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なかみ

 私は夢の続きに戻っていた。

 壁だった場所に扉がはめこまれている。

 どこか見覚えのある扉……これ、美術室の扉だ。

 扉についた小窓から、向こうの様子がぼんやりと見えた。人影がある。この先にいる人はあの人しか考えられない。缶夢の中だからというより、これが美術室の扉だから。

 私は扉に手をかけて、ふと後ろを振り返る。背後には学校の廊下がのびていた。誰もいない放課後の廊下が、どこまでも続いている。

しばらく呆然と廊下の先をみつめていると、ふいに人の気配を感じた。

誰かが近付いてくる。耳をすますと、かすかに足音も聞きとれる。

「……水村」

「誰だ。瑞樹か?」

 その足音は走りだした。

「来ないで!」

 なんで。どうして。あいつがここにいるんだろう。

 最後の扉の先、つまり目的地は共有されていて、水村の缶夢もこの扉に行きつくよう描かれているのかもしれない。でも水村はいま学校で授業を受けているはずだ。授業中に居眠りでもして、偶然タイミング良く缶夢に突入したのだろうか。

だとしても、私の結論が変わることはない。

「来ないで。そこで待ってて。そっちの、世界で」

 再び走りだそうとした足音に、私は強く呼びかけた。

「どうしたんだ? おーい、瑞樹?」

 私が水村と違うのは、これが「缶夢」の中であるという自覚があること。

 次に何が起きるのか、根拠のない予感じゃなくて、論理的に予想していること。

 あらゆる別れを受け入れて、ひとつの再会に臨もうとしていること。

「じゃ、ちょっと行ってくるから」

 私は扉に手をかけて、ゆっくりと開いていく。

 夏の日差しで温められた空気が、私を包んでいく。

 落ち着くにおい。いつもの景色。だけど少し、緊張している。

 教室のすみに目をやると、遊佐くんがいた。

 


 遊佐くんはキャンバスに向かい、一心不乱に筆を動かしていた。

 彼の周りには、何十、何百の絵が並べられている。

 ずっと絵を描いていたんだ。きっと。

 私は足音をひそめ、ゆっくりと彼に近づいていく。彼の邪魔をしないように、気づかれないように、心臓の鼓動がうるさくてかなわない。

 私は遊佐くんのななめ後ろに立って、彼の作業を見守る。

 描かれていたのはあの絵だった。物乞いをする老人の脇に、缶詰がいくつか。絵筆は軽やかに動き、一分の狂いもなく答えを明らかにしていく。

 未開封だった缶詰が開いて、中身を覗かせている。そこには大人の女性が描かれている。遊佐くんを「忘れられない」人で、遊佐くんにとって「忘れられない」人だったのだろう。

 女性の表情を描く段階になって、遊佐くんはしばらく迷っているようだった。

 彼は悩んだ結果、そこに笑顔を描いた。あたたかな母性に満ちた、素敵な微笑みだった。

 遊佐くんは筆を置き、ため息をつく。少し首をひいて、絵を遠くから眺めた。しばらくすると満足げに口元をゆるませ、優しい表情になった。

「遊佐くん、完成おめでとう」

「わっ!」

 私が声をかけると、遊佐くんはびっくりして椅子から落ちてしまった。

「ごめん、気づかなかった」

 彼は椅子を立て直し、私の前に動かした。

「ありがとう」

 遊佐くんはとなりの席から椅子を持ってきて、私のとなりに座った。絵と向き合うような形で横に並んで、前はよくこうして絵を教えてもらったな。

「ずっと、なにか描かなきゃいけないものがある気がして、それを思い出そうとずっと描き続けていたんだけど」

 遊佐くんはぽりぽりと頭をかいて、少し照れているようだった。

「さっき急に思い出して、それから、夢中だったんだ」

 二年ぶりの会話。懐かしさと嬉しさと寂しさがこみあげてきて、ぐちゃぐちゃに混ざってくすんだねずみ色になって、それでも嬉しさが優勢だから、私の顔は紅くなっているはずだ。

「缶詰の中に描いてある女の人、遊佐くんのお母さん?」

「よくわかったね。そうだよ。中学生の頃からずっと寝たきりだった、母さんの笑顔。……きっと、いまは笑っていないかもしれないけど」

 缶詰のばかやろう。遊佐くんにこんな悲しげな顔をさせやがって。

「もうすぐ、笑顔に会えると思うよ」

 笑顔を作って、明るい声を心がけて、私は言った。

 私も、たぶん遊佐くんも、「あかない缶詰」の仕組みを知っている。

本当はずっとこのまま、いつまでもお話ししていたい。

「……ここに来るのが君じゃなきゃよかったのに」

「それ、どういう意味?」

「あの、えっと」

 遊佐くんは絵筆を持って、筆先の毛をさらさらといじった。困ったときに出る癖だ。

「えへへ。ごめんね」

 遊佐くんの真意はわからないし、どういうニュアンスで言ったのかもわからない。それでも私はどうしようもないくらい幸せで、私の分際でからかってみたりなんかしちゃって。

 ああ、もうだめだ。我慢できないや。

「えっ。どうしたの」

 私が急にぼろぼろと泣き始めたので、遊佐くんは慌てた。

 幸せなのに、笑顔でいるのに、目から涙がとまらない。

遊佐くんがいたから、私は絵を描き始めたんだ。

 絵も遊佐くんも好きにさせておいて、いなくなっちゃうなんて、ずるいよね。

またいなくなっちゃうなんて。

「ごめんね」

「……瑞樹、ありがとう」

「うん」

 遊佐くんは、ここから出ていなくちゃいけない。お母さんを笑顔にしなくちゃいけない。失った時間を、取り戻していかなくてはいけない。

「水村のこと、覚えてる?」

「あたりまえだろ」

「あいつにも、お礼言っといた方がいいよ」

 もし事情を知っていたら、無理にでも私の代わりを務めただろう。

「わかった」

 沈黙がおとずれる。黙ったままでもいい、なんなら一生缶夢の中でもいいから、終わってほしくない。さよならしたくない。流れる時間がうらめしい。

「……そろそろ、目が覚めてしまうような気がする」

「うん。わかってる」

 私は遊佐くんの筆を取って、ぎゅっと握りしめた。

「これ、借りてもいい?」

「うん」

 涙が溜まってくるのがわかって、私は少し上を向いた。

「目が覚めるまで、待っててくれる?」

 遊佐くんは深く頷いて、席を立った。

 私は遊佐くんの絵を取り外して、まっさらな画用紙をキャンバスに載せる。

 前を向いたままでいよう。また会えるまで、絵だけと向き合っていよう。

 遊佐くんの足音が遠ざかっていく。その背中を見ないように、私は筆を握り直す。

 扉が閉まる音がして、美術室の中は静かになった。

 自画像を、描こう。

 今度描く自画像はきっと、のっぺらぼうじゃない。

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