闇夜の鵺/ナイトバード
今にも雨が落ちて来そうな低く垂れこめた分厚い雲と、異様な感じの生暖かな風は、満月で明るいはずの都会の夏の夜空を暗く不気味に覆っていた。少なくても、二十階建てビルの屋上フェンスの外で、片膝を突いた低い姿勢で佇む黒い鎧を纏った彼女にとってはそう思えた。
階下の繁華街は、すでに深夜二時を過ぎたというのに過剰な照明やネオンサインで彩られ続けていた。歩道には着飾った若者や、酔っぱらったサラリ―マン達が溢れ、通りにはタクシ―や高級車が忙しなく行き交っていた。
甲冑のような彼女の身を包んだ黒いア―マ―は、全身をカ―ボン・ファイバ―とセラミックスの複合素材で誂えられていた。運動性を重視した為に素材が複雑に幾つも折り重なるようにアラミド繊維で構成され、上腕部分と太腿部分は更に動きやすいようにスリットが幾つも細かく刻まれて、新素材繊維の僅かな隙間からは素肌が所々に露出していた。
胸部と腰部には絶妙な女性らしい曲線を醸し出し、一見して女性と判るそのシルエットには、この夜間強襲偵察用強化ア―マ―の考案者のアイデンティティが尽く滲み出ていた。片膝を突いた同じ素材のロングブ―ツの高いヒ―ル部は、まるで鋭利な刃物のような光沢を闇夜に放っていた。
程良く夜闇に紛れていた彼女は、やはり同じ軽量素材でつくられたフルフェイス型のカウル・マスク内のゴ―グル・スクリ―ンに映った夜景の高精細赤外線映像を確認していた。
《ミカ様、ターゲットポイントの位置情報を送信致しました。ゴ―グル・スクリ―ンの映像に、ポイント輝点が点滅して示されたと思います》
カウル内の高感度スピ―カ―にオオバのバリトンが緩やかに響いた。
「Well, no problem ちゃんと映っているわ」
《ミカ様が現在いらっしゃるポイントから、タ―ゲットポイントまでの実際の距離は北西方向へ八百二十七メ―トル御座います。現在の高さ六十六・二メ―トルからのグライディングならば、現時刻での現地風速、気温及び湿度を含めても、計算上何も問題なくターゲットポイントまでの飛翔が可能で御座います。グライディング中はGPSと5G回線で私が誘導致しますのでご安心を》
「You say very easily, right? (随分と簡単にいってくれるわね)……この高さの場所に、しかも縁に実際立ってみなさいよ、って言っても仕方ないんだろうけど、言いたくなるくらいの高さなのは判るわよね?」
「それは、私に言っているの? それともオオバに?」
「ルイとオオバの両方によ!」
ミカの悲鳴に等しい嘆きを、ケン・ゴトウ邸宅の一ブロック手前の路地に停めていた白いダッジ・キャラバン後部の中で、吉川瑠偉と菱井佐奈江はインカムを通して聞いていた。キャラバンの後部は窓が全て目張りされ、通常の座席も取り払われてオペレ―ション用のモニタ―・コンソ―ル・ル―ムへと改造されていた。
「何度もトレ―ニング・ル―ムと仮想シミュレ―タ―で、グライディング・シミュレ―ションは嫌というほどやったでしょ。試作型とはいえ、私が基本設計したOSでそのア―マ―は動いているのよ。絶対に大丈夫だから信じなさい」
《今回のグライディングでの墜落する確率は、現在の気象状況からすると八.七九パーセント以下で御座います。余程の事がない限り事故が起きるという可能性は御座いません》
「Oh My God!! ……っていうか、失敗して墜落する確率自体があるんだ、っていうのが私的には驚き!」
「ミカ、オオバが言っているのは、AIとしてのあくまでも計算上のハナシだからね」
「いいわ……All right ……落ちて死んだら、あんたの枕元に毎晩出てやるから」
ミカは、右手でカウルの右耳部分を外から押さえるようにして瑠偉を呪うように応えた。
「大丈夫よ、もしも、の時は私があなたの身代わりに成り済ますから、その後の事は何も心配はいらないわ」
減らず口を叩いて瑠偉がミカに切り返す。佐奈江は瑠偉の背後に立ち、カウルとア―マ―の何カ所かに内蔵したカメラが捉えた映像や、送られて来るミカの心拍数や血圧に体温、呼吸数、脳波などの生体情報を、リアルタイムで波形デ―タ表示した幾つものモニタ―を交互に注視していた。
「ええぇ!? ……What are you talking about!!(あんた、何言ってるのよ)」
《ミカ様、そろそろミッション開始の御時間で御座います。カタヤマ様が根を詰め、手を変え品を変えして、ようやく入手した情報、ゴトウ邸のセキュリティ・レベルの隙が僅かに唯一出来る時間帯で御座います。御準備を》
「判ってるわ!」
ビル屋上の縁に佇みながら「It's understood, but I'm afraid(判っているけど怖いのよ)」と苛つきながら呟く。
《Please rest assured. I am with(御安心下さい。私が付いております)》
「…It is it's reassuring to likely tears(それはそれは、心強くて涙が出そうだわ)」
ゴ―グル・スクリ―ンの暗視画像の先に示されたポイントまでの距離と、現在の位置からの高度差を表示した赤い矢印の輝点の点滅を見詰めて嫌みを言う。
「ミカ、最後にもう一度だけグライディングに関しての確認よ。ミカがそこから跳躍した直後に、システムが落下するマイナスGを感知して、〇.二五秒以内にバックパックから折り畳まれた形状記憶合金フレ―ムに張った最大幅三・六メ―トルの磁性流体繊維の異形三角翼が起動して開く。だから、跳ぶ時は必ず両手を左右に大きく伸ばすのを忘れないで。セ―ルが開いたのと同時に、両腕内に仕込まれた鉤爪ワイヤ―フックが飛び出して、センサ―感知したセ―ル・フレームに結合、空気をセ―ル内へ瞬く間に導いて揚力を発生させるから大丈夫よ。後は訓練とシミュレ―ションの時と同じように身体を動かして、風を巧く取り込みグライディングして」
「やっぱ、最初は落ちるのよね……」
「落ちるっていったって、僅かな時間よ、一秒もないわ」
瑠偉の切って捨てるような言いようは、無神経なほどに冷ややかで他人事だった。
怖々と眼下を覗き込んだミカは、たった一秒でも間違いなく地面に激突してしまいそうに思えてならなかった。
「ミカさん、聞こえているかしら? 佐奈江です……いよいよ‘くノ一’ア―マ―の初ミッションね………確かに、大型エアクッションが用意された訓練とは違って、実際にその高さのビルから跳躍するのは只ならぬ勇気が要るでしょうけど、高さは半分以下でもバックヤ―ド内の施設で行った訓練と全てが同じです。それにミカさん、一度も失敗しなかったでしょ。OSを含めたシステム全体の誤作動も全くなかった。だから信じて頂戴、私達と、私達の技術力を」
生体情報の波形変化を確認しながら、佐奈江は出来るだけ柔らかくミカに話し掛けた。
「…は、はい」
《ミッションのタイムカウントを開始致しますが、よろしいでしょうか、ミカ様? 邸内の警備交代でセキュリティ・レベルが緩むのは、およそ五分ほどです》
屋上の縁で、屈んで佇む最先端素材で覆われた鎧を纏ったミカの身体は、まだ微妙に震えていた。
「え、えぇ…お願いするわ」
ミカは意を決して立ち上がり、スクリ―ン内の輝点方向へ視線を合わせる。
「ミカ、OSは全てあなたの声帯認証によって待機、そして起動する。だから、そこから跳躍する前にカウル内のインカムマイクに向かって必ず‘Gliding’と呟くのよ、いいわね」
「判ってるわ!」
《タイムカウントを開始致します》
「OK………オオバ、いくわ」
堪忍したミカは、足下を確認しながら縁を数歩下がった。
《ミッション開始です。タイムカウント・スタ―ト》
低い前傾姿勢から闇夜を睨んだ。覚悟を決め、縁を勢い良く数歩駆けてから「Gliding」と呟いた途端に屋上から踏み切った。曇天の夜空に身を投げ、綺麗なY字型に反り返って伸びたミカの身体が落下した途端、背中のバックパックから一瞬で風船が膨らむみたいに、翼竜の翼を模したようなセ―ルが大きく拡がった。
《二、三、四……グライディング成功です。現在高度六十メ―トルを速度約二十一.六ノットで滑空中。向かい風は毎秒八メ―トルで揚力増加中です………三十秒後にタ―ゲットポイント上空に到達します……ミカ様、旋回角十度で二秒間右へ旋回して下さい……五パ―セントの揚力減少……直進姿勢へ……十秒経過、約二十秒後に揚力十七パ―セント減少予定……そのまま降下姿勢にお入り下さい》
大空へ舞い上がった凧のような風を切る抵抗音を暗い曇天に放ち、ミカは闇に紛れて滑空を続けた。ゴ―グル・スクリ―ン内で輝点となった距離数や高度が刻々と目まぐるしく減少し、タ―ゲットポイントが暗視画像となって近づいて来る。
風圧によるストレスを身体全体にかなり感じたが、ミカにとって実際のグライディングは想像したよりも怖くなかった。
ほとんどの家々に明かりが灯っていない世田谷の住宅街上空を音もなく滑空していると、いつだったか、夢の中でこんな風に街の夜景を下にして飛んだ事があったような気がした。そんな懐かしさに似た想いが、断片的で曖昧にミカの脳裏を掠めていった。
《旋回角十三度で左へ三秒旋回……》
ミカは指示された方向へ身体をひねりながら左腕を絞る。スクリ―ンの真ん中で、十字の中心にW文字が示された水準計が、角度表示の変化と伴に視界に反して唐突に平行方向の右へと傾く。
《二十秒経過致しました……》
「脈拍、血圧、体温、脳波、呼吸とも全て正常」
オオバの音声アシストに割り込むみたいに瑠偉がミカに急いで告げた。
「着地寸前に‘Landing’とOSに音声認識させるのを忘れないでよ。それであなたが着地する高さ十メ―トル手前でセ―ルが九十度急速反転して抵抗を作り、減速Gを瞬時に発生させる。Gは訓練時以上に強烈に感じるはずよ。その直後、ア―マ―全体を繋いでいるアラミド繊維の全てに仕込んだアクチュエ―タ―が、着地した瞬間にショック・アブソ―バ―となって、あなたの身体を衝撃から守ってくれるわ。セ―ルはあなたを減速させた直後に、バックパックへと勝手に収納されるから心配しないで……」
《ミカ様、そろそろ降下姿勢をお取り下さい……タ―ゲットポイントは、多くの針葉樹に囲まれておりますので、降下した後に再誘導が必要となります。私の指示に従って下さい》
「判った……よろしく頼むわ、オオバ……降下姿勢に入る!」
拡げていたセ―ルと結合された両腕を前方へ伸ばし、翼を閉じるみたいにわざと揚力を減少させると、地上へ向って姿勢が頭部から急速に下降し始めた。
《タ―ゲットポイントの邸宅内には、およそ二十人の武装した輩がいるとの事ですので、着地直後から‘R.I.S.E’からの‘F.N.S’の急速発動が必要になると存じますが、現状の……》
「ミカ、ちょっと待って、今の‘くノ一’のグライディングを含めた作動状況では‘R.I.S.E’はすぐに発動出来ない。着地時のアクチュエ―タ―による負荷エネルギ―・ハ―ベスティングを加味しても、まだ計算上約七パ―セントのエネルギ―が足らないはず。あなたの筋力速度で十秒は防戦して乗り切るしかないわ」
瑠偉が再び慌てたように割り込んだ。
《ルイ様のおっしゃる通りで御座います》
「あっ……ごめんなさい、オオバ………あなたが間違えるわけがないわよね……いい、ミカ? エネルギ―充填が完了すると、音声といっしょにスクリーンに‘A charge for a R.I.S.E finished’と表示される。その時点であなたが‘Release’と呟けば‘R.I.S.E’は発動され、くノ一‘はあなたの運動能力を遙かに超えた速度、およそ二.七倍から三倍速で狙ったタ―ゲットに対人攻撃を開始する」
《最終侵入位置を通過。ここから先はミカ様のカウルに取り付けられたカメラを用いた赤外線熱探索モ―ドによる対人探索情報、つまりアルファ・チャンネル情報が必要となります。カタヤマ様の事前調査情報により、建物の構造、及びレイアウトは承知しておりますので、邸宅侵入後に指定方角からのデ―タ・キャリブレ―ションを行います。とりあえず監視の薄い邸宅の西側地点へミカ様を誘導致しますので、セールを再び拡げ、減速してから旋回角二十度で右急旋回を……》
ミカはオオバに言われた通りに急旋回を掛け、鬱蒼とした針葉樹の隙間を付いて、大豪邸といえる近代的な洋館西側にある勝手口付近へ密やかに着地した。瑠偉が言ったように、スクリ―ンには充填完了の表示が示されなかった。
《私の視点をアルファ・チャンネルへと切替えます》
茂みの影から辺りの様子を窺い、建物への接近をゆっくりと試みる。
「実戦での装甲服の着心地や動きはどう?」
「Shut up」
囁き問い掛けた瑠偉を慌てて制した。瑠偉がミカに問い掛けた瞬間に、玄関側からM4カ―ビン・ライフルで武装した、大柄で野蛮そうな長髪とスキンヘッドの輩が二人、ゆっくりと警備に回り込んで来たからだった。男達は二人とも良く鍛えられた太い上腕筋を露出させた袖無しGジャンを、お揃いのように纏っていた。
「今、こっちで何か変な音がしなかったか?」
「いや、俺には何も聞こえなかったが……おまえ、少し神経質に成り過ぎているんじゃないのか」
ここに忍び込んでくる奴なんていないさ、とスキンヘッドの男がしゃがれた声で、神経質な相方へ小馬鹿にするみたいに笑った。
《ミカ様、瑠偉様の言うように‘R.I.S.E’はまだ発動出来ません。ここは連中をやり過ごす方が賢明のように思われますが……》
「いえ、背後から二人に仕掛けるわ。その動作で充填を完了させる。そしてそのまま東側の玄関に回り込んで、残りの連中を一気に‘R.I.S.E’で片付ける……」
《マシンガンで武装しているようですが……》
「大丈夫よ、このア―マ―なら‘R.I.S.E’が使えなくてもあの二人位倒せるわ」
茂みの中で屈んだまま呟き、赤外線暗視画像に映った輩達に注意を払う。警備の男二人は、暗い茂みの中の真っ黒な鎧を纏ったミカには全く気付かず、呑気に前を通り過ぎた。
「Let's go」
ミカは静かに前屈みのまま茂みから出て、ゆっくりと男達の背後へ近寄る。二人並んだ左側の男が視線を左方向へ逸らした瞬間に、ミカは素早く伸びながら右側の長髪男の首根っこを瞬時に掴んだ。呻き声を上げる間もなく締め上げ、静かに背後へ倒して昏倒させた。
「やっぱ、気にし過ぎだぜ、特段別に何かが侵入したなんて…」
残った男が、相方がいると思って右側へ向き直った瞬間に、ミカは同じように背後から首を瞬く間に締め上げ気絶させた。九十キログラムはありそうな男の身体をゆっくりと支えながら地面へ寝かせる。
《今の動作だけでは僅かに‘R.I.S.E’の使用が可能な充填が確保されませんでした。いかがなさいますか?》
「このまま玄関側へ回り込むまでよ!」
今の攻撃でアドレナリンが急上昇していたミカは、男の身体を地面へ寝かせ、スクリ―ンの隅に表示されたフルパワ―に満たされていない‘R.I.S.E’のゲ―ジを目の動きで確認した。
《よろしいのですか? 玄関側には二十名以上の武装した輩が待ち構えていますが》
オオバの問い掛けを待たずに、ミカは邸宅の門がある北東側に向けて低い姿勢のまま急速に走り出した。アクチュエ―タ―がア―マ―の各パネル間の摩擦によって瞬く間に発電し始めた。‘R.I.S.E’発動に必要なパワ―が蓄電され、メッセ―ジと伴にゴ―グル・スクリ―ンのゲ―ジにそれが表示された。
「Release」
ミカがそう呟いた直後、カウルのミラ―状のゴ―グルの中に、蛍光緑の双眼が不気味に瞬いて灯った。アラミド繊維で繋がったア―マ―の各装甲パネルの隙間全てが金色の光りを鮮やかに放ち、全身を覆っていた。
正門裏の玄関エントランスにある楕円形状の車寄せ界隈をのんびりと徘徊していた数名の武装集団の前へ、全身を金色に輝かせた黒い甲冑姿のミカが突然飛び出した。
闇夜の中で、最初に気付いた男の鳩尾にミカは目にも留まらぬ速さで飛んで膝蹴りを見舞う。目の前で一体何が起きているのか全く理解出来ぬままに、その男は呻いて意識を失った。直後に別の輩へとすかさず飛ぶ。R.I.S.Eと連動しているF.N.Sが、ミカのアイコンタクトでカウル内ゴ―グル・スクリ―ンで捉えるタ―ゲットを次々とマ―キングしてはロックオンを繰り返す。暗闇に馴染んで金色の光にしか映らないミカは、息も付かせぬ速度で正拳や蹴りの攻撃をひたすらに繰り出した。
「な、何だ!? 一体何なんだ!! 何が起きてる…ば、ば、化け物か!?」
玄関ドアの近くで一部始終を目撃していたモヒカンヘアの男がそう呟いた時、その目に実際に映っていたのは、暗闇の中で姿なき金色の閃光が縦横無尽に飛び交い、仲間達全員を次々と一瞬にして昏倒させていった事だった。それは玄関周辺での異変に気付き、続々と敷地内の至るところから集まった連中も含めてあっという間の出来事だった。金色の閃光の俊敏さと、仲間が集中し過ぎたせいで、結果的にM4カ―ビン・ライフルの安全装置さえ解除する余裕が輩達の誰一人にもなかったのだった。
「そ、そんな……馬鹿な!?」
呟いたモヒカンヘアの男の頬を、何かが一瞬掠めていった。指で触れて確認すると、切れて血が滲んでいた。
「えっ!?」
掠めた直後に玄関ドアへ勢い良く突き刺さったそれは、風車型をした手裏剣のようなものだった。刺さったまま闇夜の中で銀色に反射光を不気味に放っていた。
「嘘だろ…」
刹那に金色の閃光からの一撃を後頭部に食らい、そう呟いたのがモヒカン男の意識が残った最後の一瞬だった。
玄関エントランスの楕円形の車寄せ周辺には、その男を含めて意識を失って倒れた猛々しい様相の男達が山となっていた。
「Finish」
駆逐され、昏倒した男達の前に立ち尽くしたミカがそう呟いた時、ア―マ―の隙間という隙間から漏れていた金色の光が収縮し、蛍光緑の双眼もミラ―状ゴ―グルの中へ埋もれるように消えていった。
《ミカ様、お見事でした。総勢二十三名の武装した輩を鎮圧するのに要した時間は、およそ十六秒でした》
「以外と簡単だったわ。この‘くノ一’アーマーの潜在的性能は相当なものよ」
ミカが倒した男達を確認するように辺りを見回した。
「屋敷の中へ入るわ。瑠偉、今の騒ぎが門前のパパラッチ連中に漏れ伝わってしまったかしら?」
「う~ん、ちょっと待って…………大きな二枚の鉄門は高さがあって閉じたままだから、大丈夫だと思うわ。ミカの攻撃が余りにも速くて電撃的に済んだから、連中は何も気付かなかったみたい」
キャラバンの覗き窓から一ブロック先の様子を窺う。
《ミカ様、お屋敷の玄関に入られましたら、カタヤマ様が入手した建物デ―タと、私のアルファ・チャンネル情報の仮想拡張空間デ―タとのキャリブレ―ションを行いますので、一度北側をお向きになって下さい。この動作によって、ミカ様が見えている建物内の状況が、私にも同じように認識出来るようになります。キャリブレ―ションは八秒ほどで終了致します》
「了解よ。それよりもオオバ、ヒロは今どうしているの?」
車寄せから檜の削り出しと思しき重厚な二枚合わせの玄関ドアの前に歩み寄る。前に立ち、重厚なドアノブを捻るが鍵が掛けられているようで開かない。ドアノブの横に電磁ロックと思しきテンキ―の小さな液晶コンソ―ルが取り付けられていた。
《電磁パスキ―をお使い下さい》
オオバはミカの問い掛けには応えずに、先に成すべき指示を出した。ミカは腰に巻いたユ―ティリティ・ベルト背後のバックルからスマ―ト・フォンのような端末機を外し、ドアに取り付けられていた電磁ロックキ―を解除する為に翳した。端末機の画面に表示されたテンキ―が目まぐるしく点灯をしばらく繰り返した後に、七つの数字の組み合わせが表情され、画面全体が緑に発光した。
「The key is open(開いたわ)」
《では、中へお入り下さい》
ミカはノブを捻り、ちょっとしたホテルのロビ―に等しいような玄関へ、慌てる事なく足を踏み入れた。
《カタヤマ様は現在、バックヤ―ドのコンソ―ル・ル―ムにて、ネバダ州フェニックスで確認された米国情報機関の隠匿施設と思われる水産缶詰工場へ、情報収集の為のハッキング攻撃を仕掛けている最中で御座います》
「そうなんだ………まぁ、いいんだけどさ……それよりも、屋敷の中には誰もいないのかしら? 例のヨシザワとかいう闇商人は、今夜は留守なの?」
《今のところミカ様と、ケン・ゴトウと思われる人物以外の生体認証は周辺で確認出来ません………ミカ様、そこで一度お立ち止まり下さい》
五軒ほどの広い玄関の中心付近でミカは立ち止まり、スクリ―ン内に映し出された角度インジケ―タ―の指示に合わせて身体をゆっくりと回転させた。
《停止して下さい……停止を確認……方位を調整しています……確認、同期を開始……仮想拡張空間デ―タに接続……建物内デ―タを認識、5G回線により同期しています………アルファ・チャンネルの同期が完了致しました》
ゴ―グル・スクリ―ン内の画像が、暗視画像からリアル画像に突然切り替わる。照明が灯っていない邸内はかなり暗く、足下を確認するのが精一杯だった。
《補助サ―チライトを点灯します》
ミラ―状のゴ―グル・スクリ―ンからサーチライトの光軸が拡散し、辺りを明るく照らした。
「なんで暗視画像じゃないの?」
《リアル画像の方が、ミカ様が室内を認識しやすいと考えたのですが、暗視画像の方がよろしいですか?》
「……い、いえ…このままでいいわ」
同期が完了したミカは、辺りを確認するように見回しながら呟いた。照明で照らされた玄関内は驚くほど広かった。見上げれば右隅の二階へ繋がる階段がそのままラウンジ状に二階廊下となって、玄関全体を四角く取り囲む昔ながらの洋館屋敷らしい玄関レイアウトになっていた。
階段の下には、接客用と思しきウェイティング・カウンタ―・バ―が置かれ、サーチライトの中にバ―・スツ―ルが五脚ほど並んでいた。カウンタ―の奥には数十種類の洋酒ボトルと、ひっくり返された様々なグラスも綺麗に置かれていた。
《仮想拡張空間デ―タにより、ケン・ゴトウ選手が滞在していると思われる部屋へ御案内致します。ミカ様、玄関ロビ―から南方面へそのまま奥へ真っ直ぐお進み下さい》
「What!? 二階じゃないの?」
《はい、事前情報によれば一階のこの先にある‘ゲストル―ム’にいらっしゃるはずです》
「Guest rooms!? ………ここは、ケン・ゴトウの……家なのよね?」
《はい、おっしゃるとおりです》
不可解な想いのまま、広く段差が余りない四角い三和土をそのまま上がり、数個飾られた大きな観葉植物の鉢の横を通り過ぎる。
照らされた光の中に現れた正面のア―チ状アルコ―プを潜ると、更に屋敷奥へ繋がる長い廊下がサ―チライトの明かりで浮かび上がった。ゆっくり進むと、廊下の左右には今潜ったアルコ―プと同じア―チ状の出入り口が幾つか並んでいるのがスクリ―ンに映る。
「屋敷の中へ入ると、見た目以上に尚更広く感じるわ」
《ミカ様のスクリ―ンに、仮想拡張空間デ―タによる屋敷内の三次元バ―チャル構造解析画像を反映させます》
サ―チライトで浮かび上がった廊下の画像に、赤い蛍光線の描画が瞬く間に走った。廊下内の柱や梁、鉄骨、鉄筋などの細かな構造形態が、透視状に蛍光線で再構成されていく。
《左側の一番奥の部屋です。そこにケン・ゴトウ選手がいらっしゃるはずです》
オオバは、赤い蛍光線の立体構造物にして浮かび上がらせた左手一番奥のアルコ―プ全体を点滅させ、ミカを促した。
「All right……I'll be there」
邪魔者が全くいなくなった屋敷内の廊下をミカはゆっくりと進む。
「マウスガ―ドを開けるわ」
《承知致しました》
カウル・マスクの右顎付近にある小さなタッチスイッチに触れると、ゴ―グル・スクリ―ン下のマウスガ―ドが真ん中から割れ、カウル内左右へ瞬時に格納された。「ふぅ~」と何気なく溜息を漏らすミカのまっ赤な唇と、針金のようなインカムマイクが露出した。
「部屋の前まで来た。中へ入る」
赤く点滅しているアルコ―プ内のドアノブを捻り、押して開く。
《リアル画像にお戻しします》
明かりが灯っていない二十畳ほどのゲストル―ムは、芝が鬱蒼とした中庭に面していたのが、室内の短い廊下の先に見えた薄暗い景色で判った。邸内に設置された外灯の光が、レ―スのカ―テンを通して部屋全体を仄かに青白く見せていた。
「何か音が聞こえる……」
入口ドアから壁伝いに短い廊下を進み、右手に拡がる部屋の中へ踏み込むと、部屋の中央付近に置かれた大きな白いベッドがミカの視界に入って来た。ベッドは部屋を独占するように置かれ、その辺りから何かの信号音のような音も発していた。
「あっ!!」
「えっ!?」
「…………」
現場のミカと、キャラバン内でリアルタイム映像を見ていた瑠偉が同時に声を上げ、佐奈江はモニタ―を凝視していた。ベッドの頭部周辺には、医療専門機器と思しき機械が六台ほど取り囲むように設置され、それらの機器から幾つもの配線や管がベッドに繋がっていた。
「もっと近付く……」
室内は、病院内のようなアルコ―ル消毒液臭が漂って、全く民家とは場違いな雰囲気を醸し出していた。それはカウルを装着したミカの鼻腔にまで伝わっていた。
ベッドサイドまで近寄ったミカは、ベッドの中を覗き込んだ。青白く薄暗い室内のベッドには、酸素マスクをした誰かが横たわっていた。カウルのスポットライトがその人物の顔を更に白く照らした。
「やっぱり………そうだったのね、酸素マスクをしているけど、間違いなくケン・ゴトウだわ。これで彼が脳死している、という動かしようのない証拠になる」
《ミカ様、映像記録としても保持していますが、写真としてもデジタル保存致します》
「ミカさん、周辺にある機器を端から順番に映して」
佐奈江の声が慌てたように割り込む。
《記録致します》
「All right」
ベッドから少し離れて右端から順番に機器を眺め、カウルに埋め込まれたカメラへ映像を収めながら佐奈江に見せた。
「これは……フィリップス社製の生体情報指示システムのモニタ―と本体ね……それに人工呼吸器のメイン・コンソ―ル……と、これは多分PCPS……よ。つまりPercutaneous Cardiopulmonary Support ……経皮的心肺補助機、そして……脳波計に血液浄化装置ね………これだけの機器が揃っているという事、そして彼はベッドで目を閉じたまま凍ったように横たわったまま……彼、ケン・ゴトウは紛れもなく…脳死しているわね。十分な証拠になる」
「サナエ、詳しいのね」
佐奈江が淡々と話す中、生体情報指示システムのモニタ―は数種類の波形グラフを表示し続け、無機質なモニタリング電子音を不気味に発したままだった。
「オオバ、証拠画像と映像のPick upを完了したから、すぐにもここから撤収するわ」
《承知致しました。来た経路をそのままお戻りになって、屋敷建物の外へお出になって下さい》
ミカが部屋から急ぎ足で出ようとした時、中庭の先にある暗闇の茂みから、菱形の双眼がゆっくりと薄気味悪く赤色に光った。その双眼が、レ―スのカ―テンで覆われた室内を睨み付けていた事など、ミカが気付くわけがなかった。
ミカは、小走りに屋敷内を駆け抜けて玄関ドアをぞんざいに開き、屋敷の西側へ急ぐ。
《ミカ様、脱出の手順は打ち合わせ通りで御座います。南西方向に位置する外灯頭頂部目掛け、両手首内に内蔵された‘鉤爪ワイヤ―フック’を打ち込んでジャンプなさって下さい。右腕側クロ―フックで外灯頭頂部へ引っ掛けてジャンプなさいましたら、直後に左腕側で屋敷裏手路地を挟んだ雑居マンション屋上部の手摺りへ射出して下さい。クロ―フックはGが掛かり、ミカ様の身体を引き上げた直後に目標物から自動で外れ、解除されます、ワイヤ―は総延長で百五十メ―トルほど御座いますから、十分に届くはずです。それで高度五十五メ―トルほどの高さまでのジャンプと、以後の滑空が可能となります》
「ミカ、射出したワイヤ―を巻き取るダウンサイジング・パワ―ウインチの回転加速度は、小型軽量化されたといってもあなたの体重の三.五倍、つまり三.五Gの猛烈な加速度であなたの身体を引っ張るから、くれぐれも気を失わないように。私達はあなたがいる南西部とは真逆の北東部、屋敷から一ブロック先にいるから、大回りで滑空してキャラバンまで戻って来て。判った?」
「To say very easily(言うだけならとても簡単よ)……」
周りを針葉樹で囲まれた邸宅内の外灯を見上げながら、オオバと瑠偉のレクチャーを呆然と聞いていた。
「何か言った、ミカ?」
「Never mind(何でもないわ)……判ったわ、今から戻る」
ア―マ―の両手首の膨らんだクロ―フック射出口部分を交互に確認するように見詰めてから、飛び立つのに最適と思われる場所まで数歩後退した。諦めたような溜息をついてから、右腕を外灯頭頂部へ向ける。
「Fire」
呟いた直後にけたたましい音と伴に圧縮空気で射出されたクロ―フックは、毎秒九十七メ―トルの猛烈な速度で外灯頭頂部に引っ掛かり、息つく間もなく今度はミカの身体を空中へ引っ張り上げた。外灯頭頂部を飛び越す寸前にフックが外れ、跳躍したままのミカは直ぐさま左腕を雑居マンション屋上部へ向けて新たなフックを射出する。手摺りに引っ掛かった途端に再びミカを引っ張り上げた直後、バックパックが開いて翼竜の翼みたいな黒い翼を瞬く間に闇夜へ拡げた。
曇天の夜空へ向って素早く飛び去るミカを、大柄でずんぐりとした体躯の後ろ姿がじっと邸内から見詰めていた。
南側の中庭茂みからのっそりと移動して来た不気味な赤い双眼の巨体は、明らかに最先端の人工的な創造の粋を結集させた産物だった。
常軌を逸した灰色の甲冑といえる大柄な構造物は、外灯の明かりを鈍く反射させ、ミカが滑空する姿をその赤く光る双眼でしばらく捉えたまま動かなかった。