第1話『記憶をなくした青年』
一日の始まり。
地平線の向こうから日が顔を出し
雄大な景色が広がっていく。
一日の始まりは様々だ。
ある者は、剣の鍛錬を始め
ある者は、これから眠るかもしれない。
田舎町シーズの一日は心地良い鳥の囀りから始まる。
シーズでたった一つの酒場『仔牛の寝床』では、早朝だというのに仕込みが始まっていた。
年季の入ったカウンターの奥で、店長である老年のエルフは慣れた手つきで作業を進めていく。
ハーブ塩を漬け込んだ肉に、瞬く間に切り込みが入っていった。
彼がシーズ産の厳選食材でつくる料理は絶品で、この酒場は仕事を終えた村人たちの憩いの場だ。
肉の仕込みを終えた後、野菜を細かく刻んでいく。
とんとんとん…
そのリズムに合わせて、外から足音が聞こえてくる。
ぱたぱたぱた…
「おっ、今日も来たな」
軽快な足音を聞き、老年のエルフは笑みを浮かべた。
その次の瞬間。
「おはよっ!ドルントさんっ!」
快活な挨拶と共に、酒場の扉が大きな音を立てて開いた。ドルントは、来訪者に優しく笑いかける。
「おはよう。ピアナちゃん」
そこにいたのは、おかっぱ頭の少女だった。
片手に羊を誘導する鈴付き杖を携え、仁王立ちで立っている。
彼女は酒場を見渡して、大きく溜息をつく。
「もーっ、まだアークは寝てるの!?」
「ははは、いつも通りだよ。起こしてやって」
「モチロンよ!十歳のあたしより、朝寝坊ってどういうこと!?」
少女はぷりぷり頬を膨らませて、酒場の二階へ上がる。
宿屋の名残を残したこの酒場には、空き部屋がいくつもあった。その内の一部屋に、あの寝坊助の居候がいるのである。
ピアナは階段上がってすぐの扉をそおっと開けた。
扉を開けた瞬間から、すーすーという寝息が聞こえる。
部屋を除くと、丸まる背中が見えた。
ピアナがその背中を睨みつけた時、少女の肩に何かが乗っかった。
「ギィ」
それは、少女の顔ぐらいの全長の小さな生き物だった。
まんまるボディに、小さな翼。
龍に近いこの生き物は、寝ている青年の同居人だ。
(だめだよ、ギィ。今からお前のご主人を叩き起こすんだから)
ピアナは小声でそういった。ギィはそれを理解したのか、ピアナの肩の上で縮こまった。
ピアナは抜き足差し足、青年が寝ているベッドまで近づく。
そして、大きく息を吸って
「アーーーークううう!!!!!!!朝だよおおおー!!!!!!起きてええええ!!!」
リンリンリンリン!!!!
「うおおおああああっっ!!?」
大声で叫び左手も大きく振り回して、目の前の金髪の青年を叩き起こした。
ーーーー
もーピアナー!乱暴な起こし方はやめてって何度も
結果的に起きるからいーじゃないっ
ギィギ〜
そういった口論が二階から聞こえてくると、ドルントは朝食作りに取り掛かる。
はじめに戸棚からマグカップを取り出し、ミルク缶から新鮮なミルクをカップに注いだ。
そうしていると、二階から青年と少女が降りてくる。二人は変わらず口論を続けていて、その周りをギィが飛び回っていた。
「あっ」
アークがドルントの視線に気づくと、若干照れ笑いを浮かべた。
「ド、ドルントさん、おはようございます」
「アーク、ほらっ早く」
「もー、引っ張んないでって…」
金髪の青年が、少女に引っ張られてカウンター前へやってきた。
「おはよう。アークくん、ピアナちゃん。朝の一杯どうぞ」
ドルントはカウンター越しに、アークとピアナにマグカップを手渡した。中には特産ウルルク牛のミルクが並々と注がれている。
「わーいっ!」
「ああ、一日の始まりはやっぱこれですね!」
「ははは、半年も経てばアークくんにもシーズ流が身につくもんだな」
ミルクを喜ぶアークとピアナを見て、ドルントの目が細くなった。
ピアナは中身をぐいっと飲み干すと、マグカップをカウンターに置いた。
「ぷはぁっ!いつもありがとうドルントさんっ!あたし、お仕事あるから先に行くね!アークも後でくるのよ!!」
「はいはいわかってますよ」
「ピアナちゃん、ご両親によろしくね」
扉が再び勢いよく閉まり、酒場に平穏が訪れた。
アークは息を吐いた。
「ピアナったら。自分が朝の羊番の時、いっつも僕のこと起こしに来て…」
「ははは、兄妹みたいでいいじゃないか」
「ちっとも良くないですよ。なぁ、ギィ」
「ギィ?」
「だめだ。ギィはピアナに懐いてるんだ…」
アークの問いに、ギィは小首を傾げるだけだった。そして、りんごをもしゃもしゃと頬張り始める。
「そういや、昨夜はレオ爺さん送ってくれてありがとな」
ドルントは、慣れた手つきで朝食を作っていく。
出来上がった料理が次々とアークの前に置かれた。
話しながらでも、ドルントの手は遅れを見せない。
新鮮な野菜のサラダ、マトマスープ、スクランブルエッグ…
「ああ、全然大丈夫ですよ」
ほくほくのスクランブルエッグに食らいつきながらアークは答えた。
ギィはりんごを食べ終え、オレンジに食らいついた。
「レオ爺さんさ、酔うと大変だろ。昨日はどうだって?」
「冒険家時代の話を…小一時間ほど」
「はっはっは!お疲れ様。もう一杯いくかい?」
「はい、ぜひ!」
「おっ、いいね」
アークのマグカップに二杯目が注がれる。
「今日からは祭の準備だ。アークくんにも手伝ってもらうからしっかり食べとけよ」
「ああ、ピアナの仕事ってそれですか」
「そうさ。村人総出でね」
食べ物を口に含んでいたアークは、何回も頷いた。食道へ飲み込んでから、やっと口を開いた。
「不思議にだったんですが、お祭り当日まで二ヶ月とちょっとありますよね?なんで今から準備を」
「なんでって…」
ドルントはアークの質問に、一瞬目を丸くした。
だが、次の瞬間にはアークの事情を思い出して、やっちまったとばかり頭を抱えた。
「あーっと、そうか。アークくんそうだったね」
「はい、…その手間掛けてすみません」
アークは申し訳なさそうに肩をすくめた。
「いいって。こっちこそ説明不足で申し訳ない。祭の名前は覚えてるか?」
アークは少し考える。
「『平穏の祝祭』…平和に感謝するお祭りですね」
「そう」
ドルントはにっと笑った。
「この日は大昔災厄の魔道士を封印した日なんだ。平穏が最初に訪れた日ってな」
アークはふんふんと頷く。
「御伽噺っぽくなってしまうが…封印された日ってのが…災厄の魔道士と、奴を封じた巫女様との交渉が決裂からちょうど77日目だったんだ。その間はずっと戦争だったらしい。そりゃあ、酷い戦争だったと」
「…」
アークは息を飲んだ。
「現代の我々は、平穏が訪れた日と、それまでの戦争の時間を忘れないために、わざわざこんな前から祭りの準備してるってことさ」
「…そうなんですか」
「おいおい、そんな顔するなアークくん。今じゃアルバラ全土で1年で1番のお祭りだ」
アークは首を横に振った。
「あぁ…いや。僕はそんな大事なお祭りも忘れているんだなぁと…はは」
アークは苦笑いをする。
「そっちか。まあ、そっちもどうにかなるさ。人生どうにかなるって思っていた方が楽だよ、アークくん」
リーンゴーン…
次の瞬間、外から鐘の音が聞こえた。
仕事開始の時刻を告げる鐘の音だ。
「あっと…鐘鳴ったのでピアナに怒られる前に僕行きますね。木の広場ですか?」
「そうそう。気をつけて」
「はーい」
アークが扉を開け、ドアベルが鳴った。
ーーーーー
「ふう…」
アークが出発する背中を見送り扉が閉まると、ドルントは息をついた。
「故郷だけでもどうにか…思い出せたらいいんだが。まだ若いし、家族がいるかもなあ…」
記憶を失った青年を思い、再び溜息をこぼす。
アークは、半年前に突然村の近くの森に現れた。
小さな龍のような生き物を携えて、全身傷だらけで満身創痍の青年をシーズの住人は放って置けなかった。
体力が回復しても、以前の記憶が失われていた。
「本人が、一番…辛いのだろうが…」
ドルントはもう一度、大きく息を吐いた。