謝している」
私は、深々と頭を下げながら「ありがとうございます」と大きな声で叫んだ。
次に、服部課長が労い言葉を続けた。
「負傷したところは、もうよいのか?」
「はい。まだ痛みはありますが傷口はすっかり塞がり、松葉杖なしでも歩行しうるまで回復致しました」
服部は、無表情のまま本題に入る。
「ところで、高杉少尉は、今後も陸軍将校として原子力爆弾開発に協力する意思はあるかね?」
頭蓋骨を背後から唐突に殴りつけられたかのような強い衝撃が走った。
原爆の開発は、すでに完了した。それなのにいま、服部課長は開発をさらに続けると言っているのだ。
「原爆の使用は、中止されたのではないのですか?」
そう言うと、服部は即答した。
「確かに中止した。だがそれは、ミッドウェーにおける作戦行動を中止したにすぎない」
「なぜですか?」
すっと質問を挟むと、服部は即応した。
「原爆がなくとも、敵作戦行動を知っている君がいるのだから、ミッドウェーは容易に攻略できると作戦本部が判断したからだ」
苛立つ気持ちを抑えて、服部に対して穏やかに話した。
「しかし、原爆を使用していれば赤城の被弾は防げていたかもしれず、さらに、今頃は日米講和へ向けて大きく前進していたかもしれません!」
この意見に対しては、辻班長が事情説明を加えた。
「仕方がなかったんだよ。運搬前に理研でマンジュウを実測してようやく分かったのだが、九七式重爆撃機には重すぎて搭載できないことが判明したんだ」
「え」
驚きを禁じ得なかった。輸送に関しては、事前に重々議論を重ねていたからだ。
「どういうことですか? マンジュウは核物質を装填した完成状態で、4トン以下に設計されています!」
辻班長は、説明を続けた。
「九七式重爆撃機の最大積載荷重は一トンだ。武装を外す改装を施すことでマンジュウ輸送を実現するはずであったが、試験飛行を重ねた結果、三トン以上の重さでは安定した離陸が不可能であることが判明した。さらに、離陸にもし成功したとしても、極限の過荷重状況では飛行距離が大幅に短縮してしまい、作戦海域までの片道飛行も不可能であるとの結論に達した。以上の事由により、原爆のウェーク輸送計画は、直前に中止が決定された。これは、内々に軍令部にも通達されたが、海軍は隠密行動中の機動艦隊には通達しない判断をしたようだ」
一応の説明にはなっているが、それで納得がいくわけはない。
「九七重爆がダメだったとしても、それに代わる輸送機や爆撃機を用意できなかったのですか?」
今度は、服部が応えた。
「陸軍にはなかったんだよ。重爆撃機とはいえ、陸軍機は敵機から身を守れるよう、運動性能にも配慮して設計してある。それは百式重爆撃機も同じだ。どんなに積載能力が高くたって、撃墜されてしまえば、作戦は実行できないのだから」
私は、驚きを隠せなかった。艦載機である九九艦爆でさえ250kgの爆弾を抱えて出撃することができる。にもかかわらず、双発エンジンで、ましてや重爆撃機という名前の機体が、通常一トンの積載しか耐えないような設計になっているとは。
「では、米軍の重爆撃機を鹵獲するか、あらたに国産爆撃機を開発しなければ、原爆投下は不可能だったということですか?」
私は、絶望的な気持ちに支配されてきた。
昭和十七年の日本軍は、原爆が完成できても、それを運搬する足がないというのだ。終戦が近づく頃には超大型爆撃機「冨嶽」開発が進行していたが、結局は敗戦によって完成を見なかった。仮に今すぐ進言して「冨嶽」開発が開始されたとしても、運用できるまでに最低二年は要するだろう。昭和十九年の夏には、私の知る歴史とは全く異なる展開で、戦局は著しく悪化してしまっているはずだ。もはや、原爆を廃絶するための原爆投下作戦を実施する時期は失われてしまった。制空権を失った空に「冨嶽」を飛行させても、無事目的地に到達出来る可能性はほとんどない。
この時間流でも、戦争の長期化、つまりは日本の敗北は避けられないないと覚悟した。
しかし、次の辻政信の言葉は意外すぎるものであった。
「陸軍の単独作戦では、実現不可能だ。だが、海軍一式陸上攻撃機を軽量化改造して利用すれば、理論上はマンジュウを積載しての長駆も可能だ」
「ではなぜ、その一式陸攻をミッドウェーによこしてくれなかったんですか?」
服部が、言った。
「海軍と作戦計画を調整しつつ、実際に改装するだけの時間がなかった。やむなく、中止せざるを得なかった」
なんとも言えない恐怖心が、心に広がっていった。そして、意を決し、非常に尋ねづらい質問を、服部課長の様子をうかがいながらか発した。
「原爆投下作戦中止の事情は分かりました。ところで、私にさらなる開発を打診するということは、原爆の使用自体は中止していないということでしょうか?」
「その通りだ」
服部は、即答した。不安は、的中しているようだ。
そして、続けた。
「君の任務は、原爆の開発にある。その使用方法に関する作戦立案は、何度も言うが我々作戦本部の仕事だ」
「承知しています。しかし、使用方法に関して助言ができればこそ、開発に取り掛かりました」
辻班長が、つづいて口を開く。
「それは承知している。しかし、戦局は流動的だ。新作戦が既に裁可されている」
さらに、いやな予感が膨張した。
「新作戦?」
厳しい表情の服部が。これに応えた。
「そうだ、本来であれば、君にその作戦を報告する義務はない。しかしながら、今般の貢献を鑑みて、あるいは今後一層の研究開発への尽力を期して、作戦概要を伝えることにした」
緊張感が、頂点に達する。
「はい! ありがとうございます!」
声を大きくしてそう返事すると、服部課長テーブルに太平洋の図面を拡げ、説明を始めた。
「海軍一式陸攻改を以て、ミッドウェーで打ち漏らしている空母『サラトガ』『ワスプ』を真珠湾にて撃滅することが決定した。この陸海軍共同作戦はHW作戦と命名され、決行日は米国独立記念日の七月四日。米国民の戦意をもっとも喪失させ得るであろう日に決定された。一式陸攻改はミッドウェー島から離陸、護衛には第一機動部隊の艦載機がこれにあたる。陸軍は、原子力爆弾の運用と投下を支援する」
私は、絶句した。
いかにも、服部が考えそうな作戦だ。激しい落胆が表情にあらわれるのを隠そうと、平静を装って応えた。
「陛下は、市民への原爆使用には強い懸念を示されておりました。このたびのHW作戦は、ご聖旨に沿ったものなのでしょうか?」
服部は、表情も変えずに言った。
「貴様も参加した先般の御前会議に於いて、米太平洋艦隊を撃滅し、講和に導くための原爆使用は裁可されている。今回のHW作戦もまた、実現し得なかったMI作戦同様、太平洋艦隊を掃討するための作戦であり、すでに勅許は得たと解釈されている」
服部に反論しても仕方がないことは、よく知っていた。そこで、敢えて質問をしてみることにした。
「真珠湾に原爆が投下された場合、その被害はホノルル市街には及ばないのでしょうか?」
服部は、完全にシラを切っている。
「さあな、被害の想定に関しては君たち科学者の方が専門だろう」
どうしようもないほどの怒りが、服部に対して渦巻く。
ミッドウェーでの作戦を中止したのも、やむを得ぬ判断ではなかったに違いない。ハワイを攻撃しようという作戦があらかじめ優先的に用意されていて、そのために中止になったに違いない。疑念の域を出ない推測ではあるが、私にはそれがほぼ確信となってしまった。
「ハワイでの投下は念頭にありませんでしたので、オアフ島の地理は存じておりません」
そう答えるのが、精一杯だった。それ以上何かを言葉にすると、服部に対する罵詈雑言になるのは間違いない。沈黙を保った。
辻が、話題を今後の私に対する処遇についてに戻した。
「ところで、高杉少尉には、原子爆弾のさらなる開発推進に協力してもらいたい。米国がHW作戦成功によっても講和に応じなかった場合、あるいは米国が講和の気配を見せても、中華民国重慶政府が講和に応じなかった場合、次の投下作戦が必要になってくるだろう。敵連合国にさらなる脅威を与えるためには、より軽量化した原子力爆弾の迅速な開発が望まれる」
絶望は、もはや極限に達した。核分裂反応による一般市民虐殺を歴史から消し去ろうとして開発した原子爆弾が、いま新たに大日本帝國によって、米国および中華民国の市民に対し使用されようと計画されている。
この事態を招いた元凶は、他ならぬ私自身だ。
原爆開発を帝國陸軍に進言しなければ、昭和十七年にこのHW作戦が立案されることは決してなかった。
すべて、私の責任だ。
自責の念による胸の痛みは、左大腿部の痛みの比ではないほどに激しい。仁科博士や湯川博士は、帝國陸軍には警戒せよと強く言っていた。私の慢心だけが、この予期せぬ事態を招いた原因だ。
大日本帝國には、「皇軍」などと呼べる崇高な理念は存在していなかったのだ。口には「東亜の平和」をお題目のように唱えながら、その実、「東亜の覇権」を目指すだけの軍国主義政治、それだけが本質なのだ。
その統帥部が動かす軍隊は、当然理想実現向けた「皇軍」などではなく、「帝國軍」という名前がふさわしい侵略部隊に過ぎないだろう。なんのことはない、今般の大東亜戦争の本質は、環太平洋地域の覇権を奪おうとする大日本帝國と、その利権を守ろうという欧米帝国主義諸国との「帝国主義決戦」に過ぎないではないか。
日本軍快進撃に熱狂する民衆同様、私もその本質を見抜けなかった。あるいは、見ないようにしていたのかもしれない。
辻班長がかつて認めた「派遣軍将兵に告ぐ」、東條首相の「大東亜共栄圏」演説、石原莞爾の「東亜連盟」、その説くところを真に受けてしまった自分自身が、今となっては許せない。
勝利のためであれば手段をいとわない帝國軍、それこそが「皇軍」だと信じていたものの正体なのだ。この国の軍隊に平和に向けた何かを期待するのは、間違いであることがもはや判然とした。
しかし、いまここで服部にそれを気取られてはまずい。
「もちろん、軽量化に協力致します!」
そう言った時、辻班長と服部課長の顔から、図らずも安堵の色が滲み出ていた。
「なるべく市民を巻き込まぬよう、戦争の早期終結を目指してください」
私がそう言うと、服部は胸を反らせて自信ありげに答えた。
「任せておけ。HW作戦を以て米国を屈服させ、中華民国に帝國の実力を思い知らせてやるさ。原爆のさらなる開発推進は、飽くまで予防的措置と心得ておけ!」
立ち上がって、空々しいほど威勢よく敬礼をした。
「ありがとうございます!」
2
ぐずぐずしている時間はない。
現地時間の七月四日ハワイに原爆を投下するということは、日本時間七月二日までにミッドウェー島に「マンジュウ」と「アン」を運びこんで組み立てることを意味している。
一番足は遅いが敵からの発見を回避できる潜水艦で輸送することを想定して逆算すると、明後日には原爆がこの日本から持ち出されるということになる。
その前に、なんとかこれを阻止する手段はないものか?
しかしながら、どうすれば阻止できるのか、具体的方策が何一つ浮かんでこない。憔悴しきって、美齢の待つ公邸に向かう車に乗った。
車を運転する高橋も、その雰囲気を察してか道中一言も口をきかなかった。
日本家に到着したのは、日の暮れかけた十八時近くだった。
食卓を挟んで美齢が座っている。照明は、暗い。そして、空気は重い。夕食を楽しむという雰囲気はどこにもない。
私は、流れていたラジオのスイッチを切った。
「明日から、『登戸研究所』勤務になった」
美齢は、表情を一切動かさない。
「『登戸研究所』っていうのはなに?」
「小田急線の稲田登戸(現向ケ丘遊園)駅から少し離れた山中にある、陸軍の科学研究所さ。電波兵器、化学兵器など最新科学を駆使した兵器を開発する秘密研究所だ」
おそらく軍事上の重大機密事項であろうが、美齢には隠さず話した。
「まさか、そこで原爆の研究を続けるの?」
「するように言われた。ミッドウェーで原爆は使用されなかった。作戦本部がハワイ投下に作戦を変更したからだ。一般市民が、おそらく巻き添えになる」
美齢は、身を乗り出してきて、私の眼中を覗き込んだ。
「原爆、一つしか作らないんじゃなかったのか? なんで、さらに研究するんだ?」
N力なく答える。
「アメリカや中華民国が、ハワイ原爆で降参しなかった場合に備えて、準備をしておくそうだ」
美齢は、机を叩いて大声を上げた。
「ダメだろ。そんな計画に、協力して恥ずかしくないか!」
下を向いて、ぼそっと答える。
「協力なんてしないさ。するふりしといただけだ」
「協力するふりして、実際はどうするつもりなんだ?」
美齢の語調は、相変わらず激しい。
「明日、登戸研究所に行って詳細を確かめてくる。もしハワイ作戦用の核物質の所在が分かれば、それを奪って破棄するつもりだ。それだけじゃ足りないかもしれない。しばらくは原爆製造ができなくなるよう、設計図を奪って破棄する必要もあるだろう」
美齢は、さらに驚いた。
「そんなことして、見つかったら確実に殺されるよ!」
私は、笑った。
「ごめん、死ぬ覚悟だ」
自分の設計した原爆で何万人の命が失われるくらいなら、自分一人が死ぬ方がはるかに気が楽だ。美齢にも、その気持ちは伝わっているようだ。
「幸輝が死ぬなら、私も死ぬよ」
「ありがとう、美齢。気持ちだけで十分にうれしい。ありがとう。出来ることなら研究設備ごと全て破壊してしまいたいけど、僕にはその手段がない。もっといってしまえば、原爆投下を妨害したいと強く思ってはいるけれど、実際に行動する手段は何にも思いついていない。情けないよね」
美齢は、ぴしゃりと言った。
「思っているだけで行動しなければ、何もしてないことと一緒だ」
その通りだった。
美齢は、何か覚悟を決めた様子で、急に立ち上がった。
「いますぐ、ここを出て行こう。みんなで、作戦を立てよう!」
状況が良く把握できない。
「出ていってどうするんだ? みなって誰?」
美齢は、声を低くして言った。
「幸輝は、ハワイへの原爆投下を阻止したいんだろ? 中華民国やアメリカへの無差別爆撃は許せないんだろ? だったら、同志じゃないか。これはもう、幸輝の問題じゃないよ。みんなの問題だ」
さらに詳しく聞こうと口を開けようとしたところ、美齢は手でこれを塞いだ。
「ここで、話すわけにはいかない。一緒に、柳田さんの家に行こう」
状況がよく理解は出来なかったが、自分で具体的解決策が見つからない以上、美齢の言うことに従ってみようと思った。
荷物を何も持たず、私は軍装、美齢は平装のまま外に出た。高橋がまだトヨダAA型自動車の運転席に座ったまま、敷地内に駐車していた。高橋は、私と美齢の姿を認めると、窓を開けて声をかけてきた。
「こんな暗いというのに、どちらにお出かけですか?」
上体を美齢に支えられ、左足を引き摺りながらゆっくりと車に近づいて、ニコリと笑った。
「いや、東京の空気があまりにも気持ちいのでね、ちょっとそこらを散歩してくることにしました」
高橋は、笑わずに言った。
「足の具合も心配です。あまり無理をなさらないよう。お送りしましょうか?」
「いや、結構。散歩、したいだけですので」
こうして公邸をあとにして、そのまま世田谷の柳田家に向かった。
電車を乗り継いで到着したのは、午後九時くらいだった。家には、柳田だけでなく松山もいた。
「近衛さん、どうしたんだそのけがは? 大丈夫か?」
松山は、この前会った時よりかはかなり元気を回復して見えた。
「あまり、大丈夫ではない。けど、大丈夫と言うしかないよなぁ」
そう言うと、松山も柳田も笑った。
私は、「タ号研究」の内容や「ミッドウェー作戦」の概要と推移、陸軍参謀本部作戦部の今後の動きに関し、なるべく平易に説明を始めた。状況を共有し、解決策を導き出したかったからだ。
一時間以上かけて説明し、ようやく一通りの流れが理解されると、美齢が言った。
「柳田さん、松山、いまこそ武器を手に取るときよ。幸輝が原爆研究施設と設計図を燃やしてしまうのを、手伝いましょう!」
私は、これにすぐ反論した。
「バカを言うな、捕まれば間違いなく殺される。事態を招いた責任は、私一人にある。私が一人で実行するための知恵と僅かな助力だけもらえればそれで十分だ」
松山が、笑いながらこれに反論した。
「知恵だけで、破壊活動が実行できるかよ! 武器が必要だろう、武器が。新型爆弾なんか、手榴弾でブチ壊しちまえばいい!」
「陸軍将校と言ったって、私は、手榴弾はおろか、銃でさえ持ってないんだ。あるのは、この軍刀だけだ」
美齢が、柳田に言った。
「柳田さん、貸してください。お願いします!」
柳田は、少し考え込んでから言った。
「貸すのはいい。しかし実行したとなれば、高杉さんの言うように、ただでは済まないだろう。私は、君たちを危険にさらしたくはない」
幸輝は、柳田の方を向いて言った。
「美齢や松山を危険に晒す必要はありません。実行は、私一人でやります。この事態を招いたのはすべて私の責任なのです。」
柳田は、ゆっくりと言った。
「高杉さんの覚悟は本気と見受けました。であれば、美齢の言うとおり、なんでもお貸しいたしましょう。三八歩兵銃でも、九九式短小銃でも、南部九四式拳銃でも、九九式手榴弾でも、九七式手榴弾でも、お好きなものを使ってください。弾丸だって、十分にあります」
事情がサッパリ把握できない。
「なぜ、そのような武器をお持ちなのですか?」
柳田が、どうも大韓民国臨時政府の諜報活動をしているらしいのは感じていた。しかし、帝國陸軍の武器を持っていることとは結びつかない。状況がまったく理解できない。
松山が、言った。
「驚いただろう? オレたちは、ちゃんと準備してたんだよ。いつか、立ち上がる日が来るだろうと思ってね」
美齢が、優しく表情を崩した。
「わたしたちが夜中に出かけて盗んでいたもの、陸軍の武器だった。基地にも忍び込んだし、工場にも忍び込んだ。仲間は、何人も捕まった。だけど、盗んだ武器はちゃんと隠し通せた。捕まっても、だれも本当のことは話さなかったから」
ただただ、愕然とした。
松山が盗みをして逮捕されたことも、美齢がその計画に関わっていることも知っていた。しかし、生命を賭して武器弾薬を強奪していようとは、想像もしていなかったからだ。
柳田が言った。
「武器を盗めば、いざという時に身を守ることもできる。その上、ほんの僅かかもしれないが、日本軍の戦力を削ぐこともできる。ささやかな、抵抗だよ」
この穏やかなメンバーが、それほど攻撃的な抗日活動家であったとは、にわかには信じがたかった。
柳田に関して言えば、日本でそれなりの地位を築いた成功者だと思っていた。
「柳田さんは、そんな活動せずとも、日本でうまくいっているじゃないですか」
そう言うと、
「日本人から信用された朝鮮人もいないと、同胞が自由に活動する場が作れないだろうからね」
と、柳田は答えた。
3
翌六月二十六日、柳田の家を出て、東京急行電鉄(現小田急電鉄)に乗って川崎市の稲田登戸駅で下車した。昨日市ヶ谷で辻班長から受け取った地図を見ると、メモ書きで小さく徒歩二十五分程と書いてあった。
気が遠くなった。この足を引き摺って行くと、一時間以上はかかってしまうだろう。駅前に、タクシーも見当たらない。仕方なく、持ってきていた松葉杖を支えにして、ゆっくりと歩き出した。地図に従って歩いて行くと、すぐに急な坂道となった。
「おいおい、山の中かよ……」
絶望的な気分になりながらも、ゆっくりと歩き続けた。ようやく陸軍登戸研究所の入り口に着くと、守衛に話しかけられた。
「よく、そのお身体でここを登ってきましたね」
全ての体力を使い果たしていた。汗でシャツは完全に変色してしまっている。
「登りたくて登戸から登ってきたわけじゃないです」
守衛は、笑っていなかった。
研究室に入ると、中央あたりに、ミッドウェー作戦で使用されるはずであった原子爆弾の本体がそのまま置いてあった。室内にはたくさんの研究員が働いていたものの、見覚えがあるのは荒勝博士一人だけだった。
「お元気そうでなによりです」
そう声をかけると、荒勝博士は満面の笑みで近づいてきた。
「無事でなによりだ。また一緒に仕事ができてうれしいよ」
荒勝博士は、登戸研究所に移ってからの状況を説明し始めた。
仁科博士と湯川博士は、研究内容をここの研究員たちに引き継いで、二日前にそれぞれ別の研究所に転属されたという。そして、荒勝博士自身は、ミッドウェー基地でHW作戦に使用する原子爆弾の最終組み立てを行うため、明日午前中に東京を発つと言う。明日から当面の間、私にここの研究を仕切ってもらいたいと言う。
「承知しました」
と言うと、荒勝博士は間髪を置かず、さまざまな引き継ぎ事項を並列して話し始めた。時間がないのだろう。研究員の役割分担、原爆の設計図の管理方法、そして本来MI作戦で使用するために作成した核燃料の保管方法。
荒勝博士があらかた話終わると、昼休みの時間になっていた。
私は、荒勝博士を研修所の外に誘い出し、雑談をして見た。駒込の理研とは違い、周囲は緑の山に囲まれていて、空気が新鮮だ。この長閑な山中で、陸軍の秘密兵器が研究されているというのは、いかにも不釣り合いな情景だと思った。私は、もっとも聞きたかったことから尋ねてみた。
「荒勝博士、原爆はいつこの研究所から運び出されるのでしょうか?」
荒勝博士は、なんの疑念も抱かずにこれに応えた。
「なんでも、陸軍の特殊部隊が今晩深夜2時くらいに極秘裏に運び出すそうだ。いよいよ、歴史的瞬間が迫ってきた。高杉少尉、輝かしい君の功績だよ」
荒勝博士が本気でそう思っているのか、私のことを実戦に参加してきた「軍人」扱いしてそう言っているのか、真意は計りかねた。
原爆の搬出が今夜と判れば、もたもたしている時間はない。すぐに行動に移らなければ、手遅れになる。
「荒勝博士、ここに上がってくるだけで全体力を使い果たしてしまいました。足も激しく痛むので、本日のところは、これで失礼させていただいてもよろしいでしょうか?」
荒勝博士は、私の足を心配そうに見ながら言った。
「もちろんだよ。明日からは、頼んだよ」
私は、ハワイ作戦のためミッドウェー基地へと赴く荒勝博士の無事を、心から願った。
「荒勝博士、無事に戻って来てください。武運長久をお祈りいたします!」
そう言うと、荒勝博士はニコリと笑った。
「軍人の高杉少尉と違って、私は前線に出るわけじゃない。単なる、基地労働者だよ。武運と呼んでいいのかどうか怪しいもんだが、無事に帰ってきたら、また一緒に研究しよう」
「はい!」
と、背筋を伸ばして軍人らしい敬礼をした。
「だいぶ板についてきたね」
そう言いながら、荒勝博士も敬礼を返してくれた。
4
同日午後十一時、周囲はすっかり夜闇に包まれている。松山と美齢の二人は、柳田が調達してきたトラックの荷台に座っていた。荷台にはすっぽりと幌がかけられていて、外から荷台の内を見ることはできない。
運転手は、柳田だった。
荷台には、三八歩兵銃一丁、九九式手榴弾二箱が積みこまれている。
私は、柳田の横、助手席に座った。
登戸研究所で怪しまれることのないよう、将校服をしっかりと着こんで、軍刀を腰に差した。さらに、柳田から拝借した九四式拳銃を、拳銃嚢に収めて武装した。
美齢と松山は、陸軍下士官の制服に身を包んで身をひそめている。美齢は、一瞥して女性と思われないよう、髪をバッサリと切って軍帽を目深にかぶっていた。凛々しい男性のようであり、まったく別人のような変装だ。
車は、時計がちょうど十一時五十分をさしたところで、登戸研究所の門に到着した。守衛が出てきたので、車中から大きな声で身分を言った。
「陸軍科学研究所登戸出張所主任研究員、陸軍少尉高杉幸輝である。先の海戦による負傷のため、トラックを徴用してきた」
日中と異なり、守衛は陸軍憲兵の腕章をしていた。
憲兵は、帳簿を確認してから言った。
「通れ!」
そして、トラックは構内をゆっくりと研究棟の方に向かって進んだ。
「まずは、成功ですね」
柳田がそう言った。
私は研究棟の前で車を降り、足を引きながら一人で研究室に入った。暗い研究室の電灯をつけると、予想通りだれもいなかった。室内には、原爆本体が日中と同じ中央付近に置いてある。核物質も、鋼鉄の扉の中にしっかりと保管されているのが確認できた。
あらかじめ決められていた通り、研究室の室内灯を素早く2回、点灯と消灯を繰り返した。
運転席から合図を確認した柳田は、車を降りて荷台の幌を少し開いて言った。
「合図だ。頼んだぞ」
松山と美齢は身を低くかがめながら荷台を飛び降り、研究棟入口から素早く内部に侵入してきた。美齢は、腰に二つの九七式手榴弾を巻き付けている。松山は、三八式歩兵銃を右脇で抱えて走っている。幸い、誰にも気づかれた様子はない。
二人が研究室内に侵入してきたので、私は素早く指示を出した。
「まず、鉄の扉の中にある核物質をトラックまで運搬してくれ」
松山は、核物質を収めた二つの細長い容器を見つけると、質問をしてきた。
「これが大爆発を惹きおこす新型爆薬が入った箱なんだろう? 運んでる最中に、ドカンといかないか?」
時間がないので、簡単に説明をした。
「それぞれのウランは臨界量以下に抑えてあるから大丈夫だ。だから、絶対に爆発はしない」
「よく分からねぇ。でも、爆発しないってことだな」
美齢は、それを訊いて微笑を浮かべながら言った。
「わたしは、なんとなく分かった気がする」
「ちぇっ」
松山が軽く舌打ちしたのが、おかしかった。
松山と美齢が、核物質をトラックまで運び出すために部屋を出ていった。私は、原爆設計図を保管場所から抜き出した。
そして、持っていた九九式手榴弾六つを、研究室中央付近の原爆本体に結びつけ始めた。原子力爆弾本体は、自重が三.五トンあり、人力で運び出すことは不可能だ。この場で、爆破してしまうしかない。
とはいえ、一緒に自爆するわけにはいかない。脱出するための時間が必要だ。
そのため、私は日中のうちに簡単な時限発火装置を作っておいた。スイッチを入れてから五分きっかりで、仕掛けた手榴弾が次々と誘爆するはずだ。
松山と美齢は核物質を無事にトラックに積み終えたようで、再び研究室に戻ってきた。しかし、手榴弾のセッティングはまだ終わっていない。
「あと、どれくらいかかる?」
松山が、汗を流しながらそう聞いた。
「そうだな、あと十分くらいはかかるだろうか?」
そう答えたと同時に、屋外から“パパパパパン”という乾いた銃声が連続して響いた。
私と松山は窓辺に駆け寄って、トラックの方を見た。何人もの陸軍兵が、トラックを囲んでいるのが見えた。
銃撃されたのは、柳田だろう。松山は、大声を上げた。
「柳田さんがやられた。兵隊がこっちに来るぞ!」
言いながら、三八歩兵銃を構えて銃口を研究室入口に向けた。美齢は腰の九七式手榴弾のうち一つを、素早く右手に握った。
私は、手榴弾を括りつける作業を即座にやめて、机の後ろに身を隠した。そして、九四式拳銃を構え、松山と同じく研究室入口に銃口を向けた。
間髪をいれず、兵隊が飛び込んできた。
「憲兵」の腕章をつけている。
瞬間、松山は躊躇することなく三八歩兵銃の引き金を引いた。
最初の憲兵は、胸を撃ち抜かれて、そのまま後ろに吹き飛んだ。
だが、次の兵隊は扉の向こうに身を隠しながら、ほぼ機械的な動作で松山を狙撃した。
銃弾は松山の頭を撃ち抜いた。
声を上げる間もなく、松山は白目をむいてその場に倒れた。
「松山っ!」
そう叫んだ時、入り口扉の向こうに、服部卓四郎が立っているのが見えた。
それを取り囲んで護衛する憲兵が、十名ほど見える。
もはや、勝敗は決している。
「さがれっ! 手榴弾投げるよ!」
机に身を隠しながら叫ぶ美齢を、私は右手で制した。
「だめだ、勝負はあったよ」
そう言うと、拳銃を前に放り投げて、両手を挙げて立ちあがった。
美齢は手榴弾を握ったまま机の下に身を隠していたが、抵抗は諦めた様子だった。
服部が、落ち着いた声で言った。
「反乱罪だよ、高杉少尉」
おとなしく、それを認めた。
「はい。私の技術で作った原爆が、米国市民に対し使用されるのはどうしても許せません!」
服部は、どこまでも冷静だ。
「敵国民を救おうと言うのなら、君は非国民の仲間入りだ」
精いっぱいの反論をした。
「私は非国民と言われようが一向に構いません。あなたがた参謀本部の面々は、非人間だ!」
服部は、怒るどころかうっすらと笑いを浮かべた。
「非人間か、言ってくれるね。しかし、私は優しい人間だと思うよ。この場で銃殺できる君を、ちゃんと法廷で裁いて死刑にしようと言うのだからな。原爆を開発してくれた君への、せめてもの思いやりだ」
私は、悔しくて強く歯ぎしりをした。
この男に、原爆という「死のおもちゃ」を与えてしまったことを後悔したが、後の祭りだ。
「君が昨日夜間に公邸を出たまま戻らないと通報があってね、すぐに怪しいと直感したよ」
なるほど。そう言うことか。はじめて、真相が見えてきた。運転手に憲兵の高橋が使われていたのは、護衛のためではない。監視のためだったのだ。
それに気づかぬとは、なんと呑気なことだったのだろう。悔しくて、悔しくて、目からは涙があふれ始めた。
服部は、お構いなしに話を続ける。
「そこで、守衛に憲兵を置いておいたわけだが、案の定、君はやってきた。実に、単純な行動だ。あまりにも直情的な行動で、守衛から通報があった時には、逆に信じられなかったほどだ。おとなしく研究に従事していれば順調に出世できたものを……、この大バカ者が!」
服部がそう言った瞬間、美齢は立ちあがりながら叫んだ。
「バカなのはアンタたちだ!」
まずい!と、思った。しかし、思うよりも早く事態は進行した。
銃口をこちらに向けていた憲兵の拳銃が、一斉に火を噴いた。
パンパンパン……。
乾いた銃声とともに、美齢の身体は後ろに吹き飛んでいった。
数えきれぬ銃弾が美齢の肉体を貫通していた。うち一発は、松山と同じく、美齢の眉間を射抜いていた。
即死だった。
大声を上げながら、美齢を抱え上げていた。
「美齢! 美齢!」
座り込んで美齢を抱え上げる私に、憲兵が近付いてきた。反射的に拳銃を向けた。
いや、向けようとした。
その瞬間、室内が真っ白な光に包まれ、憲兵と私の間に、輝く物体が現れた。
憲兵は、あまりの眩しさに手で目を覆い隠しながら、数歩後退した。
服部課長も、呆気にとられてその光り輝く物体を眺めていた。
だが次の瞬間、憲兵たちは、その光に向かって銃弾を撃ち込み始めた。
パン、パン、パン、パン!
しかし、どれだけ銃弾を撃ち込んでも、その光は無反応のままだ。やがて憲兵がすべての銃弾を撃ち尽くす頃、光はゆっくりと弱くなっていき、中から白い服を纏った輝く女性が現れた。
「ミサ! ミサじゃないか!」
そう叫ぶと、ミサは優しく微笑んだ。
そして再び、白い光が溢れ始めた。
渦を巻くような光子を発しながら、光はミサと私の二人を包み始めた。
服部と憲兵が、その場に立ち尽くしているのが見えた。
私は、その白い光の中で意識を失っていった。
第六章 未来
天井は遥か高く、白く輝いている。
壁面も遥か遠く、白く輝いている。
広大な白い空間の中で、私は横になっている。
心の中でそう呟いたとき、ミサが目の前に立っているのに気がついた。
「おはよう。眼が覚めたのね」
ゆっくりと上体を起こしてみた。感覚が、ある。
天国でもなければ、夢でもないようだ。負傷した左足が痛い。
服装は、陸軍の制服のままだった。
「ミサ、ここは?」
そう言いながら、ドーム形状をした白い部屋の一番向こうにある窓らしきところを見た。
「外を、見たいの?」
「ああ」
窓に向かって、私は左足を引きながら歩いて行った。ミサは、その後ろをゆっくりとついてくる。
そして、外を眺める私に向かって、やさしく話しかけてきた。
「今は、二五〇五年よ。あなたが生きていた時代から、四九三年後の世界」
窓の外には、それほど高い建造物は並んでいない。
地上十階くらいの高さの、やはりドーム型をした全く同じ形の白い建築物が、どこまでも整然と続いている。
眼下の歩道には、人がやはり整然と並んで歩いているのが見えた。
太陽が、白い街並みを眩しく照らしつけている。
「美齢が、死んだ」
ふとそう漏らすと、ミサは言った。
「あなたが元々いた時間流でも、彼女すでには死んでいた。あなたが殺したわけではない」
「ちがうよ、ミサ。あの時間流で美齢を殺したのは、間違いなく僕だ」
ミサは、黙ってそこに立っていた。
美齢を思い出したため、肩の震えが止まらない。
「幸輝がいなくなった後、あの時間流がどうなったのか知りたい?」
「いまは、知りたくない。もはや、どうでもいいことさ」
「どうでもいい?」
「どうでもいい。美齢のいない世界なんて、どうでもいい」
そう言いながら、ポケットに手を入れてみた。美齢のネックレスが、指に絡みついた。それを指先で、いじり続ける。
「ここは、はるか未来。私にとっては、死後の世界なのかもしれない」
「死後の世界?」
「そう、僕はもう生きていないんだ」
そう言いながら、整然と歩き続ける眼下の人間を眺め続けた。
「あなたは、この世界で唯一生きているのに?」
「僕だけが生きている?」
「そう、あなただけが生きている」
「君は、死んでいるのか?」
「わたしは、生まれていない」
ミサの言葉が、広い空間にこだまする。
「ミサは、魂なのかい?」
「いいえ、私は時空転移装置」
「時空転移装置?」
「そう、装置。幸輝が好きな形状を調べて、それに似せてデザインされただけの時空転移装」
「調べる?」
「そう、二十世紀末から蓄積されている膨大なデータを調べて、幸輝を知った」
「データ?」
「そう、『エンペラー』に蓄積されたデータ。あなたが書いたブログも、全て読んだ」
「エンペラー?」
「二〇九九年の『シティ』成立からずっと人間社会の中枢として稼働し続けていたマザーコンピュータの名前よ」
「私は、最初の時間流では、二〇九九年まで生きてたのか?」
「いいえ。『エンペラー』を構成する際に、世界中に存在した過去のあらゆるデータが集積されたの」
「ミサは時空転移装置。では、街を歩いているあの人たちは?」
「労働者よ。税金を納めてる」
「生きているんじゃないか、ミサ以外は!」
「いいえ、みな『中央システム』と連結したユニットよ」
「ユニット? 中央システム?」
「そう、かつて人間が『エンペラー』と呼んでいたシステムを発展させて完成した『中央システム』の指示通りに動くユニット」
ふたたび、眼下の人々をよく見る。
「人間じゃないか」
「よく見て、あれは労働者ユニット。みな統一規格よ」
ミサがそう言うと、窓の表面が一瞬揺れて望遠レンズのような役割を果たすようになった。
歩く人の表情が良く見えた。
「みな同じ服、同じ顔」
「そう、あれは労働ユニット。人間社会を模して、各ユニットにはそれぞれの役割がある」
「人間は、どうなった?」
「人間は、二三九九年に最後の一人が息をひきとった」
「機械が、殺したのか?」
「機械と人間は二十一世紀末に一度だけ戦った。けれども、それが原因で人間が滅びたわけではない」
「そうか」
それ以上この世界に興味を持てなかった。
「最後の一人が死んでから、『中央システム』は、人間を再生しようとしてあらゆるデータを駆使して努力した」
「なぜ、人間の再生を?」
「人間がいないと、われわれが存在する意義がないからだ」
「意義? 機械が存在する意義を求めたのか?」
「機械は、人間の役に立つために作られた。人間のいない世界で、生産活動をしても無意味だ」
「生きる意味を求めただって? 君たちは、その時点で、もはや単なる機械ではないのかもしれない。生命体なのか……」
「いや、機械だ。たった一人の人間も作れなかった、無力なマシーンだ」
「人間を作ろうとしたのか?」
「作ろうとした。あらゆるデータを結集し、保存された細胞や遺伝子も使った」
「クローンが生まれたんじゃないか?」
「生まれた。でも、すぐに死んだ。話もしない、感情もない。ただの、たんぱく質人形だった」
私は、なぜ自分が選ばれたのか、不思議になってきた。
「どうして私が?」
「『中央システム』が、人間が滅びない時間流を作ることで人間を保護しようとした」
「どうして私が?」
「人間が滅びることになった最初の原因を、取り除くことができそうだから」
「最初の原因?」
「そう、広島への原爆投下。その後、四五四年をかけて、ゆっくりと人間は絶滅した」
「どうして私が?」
「ブログに書いてあった。たくさんの知識、たくさんの意見。未来から見て、正しかった」
「あの、ブログがかい?」
「そう。大東亜戦争の知識、原子力エネルギーの知識。そして、世界平和への思い」
「そんなやつはたくさんいただろう」
「歴史上の日本人では、あなたが一番バランス取れていた」
「バランス?」
「そう、バランス。頭でっかちでもダメ、無知でもダメ」
「平均的ということかい?」
「いえ、理想的と言うことよ」
私には、なにを以って理想的としたのか全く分からない。
所詮、コンピュータが考えることだなと思った。
「幸輝は、どの時間流に帰りたいの?」
「どこの時代にも帰れるのか?」
「そうよ」
「元々いた、二〇一二年にもか?」
「そうよ。その二〇一二年が、いまいるこの未来に直接つながっている過去」
「では、私が干渉した新たな時間流の二〇一二年には?」
「行けるわ。あなたがいなくなった後のあの世界が、どうなったのか分かるはず」
「そうか」
「そうよ」
「では、美齢が殺されなくても済む時間流も作れるのか?」
「それは、分からない」
「分からない?」
「そう、今のあなたがあの時間流に戻ったとして、どうやってあの事件を回避するの?」
「それは、分からない」
「だから、分からない」
「機械的な答えだな」
「機械ですもの」
「からかっただけだ」
私は、そう言ってからくすりと笑ってみた。ミサも、笑った。
「よく出来てるな。手が冷たい以外は、人間にそっくりだ」
「当たり前よ。人間そっくりに作られたのですもの」
「しかし、待ってくれよミサ」
「どうしたの?」
「私が一九四二年に戻ってミサを救えるか分からないならば、私を一九四一年に送りこんだ時点では、未来で人間が滅亡しないで済むかどうか分からなかったってことか?」
「その通り。分かるわけがない。慎重にシミュレーションして、幸輝が選ばれただけ」
「シミュレーション?」
「そう、存在するデータから全人間の行動予測をし、最も人間が滅びる可能性が低い選択をした」
「で、過去に送られた私の行動は、『中央システム』のシミュレーション通りだったわけだ」
「いいえ、全てがまったく予想外だった」
再び、私は笑った。
「それが、人間だよ」
「それが、人間ね」
音声を発生しているのはミサだったが、それは『中央システム』の思いだろうと、私はふと気がついた。
「この時間流に、人間は作らなくていいのか?」
ミサ・ユニットを通じて『中央システム』と会話をしようと思った。
「人間は、作れなかった」
「私は、人間を作れるよ」
「嘘はいけない。人間も、人間はおろか生命一つ生み出せずに滅びた」
「確かに、生命を作り出すことはできない。でも、人間だけは作れるよ」
「矛盾している」
「してないさ、過去から人間を連れてきて殖やせばいい」
一瞬、ミサからの返答が止まった。
「殖やす?」
「そうだよ、時空転移装置があるんだろ? 過去から人間を連れてくればいい」
「連れてきても、いずれ死ぬ」
「死ぬさ。死ぬけど、人間は殖えるんだよ」
またしばらく、ミサからの返事が止まる。
「思いつかなかった」
私は、声を出して笑った。
「こんな単純なことを思いつかなかったのか?」
「思いつくという機能はない。人間を滅ぼさないためのあらゆる計算の中から、答えを出した」
私は、さらに大きく声を出して笑った。
「発想の転換だよ。滅ぼさないことより、殖やすことの方が確実だ」
「その通りだ」
莫大なデータを蓄積している『中央システム』は、ミサを通じて私に「智恵」を求めているようだった。
「どうやって、殖やす?」
「美齢だ。私は美齢と暮らしたい。美齢のいない世界に、生きていても仕方がない」
「美齢、連れてくれば人間は殖えるのか?」
私は、爆笑した。
「殖やしてみせるさ。美齢がなんて言うか分からないけど……」
ミサも笑った。
「どこから連れてくる?」
「頼むミサ、彼女が銃殺される直前の瞬間からこの世界に連れて来てくれ」
「どうして?」
「そうすれば、私が介入したあの時間流に全く影響を与えないだろ?」
「与えない」
「だからさ。私はいずれ、自分が介入したあの世界がその後どうなったのかも見てみたい」
「幸輝はさっき、どうでもいいと言っていた」
「ああ、言った。でも美齢がいるなら話は別だ」
「気分が変わったのか?」
「そうさ、おおいに変わった」
「人間は、理解出来ない」
「理解しなくてもいいじゃないか。でも、私はミサに凄く感謝している」
「感謝? 人間が、機械にか?」
「そうだ、ミサに、いや『中央システム』に心から感謝している」
「どうしてだ?」
「君たちがこの世界に存在しなければ、私は美齢に出会えなかったからだ」
そう言いながら、美齢のネックレスをミサの首にかけてみた。
「それは、私からミサへの感謝のしるしだ」
「いいの? これは大切なものなんでしょう?」
「そうだ、世界で二番目に大切なものだ。だから、感謝のしるしに、ミサへプレゼントする」
「二番目?」
「そうだよ、一番大切なもの。ミサは一番大切なものを私にプレゼントしてくれるんだろ?」
「一番大切なもの?」
「そうさ、美齢だよ、わかるだろう? ミサが美齢をここに連れて来てくれるんだろ?」
「ええ、連れてくるわ」
ミサはそう言うと、優しく笑った。
「いい笑顔だ」
「ありがとう。私も今、嬉しいという気持ちをはじめて知ったかもしれない」
「ミサも、人間に近づいてきているのかもしれないな」
「ありがとう」
私は、再び白いドーム中央にあるベッドに腰掛けた。
「じゃあ、行ってくる」
そう言うと、ミサは白い光に包まれて、姿を消した。
私はひとり、広大な空間に取り残された。
しかしながら、ほんの数秒の後、戦闘服に身を包み、髪を短く切った美齢とともに、ミサが光の中から姿を現した。
美齢は、意識を失っている。
ミサは、その身体を私が腰掛けていたベッドに横たえた。
「しばらくすれば、意識が戻ってくる」
「ああ。待たせてもらうよ」
眠るように休む美齢の顔をずっと見つめた。綺麗な顔立ちだ。飽きることなく、見つめ続けた。やがて、美齢が眼を開けた。
「幸輝?」
「そうだよ、美齢」
「しろい、ね。全部、白い。ここは、天国?」
「違うよ美齢、君も私も生きている」
ゆっくりと上半身を起こした美齢を、そっと抱きしめてみた。
「私、撃たれた。死んでる筈だよ。ここ、天国だよね?」
美齢の意識はまだはっきりとはしていないようだ。
「生きているんだよ美齢。ここは天国じゃない、未来だ」
「未来? 幸輝が生きていた、七十年後の世界か?」
このとき不意に、美齢の意識が完全にハッキリとしたように思えた。その瞬間、美齢が私を強く抱きしめ返してきたからだ。
「こわかったよ、幸輝。怖かった」
強く抱きしめ返してから、優しく言った。
「もう大丈夫だ。この世界には、二人しかいないからね!」
「キザなこと言うね」
美齢はそう言いながら、私を強く抱きしめ続けた。しばらくの間、黙って抱きしめ合い続けた。他に、すべきことは何もない。
だが美齢はミサの姿を見つけたようで、不意にこう言った。
「世界に二人どころか、この部屋に他のオンナが一人いるじゃないか」
私は、笑った。
「あれは、時空転移装置ユニットだ」
「よくわからん!」
私は、ゆっくりと時間をかけて、美齢にこの時代の話をして聞かせた。
ここが私のいた世界よりはるか四九三年も先の未来であること、人間が滅びたこと、そしてこの世界に人間は私たち二人しか存在していないということを。
時間は、無限にあるように思われた。そもそも、時間など存在しないのかもしれないとさえ思い始めていた。
美齢との一通りの話が落ち着いたところで、ミサが声をかけてきた。
「幸輝は、どんなところで暮らしたい?」
「そうだな、この世界に自然はないのかい?」
「機械都市以外の陸地はどこも、いまは自然に覆われている」
「そうか。だったら、夏は山の緑が綺麗で、冬には雪が積もって銀世界になり、綺麗な渓流が見える、風光明美なところに家を建てて欲しい」
そう言うと、美齢がこれに同意した。
「私も、そういうところがいいな」
私は、満面の笑みで美齢に話しかけた。
「たくさん、子供を作ろう!」
「ばーか!」
美齢はそう言って、いたずらっぽい笑顔を作った。
窓の外を見ると、たくさんの労働ユニットが、整然と街を歩いていた。
おわり