八
牛の周囲を、多数の蠅が飛び回っている。
蠅の群れのうちの一匹が、牛の背中にとまった。牛が物憂そうに尾を振ると、蠅はすっと飛び立った。
「準備できたか、新九郎?」
オーウェンが声をかけてきた。
「おまえ、なにを見ていた?」
「牛を」
「変わったやつだ。飽きないのか?」
「故郷では、牛は人と同じくらいいた。友だちみたいものだから、一緒にいると安心するんだ」
「そういうもんかね。俺の故郷にも牛はいたが、友だちのように話しかけているやつはいなかった」
「準備ならできてるぜ」
「よし、行こうか」
オーウェンは軽装だった。牛の角に巻かれた手綱のような縄を曳くと、草の上に伏せていた牛はゆっくりと動き出した。木でできた車に牛を繋げると、小屋から持ってきた商品を次々と車に載せていく。
小屋での生活も、三日経った。初めて虎之助に連れてこられた日の翌日から、オーウェンの仕事を手伝った。外から運ばれてくる一抱えもある木箱を、オーウェンの指示に従って指定の場所に積み上げていく。それから、特定の時間に集荷にやってくる業者のために、出荷する荷物を振り分けていく。オーウェンのやっている仕事は、そういったものだった。
木箱は、万遍なく物がぎっしりと詰まっている。入っている荷物によって、その重さは変わってくる。重い物ばかり詰まっている箱を天井に近い棚に載せる時など、体力も精神も酷使した。
「出発だ」
オーウェンが先導して、牛を曳いて歩き出した。のんびりと牛が後に続き、それを追うように新九郎もついて行く。
故郷では、重労働もあった。手押し車に米俵を五も十も載せて、山を越えたりもしたのだ。労働の色は違えど、肉体の遣い方は同じである。だから、ちょっとしたコツを掴めば、ぐっと躰の疲労を抑えられるという点でも、共通点はあった。不思議なもので、やっていることは故郷でも変わらないのだ、と考えると、急に肩の力が抜け、自然なかたちで動けるようになった。
「いい天気だな」
オーウェンが言う。
雲ひとつない空は、余すことなく陽射しを放つ太陽を、蕭然と鎮座させていた。
日照にあてられた草花や木々の匂いが、新九郎の鼻を愉しませた。それは故郷の土地が醸す香ばしい香りに似ており、同時に新九郎の望郷心をくすぐった。
道は、地平に吸い込まれるかと錯覚するほどどこまでも続いている。
予定していた時刻に、最初の荷揚げ場所に着いた。そこはオーウェンの小屋に似た構造をしていたが、いくらか拡い。使役している人足も、五人ほどいるのだ。ひとりきりで切り盛りしているオーウェンのところよりも、ずっと繁盛していると言えるだろう。
「景気はいいみたいだな」
「見た通りだよ。おかげ様で、前よりはずっとうまくやっていけている」
「それはあんたの才覚によるものなんじゃないのか」
「時と場所、そして人だな。最近は、つくづくそう思うよ」
「商売も、同じことさ。いや、それよりもずっと、時と場所は大事だな」
「あんたのとこは、どうなんだ、オーウェン」
「まずまずだ」
「あんたは、いつもそうだ」
「いつも、まずまずを求めている。人間、中庸が大事だ。欲張ろうとすると、必ず手痛い失敗を舐める」
「爺いみたいな言い方だな。それより、最近は都や近郊で絹が売れているそうだ。それから、筆と炭。地方、特に聚落では、薪も需要があるみたいだな」
「今年は、樵も難儀しているらしいからな。いいことを聞いた」
半刻ほどで、荷揚げは終わった。
「新しい小間使いか?」
小屋の頭領らしき男に、声をかけられた。
「まあ、そんなものです」
「若いな。これから、よろしく頼むぜ」
「はい。こちらこそ」
再び、新九郎一行は出発した。
途中、不思議な集団を眼にした。五人ほどの人間が、綺麗な隊列をつくって道を往くのだ。それだけなら、特に眼を惹くものでもなかったが、背後に呪詛の言葉にも似た、怪しげな紋様の縫われた黒い外套を纏い、少し俯き加減に進行しているのだ。それを全員が同じ格好をしているというのなら、どんなに田舎者であろうとも、いや、田舎者であるからこそ、その特異さに意識を奪われるのかもしれない。
「あれは、ギルドの者たちさ」
怪訝に思っていると、その気配を察知したのか、オーウェンが説明してくれた。
「ギルド?」
「街や都市での生活をより良いものにするために働く、民間の私的団体だ。大抵の場合、住民にとって有益な行いをするが、すべてがそうではない、ということは覚えておいた方がいい。特に、アカデメイア付近で行動するならな」
「ギルドってのは、いっぱいあるのか?」
「大小を問わず、存在自体は多い。ただ、われわれの生活に影響を及ぼすほどのものは、数えるほどだな」
「それは、例えば州や都市が雇っている役人とは違う括りなのか?」
「違う。やつらは自分たちの信念や規約、利益に則って行動している。だから、やつらにとっては正義の行いでも、われわれにとっては迷惑な行為、というのはよくある話だ」
「そんな横暴なことをするやつら、役人の糾弾をうけそうなもんだがなあ」
「もちろん、悪質なものは罰せられる。だが、さっきも言ったが、有益なギルドも多いからな。ギルドの規模が大きければ、それに比例して影響力も大きくなる。そして規模が大きいほど、良い行いをする傾向にあるのさ」
「あれは?」
五人の群れに指を向けて問うと、オーウェンは渋い顔をし、
「あれはトルクメニス僧院というギルドの者たちだ。ま、さっきの例で言うと、毒にも薬にもならん連中、と言ったところか」
「へえ」
そういえば、と新九郎は思った。虎之助を襲っていた男たち。あの者たちも、ギルドの者だと言っていた気がする。定かではない記憶を、懸命に遡った。
「行くぞ。今日中にあと二軒廻らなくてはならないからな」
促され、弾かれたように慌てて移動した。
俯き加減でゆっくりと行進するギルドの群れが、なにか夜の凪に揺れる柳の枝のような、得体の知れない不気味さを放っていて、それがしっかりと新九郎の印象に残るのであった。