落日/ジ・エンド
正午を回った国会議事堂内の衆議院本会議場の演壇では、安達総理を中心に、向って右側に中国の国家主席、左側にロシアの大統領が並んで立ち、新たな‘三国連合政府’の調印式が取り仕切られている最中だった。その威厳に満ちた映像はリアルタイムで全世界へ配信され、そして世界の勢力図が驚きを持って大きく塗り替えられた瞬間だった。
調印後に三人は満面の笑みを浮かべていた。三角上に三人で握手しあい、本会議場に幾つも並べられたTVカメラを舐めるように、ぐるりと場内を見回した。
数限りないフラッシュの眩さが本会議場をしばらく包んでいた。喝采の光を浴びた安達総理には、これまで自身の右腕として暗躍して来た吉澤幸雄の事など、脳裏の片隅にも全く残っていなかった。
米国防総省が、条約解消のどさくさに紛れて送り込んだアレックス・ブランソン少佐率いるISMOの存在も、最秘匿された機関だったが為に、深夜未明に起きた端島‘軍艦島’での出来事など、暗黙の合意の元に、闇の中へ簡単に葬り去られていた。
米国からヨコスカ・ショックの‘係わり’と‘真意’を突き付けられた安達内閣は、日米安全保障条約の締結解消決議案を、満を持して国会へ上程した。それに対した野党勢は、これまでの国会での対立が嘘のような、肩透かしを食らったみたいな感慨を受けざるを得なかった。それは、野党第一党の民生党を筆頭に、各野党勢や保守派の無所属議員達全員が、安達総理と内閣に気の抜けたソ―ダ水を、知らぬ間に無理矢理飲まされたような出来事だったのだ。
沖縄の米軍駐留基地問題に端を発した、米コマンドが起す国内での事件、事故などの処遇でこれまで対立していた与党と野党だったが、この決議案に関しての国会での論戦は皆無だった。審議時間を無駄に費やす必要もなく、衆議院、及び参議院の両院とも棄権者が一議員も出ない満場一致での可決を得るという、歴史的な‘事件’とも呼べるような事まで発生したのだった。
米国の核の傘にべったりと依存してきた安達内閣が、米国との同盟を解消し、自ら自国防衛への道を進もうとは、米国諜報機関以外は、誰一人として想像出来たものはいなかった。
可決された日米安保締結解消決議を米国へ突き付けた日本政府は、先の大戦終結後に締結された日本の主権回復の承認をした‘サンフランシスコ講和条約’そのものが、真実には主権回復を果たしていない、と訴え、その条約そのものが無効だった、と国際司法裁判所へ提訴した。この動きに対してすぐに同調したのが、中国とロシアだった。
特に中国は、米国との同盟解消を訴え出た段階で、いち早く表立って反応したのだった。
中国は、太平洋側、特に南太平洋側での米国との覇権を意識した軍備力再編を飽きる事なく数年に渡って続けている最中だった。南シナ海での南沙諸島海域の暗礁埋め立てによる人工島に建造した基地施設で領有権を実効支配し、それは中沙諸島海域、西沙諸島海域でも、同じような埋め立てと軍事拠点化によって行われていた。
韓国内に、僅かな米軍駐留基地がまだ存在していたが、日本国内に米軍駐留基地がなくなった事、そして日本が中国と同盟を結ぶ事によって、米国の北太平洋上での直接的な影響力は南北マリアナ諸島のサイパン島やグァム島まで後退する事となった。
グァム島の米空軍アンダ―セン基地が、長距離戦略爆撃機B―52やB―2の常駐基地で、そこからアジア圏へ睨みを効かす事も可能ではあったが、やはり沖縄、嘉手納基地を失った米国は、計り知れないほどの大きな痛手を被っていた。そして空いた嘉手納基地施設には、入れ替わるように中国空軍と陸軍が常駐する事となったのも、米国にとっては非情に屈辱的な出来事だった。太平洋上での中国軍の膨張は、もはや誰にも止められなくなっていたのだった。太平洋上の勢力図が塗り替えられた中で、日本政府は提訴を取り下げた。
日本政府は、同盟国としてかなりの米国債をこれまで負担させられて来たが、同盟解消によって米国に対する日本が保有する米国債の償還処理発生の市場予測が勝手に進み、為替市場の急激な円高影響による国際市場の動揺と変化を嫌った。それは、急速な円高基調による自国の経済力が劇的に悪化する事を懸念したからだった。
市場に於ける危急なドル売り円買いを回避したい日本政府と日銀は、米国に対して性急に国債償還を求める事はしなかったし、IMF(国際通貨基金)に対しても対外資産ともいえるSDR(特別引き出し権)の枠組みを崩す事も、そして請求もしなかった。これによりダウ・ジョ―ンズの三十社平均株価、及び日経平均株価と為替相場が極端な動きを見せる事もなかった。それはニュ―ヨ―クやロンドン、ベルリンに香港やシンガポ―ルの各市場でも、日系株価と、ドルと円の力関係がパニックに陥る事態にもならなかった。
中国軍の空いた元米軍駐留基地への配備移動は順調に進み、地域によっては、特任自衛官を含めた‘自衛隊’の名称を改めた‘日本国衛軍’と中国軍との共同配備を行う基地も存在した。皮肉にも横須賀基地に隣り合わせた海上自衛隊基地がその代表例となった。
中国軍の配備に伴い、各基地の周辺には中国軍人の家族や関係者などの軍属が護送船団的に送り込まれて移り住み、リトル・チャイナのようなコミュニティが日本各地に段々と出来上がっていった。
そんな中で、中国国内の日本に対する市場開放も急速に行われ、全ての輸入品に対する関税が取り払われた。中国国内に置ける日本製品の安全性と価格の安さは、米国製や韓国製、欧州製に比べても圧倒的に群を抜いていて、それらを寄せ付ける事は全くなかった。
ロシアもそれに続くように市場を開放し、ウラジオストクからは大量の日本製品がロシア国内へと流通し始めた。
更に、三国連合政府の包括的合意内容の中には、これまでの米国との同盟関係が足枷のなっていると考えられていた、ロシアとの北方四島の段階的返還事業も含まれていた。調印後に、日本政府にとっては悲願だった、歯舞島、色丹島出身の高齢者の帰還事業から速やかに開始されたのだった。
なお、ロシアとの合意内容の中で、サハリン州北東部沿岸に存在する石油および天然ガス鉱区と関連する陸上施設の開発プロジェクト‘サハリン2’のプロジェクト・オペレ―ション会社‘サハリン・エナジ―’の株式の見直しが大々的に行われた。
筆頭株主は引き続きロシアの天然ガス会社‘ガス・プロム’が務めたが、日本の商事会社二社の低かった株式保有量を引き上げ、その代わりにこの発掘開発に当初より参画していた英国とオランダの合弁エネルギ―企業‘ロイヤル・ダッチ・シェル’から保有する全株式を買い上げ、このエネルギ―・プロジェクトから締め出した。
だが、日本国民の目が全く届かない水面下では、青森県六ヶ所村の核燃料中間貯蔵施設から合意通りに、強固なガラス容器に保存された使用済み核燃料が密やかに運び出され始めたのだった。運び出された使用済み核燃料は速やかに中国、ロシア両国へと渡り、核兵器として使用可能なプルトニウムが淡々と抽出されていった。
表面的には全てが日本にとって順風満帆で、誰の目にも夢のように国策が運んでいるように思われた。 ところが、三国連合政府が出来上がって一年が経とうとしたころだった。
ある週末の夜、沖縄県那覇市の繁華街、国際通りの県庁北口交差点に面した大型商業施設ビル‘パレットくもじ’内で、銃乱射事件が突如勃発したのだった。
ツ―リストに成り済ました中国人と思しき短髪で大柄な男は、その場に似つかわしくないゴルフバッグに忍ばせていたAK―47を突然取り出し、辺り構わず発砲し始めたのだった。
事情が全く呑み込めていない大勢の買い物客や、お土産を物色していたツ―リスト達が凶弾に倒れ、パニックになった店舗内から百十番通報がなされた。直ちに那覇警察署から警官達がパトカ―で大挙して飛んで来たが、他の観光客に成り済ましていた仲間らしき男達十数人にマシンガン掃射され、あっという間に警官達も殺されてしまった。十台以上のパトカ―が慌てたように乗り捨てられた交差点内は、あたかも風化して時間が止まったゴーストタウンのようだった。
中国人と思しき男達十六人は商業ビルに立て籠もり、自分達は親中国派解放軍の民兵で「琉球の中国への回収、そして沖縄の解放」が主目的であり、その為にやって来た、と取材に来たTVクル―のカメラに向って何度も中国語でアピ―ルをした。
更に男達は、中国共産党指導部とは全く関係のない存在で、自分達の意思だけでここに立て籠もっている、と付け加え、日本政府に対して沖縄解放についての公式会見も要求した。それらが満たされない場合は、すでに那覇市や他県の各自治体に散らばっている同志達が、各主要都市に向けて攻撃を起すだろう、と恫喝したのだった。
この事態を重く見た安達内閣と外務省は、中国大使館へ事態の即刻収拾を強く要求した。だが、駐日中国大使の返事は余りにも想定外で、素っ気ないものだった。中国大使は、この件に中国共産党が全く関与していない、強いて言いえば国籍が定かでない何処ぞの民間人が勝手に行っている愚行であり、更にいえば、沖縄の帰属問題は両国間において非常にデリケ―トな案件であるが故に、当局には事態を収拾する義務はない、という非情で無責任な返答だったのだ。
事態収拾をわざわざ大使館へ申し入れにいき、その返答を直接耳にした外務副大臣は、連合政府調印後の中国とのこれまでの密月が、まるで何かの大嘘か、或いは大掛かりな詐欺にでもあったような違和感を覚えずにはいられなかった。
その那覇の銃乱射立て籠もり事件は、まるで悪夢の始まりの号砲であるかのようだった。事件の二日後には、沖縄を飛び越えて本土の主要都市、まずは九州の福岡や宮崎で、そして佐世保、関門海峡を渡って岩国や呉へ、瞬く間に飛び火するみたいに中国武装民兵による‘テロリズム’の嵐が巻き起こった。死ななくて良いはずの多くの国民の命が武装民兵によって奪われ、街々は全く無意味に崩壊していったのだった。
中国政府が率先して事態収拾へ動かなかった為に、日本政府は仕方なく自国の警察機構と国衛軍の共同作戦による発動を行った。だが、同盟国の中国人に対して果たして本当に攻撃を仕掛けて良いのか、或いは中国人の誰が民兵で、誰がそうではないのか、という判断が現場で錯綜してしまっていた。それは、現場の国衛軍兵士達だけではなかった。首相官邸地下にある危機管理センタ―対策本部室で状況を見守る安達総理を含めた閣僚達や、各省庁の事務次官と政務官の誰一人として確固たる答えを持っている人間はいなかったのだ。対策本部室の幾つもあるモニタ―内で、明確な答えが出せないその間にも、各地の中国一般人に紛れた民兵達に国衛軍兵士達は無残にも殺され続けていった。
一部の特殊部隊と元特任自衛官は別にして、多くが一般の自衛隊員だった彼らは、自身から仕掛ける‘一撃必殺’といえる対人殺傷訓練を施されていたわけではなかった。よって狂犬と化した武装民兵達を相手に簡単に殺されたとしても、当然にして仕方なかった。生まれて間もない‘日本国衛軍’の実体は、まだ名ばかりの‘兵士’だったし‘軍隊’だったのだ。
現実的に、日本国内に如何ほどの民兵が潜んでいるのか、政府はすでに全く把握出来なくなっていた。もしかしたら、中国から移住して来た中国人全てが民兵のようにさえ思い始めていたのだった。元々がこの事態を想定し、計画したようにさえ勘ぐれた。
テロリズムの嵐は、関西から関東甲信越、東北へと次第に拡大していき、その間に各自動車メ―カ―や家電機器メ―カ―の工場の操業は停止に追い込まれた。信用力を失った日本企業の日経平均株価はあっという間に一万円を割ってしまった。為替相場も、世界中で円がひたすら売り込まれて円安ドル高の一ドル百七十円まで急騰し、日本国債の金利も急上昇した。急速なインフレ率が日本経済を不測に覆っていったのだ。
追い打ちを掛けるように最悪なニュ―スは止まる事なく続いた。那覇中心部の大型商業施設を占拠していた武装民兵軍が、元米陸軍キャンプだったキャンプ・シュワブに進駐配備していた中国陸軍から、旧ソ連製T―72型戦車二台と、信じられない事に対戦車ヘリWZ―10 霹靂火一機を盗み出した、と報じた。それはすでに一般の有志民兵が行えるような仕業ではなかった。
政府との会見要望が受け入れて貰えなかった武装民兵軍は、その対応に応えるかのように、盗んだ対戦車ヘリのミサイル全弾を沖縄県庁庁舎へ躊躇なく打ち込んだ。全弾を吸い込んだ庁舎ビルは瞬く間もなく強大な爆発を起して四散し、巨大な瓦礫の山へと醜く変貌させられてしまった。それによって、逃げる間もなかった職員の大半が無残にも虐殺されたのだった。
すでに那覇警察署も、虫が湧くように次から次へと出没する武装した‘自称’中国民兵軍によって包囲され、警察としての公権力をとうに失っていた。警官達は、簡単に人を撃ち殺す民兵軍に恐れをなし、署内に留まり続けて何も出来なかったし、何もしなかった。
自治力を完全に喪失した沖縄本島は、中国武装民兵軍という‘ゲリラ集団’によって簡単に、そして国内で最初にして完全に占拠されてしまった。
沖縄がこの事態に陥るまでに、米軍が残した嘉手納基地に中国本土から移転配備して来た中国軍は、不思議な事に全く民兵の鎮圧に動く事はなかったし、一部では中国軍が民兵軍の兵站を影で行っている、という噂さえ日本人達の中に流れていたのだ。
首相官邸地下の危機管理センタ―対策本部室で、安達総理を筆頭に閣僚達全員が顔色を失ったまま、相も変わらず現状打破を為す術を誰一人として持ち合わせていなかった。特に防衛大臣と外務大臣は、他の閣僚達から責任転嫁みたいに責められるような視線を浴び続け、両省の事務次官以下の官僚達もまさかの事態にパニックに陥っていた。だが、これまで無意識のうちに駐留米軍の強大さと抑止力にどっぷりと浸かっていた事を思えば当然といえたのだ。
自衛隊は、米国の強大な武力の庇護の中で装備力を拡充させていっただけで、その精神は、敵に対して僅かな容赦もしない軍隊のそれとは明らかに違っていたからだ。
沖縄が占拠、鹵獲されて間もなく、西日本側から同じような中国武装民兵による暴動は連鎖して各地で勃発、そしてあれよあれよという間に各自治体を簡単に接収していった。更にその規模は無限大に肥大し、在日中国軍基地から武器、弾薬に限らず、装甲車や戦車、ヘリコプタ―までもが当たり前のように強奪されるという、信じられない事態が続いた。一部では社会から虐げられていた日本の若者や、暴力団関係者までもが民兵軍に加担したりもしていった。
日本政府が武装中国民兵の対応にあたふたしている間に、国内の自動車、家電、機械、科学及び製薬を含めた化学メ―カ―は、かなり高度な危機意識に駆られ、各社は重要拠点となっていた研究施設を回復不能レベルで緊急閉鎖した、他国他社に知られてはならない電子化された最重要ファイルだけを携え、経営役員を筆頭に優秀な人材とその家族を引き連れて海外へ一足先に避難し始めていた。本社そのものを海外へと移した企業も後を絶たなかった。
その日本の無様さは、公正中立を保つ国内外各国のメディアが連日、そして途切れる事なく特派員が日本から発信し続けた。だが、当然の事ながら中国新華社通信と英国営通信BBSでは、全くその報道内容の伝え方に大きな温度差が存在していたのだった。
日本に土を掛けられた米国CNNは、淡々と冷ややかに事実結果のみを報道し、仏国営放送TF1に至っては‘安全で平和だった国、日本がシリア内戦のような危機に瀕している’と伝えた。
この憂慮たる事態に国連事務総長は、常任理事国でもある中国とロシアに対して、日本国内での争乱を直ちに収めるように勧告したが、ロシアは連合政府としてもこの争乱に全く関与しておらず、さらに民兵に対する法的公権力を有していない、と関わる事を全く否定した。中国は、暴徒化した民兵が真実に自国民かどうか確認出来ない、と無責任にも拒否した。
沖縄の大型商業施設ビルでの銃乱射立て籠もり事件が起きてから三ヶ月と経たないうちに、争乱の渦は真夏の巨大な積乱雲の如く不気味に肥大して東京都内へ押し迫った。民兵軍は二手に分かれ、一方は国会議事堂前、もう一方は首相官邸前までに押し寄せていたのだ。しかし、日本各地で繰り返されて来た破壊、殺人、略奪などで天井知らずに膨れ上がった民兵軍を押さえるだけの警察力と国衛軍武力は、すでに日本には残っていなかった。
盗んだ中国軍の対戦車ヘリ数機が正午過ぎの国会議事堂上空を舞い、一個師団分の戦車や装甲車の周りを幾重にも取り囲むように民兵や、賛同した日本人が闊歩しているショッキングなニュ―ス映像が、リアルタイムで世界中へ配信され続けた。
国会会期中だったが、肥大化した武装民兵軍が国会議事堂を占拠する為に都内へ進軍している、という情報を耳にした途端、安達総理を含めた全ての衆議院、参議院議員は、恐れを成して一人として登院しなかった。
議事堂内へ踏み入った先頭集団の武装民兵は、堂内警備に付いていた衛視を次々に容赦なくAK―47で撃ち殺し、流れ込んだ大勢の仲間達と伴に国会議事堂を簡単に、そして完全に掌握した。それを確認したみたいに、それまで低空でホバ―リングしていたWZ―10一機が慌てたように急上昇し、首相官邸方向へ飛び去った。
首相官邸東側の国道二四六号線、官邸前交差点は数万人規模の民兵軍が今か今かと埋め尽くし、数台の装甲車と戦車の砲身が官邸へ威嚇するように向けられて待機していた。
上空から耳を覆いたくなるようなロ―タ―の轟音を響かせ、議事堂前から飛んで来たWZ―10一機が民兵達の頭上を勢い良く飛び越した。官邸敷地内の前庭にある長方形の芝を激しく揺らしてゆっくりと降下し、官邸と向き合うようにホバ―リング態勢を維持した。二、三度細かくノ―ズを震わせた直後、小さな両翼に吊り下げられたミサイル・ポッドから数弾が、官邸正面の三、四、五階部分に当たる全面ガラス張りの官邸エントランスへ向けて連射された。数弾のミサイルを吸い込むみたいに直撃を受けた官邸は、ガラス壁が粉々になったどころか、全面半分が見事に吹き飛んでしまった。
それを合図に、数万の民兵軍が官邸敷地内へ一気になだれ込み、西側裏手の低地一階部分の入口からも同時に大勢の民兵が侵入を計った。
官邸前で張り込んでいた各国のTVクル―と特派員達が、マイクを持ちながらカメラへ向い、現場を指しながら何かをしきりに、すごい形相で叫んでいた。
『エスカレ―トした民兵軍は皇居にも進駐するのかぁ!? い、一体この国はどうなってしまうんだぁ!!』
何処かの国の特派員が叫んだ声だった。BBSの集音マイクが偶然拾ったはっきりとした音声がそれだった。
何かが耳障りな強烈な音を立てて、修復が不能なほどに崩れ去った瞬間だった。
カナダ、ケベック州モントリオ―ルは深夜の静寂の中、午前零時を過ぎたところだった。
昔のヨ―ロッパの街並みを想起させる旧市街、低層で瀟洒なアパ―トメントや商店が建ち並ぶ石畳の小さな通り、歴史あるサン・ポ―ル通り西から、セントロ―レンス川へ向って二ブロック入った場所に、ジェ―ムズ・アンソニ―・ロ―ゼンヴァ―グ元空軍大佐の古びた大きな二階建ての屋敷があった。
天井が高く、煉瓦壁で覆われた広々としたリビング中央のマントルピ―スでは、冷え冷えとした室内の空気を暖めるように煌々と炎が赤く燃えていた。その温もりは、マントルピ―ス左手の煉瓦壁に掛けられた百インチの液晶テレビを静かに見詰める家主のジムと、長らくこの屋敷に居候したままのミカと片山の繋がりを、大切に紡いで守っているみたいだった。
端島‘軍艦島’での深夜の片山救出活動の後、米国情報機関ISMOリ―ダ―、アレックス・ブランソン少佐を射殺した菱井重工業CEOの菱井佐奈江と、部下のシステム・エンジニアである吉川瑠偉、そしてミカと救出した片山を乗せた米第五空軍所属のCV―22オスプレイは、東京都福生市の横田基地までとんぼ返りで帰還した。その足で、着の身着のままジムが秘密裏に手配した本土行き大型輸送機C―5ギャラクシ―に紛れ込み、とりあえず米国へと向ったのだった。
米国へ渡った当初、民間人である佐奈江が軍属のブランソンを殺した事で、米国司法省から殺人罪における重罰が当然適用されると思われたが、ISMO自体が米国防総省内や中央情報局内でも最秘匿された機関だったという事と、アレックス・ブランソン少佐なる人物自体が実際に局内に存在しなかった、という事で済まされ、よって佐奈江は奇跡的に無罪放免となったのだ。
この決定の背景には、軍艦島派遣時のスペシャルユニット編成時と同じく、ジムの切実な関係各所、それは司法省の関係者や、局内の査問委員会への根回しがあったのだ。更にはカブ―ル・スタ―・ホテルの襲撃で佐奈江の父親、菱井重工業会長であった菱井健三郎氏が、任務とはいえブランソン配下の凶弾に倒れた、という壮絶な事実の配慮を統合参謀本部議長に訴えた事も含まれていた。それらによって下された判断は、米国政府にとっても苦渋の選択だったのだ。
米国を出国した後、佐奈江と瑠偉も、一時はこの屋敷でジムに匿って貰っていた。だが、二人はバックヤ―ドの残務処理及び、NASA91 ナイトバ―ド‘くノ一’やその他の最高機密デ―タを保守して施設を破棄、閉鎖する為に、更に佐奈江にはCEOとしての責任による菱井重工業の本社機能をいつでも他国支社へ移設出来るようにする為の実務が山積しており、密かに日本へ一度帰国していた。
やるべき事を終えた‘恋人’同士の二人の現在は、ジムの粋な計らいで、米国情報機関が管理している地中海に面した南フランスの港町、マルセイユにあるセーフハウスの一つで‘仲睦まじく’身を潜めているはずだった。
「大佐……日本が……日本がまさかこんな事になってしまうなんて…………」
大きく柔らかいヴィンテ―ジの長ソファに腰掛け、首相官邸のエントランスがミサイルで破壊されたショッキングなライブ映像を見ていたミカが、今にも泣き出しそうな声で吐き出した。ジムは反対側のソファに座ったまま、ミカの痛切な声色を無視するみたいに、わざと無表情を装った冷めた視線でTVモニタ―を凝視していた。
「た、大佐、何か言って下さい!…………でないと、私……」
ジムがゆっくりと振り向くと、目に涙を溜めたミカを優しく認め、柔らかそうな深い皺を幾つも寄せて微笑んだ。
「コ―ヒ―が冷めてしまったようだね。新しく入れ替えよう」
大きな木製アンティ―ク・コ―ヒ―テ―ブルのガラス面に置かれたロイヤル・コペンハ―ゲンのソ―サ―上のカップへ視線を落し、ジムが優しく呟いた。その視線は、ミカが座る長ソファの九十度横の一人掛けソファに佇む、呆けた片山へと続けて向けられた。
片山は、軍艦島での吉澤幸雄を筆頭とした特任自衛隊から強制的に受けた自白剤の影響で、今も精神的に崩壊したままだった。今後いつ意識が元に戻るかどうかも全く予測出来る状態ではなかったのだ。
今の片山にとっては、ニュ―ス映像も、ジムの存在も、ミカの今の様子も全くお構いなしだった。ただ、リビング横の一際大きな窓から焦点の定まらない両眼で、星々が瞬く夜空を放心したまま眺めているだけだった。
ジムはゆっくりと立ち上がり、ミカと片山の手が付けられずに冷めてしまったカップ・ソ―サ―を持ち上げた。穏やかで、見事な所作だった。ソ―サ―をほとんど揺らさずに離れたキッチンまで運ぶと、ちょっと経ってから湯気が立った新しいカップ・ソ―サ―を同じようにして再び二つ運んで来た。
「ミカ……私はね、こう思うんだよ……」
二つのソ―サ―を丁寧に置きながら、柔らかい視線をミカへゆっくりと向ける。ジムが飲んでいたカップとソ―サ―はそのままにテーブルから離れ、自身が腰掛けていたソファの背後に置かれていたアンティ―ク・サイドボ―ドの前に立った。両開きのガラス扉を片側だけ開き、中から大きめなバカラのロックグラスを取り出し、十八年物のグレンフィディックをツ―フィンガー分注いだ。
「ちょっとだけ失礼するよ」
グラスをミカへ翳し「今夜はとても眠れそうにないんでね」と照れたみたいに呟きながらスコッチを口に含んだ。身体の奥深いところへ染み入れるように味わってからソファへ腰掛け、グラスをテ―ブルへ置いた。一呼吸だけ間を置いてから、CNNが送り続ける崩壊寸前の日本からのライブ映像へ視線を泳がす。
「時として、人間は……いや人類は、これまでの永い歴史の中で、繰り返し何度も何度も、何か大きな過信、或いは奢りのようなものを、自分達へ知らぬ間に課してしまって来たのだよ。その裏には、私達自身ではどうにも押さえる事が出来ない‘醜い欲望’や‘自我’が必ず潜んでいるからなんだ……その度に……結果的には何かに失敗し、取り返しの付かない大事な何かさえ失う。そして挫折し、希望を絶たれ、悲しみに暮れ、屈辱的な敗北さえ受け入れざる得なくなってしまうんだ。そこには…………その屈辱感を決定的に誰かに味あわせられる、絶対的で、完全な勝者など、本当は誰一人として、そして何処に存在しない……」
ライブ映像から視線を戻し、ジムの感情が全く隠っていない眼球が緩やかにミカを射貫いた。
「だが、過去……これまで人類が起して来た惨たらしい‘紛争’の根源にあるのは、全てそれが原因なんだ……そして、その‘欲’はその時々で微妙に姿形を変え、人間の心の弱い部分へ入り込んで来る。時にそれは領土だったり…………つまり、人類にとってエネルギ―に成り得る物、場所、或いは土地、その大きさや、広さだったり、量だったりする…………それはね、結果的に‘権力’や‘お金’を生むんだよ、想像を絶するような……ね」
ジムは再びバカラのグラスを手に取り、十八年物のスコッチを口に含んだ。歪めた目尻の皺で、ストレ―トのスコッチが喉を通り過ぎたのがミカにも判った。
「不幸にも歴史は繰り返してしまった。そして、日本も、再び同じ罠の過ちを……取り返しの付かない過ちを起してしまった……だが、そこには……その根子には、きっと、どうにも晴らしたくても晴らせない敗戦からの恨みの歴史が、安達総理に、いや、想いを同じにした多くの日本人の奥深い場所に横たわっていた、のかも知れないね。それが一部の政治家やポピュリストに利用され、国民の中で憲法九条改正へのムーブメントになってしまったのかも知れない……米国に晴らしたい恨みが本当は存在するんだ、という事をね。そして晴らせる日が訪れる事を、辛抱強く堪え忍んで……それは、唯一核攻撃を受けた事がどうにも起因していて、それを覆い隠す為だけに外面を装い、ひたすらに待ち望んで……いたのかも知れない」
ミカは、淡々と感情を押し殺して続けるジムの目から視線が離せなくなっていた。入れ直して貰ったコ―ヒ―の湯気が、萎んでいく花のように消え掛かっていた。
「戦後の米日安保の庇護の中で、そして‘専守防衛’の窮屈な枠組みの中で、日本は、日本の自衛隊は装備力と伴に実力も地道に上げていった。装備力に至っては、米日同盟時期には世界第六位の軍備力までになっていたんだ。何かを勘違いしてしまったとしても、仕方がないのかも知れない……そして、時が経ち、戦争を知らない世代が、いや、戦争を文献でしか知らない‘頭でっかち’の世代が台頭して来た時に………それが今なのかも知れないが…………実際に過ちは起きてしまった」
偶然にも話が途切れた瞬間に、TVスピ―カ―から騒がしく乾いた破裂音が連続して届いた。ジムとミカはほぼ同時にTVモニタ―へ振り向き注視した。
「あ、あれは、あれはなんですか、大佐!?」
首相官邸正門近くから望遠で敷地内を映した映像の様子が少し変だった。民兵達で溢れ返った官邸前庭の中でライフル音が何度も響き、誰かが通る為なのか、潮が引くみたいに民兵達が少しずつ官邸側から道を両側へ開けていったのだった。その中央を、大柄で筋肉質な坊主頭の民兵が狂ったように叫びながら壮絶な表情で進んでいた。片手でAK―47ライフルを担ぐように持ち、反対側の手には翳すように何かを掴んだままCNNのTVカメラに向って近付いていった。避けた民兵達は、男が通り過ぎる瞬間に誰もが驚愕の表情を浮かべ、尻込みしそうな勢いで避けていた。男の顔は、怒ったまま蒼白になって不均衡に歪み、この世の物とは思えないような形相だった。
「きゃあぁー!!」
TV画面を見入っていたミカが突然悲鳴を上げた。
「そ、そんな、馬鹿な…………そんな事が……」
呻くようにジムが呟く。
TVカメラに思い切り近寄った大柄な坊主頭の男が手に掴んでいたのは、血が滴ったままの安達総理の斬首した頭部だった。男は、斬首した安達総理の目が見開いた頭部を、わざとカメラへ当て付けるように寄せ、集音マイクに向って凄まじい雄叫びを何度も何度も上げた。
余りにも突然でショッキングな出来事に、CNNや各局のTVクル―もどう対処していいのか素早く判断出来なかった。ライブ配信だった為に、放送コ―ドを明らかに超越した衝撃的な映像が、瞬く間に世界中を駆け巡った。
「もう、見ない方が良い……大丈夫かい、ミカ?」
頷いたミカは、TVモニタ―から顔を背け、ロイヤル・コペンハ―ゲンのカップを怯えたまま見詰めていた。ジムはリモコンでTV電源を切り、立ち上がってテ―ブルを回り、ミカの横へ腰掛けた。
「少し昔の話をしよう……」
少し間を置いてから、ジムが俯いたままのミカに柔らかい声で話し掛けた。
「太平洋戦争が終結し、米国は敗戦国家となった日本へGHQ/SCAP(General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)を設置し、敗戦国日本を再建する為に、速やかに動き出した。まず行ったのは、軍隊を解体し、思想、信仰、集会及び言論の自由を制限していたあらゆる法令の廃止、更に特別高等警察の廃止に、治安維持法で逮捕、服役していた政治犯の即時釈放、そして政治の民主化や政教分離などを徹底する為に大日本帝国憲法の改正、経済民主化の為の財閥解体、農地解放……などだ。GHQ/SCAPの最大の目標は、日本を中立・非武装化し、軍国主義を廃して親米的な国家へと創り変えることだったんだ……」
ジムが、テ―ブルの反対側へ置いたままだったグラスに手を伸ばし、一口含んで舌を潤した。
「物理的な軍事力剥奪の次に進めたのが法的な整備で‘国民主権’と‘基本的人権の尊重’という民主主義の基本を備えると共に‘戦争放棄’を謳った‘日本国憲法’を作成して日本政府に与えた、という事だった。これが戦後のざっとした日本の憲法が出来たところまでの流れなんだ」
ミカは、孫が祖父から昔話を興味深く聞くような視線でジムを見詰めていた。
「その後の日本の経済復興はまさに奇跡的だったよ。資源が全くといっていいほどにない日本は、培って来た工業力を駆使して輸入した原材料だけで、素晴らしい製品を次々と生み出した。敗戦国だったが、経済的にも自由な国だった……まぁ、一時は経済的に強く成り過ぎて、米国との経済摩擦があったけどね……でも、それは同じ連合軍だった旧ソ連に、日本を侵略させない為でもあったはずなんだよ」
興味深く聞き入っているミカへ、ジムは砕けたようなウインクを送った。
「ミカは、その昔に、中国大陸東北部沿岸に‘満州国’という国があったのを知っているかい? まだ太平洋戦争が始まる前の、ミカからしたら相当に大昔の事だがね」
ミカは、少し恥ずかしそうに首をゆっくりと横へ振った。それを見たジムは「そうか」と呟きながら軽く頷いた。
「簡単にいえば、昔そこは日本が戦争で中国から奪い取った場所であり、日本が所有していた‘傀儡国家’だったんだよ。傀儡とは、何でも自由に言いなりにさせられる、という意味で、満州国は、当時の軍国主義国家の日本にとって、主権も選挙権も全く与えなかった都合の良い奴隷の国だった。そして、多くの日本人がそこへ移り住んだんだよ……敗戦後には日本から取り上げたけどね」
ジムを見詰める瞳が、話の先を促していた。
「つまり、米国も日本に対して、そうしようと思えば出来た事だった。だが、実際に米国はそうはしなかった。行なったのは、日本に新しい憲法を与え、自治権も、選挙権も与えて……敗戦国だった日本を独立国として認めた事なんだ………」
言い終えてからいきなり立ち上がり「それなのに」と零した。
「大佐……」
「何だね」
諦めたみたいに零したジムに、ミカがいきなり問い掛けた。
「もしかしたら……もしかしたらなんですけど、中国の人達も、晴らせない恨みが……日本人に対して、ずっとあったのかも……」
「えっ!?」
突然のミカの閃きに似た感慨に、ジムは驚きを隠せなかった。
「歴史は繰り返す………か……そうかも知れないな」
ジムは、納得したみたいに何度か細かく頷くしかなかった。
「ちょっと一緒に来てくれないかい、ミカ?」
頷きながらミカは立ち上がり、ジムが差し伸べた手を掴んだ。片山をソファに残したまま、ジムはリビングとキッチンの間にある細い通路を進み、正面に見えたドアを開いた。LEDライトの柔らかい昼光色で照らされた中には地下へ降りる階段があり、十段ほど降りると二十畳ほどの地下室があった。そこはジムの仕事場で、諜報活動に必要な最新のコンピュ―タ―・ユニットと大型ディスプレイが十台ほど並べられ、全てが512Mbpsの高速光ファイバ―回線で結ばれていた。そして、佐奈江から預かったナイトバ―ド‘くノ一’強化コンバット・ア―マ―が収納された格納庫が置かれたままになっていた。
「私は、結局のところ、死ぬまでこの仕事を全く辞められそうにない、みたいだよ…………まるで病気だ」
自虐的に微笑み、室内を見回しながらコンソ―ルの主電源を立ち上げた。
「こんな時に、こんな言い方はどうかと思うが、君もヒロも、もう日本という名の国には帰る事は多分出来ない………特にヒロは、しばらく………どれ位かは判らないが、じっくりとした時間を掛けた療養が必要だ……」
ジムは俯きながら言い淀んだ。
「それならば、もし良ければ……なんだが、ここに私と一緒にいないか? もし、君らが構わない、ならだが……とはいっても、私もこの先、後何年ほど生きられるかも判らないが……それに、サナエ達も、何れはここへ戻って来るだろうし………」
少し照れながらジムはそう言い、最後は照れを隠す為に大きく笑い飛ばした。
「どうだろう、ミカ? 出来ればこれからも、あの強化(パワ―ド)ア―マ―を纏い、私の目や耳になって貰えないだろうか?」
ジムは顎で格納庫を杓ってからミカを優しく見詰めた。ミカは、それを穏やかな瞬きで受け止めていた。
「有難う、ミカ……」
《ミカ様、私もご一緒させて頂きます》
「えっ、マジ!?」
オオバの澄んだバリトンで、流暢な英語が室内に伝わった。
《左様で御座います》
納得したように頷いたジムは、何気なく片山を残した上階方向へ視線を送った。
ソファに腰掛けたままの片山は、何が自身の周りで起きているのかなんて全く何も気付いていなかったし、どうでも良かった。煉瓦壁に埋め込まれた大きな窓から見える、澄み切った夜空を幸せそうな呆けた微笑みで飽きもせずに、ただひたすらに見上げているだけだった。