罠/トラップ
細かな砂や土が混ざったような乾いた大気は常に煩わしかった。母国の米国内にいるにも関わらず、つい最近までいたアフガニスタンとそう大差がないな、と思い知らされ、アレックス・ブランソンを嫌でも落ち込ませた。
ブランソンの、屋根を外した黄色いタルガトップのシボレ―・コルベットZ06は、耳障りなプッシュロッドV8エンジンの騒がしい排気音を辺りへ撒き散らし、サウス・セントラル・アベニュ―から、交差するイ―スト・サザン・アベニュ―との角にあるマクドナルドへと慌てたように滑り込んだ。店舗敷地内通路は、すでに午後一時を過ぎていたせいかがら空きだった。
嫌味なほどに長いコルベットのノ―ズをドライブスル―へと向け、大きなメニュ―看板とマイクの前で停車させた。いつもと同じ注文を簡単に済ませ、受取窓口まで車を進める。アフガニスタンから戻って、ほぼ毎日通ったここ一ヶ月で初めて見る金髪ロングのアルバイト嬢が作り笑いで待っていた。
胸元が今にも弾けそうな位に豊満なそのアルバイト嬢の服装は、どう見てもストライプのユニフォ―ム・シャツのサイズが合っていなかった。それがわざとなのか、それとも新しいユニフォームが支給されないせいなのかは、ブランソンには当然判らなかったが、視線だけは間違いなく引き寄せられた。
豊満な金髪アルバイト嬢が現金と引き替えに、マクドナルドのトレ―ドマークが入った茶色い紙袋を渡してくれた時「あなたと同じでカッコいいオ―プン・スポ―ツカ―ね」と、ブランソンに意味深なウインクを寄越した。
「どうも」
ク―ルに返したつもりだったが、多少の照れが滲み出てしまった事に恥ずかしさを覚えた。相変わらず自身の食事と、女の好みのセンスのなさを、またしても嫌というほどに痛感する。
金髪アルバイト嬢の熱い視線を感じながら、オ―トマティック・ギアのセレクタ―をニュ―トラルからドライブへスライドさせ、ゆっくりとサウス・セントラル・アベニュ―へ出た。じわりとスロットルを踏んでコルベットをのんびりと南下させる。窓枠に肘を掛けて通りを流していると、砂漠気候特有の乾いた暑い日差しがブランソンのブルネットの髪と頭皮に襲い掛かった。
コルベットを転がしながらブランソンは、マクドナルドの金髪豊満アルバイト嬢を、今晩の夕食にでも誘ったらどうだったのだろう、などというくだらない妄想をし始めた。簡単に応じて、そのまま夜のディ―プでエロティックな、そしてちょっとサディスティックでインモラルなねっとりとしたプレイに引きずり込む事さえ出来たかも知れなかったな、なんていう淫靡で身勝手な性衝動は全く留まる事を知らずに、股間と伴にひたすら身勝手に膨らんでいった。
ピザ屋やステ―キハウス、洗車場や病院に教会を通り過ぎ、閑散とした交差点を七つほど通り越したサウスマウンテン・ヴィレッジ地区に、ブランソンの現在の建前上の勤務先があった。
通り周辺には高層建築物の類いが全くなかった。対向車ともほとんどすれ違う事もない砂漠の田舎道にしては、サウス・セントラル・アベニュ―は妙に整備されていた。余りにも走りやすい道路に常に違和感を覚えたが、通勤には毎日この通りを利用するしかなかった。
通りに面した左手に、背の高いコンクリ―ト塀がしばらく続いた。その塀の先の左側に、出来てまだ一年ほどの‘ライカン水産加工缶詰工場’の正門ゲ―トがあった。
約一エ―カ―(千二百二十四坪)の広大な土地に作られたこの施設の本当の意味が判っていない初老の守衛に片手で挨拶を送り、ブランソンはコルベットをゆっくりと敷地内へと乗り入れた。
正門ゲ―トから真っ直ぐに工場建物の二階連絡橋を潜り、野球場ほどの広さの中庭に作られたがら空きの駐車区画に進む。混み合った事など一度もない駐車場の、いつもの廊下沿いの出入り口に比較的近い場所にコルベットを停めた。
ハンバ―ガ―とポテトが入ったマクドナルドの紙袋を持って、ブランソンはコルベットを降りた。大きな採光窓が幾つも連なった人気のない廊下に一番近い出入口へと向う。
上空から見てコの字型をした工場建物の廊下という廊下には、採光の為の窓が無駄と思えるほどに幾つも取り付けられていた。その数々の窓を通して、ネバダの乾いた暑い陽に照らされた構内廊下は、必要以上な明るさと温度を無駄に保っていた。
工場の規模からすれば、構内にはもっと活気があっても良さそうだった。窓だらけの明るい構内廊下は不思議と閑散として、何故か廊下通路内の温度に反して雰囲気は寒々としていたのだった。傍目には、自動化が進んだ最先端工場施設のようにも思えたほどだった。
ブランソンは、コの字型の工場内側の一番近くにあった‘従業員専用’と但し書きされたドアを指紋認証で開けた。ドアを開けると不思議な事に、辺りの窓が並んだ廊下には全く繋がってはいなかった。そこは何故かそのまま地下へ向う階段になっていたのだった。
一人が通れるほどの狭い階段をしばらく下りると、殊更頑丈そうな鋼鉄製の扉が現れた。今度は指紋認証の他にブランソンの虹彩認証が必要だった。
認証コンソールの覗き穴をブランソンが右眼で覗き込み、虹彩がセンサーで認識されると電子音が小さな踊り場に響き、ロックが解錠された鈍い音が伝わった。
「本当に面倒臭ぇなぁ」
うんざりしたように呟きながら扉を開け、天井も壁も全てが純白で統一された広い通路に出て左へ折れた。異様なほどに無音で無味乾燥とした通路で、誰とも擦れ違う事もなく突き当たりまで進むと、曇りガラスの自動ドアがタイミング良く両側へゆっくりと開いた。通路の静寂に罅が入るように、部屋の中から電子音や電動ファンの音が騒がしく染み漏れ出す。
「おはよう」
「おはよう御座います、少佐殿」
すでに午後を回っていたが、入口から両側に連なるコンピュ―タ―が並んだ各コンソ―ル席に座る一人ひとりにそう穏やかな声を掛け、ブランソンは一番奥にある自身のデスクへ向った。
二十メ―トルほど歩いてからデスクトップの前にマクドナルドの紙袋をぞんざいに置き、包装紙に包まれたビックマックを取り出した。それを持って、右側列の一番手前のコンソ―ル席に近付く。
「ジャック、例の‘プレッシャ―’の動きはどうだ?」
「相変わらずです、少佐殿。この一週間、メ―ル爆弾にウェブ脅威の双方向攻撃で、こちらのセキュリティはほぼ防戦一方のぎりぎりの状態に陥っています。この施設が逆に何者かからのクラウド攻撃の対象になるなんてとても信じられません。現在、全世界のクラウド上を全力でトレ―スしているんですが、世界中を北回り、南回り、西回り、東回りと何カ国も多重経由し、地球上を変幻自在に何周もしてからの攻撃で、全く尻尾が掴めない状況です。大体、ここのサ―バ―の存在なんて、実際は絶対に特定出来るはずなんかないのに! ………一体何処の、どんなハッカ―が仕掛けている、っていうんでしょうかね!?」
眼鏡を掛けた三十代前半と思しき痩せた金髪の男が、どうしようもないというように肩を竦めた。
「絶対にない、何ていうのは有り得ないさ………以前……ラングレ―で、その手の信じられないくらい強烈な日本人のスペシャリストにお目に掛かった事がある……名前さえ覚えていないがな」
ビックマックを持ったままのブランソンは、言おうか言うまいか一瞬だけ迷った後、わざと皮肉めいた言い方で淡々と応えた。
「ちょ、ちょっと待て……たった今だ、少佐、たった今です、セキュリティ・ウォ―ルを突破したリモ―ト・ウィルスの存在を確認!! ウィルスは瞬く間にキ―ロガ―を拡散した模様…………現在クライアント化されたここのメインフレ―ム・サ―バ―から……あ―っ、大変だ!! と、途轍もない通信速度で情報を吸い出し、が、外部へ送信中!!」
部屋の中程のコンソ―ル席でモニタ―していた小太りの男が慌てたように叫んだ。
「だったらさっさと回線をカットしろ!!」
ブランソンの怒号が飛び、慌てた小太りの男は驚くような速さでキ―ボ―ドを叩いて、回線管制コントロ―ルから通信を遮断しようと試みる。
「だ、駄目です!! 遮断出来ません……な、何でだ、一体どうしたっていうんだ!?」
「トレ―スだ、遮断出来ないなら意地でもトレ―スしろ!! デ―タが何処へ飛んでいるのか絶対に掴めぇ!!」
小太りの男と、その周辺のコンソ―ル席に着いていた数名が頷き、直ちに回線接続から流出し続けるファイルをネット上へ追い掛け始める。
「施設内の……ぜ、全監視カメラが勝手に動き出しているぞ!!」
小太り男の右隣のオペレ―タ―が、自席に三つ並んだデスクトップ・モニタ―を見入ったままパニックを起したように騒ぎ出した。
「何ぃ!?」
「しょ、少佐……全くコントロ―ル出来ません!!」
今にも泣き出しそうな男をブランソンは一瞥し、平静を極力保って眼鏡の金髪男へ振り向く。
「ジャック、サ―バ―を潜り抜けているファイルは、メインフレ―ムのどの階層ドライブから出ている!?」
「お言葉ですが少佐殿、どの階層とかというレベルではなく、メインフレ―ム内の最重要ファイルも含めて根こそぎ情報が流れて出ています!! 外部への送信を全く止められない!! 秘匿ファイルの量子暗号化されたキーロギングは理論的にも物理的にも絶対不可能なはずなのに……です。まず、有り得ない!!」
「マジか!?」
二十四インチ・デスクトップ上に重ねて表示されたウィンドウの最上部のディバイス・タスクマネ―ジメントのゲ―ジを確認しながらブランソンが呆然と応える。
「だから言ったろ、絶対に、なんていうのこそ有り得ないのさ。それこそあの、あの時の‘日本人’なら決して不可能なんかじゃないが……まさかな」
悔しそうな舌打ちをして自身のデスクに戻り、手付かずのビックマックを袋の横へ、食べるのを諦めたように放り置く。
「ここのメインフレ―ムに入っていたヤバい秘匿情報といえば、俺が指揮したアフガニスタンでの偽装襲撃に関連する‘二次ファイル’と、捕獲して解剖した特任自衛官の身体情報のやはり‘二次ファイル’に、それと二年前に起きた‘ヨコスカ・ショック’の首謀者調査関連のものだけだったな。調査結果は、全く信じられないような事実と驚きだったが‘ヨコスカ・ショック’を企てた首謀者の目星も大体付いたし、必要な情報群はすでにラングレ―に送信済みだ。ここの施設のハッキングに成功したのが何処の誰だかは知らないが、欲しいならそんな情報くれてやればいい」
「いいん……ですか?」
「駄目だと言っても、侵入を許してしまったリモート・ウィルスを止められないだろ?」
振り向いたままブランソンを凝視し続ける金髪オペレーターへ、冷めたように吐き捨てた。
「特任自衛官の体内から採取した血液サンプルと細胞情報、それと二液化合発火溶液の検体デ―タだけは、ラングレ―へ送った後に処分したな?………あ、そうだ、後、俺の架空の改竄記録、アフガニスタン、ISAFでの‘ベンジャミン・ク―パ―一等兵’としての偽の経歴と記録だ」
「えぇ、処分済みです」
「ならいいさ……あれが今の段階で外に情報流出するとちょっと外交的にも政策的にもマズいが……な、まぁ、どうせここは元々‘一時的’な調査の為のクラウド攻撃用地下施設でしかないんだ。地上の工場建物にしたって、映画撮影用の張りぼてセットに等しい、単なる見せ掛けだしな……調査はほぼ終了したから、近々ここは計画通りに破棄する予定だ」
ブランソンは無理に自身を納得させ、ようやくビックマックが包まれた包装紙を剥がす気になったのか、再び一際大きなハンバーガーの包みを掴んだ。
「少佐殿、あるオブジェクト・ファイルのトレースの解析に現在八十二パーセントまで成功しています……これは…………一度だけ同じ回収ルートと……1024Mbpsの高速ルートキットが使われています……速い、なんて速いの!! …………余り見ない、いえ……これまで見た事のないタイプです……でも、明らかに転送中の量子暗号ファイルの圧縮には失敗しているようです!」
「尻尾を絶対に放すなよ!! 何処へ向っている!?」
小太り男オペレ―タ―の背中越しのコンソ―ル席にいたブルネット・ロングヘアの女性オペレ―タ―の声に反応した。ブランソンは包みを再びデスクへ置く。
「ちょっとお待ち下さい、トレ―ス解析デ―タをア―スマップに反映します…………出ました……まず、光回線上を東海岸側まで飛び、大西洋を超えて旧大陸、……信じられない、ロシア国内へ侵入……通過しました。更にはアラスカさえ飛び越して、今度は北米大陸から赤道を越え南下、南米大陸へ向い……そして南太平洋を渡ってオーストラリアを通過、インド洋の海底ケーブルから南アフリカ共和国の回線に侵入し、そこからアフリカ大陸を北上………この辺りの通信状況の影響を受けて転送速度がかなり落ちています………解析率が今ようやく九十パ―セントを超過しました」
「で、何処だ、何処へ向っている?」
明らかに苛ついていたブランソンは、通路を女性オペレ―タ―の元へ急ぎ足で近寄った。背中越しの小太り男や、周辺にいた数名のオペレ―タ―達も自席を離れ、女性オペレ―タ―の大きな液晶モニタ―を背後から覗き込んでいた。
「地中海を渡って再び旧大陸へ……黒海……カスピ海を通過、カザフスタン国内のISDN回線へ……速度がかなり……落ちます。トレ―ス解析率九十五パ―セント………再び南下しました……インド方面へ向って……インド洋からインドネシア………フィリピン……解析率九十八パ―セント……」
モニタ―を見入っていた全員が固唾を呑み、ファイルの航跡がア―スマップ上に反映されるのを待った。
「解析率九十九パ―セント………で、出ました、日本です」
「日本……だと!? ま、まさかそこは例の西日本にある‘疑わしき攻撃対象地区’なのか」
「ちょっと待って下さい。トレース解析デ―タを、軌道上の偵察衛星Key Hole 13の戦術コマンドに統合…………移動座標を日本の上空へ……運用高度を通常軌道高度の五百キロメ―トルから限界軌道高度の百二十キロメ―トルまで現在降下させています」
ブルネットの女性オペレ―タ―は、コンソ―ル席左側に設置された衛星遠隔用テレメタリング・キ―ボ―ドを左手だけで素早く操作して、所定の軌道まで衛星を誘導する。
「NRO(米国国家偵察局)へ、米国中央情報局防諜センタ―部所管、ISMO(Intelligence Special Mission Organization)アレックス・ブランソン少佐の特務特権による衛星使用許可事後通達信号を発信しました……使用許可確認………Key Hole 13からのセキュリティ信号の応答を待っています……来ました、待機完了。直ちにSAR(合成開口レ―ダ―)運用準備、現在の運用軌道高度で日本上空のタ―ゲット周辺範囲にて仮想分解能を数ヶ所構築……トレ―ス解析デ―タをチャ―プ信号に同期させ、日本国内の回線全てを通過するリモ―ト・ファイルのスペクトラム拡散信号の航跡を追跡します………トレ―ス解析率九十九・五パ―セント……」
「よろしい」
ブランソンは満足げに腕を組んでモニタ―を見入り、女性オペレ―タ―の脇に立ったまま衛星運用を含めた解析ディバイスの反応を待った。
「タ―ゲットをインサイド・ト―キョ―……23ストリ―ト・ブロックに絞り込んでいます………スペクトラム拡散信号をミナトク・ブロックに特定………トレ―ス解析率百パ―セントに達しました」
「何処だ!?」
「……ミナトク・ロッポンギ・エリア……7ストリ―ト・ブロック、こ、これは地下です……かね、かなりの深部にある施設です………ヒシイ・ヘビィ・インダストリ―ズ本社の地下が………タ―ゲットポイントです」
少し躊躇したように、女性オペレ―タ―は右側に振り向きながら見上げて言った。
「ヒシイ・ヘビィ・インダストリ―ズだとぉ!? ……日本の防衛省に装備品を納めている軍需企業じゃないか」
余りにも以外な結果にブランソンは戸惑いと嫌な予感を隠せなかった。それはつい最近耳にした噂、二ヶ月ほど前に、日本の防衛省技術研究本部へDARPAから供与されたという幾つかの最先端軍需技術の事を思い起こさせたからだった。
「ジャック、ちょっと調べてくれないか? 直近で日本への軍需技術供与があったかどうか、という事で、それは最新のステルス技術と、TALOS(Tactical Assault Light Operator Suit:戦術的攻撃軽量オペレ―ス―ツ)の実機を研究試験用に提供したかどうか、という事なんだ。もしもあった場合はTALOSのモデル・フェ―ズナンバ―が知りたい!」
通路の一番奥中央の自席手前に座り続ける金髪のオペレ―タ―に呼び掛ける。
「判りました……ちょっと待って下さい、国防総省のデ―タベ―スへ照会リクエストをアップリンクしています…………」
キ―ボ―ドを叩きながらブランソンに応対する。
「………来ました、照会No.TKQJK100786 ……直近データでは、やはり二ヶ月ほど前にDARPAから共同開発という名目で技術供与が行われていたようですが、それは主にTALOS関連のものでステルスに関連したものはなかったようです。TALOSは、電源に大容量リチウム・イオン・バッテリ―から、燃料電池を搭載した開発用試験機‘フェーズ3’モデルで、コ―ドネ―ム‘マッド・ドック’、型式RIZEスラッシュ003、ツインアイ仕様が供与されたようです」
「えっ!?………お、おい………ちょっと待てよ……フェ―ズ3って、確かTALOS開発の中で、最秘匿されたレヴォリュ―ション・モデルじゃないのか?」
「え~っと………照会されたデ―タからすると………その…ようですね」
「なんでそんなものをこのタイミングで日本なんかにわざわざ………敵に塩を送るようなものじゃないか! ホワイトハウスと外務省の役人は一体何を考えてんだ!? 俺達が行っている事がまるで無意味になっちまう!!」
ブランソンは、呑気に問い掛けの受け答えする眼鏡の痩せた金髪男を自然と強く睨み返していた。
「ましてやトレースした先がヒシイ……インダストリ―ズだとぉ………これは単なる偶然なのか、或いは……何かの因縁なのか…………?」
菱井重工業本社地下にあるバックヤ―ドのセキュリティ区間を、今朝も一番で通過したのは瑠偉だった。
メインフレ―ム・コンピュ―タ―が並んだフロアにある自室に向う途中の大型モニタ―とキ―ボ―ド・コンソ―ル席で、今朝も俯せたまま、うたた寝する徹夜続きの片山の脇を通り過ぎた。
自室のドアを開け、衣紋掛けに引っ掛かった白衣を紺色のチュ―ブトップとデニムのホットパンツの上に羽織る。衣紋掛け横の姿見で、首筋や肩、胸元に腋の下を簡単に目配せしてから、白衣の襟元を正して片山のコンソ―ル席へと足早に戻る。
「起きて、片山さん、起きて……風邪引くわよ」
キ―ボ―ドに俯せた片山を、瑠偉は優しく擦って起した。
「ん……?」
寝ぼけた片山がはっとして身を起した時、タイミング良く佐奈江のアヴェンタド―ルが轟音を撒き散らしながら専用通路を通過してバックヤ―ドに入って来た。
「お、おはよう……ミカ?……ん、な、ミカ……な、何で白衣なんて着てるんだ?」
瞼を擦りながら寝ぼけたまま問い掛ける
「私は瑠偉よ……ミカじゃないわ……何寝ぼけているのよ、片山さん、大丈夫?」
「へ?……あ、ほんとだ……ご、ごめん、ごめん……き、君達二人、本当に良く似ているから……見間違えちゃった……ハハハ…」
明らかに片山は連日の徹夜で疲れているのが瑠偉には見て取れた。
「片山さん、幾ら何でも少し休んだ方がいいんじゃない?」
心配しているような、呆れたような曖昧な口調で瑠偉は片山を促した。
「おはよう、片山さん」
アヴェンタド―ルを降りた佐奈江がケリ―バッグを携え、小階段のステップを数段上がってコンソ―ル席に近寄った。純白の施設内に声が柔らかく反響する。
「無理し過ぎて死なないでよ」
減らず口を叩きながら優雅に歩み寄り、瑠偉の横に並ぶ。瑠偉は佐奈江に意味深で感情が籠もった朝の会釈を送り、佐奈江はそれをウインクで返して受け止めた。
「何言ってんだよ……俺がそう簡単に死ぬわけないじゃないか。それよりもだ……え~っと、瑠偉、今、何時なんだ?」
「もう朝の九時よ」
「もう?……朝の九時ね………それじゃ、今朝の‘最新’にして‘重大’なトピックスを、君達に発表するとするか…」
「それよりも、これ見て」
佐奈江が話を遮るように、カラ―印刷された二つ折りのスポ―ツ紙を片山へ放り投げた。受け取って紙面を開いた片山の目に、太文字で書かれた派手な一面記事が飛び込む。
「素晴らしいね、この‘ケン・ゴトウ、脳死していた’っていうスク―プ記事。でもって‘有名マネ―ジャ―、ボブ・ヨシザワを筆頭にした、ケン・ゴトウのマネ―ジメントチームは、大手スポンサ―団からの高額なスポンサ―フィ―を長期間に渡って騙し取っていた! 訴訟問題に発展か!?’……一体‘何処’の‘誰’が病床のケン・ゴトウ邸に忍び込んで、脳死をすっぱ抜いたんだか……ね?」
ふざけたように片山は「愉快、愉快!」と笑いながら佐奈江に目配せした。
「お蔭様で、これでクライアントとの契約は満了だ。入金も確実になったし、めでたし、めでたし…と」
「そこじゃないわ、次のペ―ジ捲ってみて」
「えっ!?」
ほくそ笑んでいた片山が、促されたままにペ―ジを開くと、漆黒の夜空にケン・ゴトウ邸から舞い上がるピンぼけした、はっきりと写っていない黒い物体の写真が大きく掲載されていた。瑠偉も傍らから誌面を覗く。
「すごいわ、この写真、パパラッチといえどもさすがにプロね。クロ―フックの巻き上げ加速度で考えたら、急に気付いたとしてもファインダ―内に‘くノ一’を収めるなんて普通は無理なはずなんだけど……」
瑠偉と同じように写真を眺めた片山は、記事に目を落とす。
「何々……『ケン・ゴトウの病状が、何者かによってスク―プ記事としてすっぱ抜かれた可能性が高かった深夜、偶然にも当編集部のカメラマンが、ケン・ゴトウ邸から物凄い速度で飛び立つ‘何か’をフィルムに収めていた。カメラマンによると、それは突然の大きな炸裂音と伴に、生体物らしき‘物体’が夜空目掛けて物凄い速度で飛び跳ねていった、という事までしか判らなかった。慌てたカメラマンが奇跡的なシャッタ―で捉えたが、果たしてこの写真に写る‘物体’の正体は何か?』……云々と」
「スゴいね!」と素っ気なく呟きながら新聞を瑠偉へ何気なく手渡し、片山は寝ぼけ眼で椅子をくるりと回転させると、コンソ―ル席のキ―ボ―ドを幾つか素早く叩いて頭上の大型モニタ―を開いた。
「何なのよ、片山さん!?」
むっとした瑠偉が片山に絡む。
「デビュ―戦にしちゃ、完璧に近かったんじゃないの‘くノ一’強化コンバット・ア―マ―は……」
「まだ完璧なんかじゃないわ。だから、今後のR.I.S.Eのアップデ―トの事で、装着者のミカと相談したいくらいなんだけど」
瑠偉をわざと無視するみたいに片山はキ―ボ―ドを細かく叩いて操作し続けた。
「ナイトバ―ド ‘くノ一 ’強化コンバット・ア―マ―が如何ほどに優れているか、っていうのは良く判ったよ…パパラッチに写真を撮られてしまったのは想定外だった、としてもだ。だがな、ミカが‘あれ’を装着する事は、もう今後ないはずだよ……そこにいらっしゃるあんた達の‘親分さん’ともそういう約束だったしな」
片山は、皮肉そうに唇を歪めながら薄笑いを浮かべ、瑠偉は驚いたように反射的に佐奈江を見詰めた。
「それにだ……君達二人がだな、夜な夜なキングサイズのダブルベッドで、生まれたまんまの姿で‘ねっとり’といちゃついている時、つまり、今日の深夜二時ごろだな……仕事熱心な僕ちゃんの可愛い、可愛いリモ―ト・ウィルスの‘ボット君’が、例の怪しげな米国フェニックスの施設に侵入、ようやくクライアント化に成功して、とんでもない量の情報ファイルの‘お土産’を山ほど持ち帰ってくれのだけど……それは如何ほどに褒めて貰えるのかな?」
片山が目を擦りながらわざと佐奈江と瑠偉を茶化しながらキ―ボ―ドを数回叩くと、フロア奥のメインフレ―ム・ア―キテクチャの幾つかが反応し、電動冷却ファンが勢い良く大きな回転排出音を出し始めた。不意を突かれた佐奈江と瑠偉は、ミカと‘くノ一’の話など何処かへ吹き飛んだように、二人とも頬を赤く染めて視線を泳がせていた。
「ふふふ……まぁ、いいや、約束だからな……とにかくとくとご覧あれ……まずは第一幕」
頭上の大型液晶モニタ―に、日付とタイムカウントが表示された動画が流れ始めた。並んでいた佐奈江と瑠偉が同時に見上げる。
「これは約二ヶ月半前の、施設内の監視カメラの記録映像のようだ」
モニタ―には、幾つかにブロック分けされた数種の施設内映像が表示された。片山は、その中から通路と思しき場所に数名の迷彩服の男達が、誰かを連行しているような、斜め上方からの少し歪んだ粗い映像をピックアップして拡大した。
「こいつはわざと秘匿性を高める為に解像度を粗くさせられているが、俺が作った映像トリミング専用解析ソフトで元の高解像度映像に戻す」
映っていた映像が静止し、画面が至るところで細かなモザイク模様となって全体をあっという間に覆った。数秒たった直後に今度は画面全体が、霧が一気に引いたみたいに鮮やかな静止画像に切り替わった。
「画像をズ―ムする」
映っていた数名の男達の顔が鮮明になり、片山は映っていた東洋系の男と、米国人らしき男の顔数名をマウスで素早くチェックした。
《顔認証リンクを確認致しました…………カタヤマ様、防衛省管轄の特任自衛官専用セキュリティ・ア―カイブと、米国防総省全軍と、全情報機関のシークレット・カバ―リストへ、チェックした顔認証デ―タをアクセス致しますか?》
「ちょっと待て……防衛省のア―カイブは別にして、国防総省の最秘匿されたカバ―リストにアクセスする…だと!? ペンタゴンのネットワ―クをハッキングするのとほぼ同等の難易レベルだぞ!?」
懐疑的に片山がオオバを促した。
《承知致しました。まず防衛省のシ―クレット・セキュリティ・リンクに接続致します…………権限を求められています…………前会長のセキュリティ・コ―ドが有効のままになっていますが、そのまま行使して宜しいでしょうか?》
片山は口答せずにマウスをクリックした。
《承知致しました…………権限を求めています…………接続が完了…………リストを照会しています……》
頭上のモニタ―が慌ただしく暗転を続ける。
《照会が完了致しました…………引き続き、米国防総省シ―クレット・カバ―リストにアクセス致します…………セキュリティ・システムがアクセスの最高権限を求めています………………ジェ―ムズ・アンソニ―・ロ―ゼンヴァ―グ元空軍大佐のセキュリティ・コ―ドが現在も最高権限で有効ですが、行使致しますか?》
「はっ!? 何言ってんだ、な、何でモスキ―トのコ―ドをオオバが認識しているんだ!?」
オオバの言葉に慌てふためいた片山は、眠気が吹き飛んだように振り返り、佐奈江を見上げて凝視した。
「それが私と彼の信頼関係の証という事。勿論、この事が国防総省に知れれば私のみならず、彼の生命の保証さえない」
ゆっくりと抑揚なく、眼下の片山へ吐露した。全く感情が見られない冷ややかな視線が覚悟のほどを語っていた。
《どうなさいますか? カタヤマ様……》
「……頼む……アクセスだ」
佐奈江を睨んだまま淡々と応えた。
《承知致しました…………コ―ド認証中……………パスワ―ドを要求されています……パスワ―ドを送信、入力……………ロ―ゼンヴァ―グ元大佐のIDを入力…………認証されました。アクセス完了……カバ―リストのデ―タベ―スへ顔認証デ―タの照会を開始致します………》
すでにモニタ―の右隅に自衛官の顔写真とプロフィ―ルが表示された横で、Loadingの文字が何度も点滅を続ける。数秒経ってからその横へ順番に顔写真とプロフィ―ルが表示され始めた。五名の米国人のプロフィ―ルが表示されてモニタ―画面は静止した。
《完了致しました》
オオバの声の後に、片山の溜息が佐奈江と瑠偉の耳へのっそりと伝わる。
「真辺和博、三十五歳、階級は特別任務一等陸曹……、カブ―ル・スタ―・ホテルの襲撃時に、間違いなく消息不明になったやつだ。何故か殺されずに、この米国内の施設へアフガニスタンからやはり移送されている……」
片山は、モニタ―画面の中で自衛官の顔写真と、監視映像の静止画を並べて瞬時に拡大させた。
「監視映像を窺う限り、どう見てもこの特任自衛官は、周りの米国兵達に‘連行’されているという感じに見えるな……何故だ?……まぁいい、次」
自衛官の画像サイズを元に戻し、左横の米国人デ―タを静止画に並べて拡大させた。
「アレックス・マ―ティン・ブランソン、三十歳、米陸軍少佐、ウェストポイント士官学校を首席で卒業、INSCOM(米陸軍情報保全コマンド)へ配属、現在はCIA(米国中央情報局)傘下のISMO……Intelligence Special Mission Organization(諜報特別任務機関)へ出向中?…………ISMOだと? これまで全く耳にした事のない機関名だ……オオバ、この機関の詳細が知りたい」
《承知致しました………カバ―リストのリンクから国防総省のデ―タベ―スへの照会を開始致します……パスワ―ドを認証……IDを入力……………検索しています……………ア―カイブに該当情報が御座いません》
「何だと!?」
「いえ…………これこそが、ヨコスカ・ショック首謀者を捕まえる為の、いえ、狩る為の、米国防総省が新たに組織した秘匿調査機関に違いない……」
腕組みした佐奈江がモニタ―を睨んだまま抑揚なく呟いた。
「片山さん、静止画のこの男の顔部分をちょっとアップして下さらない」
佐奈江は呟いた直後に、何かに気付いたみたいに小さく呻き、画像を指しながら片山を促した。片山は無言でマウスを操作し、陸軍少佐の男の顔を拡大させていった。
「ストップ! ちょっと待って……ほら、男の襟の階級章を見て、ちょっと画像が粗くて見辛いけど……ここよ、ここ、この矢印みたいな黄色い階級章……って、確か佐官の階級章ではないはずよ。私の記憶が間違っていなければ、一般兵の階級章のはず…」
「オオバ、画像にチェックを入れるから確認してくれ」
拡大された襟章をモニタ―上で選択チェックする。
《承知致しました………画像を確認、デ―タベ―スに照会致します…………‘Private E-2’米陸軍一等歩兵の階級紋章を確認致しました》
「一等兵!? 他の四名のはどうなんだ?……確認だ、オオバ」
《確認致します……》
手早く画像にチェックを入れ、オオバに確認させると、他の四名の階級は伍長と上等兵が二人、それに特技兵だった。
「こいつらの階級は全て故意に偽装されている可能性が高い。それは、このブランソンという情報機関の陸軍将校……こいつがこの特任自衛官といっしょにカブ―ル・スタ―・ホテルから消息不明になった米陸軍一等兵に、ほぼ間違いないからだ」
「でも、何の為かしら、そんな面倒臭い事をするのって?」
黙ったままだった瑠偉が、素直な疑問を投げかける。
「このブランソンって人は、いえ、この米国の機関は、もしかしたら‘何か’の理由があって、日本を疑っている、っていう事なのかしら……?」
「確かに、特任自衛官の体内には、逃亡防止用の爆弾が仕掛けられている、とかいう都市伝説的なグレ―な噂は、全く払拭出来ていないしな。もしも、それが本当だったとしても、それがどんなもので、どんな爆薬なのかも知る由もない」
瑠偉の鋭く大胆な疑念に片山が補足を入れた。
「だから…………なのか、特任自衛官が護衛任務に就いた日本の要人も含む視察団、即ち菱井前会長が視察にいったタイミングと、連中の計画が運悪く重なってしまい、連中は連中で、特任自衛官の体内爆弾の疑惑を確かめる為だけの理由でテロリストを装って襲撃、そして計画通りその一人を捕獲した。日米要人の視察団と、護衛のISAF部隊は、信じられんが、その為だけに同胞に皆殺しにされた、という事なのか?」
片山の推測に、佐奈江が表情を強張らせた。
「ISAF部隊は、主に米軍主体の編成で出来ているわ。特任自衛官の捕獲、という特殊な任務の為とはいえ、友軍だと知りながら故意に同士討ちで同胞や友軍兵を皆殺しにするなんて、普通はとてもじゃないけど考えられない」
「そうさ‘普通’は考えられない。だが、海軍駐留基地に壊滅的なダメ―ジを与えられ、大勢の犠牲者を生んだ未曾有のテロ‘ヨコスカ・ショック’を受けた現在の米国には…‘普通’じゃ済まされないレベルの怒りがずっと消えずに蔓延っているのかも知れない……首謀者を絶対に見つけ出し、叩き潰すという……」
「じゃ、何? 全く関係のない父は、単に米国のどうしようもない恨み辛みの上に巻き添えを食って、米軍に殺されたと…………?」
「……真実は、現段階じゃ俺にも判らない。ただ、ヨコスカ・ショックの嫌疑は、間違いなく日本にも掛けられている……」
今の会話のやりとりでは、佐奈江と視線を交えて話す事が、片山にはどうしても出来なかった。
「話を元に戻すが……」
軽く咳払いをして、片山が話を先へ進めようとした時、数名のオペレ―タ―やエンジニアの女性達がバックヤ―ドのゲ―トを潜って出社して来た。三人に朝の挨拶を送ってから、それぞれの持ち場へと向っていく。
「それでだ……捕獲された真辺という特任自衛官だが、この映像の三日後には、それ以後のハッキングした全施設内のどの映像記録にも全く登場しない」
「どういう事?」
空いていた隣の席へ瑠偉が何気なく腰掛けた。
「多分‘始末’されたんだろ。いや‘解剖’する為に殺された、というのが正しいのかも知れない……あくまでも多分だが…な」
淡々とした片山の物言いに、瑠偉は目を見開いたまま言葉を発せられなかった。
「そして、ハッキング劇場第二幕…………随分と面白い記録や調査ファイルがぞくぞくと出て来たぞ……ふふふ」
まるで悪戯坊主が、これから何か悪さをするみたいな笑みを片山は浮かべ、Shiftキ―とA/tキ―、F8キ―を連続して叩いた。
「Good morning !」
モニタ―を注視していた三人の背後へミカが気付かぬうちに来ていた。突然に脳天気な挨拶を掛けられた三人は、ぎょっとして振り返った。
「Everyone What happened?(みんな、どうしたの)」
ほぼ同時に振り返った三人の驚いたような視線がミカに集まる。
「あっ!! あの男…………Black Marketer」
三人の驚いた視線を余所に、モニタ―へ大写しになった画像を目にしたミカが指差しながら、驚嘆の声を上げた。
「えっ!?」
「ボブ・ヨシザワ……吉澤幸雄……ケン・ゴトウのマネ―ジャ―が、何で米国情報機関のファイルから出てくるわけ!?」
ミカに釣られた佐奈江と瑠偉が大型モニタ―へ視線を移し、映し出された大柄な中高年男性の画像を認めて愕然とした。
「そう、まさしく何故か、なんだな、これが……。この男の事で驚くのは、まだまだこんなものじゃないぞ」
片山は、モニタ―上の画像を次々とスクロールさせていく。
「これは、画像デ―タからすると……ヨコスカ・ショックが起きた二週間後の画像のようだ。場所は、パリのモンマルトル地区のオ―プン・カフェ。席の反対側にいる男は、サウジアラビア人の悪名高い武器商人……次は、翌日にカレ―へ移動、そこでもリトアニア人と会っている。そのままド―バ―海峡を渡り、ロンドンでアイルランド人の武器商人、その二日後、ミラノの三つ星リストランテでイスラエル人の武器商人数人と豪華なランチを囲んでいる。更にミュンヘンにザルツブルク、北欧のヘルシンキへ飛び、そこからロシア、サンクトペテルブルクまで、一週間半の間で‘駆け足’の世界旅行みたいに各地へ足を運んでいる。まさに絵に描いたような世界を股に掛けた闇商売行脚だ。そして画像を見る限り、その誰も彼もが初めて会ったという雰囲気じゃない。数年来のお得意様、という感じだ。フェニックスの秘匿施設からハッキングしたこの情報こそ、まさに鰯網で鯨捕る………みたいな話の展開だ」
ひと通り画像のスクロ―ルを終えた片山は、嘆息を付いて佐奈江を見詰める。
「そして、吉澤がこのサンクトペテルブルクを訪問した一ヶ月後に、今度は佐世保基地がテロの標的となったんだが…………ちょっとこれを見てくれ」
新たな画像ウィンドウを片山が開いた。
「日時は、行脚から戻った三日後、場所は日暮里……随分とマイナ―な土地柄な場所だ。映っているのは、JRの駅ビル内にあるコ―ヒ―・ショップの防犯映像のようだ。本来はネットから切断されたクロ―ズド・サ―キット映像のはずだが、連中は何処かからかこの映像を入手していた……」
この男だ、と片山がポインタ―で静止させた映像を示した。
「窓際のカウンタ―席に素知らぬ顔で並んで座っているこの男だが、俺が個人的にハックした防衛省の人事ア―カイブによると、外局の防衛装備庁の技術顧問、高階俊一という人物だ」
ア―カイブからコピ―した顔写真とプロフィ―ルをモニタ―に反映させた。
「見てみろ、お互いが素知らぬ他人顔を装っているが……ほら、今、動画に奴らの、情報機関の奴らのチェックが入った……別のカメラ位置に切り替わり、ここだ……更に情報機関が画像にチェックを入れているが…………見てみろ、カウンタ―下の足下でお互いのブリ―フケ―スを何気なく入れ替えている……」
白髪だらけで厳つい顔の吉澤との決定的な瞬間を指で示す。
「世界中の武器商人や闇商人の次は、防衛省外局絡みの役人………何故、吉澤幸雄が防衛装備庁の役人と密会していて、一体何をしているのかしら? それに、入れ替えたブリ―フケ―スの中身は何なの……」
佐奈江は無意識のうちに、片山が腰掛ける回転椅子の背もたれに両腕を付いて突っ張りながら自問自答していた。
「全く判らんが、嫌な予感がする。信じられないような偶然だが、これだけCIAが世界中をつけ回して調べているっていう事は、もしかしたら吉澤幸雄と、防衛装備庁がヨコスカ・ショックと佐世保のテロに何らかの関わりを持っているのかも、と嫌でも勘ぐってしまう………………まさか、だけどな。ただ、米国はかなりの確率で日本を疑っている可能性が高い。或いは、吉澤自身が実はマネ―ジャ―を隠れ蓑にしている国際的なテロリストの一人で、水面下で新たなテロ組織をコントロ―ルしていた、っていう事でマ―クしているのかも知れない。だが、もしそれが本当だとして、防衛省外局の役人と、テロリストかも知れない人物とが、国内で秘密裏に会っていた、としたら、それは洒落や冗談では済まされない一大事だ」
「日本政府は、同盟国の米国政府や情報機関から疑いの目で見られている現在の状況を、外交的にどう捉え、そしてどの程度この最悪な状況を理解しているのかしら? 大体、交戦権や集団的自衛権の行使を可能とした憲法九条の改憲自体、同盟国の米国の為だったはずなのに、これじゃ一体何の為の改憲だったの、と政府の事を疑いたくなってしまうわ」
ミカを含めた四人の視線は絡む事なく宙を彷徨い、思考回路は完全にフリ―ズしていた。
「そういえば、立花さん、遅いわね」
場の空気を読んで、話をすり替えるみたいに佐奈江が呟く。瑠偉は、何気なく自分が腰掛けていた席が、立花友里恵の席だと気付いてはっとした。
「そうだな……いつも早めに来ているのに。出社が誰よりも早いといえば、瑠偉か友里恵ちゃんだよな」
「何で立花さんは‘ちゃん付け’で、私は呼び捨てなのよ!」
「そんなのどうでもいいじゃん、変に拘るなよ」
悪戯っぽい薄ら笑いを浮かべた片山は、瑠偉の文句を軽く受け流しながら、隣席を陣取るパ―トナ―の身を何気なく案じた
「まだまだ、フェニックスの施設からハッキングした情報の冷静な解析や分析が必要だな。まぁ、リソ―スはふんだんにあるし、そう焦る事もないさ。っていうか、徹夜が続いて疲れたから、今日は帰ってゆっくり寝るわ、俺……」
振り返って佐奈江を窺うように見上げる。来たばかりのミカが、そんな片山を心配そうに見詰めた。
「ご苦労様、マンションまでお送りしましょうか?」
「何言っちゃってんの、大体あんた、今さっき来たばかりじゃない……それにさぁ、あの派手なクルマ、騒がしくて近所迷惑なんだよ。俺、タクシ―で帰るから」
地下施設中央のタ―ンテ―ブルに駐まった橙色のスポ―ツカ―を顎で杓って示しながら嫌味を言い、コンソ―ル席の下から自身の手提げ鞄を引っ張り出してさっさと立ち上がった。
「それじゃ。お疲れ」
手提げ鞄を肩に引っ掛けるように持って背を向ける。
「タクシ―代、今度請求するからな…………」
佐奈江達の視線を一手に背中に浴びながら振り向きもせず、片山は手を振りながらバックヤ―ド専用ゲ―トへ向っていった。
バックヤ―ドからの専用直通エレベ―タ―で一度地下駐車場まで上がり、一般のエレベ―タ―ホ―ルからロビ―へ上がる通常エレベ―タ―へ乗り換えた。
出社時間がとっくに過ぎた、だだっ広いエントランス・ロビ―は閑散としていて、中央にある円状の大きなコンシェルジュ席の中の受付嬢が片山には寂しげに映った。片山に気付いてこくりと会釈を送った栗色巻き毛の受付嬢に軽く手を挙げて応えた。
灰色の絨毯貼りのフロアを踏み締め、全面ガラス張りのエントランスの自動ドアを潜ると、楕円形の同じ形の屋根に覆われた車寄せに、客を乗せた緑色のタクシ―が青山通りから入って来た。
「ラッキ―! 何て運がいいんだ」
車寄せまで歩み進んだ片山の丁度目の前でタクシ―が停まり、後席から眼鏡を掛けたダ―クスーツのビジネスマン風の男が降りて来た。入れ替わるように片山がシ―トに腰を下ろす。
「練馬まで頼む」
そう告げた直後に、降りたはずのビジネスマンが再び押し入るように後席へ慌ただしく乗り込んで来た。
「えっ!? な、何なんだよ、あんた!」
「静かにしな! あんた、間違いなくカタヤマさん……だよな?……残念だな」
懐に拳銃を隠し持っていたその男は意味不明な事を告げ、銃口を片山の脇腹へ突き付けた。眼鏡の奥で不気味に頬笑んで、もう一方の手に握っていた小さな注射器ガンを慌てたように首筋へ打つ。目を見開いた片山は、針が刺さった痛みさえ感じる事なく気を失ってしまった。ドライバ―帽を被った運転席の男が、吉澤幸雄だったとは気付く間もなく昏倒していたのだった。
全く何処だか見当も付かない場所だった。辺りは瓦礫だらけで、埃っぽい潮風が舞う大気で覆われていた。そんな居心地の悪い場所で片山は何故か息を切らせ、脂汗を大量に流しながら逃げ惑っていた。誰から追われているのかさえ判らず、朽ち果てた高層団地の狭間で身を潜めるように怯えながら辺りを窺ったりしていた。
気色の悪い澱んだ薄墨色の雲が上空を覆い、背筋を凍て付かせるような冷気が脂汗を冷やした。わけの判らない恐怖心は、否応にも片山の身体にねっとりと纏わり付いて離れなかった。
辺りに誰もいない事を確認すると、廃墟と化した高層団地のゴミ置き場だったらしき場所から立ち上がり、様々なゴミや破片が入り混じった瓦礫の中をおどおどと目的もなく歩き始めた。転んで何処か切ったり、擦りむいたりしたら、すぐに破傷風になってしまいそうほどに荒れて汚れていた。
近くに岸壁があるのか、荒れた波が激しく当たって飛沫を撒き散らす音が、建物と建物の間から片山の耳元へ襲い掛かるように伝わり続けた。その衝撃音は、片山に意味のない不安感やプレッシャ―をひたすらに与え続け、それが逃げ惑わせる事を強要させているようだった。
服の袖で額から流れ続ける脂汗を拭う片山の肩に、背後から誰かがいきなり乱暴に掴み掛かった。
「……!?」
振り返った片山の目に映ったのは、薄闇の中で不気味に双眼を赤く光らせた醜悪な顔だった。人間の身体の二倍はありそうな灰色をした筋肉質な魔物は、汗か何かの粘っこい分泌物を全身から噴き出して、異臭を放ちながら身体全体がねちっこく湿っていた。
余りの恐怖で片山は声を上げようとしたが、喉が完全に枯れてしまったみたいに、声を全く出す事が出来なかった。
片山の肩を掴んだ魔物の大きな掌から滲み出た分泌物は、煙を立てながら片山が着ていた衣服と皮膚をゆっくりと溶かし始めていた。言い表しようのない鈍痛がじわじわと片山の神経細胞をいやらしく痛めつける。
「や、や、や、や、や、や、や、やめ、やめ、やめぇ、やめろぉぅ!!」
どうにか絞り出した声で叫びながら、魔物の腕を掴んで溶けかけた肩から引き離そうとしたが、杭が刺さったみたいに牢固だった。
魔物の腕を掴んで引き離そうとした手も分泌物のせいで溶け始め、肉が腐っていくようにのっそりと音もなく崩れて骨が剥き出しになっていった。
「た、た、た、助け、助けて、助けて……だ……誰か、助けてくれぇ!!」
叫ぶ片山の溶け始めた身体を魔物は強く揺すり続けた。
「カタヤマ……カタヤマ……カタヤマ……カタヤマ……カタヤマ……カタヤマ……カタヤ……」
恐怖に駆られ、眼球が飛び出しそうなほどに目を見開いていた片山は、溶け掛けた身体に渾身の力を込め、揺すり続ける赤い双眼の魔物から諦めずに身体を引き離そうと必死だった。
「は、は、は、は、は、離れ、離れろぉ、ううううう、うわぁ、ぁ、ぁ、や、やめるんだぁ、やめろぉ…………」
「片山さん? 片山さん? 片山さん?……」
「……やめろぉ!!」
覚醒した瞬間に、大声で叫んだ事を片山は薄らと脳内で理解していた。目の前で大写しになった、全く記憶にない中高年の男に揺すり起されながら、ゆっくりと更に覚醒していく。
「あんた……片山…浩さん?……で間違いないよね?」
「は?……………はい!? …………あ、あ痛たたたた!…………あんた、誰だ……ううう、畜生、何でこんなに頭が割れそうに痛いんだ?……だ、大体ここは何処だ?」
人騒がしさの中で肘を付いて上体を少し起すと、自身がフローリングの床に横たわっている事と、全裸だという事にようやく気付いた。
「えっ!? ……な、何だ、何でだ!!」
誰かが掛けてくれたのか、申し訳程度のバスタオルが下腹部を隠し覆っていた。
「あんた、片山浩さんで、間違いなくこの部屋の住人だよね?」
「……あんたは?」
ス―ツ姿の五十がらみの男から視線を逸らして問い返し、こめかみを揉みながら見上げて辺りを見回した。見覚えのある部屋どころか、間違いなく自分自身のマンションの室内で、パイプベッドとガラステ―ブルの間に挟まれるように横たわっていた。バスタオルの上から下腹部を押さえて上体をゆっくりと起し、その場に座った。
狭い八畳の部屋には、その男以外に何故か制服姿の警官が二人いて、片山の作業テ―ブルや棚を忙しなく物色していた。
「あっ、私ね……私、練馬署の坂本というものですが……」
片山の足下で中腰のまま覗き込むように見詰めるその男は、上下に見開く黒い身分証を翳した。男の股下の先に、開いた玄関ドアから検視官と思しき数人が、何故か出入りしているのが覗けた。
「練馬署?……警察? ん、何で警察の人間が俺の部屋に?」
何故、自身が全裸で床に横たわっていたのか、そして何故、刑事と警官に検視官が自分の部屋にいるのか、記憶と時間の経過が全く一致しなかった。
「な、何で、あんた達、警察の人が、俺の部屋にいるわけよ?」
仕切りにこめかみを揉みながら、何気なく左手のベッドへ視線を移した。
「えっ……な、な、何!?」
視界一杯に入って来たのは、誰かの横たわった全裸の背中と尻だった。腰から尻に掛けて見事に括れたラインからすると、間違いなく女性の身体だった。
「ちょ、ちょっと待てよ、何なんだよ!? い、一体何なんだよ!? あ、あんた、誰だ!?」
バスタオルを押さえて腰に巻き付けながら、泡を食って立ち上がり「ちょっと起きてくれ!」とボブカットの全裸女性の右肩を背後から掴んで揺すった。
「ん、…………!」
掴んだ女性の身体は、氷のように冷たくて硬直していた。驚いた片山は慌てて手を一度放したが、その絶命している女性が一体誰なのか確認する為に覚悟を決め、固くなって冷やりとした肩を引いて仰向けにさせた。
「友里恵ちゃん!?………た、立花……友里恵…………!」
瞳孔が開いたままの整った死顔は、紛れもなくコンソ―ル・オペレ―タ―でパ―トナ―の立花友里恵だった。小振りだが形の良い乳房と乳首が、蒼白になって空しく天井に向いていた。
「何!?、何なの……何で、この部屋で?………一体…一体何が起きたんだ!?」
激しい頭痛にも襲われ、パニックを起しかけている片山の目に、友里恵の首筋に茶色い締め痕が付いているのが飛び込む。
「ご近所さんからね、110番通報があったんですよ、女性の悲痛な悲鳴が何度も聞こえる、ってね。それで近くの派出所から様子を窺いに寄越したら、鍵も閉まってなく、そのまま覗いたら……というわけなんですよ。しかし………個人的な‘趣味’が少し過ぎたようですなぁ……」
苦笑いする刑事と思しき男の顔から視線を逸らし、何やら散らかっていた床へ視線を落とすと、鞭や縄、赤いピンヒ―ルに数種類のいかがわしい玩具が転がっていた。
「ちょっと待て……そんなわけ……」
刑事の状況説明が全く頭に入らず、片山は思い出せない記憶の切れ端を必死に辿ろうと試みるが、この部屋に来る前の記憶がどうしても蘇って来ない。自分自身がそれまで何処にいて、何をしていたのか、がポッカリと抜け落ちてしまったみたいだった。
「友里恵………オペレーター…………る、る、瑠偉と………ミカ………バックヤード…………そうだ、バックヤード……タクシーだ、確かあれは朝だ…………そうだ、緑色のタクシーだった……」
目を細めて記憶の糸をゆっくりと手繰り寄せると、曇りガラスで覆われた記憶の隔壁が一気に叩き割れた。
「とりあえず、署までご同行願いましょうか?」
「おいおい、ちょっと待ってくれ、今日は何曜日で、今何時だ?」
「じたばたしないで、大人しく付いて来なさいな…………とりあえず何か着て……午前十時四十分、被疑者確保」
「午前十時四十分だって……あれから一体どれくらい……」
腕時計を見て記録を残す刑事の向こう側で、玄関ドアが壊れんばかりに勢い良く開かれた。
「OH……No!!」
慌てて飛び込んで来たミカが、半べそを掻いたまま立ち尽くしていた。