帝国陸軍入隊
第二章 開戦
1
寒さが襟元から侵入して身体全体が震えあがる。
掌からは、彼女の感触と体温だけでなく、魂の一部が伝わってくるように思え、かつて経験したことのない幸福感が胸のあたりを満たしている。
人間の幸福というものは、かくも単純でありふれたものなのだろうか。
「この瞬間が、永遠に続きますように」私は何回も、脳内でそう念じ続けていた。
美齢は、果たして同じような充足感を感じているのだろうか?
拒絶こそしていないが、彼女は何も語らず、茫然と前方を見つめているだけだ。会話も無いまま黙々と並んで歩を進める。
「この手を離した瞬間から、運命は急転回をはじめるだろう」という予感が支配し始めていた。幸福の次に待っているのは、はたしてどのような「未来」なのだろうか。過去の時間にあって、私は「未来」に不安を覚えていた。「過去にある現在」に生きていることを自覚せずにいれなかった。人生とは無限なる現在の連続に過ぎず、死の瞬間までそれは続いていくのだ。
静かだった。
街の人たちは、やがて東京を焼き尽くす大空襲など知る由もなく、ゆっくりと行き交っている。それは、私にとって風景に過ぎなかった。美齢と時間を共有していることが、私にとって現在の全てだ。
やがて、世田谷警察若林庁舎の入口が見えてきた。
私たちは、結局何ひとつ口を開くことなく、ずっと歩き続けてきた。会話こそ交されなかったが、この数十分の間に、私は美齢と何かが通い合った確信を抱いていた。
「じゃあ、行ってくる」
そう言って、私は美齢の瞳をそっと見た。
彼女は、私の手を軽く握ったまま、相変わらず黙りこんでいる。
眼光はいつもと変わらぬ冷徹な静けさを保っているが、その奥深くには、異質な感情が湛えられているような気がした。
「再見」
美齢は、綺麗な発音で、ただそうとだけ言った。
これが最後の別れになるのではないかという恐怖が、忽然と心の中を支配する。
私は、今一度、美齢の姿を見た。
知り合って、まだ数週間しか経過していない。愛情を育むような会話は交していなかったし、触れ合ったのもほんのわずかな時間に過ぎない。にもかかわらず、不思議なほどに強い愛着が、しっかりと根を張っている。愛情というものは、時間をかけて育まれるものではなく、出会いとともに爆発するものなのだろうか。
私は、気持を振り切るようにして、さっと手を離した。
「出頭してくるよ。元気で、美齢。ずっと、元気で」
意識して、「さよなら」は言わなかった。そして、着ていた柳田のコートを脱いで美齢に手渡した。
そして、一度も振り返ることなく、一直線に警察署に向かった。
出頭を申し出ると、応対した門番の制服警官によって、取調室に連行された。部屋に入るとすぐさま紫色のダウンコートを没収され、木製の椅子に座らされた。取調室まで連行してきた若い制服警官はただ「しばらく待っていろ」とだけ言って席を外し、私はそのままひとりで取り残されることになった。
だが、いくら待っても、誰もやって来ない。見回しても、めぼしい装飾品や備品が何一つなく殺伐としていて、観察すべき対象を探し出すことができない。思考のきっかけが与えられない空間に放置されることは、十分に拷問と呼ぶに足る。
何事も起きない時間は恐ろしいまでにゆっくりと進む。体感的に三時間以上に思われたが、おそらく実際には一時間前後経過したと思われる頃、白髪が混じった、いやむしろ白髪に黒髪が少々あるだけの初老の刑事が扉をノックすることなく、不躾に入室してきた。と、それに続いて、門番とは違う制服警官が無言で入って来て、後ろ手に乱暴に扉を閉めた。扉がそのまま砕け散ってしまいそうな、激しい軋み音が響いた。
「あっ」
私は、その制服警官の姿を見た瞬間に、声を漏らしてしまった。その男は、私に暴行を加え、松山が後頭部から殴り倒した、あの警官だった。
まずは背広を着た白髪の刑事が正面に腰をかけ、制服警官は、その背後に険しい形相を浮かべながら仁王立ちした。
まず、白髪刑事が、ゆっくりと落ち着いた口調で尋問をはじめた。
「後ろの警官、見覚えがあるだろう。名前は清水巡査長、君たちに暴行を加えられて負傷した警官だ。まず、君にかけられている嫌疑は、この警官に対する暴行致傷罪だ」
面倒なことになった。だが、この件に関し、ありのままの真実を語るしかない。信じてもらえるよう、細心の注意を払いながら。もし信用を勝ち得ることができなければ、未来からやってきたなどという突拍子のない話が信憑性を持つ筈もない。
「私は、彼を殴ってはいません。敢えて言えば、彼から一方的に殴られただけです。そして、彼を殴り倒した人間を、私は知りませ……」
私が言い終わらぬうちに、清水巡査長が怒号をあげた。
「何を言うか、この支那人! この期に及んでシラを切るつもりか? オレを殴ったのは、貴様の同志だろ? 本当のことを言わなければ、痛い目に遭うことになるぞ」
いまにも、飛びかかってきそうな勢いがある。
「まあ、落ち着け清水巡査長。まずは、彼の話から聞こうじゃないか。え? わざわざ自首してきたのだから、何か理由があるのだろう」
白髪刑事は、あくまで落ち着いていた。
私は、臆せず真実を伝えようと思った。それ以外に、状況の打開策は思い浮かばない。
「自首したのではありません。清水巡査長の件に関しては、全く無実です。彼を殴り倒した人間、本当に知りません。僕は、この先日本が迎える破滅の未来を知っています。それを警告し、時間の流れを変えたくて、この警察署に来たのです。山本五十六聯合艦隊司令長官と直接話がしたいと思っています。話を、聞いて頂けないでしょうか?」
清水巡査長は、眉間に皺を寄せながら、こいつは気狂いではないかという表情を顕わにした。白髪刑事は、平静さを保ちながら言った。
「申し遅れたが、私は柏原と言う。まずは、君の名前を教えてくれないか? 住所と生年月日も頼む」
私は、ちらりと清水巡査長の顔を覗き込んでから、柏原に向かって応えた。
「柏原さん、私は高杉幸輝と言います。世田谷区の北沢に住んでいましたが、それは遥か未来の話で、いまは、住むところがありません。生年月日は、昭和六十三年七月二十七日です」
堪え切れずに、清水巡査長が私の襟首を咄嗟に絞り上げ、大声を張り上げた。
「貴様っ! 愚弄するのもほどほどにしろっ!」
言うが早いか、私を床に投げ出してサーベルを抜き、切っ先を喉元にあてた。
私は、ただ清水を睨みつけるのがやっとだ。その反抗的な表情が、さらに清水を激高させたようだ。
清水はサーベルを投げ出して再び襟口を絞り上げながら私を立ち上がらせると、躊躇なく腹部を力いっぱい蹴り上げた。
「おわっ」と短く呻きを上げて、私はその場にうずくまった。
「やめろっ、清水巡査長! 君には、黙って後ろに立っていろと命じたはずだ!」
柏原が間髪いれずに命じると、清水は渋々後ろに引き下がった。
「すまんね、高杉さん。こいつはどうも短気でね」
清水は、前にもまして激しい顔つきで私を睨み続けている。柏原が席をはずせば、私を撲殺しかねない。
「貴様、本当のことを言え! 何年生まれだ?」
清水は、悔しそうな表情のまま、後方から大声で尋問した。私も、ムキになって清水に怒鳴り返した。
「同じことを言わせるな、昭和六十三年だ。服装を見て分からないか? この運動靴も、見たことの無い形状だろう!」
清水に対する反感はどうにも拭えなかった。私を一度ならず二度までも蹴りあげた人間だ。これ以上、清水に何かを話す気にはなれなかった。したがって、柏原の顔を見てから靴を脱ぎ、彼にナイキのスニーカーを差し出した。
「見てください!」
柏原は手を横に振って、見なくてよいというジェスチャーをした。
「見る必要はない」
「なぜです、柏原警部。この支那人の言うことを信じるのですか?」
清水は、不満そうである。
柏原は、入室時から左手に握っていた私のダウンコートを、机の上に広げた。
そして、ポケットから財布を取り出した。
「君が出頭してすぐ、このコートを没収させてもらった。そして、君を待たせている時間に、にいろいろと調べさせてもらったよ」
そう言いながら、財布の中身を少しずつ机の上に出していく。清水はその中から茶色い硬貨をつまみ上げ、まじまじと見てから言った。
「なんだこれは? ⑩、昭和六十年?」
ひとり言のように呟いた清水に、柏原は言った。
「裏面を見てみろ」
「日本国、十円……」
清水は、読み上げた瞬間からバカ笑いをはじめた。
「ははは、さすが支那人だ。馬鹿げている。十円硬貨など日本には存在しないし、いまは昭和十六年だ! お粗末な偽造硬貨だな!」
その顔つきには、私を蔑む気持ちがありありと浮かんでいた。
「バカなのは、お前だ。清水巡査長!」
そう言ってから、柏原はさらに続けた。
「偽造硬貨であれば、実在しないものを作る筈がない」
「では、これは……」、清水が呆気にとられたように柏原の顔を覗き込んだ。
「本物かもしれん。偽造硬貨に、わざわざ四十四年後の年号を打ち込むと思うか? しかも、国号も大日本ではなく、日本国に変更されている。さらに、存在しない高額硬貨を鋳造するのも辻褄が合わない。ほら、こっちも見てみろ……」
そう言って、今度は百円硬貨を清水に手渡した。
「なに、百円? 平成十二年? 何だこれは!」
清水は、鋭い視線を私に差し込みながら、またしても大声を上げた。
私は、激しく痛む腹部を抱えこみながら、ゆっくりと椅子に座りなおして応えた。
「天皇陛下が崩御され、昭和は終わりました。そして、明仁殿下が即位され、新時代の年号は平成となったのです。私は、その時代からやってきました。西暦二〇一二年、皇紀二六七二年から」
清水巡査長は、黙したままその百円硬貨を眺め始めた。
柏原警部は、さらに紙幣を出して、今度は私に向かって話しかけた。
「鑑識が言うには、この千円札は実に精巧に出来ているそうだ。現在の技術では、ここまで精緻な印刷は不可能らしい」
そして続けて、今度は机の上に免許証を置きながら言った。
「この小さな運転免許証には、君の顔が印刷されている。ここには、氏名の横に昭和63年7月27日と、確かに記載されている。先ほど君が言っていた誕生日と一致している」
清水は、ただただ呆気にとられていた。
「すると、柏原警部は、こいつの言うことを信じるのですか? 未来からやってきたという突拍子もない話を」
「信じるも何も、こうして実在しない筈の貨幣や免許証が存在する以上、事実として認める方が合理的だと思わないか。犯罪目的の偽造なら、実在する貨幣を鋳造するのが道理だ」
しばらく、静寂が空間を支配した。
清水は、不服そうな表情であったが、眼前の物証に対して他の解釈を与えることが出来ない様子だ。ゆえに、柏原警部の判断を受け入れざるを得ないようだった。
「貴様、本当に未来の日本人なのか?」
私は、気狂いにされるのをなんとか回避できたようだ。そう思うと、少しだけ精神的なゆとりが生まれ、出てくる言葉もやわらかく、落ち着きあるものに変わった。
「そうです。私は、未来からやってきました。だから、間もなく日本が対米宣戦布告することを“歴史”として知っています。そして、それがどういう結果に繋がっていくかをも……。だからこそ、軍、或いは政府の首脳部と話をしたいんです。でも、どこからどうやって良いのか分からず、まずは近くの警察署に話しに来たんです」
清水は、もはや暴力を振るう様子はなかった。
そして、柏原が清水に向かって言った。
「非常に面白い話だと思わないか。我々は、この高杉という男を尋問することもできる。あるいは、不穏分子として、陸軍憲兵に身柄を渡すこともできる。だがもし、この男が本当に未来からやって来たのだとしたら、憲兵に渡すのは不都合だと思わないか? やつらが、彼の言うことを信じるとは到底思えない。理不尽だからね。ここは、憲兵にではなく、だれか賢明な政治家に引き渡した方が良いような気がするんだ。まあ、上に事情を話せば、適当な人物につないでくれるんじゃないだろうか」
清水は、どうにも腑に落ちないと言う風であったが、柏原の言うことには同意した。
「ありがたく思えよ。貴様のような正体不明の男が、希望どおり政治家に紹介してもらえるそうだ」
「しかし、柏原警部……」、清水は柏原に向き直って言った。
「誰が適当な政治家を選んで、どうやって連絡を取るのですか?」
柏原は、笑った。
「なに、彼と同じくこちらも出たとこ勝負さ。日本を救うために未来から青年がやってきたと真顔でお上に報告すれば、お上がそのまたお上に報告して、そしてまたそのお上に報告して、いずれは然るべき人につながるだろうって寸法さ」
そして、私の方を向いて言った。
「物証として、しばらくこの財布を預かることになるが、いいね。どうせ、この世界じゃ使えない金だ」
私は黙って頷いた。
清水は、笑っている柏原に真剣な表情で尋ねる。
「政府の誰かに連絡が辿りつくまでの間、こいつはどうするのですか? 住むところはないと言っています。いままでどこにいたのかは知らんが……」
柏原は、いつもの落ち着いた口調で言った。
「失踪されても困るしな。君に対する暴行罪の嫌疑が完全に晴れたわけでもない。ウチには留置場があろう? しばらくはそこに、放り込んでおけ。罪状は、公務執行妨害とでもしておけばいい」
「え?」、私は愕然とした。だが、苦情を申し出る先はない。ここは、覚悟を決めて、牢に入って次の展開を待つしかないのかもしれない。
清水巡査長はニヤニヤとしながら、嬉しそうに私に手錠をかけた。悔しかったが、抗う術はない。私は、おとなしく留置場まで連行された。
「まあ、ゆっくりしていきな」
そう嫌味を言うと、清水はしっかりと留置場に鍵をかけて去って行った。
冷たく暗く、静まり返った独房に、私は取り残された。
2
黒々としたシミが不気味な模様をなす天井と壁面、そして漆黒の鉄格子以外に視界に入るものはない。暇を潰すためのテレビやゲームが存在しないのは勿論、本や雑誌さえ与えられなかった。一分が永遠に感じられるほど時間が流れを緩やかにしていた。その日は、看守が簡素な食事を届けに来た以外、だれも訪れなかった。
さらに悪いことに、翌日も誰もやって来なかった。
閉所に拘束されると、心も狭くて暗い場所へ幽閉されてしまう。頭の中では、何度も同じ思考が繰り返される。しかもそれは、回を重ねるごとに、よりネガティブでより絶望的な色彩を強めていった。
「行方不明になった松山は見つかったのだろうか」「憲兵に連行されて拷問され、殺されてしまったに違いない」「松山が殺されるまでに、苦痛に耐えかねて柳田や美齢のことを洗いざらい話してしまった」「美齢もいま、憲兵に拷問されているのではないか」「美齢も死んでしまったのではないか」「柏原警部は、本当に上層部に報告したのだろうか」「その上層部は、政治家に私のことを話しただろうか」「きっと、話がこの警察署内のどこかで止まってしまったのだ」「いや、清水が柏原警部に猛烈に反対して、結局私の存在は誰にも知らされていないのではないか」「私も、松山や美齢のように、抗日パルチザンとして処刑されてしまうのではないか」
何一つ、楽観的な推測は生じなかった。
その翌日も、何も起きなかった。
ただひとり、暗い独居房に取り残されている。いつの間にか、私は自分が本当に重大犯のような気がしてきていた。
だが、どう考えても、私には何の罪もない筈だ。
「警察に出頭したのは、軽挙妄動だったのだろうか」「柳田の家でじっと身を潜めて時の流れに身を任せていればよかったのだ」「殺される」「元の世界に戻りたい」
後悔と不安が交互に現れてはやがて交錯し、その渦が勢いを増して、いまにも頭蓋骨から飛び出してきそうだった。
ほどなく絡み合った思考が爆発し、四方に飛び散って、頭の中が空っぽになった。すると、時間の流れが速さを取り戻した。
そうして、幾日かが過ぎ去った。日付の感覚は、完全に失われてしまった。ある日、若い制服警官がやって来て、留置場の鍵を開けた。
「来い」と言うのが聞こえた。私は、ただ彼の後を追った。窓から差し込んでくる陽光によって意識が戻って来た時、私は取調室の椅子に座っていた。
正面には、表情から完全に感情を抹殺した柏原が、一人で座っている。
「長く、待たせたね」
私には、苦情を言うだけの精気は残っていない。黙したまま、柏原の次の言葉を待った。
柏原は、前回会った時より、はるかに寡黙だった。それが、威圧感を醸し出している。
「君は、移管される。なにも、説明はできない。準備をしたまえ」
「準備?」
状況が、全く把握できない。
私が茫然と空間を見つめ続けていると、柏原が「ついて来い」と言って歩き始めた。取り調べ室の扉のあたりで、いつからそこにいたのか、見たことのない制服警官が、私に風呂敷包みを渡した。
「これは?」と尋ねると、柏原が「着替えだ」とだけ言った。開いてみると、作業服のような簡素な衣装が綺麗に畳まれていた。私は促されるがまま袖を通し、何日間か着続けていた二十一世紀の服を、替わりにその風呂敷に包んだ。
着替えが済むと、柏原は私の半歩前を歩いて、迷うことなく警察署を出た。そして、そのまま街中を歩き始めた。目的地は決まっているようで、路地を右に左へと進んでいく。
しばらく歩き続けると、柏原は銭湯の前で立ち止まった。
「風呂に入ってこい。身体を清めて、綺麗に身支度してから出てくるんだ。時間は、三十分以内」
強い命令口調でこそないものの、必要最低限の伝達事項以外は一切何も口にしない。
私は、ただ彼の言葉に従うしかない。逃亡しようという考えは、沸き起こって来なかった。
桶に湯を注ぎ、頭の上から浴びた瞬間、生命が再び身体の中に蘇ってきたように感じた。
身を清潔にすることは、心を清めることに通じているかもしれない。
それから、湯船に頭の先端まで浸かった。鼻だけを水面上に出して、後頭部を湯に沈めたのだ。
耳が湯で塞がれ、外界の音はすべて遮断された。湯船に注ぎ込む水音だけが、耳の奥深くで響いている。やがて安らぎに包まれて、疲れ果てた心身が癒されていくのが分かった。
身体を丹念に拭いて、簡素な服装に身を包んで銭湯を出ると、暖簾の向こう側に柏原が寒そうに震えながら立っていた。後ろには、黒塗りのトヨダAA型乗用車が停まっている。
「どうだった」と訊かれたので、「とても気持ち良かったです」と素直に言った。
「そうか、よかったな。じゃあ、行ってこい」
柏原は、車の方を指差した。
「柏原さんは行かないのですか?」
「ああ」
それ以上、何も言わない。私は、柏原と別れる前に、松山のことを訊きたかった。
「松山卓という十八歳の少年が十七日に逮捕されませんでしたか?」
しばらく考えた後、柏原は言った。
「少なくとも、世田谷警察にはいないな」
「そうですか」
会話を終えた頃、黒塗りの自動車から軍服の兵隊が降りてきて、私に声をかけてきた。
「高杉幸輝さんですね。お乗りください」
言葉づかいは丁寧だったが、軍服姿に圧倒された。軍人と話すのはこれが生まれて初めてだ。
軍人には聞こえないような小さな声で、横にいる柏原に訊いた。軍人の腕には、「憲兵」と書かれた腕章がしっかりと見えたからだ。
「憲兵に、渡されるのですか?」
「そうだ。どこに連れて行かれるのかは、私も知らない」
柏原は、憲兵には渡さないと言っていた筈だ。
「どうして……」
そう小さな声で漏らした私に、柏原は言った。
「分からない」
ここまできたら、なりゆきに身を任せる以外に手はない。私は、覚悟を決めた。
「ありがとうございます」
そうとだけ答えてから、柏原に軽く会釈をした。
憲兵は、観音開きの扉を開けて後部座席に私を座らせると、自分は運転席についた。車は、西に向かって粛々と進み始めた。
3
車は幹線道路をしばらく走ると、人影まばらな閑静な住宅街に入り、路地を左右に曲がりながら窮屈そうに進み続けた。空は薄い雲に覆われていたが、正午近くなので陽が高く、周囲の景色は明るさを帯びている。そのやわらかい光景が、陽の届かぬ独房に慣れた私の眼球を、徐々に光に馴染ませた。「果たして、今日は何日なのだろうか」。明暗の変化がない空間が、すっかりと時間の感覚を奪っていた。
運転手の憲兵はずっと無口だったが、私は勇気を振り絞って彼に尋ねてみることにした。
「今日は、何日でしょうか?」
「十一月二十五日火曜日です」
憲兵は、そっけなく質問にだけ答えた。再び、エンジンの音だけが小さなキャビン内に響き渡る。
沈黙を保つ憲兵の背中が、眼前にある大きな岩のように感じられた。
二十分ほどの行程の中で、これが唯一交された会話だった。
程なく車はありふれた一軒家の前で停まり、憲兵が先に降りて外側から観音扉を開けた。
「降りてください」
そして、私が降車すると扉を閉め、こちらに目配せすることも無く、眼前の家の石段を数段上り、玄関前に直立した。その家は、横方向に広い庭を構えているが、決して邸宅と呼べるような豪華な造りではなく、極めて一般的でごく質素な構造をしていた。
憲兵は、玄関口で引き戸を二度叩いた。すると、数秒も待たないうちに扉が開いた。
陸軍士官の制服姿で玄関から現れた男は、丸メガネを鼻に載せ、坊主頭と髭が特徴的な、個性的な顔立ちをしていた。私は、この特徴を持った男を、何人も見たことがあった。正確に言うと、この男を演じる俳優たちを、幾度となく映画やテレビドラマで見てきた。神経質そうな表情で演じられる男、その張本人が、手を伸ばせば届くところで呼吸をしている。呆気にとられてしまい、声が出なかった。なんと挨拶してよいのかさえ、思いつかない。
まさか、いきなりこの男が出てくるとは……。独房で過ごした一週間は、無駄ではなかった。
茫然と彼の顔を見つめたまま立ち尽くしていると、甲高い声で演説するイメージに反し、その男は静かに言った。
「高杉幸輝くんだな。こんにちは。私は、東條英機だ。君の話は聞いている。入りたまえ」
憲兵は、深く一礼をすると、数歩後ずさりしてから車の中に戻っていった。
東條英機、大日本帝国の内閣総理大臣にして陸軍大臣。戦後、聯合国軍最高司令官総司令部GHQによって行われた東京裁判では、太平洋戦争突入を決断した最高責任者としてA級戦犯とされ、絞首刑に処された人物だ。連合国からは、イタリアのムッソリーニ、ドイツのヒトラーと並んで枢軸国日本の独裁者として宣伝された。
予期せぬ東條の登場に、正常な思考回路に脳波が伝達されなくなったようだ。私が次にとった行動は、自分でも予期しないものだった。
私はほぼ反射的に背筋をぴんと伸ばして、敬礼をしていた。
「東條閣下、御尊顔を拝し奉り、誠に光栄であります」
目を伏せながらなんとか挨拶の一声を発したものの、次の言葉が見つからず、冷汗が噴き出し始めた。そして、全身が震えていることに気がついた。
意外なことに、東條は屈託なく笑った。
「七十一年後には、民間人も敬礼で挨拶するのかね?」
なにも応えられなかった。敬礼したのは、映画やテレビドラマで刷り込まれたステレオタイプな軍人の真似事に過ぎない。だが、一度その役柄を演じる回路が起動してしまうと、それに続く言動も自然とその影響を帯び続けた。
「いえ、敬礼はしないであります」
直立して、大きな声で返答していた。
東條は穏やかな表情を浮かべ、私の緊張をほぐそうと努めている様子だ。
「高杉くん、まあ気を楽にしたまえ。軍人ではないのだから、普段通りで一向に構わない。とにかく、中に入ったらどうだ」
私は、東條の先導で応接間に通された。大きなソファがまず目について、そこに座るよう促された。
国家元首とその自宅で向かい合っている状況は、私にとっておよそ現実離れしたものだ。ましてや、それがあの東條英機となれば、夢より遥かに非現実的だ。
口を開くことさえできず、ただ意味も無くテーブルを凝視し続けるだけの私に対して、和装の夫人がお茶を運んできた。夫人は好奇心を隠そうともせず、上から下まで私を舐めまわすように観察している。
「勝子、外せ」
東條がそう言うと、夫人はお盆を持ってすぐさま部屋から出て言った。
「しかし、奇妙なものだ。七十一年も未来の若者と話すというのは」
私は、極度の緊張感のため声帯が強張り、何ら発声することができない。タイムトラベルなどという突拍子もない話を、なぜこうもあっさりと東條が信じているのだろうか。疑問が渦巻いたが、声はおろか、吐息さえも洩れ出してこない。喉のあたりに意識を集中し、ようやく短い言葉を発することができた。
「信じて、いただけるのでしょうか?」
東條は口を大きく開けて、笑い出した。
「はははは、時間旅行のことか。信じるわけがないだろう」
私は、息をのんで東條の話に聞き入った。
「だが、君の所持していた紙幣、硬貨、そしてその他、着用していた衣服や靴。そのどれもが、現時点の常識では説明不可能なものばかりだった。時間旅行など俄かには信じられないが、未来のものだという君の主張が、最も合理的なだけだ」
東條は、お茶を一気に飲み干すと、今度は急に真剣な表情になった。
「高杉くんは、未来から来たのだろ。であれば、私の前でそれを証明することはできるか?」
圧倒的に気押されてはいたが、質問に答えなければより失礼にあたるという焦りが生じ始めている。しかしながら、不用意な言説は東條の気に障るだけかもしれない。恐怖が先に立って、自然、必要最低限の回答になる。
「証明、できます」
「では、頼む」
「ここでは、何を話しても安全でしょうか?」
私は、首を回してあたりの様子を窺った。
「何でも話せるよう、三宅坂の陸軍官舎ではなく、わざわざ用賀の自宅に招いたのだ。なんなりと、言いたまえ」
「……」
しばらく考えて話をまとめ上げてから、 私は少しだけ長時間の発言に至った。
「明日、米国のハル国務長官から日米交渉回答文書が届く筈です。その内容を最後通牒とみなした我が国は、十二月一日の御前会議で対米英戦争開戦を決議します」
東條は、少し身を乗り出して声を大きくした。
「それでは、少なくとも明日までは証明にならん。いまここで、証明できることはないのか?」
私は、即答をためらった。歴史を左右し得る人物に知識を与えることは、未来を変更する行為に他ならない。だが一方で、私がここにこうして東條と対面している時点で、すでに別の時間流に入ってしまっていると考えられる。まだ大きな差異こそ生じていないだろうが、確実に別の歴史が刻まれているのだ。であれば、覚悟を決めて別の未来の中に進むしかないのではないか。そう思い、私は大きく流を変えることのない最小限度の範囲で、東條に伝えるべきことを伝えようと決めた。
「現在、択捉島単冠湾に南雲忠一海軍中将率いる第一航空艦隊が集結しているはずです。空母は『赤城』、『加賀』『蒼龍』『飛龍』『瑞鶴』『翔鶴』の六隻。航空戦闘力として、零式艦上戦闘機、九九艦爆、九七艦攻をもって、ハワイオアフ島真珠湾を奇襲せんがためです。時を合わせて、山下奉文陸軍中将率いる第二十五軍が英領マレー半島北部コタバルに上陸。米英に対し戦端を開くでしょう」
東條は、黙した。
しばらくの間、応接室の中は宇宙空間のごとき「無」を感じさせる静寂に包まれた。
作戦に関わるごく一部の将校だけが知り、兵卒の誰にも知らされていない極秘作戦行動を、私は知る限りの史実を引っ張り出して答えたつもりだ。東條は、静寂の宇宙の中で眼を閉じて、さらに内なる宇宙に閉じこもってしまったようだ。
その東條が、ようやく口を開いた。
「君は、私の味方か?」
私は、回答に困った。東條は、日本を戦争の泥沼に引きずり込み、三百万以上の日本人を死の道に進ませた男だ。それだけではない。日本軍が戦闘を行ったアジア各地では、現地の人間や連合国兵士が数百万人も犠牲になっている。私は、骨の髄まで平和主義が染みついたような男だ。戦争責任者の味方であるはずがない。しかし、東條にそう言える筈もない。
「私は日本人ですから、もちろん閣下の味方です。真の大東亜共栄圏を確立せんがため、尽忠報国の精神で努める所存です」
私は、あらぬ誤解を生まぬよう必死で言葉を選びながら話した。それゆえに、本当に伝えたいことは何一つ説明できなかった。私の主張の要点は、「真の大東亜共栄圏確立」という部分にある。暗に、東條の目指す大東亜共栄圏は「まがいもの」であるとの批判を潜ませてあるのだ。私の考える「真の大東亜共栄圏」とは、支那・台湾・韓国を含む全てのアジア各国が主権国家として独立し、日本が東亜各国と共存共栄を図ることを意味している。支那に領土を拡大し、アジア各国の経済的利権を欧米各国から巻き上げることを意味してはいない。つまり、東條をはじめとする軍部、政界、財閥とは対極をなすであろう目的をもつのが、私の考える「真の大東亜共栄圏」なのだ。したがって、現在軍部や政府が抱いている大東亜戦争遂行目的に協力するつもりは一切ないのだが、東條にそこまで詳細に説明することはできない。彼は、批判を容認する人物には到底思えなかった。
しかし、その東條から意外な言葉が漏れた。
「高杉くん、陛下は避戦を望んでおられる。交渉による時局の打開を、心から望んでおられる。米国と戦火を交えずに解決する余地はないものか……」
意外だった。一般国民、そして新聞・ラジオでの対米開戦論の盛り上がりを余所に、東條はこの期に及んでまだ、和平の可能性を探っていたのである。
「陛下が戦争を望んでおられなくても、ルーズベルト大統領は日本との開戦を心待ちにしています」
私がそう言うと、東條はまたしても静かに目を伏せた。
「わが国民も、米国への宣戦布告をいまかいまかと待ちわびている。もはや、開戦は避けられないということか」
東條は、独り言のようにそう漏らすと、公務があると言って席を立った。
「高杉くん、君にはまだまだ訊きたいことがたくさんある。帝國のために、色々と役に立ってもらいたい。そこでだ、永田町の首相官邸敷地内にある仮公邸『日本家』に当面居を構えてもらえないか? 手筈は整えてある」
私は唐突な申し出に驚きを隠せずに言った。
「閣下、私ごときが永田町の公邸に?」
東條は、時間がないから簡潔に、と前置きしてから続けた。
「詳しいことは、後々話そう。考えても見たまえ、高杉くんは国家の機密、そして未来を知る存在だ。そんな人間が、街中でうろうろしていては、どのような情報が漏洩し、誰に利用されるか分からない。場合によっては、国家を危機に陥れることもありうる」
「つまり、永田町の公邸『日本家』に監禁されると言うことですか?」
東條は、神経質そうな皺を眉間に寄せた。
「監禁とは、聞こえが悪い。同胞として、役に立ってもらおうと言うのだ。国家の最高機密を共有するわけであるから、当然、それなりに暮らしてもらわねばならん。そういうことだ」
「閣下と、ともに暮らすと言うことでしょうか?」
そう言うと、東條が再び表情を和らげて、穏やかに答えた。
「私は、三宅坂の陸軍官舎に起居しておるから、『日本家』は君だけの住居だよ。好きに使ってくれ」
それだけ伝えると、東條は忙しそうに部屋を出て行ってしまった。私はしばらくソファの上に残されたが、間もなく先ほどの運転手がやってきて重い口を開いた。
「永田町まで、お送りします。当面の生活物資は、整えてあるのでご心配なく」
最早、東條の進言通りに行動する他はない。いや、東條の決定は進言などではなく、命令と呼んで差し支えない強制力を備えている。私は、黙って憲兵の背中を追って歩き、車の後部座席に腰をおろした。
脳裏には、美齢が「再見」と私を見送る姿ばかりが浮かんでくる。彼女に、会いたい。無事であることを伝えたい。しかし、彼女がどこに住んでいるのかを知らない。知っているのは、世田谷の柳田邸に出入りをしているということだけだ。とすれば、真っ先に、世田谷に向かいたかった。美齢も、きっと私の身を案じていることだろう。松山は、釈放されたのだろうか? 私は、「まず世田谷に向かってください」という言葉を喉元に留めながら、運転する憲兵の方に視線を向けた。
憲兵は変わらず無口で、聳える鉄の壁のような背中を向けている。しかし、東條邸に向かう時と違い、少しだけ背中が丸まって見えた。首相公邸に送り届けられているという事実が、私をして大きな気分にさせているからだろう。しかし、喉に込められた思いは、口から放たれることはなかった。
今は、東條の指令に盲従することが賢明だ。少しでも反抗的と解釈されてしまえば、せっかく東條にまで辿りついたというのに、国家の中枢へ意見する機会が失われてしまう。
いましばらく、様子を見るしかない。美齢に会いに行くのは、もう少し東條の信頼を取りつけてからだ。胸の中心あたりで小さな焔を上げる恋心に蓋をして、沈黙を守り続けた。
それにしても、世田谷警察に駆けこんだことで、どうして内閣総理大臣東條英機が出てくることになったのだろう。それだけが、解せなかった。激しい路面からの突き上げに耐えながら後部座席で沈黙していたが、そのことをどうしても解明したくなり、運転する憲兵に声をかけた。
「すいません。どうして、東條閣下が私などに目をかけてくださるにいたったのでしょうか? 警察で拘束されていただけなのに……」
憲兵は振り向きもせず、前方を凝視したまま、まるで台詞を録音再生したかのように淀みなく単調に言った。
「東條閣下は、内務大臣を兼務しておられます。警察は、その内務省の管轄下にあります。ゆえに、警察での重要報告事項はすべからく東條閣下に伝達されます」
細かった記憶の糸を辿って瞬時に理解した。東條英機は、内閣総理大臣と陸軍大臣のほか、内務大臣も兼務していたのだ。陸軍の憲兵も、内務省の警察も、すべての警察諜報権力を、東條が最高責任者として握っている。
4
翌十一月二十六日午前八時、昨日運転手をしていた憲兵が、日本家に訪ねてきた。彼は玄関口に立って、名乗ってから話をはじめた。
「高杉准尉、私は高橋と申します。参謀本部への出頭命令です。こちらをお召しになって、すぐに出発ください」
そう言うと、高橋は准尉の階級章のついた陸軍将校制服と制帽を私に手渡した。姿見の前で着用してみると、映った軍服姿の男は、別人のように精悍だ。そのまま高橋が運転するトヨダAA型乗用車に乗り、市ヶ谷に移転して間もない参謀本部へと向かった。
小さな会議室に通されると、黒い眼鏡をかけたひとりの陸軍将校が立っていた。
「高杉幸輝准尉、そこに座ってくれ」
「失礼します、辻政信中佐」
反射的にそう答えると、辻は笑顔を見せて言った。
「ほほう、私のことを知っているのかね?」
「存じております」
私は、明瞭簡潔に返事した。実のところ、私は東條英機同様、いやそれ以上に、この辻政信という人物に恐怖を感じていた。戦後まで生き延びて衆議院議員も務めたこの男には、数々の猛将伝説がある。
ソ連軍と交戦したノモンハン事件では、捕虜交換で無事に戻ってきた将校に自殺を強いた。占領したシンガポールに潜伏する華僑(中国人)抗日分子を大量虐殺した。激戦のガダルカナル島で敵状把握しない作戦に兵を過少投入した揚句、自身はマラリア罹患を理由にいち早く撤退。覚えているだけでこのような残忍かつ冷酷、独善的なエピソードがある。
目の前にいる辻政信は、そうした先入観と違わぬ、ある種の近寄りがたさを自然と発している。顔を見ているだけで冷や汗が流れ始めた。
「東條閣下の計らいで、君は士官見習いとして『准尉』階級に列せられることになった。以降、帝國陸軍将校として恥じぬよう、行動したまえ」
帝國陸軍将校としてと言われても、全くその素養はない。困ったことになってきた。わが運命は今や、時の任せるままに流されるしかない。
「東條大将から聞くところによれば、マレー作戦の概要を知っているそうだな?」
辻の質問に対しては、余計な修飾語は付けず、簡潔に、明瞭に答えるのが得策だ。多すぎる言葉や曖昧な表現は、「陸軍将校」らしからぬ思想、具体的には、「平和主義」「自由主義」「平等主義」を露呈してしまう恐れがある。
「存じております」
「そうか」
辻の回答もまた、簡潔に過ぎた。事実確認を便宜上行っただけで、そこには驚嘆といった感情の動きは一切見られない。本当に訊きたいことは、他にあるようだ。
「ところで、高杉准尉の時代、日本はどうなっている?」
「平和のもとで、経済的に繁栄しています」
辻中佐の質問の真意は測りかねた。この大東亜戦争の勝敗について尋ねているのかもしれない。しかし、この男に未来を詳細に語ってしまうことは、歴史の流れを大きく変えてしまうことを意味する。当たり障りのない状況を、必要最低限の表現で伝えるしかない。
「そうか、それはよかった。では君が、歴史に干渉する必要は全くないわけだ。なぜ、高杉准尉はこの時代にやってきた?」
「わかりません。自分の意思でやって来たのではなく、何者かに送りこまれたからです。その目的というか、使命は、私にも分からないのです」
「そうか……。目的も知らされず、誰かに送りこまれてきたのか」
しばらく沈黙が支配した後、辻中佐は未来の日本に関して質問を重ね始めた。この男に未来の話をしてよいのか、やはり迷った。ある程度のところまでは正直に伝えておかねば、信頼は得られないだろう。しかし、今後の作戦計画に影響を与えるような詳細まで伝えるわけにはいかない。彼の作戦行動が私の知る史実と異なってしまった時点で、私は「未来を知る者」ではなく、暗中模索で「現在を生きる凡人」になり下がってしまう。
私は、大日本帝国が昭和二十年八月十五日に無条件降伏したこと、その後中華民国国民党は毛沢東の共産党に倒され支那が赤化したこと、アジア各国が欧米から独立していくことなどを、まるで中学校の歴史教科書のような味気ない概略だけ抜き出して、辻中佐に話して聞かせた。彼の質問は止まることを知らず、戦後日本の軍隊に関して話が及ぶ。日本軍は解体され、日本は新憲法で国権の発動たる戦争を放棄、経済活動に特化して急成長したこと。朝鮮戦争を機に、警察予備隊(のちの自衛隊)が組織されたこと。兵器は急速に進化を続け、大陸間弾道ミサイルやジェット機といった新兵器が続々と登場して実戦配備されていく様子を、質疑応答の形で一時間ほど続けた。
辻は、私の話を一つずつゆっくりと咀嚼し、今後日本が歩んでいく近未来の概要を、およそ理解したようだ。
「ところで、高杉准尉は、この昭和十六年で何をしようと考えている?」
私は、辻を激怒させないよう配慮をしながらも、自分の主張を伝えなければならないと思った。ここで、辻中佐の機嫌を損ねてしまえば、どのような処遇を受けるか分からない。拷問程度では済まず、銃殺されてしまう恐れもある。少なくとも、私は彼をそういう人間だと思い込んでいる。とはいえ、自己主張を一切しなければ、ただ単に辻中佐や東條大将の思うがままに操られてしまうだけだ。辻中佐に関しての知識を総動員して、なるべく彼に気に入ってもらえるアプローチを熟慮してから、意見を表明することにした。
「辻中佐の起草された、『支那派遣軍将校に告ぐ』には感銘を受けております。私も、東亜連盟の精神に基づき、東亜新秩序の実現に貢献したいと思っております」
辻は、目を見開いて驚きを隠せない様子だが、すぐに無表情に作り変えて、淡々と言った。
「あれは、支那派遣軍総司令部、板垣征四郎閣下が発したものだ。私個人の作成ではない。しかし、高杉准尉は、あれを理解しているのか?」
私は、ここぞとばかりに明瞭な口調で返事をした。
「辻中佐、あの文章に表されている思想は、七十一年後の国際情勢の中でも全く色褪せていません。普遍の価値を有した素晴らしいものです。我が皇軍は、その精神に忠実であるべきと存じます」
辻は、破顔した。
『支那派遣軍将校に告ぐ』は、昭和十五年天長節(天皇誕生日、四月二十九日)、中国に派遣されている将兵に向けて布告されたものだ。その文章は、東アジア共同体の盟主たるために、日本が肝に銘じておくべき心構えを記していた。
日本国民は、中国の文化や習慣を尊重し、「敬」「信」「愛」の情をもって信頼関係を築くことで、真の東アジア平和を築こうという内容だ。文中に於いては、中国で平然と道徳を冒す日本人の傲慢さが弾劾されていて、まずは日本人が、道義心厚い本来の日本人に還らなければならないと説いている。
そうすることで初めて、日本・満州・中国が真に手を結ぶことが可能となり、欧米の資本主義的侵略、ソヴィエトの企図する階級闘争による世界革命に対抗することができる、そう結論付けている。
その内容は、戦後の世界がアメリカを盟主とする資本主義、ソ連を盟主とする共産主義に分裂して闘争する未来を正確に予期している内容であり、アジア連盟による「第三の選択」の未来を示唆するものと言えた。私は、その「第三の選択」こそが、東亜諸国の平和的世界を実現する唯一の手段であろうと感じており、先見性ある『支那派遣軍将校に告ぐ』には強い共感を覚えていた。
辻もまた、生真面目すぎる東亜連盟の信奉者であったらしい。それはとりもなおさず、その思想の根源である石原莞爾中将からの強い影響を受けていることを意味している。
辻中佐は、声を低めて言った。
「高杉准尉は、石原莞爾信奉者なのか? とすると、東條英機大将からは疎んじられる恐れがある」
石原と東條が反目しているのは周知の事実で、東條の策謀により、石原は今年予備役に編入されてしまっていた。
「私は、石原莞爾中将とは当然面識はございません。信奉者というには、あまりに石原中将のことを知りません。遥か後の時代に於いてその思想の片鱗を知り、支那事変渦中にあってなお、日中和平を唱える陸軍軍人がいたことに感銘を受けたにすぎません」
必要以上の自己主張は、控えた。
「であれば良いが、東條大将の前ではあまり東亜連盟の名前を出さない方がいい。飽くまで東條閣下に尽くす、ということで理解しておいて良いな」
ほんの少しだけ、辻中佐に抵抗を試みようと思った。
「私は天皇陛下と大日本帝国臣民に尽くしたいと思います」
辻は、なにも言い返さなかった。
5
辻との会談を終えて「日本家」に戻ってきたのは、十七時近くだった。その後、ソファで少しの間横になっていると、質素な食事が届けられた。特に味わうでもなく平らげてしまう頃、東條から電話が入った。
「首相官邸に来てほしい。ハル国務長官から、回答が来た」
首相官邸と言えば、敷地内にあるすぐ隣の建物だ。二十一時過ぎに官邸に行くと、東條は応接室に私を招き入れた。彼は、一人だった。
「文書の内容は、日露戦争以降に拡大した領土を全て返還せよという、およそ服し難いものだ。もはや開戦は避けられないだろう。高杉くんは、来るべき戦に帝国が勝利を収められるよう、作戦に助言を与えてくれるな?」
東條は、前置きなしに、ストレートに用件を話した。
ハル・ノートが届けられてからこの時間まで、閣僚や軍部を相手に多くの議論を尽くし、疲れきっているのだろう。
「閣下、これからアメリカがどのような作戦行動をとるか、私は『史実』として知っています。ただし、私が作戦に介入して『歴史』を書き換えてしまうと、その瞬間から未来の出来事も当然変更されて、私には戦局が全く予測不可能になります。言うまでも無く、私は戦略・作戦方面に関しては、全くのド素人にすぎません」
私は、真剣な顔つきで東條の目を直視しながら返答した。
「つまり、君は敵軍の作戦行動を知っていながら、それを胸に秘めて明かさず、ただ見物をするだけということか?」
東條の表情は、少し怒気を帯びてきている。
「ある時点までは、そうせざるをえないでしょう」
端的に答えた。東條は、眉間に皺を寄せていた。
「ある時点?」
東條の言う通りだ。もし私が静観しているだけだとしたら、日本の都市は焦土と化し、遂には広島と長崎に原爆が投下されてしまう。となれば、私がこの時代に送り込まれた「意味」が無くなってしまうのではないか。どこかの時点で、真の東亜連盟構築のために、日本を勝利へ導く進言をせねばならない。果たしてそれは、いつ、どのようにして行うべきなのか? 私の中に、確証ある戦略は形成されていない。東條の質問に答える形で、少しずつ具体的方策を固めていくしかない。
「そうです。ある瞬間に干渉し、一気に米国との和平に持ちこむしかないと考えています」
東條は、ついに怒声をあげた。
「和平だと! 和平が目的であれば、最初からハルの文書に調印すればよいではないか! 戦うと決する以上は、必勝を期さねばならない!」
私は、東條の目を覗きこみ続けながら、恐る恐る疑問を投げかけた。
「『必勝』とおっしゃいましたが、何を以て『勝利』とするのでしょうか?」
「……」
東條は、絶句した。
そもそも、陸軍は対米戦争など一切想定していなかった。アメリカと戦火を交えざるを得なかった最大の理由は、七月二十八日に日本軍が南部仏印に進駐したことを理由に石油の供給を断たれたからであり、石油確保の道を東南アジアに求めざるを得なかったからだ。そのためには、アメリカの太平洋艦隊を叩いておくしかなかったのだ。
なにも、アメリカ本土を占領するために戦端を開いたわけではない。
日本は、石油需要の九四%を依存する米・英・蘭からの輸入を断たれたことで、経済活動の生命線を失った。さらに、その半年前には、鉄くずの輸出も差し止められている。
日本軍は軍艦を動かす燃料を失い、兵器製造の材料となる鉄さえも満足に確保できない窮地に陥っていた。そして、国家総動員法に基づき九月一日には「金属回収令」を施行、寺院の釣鐘から子供の玩具まで徴用せねばならないほど追い込まれていたのだ。
勝利とはつまり、石油および鉄資源を米英蘭に頼らず確保し続けることにある。言いかえれば、戦争目的は資源確保と経済圏の確立にあり、そのためには永遠に連合国と戦い続けなければならないのだ。
東條は、回答に窮しながらも、政治家らしく凛として豪語した。
「大東亜共栄圏を確立し、アメリカ及び英中蘭がこれを認めたときこそ、わが勝利である」
案の定、東條の回答には、なんら戦争終結の具体的指針が無かった。
戦略や政策を具体的に提示せず、耳触りの良い目標を声高に宣伝するだけに終始している点でいえば、二十一世紀の政治家となんら体質的な違いはない。
「閣下、恐れながら、それでは『勝利の定義』にはなっておりません。大東亜共栄圏をどのようにして連合国に認めさせるのでしょうか? アメリカ軍を全て葬り去るおつもりでしょうか? しかしながら、彼我の戦力差、そして工業生産力の差は、企画院総裁鈴木貞一中将の見積もりのように甘くはありません。総力戦研究所による勝機はないという結論こそが真実です」
東條は、憮然と言った。
「帝國陸軍が、敗れると言うのか!」
私は、東條の口調に調子を合わせ、声を張り上げながら答えた。
「陸軍は負けません。しかし、まず海軍が敗れました。海軍が制海権と制空権を失い、南方資源の輸送が途絶えました。同時にそれは、陸軍兵力及び補給物資の海上輸送が不可能であることも意味します。結果、南方派遣の陸軍も壊滅せざるを得ませんでした」
東條は、唖然とした。
私にとって、日本の敗北は「過去の事実」に過ぎない。畢竟、自信をもって堂々と言い切ることができた。
「君の知っている、君の世界の歴史を教えてくれ」
東條は、ソファに腰をかけ直し、落ち着いた口調で言った。
「私がこれから話すことを、誰にも口外しないとお約束いただけるでしょうか」
「約束する」
それから私は、戦局推移、つまりは無条件降伏へと至る緒戦線での敗退、本土空襲による国土の荒廃までの流れをゆっくりと報告した。とはいえ、それは知識として後世に仕入れた情報に過ぎず、体験者のみしか表現しえないリアリティを添えることは出来なかった。続けて戦後の復興期に関しても語ってみたが、それは主に経済に関する発展のことのみで、ますます東條の興味からは遠いものになっていた。
「ところで、君の生きていた時代はどうなっている?」
東條にそう言われ、私は初めて、自身が見聞した説得力のある話ができていないことに気付かされた。体験に根付かない語りほど、退屈なものはないだろう。
「私が生きていた七十一年後の世界でも、いまだ沖縄をはじめとした全国各地に米軍基地が存在し、米軍部隊が駐留しています」
「七十年経過しても、日本は占領下に置かれているのか? 天皇陛下は、米国大統領の臣下にされてしまっておるのか?」
「いえ、陛下は諸外国からも尊敬され、厚遇されております。しかしながら、日本という国自体はいまだ自国の軍隊さえ持たず、米軍保護の下、さながら属国のように米政策に盲従しています。政治家は陛下の声に耳を傾けることなく、ひたすらに米国の顔を窺っているような次第です」
東條は、無表情を貫いてこそいるが、眼球を全開にしたまま、私を凝視している。
「高杉くん、国民は、天皇陛下よりも米国を尊重しているということか?」
「ある意味、そうなのかもしれません。天皇陛下の名のもとに結束する日本人を恐れた米国は、天皇陛下は人間であると高らかに宣言し、現人神として陛下を崇拝する行為を禁止しました。それだけではありません、いわゆる『日本人らしさ』と言うべき美徳の数々さえも、すべて否定されてしまいました」
東條は、黙して聞いていたが、眼に薄らと涙を湛えていた。
「国土を失い、国民を失い、大和魂さえも奪われるということか……」
「その通りです。占領軍によって、日本人の精神は完膚なきまでに叩き壊されます」
感染したのか、私の目から一条の涙が溢れた。
そしてまた、私の愛国心が、東條にも逆流していくのを感じた。
「東條閣下の、あまり聞きたくないお名前を引き合いに出してよろしいでしょうか?」
東條の機嫌を損ねぬよう留意しながら丁寧に話を切り出した。東條は「うむ」と、小さく頷いた。
東條と憂国論を交わしながら、戦争終結への一つの筋書きが出来上がりつつあった。東條との会話を続けることで、その考えをまとめ上げていくことにした。
「石原莞爾中将の『世界最終戦争論』をご存知でしょうか? 私は、石原閣下のおっしゃる『最終兵器』を以て、米国との早期和平に持ちこみたいと思います」
東條は、怪訝な表情を浮かべた。石原莞爾の名前が、よほど気に入らないのだろうか。
「最終兵器?」
そう訊かれ、即答した。
「原子爆弾です」
「……」
またしても、沈黙が支配する。
私は、話を続けた。持論がどのような形で帰結し、東條に何を提案しようとしているのか、自身の中でも固まっていない。思考と口舌の赴くままに任せた。
「私は、二十一世紀で、原子力研究をしていました。ご存じでしょう、ウラン爆弾を? 理化学研究所の仁科芳雄博士に対し、既に陸軍航空本部が開発を委託しているはずです」
東條は、考え込んでいる様子だった。しばらく沈黙を保った後、静かに言った。
「話には、聞いている。しかし、ウラン爆弾はまだ研究を始めたばかりであり、実用化の目処は一切たっていないと聞く」
「米国は、非道なる大量破壊兵器、原子爆弾を一九四五年開発に成功。残忍にも、人体実験として二回、日本の都市に投下するのです。無辜の二十五万市民の命と都市にある全ての生命と建築物が、一瞬にして消滅しました。まさに、鬼畜の所業と呼ぶに相応しい蛮行でした。私は、このような原爆の実戦運用を人類史から抹消したいと思っています」
「どのようにして抹消するつもりだ?」
私は、噛み締めるように言った。
「核兵器は『使うべきではない兵器』、いや『使えない兵器』であることを、無辜の市民の犠牲を払わずに、世界に知らしめようと思います」
語りながら、書物で学習した広島・長崎の惨劇が、まるで映画のように脳内スクリーンに投影されていた。縁側で洗濯物をする母親、朝食を終え街路で遊ぶ子供たち、彼らの上で唐突に太陽のごとき真白な閃光が輝き、その瞬間に肉体は骨の髄まで焼き尽くされ、何事が起きたのかも分からぬまま、やがて襲ってきた猛烈な爆風によって、すでに生命が欠片も残っていない亡骸が四散していく……
涙が一条の筋を成していた。
東條は、感情のコントロールを失った私を冷静に見つめながら、ゆっくりと言った。
「どうやって、世界に知らせるつもりだ?」
正直、具体的な作戦は何一つ固まっていない。漠然とではあるが、米国よりも早く原爆を開発し、その威力を宣伝するしかないだろうと考えている程度だ。
人的な被害を発生させず、最小限の放射能汚染によって、世界に原子爆弾の凶暴性を訴えかけなければならない。実際、米国より早く原爆を開発することは可能だろう。私は、すでに確立された原子力応用理論を習得しているのだから。しかし、作り上げた原爆の威力を、いかにして世界にデモンストレーションして見せればよいのだろうか。
「具体的な方法にまで、まだ思い至っておりません。いましばらくのお時間を頂けないでしょうか?」
東條は一瞬、不快さを瞳の奥に浮かべた。私が東條の質問に即答できないことに苛立ったのだろう。しかし、ふと思い出したように言った。
「作戦に関しては参謀本部で良く協議し、最善の策を提案すればよかろう。それより、原子爆弾を米国よりも早く開発することは可能なのか?」
夜は、刻々と深くなっていく。しかし、私は核兵器開発に必要な要望に関し、時間を忘れて東條に陳情した。
「核分裂の理論と兵器開発に必要な資材に関し、私は十分な知識を得ていると自負しています。しかしながら、実際に原子爆弾を製造するとなると、話は別です。核燃料、つまりはウランを採掘することも、工場を建設することも、私一人の力ではとても叶いません。諸方面に人的配置を行い、総力で開発に臨まねばならないでしょう」
東條は、黙して頷いた。私はそれから、原子力開発に必要な体制に関して、東條に意見を続けた。
まず、陸軍要請により核兵器の研究開発にあたっている理化学研究所仁科芳雄博士のチームと、海軍要請による京都帝国大学荒勝文策博士の両チームを、帝國国策として合同研究とすること。米国に対し、人的・資金的両面に劣る日本が、陸海軍別個に開発競争を行うことは、愚策でしかない。
次に、ウラン濃縮施設を建設するための技術者と施工者が必要だ。さらに、日本が優勢を維持できる緒戦六ヶ月以内に本格稼働まで運ばねばならないだろう。
最後に、そもそも論ではあるが、燃料となるウラン鉱山がこの時点で存在していない。岡山県と鳥取県県境付近の人形峠にウラン鉱脈があることは、後の時代にはよく知られていた。まずは、その付近で鉱脈を探索し、採掘を急がねばならない。
私は、原子爆弾に必要な準備に関し、なるべく詳細に東條に伝えた。東條は一言も言葉を発せず、ひたすら手帳にメモを走らせている・
柱時計の短針は、とっくに一時を通り越していた。
「予算を急遽かき集めることも、人材や資材を極秘裏に集積することも、非常に困難だ。いや、高杉くんの提案は、現実になんら顧慮ない夢想話であるとさえいえる」
東條の顔面は鋼鉄で作られているかのように少しも動きを見せない。蝋人形よりも、生物らしさが欠如している。深い苦悩のために全ての神経が内側に向かって働き、外側の動きが完全に停止しているようだった。
「最終兵器を開発せねば、大日本帝國は米国に必ず敗れると思うか?」
「はい。何度か申しあげました通り、彼我の国力は天と地ほどかけ離れております。長期戦になれば、必ず敗れるでしょう」
東條は、視線を落として弱々しく言った。
「最終兵器の開発こそが、高杉くんの考える唯一の打開策というわけか。しかしながら、陛下はそもそも対米戦を回避するよう強く望まれている。嶋田海軍大臣が、御前会議に於いて、『海軍は勝てん』と明言してさえくれれば、陸軍はそもそも太平洋で米国と戦を始めるつもりはない。まだ対米開戦と決しているわけではない。高杉くんの話を聞いて、ますます対米戦争は避けるべきだと確信した。君の存在によって、早くも歴史が大きく変わったのかもしれんな」
東條は、聖旨に沿って、心の底から平和的解決を望んでいる様子だ。しかしながら、すでに開戦に向けて準備行動を終えている陸海の攻撃隊を抑止する力を、この男は持っていない。私は、それを知っていた。
果たして誰が開戦責任者であるのか、完全に分からなくなっていた。
6
翌十一月二十七日には、東條の計らいによって、私は早速駒込の理研に赴いていた。
挨拶もほどほどに、仁科博士に会うなり原子爆弾の仕組みと核分裂の理論を語ってみた。仁科博士は、非常に広い額をもった、いかにも天才的な顔立ちをしている。話を聞き終えると、仁科博士はすぐに、私が未来からやってきた科学者であることを事実として受け入れた。
こうして共同研究に着手しはじめると、時は、その進行速度を急激に加速させた。理研で議論を尽くしているうちに十二月一日を迎え、御前会議で対米交渉の打ち切りと日米開戦が決定されてしまった。
これまでのところ、全ては私の知る歴史の通りに進んでいる。
ハル・ノートの要求を受け入れ、支那と南部仏印から兵を引き上げることさえ決断できれば、戦争を回避できたかもしれない。東條も、おそらく最後の決断の瞬間まで、その線を熟慮していたに違いない。だが、結局のところ開戦は避けられなかった。
独伊侵攻によるヨーロッパ戦線、大日本帝國侵攻による支那戦線。欧州と東アジアとで分離していた戦火が、米国の参入によって全世界規模の第二次世界大戦へと発展してしまった。
着々と真珠湾攻撃の準備は進んでいる。
単冠湾を発した南雲中将率いる第一機動艦隊は、凍てつく北方海域からハワイオアフ島を目指して隠密裏に南下を開始。南雲中将直率の第一航空戦隊空母「赤城」「加賀」、山口多聞少々率いる第二航空戦隊の空母「蒼竜」「飛竜」、原忠一少将の率いる第五航空戦隊の空母「瑞鶴」「翔鶴」、この六隻の空母を中心に、高速戦艦「比叡」「霧島」、重巡洋艦「利根」「筑摩」、軽巡洋艦「阿武隈」、駆逐艦「浦風」「磯風」「谷風」「浜風」「霞」「霰」「陽炎」「不知火」「秋雲」、その他給油船八隻などを加えた三十一隻からなる勇壮たる大艦隊だ。
翌十二月二日には、御前会議の決定を受け発令された大海令十二号により、山本五十六連合艦隊長官が、「ニイタカノボレ 一二〇八」との暗号文を、瀬戸内海洋上の旗艦「長門」から発電した。これは、十二月八日を以てハワイ真珠湾を攻撃せよとの指令であった。
そして、十二月八日月曜日が訪れた。午前六時、私はひとり日本家の応接間でソファに座り、ラジオを静聴している。陸軍准尉の制服と制帽をしっかりと着用し、歴史的瞬間に立ち会う興奮を隠せなかった。
NHKのアナウンサーが、声高に伝える。
「大本営発表、大本営発表」
「大本営陸海軍部発表、帝国陸海軍は今八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり! 繰り返します……」
第三章 必勝のための秘匿
1
開戦のラジオ放送を聴き終えると、そのまま車で世田谷を目指した。
運転手の高橋は相変わらず無口で無表情だが、指示には従順だ。私は、まだ形崩れしていない真新しい軍服に身を包み、軍刀を携さえて後部座席に座っていた。佇まいだけは、帝国軍人になっている。
車を柳田の家の前で停めた。
扉を強く、三回叩いた。
「高杉です。高杉幸輝です!」
そう大声を上げると、玄関の引き戸がゆっくりと開いた。
出てきたのは、美齢だ。彼女は、私を強く睨みつけながら、あからさまに怪訝な表情を見せた。
だが、次の瞬間、
「幸輝? 無事だったのか?」
そう言って、少しだけ瞳を大きく開いてみせた。
「ただいま。うまくいった。僕は、帝國陸軍軍人になった」
美齢の表情が、少し曇る。
「軍人? この戦争に加担することにしたのか?」
美齢の警戒心を少しでも和らげようと、精一杯の笑顔を作った。
「加担する。まずは、米国海軍を叩かなければならない」
美齢は、遠慮なく言った。
「米国海軍を叩くのに、何で陸軍軍人になった?」
「まあ、なりゆきさ」
しばらく、沈黙が支配した。
私は、美齢の元気な姿を確認し、安堵してそれ以上の言葉をつなげなかった。だが、連絡せずに姿を消していた説明はしておいた方が良いだろう。
「美齢のことがずっと心配だった。二週間も連絡しないで、悪かった」
「本当だよ。殺されてるかと思ってた」
美齢は、またしても睨みつけるように私を見た。
私は、そっと彼女の肩を抱き寄せてみた。これまでにないくらいしっくりと、彼女の小さな肩が私の腕の中に収まっているのを感じる。
高橋に「しばらく表に車を停めて待ってほしい」と言い含め、私たちは柳田の家の中に入った。居間に座ると、朝のやわらかい陽光が我々を包んだ。柳田は、留守にしている。
彼女に伝えたい本題は別にあったが、どうも切り出しづらく、まずは別件から会話を続けた。
「松山は、見つかったのか?」
美齢は、黙って首を横に振った。
「そうか……」
松山の消息は不明のままだ。だが、私にはそれをどうする事も出来ない。今は、自分に可能なことを少しずつ行動に移していく事が肝要だ。まずは、美齢の安全確保だ。いくら山田という日本人姓を名乗っていても、中華民国と正式な戦闘状態に入った今、彼女の身にどのような危険が迫るか知れない。
単刀直入に本題を話す事にした。
「一緒に住まないか?」
美齢は、しばらく黙したまま何か考え事をしているようだ。
「は? 前にも言った。私、日本人は嫌いだ」
「僕の事も、嫌いかい?」
「……」
再びの沈黙。卓袱台に反射する陽光が、美齢の困惑した表情を下から照らし出す。
「私、未亡人。まだ、離婚していない」
「結婚しようと言っているわけじゃない」
そう言うと、美齢は即答した。
「じゃあ、なんで一緒に住むのか?」
「正直に、話す。中華民国出身の美齢の身が心配だからだ。君をここに置いたままじゃ、僕は研究に集中する事ができない」
美齢は、いつもの冷徹な視線を私に向けた。
「研究?」
「そのことは、後々ちゃんと説明する。今は、黙って僕についてきてほしい」
彼女は、私から視線を外す事なく、ゆっくりと返事をした。
「心配は、いらない。私には山田の家がある。それに、柳田の家もある。柳田は、日本人の役人とも懇意だ」
「だが、現に松山は行方不明のままじゃないか!」
美齢の視線から鋭さが消え、私を諭すような暖かみを湛えた表情をした。
「そうだけど、私には私の役目がある」
「ああ、知っているさ。何かを盗んでいるんだろ? だからこそ、心配なんじゃないか」
「心配される、理由はない」
「あるさ! はっきり言わないと判らないのか? 僕は君が好きなんだ。だから、心配なんだ。僕といれば、安心なんだ!」
美齢は、私の告白に打たれたのか、いつになく優しい目をしているように見えた。朝日が、瞳を輝かさせている所為なのかもしれない。
「ありがとう、幸輝。でも、無理だ。私たち、出会ってまだ一ヶ月。迷惑はかけられない。支那人の私と暮らしていたら、陸軍将校の幸輝が危なくなるだけだ」
「陸軍将校? それは、便宜上の姿に過ぎない。実際は、ある研究を任されただけなんだ」
「歴史が変わってしまうんじゃないか?」
「そうだ。別の時間が流れ始める。だけど、それが僕の役割だと、ミサという女が言っていた。白い服の女の事だ。だから、僕は自分が出来る事をこの時代でちゃんと行動に移す事にした。そして、僕が研究を引き受ける条件として、美齢と一緒に暮らせることを入れた。君を守りたいからだ。そしてそれが、今の僕に出来る数少ない事の一つだからだ」
美齢に気持ちが通じたのだろう。彼女は、即答で拒否はしなかった。だが、応諾もしなかった。
「幸輝、少し考えさせて。明日まで、考えさせて。柳田にも、相談しなきゃならない」
確かに、このまま美齢を連れ出す事は出来ない。柳田が心配するであろうし、彼女も荷物をまとめなければならないだろう。
「分かった。明日、またここに来る」
今日のところは引き上げる事にした。
「高橋さん、理研に向かって下さい」
私を乗せたトヨダAA型自動車は、職場へと向かい始めた。私は、美齢との同居に関して、考えを巡らせた。
美齢との同居は、原子爆弾開発の代替条件として東條に嘆願した。「好きな女がいる」と東條に告白したわけだが、この時代に現れて間もない私に気になる女がいるということ自体、ある意味「軽薄」のレッテルを貼られて致し方の無い事だ。だが、東條は寛大だった。おそらく、年の大きく離れた私の「若さ」を、年長者の視点から赦したのだろう。あるいは単に、原子爆弾の代価として女一人というのを安く感じただけなのだろうか。いずれにせよ、許可は得ている。あとは、美齢の心積もり次第だ。
車が、理研の門を潜った。
2
翌朝、私は理研ではなく、まずは隣家とも言える首相官邸に向かった。服部卓四郎作戦課長が待っているのだという。
服部大佐は、辻政信の上官にあたる。辻中佐は、マレー作戦で陣頭指揮に立つため、すでに戦地にあった。その辻中佐の留守中、服部大佐が私と連携し、原子爆弾開発及び作戦立案上必要な情報収集を行う事になっていた。応接室の扉を開くと、服部大佐はすでにソファに座っていた。
私は、しっかりと敬礼してから着席した。
「高杉幸輝です」
「やあ、高杉准尉。服部だ」
そう挨拶してから、服部は厳しい表情をして言った。
「ところで、原子爆弾の開発は順調か」
「はい。仁科博士及び荒勝博士に原子爆弾の基本構造詳細を説明させて頂いておるところです」
「そうか。ところで、その原子爆弾開発の期限を、東條大将に半年と進言したそうだな。なぜだ?」
服部は、辻中佐以上に高圧的だった。というよりも、辻中佐が内面から溢れ出る勢いで他の者を圧倒するのに対し、服部大佐は表面上の攻撃性によって相手を威嚇している風だった。
「はい。明言はできませんが、翌年六月に戦局を悪化させる米軍の反撃が起こります。以降、帝国陸海軍の制空権および制海権が危うくなり、米国打倒の機会を失します。それ以前に、米国を屈服させる必要があるからです」
服部は、語気を荒げた。
「高杉准尉、なぜ理由を明言しない?」
「はい。失礼ながら、原子爆弾使用の瞬間まで、私の知る歴史通りに時間が流れる必要があるからです。その時点まで、私は戦闘に干渉してはならないのです」
「勘違いをするな。貴様は、原子爆弾使用に干渉する事も許されないのだ」
私は、服部大佐の発言の真意を理解しかねた。
「どういうことでありましょうか?」
「どうもこうもない。貴様に任されているのは、原子爆弾を開発することだけだ。その使用に関する作戦は、全て参謀本部で行う。貴様には、作戦に口出しする権限はない」
参謀本部、いや、服部大佐や辻中佐に手放しで原子爆弾をくれてやることは、ブレーキのないレーシングカーを公道で走らせるよりも遥かに危険なことだ。彼らはその使い方も知らなければ、恐ろしさも知らない。しかし、ここで服部に反論する事は、自らの立場を極端に危うくしかねないという直感が働いた。
「私は、参謀本部の意向を無視するようなことは決していたしません! ただし、必要な進言、判断を許されなければ、原子爆弾が最適に活用されるとは思えません。私が知る、敗北の歴史の再現を傍観することになりかねないからです!」
服部大佐は、虚空を見据えながら声をさらに荒げた。
「参謀本部のせいで、敗北の歴史が刻まれたと言いたいわけだな!」
勢い、私の言葉も強さを帯びてきた。
「その通りです! 自らの作戦ミスを反省することなく、責任を現場将兵に押し付けたノモンハン以来の変わらぬ参謀本部の体質が、結局は日本軍を自滅させたんです!」
服部は、ついに怒声を上げた。
「ノモンハンだと! 貴様、私を批判しているのか!」
私は、怯まずに言った。
「その通りです」
制裁を覚悟の上で発言したが、意外にも服部大佐は沈黙し、冷静さを取り戻してから話し始めた。
「上官に対し、それだけものをはっきり言える軍人も珍しいな」
私は、譲歩して謝罪することにした。
「申しわけございません。非礼をお詫び致します。私は、本来軍人ではありません。ただの学生でした」
「だろうな」
服部は、ニコリともせずに話しを続けた。
「で、貴様の原爆運用案に関してだが、私に伝えてもらわねば困る。先刻言った通り、作戦立案は全て参謀本部が行うべきものだ。貴様は、必要な情報を我々に提供するだけで良いのだ」
私は、服部の目を見ないで返事をした。
「私の運用プラン、そして今後のアメリカ軍作戦行動も、服部作戦課長にお伝えするわけにはいきません」
服部大佐は、ついに激怒した。
「ふざけるな! 最終的な目的も知らせず、原子爆弾開発のための予算と人材を手配しろというのか!」
「その通りです。現時点では、ただ、私の要望を聞き入れる事に徹して頂けないでしょうか?」
「そんなもんに、協力できるか! 開発に協力欲しくば、こちらの作戦立案にも協力せんかっ!」
私は、極力穏やかな口調を心がけながら、服部大佐の理解を得られるよう話を続けた。
「服部作戦課長、私は今次の対米戦を、そして東亜全域に拡大した戦線を、なるべく早く、被害を最小限にして終焉させたいと願っております。そのためには、短期決戦、一気にカタをつけなければならないのです」
服部大佐は、疑問を挟んだ。
「東條閣下がおっしゃったように、この戦争で長期戦は免れない。南方資源を確保し、持久戦の覚悟こそが必要だ」
私は、直接陸軍を批判して心象を害することのないよう、海軍にフォーカスした説明をしようと試みた。なるべく、一般論として聞こえるように配慮しながら。
「服部作戦課長、南方資源を確保できても、内地へと資源を輸送できなければ意味がありません。つまり、制海権制空権を握っておくことが、最重要課題ではないでしょうか?」
服部大佐は、憮然としたままだが、少し声のトーンを下げた。
「その通りだ」
「私は、原子爆弾を、その制空権・制海権確保のために活用したいのです」
服部大佐は、苦笑した。
「であれば、原子爆弾開発の陳情は、海軍軍令部にすればよかろう。陸軍の範疇ではない。さっさと白い軍服に着替えて軍令部に鞍替えするが良い」
これこそ、大日本帝國を蝕んでいた陸海軍のセクショナリズムだ。国民には「一丸となって国難にあたろう」と呼びかけておきながら、内実、「日本軍」は組織や派閥によってバラバラの状態だ。
「私には、陸軍も海軍もありません。国力が桁違いに勝る米国を相手に戦争するのですから、大日本帝國の総力を結集しなければなりません」
服部大佐は、ぼそっと本音を呟いた。
「陸軍が資金を提供した新兵器で、海軍に戦功をあげられたんじゃあ全く以て面白くないんだがな」
服部卓四郎は、自己の栄達しか考えていないのだ。未曾有の国難にあってなお、我が身の立身出世と保身に執心するばかりのエリートが、この日本を動かしている。この利己主義が、多くの日本人を死地に追いやり、国家を破滅に導いたのだ。この男とは、距離を取っておく必要がある。いや、この男を排除しなければ、原子爆弾を開発したところで、結局は日本を、いや悪くすれば世界を滅ぼしてしまうだけかもしれない。と言って、私には服部大佐を罷免にするような権限はない。
「服部作戦課長、ご理解ください。これから起きる事象を私が知らせてしまうと、参謀本部が立案する作戦に大いに影響を与えてしまうでしょう。そうなると、私の知る『歴史』とは大きく異なる時間が流れ始めてしまいます。結果、圧倒的なアメリカ国力の前に、私の知る『歴史』とは違う形で敗北していく日本を眺めなければならなくなると思うのです」
服部大佐は、侮蔑の表情を浮かべた。
「高杉准尉の時代、大和魂はすっかりと枯渇しているようだな。戦う前にして『必ず負ける』などと決めつけるようでは、勝てる筈もない。必勝の信念さえあれば、米英おそるるに足らず」
国運を左右する中枢部が、このような精神論で毒されていることに著しい失望を感じたが、服部大佐をうまく動かさねば、私の計画を実現する事はできないだろう。ここは、彼に従っておくが得策だ。
「私は、おっしゃる通り理研で原子爆弾開発に専念致します。作戦立案に関しては、進言にとどめるよう肝に命じます。ですので、原子爆弾製造に欠かせぬウラン採掘と濃縮のためのプラント建築に関しては、ぜひともご尽力いただきたいのです」
服部は、言った。
「ウラン鉱脈の開発と濃縮施設の建設に関しては、枢密院を通して民間企業の協力を要請している。いずれにせよ、原子爆弾の開発には、資金と人的資源投入を優先的に行う所存だ。早期完成を実現するのが、貴様の務めと心得ろ。原子爆弾の投下作戦に関しては、いずれ近いうちに意見書を報告してもらわねばならんだろう」
私は、姿勢を正して敬礼した。
「ありがとうございます。大日本帝國のため、七生報国の精神で努めて参ります。投下作戦立案に必要な情報および意見に関しては、時期を見て、必ずご報告致します。現状では、『必勝のための秘匿』ということで、ご理解ください」
「『必勝のための秘匿』とは、うまく言ったものだな」
服部は、挨拶もせずにその場を立ち去って行った。
トヨダAAが柳田の家に到着したのは、すでに午後一時を回った頃だった。美齢は真っ先に昼食の準備を整えた。憲兵の高橋は、今日も塀の外側に車を停めて、静かに運転席に座って私が戻るのを待っている。何かに追い立てられているような焦りを感じていた。それは、服部大佐から感じる正体不明の「脅威」のせいかも知れなかった。空腹であったが、食事には手を付けず、急ぎ用件を片付ける事を優先した。美齢は、自慢の炒飯に箸を延ばしている。
「柳田と相談した。幸輝と暮らすことにする」
意外なまでに、あっさりとした承諾だ。何か、考えも及ばぬ理由が潜んでいるのかもしれない。しかし、美齢はそれ以上何も言わない。そして、私にとって理由はどうでもよかった。彼女が、私と一緒に住んでくれるという事実だけで十分だ。
美齢はすでに荷物をまとめていた。食事を済ますと、直ちに出発した。
「高橋さん、日本家に向かってください」
車を降りると、陽が陰り始めた首相官邸の敷地を美齢と並んで歩いた。二階建ての質素な民家という風情に、美齢は驚いた。
「思ったより、地味」
「ああ、けれどもたかが学生風情がこんな一等地に住めるんだ。贅沢は言えないさ」
声は出さず、私は大げさな笑顔を美齢に向けた。一緒に玄関をくぐることへの照れ隠しであった。
美齢は、相変わらず無表情だ。嬉しいのか、なにか企んでいるのか、さっぱりわからない。
「わたし、幸輝の奥さんでもなければ、美樹でもない」
周囲の目もあるので、美齢には美樹という仮名を名乗るよう服部から忠言されていた。美齢には、車中でそのことを伝えた。怒っているのだろうか?
「すまない。一緒に暮らすためには、表向き日本人の妻だということにするしかなかった」
美齢は、冷徹な顔から一瞬にしていたずらっぽい笑顔へと変わった。
「ふふ。怒ってないよ。ありがと、幸輝。これで安心して暮らせる」
「なんだよ。まあ、良かった」
そう言って、美齢の手を握った。
しかし、美齢はその手を弾き返して笑った。
「でも、寝る部屋は別々」
「ふん、分かってるさ」
たった一人で放り込まれた七十一年前の世界で、好いた女と一緒に暮らせるだけで十分に幸福だ。
暗く長い戦争の始まりにあって、まったく無関係な暖かい空気が私たちを包んでいるように思える。
しかし、時代に逆らうことはできない。戦火は、全ての国民の上に平等に迫って来ている。
3
私の闘いは、理化学研究所、そして市ヶ谷の参謀本部という極めて狭い空間の中で展開されていた。地道な原子力爆弾開発研究と、工場建設、ウラン採掘場開発の指示。そして、東條英機の相談役として助言。日々眠る暇もなく、多忙を極めている。
戦争は、歴史の通り着々と進行していった。
日本時間十二月八日深夜一時三十分、山下中将率いる第二十五軍、第十八師団歩兵第五十六連隊がイギリス領マレーシアのコタバルに上陸を開始。あわせて、マレー進撃部隊主力、第五師団がタイ南部のシンゴラ、その南方のバタニーに展開した。コタバルでは英軍の猛反撃にあいながらも翌日昼には上陸に成功。部隊は一路、英領シンガポールを目指して南下を始めた。
十二月十日、マレー沖海戦が勃発。九六式陸攻、一式陸攻で編成された飛行隊が、英国の誇る最新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」に波状的爆撃と雷撃を敢行。イギリス東洋艦隊司令長官トーマス・フィリップスもろとも撃沈してしまった。
陸軍によるコタバル上陸でイギリスとの交戦が始まる一方、海軍によってアメリカとの戦端が開かれた。ハワイ海戦、いわゆるオアフ島真珠湾攻撃だ。
日本時間八日午前一時三十分(現地時間七日午前六時)、南雲中将率いる第一機動艦隊の各空母から、一八三機の艦載機からなる第一次攻撃隊が飛び立った。日本海軍が誇る零式艦上戦闘機、九九式艦上爆撃機、九七式艦上攻撃機がハワイ洋上に広がり、オアフ島北東より真珠湾に突入していった。
コタバル上陸に遅れることおよそ一時間半、日本時間八日三時十九分(現地時間七日七時四十九分)、攻撃隊を指揮する淵田美津雄海軍中佐座乗の九七式艦攻が各機に対して「ト・ト・ト……」と「全軍突撃」を指令。停泊していたキンメル大将率いる米太平洋艦隊の主力戦艦「アリゾナ」「オクラホマ」「ペンシルベニア」「ネバダ」「カリフォルニア」「メリーランド」「テネシー」「ウエストバージニア」に次々と襲いかかった。三時二十三分(同七時五十三分)、淵田中佐は「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味する「トラ・トラ・トラ……」を打電。旗艦赤城は歓喜に包まれた。
十分に訓練を積んだ日本攻撃機の水平爆撃と雷撃で、米艦は次々と水柱をあげ、被弾・被雷。
続いて、第二波攻撃隊一六七機が日本時間四時二十四分(同午前八時五十四分)に全軍突撃。港湾設備、航空基地、残存艦隊に攻撃を集中した。
戦艦「オクラホマ」「アリゾナ」「カリフォルニア」「ネバダ」「ウエストバージニア」、撃沈。戦艦「メリーランド」大破。戦艦「テネシー」「ペンシルバニア」中破。
日本軍は攻撃を軍事施設に限定し、住宅地や一般施設への空襲は行っていない。
その後米国が国際法を無視して日本に無差別絨毯爆撃を敢行したのとは対照的だ。後に、沈没させた戦艦五隻のうち「オクラホマ」「アリゾナ」を除く三隻はサルベージ、修理改装された上で戦線に復帰している。
日本軍は陸軍・海軍ともに緒戦は快進撃ともいえる大勝利を収めた。国民は、勝利のニュースに酔いしれ、「万歳、万歳」という歓声がそこかしこで沸き起こる。
十二月十日。私は、仁科芳雄博士、荒勝文策博士、のちにノーベル物理学賞を受賞する湯川秀樹博士とともに駒込の理研で机を囲んでいた。著名な物理学者と仕事を行えるなど、まるで夢のようだ。
にもかかわらず、この研究プロジェクトの極秘名称は、「タカスギコウキ」の「タ」の字をとって「タ号研究」とされた。恐れ多いなと、正直思った。
私は、七十一年後の基礎テクノロジーを話すだけでよかった。遥かに優れた頭脳たちが、理論を次々と現実に変えていく。早くも、原子力爆弾の設計について話が及んでいた。
「原子爆弾を短時間で超臨界へ至らせるには、濃縮した核物質を一定質量以上確保しなければなりません。そこで問題になるのが、ウラン235を用いるか、プルトニウム239を用いるかという問題です。一〇〇%純度に濃縮できたとして、臨界量はウラン235で22kg。プルトニウム239で5kgとなります」
私が話し始めると、湯川博士が話を止めた。
「高杉准尉、あなたは本当に核の力を兵器に利用しようというのか? 人類を滅亡させかねない最終兵器を、実戦で使おうと言うのかね。非人道的に過ぎるとは思わないのか」
仁科博士も、これに続いた。
「高杉くんは本来軍人ではないのだろう? もし科学者との自負があるのであれば、必要な研究を進めて軍部に報告しながら、実際には爆弾を完成させない方が賢明だと思わないか」
私は、言葉を失った。
日本の科学者には、非常に強い理性と倫理観があることに感激した。
「その通りです。科学者は、いや人間であれば、そうあらねばならないと思います」
仁科博士、湯川博士に対する尊敬の念がますます深くなっていく。
彼らに、アメリカによる原子爆弾投下について、伝えねばならないと感じた。
「ロバート・オッペンハイマー博士をご存じでしょうか。一九四二年、ルーズベルト大統領の命を受けて彼はニューメキシコ州ロスアラモスで原爆開発研究の指揮を始めます。これは、マンハッタン計画と呼ばれました。全米から、たくさんの優秀な科学者と研究者が集められ、多額の資金を投下して遂に原爆が完成。一九四五年八月六日には、原子力爆弾が広島に投下されてしまいました」
仁科博士と湯川博士は、原子力爆弾を都市に投下するなど考えられない、と主張した。終戦に至るまでの戦況を、話すことにした。
一九四五年三月には東京が無差別爆撃で焼け野原になったこと。沖縄に上陸してきた米軍は、住民を巻き込んで戦闘を続けたこと。敗色濃厚となっても大本営は継戦を主張し、最終的には「一億総玉砕」を掲げ本土決戦を画策していたこと。広島に続いて長崎にも原爆が投下されたこと。
「アメリカが無差別大量殺戮をやるのだから、日本がやってもいいという理屈かい? それは、日本の武士道精神に反するじゃないか。高杉くんは、日本を守るためならアメリカ市民の命を無差別に奪っていいと考えているのかね?」
仁科博士は再び、研究を進めながらも爆弾を完成させるべきではないと主張した。
私は、声の調子を落として目を伏せながら言った。
「それでは、仁科博士は日本の都市という都市が廃墟となり、広島と長崎の市民が原爆によって無差別に殺戮されるのを黙って見過ごせとおっしゃるのですか?」
仁科博士は、目を伏せて黙っていたが、やがて口を開いた。
「みんな、外に出て話をしないか」
薄暗い研究棟を出ると、先ほどまでの雨はやんで、ただ鉛色の雲が空を覆っていた。コートを着たものの屋外の寒さは厳しく、吐息が白い。だがピンと張った冷気のおかげで、頭が一瞬にして冴えわたるような気がした。敷地を歩きながら、仁科博士は言った。
「湯川さん、どう思いますか?」
「私は、原爆の実戦使用には絶対反対です。原子力は研究し甲斐あるテーマですが、仁科博士のおっしゃる通り、兵器として完成させてはいけません」
湯川博士も、断固意見を曲げる様子はなかった。
「高杉准尉、原子力爆弾を用いずに、日本がアメリカに致命的打撃を与える方法を考えませんか?」
私は、雨露に濡れた大地に立って、暗い空を見上げながら小さな声で呟いた。
「陸軍参謀本部、海軍軍令部、日本を代表する優秀な頭脳が作戦を立てていった末に大日本帝國は米国に敗れました。私のごとき凡庸な学生がどんなに知恵を絞ったところで、米国を打倒する策など思いつきません」
ほんの僅かに、再び雨粒が落ち始めた。顔に、何滴かが落ちてきて当たる。
荒勝文策博士が言った。
「原子力爆弾、作ろうじゃないですか。米国より早く完成させて、『使えない兵器』であることを宣伝すれば、米国も開発を放棄するんじゃないでしょうか?」
湯川博士が、それを否定する。
「オッペンハイマーがますます躍起になって、原爆を開発するだけじゃないのかな」
私は、時を得たとばかりに発言した。
「まさに、それです。私の時代には、それを『核の抑止力』と言っていました。互いに核兵器を所有していると分かっている二国間では、報復を恐れて決して核兵器を使用できないからです」
湯川博士は、言った。
「だがアメリカより先に核兵器を持った帝國陸軍が、戦争をやめると思いますか? ますます増長し、戦火を拡げて行くのではないでしょうか?」
その点については、すでに辻政信中佐と話してあった内容を伝えることにした。
「大日本帝國の戦争遂行目的は、アジアの欧米植民地を解放し独立させ、支那・満州と手を結んで平和な東亜連盟を築くことにあります。参謀本部作戦部辻政信中佐も、原爆によってアメリカの戦意を一気に低下させたところで、和平することに同意いたしました。講和の際には、日本は中華民国にある全兵力を引くことを約す一方、米英蘭には世界中の植民地をすべて手放すように要求します。いかがでしょう?」
仁科博士が笑った。
「高杉くんは、すっかり陸軍軍人だな。しかし、甘い。辻参謀がどんな理想を持っていようが、所詮戦力班長に過ぎない。作戦課長の服部卓四郎大佐を知っているだろう。彼には、理想なんてものはないよ。自分の手柄を立てることしか考えていない。その上官の田中新一作戦部長は、日支事変の不拡大を決定した帝國内にあって、強硬に出兵を主張した武闘派だ。原爆の破壊力を知れば、それこそ笑いが止まらないだろう」
確かにそうかもしれないと思った。服部卓四郎の眼は、決して世界を見てはいなかった。彼には、人間的な判断は何一つ通用しないような気もする。なぜあのような人格の者が国家の中枢にあって作戦担当将校でいられるのか、とても納得はできない。
私は、仁科博士の理論を利用して議論を展開してみようと試みた。
「田中新一少将の上官は塚田参謀次長と杉山参謀総長です。杉山大将は、いかがでしょうか?」
仁科博士は、うつむきながら言った
「彼こそ主戦派の大元締めだよ」
雨が少し、強くなってきた。
四人は、研究棟の中へ戻り、再び着座した。荒勝博士が口を開いた。
「デモンストレーションに必要な最初の一撃だけ、原爆を完成させるのはどうでしょう。我々が製造方法を伝えなければ、他の誰かに原子爆弾を製造されることはないのでは?」
湯川博士は、冷静に言った。
「設計図を残さずに、原爆を完成させることは不可能です。設計図があれば、他の誰かが原爆を製造することが可能です」
仁科博士は、議論に終わりがないことを知っていた。
そこで、着地点を提示した。
「核エネルギー開発の研究は必要だ。軍部からの要請も受けている。予算も、大幅に増額された。ここは、原爆の開発研究を進めるしかないだろう。ただし、原爆を最終的に完成させるかどうかは、現時点では白紙にしておこう」
「高杉くんはもし原爆を完成させたとしたら、どのようにしたいと考えているんだ?」
まずは黒板に向かい、チョークで太平洋の地図を描いた。そこに、いくつかの島の名前を記載した。
「ハワイ諸島」「ウェーク島」「ミッドウェー島」「フィリピン諸島」「インドネシア諸島」、そして、それらを包むように白線を引いた。
「それは?」
湯川博士が、尋ねてきた。
「いまからおよそ五ヶ月後、五月上旬時点での帝國勢力圏です」
荒勝文策博士が声を上げる。
「わずか五カ月足らずで帝國はここまで進出に成功するのか」
私は、間髪をいれずに応えた。
「しかし、米国の反攻が来年夏から本格的に開始されます。その先は、転げ落ちるように敗戦に向かっていきます」
そして、半年後の海戦について語った。
「翌年六月五日、山本五十六司令長官の作戦計画に基づき、ミッドウェー島近海にて、聯合艦隊と米太平洋艦隊との間で大きな海戦が展開されます。『エンタープライズ』『ホーネット』『ヨークタウン』という米国主力航空母艦が投入されますが、戦力は圧倒的にわが海軍が優位です。しかしながら、米軍が空母一隻と三〇〇名戦死に留まったのに対し、帝國海軍は主力空母四隻を失い、戦死三〇〇〇名以上の大敗北を喫しました。この海戦によって南洋の制海権を失ったことから、日本敗戦への道が始まりました」
仁科博士も、荒勝博士も、ただ黙って聞いている。
が、湯川博士が口を開いた。
「米国との工業生産力の差は致命的だ。長期戦で勝てないことは、最初から分かり切っています」
湯川博士の論調に乗る形で、話し続ける。
「その通りです。短期間で米国の戦意を喪失させ、有利な状況で講和する。これしか、日本を救う手はないと思っています。そのために、米艦隊洋上数キロ先にて原爆を炸裂させるのはどうでしょう。米艦隊からしっかり視認できる距離に投下し、その爆発の模様を航空機より高高度撮影し、フィルムを米国政府に届けます。原爆の破壊力とその残忍性を認識すれば、米国は停戦協定の必要性を強く抱くことにならないでしょうか?」
湯川博士が、浮かぬ表情で言った。
「我々が試作した原爆が、実際にどれほどの破壊力をもたらすか、想定することは困難です。米艦艇に全く脅威を与えないほどの効果しかないかもしれないし、逆に、米艦隊を全て撃沈してしまうほどの反応を起こすかもしれない。万一そんな事態になれば、米国政府ひいては米国国民のさらなる怒りを誘発するだけでしょう。和平どころか、より激しい戦火を招く結果になるかもしれません」
「その通りかもしれません。ミッドウェーに原爆が投下された時点で、時間流、つまりは歴史が大きく変わってしまいます。果たしてそれがどのような結果につながっていくのか、私にはわからない世界です。和平の道を実現するには、軍事だけではなく、外交的にも高度な戦略が必要となるでしょう」
湯川博士が、声をさらに落として言った。
「東郷茂徳外相は、今般の日米交渉を決裂させた人物だ。外交には期待すべくもありません。もし、和平ではなく継戦の方向に動いた場合、荒勝さんは帝國陸海軍がどう動くと予想しますか?」
荒勝博士は、飽くまで先入観による予想だと前置きした上で返答した。
「陸軍の杉山参謀総長は、南方資源安定供給のため、制海権確保を海軍に強く要望するでしょう。また、中華民国へも圧力をかけるため、支那領内でのさらなる原爆投下を計画する可能性があります。海軍の永野修身軍令部総長は、米国との決戦に執着するでしょう。そのために、ハワイ諸島及び米国西海岸への徹底的な空爆を実施する可能性があります」
湯川博士が、言った。
「高杉准尉、ミッドウェーに原爆を投下しても、対米戦が即座に終結しない可能性が少なからずあります。また、日本は、『原子力兵器使用』の非人道性により世界的な非難を浴び、ますます孤立を深めていくかもしれません」
確かに、その可能性は否定できない。もし原爆による和平工作に失敗すれば、私の知る歴史とは別の経緯をたどりながら、日本は長期戦の末に敗北することになるだろう。
「結果的に日本が負けた場合、原爆開発の責任を問われ、我々は戦勝国に裁かれて命を散らすことになるでしょう。しかし、原爆投下による宣伝が功を奏し早期講和が実現した場合、平和へ寄与した兵器として、原爆は正当化されるかもしれません」
仁科博士は、冷静に反駁する。
「高杉さん、原爆が正当化された社会が、本当に正しいと思うか? 先ほども述べたように、軍部から第二第三の原爆投下が求められる可能性がある。数多くの市民が犠牲になった上で勝利したとしても、核兵器が正当化されてしまう可能性がある。私は、そんな社会は恐ろしい。世界が終わってしまうかもしれない」
仁科博士が続けた。
「いずれの未来が待っているにせよ、我々は核開発を推進しなければならない立場にある。しかしながら、来年五月末までに原子力爆弾を完成させるのは非常に困難だと思われる。解決すべき問題があまりに多い。原子力爆弾開発がミッドウェーまでに間に合わなかった場合、高杉さんはどうする?」
それに関しては、もう一案を用意していた。
「8月上旬、米軍がガダルカナル島に上陸作戦を決行します。日本軍はこれに大敗を喫し、ガ島を占領されてしまいます。このガ島にある米軍ヘンダーソン飛行場を爆心にして原爆を投下するという作戦を次案として考えました。なぜならば、ガ島以降、私のいた世界では、圧倒的な米軍優位で戦況が推移するからです。このタイミングで使用しなければ、以降日本側にチャンスが訪れないかもしれません。しかしながら、この作戦では、現住民及び米国兵士を不可避的に犠牲にしてしまいます。それは、私の本意ではありません。なんとしても、ミッドウェー洋上作戦に間に合わせなければ……」
荒勝博士が質問を返してきた。
「ガダルカナル島というのはどこにあるんですか?」
「オーストラリアの北東、ソロモン諸島最大の島です」
「帝國は短期間でそこまで戦域を拡大するのか……」
このあと、「タ号研究」をとりまとめる仁科博士は、原爆開発に関していくつかの基本方針を打ち出した。
・構造が単純なガンバレル(砲身)方式で原爆を開発すること。
・米兵及び一般市民から被害者を生まないよう、なんとしてもミッドウェー海戦までに原爆を完成させること。
・米国と和平することが原爆開発の目的であり絶対条件であることを、政府及び軍部に了解を取り付けること。
・ウラン濃縮施設の早期完成と原料のウラン鉱石採取を可及的速やかに実現できるよう、さらなる開発体制強化を要望すること。
・原爆炸裂の映像及びその解説文書を米国に提供し、その非人道的威力を知らしめること。
理研での激論を終え、高橋の運転する自動車で駒込から日本家に戻ったのは、午後九時過ぎだった。
美齢が、玄関に飛び出してきて元気よく挨拶する。
「おかえりなさい」
そしてそのままの勢いで、大声をあげた。
「松山が、見つかったよ!」
疲れ果てていたが、失踪後一ヶ月以上経過しての朗報に元気づけられた。
「そうか、よかった! 今、どこにいるんだ?」
「憲兵につかまっていた。けど、今日、世田谷警察に移管された。日本人の身元引受人がいれば、釈放されるらしい。幸輝、行ってくれないか?」
「もちろんだ」
翌朝、美齢と二人で世田谷警察に向かった。
4
松山は、すっかり痩せて以前のぽっちゃりとした印象は遠く、眼光だけが鋭く光っている。
陸軍将校の制服を檻の中から認めたようで、明らかに敵意に満ちた視線を送ってきた。だが、その軍人が私であることに気付くと、表情が急に和らいだ。
「なんだ、近衛さんじゃないか。ちょっと見ないうちに、陸軍将校かい?」
松山の語気に、以前のような活力はない。眼の下は窪み、疲れきっている。
「私は近衛じゃない。高杉だ」
「知ってるさ。まあ、いいじゃないか、近衛さん」
松山は、力ない笑みを浮かべた。
背後には柏原刑事が立っている。以前にはない温厚な笑顔をこちらに向けた。階級章が、効力を発揮しているのだろう。
柏原は、言った。
「高杉准尉、本当にこの朝鮮人の身元を引き受けるつもりですか? この男、憲兵に引っ張られたやつですよ。韓国光復軍活動家の嫌疑をかけられています」
光復軍というのは、重慶の大韓民国臨時政府が抗日独立運動のために創立したばかりの軍隊だ。しかし、名目こそ軍ではあるが、帝國陸海軍に抵抗できるような装備も兵員も持ち合わせてはいない。
「光復軍など有名無実です。あとで彼からゆっくりと話を聞き、少しでも活動家の嫌疑があるようであれば、直ちに軍部に通報します」
もちろん、松山を釈放するための方便にすぎないが、柏原は額面通りに受け取ったようだ。
「さすが、帝國陸軍の准尉だ」
一通りの手続きを済ませると、松山は解放された。世田谷警察署の前に陸軍の自動車が停まり、高橋が我々を迎え入れた。
松山は、高橋の腕章を確認すると、聞こえないくらいの小さな声で呟いた。
「憲兵じゃないか……」
「ああ、そうだ」
高橋は相変わらず不愛想で、大きな背中を向けたまま運転席に黙って座っている。松山は怯えている様子だ。車は、柳田の家へと向かう。
到着すると、美齢は家に残っていた素材で昼食の準備を始める。私と松山は、居間に対坐した。
高橋が運転する車が走り去る音を聞くと、松山は一気呵成に話し始めた。
「ビックリしたぜ、近衛さん。まさか、陸軍将校になってるとはね。まあいい、着るものは変わっても考え方までは変わっちゃいないだろう? オレは、憲兵に捕まった。同胞のキムが裏切って補助憲兵になりやがったんだ。おかげで、連日ボコボコよ。けど、オレは一切口を割らなかったぜ」
松山は、この一ヶ月ですっかり形相が変わってしまっている。
「オレは、憲兵が許せねェ。大日本帝國が許せねェ。大韓民国独立のためなら、命も捨てるさ」
年下の松山を諭すように言った。
「命を捨ててしまったら、大韓民国が独立したとしても、それを見ることが出来なくなってしまう。簡単に、そんなことを言うもんじゃない。それに、もし松山が武力を行使して大韓民国独立を目指すとしたら、そこにはまた戦争の惨禍が生まれる。憎しみの連鎖は、平和には繋がらないだろう。私も、大韓民国独立のためにできるだけの尽力はする」
だが、父親を日本人に殺され、自身も憲兵に暴行を加えられた松山にとって、私の話は受け入れられるものではないようだ。
「近衛さんは、日本人だから分からないんでぇ。未来から来たって、日本人は日本人だ。なにより、陸軍の制服を着た男の言うことは何も信用できねぇ」
ニコリともせず断言する松山の前で、私はおもむろに制服を上下とも脱ぎ捨てた。
ふんどし一枚で、彼の前に直立した。部屋に暖房はないので、冷たさが肌を刺す。
「制服が気に入らないなら、いつでも脱いでやる。裸になってしまえば、私と松山には何の差もないだろう? 似たような姿をした、同じアジア人だ。私は、アジア全域の民族がそれぞれ希望する独立国家を築き、相互に助け合う真の大東亜共栄圏こそが理想だと思っている。松山も、その話に賛同してくれたじゃないか。共存共栄の関係を築くには、『許す』気持ちも必要じゃないだろうか? そして、松山には日本人を『許す』気持があるからこそ、はじめて会った日に清水巡査長から私を救ってくれたんだろう?」
松山は、ようやく笑った。
「警官から近衛さんを助けたのは、支那人だと思ったからだ」
「そうだった。でも、今回は私が松山を助けた。これで貸し借りはなしだろ?」
「まあな、あん時近衛さんを助けておいてよかったよ」
美齢が、テーブルに食事を運びながら言った。
「人の出会いなんてそんなものだよ。朝鮮人でも、支那人でも、日本人でも、関係ない。もちつもたれつ」
松山は、言った。
「近衛さん、とにかくありがとよ。近衛さんがいなかったら、オレは釈放されなかっただろう」
松山は、美齢が私と首相公邸で暮らしているのを聞くと大いに驚いたが、食事が終わる頃には、状況を受け入れていた。
松山を柳田の家に残し、首相公邸『日本家』に帰ることにした。寝室こそ別にしているが、今は美齢と二人で暮らしている。日中は市ヶ谷の陸軍参謀本部か駒込の理研で仕事をしているので、一緒に過ごす時間は決して長くない。しかしながら、この世界で孤独に生きる私にとって、彼女の存在は日に日に大きくなり、必要不可欠になっていった。寸暇を惜しんで取り組んでいる原爆開発による疲れも、食卓で美齢の端正な顔立ちを眺めていると、癒された。
5
年が明けた。昭和十七年、西暦一九四二年一月三〇日金曜日。凍えるような寒空の下を、高橋の運転するトヨダで市ヶ谷参謀本部に向かっている。
会議室に入ると、すでに東條英機首相が服部卓四郎作戦課長とともに座っていた。
原子力爆弾開発の進捗状況を報告するとともに、使用方法に関して提案することになっている。東條には二人きりで話すことを希望したのだが、作戦に関しては参謀本部と密に連携するよう命じられた。辻政信中佐は依然マレー作戦に従軍中だ。元来の相性なのかもしれないが、服部とは目を合わせるだけで不快だった。
まず、東條が話を切り出した。
「新型爆弾の開発、御苦労である。タ号研究の推移に関しては、仁科博士から報告書が届いている。君の働きを、非常に評価している。したがって、本日より少尉に昇進することになった」
机の上には、真新しい制服と制帽、そして階級章が置かれていた。
「光栄であります」
私は起立して敬礼した。東條と服部も、起立して敬礼をした。
東條は、続けた。
「君は少尉となったが、前線部隊に配属されることはない。タ号研究を推進するとともに、来るべき時局に対処する際、陸軍に必要な情報を提供することが任務だ。以降変わらず、臨機応変に活躍してもらいたい」
「ありがとうございます」
再び敬礼をしてから席に座った。
続いて、服部作戦課長が「タ号研究」に必要なウラン採掘の現状と濃縮施設の建設状況について報告した。
「まずウラン鉱脈だが、高杉少尉の進言通り、人形峠の鳥取県側で確認された。現在は企画院指示のもと、地元住民を動員して採掘準備が進められている。また、ウラン濃縮施設は舞鶴海軍工廠の近くに建設が決定された。荒勝博士が京都帝国大学理学部を動員して、遠心分離法による設計を急ぐことになった」
服部が発言内容を理解しているかどうか怪しかったが、荒勝博士から聞いていたことを正確に報告している。
「さて、」
服部は、私に視線を向けながら強い語調で命じた。
「君の望みどおり、大幅な予算と人的資源を割いて『タ号研究』に全面協力をしている。そろそろ、『必勝のための秘匿』というやつの内容を明かしてもらおうじゃないか」
東條は、背筋を伸ばしたまま無言で正面を見つめている。
「はい」
一礼してから、私はいよいよ服部を直視して話し始めた。
「開戦よりこれまでの戦況は、私が生きていた世界と全く同じく推移しています。このまま私が何の干渉もしなければ、五月二十七日、南雲中将率いる機動艦隊が広島を出港し、ミッドウェー島攻略作戦に赴くことになります。六月五日、南雲機動艦隊は、待ち構えていた米ニミッツ提督率いる空母『エンタープライズ』『ホーネット』『ヨークタウン』より、壊滅的な被害を受けることになります。事実上、機動艦隊は全滅します。私は、自らこの作戦に赴き、敵軍に先制して原爆投下実験を行いたいと考えています」
「ちょっと待て」
服部が、制止した。
「君は、陸軍将校でありながら、陸軍が開発した新型爆弾を、海軍に使わせるというのか!」
服部はいつも通り高圧的であったが、この男をやり過ごす方法に少し慣れてきていた。
「とんでもありません。帝國陸軍によって、作戦を遂行します! 原子力爆弾は、艦載機である海軍九九式艦上爆撃機に積載することは不可能です。陸軍の重爆撃機をウェーク島から飛ばし、米太平洋艦隊洋上五kmの地点に投下します。ウェークからミッドウェーの作戦海域までの往復飛行距離は、およそ三八〇〇kmとなります。この航続距離に耐える重爆撃機をご用意いただけないでしょうか?」
服部は、即答した。
「制式採用されたばかりの百式重爆撃機がある。しかし、信頼性と航続距離でいえば九七式重爆撃機の方が安心かもしれない。いずれにせよ、往復は不可能な距離だろうから、片道運用にならざるを得ないだろうが」
「では、九七式重爆撃機をご用意いただけるのですね」
そう言い終わった途端に、服部は反論した。
「新型爆弾を使用する攻撃目標が、米艦隊から離れた洋上というのはどういうことだ? ミッドウェー島占領後、その飛行場を利用してハワイに原爆投下した方が、米国にとって致命的打撃になるではないか?」
服部に対しては感情を殺して冷静に発言しようと決めていたのだが、この一言でその姿勢が一瞬にして崩れ去った。
「それはなりません! 米国市民に対し核兵器を使用すべきではありません。ミッドウェー洋上の米海軍に対し、この一回に限定し、原爆投下実験を目撃させます。その破壊力に、米軍は度肝を抜かれることでしょう。原子力爆弾はその爆発による破壊力もさることながら、人体に致命的な打撃を与える放射線を併せて放出します。放射能は、半永久的に土壌を汚染し、周囲数十キロと言う広範囲の大気を汚染します。爆風を逃れても、この放射能のために周辺住民は長い時間をかけて死んでいきます。まさに、悪魔の最終兵器なのです。人類が、絶対に使ってはならない兵器なのです。しかしながら、『最終兵器』を米国に先んじて帝國が開発に成功したことを知らしめるため、示威的に使用しようという作戦です。決して、人的被害をもたらす場所で使用すべきではありません」
ここで、東條が発言する。
「高杉少尉の言う通り、人類の平和を希求する皇軍が、そのような非人道的兵器によって市民を無差別に殺戮することは歓迎できない。そう思わんかね、服部大佐」
「はい」
服部は、東條の目を見ることはなく、短く返答した。
東條は、続ける。
「つまり、高杉少尉の作戦は、使ってはならない兵器を、米軍戦意喪失のためにやむなく示威的に使用するということだな。だが、服部大佐の戦略にも正当性はある」
「え?」
驚きから、声が漏れた。
もし東條が原爆をハワイに投下しようというのであれば、開発を中止せざるを得ない。自然と、眉間に皺が寄る。
「東條閣下、どういうことでしょうか?」
「つまりだ。原爆を人的被害なしに使用したとして、米国が講和の席に着くかどうかという問題だ。君が言うように、日米の工業生産力には圧倒的な開きがある。その生産拠点を原爆で徹底的に破壊される恐怖を強く印象付けることなくして、米軍が講和の席に着くとは思えない」
「その通りだ」
服部は、私を睨みつけながら頷いた。
東條は、極めて冷静に彼の理論を続ける。
「戦争を有利に終結させるには、サンフランシスコやロサンゼルスをはじめとする米国西海岸が壊滅するという恐怖を米国に与えることが不可欠だろう。ところがだ、ウェーク島からも、よしんばミッドウェーからも、米国本土に到達して戻ってこられる爆撃機はない。ミッドウェー島を失ったところで、米国が恐怖を感じ、降伏への道を探り出すことはないということだ。さらにもう一段進出し、ハワイ攻略が不可避になると、私も思う」
「確かに、通常兵器を想定すればその通りかもしれません。しかしながら、ミッドウェーで使用する原爆は、いわば最終破壊兵器です。米国は、ミッドウェーで帝國がそれを手にしたことを学ぶのです。ミッドウェー島を攻略すれば、ハワイ諸島は爆撃可能範囲になります。その時点で、帝國の次の攻撃目標が『ハワイ諸島』であることは、米国も察しがつくでしょう。これは、米国にとって大きな脅威ではないでしょうか? ホノルルが消滅する恐怖から、帝國が提示する講和条件を真剣に検討するのではないでしょうか?」
東條は、言った。
「確かに、そういうこともあり得るだろう。しかしながら、皇国が提示する講和の条件次第だろうな」
「当然、米軍の無条件降伏が求められる」
服部がそう言って、じっと私を睨みつけた。
「いいえ、降伏ではなく飽くまで対等な講和とすべきではないでしょうか。長期戦になってしまえば、帝國は必ず敗れます。有利な条件を提示できるうちに剣を納めるべきです。講話条件に関しては、科学者の私が考えることではありません。外交の専門家に、ゆだねるべきだと考えています」
東條が、思いついたように言った。
「専門家の意見の前に、君の主張を聞きたい。描いているのは、大東亜共栄圏を米国に認めさせるという例のあれかね?」
「そうです。英米蘭豪が支配するアジア全ての植民地を解放し、帝國がその独立を支援します。それと引き換えに、日本は支那から撤退して国民党蒋介石の重慶政府と講和いたします。また、英米蘭豪が植民地放棄を完全に完了した時点で、帝國がこの大東亜戦争で獲得した仏印・ビルマ・その他の占領地域から撤退することも盛り込みます」
服部が声を荒げた。
「バカバカしい。圧倒的な最終兵器を所有しながら、せっかく獲得した占領地域を手放せというのか?」
「そうです。それが、真のアジア解放、大東亜共栄圏ではありませんか!」
服部は、怒りに震えた様子で私から目を反らした。
東條は、おだやかに言った。
「講和条件に関しては、飽くまで高杉少尉の個人的見解として参考にはしよう。しかし、外交の問題は、参謀本部ではなく閣議で検討する事柄だろう」
「はい。飽くまで、意見として述べさせていただきました」
そう答えたものの、将来に対して著しい不安を感じた。その閣議で、果たして正しい大東亜共栄圏、東亜連盟の思想が検討されるだろうか? 石原莞爾もいなければ辻政信もいない連絡会議で、米国と対等の講和条件が議題に上がることが考えられるだろうか? もし日本がアメリカに無条件降伏を求めれば、アメリカはこれを飲まない可能性が高いだろう。となると、待っているのは長期戦だ。異なった時間流の中で、戦況推移が大きく異なる大東亜戦争が継続され、予期せぬ惨禍が襲いかかってくるに違いない。
私は思った。真の意味での大東亜共栄圏を建設するための敵は、この大日本帝國陸海軍および政府と官僚なのかもしれない。いや、それだけではない。戦勝に湧く日本国民全体が敵なのかもしれない。
この国家と国民全体を導ける存在はあるだろうか。ただ一つ、ある。そう、天皇陛下だ。そのことに、あらためて気がついた。原爆開発と並行して、なんとしても天皇陛下のお力を借りる方策を考えなければと思った。「国民」「政府」「軍部」、その全てを統帥できる、天皇陛下のお力を……。
だが、その方策はいまのところ考え得ない。
最後に、私は東條の目をしっかりと見据え、最大限の敬意を評しながら尋ねた。
「原爆の実戦使用の可否に関しては、天皇陛下にその是非を問うていただけるのでしょうか?」
東條は、「戦争遂行および終結に関する重要な決断は、すべて陛下の裁可を受けることになっている」とだけ、返答した。
6
その機会は意外に早く、それから二ヶ月が経過した四月上旬に訪れることになった。
「大東亜戦争完遂の為の対米処理根本方針」を決定するため、御前会議が開催されることになったからだ。御前会議というのは、天皇陛下の御前で国策を決定する臨時の会議である。開催日は、昭和十七年四月一日水曜日。
私の知る歴史では、昭和十七年には十二月二十一日の一回しか御前会議は開催されていない。時間流が元の世界とは異なっていることを、初めて強く意識する出来事だった。
四月一日、私は、永田町の首相公邸から憲兵高橋の運転するトヨダAA型自動車で宮城に向かうことになった。宮城というのは皇居のことで、御前会議は明治宮殿「東一の間」で開催されることになっていた。
「いってらっしゃい」
美齢がいつものように玄関先で見送ってくれた。屋外は、陽光溢れ、春らしい空が広がっている。戦時下とは思えぬ穏やかさが、周囲を満たしている。
まさに今から、昭和天皇裕仁陛下に謁見する。その緊張感たるや、何とも表現しようがない。胃のあたりが強く締め付けられ、口の中が乾ききっている。
遅れてはならぬと、私はかなり早めに出発していた。実際車に乗り込んでしまうと、時間があまりに早すぎることに気がついた。遠回りして、寄り道することにした。
憲兵高橋に、迂回を頼んでみた。
「すいませんが、英国大使館前を通って内堀通りを反時計回りに正門に向かってもらえませんか?」
高橋が、珍しく質問を返してくる。
「なぜですか?」
「いや、気負い過ぎて早く出発してしまったので、時間を調整しようかと」
「承知しました」
高橋は、無表情で答えると顔を正面に戻した。
実のところ、私は千鳥ヶ淵の桜を見ようと思いついたのだった。
永田町を出た車は、三宅坂で内堀通りを左折し、お堀に沿って北上する。やがて半蔵門を過ぎると千鳥ヶ淵公園を通過した。細長い公園には、道路に沿って見事な桜並木が整備されていた。景観は私が知る千鳥ヶ淵とは大きく異なっていて、堤に桜は植樹されていなかった。それでも、陽光に花弁を透かす桜の美しさは、心を強く打った。
「ちょっと停めてもらえませんか?」
そう言うと、高橋は車を路肩に停車させた。窓を開けると、桜の花の香りがすっと車内に漂ってきた。咲き誇る桜は、美しいとしか表現できなかった。不変な桜花の美に、しばし心を奪われる。陽射しが、どこまでも暖かい。
「ありがとうございます。出してください」
そう言うと車は再び進み出し、靖国通りを右折した。
「素晴らしい!」
思わず叫んでしまった。靖国神社に茂る桜がまさに満開で、風に花びらを散らせていたからだ。
「この街を、焼け野原にはさせない」
ぼそりと、声が漏れてしまった。
高橋は、無言のままハンドルを握っている。
「東一の間」に集まったのは、まさに国家の中枢と言える人物ばかりだった。内閣総理大臣東條英機、内大臣木戸幸一、枢密院議長原嘉道、海軍大臣嶋田繁太郎、海軍軍令部総長永野修身、陸軍参謀総長杉山元、企画院総裁鈴木貞一、外務大臣東郷茂徳の七名だ。私は、東條の横に小さく座った。
やがて、天皇陛下が姿を現した。一同、起立をして深々と礼をする。
陛下が玉座に腰掛けると、各人は静かに着席。見よう見まねでそれに倣った。陛下は、黙したまま坐していた。最初に口を開いたのは、枢密院議長の原だった。
「このたびは、東條内閣総理大臣の建議により、対米処理根本方針について話したい。その前に、まず、高杉幸輝陸軍少尉を紹介しなければならないだろう。少尉、起立して自己紹介をお願いする」
緊張はピークに達しているが、ここは毅然とせねばならない。
「私、高杉幸輝は、七十年後の皇紀二六七二年より時空転移装置によってやってまいりました。現在は陸軍に於いて『タ号研究』に従事しております」
陛下は、表情を変えることなく視線を落としている。
「それで、研究の進捗はどうなのかね?」
杉山参謀総長が大きな躯体を私に向けながら、質問をした。
「はい。新型爆弾はその基本設計を終え、各部品の生産段階に入っております。組み立て作業は今月末より開始され、翌五月の半ばまでに完了予定です」
会議は、先に大本営政府連絡会議にて決定された要項に沿って進行している。
「東條内閣総理大臣、新型爆弾登場による今後の戦局推移と、対米処理根本方針についてご説明願いたい」
原枢密院議長が、陛下に代わって質問を投げかける。東條は、あらかじめ用意した原稿に従って発言をした。
「新型爆弾は、原子力を用いたいわゆる核兵器です。その一撃で、半径2km以上の広範囲を一瞬にして灰燼に帰する破壊力を秘めております。また、核分裂時に発生する放射線は人体の細胞に長期的な悪影響を与え、周辺地域は数年にわたり人が住めなくなります。まさに、最終兵器と呼ぶにふさわしい究極の爆弾となります。これを米太平洋艦隊近海洋上にて投下し、帝國による新兵器の脅威を知らしめます。この最終兵器を以って、今般の戦争を終結に導きます」
これに、永野軍令部総長が発言を加えた。
「東條総理大臣、太平洋艦隊を威嚇したたところで、ただちに米国が降伏するとは思えない」
これに、鈴木企画院総裁が発言を連ねる。
「米国の工業生産力は、我が国よりはるかに優れている。原爆によって敵戦力を殲滅しなければ、彼我の戦力差は日に日に広がってしまうだけではないか?」
東條が、あらかじめ用意した回答を発言する。
「その通りです。ですので、新型爆弾の威力を宣伝すると同時に、米国が即時講和に応じやすい条件を提示することが必要になります。外務大臣、説明を願います」
東郷外務大臣が、続けた。
「鈴木総裁のおっしゃる通り、長期戦になれば戦況は帝國にとって不利になるばかりです。早期講和こそが、唯一勝利の手段となります。これは、未来を知る高杉少尉の譲れぬ主張でもあります。そこで、米国に対し、帝國も一定の譲歩案を提示せざるを得ません。まずは、南部仏印および中華民国からの撤兵を約する必要があるでしょう。一方で、対日資産凍結と石油禁輸措解除を要求します。同時に、欧米諸国のアジア植民地支配放棄を要求し、帝國がその独立を支援します。東亜各国の独立が速やかに完了したのち、我が国も駐留軍を撤兵いたします」
嶋田海軍大臣が、これに反論した。
「南方から撤退したのでは、そもそもこの戦争をはじめた意味がないではないか?」
杉山参謀総長がこれに追随する。
「その通りだ。はじめからハル・ノートの要求に従ったのと、なにも変わらないではないか」
これに対し、木戸内大臣が異議を唱える。
「大きな違いがあります。欧米に、植民地解放を約束させる。そして、東亜各国の独立を認可させる。これが東亜にとって大いなる前進でなくして、なんであろう」
これには、杉山参謀総長が反論した。
「帝國は、大東亜戦争開戦より四ヶ月、多大なる犠牲の上に南方地域を占領した。また、支那との四年に及ぶ戦闘でも、多大なる犠牲を生んでいる。東亜各国の独立と引き換えにこれら地域を手放したのでは、英霊たちに申し訳が立たないではないか」
東郷外務大臣が、これに質問をした。
「杉山参謀総長、帝國陸軍が真の意味で皇軍であるならば、東亜植民地の解放は十分な成果と言えるのではないだろうか? 英霊たちに申し訳が立たないというのは、帝國が欧米に代わって東亜を植民地支配できないという意味に於いてだろうか?」
杉山は、言葉を失った。
もしここで東郷外務大臣の発言を認めてしてしまえば、それは八紘一宇の精神を否定することにもなりかねない。
ここで、黙していた永野軍令部総長が東郷外務大臣を支援する発言をした。
「海軍としては、石油の禁輸が解除されるだけでも大きな成果だが、帝國の海軍力がこの東亜で米国に対し優勢を保ったまま戦争を終結させられることがなによりも望ましい。日米講和の早期実現を最優先とし、東亜各国の独立を支援するという基本方針に、海軍は異議ありません」
ここで、杉山参謀総長がさらに発言をした。
「しかし、それほど譲歩した条件でも米国が講和に応じなかった場合、どうする?」
東條は、毅然と回答した。
「その際には、ハワイに進出してこれを占領。米国本土、サンフランシスコあるいはロサンゼルスに対し、新型爆弾を投下します」
愕然とした。
東條英機は、場合によっては、米国市民殺戮も視野に入れているのだ。しかし、この会議の席で、求められぬ限り、発言する資格はない。
しばらくの沈黙が支配したのち、木戸内大臣が、思いもよらぬことを言った。
「陛下が、直々にご意見を述べたいとおっしゃっている」
東一の間は、さらに長い沈黙に包まれた。
陛下はゆっくりと、しかしはっきりとお言葉を述べられた。
「新型爆弾は、瞬間にして地表を焼き尽くすと聞いた。罪のない人たちも、そこに住む全ての動植物も、ひとしく滅し去るという。そのような人道に反する兵器の開発を、すべきではないと朕は思う。少なくとも、吾ら大和民族が、そのような残虐な爆弾を、人類に対して使用すべきではないと思う」
陛下の声が空間の隅々にまで染み渡ったような気がした。あまりの神々しさに、涙が溢れ出していた。
天皇陛下は、大日本帝國のことだけではなく、広く世界の平和を希求しておられる。
更に長い沈黙の後、原議長が口を開いた。
「高杉少尉、新型爆弾を使用しなかったあなたの世界では、この後帝國はどのような道を歩んだ?」
潤む眼を陛下に向けて、私はゆっくりと話した。
「三年後の昭和二十年八月、米国が帝國の二都市に対し原子爆弾を投下しました。私はその惨劇を避けるために、帝國による早期原爆開発に着手する決意を致しました」
陛下が、初めて私に目を向けて語りかけてきた。
「それでは、新型爆弾による米機動艦隊への威嚇攻撃は、やむを得ぬ選択だということか?」
私は、深々と頭を下げながら応えた。
「その通りであります。早期和平実現のための、やむをえぬ投下だと認識しております」
陛下は、「そうか」とだけ答え、それ以上何も語らなかった。
その後、予定通り、米機動艦隊周辺海域への原爆投下が裁可された。ただし、投下後における米国との講和条件に関しては、「再検討」ということで結論は先送りされた。
杉山参謀総長と島田海軍大臣が、支那およびインドネシアからの撤兵に最後まで難色を示したからである。
しかし、何と実りある御前会議だったことか。天皇陛下が、市民に対する原爆使用を決して認めないということを確信できたのだから。
会議が終わると、私は車をそのまま理研に向かわせた。原爆の完成期限まで、あと二ヶ月弱しかない。泊まり込んででも解決させねばならぬ課題が、山積されている。
7
開発に没頭するうち、十七日間が経過し、ついに四月十八日が訪れた。この日、帝國を揺るがす大事件が起こるはずだ。しかしながら、六月のミッドウェー海戦まで、「戦史」に介入することは許されない。戦闘の推移を、知っている時間流のままとどめておかねばならないからだ。私は、いつもと変わらず、早朝から研究所に赴いた。駒込の理研にあって、出来あがった部品から順に、ガンバレル式の原子爆弾を組み立てている。
昼休み、私は研究所の外に出て、空を見上げた。
十二時三十分頃、一機の双発機がエンジン音を響かせながら、青空の中を悠々と低空飛行していく。予定通りだった。歴史は、まだ大きく動いていない。
「ドゥーリットル機だ!」
心の中で、そう叫んだ。
空襲警報は、まだ鳴り響いていない。
そして、その機影を平然と肉眼で見上げていることを、あらためて不思議に感じた。本日、十六機のB―25中型爆撃機が、日本の歴史始まって以来の本土空襲を敢行している。私は、その瞬間を目撃していた。
初の本土空襲、それは次のようなものであった。
米空母「ホーネット」が、重巡洋艦「ノーザンプトン」「ソルトレイクシティ」、駆逐艦「ヴァルチ」「ベンハム」「エレット」「ファニング」給油艦「サビン」を随伴して、四月二日サンフランシスコから日本本土に向け出航。これに、ハワイ真珠湾から出航した空母「エンタープライズ」、重巡洋艦「ヴィンセンス」、軽巡洋艦「ナッシュビル」、駆逐艦「グウィン」「グレイソン」「モンセン」「メレディス」、給油艦「シマロン」からなるハルゼー提督率いる機動部隊が、四月八日にミッドウェー島北洋で合流。第16任務部隊として、この日四月十八日午前七時、東京から東北東およそ一一〇〇kmの太平洋上に位置した。
午前六時三十分、空母「ホーネット」は、カツオ漁船を徴用した特設監視艇「第二十三日東丸」に発見されたため、予定していた夜間空襲を断念。急遽、午前七時二十五分にB―25爆撃機が飛び立つことになった。
「ホーネット」を発見した第二十三日東丸は、軽巡洋艦「ナッシュビル」の砲撃と艦載機攻撃を受け、七時二分に沈没。敵艦発見の報を届けることなく、乗組員十四名が全員犠牲となった。
隊長ドゥーリットル率いる十三機は、抵抗を受けることなく正午には東京上空に達した。十二時二十分ごろ、B―25は新宿区馬場下町の早稲田中学校(現:早稲田高校)を目標にバラバラと無数の焼夷弾を投下。うち一弾が同中学四年生の小島茂を直撃。彼は、即死した。
私が見ている機影は、おそらくこの攻撃を終えたばかりのものだ。
さらにこの後、午後一時十分、葛飾区水元国民学校でも市民が犠牲となるだろう。国民学校高等科一年石出巳之助(十四歳)は教室の掃除を終え、校門を出て帰宅しているところを襲撃される。敵機に気づいた石出少年は慌てて校舎内に駆け戻るが、あろうことか、米軍機は校舎めがけて12.7mm機関銃を連射。窓を打ち破った弾丸が彼の右背中から腰にかけて貫く。
東京に向かわなかった三機のB―25は、それぞれ名古屋・四日市・神戸を焼夷弾で空襲する。空襲の被害は甚大で、死者四十五名、負傷者約四〇〇名、焼失家屋約二八〇戸に及ぶだろう。
しかしながら、当日夕刊は下記のように伝える。
けふ帝都に敵機襲来/九機を撃墜。わが損害軽微
東部軍司令部発表(十八日午後二時)
米軍機を見上げながら、私はこの事件を看過せざるをえないことへの自責の念を禁じえなかった。だが、これも講和のためにはやむをえぬことなのだ。私は、自身にそう語りかけ、納得させようとした。
夕刻五時過ぎ、理化学研究所に陸軍のジープが数台乗りつけてきた。中からは、服部卓四郎大佐が血相を変えて飛び出してくる。
「高杉少尉はどこだ!」
そう喚き散らしながら、研究所内へと駆けこんできた。
私は、粛々と原子爆弾を組み立てているところだった。激しい勢いで、作業場の扉が開いた。
「貴様、この空襲のことを知っていたな!」
手を休めて、顔を服部に向けて返答をした。
「もちろん、知っていました」
服部は、B―25追撃におけるすべての作戦行動を終え、真っ先にここに駆けつけてきたようだ。
「知っていたとは何事だ! なぜ、事前に通告しない。していれば、帝都防衛を担う帝國陸軍の航空部隊が、敵機を撃退できたはずだ!」
服部は、東京の防空網がやすやすと突破された責任を、誰かに転嫁したいのだろう。頭に血がのぼっている様子だ。
「大本営発表によると、九機を撃墜して損害は軽微とのことです。なぜ、そのように興奮なさっているのでしょうか?」
「貴様、本当のことを知っていて愚弄しているのか!」
私は、平静を装って応えた。
「本当のこと? ここで発言してよろしいのでしょうか? 一機たりとも撃墜出来なかったことを」
服部は、怒り心頭に発したようだ。
腰の九八式軍刀の柄を握り、すっと鞘から抜いて構えた。その形相は、いまにも私を斬りつけんばかりの勢いがあった。
「斬るのですか?」
なるべく冷静に応じているつもりだが、実のところは、全身が震えて身動きできないほど恐ろしかった。
服部はしばらく刀を上段に構えたまま静止している。
「帝都を敵機に爆撃されるとは、陸軍にあるまじき大失態だ。一般市民にも、多数の死者が出ている。貴様は、それを見捨てて平然と作業をしていた。それでも、帝國軍人か?」
服部の口調はややトーンダウンしている。言い終わると、刀を地面に向けておろした。
「服部大佐、今回の空襲は、陸軍はもちろん、海軍にとっても大きな衝撃です。この爆撃を期に、海軍内ではハワイを強襲して一気に対米戦争を終結させようという機運が強くなります。その第一段階として、例のミッドウェー島攻略が決定されるのです」
私は、組み立て中の原子力爆弾を指差しながら話を続けた。
「この爆弾をミッドウェー島海域にて敵太平洋艦隊洋上に実験投下するまで、『歴史上』の戦闘に干渉するわけにはいかないのです」
服部は、私を睨みつけながら反論した。
「ミッドウェーで原爆を投下すると決めたのは貴様だ。我々参謀本部作戦部ではない。貴様が決めた作戦など、遵守する必要もない。状況に応じ、我々が作戦を立案するのだよ。わかっているのか!」
私は、なるべくおだやかに発言を心がけた。
「服部大佐、それは違います。原案は作戦部からのものではないかも知れませんが、すでに御前会議で承認された作戦です。ぜひとも、成功に向けご尽力いただきたいと思っております。私が、作戦に干渉するのはこれが最初で最後になるでしょう。これは、私利私欲のためではありません。二三〇万軍属と八十万民間人が殺戮されるこの大東亜戦争を、被害を最小限にして終結させるためです。それこそが、私に出来る尽忠報国なのです」
服部は、厳しい表情を変えることなく言い捨てた。
「貴様の愛国心などどうでもよい。米国を打倒し、この東亜全域に大日本帝國の威信を響き渡らせるのだ。このような空襲が、二度とあってはならない。よもや、ミッドウェーまでに、再度爆撃はないだろうな?」
私は、心の中で失笑した。今日の空襲よりもはるかに壊滅的な空襲、十万人以上が焼死する東京大空襲が三年も待たずにやってくる。侵入する空の要塞B―29爆撃機の大編隊に対し、帝國陸軍は全くの無力を晒すのだ。しかし、「歴史」について服部に話しても仕方がない。この男には、己の立身出世が全てであり、たとえ正しいことであれ、それを阻むことを言っても無駄なのだ。
「ご安心ください。ミッドウェーまでに、次の空襲はありません。今回のドゥーリットル空襲は、連戦連敗の米国が放った精いっぱいの一撃に過ぎません。ミッドウェー作戦が成功すれば、二度と本土が敵機の脅威を受けることはないでしょう」
それを聞くと、服部は研究室から黙って出て行った。
湯川博士が、近づいてきて言った。
「危なかったな、高杉さん。あの男の眼は、君を本気で殺そうとしていたよ」
ようやく震えが止まって、硬直した身体が緩むのを感じた。
「ありがとうございます。けれども、彼が私を殺せないことは分かっていました。目の前にある、この原子力爆弾をなんとしても手中にしたいでしょうからね」
仁科博士が諭すようにゆっくりと言った。
「ああいう軍人には、今後歯向かわない方がいい。本当に、何をしでかすかわからない奴らだ」
「分かっています」