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みっつめ

 廊下は廊下らしい程度に、心地よく冷たかった。

 その冷たさに頬を押しつけてぴたぴたと愉しんだあと、ふと我に返ってからだを起こす。

 どうやら私は眠り込んでしまっていたらしい。

 だが、堅い床に背を押しつけていたわりには、どこもからだが痛くない。それほどの時間ではなかったのだろう。

 さて、扉を開けなくては。

 行き止まった先に、扉はある。なぜ見落としていたのかわからない。ずしりと構えている。

 私はかさぶたを剥がすような力加減でそれをめくり、そうっと先を覗く。

 まっくらだ。空気の肌触りで、そこに空間があることはわかる。

 私は一歩踏み出した。

「わっ!」

 足裏の感触からは、鋭い傾斜が読み取れた。それを認識するのと同時進行で、私はバランスを崩し、前方にぐらつく。なんとか体勢を保とうとして、尻もちをつく形になった。

 坂だ。坂になっている。壁が狭いので、滑り台のような形を連想する。つるつるとした床だ。油でも塗ってあるみたいに摩擦が少ない。私はそのままするすると滑りはじめた。

暗闇の底へ、しかし何の不安もなく、のほほんと下っていく。

 私はしばらくの間、無抵抗に滑っていた。わずかに感じられる風が心地よい。密閉された滑り台のわりには、きれいな空気だ。埃っぽさがなくて、代わりにどこか懐かしいような、落ち着くにおいがする。

 つるつるとした坂は私を運び続け、だんだんゆるやかになっていった。

 そろそろ終点かなと思い浮かべた矢先、坂は完全に平坦になった。

 というか、私は壁にがつんと顔面をぶつけた。

 また行き止まりだ、壁だ。しかもこの閉塞感。

 扉はどこかにあるはず。そんな確信だけが宙ぶらりんになっている。

「最後の扉……」

 思いがけず、言葉がこぼれた。

 最後なんだ、ふうん。

 滑り台を遡るわけにもいかないし、なんだか横になると気持ちが良い。

 これは、とりあえず眠っておけということだろう。


「私には妻がいました。妻が『最初』でした。突如意識を失ったまま寝たきりなった妻。一年後、私のもとに缶詰が降り落ちたとき、私はふと元気だった頃の妻の様子を思い出しました。性能の良い缶切りはないかと探し回って、毎日開かずの缶詰を開けることに執心していた妻を……」


 私は起きるなり速やかに身支度を済ませ、弓削さんの御宅へ向かった。むろん缶詰は持参の上だ。また缶夢をみた、そしてどうも次の扉が最後らしい、と伝えると、弓削さんは「思ったより早かった」と言った。そして彼は話が長くなると前置きしたあと、記憶を掘り起こすように缶詰の秘密を語り始めたのだった。

「缶詰の中には人が入っている」

 弓削さんは自身の缶詰を握りしめながら、しわがれた声をそっと響かせた。

「より正確に言えば、人の意識が囚われている。そして意識を囚われてしまったものは、こちらの世界では寝たきりで動けなくなる」

 核心をえぐる一言、すべての出来事を一繋ぎに結びつける情報は、私を強く揺さぶった。

 予想はできた。だから驚きはない。それでも、あまりのことにへなへなと脱力してしまう。

「やっぱり……」

「缶詰を手にしたものは、『開けたい』という思いに囚われてしまう。そして実際に開けてしまったものは、缶詰の内に意識を囚われてしまう」

 気づいていた。私は気づいていたが、あまりにも出来すぎていて、その予想を却下していたのだ。

 突然学校に来なくなった遊佐くんのこと。遊佐くんが持ち歩いていた缶詰のこと。

 缶詰から感じる、存在感。

「あなたが開け進めているのは、あなたを『忘れられない』、そしてあなたも『忘れられない』誰かの缶詰です。『あかない缶詰』を開け続けていくと、最後には空っぽの缶詰となります。そのとき、そこに囚われていた誰かの意識は、缶詰から開放されるでしょう。しかしその代わり、あなたは『缶夢』の世界に閉じ込められる」

 弓削さんは書斎の机から古びた便箋を取り出して私の前に置いた。

「私はそれを経験しています。最後のふたを取り去った瞬間、私の意識は夢の続きへと飛んだ。そして目の前には『目的地』への最後の隔たりがありました。私がその先に進むと、そこには妻が居た」

「そのときの缶詰には、弓削さんの奥さんが囚われていたんですね」

「ええ。私はそのとき、妻と何を話したのか覚えていません。ただ、再び出会えたのがうれしかった。そして別れるのが辛かった。妻と私は少しだけ一緒にそこに居ました。やがて妻は、私が入ってきた扉から出て行きました。そして扉は閉ざされ、それから長い間、開くことはなかった」

「どのくらい閉じ込められていたんですか」

「そのときは一年くらいでした。といっても、缶の中では時間感覚があいまいになります。空間の区切りも曖昧です。ただ、イメージの海を泳ぎながら、夢をみているような気分でした。そしてその夢に出てきたひとりの友人が、私を救い出してくれたのです」

「ということは、その後、奥様と再会なされたのですね」

「いえ……目覚めたとき私は病院に居りました。そして、妻はもう先立っておりました」

「あの、ごめんなさい」

「お気になさらずに。妻も缶詰の仕組みを知っていましたから、私に手紙を遺していました。そこには『忘れないでいてくれてありがとう』と。それがこの手紙です」

 弓削さんはさっき取り出した便箋を開いてみせた。そこには細やかな字が几帳面に並んでいた。

「私はじゅうぶん幸せでした。私にとって唯一の心配は、妻のもとに私の缶詰が転がり落ちてはいまいか、ということでしたから。私は妻の墓に出向き、この世界での再会を喜びました」

 そうか。弓削さんの缶詰を開けたのが奥さんだった場合、二人はまた別々の世界に引き裂かれてしまう。

 その代わりご友人が囚われてしまったわけだけど……。

「さて、缶詰の仕組みはわかっていただけたかな?」

 弓削さんはあたたかい目をしていた。たくさんの出会いや別れを経験した人に宿る、切なげな眼光。寂しさが染み入るような気持ちがして、だけど生きていくってそういうことなんだって、漠然と思ったりする。

「私がいまどういう状況にあるのか、わかった気がします」

「信じてもらえたのなら、ありがたい」

 弓削さんは便箋を引き出しの奥にしまい、代わりに缶切りをひとつ取り出した。

 金属の缶切りがしっとりと光る。ああ、もう一度これを使ったとき、私は。


「あなたの缶詰に触れるまえに、もうひとつ話しておきたいことがあります」

「あ、はい」

「ですが、これは必ずしもあなたの役に立つとは限らない、私の自己満足に近い話かもしれません。……それでも、聞いてくださいますか?」

「もちろんです」

「ありがとう」

 弓削さんは彼の「あかない缶詰」を缶切りの横に置いた。

「今度は、この缶詰のお話です」

 私も自分の缶詰を缶切りの横に置いた。まな板の上の鯛ならぬ缶切りの横の缶詰である。ああ、この言い回しではあまり危機感というものは感じられない。

「私には、一人息子がいました。息子は、妻が缶詰に囚われた頃にはもうとっくに独り立ちして、遠くの街で働いていました。これが、出て行ったきり戻ってこない薄情な息子でしてね」

 奥さんと二人きりで、亡くなられてからはたったひとり、静かな晩年を過ごされていたのだろうなあ、というイメージしかなかったので私は驚いた。それほどにこの老紳士、深く孤独の影を背負っているように見えるからだ。

「そんな息子ですから、私も妻も、生活の中であまり話題にすることはありませんでした。むろん、愛していたのですよ。ですが、あまりにも会わない時間が長ければ、相手を思う時間も磨り減ってしまいます。妻はどうだったのかわかりませんが、私はほとんど息子のことを考える時間がありませんでした。きっかけがない限り思い出さないというのは、忘れていたといっても良い状態なのかもしれませんね。腹を痛めて生んだ母親と比べ、父親というのはどうも情が薄い、などといわれることもありますが、そのとおりだったのかもしれません」


 たしかにそういった話を聞くこともある。私の家庭に関してはその限りではないけれど、たとえば……水村は母子家庭だ。そこに行きつく過程で何があったかは知らないし、父に原因があったと決めつけることは野暮だけど、あいつは「父親から愛された覚えはない」と語っていた。「自分が愛されなかったぶんも、おまえとの子はしっかり愛してやる」とも。私は婉曲的なプロポーズともガキくさい茶化しともとれるそのセリフをセクハラ認定し、比較的小規模で行われた女子会と呼ばれる類の語り場でゆるやかに糾弾した記憶がある。

「缶詰は、中の者にとって『忘れられない』者のもとへ転がり落ちます。しかし、缶詰はあなたの持っているような『あかない缶詰』にも、文字通り『あかない缶詰』にもなりうる」

 双方にとって「忘れられない」関係である必要がある、と以前弓削さんは言っていた。私は缶詰の仕組みを知らなかったのだから、遊佐くんを意識して開けようと試みていたわけじゃない。だけど、私の意識のどこかで、遊佐くんはいつも絵を描いていた。

「私は、この缶詰が転がり落ちてきたとき、開けることができなかったのです」

 弓削さんは申し訳なさそうに自分の缶詰をみた。後悔すら擦り切れて、そこには落ち着いた諦めがあった。そして、愛も満ちていた。

「開けられなかったどころか、『開けたい』という思いに囚われることすらなかった。脅迫観念のような『開けたい』という思いは、きっと『忘れられない』思いの強さに比例するのでしょう」

 皺だらけの目もとがにわかに痙攣して、ひとつふたつ、涙が伝った。

 ずっと冷静だった弓削さんの声が、かすかに震える。

「……なまじ缶詰の仕組みを知っていたために、『私のことを忘れられない誰かが入っている』という前提で考えてしまったのがいけなかったのでしょうか……。私は、自分が息子に必要とされている可能性など、微塵も考えなかったのです。私の入れ替わりに缶詰に囚われた友人、彼のことが強く印象に残っていたのも関係しているかもしれません」

 私があらかじめ缶詰の仕組みを知っていたら……いや、実際に囚われでもしない限り、とても信じることなどできないだろう。

「私がようやく息子のことを思い当ったのは、息子が寝たきりになって入院しているという情報を知ったときのことでした。そのころには缶詰を拾ったことすら頭の片隅に追いやられ、この缶詰はそこの書棚の隅で、埃をかぶっておりました」

 それと気づいたときの彼の激情は、いかなるものであったのだろうか。私には想像もできない。

「私は慌てて缶切りを取り出し、刃を突きたてました。しかし開かない。思い出したのにあかない。まだ『缶夢』見ていないのだからあたりまえだ。これから一夜に一枚ずつ、剥がしていくのだ。私はそう考えて眠りました」

「『缶夢』を見ることはできたのですか……?」

「それらしきものを見ることはできました。しかし、それは意味のないものでした。扉に行きあたっても、開かない。何度も何度も『缶夢』をみました。しかし、いつも私は拒絶された。開けたい、と思うと、夢はそこで崩壊し、焦燥も高揚も吹き飛ばされて、無気力な朝になった。何夜試しても、一枚とて開けなかったのです」

 私は自分の「缶夢」を思い返した。私は見る度に、一枚ずつ扉を開けていくことができた。そしてあくる日、現実の世界では缶詰が一皮ずつ剥けていった。

「缶詰を開けるためには、双方からのアプローチが必要。私は『目的地』にいたるまでの、通路のような『缶夢』の世界を、この世界とあちらの世界の境目だと考えています。そこを歩むには、両方の世界からお互いを思わねばならない」

 言葉を継ぐのを辛そうにしながら、弓削さんは続ける。

「……私は気づくのが遅すぎたのでしょうか……。私が『缶夢』を見始めたとき、すでに私は息子から『忘れられて』しまっていたのでしょうか。しかし、現実から浮遊した空間で、最初『忘れられなかった』誰かを忘れてしまうことなどあるようには思えないのです。『缶夢』で先に進めなかった原因は正確にはわかりません。しかし私は、息子が私に『忘れられて』いたことを悟り、拒絶にいたったのではないかと考えることがあるんです」

「でも、缶詰が転がり落ちたってことは、息子さんも強く弓削さんのことを思っていたからじゃないんですか。あなたのもと転がり落ちた、そのこと自体が、大きな意味を持つんじゃないんですか」

 自分で言っていてすこし気恥ずかしくなった。遊佐くんの缶詰が私のところに転がり落ちたことに、偶然を超えた意味はあるのだろうか。

「……私はそれすら、消去法のように感じているのです。家を出たあとの息子の暮らしぶりは知りません。しかし、配偶者がいればそのくらいは私どもにも伝わっていたことでしょう。そして当時、息子は妻の死去を知っていたはずです。私が囚われていたあいだ、妻が頼れる身内は息子だけだったのですし、葬儀やそのほかのことについても、息子が世話をしたのだと思います」

 単なる卑屈ではなく、歳月の中で積み上げられた重い結論であることが、眉間に谷を作る。

「私は思うのです。妻が生きていたら、私の下に缶詰は転がり落ちてこなかっただろうと」

 私は何も言えなかった。

 押し黙っていることすら、辛かった。

 いったい彼の言葉は何年分の後悔を背負っているのだろう。

「……長々と、ありがとうございました。息子のことを話したのはあなたが初めてですよ。本当に辛気臭くって申し訳ありません。さあ、今度はあなたの缶詰の話をしましょう。あなた以外にも缶詰を開けた人がいるという話、お聞かせ願えますか?」



 気づけば始業の時間を過ぎていた。いまごろ教室では、水村が怪訝な顔で私の席を眺めていることだろう。美術室はどこかのクラスが使っていて、遊佐くんの絵はその片隅で静かに完成を待っていることだろう。

「水村……ええと、クラスの友人も、私の缶詰を一度開けたことがあるんです。それが起きたのは、たぶん、その友人も缶詰の中の人を『忘れられない』ひとだったからだと思うんです」

「開けられる人間はひとりじゃない、ということでしょうな。手がかりさえあれば、私の缶詰も誰か別の人に委ねたほうがいいのかもしれません」

「これを考えると、降り落ちる場所っていうのは、やっぱり偶然なのかもしれませんね」

「思いの強さとまったくの無関係ではないと思いますが、私の友人の例も考えると、ある程度偶発的な面があるのかもしれません。それこそ夜にみる夢のように」

「友人は、『缶夢』らしきものもみたと言っていました」

「……ふむ……そうですか……」

「ずっと通路を歩いてて、扉を見つけたけど開かなかった、と言っていました」

「それでも、彼は一度缶詰を開けているのですね」

「はい」

「おそらく、その場合は拒絶ではない。たぶん、あなたも同時に『缶夢』を見ていることが影響しているのでしょう。ご友人が開けた缶詰があなたの『缶夢』に作用したのと同様に、あなたが『缶夢』の中ですでにその夜の扉を開けていたから、彼は扉を開けなかった」

「……扉の枚数って、缶詰の層を表しているんですよね。その数に何か意味はあるんですか?」

 私が問いかけると、弓削さんはアイコンタクトで断わりを入れて私の缶詰を机から取り上げた。

「一年です。一年が、ひとつの層を作り上げる」

 弓削さんが指で缶の腹を叩く。タトンと小気味よく鳴る。

「中に居る人に、心当たりはありますか」

「はい。二年前から寝たきりの、同級生が」

「あなたは既に二回缶詰を開けた。ということはいま、この缶詰は裸ということになります」

「裸……」

「つまり外側に何も着ていないということ、この蓋の内側にはむき出しの中身があるということです」

 漠然とした予感だった「次が最後」という思いが、時間という証左を得てはっきりと主張し始める。

「あなたは昨夜『缶夢』を見て、そこで一枚扉を開けている。いますぐにでも、この缶詰を開けることができる……」

 弓削さんはそういって缶詰を置いた。

 私はいよいよ、決断を迫られる。血が冷えて、知覚がうちにこもる。頭だけがぐるぐると動く。

「私が話せることは、すべてお話ししました」

 遊佐くんのこと、水村のこと、もちろん家族やいまの生活のこと。何が大切で、何を優先すべきなのか、ひとつに決めるなんて無理難題なのに。

「あとはあなたが決めるだけです。あなたはもう察しがついたと思いますが、最後の蓋を開けてしまえば、あなたは缶詰に取り込まれてしまう。そして出られるのは、いつになるかわからない」

 弓削さんは一年だった。遊佐くんはいまの時点で二年だ。弓削さんの息子さんは……いったい何年閉じ込められているのだろう。

「私がすべてを話すのは、あなたが決断を迫られたときだと、前に言いましたね。あなたは選ぶことができる。開けるのか開けないのか、秤にのせることができる。開けたいという衝動に打ち勝てるなら、という前提にもなりますがね。何らかの手段で、私が処分してやってもいい。ただその代わりに、それをしてしまえば、おそらく中の人間はずっとそのままになる。いつか、運よく、相互に『忘れられない』人間が現れるまで。しかし年月が経つにつれて、出られる可能性は低くなっていくでしょう。人の記憶は劣化する。人は、忘れていく」

 私は、缶詰の中に閉じ込められる状況を想像した。時間の流れが曖昧で、誰もいない、イメージだけの空間で、ひたすらに居続ける苦しみ。イメージの世界、夢を見ているような状態であったとしても、自我はあるはずだ。缶詰の中に囚われている自覚は、常につきまとうだろう。苦しいに決まってる。だけど私のような弱い人間が理性を保つには、苦しみに耐え抜くしかない。苦しみを感じるだけの理性があるうちに、『忘れられない』誰かに、助けてもらうほかない。

「ただ、あなたの場合は特殊です。『忘れられない』者が二人いる。缶詰を開ける権利を持つ者が、二人いるのです。あなたの決断は、三択ある。缶詰を処分するか、あなた自身が最後の蓋を開けるか、それとも――」

 弓削さんは私をまっすぐに見つめて、言った。

「もう一人に、渡すか」

 水村に缶詰を渡せば、彼が最後の蓋を開けることになるだろう。彼も缶詰に囚われているのだ、開けたいという衝動は押さえられない。缶詰に意識を囚われて、学校から居なくなって……。

「私が開けます」

 水村に開けさせたら、という想像を振り払うように、私は言った。

「だって、この缶詰は、私のもとに転がってきたのだから」

「…………そうですか」

 長い間をおいて弓削さんは頷いた。それ以上のことは何も言わなかった。

「おやりなさい」

 私は缶切りを握った。いったんこの場を離れて考える、なんてことをしていたら、無駄な逡巡ばかりうまれる。決意が揺らぐかもしれない。揺らいだ挙句戻ってきたとしても、それはもう私の選択じゃなくなる。

 私は缶詰に刃をかけた。コシュッと音が鳴り、クイクイとした手ごたえで蓋が喰われていく。

 中が少し見えた。からっぽだ。なにも入ってない。でも底がはっきりしない。近くにあるはずなのに、遠く深いようで、でもそんなはずはなくて、私は目が離せない。

「誰かを思う限り、あなたは繋がる」

 弓削さんの声が聞こえた。

 缶切りは一周し、ぱちんと音を立てて蓋が外れた。私は夢へ落ちていった。


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