ドーハの悲劇-If it was possible to fly-
「日本のサッカーがワールドカップに出られる日が来るの?」
日本のサッカーは未成熟。
そういわれるのは仕方がないことで、このような質問にも大抵は笑って答える。
「さあ、無理なんじゃない」
子供からの問い掛けにも、サッカーを見続けてきた人達にも、
勿論サッカーをプレーしているプロ達にも、問い掛けは夢で遙か彼方。
乗り越えることの出来ない壁を目の前にして、大人の対応を決め込むのが大半だった。
「でも、」
1993年 野球と相撲しかなかった日本にプロ化をした途端に爆発的な人気を得たサッカー。
質問した子供達、苦い顔で答えられなかった大人達、自分達の思い描いた通りに初めて……
進むかもしれない とプロ選手達も笑った。
それは自重された笑みではなく、本当に笑った。
険しい道には違いないが、日本に10のプロチームが生まれたその日から、まったく新しい世界が見えた。
生まれ変わったような新鮮な気持ちで、ワールドカップ初出場という夢への道程がはっきりと見えた。
1993/10/28
Qatura al-Dawha Al Ahli Stadium カタール ドーハ アル・アリ・スタジアム
中東の陽が下がり始める頃、選手達が入場し始めた。
ジャケットを着たマッチ・コミッショナーのすぐ後ろをスイスの審判団達。
そして、両チームの選手達が連れ立って歩いている。
日本チームの先頭はキャプテンである柱谷、そしてその後ろをGKの松永が歩いている。
鋭気に満ち、表情は際立っている。
大事な一戦であることを誰もが知っている。先頭の2人はそれを物語るのに相応しいだけの決意が外へと現れている。
多くのカメラマンのフラッシュが一斉にたかれる。
カメラマンの1人はサッカーを追い続けていたわけではない。中東に在住し、故あってテレビ局からの依頼があってここにいた。
「日本がワールドカップのサッカーでこんなところに?」
訝しげて、現場に来て見るとまずその報道関係者の数に驚いた。
日本から多くの取材スタッフが来ており、列を成して選手達の表情をファインダーに収めていた。
状況も分からず、ただシャッターを押す。
試合が始まる直前、これまでの状況を聞いてみたいとプレス腕章をつけている人物に尋ねてみた。
記者はこっちが思っているよりも、丁寧にこれまでの状況について話をしてくれた。
「日本は5試合の予選で初戦を引き分け、続けて第2戦を落としました」
「負けたんですか?」
その記者が頷く。
「第3戦は勝利を、そして第4戦も勝利を収めて、今はこの予選ラウンドでトップ。首位です」
「そうなんですか、日本強いんですね」
怪訝な顔をした記者にカメラマンは弁明をした。
「すいません、こっちに在住だから依頼されまして……ええ、素人みたいなもんで」
カメラマンは記者達の空気とは場違いの雰囲気を引き連れて、ゴール裏へと移動しにその場を去った。
記者はその後姿を見て、考えていた。
「そんな簡単なことじゃねえんだよ」 思わず、口にしてしまった。
最後の試合、日本は連勝で首位としてこの試合に望めるが、希望はどのチームにも有る。
この予選に参加した6チーム中、5チームにワールドカップ行きのチケットがまだ有る。
最後の試合に勝たなければ、意味はないだろう。
スタジアムをぐるりと白いサポーターと青いサポーターが囲んでいる。
熱気が伝わってくる、初めて経験する何とも言えない高揚感だった。
日本のサポーターの声が聞こえる、アメリカへと望んでいる声だ。
日本のサッカーは陽が当たらなかった。
愛されていなかった。
誰にも無視されて、世界では愛されているスポーツなのに、ベッケンバウアーがスタジアムを見て
「これはサッカーじゃない。まるで、墓場じゃないか」と台詞を吐いた。
僅かな時間だった。日本のサッカーが急に生まれ変わり、それは一気に膨れ上がった。
胸へと迫る高揚感と期待感、そして僅かな不安感。
人生には幾つかすばらしいプレゼントの箱が用意されている、その一つ。
ラッピングを説いて、中身を覗き込む……記者の脳内に勝利のシーンが浮かんだ時、
それを掻き消す様なタイミングで試合開始の笛の音は鳴らされた。
「前半5分を過ぎたところです」
アナウンサーは溜息が出るような5分間だった。
それを押し殺して、言葉を吐き出していた。
「イラクは国が混乱しているし、負ければ処刑されるなんて噂もある。何よりも、チーム自体の能力はそれ程じゃない」
地元の人間に日本代表の近況について、電話で聞いて見た。
そのついでに最後の対戦相手であるイラク代表の詳細を尋ねてみるとそんな感想が返ってきたからだ。
だが、噂と事実は反していた。イラクは強い。
特にFW 背番号8を身に付けたラディ選手の軽妙なフットワークは完全にこの先の日本を苦しめるに違いない。
不安の面持ち、顔は見えないことが幸いしている。声だけならば、十分に話すことが出来る。
アナウンサーの期待はワールドカップへの出場。
日本が今まで成し遂げなかったこと、それは金メダルよりもサッカーのワールドカップへの実現を為して欲しい。
遠かった夢舞台が、現実として迫ってきている。
ボールは右から大きく、蹴られたがイラクのミスで日本ボールとなった。
そのまま長谷川健太がイラク陣内へと大きく持ち込んでいく。
「中山なら、抜け出せるかも」
そう感じた長谷川健太のパスは前方へふわりと放たれた。
走り込む中山とイラクのDF。
ボールが弧を描いて、勢いとは別にワンバウンドが跳ね切らないでいた。
パスを出した長谷川がボールの底を鋭く蹴りだしていたからだ。
前半早々、元気が漲る中山はどんなワンプレーにも全力を出していこうとしていた。
中山のダッシュにボールは半歩置き去りにされ、中山はゴールとは逆へと回る。
イラクのDFも同じように置いていかれ、中山に反応出来ない。
中山はシュートを撃てるはずもないが、パス という選択肢があった。
ボールを平行へと出すと、ボールに集中していて、誰かは確認できないが走り込んできた。
その走り込みは2連勝という日本の勢いそのものだった。
再び、ボールを手に入れたのは先ほどパスをした長谷川健太で今度は左足を思い切り振った。
ボールに会心の一振りを当てて見せた長谷川健太のシュートは美しく飛んだ。
イラクのGKは飛んできたボールに反応出来ない、両の手の先を突き抜けられた。
その直後にボールはポストに弾かれた。
アナウンサーはシュートに震え、ポストに当たった瞬間に言葉を話そうとした。
が、それは沈黙に終わってしまう。
ポストに跳ね返ったコンマの時間、無念の意も発する前にある男が割り込んだ。
シュートをポストが弾いたこぼれ球を即座に繋いで見せた。
ボールが勝手に頭に来てくれた、そう信じても構わないゴールシーンだった。
ネットにボールが触れた、ゴールの中を転がっている。間違いもなく、GKの背後に。
「カズゴーォル!」 アナが状況を叫ぶ。
三浦知良。
「今大会4点目、1-0。ニッポン、リード!」
アナウンサーの希望が大きくなり、不安が小さくなっていった。
日本にとって最高の舞台に女神はあっさりと微笑んだ。
「やはりこのまま行ってくれそうな気がします」
試合開始前にそういった言葉を話したが、もう一度云いたくなった。
期待していたこの現実に、うれしさを押し殺しながら、務めて冷静に状況を伝えねばならなかった。
前半が終わると、微笑んでマッチ・コミッショナーは握手を求めてきた。
「いいゲームじゃないか」
そう、話すのは予定通りの展開だからこそだった。
「このゲームは極めて重要なゲームの一つになる」
マッチ・コミッショナーはそう何度も話し、到底あってはいけないことを何度も口にした。
審判をやっていて、不思議に思うことがこういった類のことだった。
彼らは綺麗な椅子に座り、出来るだけ穏便に事を進めようとするが、現場ではどだい無理なことだ。
選手たちは真剣に勝負を挑んでいる、そんな中で"それ"を進めようとすればどうなることか誰もがわかるだろう。
自分が愚鈍な振りをしなければならないこともあり、躊躇しなければならない時もある。
マッチ・コミッショナーは大げさにこう云う。
「イラク一つで、その大会では戦争が起きるやもしれないんだ」
不利な笛を、審判として裁量を日本にへと委ねる。
それだけが審判としての仕事だったが、嫌な話を聞いた。
「イラクの選手は負ければ、殺されるそうですよ」 線審を務める男がそう話す。
「マスター。何とか、引き分けにするわけにはいかないんですか?」
主審も今の話は聞きたくなかった。
黙って何も答えなかった。
自分達の笛で、殺される人達がいると考えただけでゾッとした。だが、それも作戦の一つかもしれない。
戦う彼らには気の毒だと思った。そして自分に対しても。
「我々は自分の仕事をするだけだ、イラクをアメリカにはやらない」
ロッカールームで、第4審判と2人の線審の前ではっきりと言い切る。
「絶対にな」
その決意の裏で、もし引き分けることが出来ればその方がいい。
そうふと頭に考えが過ぎり、思い返して時計をみた。
後半の始まりまで、あと5分だった。
「行け!」
狂ったように監督は指示を出し、全員にもしも負ければペナルティが待っていると伝えた。
言い訳はなし、スポーツ協会会長から直々に電話があった。
その内容はコーチ達のみが知る。
だが、その血走った瞳と震え上がった者が放つ声の質に全員が同じ気持ちとなった。
「絶対に負けられない」
イラクは後半、猛然と攻め掛かった。
日本のゴールと違い、イラクのゴールは嘘のように力なく決まった。
後半9分
お互い主導権を握り合う形から、イラクが完全に握り潰すような勢いでゴールを決める
スタジアムが破裂し、叫び声がイラク選手達を称えた。
リードは儚く消え、日本中の人間が頭を殴られたような感覚を感じた。
愕然とするにはまだ早い、だが体が反応しない。
それはピッチに居る選手達も同じだった。
震えるような感覚が支配しつつあり、希望と別の不安が顔を出した。
残り時間はまだあったにも関わらず
「デリケートな状況」そうスイス人の主審が感じ取る。
意図的に笛のポジションがイラクの勢いを寸断しなければならないと思った。
「私も政治、或いは戦争に参加して戦うのか……最前線で」
迷った気持ちが、心に残っているがこの30分だけは忘れようと決めた。
イラクボールの時は決して、口の辺りに笛を持っていこうとしない。
逆に日本ボールの時には直ぐにでも甲高いホイッスルを鳴らせるようにした。
笛の音が鳴り響くのは、日本のピンチが殆どでこればかりはどうしようもない。
選手達も熱くなりつつあった。
サッカーをしている多くの人間から、これは作為的であると見破られる立場。
主審は怒鳴り散らすイラク側の監督と目を合わせないことと、日本の監督に対してウィンクを送ることはしなかった。
だが、日本には汲み取って欲しいと願う。
そして、攻撃的な交代を打ち出すべきだと気付いて欲しい。
イラク監督、日本監督、そしてマッチ・コミッショナー。
三様の苦い顔が目に浮かぶよう、その視線が十分にピッチの審判へと届いていた。
中山選手が放ったシュートがイラクのゴールを揺らした。
ピッチにはイラクの選手が1人倒れ、更に一つのルールが忘れ去られていた。
「本当ですか?」
「ええ、間違いありません。現にイラク代表選手の半数以上は既に代表を辞退しているんです」
信じられなかった、そしてこの話は聞くんじゃなかったと後悔した。
副審を務めたスイス人は試合前に詳しい話を聞いてしまった。
ただの噂だと思った反面、ありえない話でない。
「勝てばボーナスをやろう、しかし負ければ投獄だ」
サダム・ファミリーの1人、イラクスポーツ協会会長ははっきりとそう告げた。
「我々は脅迫されているんです」とは誰も言わなかった。
云えば、殺されるからだ。絶対王政の権力下では何人か居なくなっても都合が悪くならない。
そういった世界があるということをイラクの人々は理解している。
「オフレコなんですが……」とその筋に近いものは話す。
「彼らは脅迫されているんですよ。西側のそれも日本に負ける……」
背景は世界の縮図として塗り替えられている、これが本当にスポーツか?
そんな気持ちが去来して、手に取った旗をはっきりと上げようとした。
この旗を掲げれば、人を救えるかも……
だが、旗を上げることはできなかった。
主審と目が合い、そんな考えは霧散した。明らかに彼は今のがオフサイドとして、見逃せと睨み付けている。
直ぐ近くのイラク人選手達が喚き散らす。
こちらまで、駆けつけては早口で言葉を投げ掛けた。
アラビア語は分からないが、感覚的には「地獄に落ちろ」と血走った目を向けられて、叫ばれているイメージだった。
その抗議に主審が間に入ってくれなければ、どうなったか分からない。
ああ、やはり彼らは負ければ…そう副審は考えて、その考えは捨てた。
自分が、どんな立場にいるのか理解して、恐怖心が胸を襲う。
言葉よりも、副審は日本の中山選手のオフサイドを見逃したことにより、イラク選手たちにこう云ったのだ。
「地獄へ落ちろ」
2-1で勝ち越しを決めた日本は純粋な喜びに満ち、夢の舞台が近づいていた。
背景がどんな色に染められようとも。
「次はこっちを向いて」
多くの新人スター達は喜んで、カメラのほうを向いていた。
Jリーグが誕生して、サッカーの人気が爆発した。
ピッチでのプレーよりも、騒がれる・聞かれる・撮られるといった現象に選手達は微笑む。
またサッカー協会もこの姿勢を打ち出した。
企業から或いはマスコミから新しい大陸があると吹聴して回っては、Jリーグの商品化を進めた。
半分タレントのように彼らの多くは動き回り、夢を口にした。
日本代表の監督を務めるハンス・オフト氏は幾人かの選手について、こう考えていた。
「サッカーに集中していない。タレントのように魅られたがっている」
プロ化した弊害が確かな実力主義ではなくなっていた。
人が増えれば、愚かな人間も比例して増える。優秀な人間だけを輩出する理論には楽観者のみ相応しい。
常々、そんな風に考えていたハンス・オフトがあらん限りの声で叫び声をあげた。
その怒鳴り声は真っ直ぐにサイドの選手達に届いたがその逆サイドのピッチでは青いチームは追い詰められていた。
残り時間が1分もないまま、クロスをあげて、パスをミスし、イラクにボールを奪われた。
その彼らの頭の中には悲惨の状況が刻まれていたのかもしれない。
鬼気迫り、90分を戦い終える間際でも彼らの動きには鋭さが残っていた。
右サイドを抜かれ、クロスともシュートとも付かないが確かに強烈なボールが飛ぶ。
GKの松永がこれを弾くと、45分をきっかりと廻った。
これまでの予選において、ロスタイムは殆ど取られていなかった。
時間通りの時間が来た、キャプテンである柱谷はイラクのCKはない。
「勝った。もう時間だ」とはっきりと確信をした。
主審は笛を吹かなかった。ロスタイムを認め、イラクにCKの存在を認めた。
「せめてもの」とは主審は思わなかった。
だが、副審の話 或いは彼らにまつわる噂がまるで作用しなかったとは思わない。
良心と呼ぶのか、ただの気まぐれと呼ぶのか、それともただ主審の義務をこなしたのか。
日本対イラク戦 残り時間はロスタイムのみとなった。
柱谷が頭に「あれ? 終わりじゃないのか」と思っている頃、もう1人の選手も裏を突かれた。
サッカーのフェイントはシンプル、相手を騙す。
相手がドリブルと思えば、シュートかパスを。或いはその逆ならば、ドリブルをと。
裏表がはっきりとしているスポーツだった。
ラモスは自身や周囲にも促していたが、ロスタイムでのCK。
「何人選手を前線に上げようが、先に触って勝つ」 クロスを入れられてから、クリアして終わり。
そんなイメージが日本代表にはあったが、イラクは身近にいた選手にパスを送り出した。
ショートコーナーを使って、ワンクッション置く。
「どうして?」と考える暇もなく、プレーが進む。
そのボールを受け取った選手にチェックに行ったのは先制ゴールの三浦知良。
慌てていた、逆を取られた。
勝利を九分九厘、日本は手にしていた。
それに嫌な音の軋みが聞こえてきた。
逆を取られた三浦知良は必死で追いつこうとするが、僅かに届かない。
右足からクロスが上げられる。
その放物線がイラク選手全員の望みであり、希望であった。
先に飛んだのがイラクの選手であった、自分達の希望を誰よりも掴み取ろうと必死だった。
慌てて飛んだ日本選手、だがボールはゴールに向かっている。
慌ててGKの松永がそのボールを見た。
「飛べる」とも思えず、「外に切れる」とも思えなかった。
ただ、ボールは意思でも持つように目の前を過ぎていく、ワールドカップ其の物が横切った。
松永本人に何度も経験した失点のあの苦い感覚が通り込んできたと思った次の瞬間、例えようもない真っ黒な感覚。
絶望、そういって間違いのない初めての感覚が支配した。
これまでそれ程の感覚に襲われることなどなかった。
絶望、ただ絶望が声を。全身から力を奪ってしまった。
次々に目の前で倒れる選手達、声を上げて喜び、主審へとゴールの正当性を誇るイラク選手達。
両足の感覚がなくなったようで、立っていられず。ほんの一部の地鳴りのような声に押し潰される。
柱谷、松永。日本の守備陣を潜り抜けたそのヘディングシュートは45分19秒
土壇場での2-2
イラクのヘディングシュートが決まってしまい、日本代表のワールドカップへの道は完全に閉ざされてしまった。
1人が鋭く、叫ぶ。
交代出場の福田だった。
なんて叫んだのかは分からなかった、ありったけの大声で、短く叫んだ。
絶望、足から力を奪おうとするものから抵抗しようと叫んだ。
その声に反応したのは井原だった。
辛うじて、井原の顔には生気が残っていた。
「まだある」とはお互い、云わなかった。そう簡単に云えば、逃げていってしまうとなぜか思った。
ただ必要な行動をしようと福田は「ボールを前に蹴りこんでくれ」と後ろに叫ぶ。
それは守備陣ではなく顔を上げていた井原に向かっていった。
武田と共にボールをセットした福田。ボールを前に転がすと、即座に主審は時計を見た。
45分30秒だった。
武田がボールを後ろに回そうとした寸前で、井原の叫び声が届いた。
「左だ!!]
井原の声は不思議とよく通る。武田は左サイドバックの勝矢にボールを預けた。
福田は前線に向かって、一目散に走り込んでいた。
井原が失点直後に周りを見ると、絶望に駆られていて柱谷、松永、それにラモスと三浦知良は直感的に感じなかった。
立役者たちは疲れきり、もう敗者としてこの状況から逃げ出そうとしている。
井原が声をかけたのは左サイドバックの勝矢と右サイドバックの堀池巧、それに中盤の森保一だった。
みな代表の中では福田などど歳が近く、若かった。ただ、それだけでまだ試してみる価値はある。
みんなまだ信じられるはずだ。そう井原が信じて、それぞれに短く話す。
「ゴール前に上がろう」最後だ と言い切った井原の声には凄みがあった。
堀池も森保も、頷く。
勝矢には「左から、福田を目掛けて高いボールを蹴ってください」と頼んだ。
ボールがセットされて、半数以上が絶望に駆られた日本代表。
最後のプレーが始まった。
「アメリカに行こう。アメリカに行こう。アメリカに行こう」
静まり返った日本サポーター。
ピッチの彼らだけでなく、スタジアムの彼らも同じくして絶望に駆られていた。
その感情はもう少しすれば、決して止めることの出来ない涙に変わってしまう。
目の前の光景に真実味がなく、日本が追いつかれたという感覚。
そして、ある者達は他チームの情報が手に入らず、もしかしたらと、もしかすればをゆったりと行き交うだけだった。
目の前の試合、止めを刺された。
最後に追いつかれてしまった、時間はもうどこにもない。
現実味のないキックオフの笛の音が鳴り、選手たちはそれぞれに動き始めた。
イラクの選手たちは守りに徹した。
残り時間の少なさから、その必要もないと感じたがある種の空気を感じ取ってだった。
イラクの攻撃を何度も止めた日本側のセンターバックが走り込んできている。
右サイドバックと、もう1人中盤の選手も上がり込んできている。
小躍りをしていたイラクの監督は気付いていない。
複雑な気持ちで一杯となった副審はゴール前に走る堀池巧を見た。
「これが現実なのか? 本当に?」信じることが出来なかったオフト監督の表情が戻って、走って行く井原が目に入った。
勝矢は井原の言葉通りにボールを一度、トラップして福田を見た。
ちょうど、サイドに走ろうとして外から堀池が居たので中央へと走るコースを変えていた。
大体の目論見を計算に入れて、ペナルティエリアの僅か外。
そのゴール前に届くように、高いボールを蹴り込んだ。
最後の勝負は放たれる。
ボールが宙を舞う。
このアルアリ・スタジアムの天辺を不思議に舞い、そして落下する。
日本が先制して、イラクが追いつき、再び日本が突き放すも、イラクはロスタイムに同点に追いついた。
運命に女神が居るとしたら、なんて気紛れなんだろうと思う。
ただ、両チームの全身の力を受け取って、女神は判断を下す。
スタジアムの上空に上げられたボールを見上げて、涙が零れたサポーターがいた。
そのボールの行方すら追いかけられないほど、俯いたサポーターがいた。
テレビの解説者が何も言葉を発しないまま、実況アナウンサーだけが声を出していた。
「ニッポン、長いロングフィード。これが……」
最後のプレーとは言わず、つばを飲み込んで、目の前のプレーを見送った。
イラクのGKは出られなかった。
手は使えない、ペナルティエリアの外でボールの軌道は落ち際で中へとぎりぎり入るか入らないかだった。
勝矢のクロスはゆっくりと福田に向かっていた。
この土壇場の状況で、正確無比。間違いのない、ボールだった。
福田の胸に期待感が絶望を退けさせる。このボールをトラップすることが出来れば、まだチャンスがある。
福田には2人のDFが対応していた。圧倒的に不利な状況の中で、福田は飛んだ。
潰されるのは覚悟で、何とか触ればいいと福田は思って、飛んだ。
集中力、飛び込みのタイミング、ボールの軌道
「いける!」と福田がボールを捉えたと思った瞬間、福田は自分のその後ろから競り越された。
ボールを自分よりも、先に触られてしまい、クリアをされたと福田が思ったがそうではなかった。
クロスボールに誰よりも先に触れたのは、後ろから駆け込んできた井原正巳だった。
クロスボールが上がり、福田と2人のDFが競り合うシーンに突如4人目として飛び込んできた井原。
そのジャンプは完璧と思われた福田や他のイラクDF2名よりも、頭一つ抜き出ていた。
何よりも、後方から駆け込んできた勢いが井原に先へとボールを触れさせた。
味方である福田諸共、弾き飛ばしながら井原正巳がボールに体当たりをした。
普段のサッカーの試合ならば、チャージになるような空中の交差も笛は鳴り響かなかった。
それはイラクがアメリカと戦争したのも一因ではあるが、
何よりも緊迫した真剣勝負には何よりも鳴らさないことがフェアで感じられる場面だったからでもある。
ボールの軌道の変更はそのままこの試合の運命を変えた。
井原のヘディングによって、ボールが飛ばされ、それがそのままイラクDFに当たった。
クリアしきれない不安定なペナルティエリア内へとボールがこぼれる。
イレギュラーは勢いのある方へ、運を持っている方へと流れる。
ワンバウンドするボールを走り込んできた森保一が蹴り込む。前半の長谷川のプレー、そのリプレイを見るかのように
走って来た勢いそのままで、強烈な一撃だった。イラクDFの1人が足を伸ばし、GKも懸命に手を伸ばすが、シュートは阻止できなかった。
だが、勢いのあるシュートの宿命であるかのようにボールはポストへと導かれる。
力を緩めることなんて、森保一には絶対に出来なかった。死力を尽くさねば、決して生み出せないシュートだったからだ。
弾かれたシュートで、日本の夢は完全に潰えたかに見えた。全員が倒れていた。
柱谷は動けない、ラモスもカズも。井原、福田も倒れ、森保のシュートを「入ってくれ!!」と見送っていた。
シュートが放たれてポストに当たり、地面に跳ね返った。
右サイド、その地上より僅かな中空を舞うボールに堀池巧がタイミングを合わせて、走り込んできた。
イラクのDFを一人引き連れながらも、僅かに堀池が先を走っていた。
ボールが弾む頂点から少し下がり始めた頃、猛然と堀池が体を投げ出していった。
ゴールとの距離は僅か、2メートル。そのラインを越せることが出来れば、この想いが無駄にならない。
多くの人達が望んだワールドカップがそこにある。
同点に追い付かれる事によって、閉じられた扉がまたそこにあった。
角度も悪く、堀池の飛び込みは無人のゴールだったら間違いなかったが、イラクのGKは俊敏な動きでゴール前に立ちはだかろうとしていた。
堀池の飛込みが先か、イラクのGKが起き上がり、手で阻んでしまうのか。
刹那の交差。
堀池巧のダイビングヘッドがボールに触れ、GKは動きを取り戻したがその手でボールを弾くことは叶わなかった。
勢いが勝り、堀池はゴール右ポストにその頭をぶつけそうになる。
その前に確かにボールがゴールラインをはっきりと超えたのをその目で、確認をした。
直ぐ斜め後ろにイラクのDFが言葉にならないうめきを発している。
堀池はスタジアムが再度破裂する音を聞いて、そのままこすれ上がった芝生の上に顔をうずめた。
声にならない叫び声が、井原と福田、そして森保一から放たれて、堀池と同じく倒れ込んできた。
歓喜の小さな輪がスタジアム、全体に広がり、あちこちで歓喜という感情が爆発した。
オフトにカズ、ラモスに柱谷。松永は微笑むことが出来ず、その目の前の状況を見つめることしか出来ない。
そして、そのまま見つめる先の電光掲示板に3という数字が切られたとき、考えもしない気持ちが心の底から湧き上ってきた。
柱谷も、掲示板の時計が46分1秒を指すのを観た。
そして、審判が高らかに笛の音を鳴り響かせる。
絶望に駆られ、喜びに走ることが気恥ずかしく思えて、ベンチから出てきた選手達とは僅かに言葉を交わしただけだった。
ただ、柱谷の両目に涙がどこからともなく集まっては流れ出した。
自分の人生で、こんなに熱い涙は初めてだなと柱谷は思った。
その涙を隠すために、柱谷は右手で自分の顔を隠した。
「ニッポン!! なんと、なんと! 信じられません!!」
アナウンサーは叫んでいた、公共の放送を粛々と流す自分本来の義務を忘れ、感情を表出す。
「ロスタイムに再び得点!! ニッポン、ついにワールドカップです! 何とも劇的、何とも云いようがありません」
解説者もようやく色を取り戻すと、30秒の速攻を手放しで褒めちぎった。
「カズやラモスのような存在から、若い彼らのような……」
多くのテレビの前の観戦者たちは興奮のあまりにテレビが何を発しようが聞いていなかった。
劇的な幕切れ
こうして、日本サッカーが初めてワールドカップをもぎ取った日は終わりを告げた。
試合終了後、ピッチの熱情は外にまで伝播して記者たちがカモメの様に群がっていた。
疑問を醸し出すであろう今日の試合、当人の審判が記者たちの質問に端的に答えていた。
「ロスタイムがなかったのでは?」
イラクの呆然とした選手達、監督を見ているとそう聞きたくなった。
最も、日本が勝利を収めずあのまま引き分けに持ち込まれても同じ質問を口にしただろうが、聞かずにいられなかった。
スイス人審判は極めて、冷静に答えた。
「ロスタイムは1分だった。その最初の10秒でイラクがゴールを奪い、最後の20秒で日本がゴールを奪った。
1分が過ぎたので、私は試合終了の笛を鳴らした。以上だ」
「イハラのプレーはファウルではなかったのか?」
厳しい口調で問う記者だった。
それは再度、勝ち越しに繋がった最後のパワープレー。井原が味方である福田諸共に跳ね飛ばした、主審の判断としては確かに一考の余地が有るものだった。
「問題ないプレーと思えたので流した。どちらもパッションを抱えて戦った。一瞬一瞬が激しかった。厳しいプレーだったが、汚いプレーではないと思う」
「日本に有利な判定が多いのではないか?」
記者の質問に審判は端的に答えていくだけだった。
その後ろには笑みをこぼした井原がインタビューに答えている。
「狙って、福田にボールが行くことは分かっていたので……」
ワールドカップ出場監督となったオフトの言葉まず不満を表明し、そして褒めちぎるという常套手段に出る。
「武田については、疲れたラモスとの相性を優先させて使った」と説明していた。
その際、オフトはいつか話した「今の選手たちには半タレントのような集中力がない選手が居る」という自身の言葉を思い出しながら、記者たちに言った。
この試合に参加した記者たちは勤めて、冷静に話を聞きだそうとしていたが涙を浮かばずには聞けない者も確かに居た。
「(同点に追い付かれたのは)情けなかったけど、素晴らしいよ。もう、胸が張り裂けそうに嬉しいよ」
そうラモスが自分自身に怒ったように、そして感動に涙を浮かべた姿に記者たちは誘われた。
また先制点を挙げた三浦和良もそんな記者たちに囲まれて何とかインタビューに答えていた。
その殆どが涙に包まれて、まともに話せていなかったがカズはこう云った。
「今日寝て、明日起きたら夢じゃないかと疑うよ」
「ワールドカップではどのように戦いますか?」
「まだ、スタートラインに立ったばかり。次のことは明日寝てから、考えますよ」
「本当におめでとうございました、カズ選手でした」
「ういっす」
カメラはそのまま、サポーターの席に向かうカズを映し出している。
スタジアムのスタンド間近で、ラモスがユニフォームを脱いで振り回していた。
男泣きをしながら、サポーター達と共に日本の応援歌を歌い続けている。
そこにカズがやってきた。
盛り上がるサポーター、カズコールを叫びあげた。
その声にカズもまた涙を溢れさせて喜び、スタンドへと回り込んだ。
「アメリカに行こう。アメリカに行こう。アメリカに行こう!」
サポーター達と一緒に勝利の歌を歌える。
初めて、日本のサッカーが世界の舞台へと進む。
胸に宿る気持ちは既に終わってしまっているのかもしれない。
ここが、間違いなくゴールだったと断言してもいいはずだ。
日本がワールドカップに出場すること以外に、何の目標があったと自問自答する。
ただ、終わらない。
このすばらしい夜が終着であったとしても、カズの言葉通り。それはスタートとなる。
見果てぬ夢もある、ただ今は口には出さないでこの短い終着の喜びを喜び続けたほうがいい。
ワールドカップに出場して、結果を残そうなんて。
出場できるだけで、すばらしいのだから。
続く