決定権/キャスティングボード
ここが間違いなく自分自身の部屋だという確信が何故かもてなかった。まだ夢を見続けているのか、寝惚けているせいなのかさえ、今の片山には定かではなかった。
「そんなに飲み過ぎたわけじゃ……ないよな、確か……」
簡素なパイプベッドの上に両肘をついて上半身を起こした。ベッドサイドのデジタル目覚まし時計を見ると、土曜日の朝九時を示していた。目覚ましをセットした記憶なども当然なく、何か外の騒がしい喧騒か、耳障りな音か何かで覚醒したようだった。
更に上半身を起こし、約八畳の寝室兼作業部屋全体を、右側から舐めるように隅から隅までぐるりとゆっくり見廻した。
角部屋独特の出窓がある壁にぴったりと置かれたベッドの反対側に、仕事で使うパソコンのハ―ドディスク・タワ―と、ドライブユニットやモデムが幾つも置かれた大きな鉄製三段ラック、その左隣に作業用デスクが白い壁伝いに並んでいた。更にその横に立っていた申し訳程度のハンガ―には、季節外れのコ―トと、草臥れたジャケットが吊るされたままになっていた。どれもが間違いなく自身の所有物だった。
片山は更に視線を部屋の隅の作り付け収納クロ―ゼットから足元へ向かって移動させた。ベッドと壁が途切れた間にフロ―リングの廊下が真っ直ぐ玄関へ抜けていた。その五メ―トルほど先の玄関ドアと、途中の右手にあるキッチンの換気扇ダクトだけが不様に出っ張って、辺りとの調和を乱しているのもいつも通りだった。質素で飾り気がないワンル―ムは、現在の片山の部屋に違いなかった。
両脚を廊下から繋がったフロ―リングの床へゆっくりと降ろす。頭を何度か振って、まだ寝惚けたままの意識を回復させようとするが上手くいかない。何とか立ち上がった片山は、黒いスエットを穿いただけで、筋肉質な上半身が裸のままだった事にようやく気付いたのだった。
空になったジャック・ダニエルの瓶と、氷が溶けて水で満たされたロックグラスが置いたままの小さなガラステ―ブルを避けるように作業用デスクへ回る。デスクに置かれた二十四インチの液晶モニタ―の電源を入れ、キ―ボ―ドのshift キ―を叩いてTVチュ―ナ―を起動させた。 モニタ―の両側に置いたスピ―カ―からニュ―スを伝える女性キャスタ―の声が虚ろな片山の耳に響く。ここ二、三日ほどTV各局が連日伝え続けるニュ―スは、数日前にアフガニスタンで起きた日米の軍需産業の要人複数が、タリバ―ンらしきテロリストに襲撃され惨殺された、というテロ事件についてばかりだった。スピ―カ―から耳に伝わるテロ事件の続報には、新たな情報や進展はほとんどなく、それが片山の目覚め直後の鬱陶しさを余計に助長していた。
振り返った片山は、何気なくジャック・ダニエルの瓶を持ち上げ「やっぱり飲み過ぎたのかぁ?」と、長く伸びた茶髪を無造作に掻き毟りながら独り言ちた。昨夜の事が上手く思い出せないのが不可解だった。女性キャスタ―の声が殊更耳障りになって来る。
にわかに催していた尿意をすっきりさせる為に、廊下のキッチン対面にあるユニットバスへ向かった。梅雨が明け、もうじき八月に入ろうというのに、フロ―リングの床は片山の足の裏を冷やりと感じさせていた。
片山がユニットバスの扉を開こうとした時、インタ―ホンのベルが室内に響いた。
「誰だ?」
開け掛けた扉から手を放し、キッチンのシンク横の壁に取り付けられたカメラ付きインタ―ホンのモニタ―を覗き込んだ。広角レンズが映し出していた玄関横には、見知らぬ女性が立っていた。
「女?」
全く見覚えのない女性だった。栗色の長い巻き毛に、黒縁のメガネを掛け、きっちりと化粧が施された四十代くらいの魅力的な美女だった。あやふやな気持ちのままに、片山は通話ボタンに手を伸ばした。
「はい、どちら様ですか?」
「初めまして、わたくし、ヒシイサナエと申します。こちらは、カタヤマヒロシさんのお宅で間違いないですよね。表札が『リサ―チ・K』となっていますが……え〜っと、練馬区早宮一―○―×、レジデンス・ハヤミヤ三○六号室、そうですよね?」
「ヒシイ…………サナエ?」
何かの用紙を捲りながらカメラの前で喋るその女性が、一体誰なのか全く見当が付かなかった。水色のサマースーツを身に付けたその女性の落ち着いた所作からすれば、如何わしい宗教の勧誘や、何かの訪問販売員には何故か思えなかった。片山は曖昧なままに玄関へと向かい、チェーンロックを引っ掛けたままにドアを解錠して開いた。
「あのぉ、どういうご用件ですか?」
微かに開いた玄関の隙間から見えた菱井佐奈江は、ドアから一歩退いたところで控え目に立っていた。女性らしい均整がとれた魅力的な容姿に、水色のサマ―ス―ツと同色のピンヒ―ル、丸襟がざっくりと開いた白いカットソ―を上品に着こなしたその女性はとても涼し気に映った。面と向かって眺めると、何処かで会ったか、見覚えがあるような気さえ何故かした。
「カタヤマヒロシさん、男性、御年齢は……三十八歳、でお間違いないですね?」
「え? えぇ、そうですが……何ですか、一体……?」
「わたくし、実はこういうものです」
そう言いながら、持っていた黒いエルメスのハンドバックを開け、中から革製の黒い名刺入れを取り出した。バックを開ける為に少し前屈みになった時、ざっくりと開いたカットソ―の襟の隙間から、豊満な胸の谷間がちらりと覗く。片山のそんな視線に気付く間もなく、女性は名刺入れから一枚引き抜いて、ドアの隙間から両手で片山へ差し出した。
「菱井重工業、最高経営責任者…………?」
受け取った名刺に記された社名や肩書きは、片山にとって余りにも別世界の階級層の事のようで、ひどく現実離れしていて全くピンとこなかった。
「ヒ……ヒシイ?……えっ!?……ちょ、ちょっと待って、ヒシイって……」
片山はその女性を玄関先に残したまま慌てたように八畳の部屋へ駆け戻り、ニュ―スが女性キャスタ―の声で垂れ流されていたパソコン・モニタ―を凝視した。
『数日前、アフガニスタンの首都、カブ―ル市内のカブ―ル・スタ―・ホテル前で、タリバ―ンと思われるテロリスト集団による襲撃を受け、当地での特任自衛官派兵の視察に出向いていた、軍需調達品納入筆頭企業である菱井重工業会長、菱井健三郎氏が暗殺された事件に関して、菱井重工業CEOであり、菱井健三郎氏の御長女である菱井佐奈江氏が、事件後に公式な会見を、六本木にある菱井重工業本社にて初めて行いました。憲法九条改正前から改憲反対派の第一人者であった菱井会長が、カブ―ルで視察中に襲撃を受けて死亡された事で、同社内、さらに内閣及び外務省、防衛省内にもただならぬ緊張と動揺が拡がっており、各方面とも今後の対応を含めて協議を継続させている模様です……』
部屋へ駆け戻った片山の目に映ったのは、服装こそ地味な黒いス―ツを纏っていたが、栗色の長い巻き毛に黒い眼鏡の美しい容姿は、間違いなく玄関先にいる女性と同一人物だった。
「マ、ジ……か?」
片山は、何が何だかわけが判らないまま金縛りに掛かったみたいにモニタ―へ視線が釘付けになっていた。狐に化かされたみたいな思いで玄関先を一瞥し、再び見入ったモニタ―の中で沈痛な趣きのまま喋るその女性が、今何で自分の部屋の玄関先に立っているのか、が全く理解出来なかった。
モニタ―の中で喋る菱井佐奈江は、止むを得ない社会的立場を悲壮なほどに保ち、心痛と怒りが混ぜこぜな感情を無理に磨り潰すみたいに努めて冷静に弁じていた。だが、黒い眼鏡の奥に潜む瞳は、完膚なきまでな、どうする事も出来ない怒りを粛々と放っているようにさえ片山には映っていた。
『では、次のニュ―スです。先頃、体調不良の為に内閣経済産業大臣を休職していた鈴本隆弘氏が……』
ニュ―スの話題が切り替わった事で、片山の身体はようやく金縛りから解放されたようだった。瞬きするのを忘れていた片山の目が振り向きざまに、チェ―ンロックで少しだけ開いた玄関ドアを押さえていた菱井佐奈江を射抜いた。視線で捉えたまま「嫌ぁな、予感がするぜ」と独り語ち、ゆっくりと玄関へ歩み戻った。繋がったままだったチェ―ンロックを外してドアを開く。それだけでマンション前の通りの喧騒が増幅して部屋へ傾れ込んで来たようだった。
「あんた……」
「そういう事なの。私は、何処かの荒くれ者の集団に、父親を殺された、惨めな軍需産業経営者……」
自分を嘲笑するように言った佐奈江の唇が悲しく歪んだ。
「それで、その世間的にも超有名な、悲哀の軍需産業最高責任者のあんたが、この俺に一体何の用なわけ……ですか?」
「まさか、ここでこのまま話続けるつもり? まぁ、それでも私は構わないけど、あなたにとっては、ご近所さん達に聞かれちゃまずいような話も、私の口から飛び出すかも知れないけど、それでもあなたは構わない?」
態度が打って変わった佐奈江は唇を歪めたまま、わざと肩を竦めて呆れたような素振りを繕い、それとなくドアを左手で押さえたままの片山を脅した。
「な、何!? …き、聞かれちゃまずい話って、何の事だよ!」
「あなた、四年前まで米国にいたわよね? 米国の、いえ、世界の名立たる半導体素子メ―カ―‘Integrated Electronics’通称‘インテル’に籍を置いていた有能なシステム・エンジニア……それも、最重要なア―キテクチャ部門を率いていたテクニカル・シニア・オフィサ―の職にあったそうじゃない」
ス―ツの腋に挟んだままだったレポ―ト用紙みたいなもの数枚を再び取ってから捲り、佐奈江は淡々と上目使いで読み上げた。
「そ、そうだが…それが何か?」
片山が、知られるはずなんて有り得ないのに何でそんな事を知っているんだ、というように動揺しているのが明らかに佐奈江には見て取れた。
「でも、それは上辺だけの顔……あなた、その昔はコンピュ―タ―・オタクの世界じゃ、物凄く有名な天才ハッカ―だったそうじゃない?」
黒縁眼鏡の奥から切れ長の目が、辺りを凍らせてしまうような冷ややかな視線を放ち、片山を捉えて離さなかった。
「しかも、あなたの秘密はそんなものじゃない……大体変じゃない、そんな優秀だった男が日本に戻って来てから、東京のこんな辺鄙な場所の、それもワンル―ムの賃貸マンションに住んでいるって言う事自体が………」
「わ、判った、判ったよ、判ったからちょっと黙ってくれ!」
何故か慌てたように片山は話を遮り、佐奈江の腕を咄嗟に引っ張って玄関内に引き寄せた。片山がドアを押さえていた左手をおもむろに離したせいで、鈍い音を立ててドアが勢い良く閉じた。光が遮られて薄暗くなった玄関内で、二人は鼻を突き合わせるように間近で向き合ってしまった。気まずい空気がお互いの鼻先で一瞬だけ漂う。菱井佐奈江の身長は、ヒ―ルのせいなのか一七五センチメ―トルの片山とさほど差がなかった。
「汚いところだが、まぁ……取り敢えず上がってくれ」
「そんな事より……あなた……今も米国情報コミュニティの、秘匿されている大使館付諜報部の極東情報提供者の一人なのよね?」
「えっ……?」
問い掛けを誤魔化すみたいに、何気なく砕けた感じで招き入れた片山に、佐奈江の淡々とした追い打ちは容赦なかった。
「はっ!? エ―ジェント? ……はははぁ、あんた、急に何言い出すんだよぉ」
馬鹿馬鹿しい事言ってないで中へ入れよ、と嘲笑するように佐奈江を廊下の先へ促す。佐奈江が冷然な視線を片山に釘付けにしたままピンヒ―ルを脱いで玄関を上がる時、ヒ―ルとストッキングの足の裏の隙間から、仄かな汗ばんだ匂いが片山の鼻を衝いた。
「惚けたり、隠したりしても、無駄よ」
廊下を奥に向かってゆっくりと進む佐奈江の水色の背中は、背後の片山に向けて冷ややかではっきりとした意思を滲ませていた。
「本当に汚いわねぇ、それに蒸し暑いし」
佐奈江は手で扇ぎながら無意識の内に鼻を摘まんだ。頬を幾らか歪めながら、バ―ボンと汗が入り交じった臭いが漂うむさっ苦しい部屋の中を見回す。見回した目が、左側の壁沿いの機材が詰まった棚と、TVニュ―スを垂れ流したままの大きなモニタ―、そしてデスクの上に載った変わった形のキ―ボ―ドへと順番に見て止まった。
「いきなり来て、しかも初対面で余り失礼な事言うなよ! 大体、情報コミュニティとかエ―ジェントとかって、あんた、著名人か何だか知らないが、何をわけが判らない事言ってんだよ」
「表向きは、あなた……」
顔を歪めたまま片山の方へゆっくりと振り返る。
「あなた‘リサ―チ・K’という小さな興信所をこの部屋で経営する事業主で探偵、っていう事になっているみたいだけど」
佐奈江は、モニタ―が載ったデスクの前の回転椅子には向かわずに、部屋右手のベッドにゆっくりと腰掛けて脚を組んだ。ハンドバックをベッドに置いた直後に何か違和感を覚えたのか、怪訝な表情で遠慮がちにベッドのシ―ツに恐る恐る触れてみる。
「うわぁ」
湿ってる、と小さく呻くのと同時にベッドから驚いたように立ち上がり、背後へ振り返って穿いていたス―ツパンツの腰部を本能的に窺った。佐奈江のそんな仕草を片山は忸怩たる思いで見詰めるしかなかった。
「この部屋、エアコンないの?」
黒縁眼鏡の中にある整った顔を歪め、佐奈江は水色のス―ツジャケットの袖から腕をおもむろに引き抜いて脱ぎ、右腕に引っ掛けた。カットソ―のフレンチ袖から細い二の腕が露わになる。
「あんた、何なんだよ!」
佐奈江は片山の苛ついた問い掛けを全く無視したまま続けた。
「じゃ、質問を変えるわ。どうすると、その単なる‘著名’なハッカ―が、インテルみたいな国際的な半導体企業のア―キテクチャ部門のトップになれるのかしらねぇ」
「確かにインテルにいた事には違いないが、あんた、誰かと俺の事を全く勘違いしてるんじゃないか?」
「確か……そうね、あれは十年くらい前だったかしら、誰かがペンタゴン、米国国防総省の鋼のような何重ものセキュリティ・ウォ―ルへ簡単に我が物顔で侵入し……それも一般には最秘匿されている完全にクロ―ズド・サーキットにされたネットワ―クよ……しかも省内のDISA(米国国防情報システム局)のシステム全てを粉々に瓦解して、三十分間もペンタゴンが誇る国防ネットワ―クを無効化、更にデフコンのセキュリティ・レベルまでも麻痺させた、っていうとんでもない事件があったわよね、さすがに公には秘匿されたみたいだけど。省内関係者の間では今でも‘ミッシング・サ―ティ’と隠語としていわれ続けている……」
「何の事だか、俺には全く…さっぱり判らないが?」
片山は迷惑そうに顔を歪めながら吐き捨てた。部屋の中に流れたままだった女性キャスタ―のニュ―ス音声が煩わしく届く。
「申し訳ないけど、余り私の事を甘く見たり、馬鹿にしない方がいいわ。これでも国防の一端を担っている軍需企業のトップなのよ。その気になれば、どんな情報さえ手に入れる事が出来るの。表の情報も、裏の情報も全てね。そして、あなたをこの地上から誰に疑われる事なく消し去る事だって……」
針で突き刺すような冷徹な視線を片山に射抜き続ける。
「面目を潰された国防総省は、NSA、CIAの総力の限りを尽くして侵入者のトレ―スを行い、そして奇跡的にあなたを探り当てた。あなた、その後殺されそうになったわよね、日本に派遣されたCIAの暗殺専門オフィサ―に。でも殺されなかった。殺されるどころか、エ―ジェントとして連中の中へ取り込まれ、米国招聘とインテルのシニア・オフィサ―の席までも用意させた……よっぽどの‘何か’をあなたが握っていた、もしくは技術者としての才能に、それは主にクラウドからの情報収集能力と攻撃能力に対してなんでしょうけど、間違いなくコミュニティに惚れ込まれた、って事よね」
「何、馬鹿な事言ってるんだよ! ペンタゴンだのデフコンだの、挙句にはCIAの暗殺者だって? あんた、ハリウッド映画とかの見過ぎなんじゃないのか? 完全に何か勘違いしている。悪いが、大した用がないならとっとと帰ってくれないか!」
苛立ちを露わにして片山は何故か慌てたように言い放った。
「用はあるわ。だからここへ来たに決まっているじゃない」
「はっ!?」
苛立ちを怒りに変貌させていた片山に、まるで肩透かしするみたいに佐奈江は淡々と呟いた。
「あなたが何をどう言おうが、私にはあなたが何者なのか、そして情報コミュニティに何故殺されなかったのか、という本当の理由も知っている。言ったでしょ、私を見くびらないで、って…」
上半身裸の片山の身体から汗が滲み出るほどに蒸し暑い部屋なのに、佐奈江だけが涼し気な別世界に佇んでいるみたいだった。それは、そこには実在しないホログラフィ像のようにも捉えられ、片山には不気味に映っていた。
「それで、俺にどんな用があるっていうんだ!?」
「あなたを雇う為に来たのよ」
「はぁ…………俺を雇うだぁ?」
「それで、あなた、米国大使館付き防諜部情報コミュニティから、エ―ジェントとして幾ら貰っているの?」
暑いと言いながら汗一つ掻いていないカットソ―姿の佐奈江が容赦なく、そして冷淡に詰問を続ける。小さなガラステ―ブルを挟んで対峙していた片山の額やこめかみからは汗が更に流れ落ち、フロ―リングの床やガラステ―ブルの上へ幾粒も滴った。答えられない片山は、蛇に睨まれた蛙の如く全身汗だくのまま耐えるように佐奈江を睨み返すだけだった。
「まぁ、いいわ、そんな事どうだって……それよりも、今後はあなたが持っているその‘素晴らしい頭脳’を日本の為に、いいえ、私の為に使いなさい」
「私の為?」
「そう、私の為にだけ……これまでにあなたが米国へ流した日本の電子工学や制御技術に関わる出願前の最先端特許情報、軍需利用出来る光学センサ―の周辺ディバイスの数々、そして、防衛省技術研究本部のネットワ―クにも何度も忍び込んでいるわよね?…更に、中国企業や政府外交部と日本の財界要人との密会情報等々…数え上げたら枚挙に暇がないわ。そんなあなたの素性が世間に知れて、売国奴と国民から後指刺される前に…ね」
「それどういう事だ、俺を脅迫する気か!?」
「そうよ、私の‘父親殺し’の首謀者を捕まえる為だったら、脅迫でも何でもするわ」
佐奈江は怒気を含んだ氷のような一瞥で片山を睨んでから、TVニュ―スが流れたままの大型モニタ―が載ったデスクへゆっくりと歩み寄った。
ここにちゃんとあるじゃない、と今し方とはまるで別人みたいに優しく呟き、エアコンのリモコンを手に取って振り返った。窓側の天井隅に取り付けられていた小さなエアコン本体へ向けて電源ボタンを押すと、送風口から生暖かく埃っぽい風が勢い良く吐き出され、凝り固まっていた部屋の重い空気がようやくのっそりと動き出したようだった。
「首謀者を捕まえるって、あんたの父親はタリバ―ンに襲撃されたんじゃないのか?」
「さぁ、どうなのかしらねぇ……そういわれている割には、タリバ―ンからの犯行声明は今のところ梨の礫のようだし…」
栗色の長い髪をエアコンの送風で優雅にそよがせ、他人事のように囁く佐奈江は何処か不気味に映った。秋波みたいに思わせぶりな視線を片山へ向け、それは何かを勘ぐって疑っているような眼差しにも受け取れた。
「それと、あなた日本に戻って来る時に、向こうから日系の女の子を一人いっしょに連れてきたわよね。両親と死別してしまった二十四歳になる娘、そしてあなたが今、あなたの仕事の‘有能な’助手として使っている娘の事だけど」
片山は無言で応え、ずけずけと言い放つ佐奈江の瞳の奥を覗き込もうとした。
「その娘もあなたと一緒に雇いたいの……雇う目的は、あなたとは別だけど……」
「あんたさぁ、何を言ってるんだよ…聞いてりゃ、勝手な事ばかり言いやがって! 俺はまだあんたからのオファ―を承諾したわけでも何でもないんだぜ!」
冷ややかにに俯瞰し続ける佐奈江の襟首を今にも掴みかからんくらいの勢いで片山が怒号を上げた時だった。施錠していなかった玄関ドアが突然勢い良く開かれた。
「Good morning Hiro … Did you gets up?」
澄んだメゾソプラノの大きな声が廊下を通り抜けて、奥の八畳間に伝わった。
「I have bought Breakfast! ヒロの大好物‘テリヤキ・チキンサンド’と‘シ―ザ―サラダ’だよ! それよりもさぁ、ねぇねぇ、聞いて! Guess what! Listen! マンション横の路地に停まっているあの車、あれきっとLamborghiniだよ! Whose car is it? …私のYamaha.YZF-1. Superbikeとどっちが速いかな……あっ、あれ、女の人の靴?……Is there anyone here?」
英語と訛りのある日本語がごちゃ混ぜになった心地良い声には、驚きと躊躇いが見え隠れして、ト―ンが自然と先細りとなっていった。
「えっ、誰!?」
「ミカ!」
艶のある明るい茶色のロングストレ―トの髪に細りとした卵形の輪郭、その中にあるつんとした鼻筋の両側の茶色い大きな瞳が、廊下先の八畳間で向き合った上半身裸の片山と、上着を脱いでカットソ―姿の佐奈江を凍り付いたまま捉えていた。
「I'm sorry, Hiro …ホントにごめんなさい、新しいSweetheartとお取込み中だったんだね、ワタシってバカで気が利かないね……帰るね…」
「ちょっと待て、ミカ、おまえ完全に何か勘違いしている……You misunderstand something perfectly!!」
「あなたが…ミカ・ケイトリン・ベネットね?」
慌てふためく片山を他所に、玄関から出ようとしていた細い背中に背負ったカ―キ色の片方掛けリュックに向け、佐奈江が冷静な口振りで問い掛けた。右手に引っ掛けていた白いビニ―ル袋が寂しげに左右に揺れている。
「丁度良かったわ、あなたの事を‘こちら’の片山さんとたった今話していたところだったの。こっちへいらっしゃいよ」
英語で話した方がいいかしら、と落ち着いた口調で言葉を続けて投げ掛けた。
「大丈夫です、言葉、判ります」
そう言いながら振り返ったミカは、履き掛けたナイキのランニング・シュ―ズを再び脱いでゆっくりと玄関から廊下へ上がった。
幾らかうつむき加減のミカは、身体にぴったりとした迷彩柄Tシャツを臍の上まで捲り上げて結び、その下に身に着けた小さなデニムのダメ―ジ・ホットパンツから伸びた細く長い脚でゆっくりと歩み寄って来た。
「ヒロ・・・Who is this person!?(誰なの)」
「俺にも判らん……判っているのは、ほぼ不法侵入者に等しい女で、何故かそんな女に脅迫されている、という事だけだ」
「Is it threatened?(脅迫されている)」
ミカは怪訝そうに鼻筋に皺を寄せながら歩み寄った。
「ミカ・ケイトリン・ベネット、二十四歳、日系二世の米国籍、ジョ―ジア州コロンバス出身、父親はト―マス・ソニ―・ベネット、米国人、合衆国陸軍士官で階級は一等軍曹、第五特殊部隊グル―プに所属し、イラク戦争に派遣された後に当地で戦死、最終階級は小尉。母親はヒトミ・カワカミ・ベネット、旧姓は川上仁美、日本人、口腔外科医、向こうでは腕の良い歯科医だったみたいね。でも、六年前に車の運転中の事故で死亡……間違いないわね?」
廊下と八畳間の境目で立ち止まったミカに、佐奈江は持っていたリストを再び捲って棒読みみたいに言った。
「あなたは、一体、誰、なんですか?」
「私は菱井佐奈江、菱井重工業の最高経営責任者を任されているものよ」
佐奈江は、不思議とうっとりとした眼差しで、ミカを上から下まで舐め廻すように目に留めた。
「ヒシイサナエ……ヒシイジュウコウギョウ……」
「あんたさぁ、本当はそんな物見なくても、俺とミカの事を調べ尽くしていて、すでにちゃんと、色々な事が全て判っているんじゃないのか?」
まるで呪いの言葉のようにミカは佐奈江の言葉をゆっくりと無意識に復唱し、それを傍らで見ていた片山はいたたまれずに怒気を込めて話に割って入った。
「そうね、その通り……わざとらしい芝居掛かった事はやめにしましょう。私はあなた達二人の事を調べ尽くしている。だからここにいるのよ、彼女がジョ―ジア州兵としての教育を受けていた事も、あなた達がどういう経緯で知り合ったか、もね。相当に優秀だったそうじゃない。あなたの‘仕事’の助手が務まるのも当たり前だわ。だからスカウトしに来たのよ。あなたの事は何て呼べばいい、ミス・ベネット? ミカ? ケイトリン? それともケイト?」
「ス・カ・ウ・ト…………?」
まるで何が何だか状況が全く飲みみ込めないミカは茫然と立ち尽くす。
「あんたも本当にクドいなぁ、彼女の呼び方がどうのこうのなんて気が早すぎるし、どうでもいいだろ、まだ何も決まってないんだぜ!……まずいな、我慢出来ない…………ちょっと待て……勝手に話を進めるなよ!」
片山は、驚きと怒りで遠退いていた尿意が、急に思い出されたように限界に達した。唖然としていたミカの横を慌てたようにすり抜け、ユニットバスの中へ入っていった。直後にミカと佐奈江の耳に、便器へ滴る激しいフラッシュ音がしばらく伝わり、ミカは何故か恥ずかしさに耐えるようにゆっくりと天井を見上げ、佐奈江は鼻筋に皺を寄せて顔を歪めた。
「悪かったな……お待たせ」
すっきりした、とバスタオルを両肩に引っ掛けて戻った片山がぼそりと呟く。
「それでさぁ…ちょっと尋ねるが、菱井さんはさぁ、仮にだけど、俺達二人を雇ったとして、一体‘何を’俺達にさせたいわけ? ちなみにね、今の俺にも、いや俺達にも大事なクライアント‘様’からの重要案件があるわけよ。っていうか、進行中なわけ。だからさぁ、あんたに俺がどれほど脅かされたとしてもさぁ、そんな簡単にあんたに協力するっていうのも……」
「私が欲しいのは最秘匿された入手困難な情報」
自身のベッドへ腰掛けながら窺う片山の話を、佐奈江がきっぱりと答えて遮った。
「ほう……最秘匿された情報……ね? それがあんたの言う‘父親殺し’の首謀者探しに繋がるってわけだ」
惚けたように答えながら、ここに来て座れよ、とミカへ目配せする。
「っていうかね、あんた、俺達の事を買被りし過ぎているんじゃないのかね? 大体ね、俺とミカの事をこれほどムカつくくらいに調べ上げたあんたの個人的なのか、それとも‘国防を担う軍需企業’のトップとしてなのか、何なのかは知らないが、その強烈な情報網があれば、俺達の事なんて必要ないんじゃない?」
ミカは朝食が入っている白いビニ―ル袋をガラステ―ブルに置き、佐奈江を不愉快に一瞥してから居心地が悪そうに片山の隣へ座った。大きな茶色い瞳が、放置されたままのジャック・ダニエルの空き瓶を捉えたまま、瞬きするのを忘れたみたいに動きを止めていた。
「菱井さんさぁ……悪いが出直してくれないか? これから彼女と重要な仕事上の報告と打ち合わせをしなきゃならないんだ」
守秘義務が一様あるんだよ、と立ったままの佐奈江に向かってあしらうように言う。
少しだけむっとした表情を滲ませた佐奈江は、ガラステ―ブルを挟んでパソコンが載った作業テ―ブル前の椅子へ優雅な所作で腰掛けて脚を組んだ。上半身だけ捻ってパソコンに向き、手慣れた手付きで左手薬指で[Alt]キ―を押しながら人差し指で[space]キ―、中指で[c]キ―を同時に押すと、鬱陶しくニュ―スを垂れ流し続けていたモニタ―と音声が突如ブラックアウトした。その刹那、どんよりとした静寂が室内を息苦しく通り抜けた。
「このOS、あなたのオリジナルなのね……良く出来ているじゃない。まぁ、インテルのシニア・オフィサ―を任されていただから、当たり前よね」
腕に掛けていた上着を何気なしにモニタ―を覆うように引っ掛け、エルメスのハンドバックと紙のリストをキ―ボ―ドの横へぞんざいに置いた。
「……あなたの言う‘守秘義務’というのは、‘探偵業の業務の適正化に関する法律’第十条第一項及び、第二項に基づいた事を言っているんでしょうけど、あなたがそのコンプライアンスとやらを死守しようとしているクライアントというのは、大手広告代理店‘博広社’の事よね。そして、その案件というのも、博広社の仲介で内外数社が纏まった‘ある有名プロスポ―ツ選手’との数年に渡る超大型スポンサ―シップ……の事かしら?」
佐奈江はあしらわれたように言われた事に憤慨したのか、幾らか唇をわざと引き攣らせるような表情で嫌味っぽく睨んで応えた。
「えっ!!」
見上げた片山とミカの大きく見開かれた視線が絡み合って、佐奈江の黒縁眼鏡が割れんばかりに凝視した。
「Why is it!? ……絶対に知られるわけないのに!」
ミカが身体を強張らせて驚愕の呻きを上げた横で片山は、目を細めたまま佐奈江を睨め付けた。
「だからぁ……さっきも言ったでしょ、私を見くびらないで、って」
ゆっくりと脚を組み直し、視線を交えたまま面倒臭そうに吐き捨てた。
「その‘有名プロスポ―ツ選手’というのは、三年前に日本人初のフォ―ミュラ1世界チャンピオンに輝いた‘後藤健’の事よね。天才という呼び名を欲しいままに、欧州へ渡ってから一気に頂点まで登り詰めた男…」
交えた佐奈江と片山の険しい視線がガラステ―ブルの上で弾けて飛散った。
「一年間で世界中を転戦して行われるフォ―ミュラ1(F1)世界選手権は、全世界でのTV中継の視聴者数が約四億五千万人を誇る露出度が極めて高い超巨大なスポ―ツ・イベント・コンテンツ。その年間王者に二年連続で輝いたケン・ゴトウが、去年から今年に掛けてのオフシ―ズン中、イタリアのスキ―・リゾ―ト、マドンナ・ディ・カンピ―リオでの親族とのバカンスの最中に不運にも転倒して頭部を損傷、意識不明なまま日本へ搬送され世田谷区経堂にある自宅屋敷で療養中、という事になっているみたいだけど、実はすでに脳死状態なのでは、という噂が巷では絶えない」
佐奈江は片山から視線を一切外さずに淡々と続けた。
「博広社を中心として締結されたスポンサ―シップ契約は向こう十年の長期契約、各社の肖像権の年間使用料だけで百三十億円がケン・ゴトウのマネ―ジメントの懐に入ってくる事になっているわ。ただ、契約条項の中に、その契約が締結中に有効となるのは、ケン・ゴトウ自身が‘健康体で存命の限り’という一文が含まれている。問題なのは、ケン・ゴトウの現在の病状がはっきりとしない、違うわね、はっきりとさせられない、というところにある事……」
「……それで?」
「Which person is this person actually!? (この人って本当は何なの)」と、狼狽えるミカが今にも泣き出しそうな形相で片山の横顔を見入る。
「今後の活躍が全く期待出来ない、もしかして死人かも知れない‘ヒ―ロ―’に、各企業スポンサ―シップ団は難色を示し出した。特にその中でもスポンサ―フィ―を一際拠出している財閥系銀行の住達銀行幹部が異論を唱え、騒ぎ始めた。住達銀行は、海外での支店を右肩上がりで増やし続けて世界展開しているし、利益もかなり上げているからイメージを変に崩したくない。ところが、マネ―ジメント側のブロックが予想以上に厳しくてケン・ゴトウの病状の真実は藪の中、手を突っ込もうにも中々情報を手に入れる事が出来ない。ゴシップ好きの週刊誌を発行している各出版社がパ―トタイムで雇っている……パパラッチっていうの? スクープネタ専門のカメラマン達でさえ、カモフラ―ジュするように松や杉の針葉樹で覆われた屋敷内は撮影もままならない、っていう状況のようね。それで、博広社のある人間があなた、いえ、あなた達を偶然にもクラウド上で見つけ出し、藁にも縋る思いで‘伝説のハッカ―’にオファ―を出した」
エアコンが効き出して涼しいはずの室内で、片山の額に再び汗が滲み始めていた。
「厄介だったのは、そのマネ―ジメント・プロダクションを率いている‘ボブ・ヨシザワ’と名乗る五十八歳になる人物、本名‘吉澤幸雄’が、実はアンダ―グラウンドな世界の住人だったという事を、博広社やスポンサ―シップ団が事前に掴み切れなかった、というところね。表向きはモデルや芸能人、内外のプロスポ―ツ選手のマネ―ジメント管理をするプロダクション経営の他に、複数の飲食店やスポ―ツクラブを運営管理するやり手のビジネスマンという事になっているけど、実体は武器、麻薬の非合法な密輸に、売春目的での女達の密出入国斡旋などを、マフィアや暴力団との間で仲介する闇商人。場合によっては、暴力団が海外から呼び寄せた‘殺し屋’の入国手配からアテンドまでも手掛ける、その世界の人間達からすれば、吉澤幸雄は便利屋さん、っていう事になるのかしらね。まぁ、それらも‘マネ―ジメント業務’には違いないかも知れないけど……」
シニカルな言い様で一息に捲し立てた佐奈江は一呼吸置き、ミカを一瞥する。
「で、どうだったの、経堂のお屋敷の警備は? えっ~と、ミカさん? それともケイト? ……ミス・ベネットの方がいいかしら? 報告ってその事なんでしょ?」
思い掛けない声掛けにミカはびっくりし、怯えた眼差しで佐奈江を見詰めた。
「ふざけるなよ! あんた、俺の仕事の邪魔までしたらただじゃ置かない!」
「邪魔なんかしてないわ。さぁ、言ってみて、えっ~と……」
「ミカよ……DadもMomもOld friendsも……ヒロもそう私を呼んでくれるわ…………」
佐奈江の鋭い眼光から逸らすように、消え入りそうなメゾソプラノで応えた。
「やめろ、ミカ!! 喋るんじゃない、She may be our enemy!!(その女は敵かも知れない)」
「Be silent!! I'm not an enemy! Rather it should be able to be of assistance to you!! 私は決して敵なんかじゃない!!」
予想外にネイティブな発音で思わず荒げた佐奈江の声に、室内を覆っていた得体の知れない緊張感が粉々に弾け、片山とミカは唖然呆然と佐奈江を見返すしかなかった。
「聞かせて……これはあなた達を雇う為の‘私達’の重要な試金石でもあるのよ。そして私はこの件に関して間違いなくあなた達の力になれるのよ」
「私達だと? 何を勝手な事をほざいているんだ! ‘あんたの’だろ?」
「ちょっと待って、ヒロ………… Wouldn't you like to think it was tricked and believe it only a little? (騙されたと思って、ちょっとだけ信じてみない)」
ミカは憤る片山の膝にそっと手を置いてやんわりと制した。
「あなたの、言う通りでした。ケン・ゴトウのResidence……お屋敷は、経堂三丁目の、住宅街の中でも一際大きな……ResearchしたRegistryによると、敷地面積は……About 1500 square yardsだから……えっ~と……」
「約四百坪だ。ごみごみした経堂の中じゃ珍しく一際デカい。否でも目立つし、ヤツの収入からしたら経堂でも簡単に買収出来る敷地面積だ……な」
片山が仕方なく、というように、ミカへ少し砕けたみたいに助け舟を出す。
「そうなの。道は何処もみんな狭いけど、あのお屋敷だけがSpecialで|Like stupidity《馬鹿みたいに》 ……とにかく大きいの。そのお屋敷の周りの色んな場所に、TV crew や Publishing companyに雇われたPaparazzoがいっぱい張り付いていたわ」
「それで?」
佐奈江はやんわりと話の先を促した。
「屋敷全体は高い塀で囲まれていて、表からは中の様子が全く判らないし、正門は固く閉ざされたままなの。それで夜になってからTwo blocks先にあった八階建てApartmentの屋上に忍び込んでNight vision deviceで覗いてみたの…ね。屋敷内の半分は雑木林みたいに木が生い茂っていて、邸宅はほぼその中心に建っていたわ。そしたら、お屋敷の外からは気配が感じられなかったけれど、体格が良くて怖そうなHooligan(荒くれ者)が一杯その林の中で警備しているのが見えた。そして信じられない事に、そいつらはみんなsilencer付きのHandgunやMachinegunを持っていたわ!」
「拳銃に自動小銃……かぁ……やっぱ‘吉澤幸雄’って只者じゃ、な・さ・そ・う・だ…………ヤバそうな‘ヤマ’だな、こりゃ」
ギャラに釣られて引き受けなきゃよかった、と悲観的に呟きながら立ち上がり、ミカの前を横切って廊下脇の簡素なキッチンへゆっくりと向かった。ちょっと失礼するよ、と佐奈江を嫌みっぽく一瞥してから換気扇の電源を入れ、ラッキ―ストライクのパッケ―ジから一本引き抜いて火を点ける。大きく吸い込んでから吐き出された紫煙が、滞留する間もなく小さく唸るドラム式の換気ファンに吸い込まれていった。
「俺の方でも、NTT東日本とNTT・DATA、更にタウンペ―ジの情報管理システム・ネットワ―クに忍び込んで、暗号化されたあの屋敷の公衆交換電話網及び、ISDN回線、光ファイバ―・ネットワ―クでの回線使用状況を調べてみたんだが……」
本当は言いたくないんだが、というように煙草を燻らせながら茫然と換気扇へ吸い込まれていく煙を眺めていた片山の横顔へ、佐奈江とミカの注意が否応にも集まる。
「信じられん事に、これまでの通話記録、回線記録が何処にも全く残されていない。つまり、あの屋敷には回線といわれる全てのものが全く繋がれていた記録がない、という事だ。完全に孤立していて、社会的な公共ネットワ―クから完璧に遮断されている。とてもじゃないが、有名スポ―ツ選手の豪勢な邸宅としてはまず有り得ないし、まるで屋敷を騙った単なるヤクザもののアジトか砦だよ。これじゃ、クラウドから侵入して、屋敷内に設置してあると思われる防犯カメラをハッキングしてリモ―トする、っていう手は全く使えない」
「ペンタゴンのシステム・ネットワークを瓦解させた伝説の男にしては、随分と及び腰じゃない」
嘆く片山へ佐奈江が皮肉に軽蔑を塗して投げ掛ける。それを耳にした片山は、聞き捨てならない、という目で佐奈江を睨んだ。
「ケン・ゴトウも、そのヨシザワって男に利用されていただけなのかしら?」
二人の間に再び険悪な空気が流れたのを察したミカが独り語ちる。ふっとした風穴が出来て、それが片山の心理にちょっとしたゆとりを与えた。
「……たとえネットワ―クが遮断されたクロ―ズド・サーキットでも、施設内に張り巡らされたISDN回線さえあれば、64kbpsのデジタル音声信号にリモ―ト・ウィルスの圧縮ファイルを忍ばせてクライアントに潜り込ませる事も可能だが、回線そのものがないんじゃ、外部からはどうにもならない。あの屋敷には、物騒なお兄さん方が持っているだろうケ―タイやスマホの大気中にある4G周波数回線と、防犯カメラと監視モニタ―が繋がった構内LANくらいしか存在しないだろう。奴らが所持しているスマホのどれかにでもクロ―ン化が可能であれば、邸内のLANに侵入する事も可能だがね…………それか、偽のアダルトサイトからの勧誘空メールでも奴らのスマホに送ってみて、リモ―トでも試してみるか?……無理だと思うがな……」
煙草を灰皿で揉み消しながら、手立てがまるで見当たらない、と頭を振りながら半場ヤケクソ気味に苦笑した。
「いえ、残された手立てはあるわ。直接あの屋敷内へ忍び込んで、ケン・ゴトウの実状を捉えて来る方法が」
「馬鹿言っちゃいけない!! 誰があの砦みたいな屋敷に忍び込むっていうんだい!? 大体それじゃ不法侵入だし、しかも忍び込んだ途端に全身が蜂の巣だ」
片山は、わざと呆れたように表情を歪めて佐奈江を見返したが、佐奈江は怯むどころか、何故か裏打ちされたみたいな自信に満ちた微笑さえ浮かべていた。
「あなた、私が‘協力出来る’ってさっき言ったのを忘れたの? それに、そんなチンピラだかヤクザものしかいないような屋敷に忍び込んだところで、不法侵入なんかには絶対なるわけないわ」
佐奈江は「あんた、以外と馬鹿なのね」と囁きながら突然に椅子から立ち上がり、片山が立つキッチンへ歩み寄った。
「な、何だよ、いきなり?」
ちょっといい、とたじろいた片山の虚をつくようにレンジ台の横にあったラッキ―ストライクのパッケ―ジを掴み、一本だけ引き抜いてからゆっくりと、そして艶めかしく赤いル―ジュが引かれた唇に咥えた。
「あ、あんた、煙草吸うんだ……」
悪い、というように睨め付けて、パッケ―ジの横に転がっていた百円ライタ―で灯した。
「とりあえず、あなた、これから私とちょっと一緒に来てくれない? とても面白いものを見せて上げるわ」
紫煙をのんびりと換気扇へ向けて吐き出して、高飛車に横目で問い掛けた。
「あんたさぁ、いい加減にしろよ、まだ俺は何もあんたの話に承諾した覚えは……」
「ここまで私に話したら、承諾したも同じでしょ、違う?」
佐奈江の冷ややかな口調で揶揄された片山は、反論しようにもまるで言葉を見つけられなかった。
「ヒロ、いいじゃない、いってみようよ、その‘面白いもの’があるって場所に」
何だか面白そうじゃない、とミカが整った顔に好奇心を滲ませて、佐奈江に続いて追い打ちを掛けるように片山を促した。
「ちょっと待って、ミカさん…………今日のところは片山さんだけでいいの……御免なさい……いずれ、あなたにも来てもらわなければならないんだけど……それに、私のクルマ、二人乗り……なのよ」
「えっ!?」
最後の一吹かしをして煙草を揉み消した佐奈江が、唖然としたミカから視線を逸らし加減に呟いた。
「二人乗り? まさか Are you serious!? 下の脇道に停めてあるLamborghiniって、もしかして、あなたのクルマ…………なの!?」
驚くミカに視線を止めたまま、佐奈江は何故か少し恥の兆候を示したような苦笑いを浮かべた。
「とにかく……出掛けられる仕度をしてもらえないかしら……片山さん?」
「ちょ、ちょっと待て……クライアント以外に……‘モスキ―ト’との……ある人物との約束がある。そんな簡単にはあんたの話に……」
片山は、戸惑うように俯きながら言葉を吐き出した。
「なるほど……モスキ―トね……その‘コ―ルサイン’は、ジェ―ムズ・アンソニ―・ロ―ゼンヴァ―グ元空軍大佐、ベトナム戦争時のエ―ス・パイロットで、ジムが当時まだ中尉だったころにダナン空軍基地でのミグ撃墜記録を樹立したパイロット、の事ね。更には定年退官後に赤坂の米国大使館付き諜報部の上級オフィサ―を五年間勤めていた……人の事よね。最近じゃ、建前上はケベック州モントリオールで上質なフレンチとワインを堪能して呑気に隠居生活を送っている、という事になっているみたいだけど、実際には月の半分を今でもカナダと日本の間で行き来している。そして現在もラングレ―を拠点とする米国情報コミュニティと密接なパイプを堅持している筋金入りの老人オフィサ―」
「な、なんでそれを!?」
佐奈江と向かい合っていた片山は、急に背丈が佐奈江よりも縮んだような錯覚を突然抱いた。
「あなたには信じられないかも知れないけど、ジムと私は‘昔からの飲み友達’だからなの、本当よ。うふふ、つい最近も彼としゃぶしゃぶを突き合ったばかりなのよ。でも元々は、ジムと父が‘ベトナム戦争当時’からの親友だったから、というのが付き合いの始まりね。だから、彼は今でも私の事を実の娘のように大事にしてくれる。実は、あなたの事も彼が私に教えてくれたの……」
片山の瞳の奥を覗き込むようにいやらしく、そしてゆっくりと伝えてから部屋の中へ戻り、作業デスクに置いたままだったエルメスのバックと上着を手に取った。
「モスキ―トが…………あんたと?………しかも俺の事を喋った……だと!?」
「そうよ、でも話してくれたのは、あなたの事だけじゃない。カブ―ルで起きた私の父の殺害テロ事件の不自然さについても…………とにかく仕度をしてくれない? 私は先に外で待っているから」
佐奈江はそう言いながら片山の前を横切り、玄関へ踵を返した。
「ジムとの約束は約束で、それはそれでいいじゃない。私のオファ―を受け入れてくれるなら、あなたが非国民のCIAエ―ジェントだというのは黙認してあげるし、口外もしない」
玄関でパンプスを履く佐奈江の背中が淡々と片山に告げた。
「待っているわよ」
脅かすような一瞥を見舞った佐奈江は、最初からそこにいなかったみたいに疾風のようにドアの外へ消えていった。
「It was a strange woman(変な女性だったね)」
「あぁ……」
廊下の途中にある簡素なキッチンの前で片山は、金縛りに掛かったみたいに玄関ドアを凝視していた。
「でも……私もいっしょにいきたかったなぁ……」
ベッドに腰掛けたままのミカが少し拗ねたように呟くと、立ち尽くしたままだった片山は呪いが解けたように我に返り、部屋の中へ振り返った。
「今、何時だ?」
「……九時……二十分…よ」
ベッドサイドのデジタル時計を掴んだミカが、ゆっくりと噛み締めるように伝える。片山が目覚めてからたったの二十分しか経っていなかった。
「まだ、そんな時間かぁ……」
「仕度しなくちゃね、ヒロ……彼女、下で待っているみたいだし?」
促したミカの声に無念さが滲み出ていた。その言葉に片山は、仕方ない、というように無言で応え、ユニットバス・ル―ムの中へ静かに入っていった。それを見届けたミカは、ガラステ―ブルに置いたままだった朝食の入った白いポリ袋を寂しそうに目に留めた。