過去での出会い
第一章 街角
1
はるか天高く、空を透かす薄らとした雲が広がっている。微かに青さを湛えた大気が、冷たく澄み渡っている。晩秋なのだろう。
木造の一軒家、丸太の電信柱、低く入り乱れる電線。見回すと、そこはごくありふれた住宅街だ。しかし、不思議なことに、全く見覚えのない風景だ。
「果たして、どこにいるのだろう?」
自分がいまどうしてここに存在しているのか、皆目見当がつかない。気絶していたのだろうか? 意識が混乱していて、目を開いたまま身動きすることができない。ただ、路地の一角に茫然と立ち尽くすしかなかった。
そのうちに、目が、自然と動く存在を追った。
臙脂色の和服を着た中年女性が、十メートルほど先の十字路を足早に通り過ぎていく。訝しそうにこちらを睨んでいるように思えたが、錯覚かもしれない。
しばらくすると、人々の喧騒が、鼓膜の内側を漂うように広がってきた。視覚だけ回復していた意識に、聴覚情報が徐々に加わっていく。和装の女性が十人以上集まって、口々に何か囁きながら、遠巻きにこちらを眺めていた。
「不気味だわ。何なの、あの紫色の男と白い女は?」
そう、聞きこえた。「白い女?」、なんのことだろうか。慎重に首を捻り、後方に視線を移してみた。背後には白く輝く女が立っていた。
全く見覚えがないその女は、文字通り白く輝いていた。正確に言うと、全身に纏った真珠色の衣服が、ほんのりと発光して見えた。周囲の風景と著しい不調和をなすその白い女は、無機質な笑みを浮かべている。これほど精気が宿っていない笑顔を、かつて見たことはない。確かに、不気味だと思った。
意識がしっかりと回復してきたので、とりまく状況を冷静に分析することにした。
ここは、どこななのか? 白い女は、何者なのか?
いま一度秋空を見上げてから、目を閉じて記憶を辿ってみることにした。
高田馬場の安居酒屋で大学院の同僚と酒を煽り、小田急線の吊革に全体重をあずけながら下北沢の下宿に帰ってきたのが午前一時過ぎ。PCを立ち上げ、毎日更新しているブログを確認した。すると、原子力発電所を完全に廃止すべきだという私のブログ記事に対して、以下のコメントが寄せられていた。
「大学院で原子力を研究しているということはつまり、あなたは原子力活用で生計をたてようとしているということだ。結局、原子力ムラの住人と同じ穴の貉じゃないか?」
酒の勢いもあってか、私は立腹した勢いのまま反論のコメントを記入した。
「原発を撤廃しようと口で言うのは簡単だ。しかし、原子炉というものは、運転を停止したからといって、すぐに廃炉というわけにはいかない。万全の安全管理を継続しながら、解体処理には何十年という歳月を要する。原発撤廃のために本当に必要なのは、無責任な抗議活動などではなくて、専門的な知識と実行力ではないか? だからこそ、僕は原子力を研究している。間違いなく潰すために、正確な知識を学んでいるだけだ」
一気呵成に反論して、言いたいことを言い切ってしまうと、襲い来る睡魔に逆らえなくなっていた。ふと机上の目覚まし時計に視線をやると、二時五分を指していた。
記憶は、ここで途切れた。次に意識が回復した時、私はこうしてで秋空を見上げていた。
考えるのをやめて、ゆっくり目を開くと、前方を遠巻きにしていた婦人の数が、さらに増えている。私は勇気を振り絞って、誰ということなく、そちらの方角に向かって話しかけてみた。
「ここは、どこですか?」
どよめきが起こった。しかし、返答する者は誰ひとりいない。どうやら、私の声がはっきりと聞き取れていない様子だ。喉に上手く空気が通らず、明瞭な音声になっていないことが、自分でも認識できた。今度は、大声を出すつもりで、しっかりと発声した。
「ここは、どこですか?」
すると、おしゃべりがぱたりとやみ、人々はそれぞれ別々の方角に、無言のまま散りはじめた。最初に怪訝な視線を向けていた臙脂色の和服女性だけが、相変わらず眉間に皺を寄せながらこちらを睨んでいる。
「ちぇっつ、感じ悪っ!」
勢いあまり、大声をあげてしまう。そして、同時にある発見をして、続けざまに声を出してしまった。
「そうだ、これは夢なんだ!」
そう考えればすべて合点がいく。ブログ更新途中で睡魔に逆らえなくなり、そのまま机に伏せているのだろうか。あるいは、なんとかベッドに辿り着いたものの、落ちるように眠ってしまったのだろうか。そう、私の意識は、いま夢の中にあるに違ない!
「夢ではない、現実よ」
すぐ後方から、抑揚のない落ち着いた女性の声が響いてきた。白い女の声なのだろう。振り返ると、先程と同じ非現実的な笑顔で、彼女は直立していた。
「現実? 面白いことを言う、君は。僕は、酔っぱらって深夜に帰宅し、そのまま眠ってしまった。夢の中ではあるけれど、ハッキリと覚えている」
「夢だとハッキリわかる夢? それは、不自然じゃない?」
「当然不自然さ、夢なのだから」
不毛な議論だと思った。さらにもう一つ、目の前の世界が現実ではない確証を観察していた。
「第一、君自身が夢である証拠だ。君の衣服は、光に覆われている。現実世界に、そんなものは存在しない。さらにいえば、君の容姿が現実ではない何よりの証だ!」
女性は、表情を一切変えず、最初見たままの笑顔で返答した。
「私の容姿?」
「そうだ、君自身だよ。君は、僕が大好きな女優、真希ちゃんと瓜二つじゃないか。いや、声以外は真希ちゃんそのものだ」
白い女性は、一瞬苦笑いをして言った。
「なるほど。PCにたくさんあった画像は、好きな女優だったわけか……」
「君、僕のパソコンをハッキングしたのか……?」
そう言ってみて、矛盾に気がついた。彼女自体、自分の意識が生み出した登場人物だ。私の全てを知っていて、自然だ。
「とりあえず、場所を変えましょう。また人が増えてきたわ」
言われて振り返ってみると、背高帽の紳士、背広の会社員など、確かにギャラリーが増えていた。
「こっちに、行きましょう」
そう言いながら、白い女は私の左手を握った。
「冷たっ!」
彼女の手は、冷えきっていた。
「冷え症だから……」
白い女は、申し訳なさそうに俯いた。その所作を、可憐でかわいらしいと感じた。そして、手を引かれるままに後ろをついて歩くことにした。彼女の長い後ろ髪を見つめながらしばらく進むと、はるか正面に駅舎が見え、一両編成の旧型車両が停まっていた。
「あれは?」
指差しながら言うと、白い女は答えた。
「下北沢駅よ、幸輝」
彼女は、唐突に私の名前を呼んだ。けれども、夢なのだから、ことさら驚くことでもなかろう。
「下北沢駅じゃないのは分かる。毎日、使っている駅だからね」
「いいえ、下北沢駅よ」
白い女は、始終笑顔を崩さない割には、頑固だった。
「ところで、君には名前があるのかい?」
駅の話はそのくらいにして、彼女自身のことが訊きたいと思った。
「勿論! わたしは、ミサ」
「ミサか……。キリスト教的な響きがあるね。ところでミサ、この夢は妙にリアリティがある。まるで、現実のような空気感だ」
ミサは、立ち止まって正面に立つと、しっかりと私の目を見つめながら、少し大きな声で言った。
「だから、さっきも言ったでしょ。これは夢ではなく、現実よ」
「いやいや、現実の筈がない。僕は、こんな場所に来たこともないし、道行く人の服装、街並み、全てに馴染みがない。非現実的だ。ただ、妙に現実味を帯びた質感があるってだけだよ」
ミサは、立ち止まって私を見つめたまま、言葉を選んでゆっくりと語り始めた。
「確かに、幸輝がついさっきまで存在していた世界とは大きく違うわね。けれども、これは『現実』よ。真実なのは、『現在』だけ。『過去』は、すでに存在しない。『未来』は、未だ存在していない。つまり、幸輝にとっての『現実』は、いまここにある『現在』だけだわ。わかるでしょ?」
「わからない、ミサは難しいことを言う。もっとわかりやすく状況を伝えてくれないか?」
ミサは、両手を握って、顔を近づけて言った。
「つまり、『現在』の幸輝は、『過去』と呼ばれる時間の中で生きているということ。わかるかしら?」
「『過去』にいるだって? そんな莫迦な!」
驚くとともに、顔が歪んだ。
「幸輝が暮らしていた時間から見た『過去』。けれど、目の前の現実こそが『現在』。『現在』の積み重ねの遥か先に、『未来』がある」
ミサの言うことは、ほとんど理解出来ない。漠然と概要を把握するのが精いっぱいだ。
「ようは、これは夢じゃないといことかい? 僕は、過去の下北沢に、まさに存在していると……」
「その通り! ここは、現実。幸輝は、時空転移装置でこの時代に送られてきた。目的は、あなたが生きていた世界とは全く違う未来を生み出すため……。あなたは、選ばれた」
「選ばれた?」
「そう、選ばれた。だけど、今はそれ以上言えない」
「それにしても……」、私は頭の中に渦巻く疑問を整理しながら、順に吐き出した。
「その時空転移装置という機械で過去に送られてきたというのが、仮に事実だとする。けれども、過去に干渉してしまったら、未来が変わるわけだろう? 未来の世界に於いて、君や僕が消えてしまう可能性も否めないわけだ」
ミサは微笑みながら、淡々と返答をした。
「過去に干渉しても、出発点の世界に影響を与えることはない。今回の時空転移で、過去に幸輝が存在していたという新しい時間流が生まれただけ。新しい時間流には出発点とは別の『未来』が待っているけれど、出発点の時間流には影響を与えない」
ほぼ、禅問答の域に達してきた。
理解不能だ。
ミサは、相変わらず魂の無い無機質な笑みを浮かべている。すでに混乱し始めた私にとって、その笑顔は、優しくというよりも一層不気味に見えた。得体のしれない不安が襲ってくる。
その時、不意に背後から激しい怒声が響いた。
「貴様たち、その面妖な服装は何だ?」
振り返るよりも、胸倉を掴みあげられる方が早かった。背は低いが、体格のガッシリとした制服警官。その背後には、野次馬が先程よりさらにいっそう多く取り巻いている。
気がつくと、ミサはすっと後ずさりしていて、二十メートル以上離れたところに立っていた。
そして、唐突に別れの言葉を放った。
「さよなら、幸輝。いずれまた、会いに来る……」
かすかにそう聞きとれたが、それ以上何も語ろうとはせず、ただ笑いながら手を振っていた。最後に、「バイバイ」と小さくつぶやいたようにも見えた。
「おい、ちょっと! 待ってくれよ! このまま置いていくつもりか?」
叫び終わるか終わらないかのうちに、ミサは全身から眩いばかりの白い光を発しながら、そのまま空間から消滅してしまった。
「あっ!」
短く声が漏れた。同時に、取り巻く群衆からは、一斉に大きな声が湧き起こった。
2
警官が、私の襟元を絞り上げたまま、大声で詰問してくる。
「なんだ、いまの女は? なんだ、貴様の服装は?」
なんだと訊かれても、女のことは名前以外なにも分からない。それに、服装は面妖と言われるようなものではなく、ごくありふれたジーンズに紫色のダウンコートだ。警官が権力に任せて横柄な態度で迫ってきたことが、著しく不快だった。
「なんだと言われても、困ります。あの女は初対面だし、この服のなにが面妖なんですか?」
不快感が、表情と声色に反映した。
「なんだ貴様、本官を愚弄するつもりか? まあ、いい。とにかく、その上着を脱げ! 聞こえんのか? 上着を脱げというんだ!」
警官が襟元から手を離したので、言われるがまま、ダウンコートを脱いで渡した。彼は、内側のタグを念入りに見てから、奇声をあげた。よほど短気な警官のようだ。
「中国製! 中国というのは、中華民国のことだな? え? そうだろ? 貴様、国民党の密偵か? この支那人め!」
私は、警官の言動から考えて、この時代が戦前か戦中であろうと推測した。
戦後であれば、中国といえば中華人民共和国と考えるはずである。正確には、中華人民共和国が誕生するのは敗戦四年後の昭和二四年、西暦一九四九年のことだ。
私は、昭和史に詳しかった。それは、生い立ちに深く関係していた。そして、昭和史を知るほどに、反核への思いが強くなっていった。それが結果として、大学で原子力を専攻することにつながっている。妙なものだ。
いまだに、眼前の状況が夢なのか現実なのか判然としないが、今はそんなことに気をとられている場合ではない。
「中国製のダウンコートを着てはいますが、支那人ではありません。日本人です!」
「ウソをつくな! 名前と年齢を言え!」
警官の語調はどんどんと荒くなっていく。私は、咄嗟に偽名を使おうと思いついた。
「近衛文麿、二十四歳です」
警官が恐れ入るかもしれないと考え、知っている皇族の名を言ってみた。
「不届き者め! 近衛公を騙るとは許せん。署まで連行する!」
恐れ入るどころか、逆効果になってしまったようだ。警官は、さらに激しく興奮している。比較的無名な戦国武将の名前でも挙げればよかったと思い、苦笑した。
「何を笑っている?」
警官は、力いっぱい私の腕を掴むと、睨みつけながら言った。
「来い!」
来いと言われても、逮捕されるような悪事はなにひとつ働いていなかった。あまりの理不尽さに、じわじわと怒りが込み上げてくる。
これは現実ではなく、やはり夢なのだろう。
私はそう解釈して、再び横柄な態度に出ることに決めた。夢であれば、なにも恐縮し続ける必要はない。
「なんで連行されなきゃいけないんだ? 何をしたって言うんだよ?」
大声でそう叫んだ瞬間、鉄拳が顔面に激しく打ち込まれてきた。顎の骨に衝撃が走り、数メートル後方によろめいてから、腰が崩れた。
「この支那人め!」
そう喚きながら、警官は地面に倒れた私に対し、容赦なく蹴りを浴びせかけてきた。背中や腹部、そして肩や腕に、激しい痛みが何度となく襲いかかってくる。
こちらを遠巻きに見物する群衆は、誰一人警官を止めようとはしない。完璧なまでに、見て見ぬふり、を決め込んでいる。
なす術がなかった。一方的に蹴り上げられ続けた。この暴行が、いつまで続くのか分からない。身体を丸めて身を守ることしかできなかった。
ところが、唐突に状況に変化が起きた。
制服警官が、目の前に倒れてきて、白目を剥いて気絶したのだ。
何が起きたのか、全く理解ができない。
私は、警官が完全に気絶しているのを確かめた上で、亀のように縮めていた首を伸ばした。見上げると、私よりはるかに年少の、小太りな若者が、棍棒を握って仁王立ちしていた。
彼が、一撃で警官を殴り倒したようだ。
「近衛さん、話はずっと聞いてたぜ。まずは、逃げな」
若者は、キレのいい下町言葉だった。
「ありがとう」
だが、逃げるあてなど何処にもない。
「どこに逃げればいいのやら……」
途方に暮れてそう言うと、
「なんでぇ、宿なしかい?」
と、その若者がニヤリとしながら言った。
「まあ、そんなものかな……」
自身でさえ自分の置かれている境遇をよく理解できていない以上、他人に対して説明することは出来なかった。けれども、宿なしには違いなかった。
少年は、ぶっきらぼうにでこそあるが、あやしいほどに優しい内容の言葉を口にした。
「近衛さん。じゃあ、ひとまずはウチに来りゃあいいさ! 遠慮はいらねぇ」
「よろしく、頼みます」
行くあてがない以上、ここは彼の好意に甘える以外に道はない。少年は、「いいね」と言った後に、名を名乗った。
「オレの名前は松山だ。年齢は、数えで十八、近衛さんよりは若いだろ?」
数えで十八ということは、私の方が六歳ほど年上だ。
「さあ、警官が目を覚ます前にずらかろうぜ!」
言うが早いか、松山は下北沢の駅を背にして全速力で駈け出した。私は、息を切らしながら、必死でその後ろをついて行った。
3
路地をどれほど駆け抜けただろうか。
追ってくる足音は、ない。
体から汗が溢れるように流れ出し、立ち止まっても、乱れた息が落ち着かない。
「あがれよ」
松山は、二階建て木造アパートの玄関先でそう言った。私は、ゆっくりと敷居を跨いで、薄暗い建物の中に入った。屋内には小さな扉がいくつも見えて、各部屋にそれぞれ別の住人がいるようだ。
「安心しろ、このアパートの住人はみんな朝鮮人、支那人ばかりだ。官憲に通じている者はいない」
松山は、相変わらず大きな声でシャキシャキと話を進める。
「朝鮮人と、支那人? 松山さんもそうなのか?」
私は、率直に尋ねてみた。
「そうだ、オレは朝鮮人だ。近衛さんは、支那人なんだろ?」
私は、返答に窮した。どうやら、彼は私のことを中国人だと思って助けてくれたようだ。日本人だと告白したら、待遇がどう変化するのか予測できない。私は、ただ荒い呼吸を繰り返し、しばらく沈黙を守った。
「軟弱なヤツだ、これくらいで息上がってんのかよ! まあ、皇族だから仕方がないか……」
松山は、そう冗談を言い、いたずらっぽく笑って話を続けた。
「オレはお前の本名は聞かないよ。近衛って偽名で十分だ。なぁ近衛さん、なんだってお前は見たこともない珍奇な服を着て、奇妙な靴を履いているんだ?」
私は、上り框に腰をかけて片方の靴を脱ぎ、それを右手で持ち上げながら言った。少しだけ、呼吸が整ってきた。
「これか? これはスニーカーってもんだ。まあ、分かりやすく言えば、ズック。運動靴だな」
「運動靴ってことくらい、見りゃぁ判らぁ。にしても、そんな靴は見たことねぇな。それも中国製なのか?」
そう言われたので、スニーカー内側の表示を確かめてみた。
すると、私が口を開くよりも早く、松山がさっとスニーカーを取り上げて生産国表示を読んだ。
「Made in China ! お前、やっぱり支那人なんだな。ニイハオ!」
松山は、ふざけ気味に中国語で挨拶をしてきた。
「アンニョンハセヨ、松山。しかし、残念ながら、僕は支那人ではない」
「ははははっはは……」
松山は、大声で笑いはじめた。彼は、屈託がなく純粋で、話していてすがすがしい。
「支那人じゃないとすりゃ、近衛さんは何者なんだ?」
私は、なんと答えてよいか咄嗟には思いつかず、少し考え込んでから言った。
「奇妙な日本人、てとこだろうか」
「ははははっはは……、日本人だって?」
松山は、さらに声を大きくして笑っている。
「まあいいさ、近衛さん。ひとまず、上がりなよ」
玄関を上がってすぐが炊事場になっていて、大きな十人掛けテーブルが置いてある。松山は、乱雑に並んだ椅子の一つに腰をかけると、手招きをした。彼の正面に座ると、松山は急に声の調子を落として話し始めた。
「本当に日本人なのか、近衛さん? だけど、このアパートにいる間は、支那人ってことにしておいた方がいいぜ。なあに、服装、発言、どれもが日本人離れしてるから、きっと疑われはしねぇ。もっとも、支那人らしいってわけでもねぇんだが……」
そう言って、またケタケタと笑った。
「どうして支那人にしといた方がいいんだ? 僕は、日本人だよ」
「だからだよ。さっきも言ったろ、ここの住人は朝鮮人と支那人だ。オレも含めて、日本人は嫌いだ」
「特に……」
松山は、目に怒気を浮かべながら話を続けた。
「オレは、正力松太郎が許せねぇ! 知ってるか、近衛さん?」
正力松太郎といえば、日本での原子力発電導入を積極的に推進した人物で、「原子力発電の父」と呼ばれている。知らない筈がなかった。
「ああ、知ってるさ。でもなんで、そんなに憎いんだ?」
「関東大震災の時、正力は、警視庁官房主事だった。そん時、ヤツが流布した『朝鮮人が暴動』というデマが世間に広まり、オレのオヤジは暴徒化した民衆に殺されたんだ!」
松山の表情からは先程までの子供っぽさが完全に消え、釣り上がった眉の下で、眼光が鋭く輝いていた。
「そのせいで、オレはオヤジの顔を知らねえ。十八年前の話だ。オレが生まれてくる前に、オヤジは殺されちまった。なのに、正力のヤツは、今じゃあ新聞社長の椅子に座って、野球チーム作ってのうのうと暮らしてやがる。許せねぇ!」
私は、日本人だと彼に明かしたことを少し後悔した。彼が内に秘めている憎悪の強さを、一瞬にして感じ取ることができたからだ。
「わかったよ。中華民国の国民党重慶政府支持だってことにしておく」
そう返答するのが、精一杯だった。
「それで、いい。ここに住んでいるのは、オレもふくめて重慶仮政府の活動家が七人と、国民党重慶政府の活動家が二人だ」
私は、驚いた。過激な活動家のアジトに紛れ込んだのかもしれない。
重慶仮政府といえは、大韓民国臨時政府のことだ。李承晩が設立した当初は上海を拠点としていたが、支那事変により日本軍が昭和十二年(一九三七年)に上海を占領して以降は、南京を脱した中華民国国民党政府とともに、その拠点を重慶に移した。
一方、国民党重慶政府といえば、主席が蒋介石。毛沢東の共産党と対立しながらも、支那事変に際しては、国共合作で対日戦争を継続した。
「ここは抗日活動家のアジトなのか?」と、ダイレクトに訊く勇気は、さすがにない。
私は、すぐにでもこの場から立ち去りたいという衝動に駆られた。その恐怖感が、表情に現れたのだろう。
松山が、再びケタケタと笑いながら言った。
「大丈夫だぜ、近衛さん。オレたちは、過激な抗日パルチザンじゃねぇ。『人類平等・民族平等・国際平等』の三均を理想として集まってる、ただの同志だ」
少し安堵の表情を浮かべると、松山は続けざまに訊いてきた。
「ところで、近衛さん。あんたは、何主義なんだい? どうも、普通の日本人とは全く雰囲気が違う。かといって、共産主義者にも見えねぇし、逆に国粋主義者にも見えねぇ。なんとも捉えどころがねぇ!」
あらためて主義を訊かれて戸惑った。「ノンポリ」を気取ろうかとも思ったが、ポリシーがないわけでもない。
「明確なイデオロギーの徒ではないけれど……。敢えて言えば、『世界平和主義』ってとこだろうか」
「なんだいそれは?」
松山は身を乗り出してきた。
「世界平和主義? それは八紘一宇と同じことか? 日本を盟主として世界を一つにという、例のアレと……?」
私は、ようやく考えがまとまり始めたので、松山の言葉を制して語り始めた。
「いや。八紘一宇というスローガンとは、全然違う。僕の考え方はむしろ、松山の言う『三均』に近いかもしれない。僕は、大韓民国は独立すべきだし、満州から日本軍は撤退すべきだと思ってるから」
松山は、ついに爆笑しながら、大声で話し始めた。
「こいつはいいや! とんでもないヤツを拾い上げた。大韓民国独立? 満州からの撤退? そんなことを堂々と言う日本人見たことねえ! あん時警察につかまってたら、多分近衛さんは殺されてたぜ! オレに感謝しな!」
私は、自分の素性を明かすのはやめようと決めた。未来からやって来たと言ってもおそらく誰にも信じてもらえないだろう。狂人にされてしまうのがオチだ。
それよりも、松山のアドバイス通り、国民党支持の支那人として、当面はこのアパートに身を隠そうと思った。いまの私にとっては、朝鮮人や支那人の方が、市中の日本人よりもはるかに安全だと思えた。先ほど松山に述べたような、中韓からの撤退という考え方をもしこの時代の日本人に口にしてしまえば、たちまちのうちに取り囲まれて私刑されてしまうかもしれない。
松山は、再びあどけない表情に戻っていて、私の肩を叩きながら言った。
「近衛さんが、一番の過激分子だ! 気に入った! まあ、オレの部屋で少し休めばいい。痛むんだろ? 派手に蹴りあげられてたもんなぁ!」
そう言われて、顔面の痛みが、急に気になり始めた。
すでに呼吸の乱れは収まり、興奮状態からも覚めていて、警官に殴りつけられた顎がじんじんと痛んできている。
口内出血しているのだろう、血の味がした。
それに、背中や腹部、いや、全身のあちこちが鈍痛を伝えて来ている。
「お言葉に、甘えさせてもらうよ」
そうとだけ言って、私は松山の部屋に案内してもらった。遠慮なく布団に横になると、疲れ果てていたのか、瞬時に眠りに落ちてしまった。
目が覚めたときには、二〇一二年に戻っていることを願いながら……。
4
鳥の声が聞こえてくる。
目を開けて横を見ると、室内に松山の姿はない。早起きして、出かけたのだろうか。
磨りガラス越しにかすかに光が入ってきているが、外はまだ薄暗そうだ。
気を抜いてあくびをした瞬間、顎に激痛が走った。
「イテっ!」
過去の世界にいることは、夢でないようだ。
昨日感じていたほどの時代への違和感は、今は覚えない。一晩眠って目覚めてしまうと、この世界を現実として受け入れていた。人間の適応能力なのだろう。
布団から半身を起こしてみると、非常に肌寒い。だが、四畳半ほどの狭い部屋を見まわしても、暖房器具らしきものはどこにも見当たらない。
晩秋の冷気で一瞬にして覚醒したが、いま一度目を閉じて、ミサの言っていた言葉を思い返してみた。
「あなたは、選ばれた」
彼女は、確かにそう言った。そして、「時空転移装置」で過去に送られたと……。
だが、私は「時空転移装置」というものを知らない。まして、「選ばれる」ほど特別な存在であるとは思えない。確かに、大学院で共同原子力を専攻している点でいえば、同世代の中では特殊な学問を身につけているのかもしれない。しかし、原子力エネルギーに関する専門知識でいえば、私など秀でた研究者とはいえない。さらに、ストイックに研究に専念する同僚が多い中で、私はむしろ誘惑に弱い方でさえある。研究室からの帰途には必ず居酒屋に立ち寄ってしまうし、異性との交際にも人並みの関心がある。それゆえ、優秀な学生とは言い難い。
どう考えても、私の存在は、「平凡」の域を出ない。
あれこれ逡巡しても、私が選ばれる理由は見当たらない。答えのない思考に煩わされたせいか、前頭部がひどく痛み出した。もはや、これ以上考えるだけ無駄だ。とりあえず共同炊事場で顔を洗って、一度頭をスッキリさせようと思った。
炊事場はいまだ夜の闇に支配されていて、電灯のスイッチを探し出せない。
少しずつ歩を進めてシンクと思われるあたりに近づき、手探りで蛇口を探りあてて左に捻ると、それほど冷たくない水が流れ落ちてきた。井戸水なのだろう。
流れを掌に溜めて顔を洗い始めた瞬間、大きな音をたてながら玄関の扉が開いたかと思うと、松山と初見の女性が、土足のままアパート内に駆けあがってきた。
「逃げろ! 逃げろ!」「逃げろ! 逃げろ!」
松山は、ありったけの声量で連呼する。
女性の方も、「早く、早く!」と悲鳴に近い声をあげている。
松山は早起きして外出したのではなく、一晩中どこかに出かけていたのかもしれないと思った。
「何事だ?」
私がそう言うと、松山はいきなり怒鳴りつけてきた。
「近衛さん、いいから靴を履いて、いますぐ外に逃げろ! 憲兵が来る!」
アパートの各部屋は、静寂を保っている。目を覚まして動いているのは、私だけのようだ。
女性が、再び大声で叫んだ。
「キムが、寝返った! 早く、逃げて!」
そして、それだけ伝え終わると、慌てて玄関から外に駆け出して行った。
私は、スニーカーを慌てて履くなり、彼らに続いて屋外に飛び出した。
全力疾走。
背後から、連続する靴音が急速に大きくなりながら迫ってくる。
そして、アパートを走り出て路地を二つ曲がったあたりで、扉を蹴破る音と、韓国語の怒声が響いてきた。
追跡してきた憲兵が、韓国語を使っているようだ。
一瞬足を止めそうになったが、先を行く女性と松山は、振り返ることもなく、猛烈な勢いで走り続けている。私は、必死でその後を追った。
「連日の逃亡劇だ」と思った。
松山は小太りだったが、体格に似合わず足が早い。五分ほど路地を縫うように駆け続けたところで、松山は「柳田」と表札の出ている家の敷地に潜り込んだ。身をかがめ、音を立てないようにゆっくりと、庭の端を歩いて勝手口に回りこんだ。女性が、勝手口を静かにノックながら小さな声で言った。
「柳田さん、助けてください。美齢です」
囁きに近いかすかな声量だったが、扉はすぐに開いた。そして、家の中から現れた五十恰好の男性が、静かに口を開いた。
「入りなさい」
5
起き抜けに全力疾走したこともあって、室内に並べられた座布団に腰を落ちつけると、激しい空腹感に襲われた。考えてみると、この世界に辿り着いてからというもの、何も口にしていない。
部屋の真ん中に長方形の卓袱台があり、私と松山が並んで座り、反対側に女性が座った。彼女は眼を伏せたまま沈黙を保っていて、私と視線を合わせようとはしない。家主の柳田は、台所でなにか食事を準備しているようだ。漂ってくる香りのせいで、より一層空腹感が増す。
「身体の痛みはどうだ?」
松山は、私の顔面を覗き込みながら、微笑で言った。
「顎が一番痛む。腕や背中にも痛みはあるが、耐えられないほどじゃない」
「そうか、それは良かった。あんな警官でも、手加減してたのかもしれないな」
会話は、長続きしない。私は、卓の上に無造作に置かれている新聞が先程から気になって仕方がない。
「ちょっといい?」
そう言って手を伸ばし、新聞を広げると、それは讀賣新聞十一月一日号だった。年号は、昭和十六年とある。
「昭和十六年!」
「何を言っている? 知らないのか?」
私は、愕然として、何も答えることができない。二〇一二年の世界から一九四一年の世界へ、七十一年もタイムスリップしたようだ。
「ああ、実は、殴られる前の記憶が全くない」
私は、咄嗟にそう言った。自分でさえ理解できないタイムスリップを彼に説明しても信じてもらえないだろう。
「記憶喪失か? 打ちどころが悪かったのかもな」
彼は、疑うことなく信じたようだ。私は、記事に目を通した。
「時局防空必携 空襲は覚悟せよ」という見出しがあった。対米開戦にはまだ一ヶ月以上あるはずだが、この時すでに列強、つまりは米英蘭と戦火を交える決意が国民に浸透していたようだ。さらに、開戦前にしてすでに空襲不可避との認識があったことに驚いた。
「そうかもしれない。何も、思い出せないんだ」
私は、再度記憶喪失であることをアピールしてみた。女性は、黙したまま顔を上げない。
そこに、柳田が食事を運んできた。女性は、立ちあがって台所に行き、手伝いをはじめた。私は、じっと座っているのも申しわけないと思い、読んでいた新聞を置いて、腰を上げた。
「近衛さんは、座ってればいいさ」
松山に制止され、私はそのまま腰をおろした。次々と、皿が並んでいく。白飯、青菜の味噌汁、鯵の干物、典型的な日本の朝食だ。柳田は、女性の横に座った。
「さあ、頂こう」
柳田が言うと、私は即座に箸を取って、一週間ぶりに獲物を得た原始人のように食事をかきこんだ。
「遠慮なく食べてくれ」
白髪を蓄えた初老の紳士然とした柳田が、優しく微笑みながらそう言った。並んだ料理を瞬時に食べ終えてしまうと、柳田は私に話しかけてきた。
「近衛さん、あなたは皇族なのか?」
「違うよ、柳田さん。こいつ、記憶がないらしい。名前も、偽名だぜ」
松山がそう言うと、柳田は一瞬顔色を曇らせた。
「そうなのか? そもそも、なんで彼を一緒につれてきたんだ、松山」
「なに、警官が『この支那人め!』と叫びながらこいつを足蹴にしてたからさ、つい助けちまったんだ」
柳田は、疑念を顔全体に現しながら、ゆっくりと質問した。
「近衛さん、あなたは支那人なのか?」
「分かりません。なにも覚えていないのです」
すると、いままで沈黙を守っていた女性が、はじめて顔を上げて柳田の方を見ながら言った。
「この人、支那人ではない。私にはわかる。服装も、奇妙だし……」
「でも、こいつの着ている服はシャツもズボンも中国製だぜ」
松山が援護してくれたが、女性は首を振りながら言った。
「でも、違う」
私が女性の顔を凝視していると、彼女は顔をそっと上げて、どこまでも冷めた視線を向けてきた。
「彼女は?」
私は、松山の方に向き直って小声で尋ねた。すると、柳田が紹介した。
「彼女は、山田美齢」
美齢は私に向かって軽く会釈したが、それ以上自分から何かを話そうとはしなかった。柳田は、話題を変え、美齢に今朝の出来事について尋ねた。
「なぜ、飛び込んできた?」
松山が声を大きくして、興奮して話し出した。
「待ち伏せさ。帰ろうとしたとこを、憲兵に訊問された。キムのやつが、拘留されて何かしゃべったらしい。隙を見て美齢と二人で逃げ出してきたが、憲兵が追ってきやがって……。とりあえず、あさひ荘の連中にだきゃ伝えなきゃと思って立ち寄ったが、間に合わなかった」
美齢は、変わらず無表情のまま下を向いている。柳田が言った。
「松山は、しばらくここに隠れていた方がいい。美齢は、家に帰った方がいい。普段通りに生活した方が、怪しまれないだろう」
「わかりました。そうします」
美齢が、小さな声で淡々と答えた。柳田が、今度は私に質問を向けた。
「ところで近衛さん、なにか覚えていることはないのか? 記憶喪失だと言われても、にわかに信じるわけにもいかない。わかるだろう?」
私は、回答に窮した。
「おっしゃることは分かります。しかし、松山と会う以前の記憶がすっかりないのです。自分の家がどこかも、今がいつなのかも、どうしてここにいるのかも、分からないのです」
柳田は、ゆっくりと落ちついた口調で続けた。
「まあ、たしかに君は分からないことづくしだ。履いている靴、着ている服、どれも珍妙だしな」
会話は途切れ、茶碗の音だけが室内に響き渡る。私は、再び新聞を食い入るように読み始めていた。論調は、石油禁輸措置をとる米国に対し徹底して好戦的だ。記事が国民を扇動しているのか、国民の意志が新聞記事に表れているのか。何れにせよ、この国が対米戦に向かって一直線に突き進んでいることは間違いない。
この時点から十二年後の一九五三年にNHKが地上波TVを放送開始するまで、新聞とラジオがマスメディアの主流だった。
新聞によっておおよその時勢を把握してしまうと、私の関心は山田美齢に移った。話の流れから推してどうやら中国人のようだが、山田という名字は日本姓だ。なんらかの事情があるに違いない。けれども、冷淡に徹する彼女の言動に気押されて、個人的な質問をする気にはなれなかった。
しばらくすると、美齢は片付けのため台所に立ってしまった。柳田と松山が残された。
「松山と近衛さんは、しばらく二階の部屋を使ってくれ。だがその前に、もう少し近衛さんの素性を確かめねばならない。気を悪くしないでくれ」
柳田は丁寧な言葉遣いでこそあるが、どこまでも私を疑っている。陽に焼かれて変色した畳を、朝日が白く照らし出している。
「あの、白い女は誰なんだ?」
松山が、口を挟んできた。
「白い女?」
柳田は、視線を松山に向ける。
「そうなんだ、柳田さん。白く光り輝く女が近衛さんと一緒にいて、その女が忽然と消えたんだ」
「さあ、僕は気付かなかったな。何かの見間違えじゃないか?」
私は、女が「ミサ」という名前であること以外何も知らないし、彼女が消滅した事実も今となっては錯覚ではないかと感じ始めている。説明できない以上、しらを切るしかないと思った。
「ウソはよくないぜ、近衛さん。ありゃ幽霊なんて頼りないもんじゃなかった。たしかに近衛さんの後ろに立っていて、輝きながら消えていった」
柳田が、笑顔を浮かべながら言った。
「人間が、光りながら消える筈がなかろう。大方、逆光で見失ったと言うところだ。どうあれ、その女は、近衛さんの知り合いなのか?」
「いえ、知りません。僕は、誰ひとり知っている人間がいないのですから……」
その時、美齢が戻って来て再び私の前に座り、遂に口を開いた。
「あなたは、ウソをついている。信用できない。柳田さん、私は彼をいますぐ追い返すべきだと思う」
「たしかに、近衛さんは何かを隠している。そうだろ、近衛さん?」
私は、目を伏せて沈黙を保った。柳田は、続ける。
「しかし美齢、今彼を追い返すわけにもいかない。もし密偵だとしたら、少なくともここに私たちが集っているという情報は持ち帰られてしまう。それが、どんな累を及ぼすか分からない。近衛さんが行く場所がないと言うのならば、しばらく一緒にいた方が私たちにとっても安全だと思わないか?」
美齢は、これには返答せず、私を直視しながら一言だけつけ足した。
「私、日本人は嫌いだ」
美齢は、自宅に帰ると言って家から出て行った。柳田は、仕事のために、やはり外出していった。室内には、私と松山だけが取り残された。
「困ったもんだ。あさひ荘に戻るわけにはいかないし、職場に行くのも危ないだろう……」
「仕事してるのか?」
「ああ、柳田さんに斡旋してもらって、日暮里の町工場で働いてる。ずっと下町に住んでたんだが、半年前からあさひ荘に越してきたんだ」
どうりで、下町訛りが強いわけだ。私は、美齢に訊けなかったことを松山に質問してみた。
「山田美齢さん、どうして日本人が嫌いなんだ?」
松山は、首をかしげながら言った。
「彼女さ、あの通りほとんど自分のことは話さねえから、詳しいことは分かんねえ。けど、なんでも結婚したばかりの夫をノモンハンで戦死させたらしい」
私は、驚きを隠せなかった。彼女は、まだ結婚するほどの年齢に達しているとは見えなかったからだ。
「松山、美齢さんは未亡人なのか?」
「ああ、なんでも旦那さんは帝国陸軍の士官だったそうだ。軍隊に旦那を殺されたって、かなり怨んでるみたいだぜ」
「そうか、そんなことがあったんだな……」
私は興味のない素振りで返答したが、美齢のことが心に引っ掛かって仕方ない。冷たくされると、かえって相手のことが気にかかるらしい。彼女は、果たして何歳なのだろうか? もっと尋ねたいことはあるのだが、松山は二階にあがっていってしまった。私は一人卓袱台の前に座り、朝日に照らされた色褪せた畳の模様を、見るともなしに眺めていた。
柳田によって、外出することは禁じられてしまった。食事の買い出しなどは、松山が行う。それは、私にとっても都合が良かった。兎に角、痛む全身が癒えないことには、外出する気力さえ湧いてこない。
居間に置かれたラジオからは、支那事変の戦況や対米交渉の経過が頻繁に流れてくる。それを聴いているうちに、私はうとうとと眠りに落ちてしまった。
「昼飯、食うか?」
そう言われて、目が覚めた。すでに、焼き魚と白飯が並んでいる。
「なんだか、すまないな。なんの役にも立たないのに、食事にばかりあずかって……」
松山は、箸で魚を突きながら、自分のことを話し始めた。
「オレはさ、近衛さんの『世界平和主義』ってのが気になって仕方ねえんだ。そんな考え方、近衛さんはどこで仕入れてきたんだ?」
「さあなあ、なんとなくかな。満州事変だって、支那事変だって、日本の現地軍が勝手に侵攻したのを、政府が止められなかっただけだ。軍隊の威力で他国の領土をかすめ取るなんて、正しいとは思えないんだ」
松山は、これに同意しなかった。
「政府が止められなかったんじゃなくて、国民が侵攻を支持したからじゃないのか? オレはそう思ってる。日本人は、支那人や朝鮮人をバカにしてるんだ。同じ人間だと、思ってねえ」
松山の言うことにも一理はあった。五一五事件や二二六事件を経て軍部におよび腰になってしまった政府の責任は重いが、支那侵攻を国民が支持していることもまた、揺るぎようのない事実だ。新聞の論調は、帝国陸軍の行動を追認するものばかりだ。
「日本人も憎まれたもんだな。ところで……」
私は話題を変えることにした。
「美齢さんは、どこに住んでるんだ? 年齢は、いくつなんだろう?」
松山は、少年らしい笑顔で大声を出した。
「なんでえ、近衛さんは美齢にご執心か? 一目惚れてやつか? まあ、綺麗な容姿してるもんなぁ」
「ばか言うなよ。話題を変えたかっただけだよ……」
私は、本心を見抜かれた気恥ずかしさを隠すように、怒った表情を作りながら答えた。
「美齢は、代田にある戦死した旦那の家に一人で住んでるぜ。ここからは十五分も歩けば着くだろう。案内してやろうか? 会いたいんだろ?」
「違うよ、話題を変えたいだけだと言ったろ。それに、僕は外出禁止の身だ。外に出したら、松山だってただじゃ済まないんだろ?」
「しかしよ、好きな女に会いてぇって頼まれちゃ、考えちまうぜ」
「だれも、好きだとは言ってないし、会いたいとも頼じゃいねえ!」
松山の下町言葉が、私にも伝染した。
「ははは、随分ムキになるじゃねえか、近衛さん。まあ、いいや。オレも美齢のことは何にも知らねえ。まあ、オレは興味もないしな、年増の未亡人になんて」
私は、身を乗り出して尋ねていた。
「彼女、みかけよりも年齢いってるのか?」
松山は、私の肩を何度も叩きながら言った。
「いやいや、見た目通りじゃないか? 二十二歳らしいぜ。うまくいくといいな! 応援してるぜ」
「そんなんじゃない」
私は、下を向いて皿に箸をのばした。
二十二歳。
逆算すると、生まれは一九一九年、私より六十九歳年上ということだ。美齢がもし二○一二年に存命していたとしたら、九十三歳だ。
「三歳差だろ? ちょうどいいじゃねえか!」
松山が相変わらず茶化し続けているが、私は相手をせずに黙々と食事をした。
「もっとも、美齢は二度と日本人とは結婚しねえっていってたけどな」
夕刻六時になって、柳田が帰ってきた。
「どうだ、松山。近衛さんに関して何か分かったか?」
出しぬけに、柳田がそう訊いた。
「どうも、記憶喪失ってのはウソだな。そうだろ、近衛さん? いろいろ話をしてみたが、シッカリしてやがる。けど、ここがどこで、いつなのか知らねえってのは、どうやら本当みてえだ。新聞は隅々まで読んでるし、オレの話は上の空で、ラジオにばかり耳を傾けてやがった」
柳田は、私の目をしっかりと見ながら言った。
「やはり、正体不明ということだな。もうしばらく、外出禁止だ」
九時を回って、私は松山と二階の部屋に枕を並べた。松山は少年らしく、横になるなり寝息を立てている。私は板張りの天井を見上げたまま、いま一度考えた。
ミサは、私は「選ばれて」この時代に送られたと言っていた。その役割は、何だろうか? こうして身を隠し続けていては、時代に影響を与えることはないだろう。何をすればよいと言うのか?
戦争へと突き進んでいくこの国を制止する力など、私は持ち合わせていない。一方で、私はこの国が三百万人もの犠牲を払って敗れゆくことを知っている。都市は焦土と化し、郷里の広島は原子爆弾によって十五万人以上の市民とあらゆる動植物が殺戮された。その成り行きを、黙って眺めることしか出来ないのだろうか?
天上の木目を眺めているうちに、意識が小学四年生の授業時間へと跳躍していった。天井から吊るされたスクリーンに、原爆投下直後の広島市街の写真が投影されている。担任の井村先生が、一瞬の閃光とともに高熱で人間が蒸発し、石畳にそのシミだけが残った悲惨な光景に関して説明を加える。猛烈な爆風が、すべての木造家屋を吹き飛ばす。地獄絵図さながらの原爆投下の様子に衝撃を受けた私は、家に帰って「原子爆弾」の恐ろしさについて、母親に仕入れたばかりの知識をありったけ語り尽くした。母親は多くを語らなかったが、我が家も原爆とは無関係ではないとだけ話してくれた。
「幸ちゃん、お爺ちゃんはな、原爆投下の時は小さな子供だったけ、山口県防府市にある親戚の家に疎開しよって助かったんよ。けどな、爺ちゃんのお母さん、つまり幸ちゃんのひい婆ちゃんはな、土橋らへんにおって即死じゃったそうじゃ」
幼心に、ひい婆ちゃんが原爆で亡くなったという事実が強烈に焼き付けられた。
「かあさん、他にも戦争で死んだ家族おるんか?」
「かあさんもようは知らんけど、ひい爺ちゃんは海軍の兵隊さんで、原爆よりずっと前に、乗ってた軍艦が沈んで戦死してしまったそうなんよ」
私の曽祖父は、海軍の兵隊で、原爆より前に戦死した。そして、曾祖母は、原爆により即死した。この瞬間から、私にとって大東亜戦争は歴史でなく、身近に起きた出来事となった。なぜ大東亜戦争が起きたのか? 原子爆弾はなぜ落されたのか? 当時の私には何も判らなかった。そして、その謎を解きほぐすことが、大きな命題へと変質していく。まずは、原爆の悲惨さを描いた「はだしのゲン」という漫画を図書室から借りてきて読んだ。それを終えてしまうと、図書室にあった沖縄戦や神風特攻隊を描写した児童向け小説を、片っ端から読み漁った。最後に、「太平洋戦争」というタイトルのつけられた、小学生向けの分厚い百科事典を買ってもらい、何度も何度も読み返した。
その「太平洋戦争」の巻頭に掲載されていた「空母赤城」の白黒写真がディテールまで明確に脳裏に蘇ってくるとともに、天上板の不規則な模様は視界から消え去っていった。そのまま、深い眠りの世界に落ちていた。
6
軟禁状態は、結局幾日も続くことになった。家の外に出ることは許されなかったが、それは却って怪我の療養には良かった。柳田と松山は外に出て夕刻まで戻らないし、美齢は姿を見せない。私は、日中のほとんどを、ラジオを聴くことと新聞を読むことに費やし、畳に横になっては取りとめもなく思考を巡らせた。しかし、自分が何をなすべきなのかについては、何の解答も得られないままだった。
そうして二週間が過ぎた頃、美齢が久しぶりに姿を現した。柳田、松山、美齢、そして私の四人が揃って卓袱台を囲んでいる。陽は、すっかり傾いて室内は薄暗い。裸電球の光に照らされて、各々の表情が幻のように淡く浮かび上がっていた。弱々しい光に照らされた美齢の肌は、ことさら白く、透き通って見える。彼女は清楚な洋装をして、長いスカートを履いていた。
柳田が、ゆっくりと話を始めた。
「近衛さん、あなたはこれからどうする? 松山は新しい職場で働き始め、間もなく新たな下宿に移っていく」
松山と美齢が、私の顔を黙って覗き込んだ。
たしかに、このまま何もせず、毎日を無為に過ごすのは面白くない。世話になり続けるわけにもいかないだろう。
けれども、他に行くあてはない。
「何か、お役に立てることはありませんか? 僕には、どこにも行くところがありません。抗日破壊活動でなければ、何でもいたします」
柳田は、苦笑した。
「言ってくれるじゃないか。われわれが、何者かもよく知らないのに」
「申しわけございません」
自分の思い込みを咄嗟に口にしてしまったことを悔いた。
柳田は、相変わらず温厚に笑っている。
「まあいいさ。少なくとも、親日的には映らないだろうしね」
「とにかく、君の素性をそろそろ明かしてくれてもいい頃じゃないか? 支那人というのがウソだってことくらい分かっている」
柳田は、そう言いながら美齢の顔を見た。
美齢は、射るような鋭い眼光で私を直視していた。
冷徹な視線がもたらすであろう効果の予想に反して、私は美齢をとても美しいと思った。だが、情欲の高揚は、この際隠しておくべきだろう。
私は、思い切って真実を話すことにした。それが、この数週の逡巡で達した唯一の結論だった。
「本当のことを話します……」
皆が私に注視した。この二週間、誰ひとりとして私の素性を尋ねてこなかった。信用に足る人間かどうか、じっと観察していたのだろう。
「僕は、七十一年後の二〇一二年からやって来ました」
そう打ち明けると、まだ表情にあどけなさの残る松山が、大声で笑った。
「おいおい、近衛さん。もうちょっとましなウソを……」
茶化そうとする松山を、珍しく語気を荒げて柳田が制した。
「黙れ、松山! 近衛さん、続けて」
美齢は相変わらず無表情だが、関心が高いのだろう、視線を外さない。
「本当なんだ、松山。でも実のところ、どうしてこの時代に辿り着いたのかさっぱり分からない」
「目的もなく、過去に現れたか?」
少しハスキーな声と、外国人らしさの残るイントネーションで、珍しく美齢が口を開いた。
私は、美齢の眼底にまで届きそうなくらい鋭い視線を送り返しながら、話しを続けた。
「目的は知らない。何者かに選ばれて、強制的に送り込まれたようだ。ミサという白く輝く女が、そんなことを言っていた。だから、なにかしらの役割はあるんだと思う。けれどもそれが一体何か、今のところ全く分からない」
美齢は、一瞬たりとも目をそらさない。強い興味を抱いているのは間違いなかった。その興味の対象が、話の内容になのか、異性としての私の存在になのか、凍りついた表情からは見当がつかない。
「近衛さん、あなた未来では何してたか?」
美齢は立て続けに質問をしてきた。私は、今度は全員を見渡してから、応えた。
「まず僕の名前だけど、本当は近衛じゃない。高杉、高杉幸輝。早稲田大学の理工学術院先進理工学部に通う大学院生で、専門は原子炉設計工学だった」
「原子炉?」
柳田が言葉を挟んできた。
「そうです。核分裂反応によるネルギーの利用方法を研究しています。この時代にはまだ実用化されていない未来の技術です」
「そのエネルギーは、武器に使うのか? 何かの動力源か?」
美齢が質問を重ねる。松山は、ただ呆然と聞いている。
「核爆弾という途方もない破壊力をもった最終兵器にもなるし、平和的に利用すれば強力な動力源にもなる。残念ながら、世界で最初に実用化されるのは、最終兵器としてだったけれど……」
「いつのことか?」
美齢の関心は止まらない。
「昭和二十年八月六日。いまからおよそ四年後、アメリカによって、私が生まれ育った広島に原子爆弾が投下された。その一発で、罪なき広島市民十五万人以上が、一瞬にして虐殺された。赤ちゃんも、幼い子供も、女性も老人も、あらゆる生命が爆発と同時にこの世から消滅したんだ」
柳田が、ゆっくりと訊いた。
「高杉さんは、そんな恐ろしい兵器を作る研究をしているのか?」
「僕は、違います。一瞬にして大地を焦土と化し、放射能という手に負えない『有害物質』を半永久的に放出し続ける原子力施設を、この日本から廃絶するために、研究をしていました」
興奮して語り始めた私に、美齢は冷静に質問を重ねてくる。
「四年後、日本はアメリカと戦争をしているということ? 支那事変はどうなる? 中華民国はどうなる?」
しばらく呆然と聞いていた松山が、ここで口を挟む。
「待てよ美齢さん、柳田さんも。近衛さんの言うことが本当かどうか証明できないぜ? 第一、七十一年も先の未来から、人間がやってこれる筈はねぇ。どうもオレは、近衛さんの言うことが信じられねぇ」
「信じなくてもいい。でも、僕はこのあと日本になにが起きるか知っている。証明することもできるだろう」
「おお、どうやってだい? 下駄投げて、明日の天気でも当ててみるかい?」
松山が、いつもの調子でおどけ始めている。
私は、しばらく考えてから応えた。
「明日十一月十七日、臨時帝国議会衆議院本会議で、東條英機首相が施政方針演説をする。そのラジオ放送が、日本で初めての議会放送だ。明日、そのラジオ放送を聴いてみればいい。その演説内容は……」
みなが、固唾を呑んで聞き入っている。私は、美齢が正座を解いて右側に脚を崩す動きに気をとられてしまい、一瞬の静寂が狭い部屋を包み込む。視線を美齢の艶めかしい太股から中空の定まらぬ一点に移してから、私は話を続けた。
『日本は自衛のために南部仏印(現ベトナム)に進軍した。しかしながら、アメリカ・イギリス・オランダは報復として日本を経済封鎖し、石油を禁輸した。これは、支那事変解決を阻害する敵対行為だ。けれども、ヨーロッパでの第二次世界大戦の戦禍がアジアに及ばないよう、日本は外交交渉を続けることで、平和的に難局を乗り切りたい』
「だいたい、こんな内容だったと思う」
そう話をしながら、頭の中では全く別の想念が、ライブ特効のスモークの如く突如として湧き起こってきた。それは、広島・長崎への原爆投下を阻止できるのではないかという思いつきだった。「原子爆弾の投下」は、人類史上もっとも恥ずべき出来事として私の中で位置づけられている。
いつものように目覚め、いつものように朝食を済ませ、学校に向かい、職場に向かい、家事をしていた無辜の市民が、何一つ事態を把握できないまま、唐突な原子力エネルギーの炸裂によって、一瞬にしてこの世から消滅した。この人類史上最悪の非人道的殺戮の発生を、阻止できるのではないかという妄想が膨らんできたのだ。原子が核分裂する時のように、それは急激に脳内で連鎖反応を起こし、激しい爆風となって私の身体中に広がった。漠然とではあるが、自分が「選ばれた」理由がそこにあるような気がした。それは、なぜか確信に近い重みさえ伴っていた。しかし、具体的な方策を思いついたわけではない。
松山は、そんな私の脳内化学反応になど全く気付くことなく、私の発言に対して律義に返答をした。
「じゃあ、明日の放送を楽しみにしようじゃないか。で、近衛さん、いや高杉さんの言うことが本当だったとして、あんたはこの後どうするつもりなんだい?」
松山が言った。
私は、しばらく考えてから言った。
「本音を言えば、なんとかこの愚かな戦争をやめさせたい。けれども、それはかなわないだろう。十日後の二十六日には、ハル・ノートといわれるアメリカからの外交文書が届く。日本が日露戦争以降に獲得した権益を全て放棄しろという内容だ。これが最後通告と受け取られ、日米開戦決定の最終判断材料となってしまう。今からこれを止める手立てを、僕は思いつかない。けれども、四年後の原爆投下であれば、まだ回避させる時間があるような気がする。いや、何としても原爆投下を阻止しなければと、思い始めている。これは、原子力を研究する科学者の端くれとしての、夢なのかもしれない」
柳田が、言った。
「夢か。その夢を現実にするために、高杉さんはどうしようと考えているんだ? そして、原爆投下を阻止できたとして、日本だけ救われれば良いということか?」
穏やかな口調だが、眼光が鋭くなっている。
「それは、違います。原爆投下を阻止するだけでは、片手落ちだと思います。日本は、明治維新以降、欧米からの技術革新を輸入すると同時に、帝国主義という支配思想まで模倣しました。朝鮮や台湾、支那の一部がその模倣帝国主義の具体的実現地として確保され、その富を簒奪してきました。これは、私の考える真の大東亜共栄圏の理想とは程遠いことです。原爆を阻止して日本を守るだけでは、意味がありません。片手で日本に起こるべき惨劇を阻止しながら、もう片手で、大日本帝國の拡大した植民地主義を根絶しなければと考えています」
しばらく口を閉じていた美齢が、珍しく笑みを浮かべながら言った。そこには、嘲りの意志がはっきりと形になっていた。
「絶対無理だ。そんなことをこの日本で声高に主張したら、即刻憲兵に捕まるだけ。リンチされて、殺される」
「だろうね。僕がいま言ったことは、結局『ハル・ノート』に示された条件となんら変わりのないことだから。でも、誰かが危険を承知で政府と軍部に正面から対抗しなければ、広島・長崎の惨劇を防ぐことはできないと思っている。その『誰か』が、この世界に本来存在しない筈の『僕』の役割なのかもしれない……」
私の中で、使命感とも呼ぶべき思いに火がついていた。閉塞感に覆われた二〇一二年に生きていた時には、このような熱い思いに駆り立てられることは一度もなかった。一九四一年という、吸いこんだばかりの時代の空気が、私を変質させたのかもしれなかった。
私は、まもなく勃発するだろう対米戦争がどのような経緯をたどり、どのような結末を迎えるのかを知っている。その「知見」を以てすれば、周辺諸国を巻き込んだ末に大敗を喫した大東亜戦争を、最小限の戦渦で収束させることが出来るかもしれない。さらに、アジア諸国を、欧米および日本による帝国主義的植民地支配から解放し、本来の意味での大東亜共栄圏を築き上げることができるかもしれない。そうやって数多くの無辜の生命を救うことこそ、この「時空転移」で私に課せられた使命なのではなかろうか。
「どうやって、行動を起こす?」
美齢はおもむろに立ちあがり、長い四肢を動かしながら近づいてきた。なんともいえない、熟し切っていない女独特の香りが漂ってきた。それに酔いしれて溺れそうになる自分を抑えながら、視線を天井板に向けて応えた。
「具体的な方法は、まだ考えていない。実際のところ、この使命感はついさっき不意に僕の中で爆発したばかりなんだ。だけど、最後まで日米開戦を強固に反対した山本五十六聯合艦隊司令長官に会えば、何か糸口がつかめるかもしれないという気がしている」
松山は間髪いれずに言った。
「夢物語だ。山本司令長官に市井の人間が会えるわけがねえ。おまけにこちらはお尋ね者だ。日本を転覆させるには、反政府勢力を結集して、クーデター起こすしかねぇよ」
松山は、若いだけに威勢がいい。
私は、諭すようにゆっくりと答えた。
「それこそ夢物語だろう。在日朝鮮人が一斉に蜂起したとしても、警察と軍隊に鎮圧されるだけだ。違うか? それに、朝鮮人の全てが抗日感情を持っているわけじゃないだろ。喜んで日本に来ている者も多いはずだ」
「じゃあ、どうするつもりなんだ?」
今度は、柳田が訊いてきた。
カウンター案は何もなかった。誰を頼れば山本五十六長官に近づけるのか、想像もつかない。とはいえ、何かしらアクションを起こさなければ、歴史は私の知る通りに進行していくだけだ。
「わからない。柳田さん、正面切って、大本営に意見する手段はないでしょうか?」
その手段を思いつく者などいる筈がなかった。
これまでも、幾人かの思想家や政治家が、統帥権を振りかざして政治に介入する軍部の姿勢を批判してきたが、そのたびに彼等は逮捕され、場合によっては処刑されていた。
しばらく続く沈黙を破ったのは、美齢だった。
「そんな夢物語、高杉さんが、一人で考えてればいい。それより、お前が知る歴史では、国民党政府は日本軍を排斥したのか?」
美齢の関心は、蒋介石率いる国民党重慶政府の未来にのみあるらしかった。
「その答えは難しいよ、美齢さん。日本軍を支那から排斥したのは、アメリカとソヴィエト連邦だ。国民党の勝利でもなく、共産党の勝利でもなかった。対米戦争に敗れた日本軍が一九四五年に撤退してしまうと、共通の敵を失った中華民国は再び分裂してしまう。国民党と共産党の激しい内戦が、再び始まったんだ。そして、国民党は共産党に敗北して、蒋介石は台湾に逃亡した。結果、毛沢東主席の中国共産党によって中華人民共和国が建国されることになる」
冷静な美齢が一瞬戸惑った表情を浮かべた。
「ウソだ、ウソ。激しい内戦で中華民国が分裂して、共産主義国家が誕生する? なんのための抗日だったのか?」
私は、中国が歩む、さらにその後の未来についても語ろうと思った。無表情で、眼球の奥深くに感情を固く閉じ籠めている美齢が、心ならずも狼狽する姿を楽しみたいのかもしれなかった。それは、いじめっ子が好きな女の子に痛烈な意地悪をする心理に近い残酷さだった。
「いまから十数年すると、毛沢東は大躍進政策という無謀な農工業増産策を国民に強いる。結果、二千万とも五千万とも言われる中国人民が餓死することになったんだ。さらに十年ほど経つと、大躍進政策の失敗で実権を失いつつあった毛沢東が、今度は文化大革命と銘打って、敵対する政治家や思想家などを弾圧し始めた。そして、取り戻した権力をより盤石なものとするため、インテリ、資本家などの、思考力と財力を持つものを無差別に粛清していった。『疑わしきは罰する』いや『疑えば抹殺する』ほどの勢いで、反抗の芽は悉く摘んでいかれた。結局、粛清という名のもとに虐殺された人民の数は、一千万人を優に超えたと言われている。日本軍が支那事変で中国人民に与えた人的損害を遥かに上回る人民が、中国共産党政府の手によって惨殺されたんだ。日本軍が撤退した後に中国人民に待っていたのは、自由でも平和でもなく、より残虐な圧政だった」
美齢の表情は、完全に硬直して青ざめていた。
何も語ることができないほどの衝撃を受けているようだ。
変わって、柳田が朝鮮半島の未来について尋ねた。
「日本敗戦後の朝鮮半島は、どうなりましたか?」
私は、事実をなるべく簡略に聞かせようとして言った。
「日本軍が撤退するということはつまり、朝鮮半島から防衛力が皆無になると言うこと。中華民国と違って、朝鮮は正規軍と呼べるような軍隊を持っていませんから……。治安維持していた日本軍が消滅してしまうとほぼ同時に、ソヴィエト軍が北方からあっという間に侵攻してきました。それに対峙する形で、アメリカは南側から軍を入れました。結果、北緯三八度線を以て、朝鮮半島はアメリカとソ連で分割統治されてしまいます。そして、一九四九年八月に李承晩がアメリカを背景とする大韓民国を建国すると、金日成がソヴィエトを背景とする社会主義国、朝鮮民主主義人民共和国を建国することになります。こうして、米ソという大国の対立によって分断されてしまった朝鮮半島は、一九五〇年になると遂に二国間で戦争を始めます。北にはソヴィエトの兵器が供給されるとともに、中国の人民解放軍が参戦し、南にはアメリカを中心とする国連軍が参戦しました。この対立は激しい内戦となり、三年間に亘って夥しい数の戦死者を生み、国土を荒廃させました。正確な数は判りませんが、二百万人以上の一般市民が犠牲になったと言われています。結局は休戦という形で戦闘は終結しましたが、最終的な決着はつかないまま、二〇一二年になっても朝鮮半島は南北に分断されています」
一息に話し終わった時には、柳田の表情が硬くなっていた。
松山は、相変わらずの軽い口調で言った。
「つまり、アメリカが日本を打倒しても、支那にも朝鮮にも平和は訪れなかった……。いや、日帝支配時代にはなかった激しい内戦に巻き込まれて、国民が犠牲になったってことかい?」
「その通り」
私は、即答した。それが、私が知っている歴史だからだ。
「大日本帝国は、その帝国主義を自ら葬り去ることで、大韓民国の独立を支援し、中華民国国民党重慶政府と手を握らなければならないと思う。それが、東亜の平和と安定を図る唯一の方法かもしれない。そういう時の流れを生み出さない限り、中韓は無益な内戦で悉く破壊されてしまうんだ。日本・朝鮮・中華民国が共存共栄することによってはじめて、本当の意味での大東亜共栄圏が誕生すると思う。平和で民主的な、真の大東亜共栄圏が……」
私は松山に語りかけながら、自らの歴史観に自己陶酔した。
柳田は、冷静だ。
「いいじゃないか、その真の大東亜共栄圏という考え方。私たちは、日本打倒を目的とするパルチザンではない。日本による植民地的支配から解放され、対等な独立国家を建設するのが目標だ。民族が安心して暮らせる国を作りたいだけ。もし高杉さんが語ったような暗黒の未来が中朝に待ちうけているのなら、米国が日本に勝利したところで、何の意味もない」
美齢は、目に強い意志を表しながら、少し癖のあるイントネーションで言った。
「共産党による圧政で資本家が虐殺されるというのが本当なら、上海にいる私の家族も危ない。国民を殺戮する政府なんて、最低だ」
この屋根の下に集まっている者の意識は、国境を越えて、ひとつにまとまりつつあった。
「まずは、日本を変えなくちゃいけない。なんとしても、政府の要人と話をしなければ」
私がそう言うと、松山が間髪を入れずに鋭い口調で反論した。
「まずは、明日の議会放送を聞いてから判断しようじゃねぇか。高杉さんが、本当に未来からやって来たのかどうか。なあ、柳田さん、そうだろう。こいつが、頭のおかしい妄想癖の病人じゃねえって証拠はどこにもねぇ」
私は、多少の不安を覚えた。この世界の時間は、自分の知っている歴史通りに流れているのだろうか? もし私の存在によって、元の世界から枝分かれした時間流に身を置いているのだとしたら、この先はどうなっていくのだろう?
答えは、判らない。
ただ、明日を待つことしかできない。
7
「然るに英米蘭諸国は、この帝国の当然なる自衛的措置を迎うるに猜疑と危惧の念とをもって資産凍結を行い……」
箪笥上に置かれたラジオの正面に坐して、私、柳田、美齢の三人は、東條英機首相の施政方針演説に聞き入っていた。東條首相は、文脈上不自然な箇所でところどころ言葉を詰まらせながら、あらかじめ用意した原稿を読みあげている様子だ。
陽の翳った室内に、どこからか外気がそっと吹き込んできて、肌を冷やす。しかし、暖房器具は見当たらない。畳の冷たさを遮る座布団に座り、半纏を羽織ってなんとか寒さを凌ぎながら、ラジオに向かっている。
松山は、今朝早くどこかに出かけたまま、夕刻になった今も戻って来ていない。
東條の演説は、昨日私が言った内容とほぼ違わぬ内容だ。
柳田は驚きを隠せず目を開いたまま私を凝視し、美齢は不気味そうにラジオのスピーカーあたりを茫然と視界に入れている。
ラジオ以外の全ての音が世界から消え去ってしまったかのように静まりかえった室内に、東條の猛々しい声だけが延々と響き渡る。沈黙を破ったのは、美齢だった。
「東條首相の演説は、高杉さんの言ったとおりだ」
一方、私自身はといえば、一種の違和感とも表現すべき不思議な感覚に襲われていた。確かに、東條首相の演説は、私にとって過去の歴史的事実に過ぎない。だがしかし、いまそれが、現在進行形で「起きて」いる。文字や映像による記録ではなく、「知っていること」が「現実」に形を変えていく。「痛み」というものは、どんなに言葉を尽くして表現しても、どんなに鮮烈な映像を作成しても、実際にその「痛み」を伝えることはできない。同様に、眼前の現実は、どんな資料よりも、どんな映画よりも生々しく、却って非現実的にさえ感じられた。
「ああ、本当だろ。言ったとおりだった」
私は、それ以上の言葉を、何も継げなかった。
東條の演説が一段落すると、美齢は何も語らず正座を解いて、台所へと向かった。日本茶を淹れにいったようだ、急須のふたを開けて茶葉を落とす音が聞こえる。
聞くともなしに美齢の動きに耳を傾けていた時、柳田が不意に言った。
「さあ、どうする高杉さん。あなたが未来からやってきたということを、もはや私は疑わない。あなたが昨日言っていたことは、おそらく事実なのだろう。とすれば、日本はやがて焦土と化し、我々の朝鮮半島は米ソに分割統治され、中華民国は滅びるということになる。もし高杉さんが、そんな未来への流れを止めて、平和な東亜連盟を築くために動こうと言うのならば、我々は同志だ。さて、これからどうする……」
私が考えて黙りこんでいるうちに、美齢が湯呑を運んできた。私は、そっと湯呑に口をつけて、少しだけ茶を含んだ。
「おいしい。ありがとう」
私は、美齢の目を見ながら礼を言った。ほんの少しだけ、美齢がほほ笑んでいるように見えたが、気のせいかもしれない。
美齢は、再び正面に正座すると、煎茶には目も配らず私に鋭い眼光を向けながら言った。
「まずは、何から行動を起こすか? 計画を立てなくちゃ。高杉さんが、本当に日本の帝国主義に立ち向かおうと言うのなら、私は協力する」
私は、日本が日露戦争以降に獲得した権益を全て放棄した世界のことを夢想した。満州および支那から撤退すれば、中華民国重慶政府と日本の和平交渉が成立するだろう。そうなれば、国民党が中国共産党に倒される内戦の惨禍を回避できるに違いない。また、大韓民国が独立すれば、朝鮮半島が南北に分断されることも無い。
私は、何も語らず、瞑想するかのように自己の思考に没していった。誰ひとり、口を開くものはない。いつのまにか、誰かがラジオの電源を切っていて、室内は張りつめた空気が凍結し、時間が止まっているかのようだ。
数分は経過しただろうか。私はようやく考えがまとまって、話を始めた。
「日本軍に、戦争をさせよう。僕が知っている歴史通りに……」
美齢が、正座を崩して太股を起こし、卓袱台に両手を突きたてながら、大声を出した。
「どうしてか? 日本、アメリカと戦争しながら、支那でも戦を続けるのだろう?」
美齢が睨みつけるように、詰問口調で言った。
「そうだ。日本軍は支那での戦争を拡大する。間もなくアメリカと戦端を開くと同時に、帝国陸軍は香港へと進撃を開始するだろう」
「なぜだ? 日本が香港を攻撃する、たくさんの支那人が死ぬ。違うか?」
「そうだ。その通りだよ、美齢さん。でも、今からそれを制止する方法を思いつくことができない。進撃の準備はすっかり整っている。開戦の暴発は、今からでは止められそうにないんです」
美齢との会話に、柳田が割って入る。
「開戦を止められないのであれば、開戦の日時と日本軍の作戦行動を教えて欲しい。進撃を阻む戦略を、立てられるかもしれない」
私は、体裁を取り繕うことはやめて、端的に自分の考えを述べた。
「国民党重慶政府や大韓民国臨時政府に情報を漏洩したくはありません。だから、何も教えることはできません」
美齢は、今にも襲いかかってきそうな厳しい表情を見せた。柳田は、少し声を荒げながら即答した。
「高杉さんは、日本軍に勝たせたいということか?」
「その通りです」
陽がすっかり落ちて暗くなった室内で、三人ははっきりとは見えないお互いの顔を凝視しながら、沈黙したまま対坐した。
柳田は、ふと立ち上がって、裸電球のスイッチを入れた。弱い黄白色の光が三人の緊張した表情を、ぼんやり浮かび上がらせる。
「日本がアメリカに勝ったうえで朝鮮半島と支那から撤兵しなければ、東亜連盟実現への道が開けないと思うんです」
私は、ゆっくりと思うところを述べはじめた。
「なぜ?」今度は、柳田と美齢が同時に言った。
「どうしてアメリカが日本を開戦の窮地にまで追い込んだのか、その理由を考えてみたんです。戦争というものには、必ず双方に思惑があります。アメリカが日本を徹底的に叩きつぶしたのは、目的があるからです。自由世界と民主主義のためなどというのは、耳触りのいいプロパガンダに過ぎないと思うんです」
「つまり……」、私は一呼吸おいてから話を続けた。
「敗戦後にアメリカが真っ先に手をつけたのは、武装解除と財閥解体です。民主主義のための新憲法を公布するのは、それから一年以上経ってからのこと。つまり、軍部に牛耳られた政権と、それを支えた財閥の経済力の双方を潰すことが最優先だったということです。ではなぜ、大日本帝國の軍事力と経済力を排除したかったのか? そう考えてみました。それは、日本が獲得している権益を、アジアから駆逐したいからじゃないかと思えるんです。生じた空白に、アメリカが入りこみたい、ただそれだけではないのかと。支那をはじめとするアジア地域での権益確保、門戸開放が、対日戦に関するアメリカの目的だと思えます。いま日本が支那と満州から撤兵したら、これ幸いとアメリカが反共を大義名分に支那や朝鮮半島に軍隊を送りこみ、結局は日本に替ってアジアの支配体制を築くだけではないでしょうか」
「だから……、」、湯呑の茶を一気に飲み干してから続けた。
「支那をはじめとするアジアに対する米国の野望を、まずは粉砕しておかなければならないと思うのです。そうしなければ、中華民国は、米英に蚕食されるだけかもしれない。いや、きっとそうに違いありません。しかも、ソヴィエトが米英の支那進駐に対し、指を咥えて傍観するはずがありません。独ソ戦が終結したら、必ず南進してくるでしょう。となれば、結局のところ、ソ連に支援された中国共産党と、アメリカに支援された国民党との激しい内戦が勃発します。どちらが勝つにせよ、中国人民に待っているのは悲惨な殺戮だけです」
これは、飽くまで推測に過ぎなかった。しかし、日本敗戦後の歴史を振り返ってみると、大勢に於いて間違いはないような気がしている。日本が撤退した朝鮮半島は米ソ代理戦争で分断され、ベトナムも、フランス支配から解放した日本軍が滅びてしまうと、米ソ代理戦争の激しい戦火に晒されたではないか。アメリカが、アジアの経済権益を狙っていることは、明白だ。
美齢、柳田とも、私の分析に異論を挟むことはなかった。
「じゃあ、どのタイミングで支那撤兵と満州国返還を行うつもりか?」
美齢が、落ち着いた表情に戻って尋ねてきた。私は、漠然としたままの考えをゆっくりとまとめながら、返答をした。
「まずは、空母および戦艦からなるアメリカ太平洋艦隊を殲滅しなければならないでしょう。海軍が無力化すれば、アメリカは支那への進駐が不可能になる。さらに言えば、戦後に起こったアメリカのアジア侵略戦争、朝鮮戦争やベトナム戦争の全てを回避できるかもしれません。アメリカ海軍を壊滅させたうえでなければ、東アジアにおける真の平和と安定は訪れないような気がするんです。米国の脅威を排除した後にはじめて、日本軍は東亜連盟建設に向け、支那・朝鮮から撤退すべきでしょう」
柳田が、声を出して笑った。
「アメリカの軍事的脅威を排除し、東アジアの平和を維持するだって? 言っていることが、大本営と変わらないじゃないか。それに高杉さんは、失礼ながら、帝国陸海軍のことを何も分かっちゃいない。太平洋上から米軍を駆逐した大日本帝國が、ある意味米国の要求通りに、支那から軍を徹すると思うか? 世界最強の米国軍相手に勝利をおさめた勢いで、より強大な軍隊をアジアに向けるだけだろう。自ら朝鮮半島や満州、台湾を手放す理由は、何もないからね」
私は、動じることなく言った。
「日本がアメリカと戦端を開いたのは、米国領土を占領し、支配下におさめるためではありません。経済封鎖で死地に追い込まれた日本経済を守るためです。満州と支那での権益を守り、そして、禁輸によって断たれた石油資源をインドネシアの油田によって確保しようとしたのです。言ってしまうなら、こと対米戦に関しては、自存自衛のための戦いとも言えるのではないでしょうか。やっていることは、欧米が植民地を利用してブロック経済に活路を見出しているのと同じです。アメリカはアジアの権益を狙っているので、そうした日本の動きを許容できない。ゆえに、日米は開戦せざるをえなくなったのです。真の大東亜共栄圏を築くには、アメリカに対し圧倒的に優位な立場を築くしかないでしょう。その上で、ようやく中華民国、大韓民国をはじめとするアジア各国が欧米と対等な独立国としての立場を築けるのではないでしょうか? 問題は、大日本帝国が北支、満州、朝鮮半島、台湾などから撤兵し、アジア諸国の独立を支援できるかどうかにかかっています」
柳田が言った。
「結局、大筋において軍部の見解に酷似していると思う。考えてみたまえ。武勲を求めるだけの帝国陸軍エリート将校たちはどうだ? 彼らにあるのは己の立身出世欲のみであり、東亜連盟などという理想にはこれっぽっちも根ざしていない。海軍将校も大差ないだろう。戦争によって欧米に対し圧倒的に有利な立場を築けたとしたら、神国日本、天下無敵の『皇軍』だとますます息まいて、暴走するだけだろう」
柳田は、軍部の横暴を何年にもわたりまざまざと見せつけられていた。満州事変、二二六事件、盧溝橋事件、いずれも、下剋上的世相に呼応した青年将校が、独断専行で成果を上げようと暴走した結果だ。
私は、そうした将校の暴走を抑制する手段として、一つの可能性を思いついていた。
「皇軍だからこそ、欧米の国では考えられない、勝利の上での撤退も可能だと考えています」
美齢は、あきれた調子で言った。
「高杉さんは、皇軍がそんな神聖な軍隊だと思っているか? 皇軍が支那でした残虐非道な殺戮はね……」
私は、その話を遮った。
「皇軍が神聖だなんて思ってはいません。いろいろと問題はあるでしょう。しかし、彼らはたった一言があれば、完全撤退をするはずです。なにせ、誇り高い皇軍なのですから」
柳田が、私の言わんとすることを理解したようだった。
「天皇……?」
「そうです、天皇陛下です。陛下の詔勅が出れば、皇軍は誰ひとり異議を唱えず退くと思うのです。天皇陛下は、世界平和を希求しておられる。それが、大日本帝国の希望です」
私が話し終わると、美齢が絶望的な調子で言った。
「高杉さんが、天皇と話をできるはずない。陛下の姿を直接見た国民はいないだろ?」
私は、笑みを浮かべながら、美齢に言った。
「美齢さん、絶望は、諦めた瞬間に訪れるものです。私には、まだ希望がある」
私は、その「希望」の根拠に関して、一切言及しなかった。実のところ、具体的な計画を思いつたわけではない。ただ、一連の思考でそういう結論に達したに過ぎない。無責任な楽観論と揶揄されても仕方がない。
だから、それっきり黙り込んでしまった。
裸電球に照らされた場所だけが物の形状を明らかにしていて、遠ざかるに従って闇が全てを隠していた。松山は、まだ帰って来ない。
「松山のヤツ、遅いな」
私は、話題を変えた。時計はすでに六時を回っている。
「確かに、遅すぎる」
美齢はそうとだけ言うと、夕食の準備をしに台所に立ってしまった。柳田は、心配そうな表情を浮かべつつ、黙して座っている。
結局、この日、松山は帰って来なかった。
8
陽が昇った。陽光が、畳の目を伝いながら室内を急激に明るく照らし、陰影を鮮やかにする。
十一月十八日。
ワシントンでは、来栖・野村両駐米大使とハル長官との間で、避戦に向けた最終交渉が行われている頃だ。
一方で、大分県佐伯湾に集結した南雲忠一中将率いる第一航空艦隊が、択捉島単冠湾に向けて出航している頃でもある。真珠湾攻撃の準備が、粛々と進んでいるはずだ。
柳田は、松山を探しに、夜明け前から出かけてしまった。何らかの事件に巻き込まれている可能性が高いと考えているようだ。
警察か憲兵に逮捕されたのだろうか? もしそうならば、松山はなぜ逮捕されたのだろうか? 実のところ、彼はどんな活動を行っているのだろうか? 疑問が次々と湧き起こってきたが、美齢が朝食を運んできた瞬間、意識が彼女の表情に集中した。
家には、私と美齢の二人だけになっていた。
彼女は、白いシャツに紺色のロングスカートという洋装で、朝日を浴びて煌めく生地が、より一層清楚な印象を演出している。
二人きりであることを意識してしまうと、声をかける事が憚られた。彼女は、美しすぎた。美齢は、人間と言うよりは、「女性」そのものだった。寡黙で、必要なこと以外は多くを語らない。それゆえ、謎が深い。そして、貫くような冷たい視線が却って、私の中に潜む征服欲を刺激した。白くスッと伸びた手足が、いかんともしがたい衝動を私に走らせるのだ。
美齢は、外出する様子がなかった。
食器を挟んで無言のまま対峙していると、隠し込んでいる劣情を見透かされているような気がした。他愛ない会話で、気を紛らわせる必要があった。
「美齢さん、松山は大丈夫だろうか?」
美齢は、箸を置いてからゆっくりと話し始めた。
「わからない。仲間だったキム、あさひ荘の住人、憲兵の手先として使われてた。多分、脅されて補助憲兵を引き受けさせられたんだろう。自分の身を守るために、官憲の手先になる卑怯者、後を絶たない」
キムや松山はどうして憲兵に捕まるのだろうか? どんな活動を行っているのだろうか? もし危険な活動家なのだとしたら、この無口な美齢もまた、信用してはいけない破壊活動家なのだろうか? 私には、それをはっきりと尋ねる勇気が湧かなかった。
「私たちが何をしてるか、聞きたいよね?」
美齢は、私の心中が見えているかのようだ。先ほど美齢に感じた性的な興奮も、すべて見透かされていると考えた方が良いのかもしれない。
私は、黙ってうなずいた。
「はっきりとは言えない。けど、松山はいろいろなものを盗んでいる。工場や、倉庫から。だから、現行犯逮捕されてるかもしれない。松山は、朝鮮人。取り調べ、厳しいと思う。反政府分子でないか、問い詰められてると思う」
私は松山が泥棒だと初めて聞いたのだが、それほど驚きはしなかった。それよりも、美齢のことが気になった。
「美齢さん、あなたも窃盗団の一員なのですか? 松山が逮捕されたのだとしたら、あなたにも調べが及ぶ可能性があるのですか?」
美齢は、表情を変えずに冷静に答えた。
「私は、実行犯ではない。でも、関わっている。そして、あのアパートに出入りしていた。いつ尋問されても、おかしくない」
美齢は、犯罪組織の中で一役担っている。それが抗日運動のためなのか、あるいは単に金銭目的なのか、知る由もない。この時私の心に湧きあがってきた感情は、甚だ意外なものだった。
私は、彼女を守りたいと思った。
罪を犯しているのであろう美齢を、警察から匿いたいと思った。
「美齢さん、しばらくはここを出ない方がいいんじゃないですか?」
「それは逆にダメ。家に帰らなくなったら、ますます怪しまれる。普段通りに、暮らさなきゃ」
なるほど、美齢の言うことには一理ある。
では、いま私に出来ることは何かあるだろうか?
美齢を守ろうにも、私は彼女の暮らす家さえ知らない。さらに、官憲から彼女を匿う人脈もなければ、智恵もない。
とすればやはり、この国に起こる戦争の惨禍、より具体的に言うならば、無差別空襲と原爆投下を阻止することに意識を集中するしかないのか。
このまま柳田の家に隠れていては、美齢を助けることも、アメリカに虐殺される市民を救うこともできない。なんらかの行動を起こさなければ……。気ははやるが、行動の指針は見えてこない。
再び長い沈黙を保っていると、美齢は立ち上がって台所へ行き、急須を持って戻ってきた。そして、肩を寄せるようにして、私のすぐ横で日本茶を注ぎ始めた。
距離が、近い。
十代後半から二十代半ばまでの女性だけが放つ、なんとも独特な匂いが鼻腔の中で広がって、私の脳の一部が麻痺し、同時にある種の神経に爆発的な電気信号が流れた。
気がついたときには、強引に美齢を抱き寄せていた。私の両腕に締め付けられた美齢は、蛇に巻きつかれたネズミの如く、全く身動きがとれない。
「守るよ。僕が、守ってみせる」
国を守ろうというのか、アジアを守ろうというのか、あるいは美齢を守ろうというのか、自身でもその本意は全く理解できない。
美齢は間近に寄った私の目から視線をそらすことなく、ただただ身を硬くしている。抵抗する様子もなければ、当然ながら私を受け入れる気配もない。
強気で冷淡な印象の美齢が、唐突な私の性的暴発に全く抗議することもなく、ただ黙ってじっとしている。暴力的な欲情が、さらに膨張していった。
女性には極めて紳士的に接してきたつもりでいるが、この時ばかりは、無理にでも自分を受け入れさせたいという衝動を抑えることができなかった。人格が変わってしまったのか、過去に放り込まれたストレスによる精神異常なのか、美齢の性的魅力が強烈過ぎるのか、理由は分からない。
私は身動きしない美齢の顔を自分の唇に力ずくで引き寄せて、キスをしていた。
彼女のやわらかい唇の感触が神経じゅうに広がると、さらなる衝動が私を突き動かそうとした。
美齢は、全く抵抗をしない。目を合わせたまま、じっと事の成り行きに身を任せているだけだ。
身体は、硬く閉じたまま。
私は、彼女の顔から目を離し、無抵抗な美齢の身体を脚先から髪の先までゆっくりと観察した。あらためて、美しいと思った。
このまま彼女のブラウスのボタンを引き裂いても、そのまま受け入れるだろうと言う予感が私をさらに大胆にさせようとする。
しかし一方で、脚は無理に開くことが出来ても、彼女の心は決して開くことがないという確信もあった。
美齢の無抵抗は、それが最善の手段であると知っている女の行動だと思えた。この女は、かつて同様な目に遭っているのだろうと思った。美齢が語ったわけではないが、それは確信に近かった。そして私はふと、守ろうと思った美齢に対し、自分自身が加害者になろうとしていることに気がついた。
果たして、まだ二十歳そこそこの美齢の過去に、何があったと言うのだろうか? 私は、美齢が味わったであろう苦痛、屈辱を想像して、息が出来なくなってきた。と同時に、もう一度彼女の瞳をじっと見つめた。しっかりと見開かれた美齢の眼球は、決して屈しないという強い意志と、自らを男の意志に委ねることに慣れた諦念とを同時に強く語っていた。
その強さに惹かれるとともに、その弱さに父性本能をくすぐられた。私は、美齢を心から愛そうと思った、そして負っているであろう傷をじっくりと時間をかけて癒したいと願った。
最後までこの女を愛したい。そして、この女から愛されたい。
私はそっと美齢から唇を離し、先ほどと同じ台詞を言った。
「僕が、守ってみせるよ」
そして、力任せに抱き寄せていた彼女の身体を離した。
美齢は、左手に握ったままの急須を卓袱台にそっと置くと、ゆっくりと立ち上がって、私の対面に座った。
「お茶、もう冷めたよ」
彼女は、責めるでもなく、また照れ笑いを浮かべるでもなく、いつもながらの冷徹な目を向けながら言った。
「ごめん」
気圧されたのか、私は謝っていた。
美齢は、それ以上何も言わず、黙って自分の湯呑にお茶を注ぎ始めた。
蛮行をどんなに謝罪してみても取り返しはつかないし、どれほど愛しているかを語っても何ら説得力をもたないと思われた。
「美齢さん、僕は警察に出頭することにしました。直接政府に接触する手段は、どうしても思いつかないんです。だから、まずは出頭して、警察で真実を打ち明けてみようと思うんです。信じてもらうことができれば、未来を知る者として、軍部、あるいは政府に取り次いでもらえるかもしれません」
冷静な美齢が、声を荒げた。
「バカじゃないか。そんなことしたら、逮捕されるだけ。高杉さんの思想は、危険すぎる。それに、未来からやってきたなんて、誰も信じる筈がない。もっと、考えて」
美齢は、私の性欲の発露に抗議するつもりは全くないようだ。私の行為によって私を蔑むことも、嫌うことも無いようだ。それどころか、私の身を案じてくれている。美齢の懐の深さに心打たれると同時に、畏怖の念さえ覚えた。
「考えた上での結論なんです。この時代に来てからずっと、いろいろな可能性を考えました。だけど、何ら行動指針を見出せなかった。このまま放っておくと、時間が流れ、日本が、そして全アジアが戦禍に巻き込まれてしまう。考えてもだめならば、行動するしかない。違いますか? 美齢さんにだって、思い切って飛び込んだらキスできたじゃないですか」
美齢は、珍しく表情を顔に現し、怒気を帯びた強い口調で言った。
「バカか。それとこれは、話が全然違う。行動するにしたって、ほかの手段、考えて。下手したら、殺される」
「他に何にも、思いつかないんです。警察に出頭する以外、自分にできる行動が無いんです。お願いです、ここから一番近い警察署まで案内してください」
「今すぐか?」
「はい。善は急げと言うじゃないですか」
美齢は、じっと私を見つめた。私がこれからする行動は、おそらく日本を守るための行動ではない。そしてまた、アジアを守るためでもない。きっと、美齢を悲惨な戦禍から守り、安心して暮らせる幸せを提供したいからだろう。その気持が、考えてばかりで行動を起こさない私を、ついに突き動かした。
私の気持の本質が、美齢にはしっかりと伝わっているように思えた。
美齢には、これ以上私を引き止める理由は無いはずだ。もし私を少しでも愛してくれているのであれば、あるいは引きとめるかもしれない。だが、彼女が私に愛情を抱く要因はいまのところ何もない。
「分かった、世田谷警察まで連れて行く」
予想通り、引き止めなかった。しかし、突き離しているわけでもなかった。
「でも、無茶はダメだ」
そう言う瞳が、これまでで最も優しく輝いて見えた。私は、それだけで幸せだった。自然と、笑みが漏れる。
「無茶をするのは、警官の方じゃないかな? 僕は、ただ本当の話をするだけのつもりだもの。時間の迷子だって……」
美齢と話す時に敬語を添えるのをやめた。時としてこの行為は、相手に横柄だとの印象を与えるため、意識的に行わなければならない変化である。しかし、この時私は、ごく自然に敬語を外して話していた。ほんの少しだけだけれど、美齢との心の距離が縮まったのかもしれない。
私は、未来から訪れたという告白に説得力をもたせようと考え、ユニクロのダウンコートを羽織り、ポケットに財布を突っ込み、二〇一二年のファッションに身を包んだ。
けれども、美齢の強い勧めに従って、柳田のロング・コートを拝借して、道中はそれに身を包んでハットを被ることにした。未来の服装で街中を闊歩していたら、街ゆく人々の目に奇異に映ることは間違いなく、あっという間に通報されてしまうと美齢が言うからだ。市中で不審人物として逮捕されてしまっては、そのあとどのように真実を説明しても、下手な弁明としか理解されない。飽くまで、自主的に出頭して説明することが肝要なのだ。
「行こう」
私はそう言うと、玄関の引き戸を開けて、まだ舗装されていない砂利敷きの路地に歩を進めた。
晩秋のやわらかい陽光が、そっと私を包んだ。その光は、私に続いて家から出てきた美齢の全身を、同様にやさしく包んだ。
隣家の柿の木には、オレンジ色の鮮やかな実がいくつもなっている。柿の実をつけた細い枝の間は、淡い青色が隙無く埋め尽くしている。美しい情景だと思った。この先の不安を予感させる暗さは、どこにも存在しなかった。
あらためて、美齢の顔を覗いてみる。いつもと同じ、冷徹な眼をしている。しかし、私はそんな彼女が、どうしようもなく愛しかった。
勇気を振り絞って、右手で美齢の左手をそっと握ってみた。
握り返してこそこなかったが、彼女はそのまま手を握られるに任せている。それは、先程の無抵抗とは別の種類の意志表示のように思えた。けれども、彼女は何も言わない。
黙って、空を見上げているだけだ。
「初めてのデートだけど、行き先は、ちょっと変わってるよね。警察署だもの」
そう言ってから、私は笑った。
美齢は、「笑えないよ」とだけ言った。