ハルとフュナ
グレーのジャケットにジーンズ姿の青年ハルは、羊に囲まれながら山の麓に向かって歩いていた。
「ゴールが全く見えなくなったなぁ。なんとか名前だけでも伝わって良かったけど…、あの状況を思い出すだけでこっ恥ずかしい。」
「メェーー?」
ハルの隣を歩く羊が、手で顔を覆う彼を不思議そうに見ていた。
時折、向かう方向から外れそうになる羊を手に持つ杖で優しくトントンと叩いて進行方向に導いている目鼻立ちの整った赤い瞳の少女。年の頃は二十歳ぐらいだろうか、羊の毛で織られた物であろうポンチョのような服を着て、肩より長い黒髪を編まないおさげにして体の前にたらしている。
そんな彼女に彼が自分の名前を告げたのは、羊に囲まれた夕陽射し込む草原でじっくり見つめ合っての事である。
「ぐあぁぁ・・、初対面の美人さんに告白みたいな事をぉ~・・、映画のワンシーンかよ!? あぁ、ムズムズが止まらない。」
自分の名前を告げるのも『告白』で間違いないのだが、その時の状況も相まって彼の脳内には『愛の』という前置きがつく告白しか思い浮かんでいない。やり場の無いムズムズ感をどうにかしようと隣を歩く羊の背中を弄り始めた。
「うおっ、凄いなふかふかだ。・・・・そういえば、羊さんよ? メェメェ鳴きまくってたのにあの時だけ空気読んだギャラリーみたいに全員沈黙してたのはどういう了見ですかねえ?」
「メエ~~?」
「とぼけた声だしやがって、この野次羊め! こうしてやる!」
「ンメエーーーー!!」
最初は表面の毛を弄るだけだったが、少女に名前を告げる時に揃いも揃って無駄鳴きひとつせず、静まり返ってこちらを見つめていた羊達を思い出してむかっ腹が立ったハルは、毛の中に手を突っ込んで地肌をうりうりとくすぐり出した。
「メェーー!メェーー!」
「この距離なら逃げれまい、最初の体当たりの御礼もしてやる。違うヤツかもしれないけど俺の側にいたのが運の尽きだと思うんだな。」
端から見れば言葉の通じない動物に文句をつけていじめている痛い人である。先を歩く少女は、そんな彼を楽しそうな顔で見て大きく手を振った。
『ハルー! 羊と遊ぶのは楽しいけど、早くしないと日が暮れちゃうよー。』
名前以外は何を言っているのか解らないが、態度から急がされている事を読み取ったハルは、くすぐっていた手を引き抜いて少女へと大きく振り替えした。
「ごめんフュナ! すぐいくー。」
『ハル』と、青年が名前だけを告げたとき、それを聞いた少女も同じように自分自身に指を向けて『フュナ』と答えてくれたのだ。お互いに名前だけしか解らない、けれども逆に言えば名前は解る。たったそれだけの事でも何か通じ会えた気がしたのだろう。今の言葉も名前の部分以外は通じない、それでも解ってくれると思ったからこそ声に出した。
「ほら、御主人様が呼んでるから行くぞ。……命拾いしたな……。」
「ンメェ~~……。」
手を振るフュナに追い付くために、くすぐっていた羊に進むように促し、くすぐりを止めた事を恩に着せるように小声でボソリと呟いた。言った本人は軽い気持ちだったのだろうが、その一言によりくすぐられていた羊の目にハルに対して何かしらの感情が宿る事となった。
炊煙の出所である木の柵で囲まれた村に少女が導く羊と青年がたどり着いたのは、もう間もなく太陽が今日一日の役目を終えようとする頃だった。辺りは既に薄暗くなり始めていて、外には自分達以外誰もいない。その代わりに、まばらに建ち並ぶログハウスのような平屋作りの木造建築の窓からは、電気とは違った揺らめく光が見えていた。
『ハル、ここで少しの間待っててくれない?羊たちを小屋に連れて行った後に戻って来るから。』
フュナも言葉の通じないハルとのコミュニケーションの取り方を心得たもので、声に出すと共に今しがた入ってきた村の出入り口の一つ、そのすぐ側に植えられている広葉樹の下を指差し、手振りで待っていてほしい事を伝えた。片手を上げて了承の意を示し、広葉樹の下へと向うハルを見て羊たちを連れて村の中へと進んで行った。
「さて、今の俺にはここでフュナを待つしかないわけだけど・・。」
広葉樹の下に移動したハルは改めて見える範囲の村の様子を伺った。
「テレビとかで見た牧畜の村そのまんまって感じだな、農村とはまた違った雰囲気だ。しかし、全体的に古臭いというかなんというか違和感が・・。家の窓から見える明かり・・、たまにゆらめいてる所から考えるとランプとかの火の光かな? まあこういう生活をしてる人達もいるんだろうけど、現代なら発電機ぐらい使っててもいいと思うんだけど・・。あぁ、腹へったなあ~。チェーン店は流石に無いだろうけど、ガツンと食べたいなあ・・ジンギスカンとか?」
辺りは既に暗くなっていた、樹の幹によりかかりながら村を観察して考えを巡らせていたが、腹の虫がグーッと大きな音を出した事で思考が食欲に流れていってしまい、『現代なら・・』という自分の言葉が答えである事に気づかなかった。
「うーん、フュナと羊たちを見てたらジンギスカン食べたいとは流石に言いにくいな。フュナまだかな、まさか放置プレーされてるなんてオチじゃないだろうな・・。」
『ハルー、お待たせー。遅くなってごめんね、ハルと一緒にいた羊が何故か騒いじゃって。』
街灯の無い夜道を照らすランプを持って急いで戻ってきたフュナにより、ハルの心配は杞憂に終わった。手振りで大丈夫と答えたハルに、胸にランプを持っていない方の手を当てて、走って来た事で乱れた息を整えた。
『これから村長の所に行くんだけど・・。えっと、はぐれないようにするね。』
行き先を告げても伝わらない事に気がついたフュナは、さっきまで胸に当てていた手でハルの手を握り村の中へと導いて行った。急に手を握られた事と、女性特有の柔らかな手の感触と暖かさがハルをどぎまぎとさせていた。