薄幸転生侍女の日々
「そう……ええ、上手よ、サラ」
王城の暮らしにも慣れてきた頃。お姉様の侍女として仕えるべく王妃であるお母様から直々にご指導頂き、私はなんとかこの世界の文字を覚えた。
「本当に覚えが早いわ」
真っ白な紙を汚すインクは未だに歪であるものの、なんとか文字であるということを認識出来る形をしている。
そんな紙をお母様は掲げて上手だと褒めてくれるから、よりやる気が増すというもの。
「カトリーナも、貴女と同じくらい真剣に勉強してくれれば良いのだけれど……」
ふう、と母親らしい溜め息を吐いて、お母様は中庭で遊ぶお姉様を見下ろす。
「優秀な子、なのにね」
如何せん、やる気がない。
ここ数週間、お姉様を観察していて思ったのは、天真爛漫が過ぎるということ。
第一王女として覚えるべきマナーよりも、外で泥遊びをしたり兎を捕まえたりするする方がとても楽しいらしくてちょこちょこ勉強をサボっている。
それでも最低限のボーダーはこなしているから講師も何も言えず、お母様もそれ以上を強く言えない節が。
「もう少し、第一王女としての立場を考えてもらいたい所なのだけれどね……」
もう少しで八つになるとはいえ、まだ齢七つの少女に求めるモノとしては荷が重いとは思う。けれども、お姉様はそれを背負わなければならない位置にいる。王妃としての、母としてのジレンマが、最近お母様を良く悩ませているようだ。
私的には、子供は大人の事情なんて気にせず好きなように生きて欲しいとも思ってしまう。そうは行かないのが今世なのだけど。
「サラ、今日はもう終わりにする?」
お姉様を追っていた視線を私に向けるお母様。
日が高く上ってから、後は下がっていくだけになるこの時間帯。いつもであればこの辺りで切り上げるけど、私は首を振った。
「お母様が良ければ、もう少しだけ教えて欲しいです」
将来、お姉様に仕えるのが私の道だ。だから、お姉様が少しくらい何かしでかしても私が対処出来るようになればいいだけ。
それなら、少しでも多くの知識を身に付けなければ。
そう思ってお母様に教えを乞えば、お母様は少しだけ悲しそうに笑った。
「最近はどうだ?」
更なる詰め込み教育を始めて数日。本日は、何故か私の自室でお父様がお勉強を教えて下さるそうです。
「楽しいです」
帝王学、と掛かれた分厚い本を片手に持って私を見下ろすお父様に、小さくそう返す。
「そうか」
実はお父様に会うのは初日に公開プロポーズ擬きをした日以来なのだけど、相変わらずこの赤い目に射ぬかれるとこう……緊張とは違うドキドキを覚えてしまう。
いや、恋とかではないのだけれど。
「無理をしているのでは、とジュリエッタが心配している」
頭の中で一人言い訳をしていれば、陛下がぽつりとそんなことを仰る。
「お母様が、ですか?心配されるようなことはないかと思うのですが」
帝王学の本を閉じ、腕を組むお父様を見上げて内心を語れば、陛下は呆れたように一つ溜め息を吐き、私の手元にある本を取り上げた。
「曰く、いつ見てもあの子は何かしら勉強していて不安になる、と」
私の代わりにぱらぱらと本を捲る陛下。私が手を伸ばして本を返すように催促しても無視され、本は未だ陛下の手の中に収まる。
「といっても寝ている時以外の時間を当てているくらいで、心配されるような勉強量では」
発育の遅いこの身体では徹夜というものが出来なくて、一度試したら翌の昼に倒れて以降動けなくなるという逆に意味のない事態になってしまった。
それ以来睡眠と休憩はしっかりと取っている。そう陛下に告げれば、陛下は何か言いたげに私を見下ろしている。
「問題ありませんよ?」
実際、今のところ体調に不良なところはないし、ストレスで倒れるなんていうこともない。
むしろ、知らないことを知り、将来それが自分の望むことに役立つものなのだから、それに時間を掛けるのは当然であると言えるだろう。
「本を返してくださいませ、陛下」
「……ああ」
何を言っても無駄だと察した陛下は私に本を返してくれた。書いてあること半分も理解出来ないが、それでも何度も目を通せばある程度は理解出来てくる。反復が大切なのだ、勉強は。
「サラー!」
ということで改めて勉強をしよう、というところで新たな来客が。
「ねえねえサラ、勉強なんてしていないでお外で遊びましょう?」
さらっさらでつやっつやな銀の髪を揺らしたお姉様が私の本を取り上げ、ベッドに投げ捨てた。
「お姉様、ものをぞんざいに扱ってはなりません」
私より頭一つは抜けている身体を見上げ、どちらが姉か分からなくなるような台詞だなと思いつつもベッドに投げられた本を拾う。
「だってサラ、最近全然遊んでくれないじゃない!」
お姉様の頭にぷんすこって効果音が付きそうである。
「それはそうですが……」
「勉強だけじゃダメだよ!」
言い訳を重ねようとした私よりも先に反論され、多少は確かに、とも思う私はお姉様の言葉に黙り込む。
このお城に来てからおおよそ一月。その間、まともに身体を動かしていない。せいぜいダンスの練習くらいか。
「つまらないのー!」
「行ってこい」
私が運動していないこと云々よりもそっちが本心であろうが、頬をぷくりと膨らませて駄々を捏ねるお姉様に折れるのは当然私で、陛下からの許しもあるとすれば私に味方はいない。
本を丁重に机の上に置いてからお姉様の前に立ち尋ねる。
「何をされましょう?」
「お外行こ?」
私の一連の行動に納得したらしいお姉様は先程の仏頂面をしまい、子供らしい笑みを浮かべて私の手を引き始める。
「今ねえ、エミリーと一緒にかくれんぼしてるの!庭内がかくれんぼ内なんだけど、サラも連れてきたいからこっち来ちゃった!」
「庭って……ここから大分、離れていますよね?」
「だいじょーぶだいじょーぶ!あ、おとーさまいってくるねー!」
「申し訳ありません、陛下……」
恐らく仕事の調整等した上で空けた時間であっただろう陛下に謝りながらまさに破天荒、としか言い様のないその王女様に引き摺られるようにして移動を開始する。
「あ、姫様、廊下を走ると王妃様に怒られますよ」
「へーきー!」
すれ違う使用人にそんな風に注意されたとしても一切歯牙にも掛けず廊下を掛けるお姉様。
「エミリーも、イルも、すっごく面白いから!」
そう無邪気に笑うお姉様。こんなこともたまには良いか、と思ってしまったのは口にしない。
「カトリーナ!何処に行ってたの!?」
自室から走り出して十分程。お姉様の後ろで盛大に息を切らしている私と、一切息切れしていないお姉様に体力の格差を感じた。
「サラを連れてきたの!」
ずいっと手を引かれ、一人の少女と少年の前に立たされる。文句を言うならせめて息くらいは整えさせて欲しいです、お姉様。
「ああ、君が隣国の。僕はイルツヴェット。イルって呼んで?」
「私はサラセリーカ。どうぞサラとお呼びくださいませ。よろしくお願いします、イル様」
艶のある灰色の髪が肩口で揺れて、整った顔立ちのせいで一瞬彼が少女かと見間違ったのは仕方のないことだと思う。
「僕達より年下なのに、カトリーナよりお姉さんみたいだ」
どきりとするその言葉には曖昧に笑うことで誤魔化す。
「へんなこ」
少年が好意的な一方で、お姉様の前に立つ彼女は私のことがお気に召さなかったようで。
「髪も目も変だし、話し方だって変」
お姉様が銀髪で、イルが灰色で、彼女が金で私は白である。その中でこの色が変だというのは些か思うところはあるものの、何かを言えば間違いなく面倒なことになるので私は微笑んだままその少女を見る。
「使用人達が言ってたわ。貴女は忌み子で、だから親から捨てられたんだって!」
個人的には一切気にしていないことをどう騒がれたとしても痛くも痒くもないから黙っていたけれど、それをしまった、と思ったのは、横に立つお姉様を見たからだった。
「サラ……」
「お姉様、お気になさらず」
どうしてお姉様がそんな顔をしているのだろうかと、私は首を傾げたくなる。所詮血を分かつことのないただの他人事。所詮まだ一月そこらしか付き合いのない、そんな関係だというのに。
心内で首を傾げる私と、俯いて黙りを貫くお姉様。
「かえる」
漸く声を発したと思えば、ぷいっと顔を背けて今来た道を戻って行ってしまった。
「サラ、その、ごめん」
「お気になさらず」
お姉様がいなくなってしまったことでより重たくなった空気の中、少女の代わりに謝罪を口にするイルに首を振って気にしていないことを強調する。
「わたしは悪くなんてありませんもの!」
「エミリー!」
お姉様が怒ったことがショックだったのか、先程よりは幾分か覇気の消えた声。それを咎めようとイルが声を荒げても、彼女は私から視線を逸らしてそれ以上口を開くことはなかった。
「本当にごめん、サラ」
落ち込みながらぷりぷり帰って行った少女と、最後まで私に謝りっきりだったイル。
お姉様のお友達との初対面は散々であった。やはり、この特殊な出自で王女として立つのは無理があるだろう。やはり、お姉様を支える側の人間であろうという決意がより固くなった。
「…………サラ」
そんな風に覚えたての文字で日記を付けていれば、音もなく横に立っていたお姉様に素直に驚いた。
「びっくりしたあ……」
あまりの驚きに素が出た。けれどもそんな私を気にする余裕さえもないらしいお姉様は、じっと私を見つめて、こう言った。
「お母様に、聞いたの」
それは何を、という聞くまでもない程に、お姉様の表情が語る。
「そうでしたか」
「私、絶対にサラのこと傷付けてた」
「気にしていません」
「知らないからって、許される訳じゃない」
「お姉様……」
お泊まり会をした時のことを言っているのだろうが、私としては本当にどうでも良いことだから気にしていないのに。
けれど、そう何度告げても、お姉様は自分を責めるばかりだった。
「それなら、こうしましょう」
このままでは埒が明かないと諦めた私は、お姉様に一つの提案をすることにした。
「もし、私が……」
一見単純で、けれどもこれから先王女という立場では難しくなるであろうことを、お姉様に願い出た。
「そんなことでいいの?」
「はい」
子供の口約束。奔放であるお姉様なら、いつかは忘れるだろうと思って口にした約束。
「わかった、約束ね?」
「ええ、お姉様」
指切りを交わして、満足げなお姉様は部屋から出ていく。
「…………次に困ったときに、手を貸して欲しい」
前世、今世と、私に手を差し伸べてくれた人は極少数。だから咄嗟にそんなことをお願いしてしまったけれど、よくよく考えれば随分酷なことをお願いしたなあと思う。
これから先、王女として立っていくお姉様に。
一人の人間をいざという時に庇え、とは、中々難しくあるだろう。
「ごめん、お姉様……」
何も考えずに発した言葉だった。
お姉様が忘れてくれることを願う、と日記に追記して、私は火を落とした。