着の身着のままの青年と白い強敵
夕暮れの朱、草原の緑・・。視界は黒では無くなっていた。
しかし、走馬灯を見ていると思い込み、自分が転倒して死ぬのでは? と思い込んでいる青年はその変化に気付いていなかった。
ズシャッ!
「痛っ・・あれ? 痛くない? なんで? あれ? 俺もう死んでる?」
少なくとも、コンクリートの床に倒れて原動機付自転車に挟まれれば何かしらの衝撃や痛みがあるはずだが、そういった類のモノがやってこないことを不思議に思った。
地面についていない左手で自分の体をぺたぺたと触る、その動作が自分の生きている判別とでもいうように太腿から上半身、そして顔を触っていく。
「生きてる? 生きてるよな・・・・よかったぁ。ん?」
自分の中で自分が生きている事を理解できて安堵して、心に余裕ができたことで今まで気がつかなかった事に気がついた。
「土の地面に、草・・・・。」
地面についている手のひらに当たる土特有の柔らかなざらりとした感触と、時おり触れる草の感覚。
脳が理解できずに無意識に顔を上げた青年はアミューズメントホールの窓から見ていた沈んだはずの夕陽を再び見ることになった。
グレーのジャケットにジーンズといったここら辺ではあまり見ない格好の青年。
着の身着の侭でだだっ広い草原を地平線に沈み始めた夕陽を左手にして足取り重く歩いていた。
「太陽が沈むのは西、すなわち夕日を左手にすれば真っ直ぐ北に進んでるはず、そして進行方向には山が見える・・何か、何かあるはず。そうだ、人間とは知恵のある生き物だ・・・・、吊るされたバナナと棒が与えられれば即座に叩き売りを始めるぐらい聡明なんだ。そんな偉人達には遠く及ばない俺の灰色の脳細胞でも持てる叡知の全てを尽くせばこの現状に納得のいく説明・・否、最適解が導き出せる!! 頑張って俺の脳細胞!」
遠くに見える山を目的地にするのはともかく、その後はぶつぶつとよくわからないことをつぶやき、最終的に自力なのか他力本願なのかいまいち解らない所に考えが至った。
理解できない現状に対して自分への励ましなのかもしれない。
真円だった夕陽が少しずつ欠けていき、半円になる頃にはよくわからないつぶやきが漏れる事もなくなり重い足取りは悲壮感を漂わせていた。
そんな彼に変化が訪れた、目的地にしていた山の麓に炊煙らしきものが立ち上るのが見えたのだ。
「お・・? おぉ・・・・。」
無表情だった黒髪の青年の顔に生気が戻りスッと涙が出た。
軽くうつむいてジャケットの袖で流れ出た涙を拭うと、頭を軽く振って明確な目的地へと向かって顔を上げた。
夕陽で長くなった自分の影とは違うもうひとつの影が近づいている事に気づく事なく喜びの声を上げた。
「あれが・・あれがゴールなんだ・・、俺の俺だけのゴール! 助かったんだ、助ガもッ!?」
どむっ!
彼は言葉を言い切る前に左脇腹から腰の辺りに衝撃を感じて、ずしゃり! と草原に転がってしまった。
衝撃のあった箇所を押さえて丸くなり、声にならない声を出して一頻り悶えた後に、ごほごほと咳をしながら衝撃が加ってきた方向へと体を起こした。
「んぁっ・・くっ・・・・、んげっは・・・・はぁはぁ・・一体何が・・?」
先ほど流した涙とは違う痛みと苦しみからの涙が溜まった目に写ったのは、神々しい光を放つ夕陽を背負い四つの足で勇壮に草原に立つ魔王・・、などという大それたものではなく白いもこもこの羊だった。
「メエェーーーーーーッ!!」
もこもこの羊が『我勝テリ』といわんばかりに空に向かって高らかに鳴いた。
再びジャケットの袖で涙を拭った青年がゆらりと立ち上がると勝ち誇る羊を睨み付けた。
「てんめぇ・・、この羊野郎がぁ・・・・。不意討ちとはいい度胸してんじゃねえか!? 今日の晩飯はテメェに決定だぁぁぁ!」
痛みから変な怒りのスイッチが入った青年は、街角のチンピラよろしくな言葉遣いで羊に『キミ、今日ノ食材ネ』宣言をして、じりじりと距離を測りながら飛び掛る機会を伺い始めた。
「メ? メェーーーーーー!!メェーーーーーー!!」
危なげな雰囲気に変わった青年から不穏な空気を感じ取ったもこもこの羊が、首を左右に振り再び鳴き始めた。
「へっへっへ、今更命乞いしても遅いぜぇ~。ラムステーキ・・、いや結構大きいからマトンか・・・・ジンギスカン!! 毛穴からLカルニチンが吹き出るぐらい食ってやるぜぇ・・。」
奇妙な笑いをもらしながら献立を決めた青年、ここまで来ると街角のチンピラも真っ青の追い剥ぎである。そもそも、Lカルニチンなる成分が毛穴から吹き出るかどうかも解って言っていないほどに頭に血が上っていた。
「よし、ここだ!! はいだらぁぁぁぁぁ!!」
謎の掛け声と共にもこもこの羊に飛び掛ろうとした青年の背中に、どんっ と軽い衝撃があった。今から始まるジンギスカンパーティーを邪魔するのは誰だよ? と、振り返った青年が見たのは・・。
「ンメェーーーー。」
白いもこもこの羊だった。
今、正面にいた羊がなんで後ろにいるのか疑問に思っていると、どんっ と再び軽い衝撃。ちらりと視線をやると、当然といわんばかりに別の白いもこもこがもう一頭いた。
どんっ どんっ どんっ・・・・。
続々と体に伝わってくる軽い衝撃に、黒髪の青年の顔から血の気が引いて行き変な怒りのスイッチも切れてしまい冷静に辺りを見回した。
「メーーーー! ヂュメエーーーー! んめぇーーーー! メエーーーー! メェェーーーー! めぇーーーー! ンベァェーーーー! ・・・・・・。」
青年を中心にして、羊、羊、羊、そしてまた羊。
「あぎゃーーーーーーーー!!」
夕陽を背負っていた羊が首を振って鳴いたのは仲間を呼ぶための行動、頭に血が上り視野が狭くなっていた青年は集まってくる羊たちに全く気づかずにいた。そして、白いもこもこの海に飲み込まれた黒い点はただ悲鳴を上げる事しかできなかった。
「んめぇーーーー!! ンベァェーーーー!? メーーーー! ヂュメエーーーー! メエーーーー! メェェーーーー!! めぇーーーー! 『コ・・、み・・・・何し・・・・の!? や・・なさい! コラー!!』 メェェーー! めーー? メーー! メェーーーー!! ンベァェーーーー? メーーーー! ヂュメエーーーー!!」
中心の黒い点が消えて白一色になった頃、白と朱く色づいた緑の境目からもう一つの黒い点がもこもこの海を掻き分けていた。
羊たちの中に沈み、もみくちゃにされて溺れている黒髪の青年は薄れていく意識の中で羊以外の声を聞いた気がした。