ふたつめ
私は見覚えのある部屋にいた。
何もない四角い部屋。その一角に、穴の開いた扉がついている。そして私の手には昨日と同じ缶切りが握られている。
継続性のある夢、というよりは、継続性があるんだからつまりこれは現実だ、と考えるのがスムーズだろうか。夢だとしたら、意識がとぎれる前の文脈を記憶しているはずもない。頭はすっきり覚醒している。でも、どうしてこんな部屋に閉じ込められたのか、思い出せないけれど。
とりあえず、ここを出なくてはいけない。
私は持っていた缶切りを扉の口に嵌めて、力を込める。かさぶたをはがすときみたいに、そおっとした力加減を心がける。そうされるのを待っていたかのように、扉は「剥がれた」。
扉のさきには、少しひんやりとした廊下が続いていた。
私はしたしたと硬い床を歩んでいく。
足は裸足だ。ふとからだに意識が向いて、パジャマ姿であることに気がついた。
廊下にはランプのようなものが灯っていて、西洋の館のようだった。廊下はやはり、こういう風でなくちゃいけない。この先に何があるんだろうと、ぼんやり期待を抱かせるような。
行き止まりまでやってきた。
しかし、行き止まりは文字通り行き止まりだ。
壁なのだ。
扉がない。出口がない。私はあせった。逃げられない。進めない。助からない。
冷気の染み出す廊下を振り返ると、ランプの灯はすべて立ち消え、暗闇がぽっかりと口をあけていた。
太刀打ちできない恐怖が、私を覆い尽くす。
何がいけなかったかを思い出そうとするのだが、断片になったシーンが勝手にバラバラと再生されるだけで、時間軸が定まらない。記憶の順序がわからない。いまに繋がらない。
なんとか思い出せたのは、「捨ててしまった」シーンだった。
何を捨てたのかまではわからない。が、とてつもなく大切な何かを、捨てたシーン。
たぶんそれだ、そのときの私が悪いのだ。困った、困った……
鼓動が落ち着いていくにつれて、恐怖は苛立ちへと変わっていった。
まどろみから掬い上げられた私の意識は、夢と現実をようやく区別する。
……ふざけた夢を見せやがって。
脳内での物語とはいえ、感じた恐怖は本物だった。じっとりと湿った寝間着がそれを物語っている。ふと妙な予想がたって下半身に手をやったが、さすがにそこまでの粗相はないようだった。
夢の中で、夢こそ現実だと思い込んでしまうのはしょうがない。
しかし、「これは夢か?」という問いが浮かぶ段階まできて、なおそれを跳ね返すほどの現実めいた夢は、初めてだった。
行き当たりばったりの不思議な夢が、ある場面をきっかけに悪夢へと転じた。悔しいが、その原因が例の缶詰であることは、認めざるを得ないだろう。「捨ててしまった」ことを、私はやはり気にしていたのだ。
こんな悪夢が続くようでは仕方がない、私は夢を生んだとも夢から生まれたともいえるような例の不思議な缶詰を拾うため、早々と家を出るのだった。
缶詰を拾って捨てた駐車場まで行くと、昨日会った老紳士があたりをうろついていた。
こんな早朝にも関わらず、私を待っていたのだろうか。
私に気づいた彼は、杖をつきながらとぼとぼと近づいてきた。
「待っていましたよ」
「来るのが、わかっていたんですか」
「とにかく、これを」
老紳士の手には私が昨日捨てた缶詰が握られていた。私はそれを受け取る。なんの特徴もないが、この重みと、存在感。紛れもなく私の缶詰だ。
「昨日は、申し訳ないことをしました」
老紳士は被っていた帽子をとり、少し曲がった腰をさらに傾けて一礼した。
「いえいえ、私のほうこそ。むきになってしまって」
怪しい老人には違いないのだが、彼の態度からは敵意がまったく感じられなかった。いっそ彼が不審者であったほうが、缶詰との縁を切るのに抵抗がなかったのかもしれない。
哀れみや同情と呼べるような態度を感じてしまったことが、逆に怖くて、気になってしまっている。
「この缶詰が気になって、夢を見てしまうんです」
私は思い切って老紳士に相談してみることに決めた。
「夢なだけに抽象的なんですが、缶詰のふたのようなドアを剥がして、先へ先へと進んでいく夢……」
「……幾つ、進みましたか?」
「ええと、まだ一回です。一回、部屋を出て、廊下みたいなところに出て……」
「なるほど」
老紳士はふむと頷いて何か考えるそぶりを見せた。
「お嬢さん。あなたは、この缶詰の秘密を知りたいですか」
「知りたくなければおじいさんに話しかけたりしませんよ」
私の率直なものいいに、彼は笑った。
「ははは。素直で良いですね。たしかに、こんな老いぼれと好き好んで話したがる学生さんは居ないでしょう。では、もしよかったら、私に着いてくるといい。まだ朝は早いし、時間はあります。私の家で、ゆっくりと話をしてあげましょう」
「あ、はい! ありがとうございます」
即答しておいて、ずいぶん思い切った決断をしたものだな、と私は思った。女子高生という身分でこんな提案にほいほいついてゆくようでは、先が思いやられる。朝起きたら知らない男の部屋にいるようなキャンパスライフが待っているのかもしれない。もっと警戒心を持つべきなのだろうか。
「あなたは、『忘れられない』者なのですよ」
家へ向かう道のりで、老紳士はふとつぶやいた。
「缶詰のことを、ですか? 『開けようとして』しまったから」
「それはきっかけに過ぎません。『忘れられない』者のもとに缶詰は降り落ちる。そういう因果なのです」
老紳士、弓削(ゆげ、と読むそうだ)さんの家は木造の古い一戸建てだった。長年一人暮らしで、若い頃は物書きをやっていたらしい。家の中には最低限の家具しかなくて、もの寂しい。静かで質素な暮らしぶりがうかがえた。
かすかに軋む廊下を渡って、私は書斎へと案内された。
「そこに座って下さい」
ちゃぶ台ひとつしかなかった居間とは打って変わって、書斎には古い本が天井まで積まれていた。雑然とした風景の中、しかし、整然と積まれていた。
私は彼の机と向き合うように置かれた一人掛けのソファに腰かける。古書のにおいが心地よくて、眠くなってしまいそうだ。
「あなたに、見せなければならないものがあります」
そういって弓削さんは机の中から何かを取り出した。
それは、缶詰だった。
「これは『忘れられて』しまった缶詰です」
彼が取り出した缶詰は、私の缶詰とそっくりな銀色の缶詰だった。特徴がないのが特徴。どこにでもある、指で叩くとコッコッと鳴り、机に置けばタトン響く、小気味よい缶詰。
「違いが、わかりますか?」
「外見は、まったく同じに見えるんですけど……」
私は、思うまま感じたままに答えた。
「私の缶詰は『わたしの』って感じがして、こっちの缶詰は『わたしの』じゃない……そんな風に思います」
「正しい。そうです。外見も、いや、中身さえも、物質的には一切の違いがない。私たちのもとに転がり落ちたこの缶詰は、缶詰という記号でしかない。問題は、『誰の』缶詰であるかということです」
「その缶詰は……」
「この缶詰は、私の缶詰です。私にとっての、『忘れられない』缶詰です」
弓削さんは寂しげな瞳で彼の缶詰を見つめた。そして彼は、陶器を扱うような手つきで、そっとそれを机に置いた。私は、私の缶詰を、その隣に置く。見分けはつかないけど、感じ分けができる。
弓削さんの言う「忘れられない」とは、何に対する記憶を指しているのだろうか。彼にとって、私にとって、「忘れられない」何か。それは缶詰の中に入っているのだろうか。私は何故、開けたいと思うのだろうか。
「缶詰は、ふと、転がり落ちます。いつどこに現れるかはわからない。ただ、『忘れられない』者のもとへ転がり落ちます。『忘れられない』者にしか、缶詰を開ける事はできないからです」
選ばれた人間しか開けることができない、か。伝説の剣みたいだ。ん、でも、あれ?
「私の缶詰、一度開いたんですけど、開けたのは別の人間でしたよ?」
「ほう……それは妙ですね」
弓削さんは首をかしげた。どうやら彼にもわからないことはあるらしい。
「私も、すべてを知っているわけではない。どうやら、私の経験則では語れない何かがあるようですね」
「そもそも、どうしてあなたはそんなに詳しいんですか?」
「私もお嬢さんと同様、缶詰に囚われていたことがあるからですよ」
「囚われていた?」
「来る日も来る日も、開けようとしていました」
弓削さんは、自分の缶詰を持ち上げて、手のひらに載せた。缶詰は吸いつくようにそこに落ちついた。私も自分の缶詰を、手に載せてみた。ずしりと重い、妙な存在感が健在だ。
「ついに、開けることはできたのですか?」
答えが出ている問いだと思いながら、私は訊いた。彼の缶詰は開かずのまま、そこにある。
「一度は、開けることができました。二度目は……ご覧のとおりです」
「二度目、なんですか」
驚いた。が、逆に納得できる。成功も失敗もしているから、彼は詳しいのだ。
「何故、一度目は開けられて、二度目は駄目だったのでしょう」
「『忘れられない』は、一方向ではないのです」
「それ、具体的に、どういう……」
どこか、核心に迫る何かを感じて、私は問い詰めた。一方向ではない。つまり、私が「忘れらない」だけでなく、主体になりうる何かから、私が「忘れられない」対象となっているということだ。――忘れられて、いない。
「それは……本当にあなたが決断を迫られたとき、お話しします」
弓削さんはここで突然口を閉ざすのだった。
「まだ、早い。しかし、時がくれば、私がここまで抽象的にごまかしてきた部分を、すべて順を追って説明いたしましょう」
「どうしても、無理なんですか」
私は喰い下がった。しかし弓削さんはかぶりを振る。
「できれば、の話ですが……毎日私に夢の話をお聞かせ願えませんか。別に、朝でなくても大丈夫です。ただ、夢から覚めたあと、缶詰を開けてしまう前に」
「缶詰を、開ける? 缶詰は、開かないんですよ」
「開くんですよ。夢をみたならね」
弓削さんはおもむろに缶切りを取り出して私に差し出した。眼を見開いた馬の像が彫り込まれた、妙な造形の缶切りだ。異国情緒を感じる。
「あ、開いた」
私が缶切りを缶詰に押し当てると、昨日水村が最初にそうしたときのように、あっけなく缶詰は口を開いた。コシュコシュと一回り咀嚼して、蓋が外れる。中からはまた缶詰。
「これ、どういうことですか。昨日も似たようなことが……」
「もう一度、試してごらんなさい」
弓削さんはそう言ってもう一層開け進むことを促した。このパターンで二回目は開かないことを示すために促したのか、今回は開くものだから促したのか、どちらだろう。
「あ、堅い」
缶詰は開かなかった。
「あなたが見ているのは、缶詰の夢です。缶詰があなたに見させる、夢。『缶夢』とでも申しましょうか。夢の中で、開かない扉……缶詰の蓋に対して、開けようとアプローチすると、翌朝、その意思が反映されて、一枚先に進むことを許される。そして現実世界でこじ開けた扉は、次の夢に反映される……」
「そのまま進んでいくと、どうなるんですか」
「最後には、目的地につきます」
「目的地? 何があるんですか」
「それもまだ、話せません」
「そんなぁ……」
弓削さんはずいぶん頑なだ。思慮深い人に見えるし、きっと、それだけの理由があるのだろう。私はそう思うことにして、引き下がる。
「じゃあ、もうそろそろ学校ですし、また明日来ます」
「ありがとう。ぜひ、『缶夢』の話をきかせてもらいたい」
「はーい」
私は缶詰を鞄にしまって、弓削さん宅を出た。抜け殻になったほうの缶は、弓削さんが処分してくれるらしい。剥いてしまった外側の缶は、ただのゴミだ。根拠はないけど、そう感じるのだからたぶん必要のないものなのだと思う。
私は女子高生だ。その生活は、学校を中心に廻っている。
だけど今日はなんだか、学校に行くのがおまけのように思えた。
登校すると、例に依って近寄ってくるいつもの水村がいた。
それを視界に捉えながら私は席を整え、くだらないことを考える。
ありがちな人間模様とそれに起因する高校生男子の言動から推測できる幾つかの類型に当てはめると、部活が同じ、クラスが同じ、わりと親しくて冗談も言いあえる――こいつは私に好意を持っている。それもあれだ、「付き合ってくれ」とは言えないし、たぶん奴自身も恋愛関係はしっくりこないと思っている、だけど誰かにとられるのは嫌だなんて思っちゃうような、そんなありがちな青くさい好意。でも私は遊佐くんのことがいまでも好き、なんてこれもありがちだな。
とかなんとか、水村のことを上から目線で分析した挙句、脳内で勝手に設定づけてかわいそうな奴にしてる私って、本当にいやな女だと思う。いやというよりクソって感じ。クソ女。ビッチ。ヤリマンってほうじゃなくて、より原義に近いほうのビッチ。悪女。
軽く自己嫌悪に陥りながら、でも友達としては水村のこと好きだしな、なんて無駄なフォローを脳裏に浮かべていると、それが口元に現れて変に笑ってしまった。
「おまえ……朝からにやにやして気持ち悪いな」
「開口一番にそれかよ、水村」
「いやさすがにいまの顔はコメントせずにいられなかった」
「あっそ」
「機嫌悪いのなら申し訳ないが、少し話したいことがあってさ」
こんな感じで、私がツンとするとすぐ煽りをやめてしまうのが水村だ。かわいい奴である。
「変な夢を見たんだ。なんか暗示的な。缶詰をモチーフにしたような夢、というか。まあたぶん昨日ひたすら缶詰のこと考えたからだと思うんだけど、その缶詰、妙な感じするじゃん。だからもしかしたら、瑞樹も似たような夢みてるんじゃね? とか思ったりしてさ」
ふうん、察しが良いじゃん。と思って私はふと逡巡モードになる。
水村も、同じような夢を見ている……?
それは、つまり、彼も缶詰に囚われているという証拠なのだろうか。
私は腕を組んで偉そうに応対する。ちなみに、缶詰は鞄にしまったままだ。
「ふうん。どんな夢?」
「地下道みたいなとこをずっと歩いてるんだけど、一向に階段がないんだよ。どんなに歩いても無限ループって感じで。それで、暫く歩くと壁に薄そうな扉がついてるのに気づいて、そこから脱出しなきゃって焦るんだけど、開かないわけ。なんか缶詰の蓋とよく似た扉で、開けるっていうより剥がすようなイメージだった。俺は地下道を歩き回って缶切りを探したんだけど、見つからない。でもふと自分のからだを見ると、制服着てるわけ。んで、ポケットの中に瑞樹に借りた曲がった缶切りが入ってて、だけどそれでも扉は開かなくて、って感じ」
「なるほどね」
人の夢の話ほどつまらないものはない。とは言うものの、例外もある。美少女が「蛇とりんごの夢を見た」なんて話をはじめたら男どもはみんな耳に下心を宿すだろうし、イケメンが「君といっしょに海にもぐる夢を見た」なんて言ったら私もフロイトの著書を確認する。水村の話も、この場に限ってはそんな例外の一つだった。明日弓削先生に缶夢分析してもらおう。
「私も、似たような夢みたんだよ。密室から、缶を開けるみたいに扉を剥がして、その先の廊下を歩いていく夢」
「えっ、マジか!」
水村が喰いついてきたので、私は少しめんどくさくなって距離をとる。
「まあでも、水村もさっき言ってたけどさ、昨日あれだけ缶詰いじったじゃん。これは偶然の一致とかじゃなくて、当たり前の結果だよ」
「そうかな」
「そんなに私と運命を感じたいのか」
「おまえは阿呆か」
「阿呆かどうか、議論の余地はあると思ってるよ」
「残念だけどすでに結論は出てるかもしれないな」
めんどくせえなあこいつは。
「缶詰は、持ってきてないの?」
「家に忘れちゃった」
嘘だけど。
昨日より一回り小さくなったことは、なんとなく秘密にしておきたい。弓削さんから聞いた話をゆっくりと咀嚼しながら、ひとりだけで考えたいことが幾つかあった。
もうすぐ、始業だ。
昼休みになり、私は美術室へと向かった。
昼食も摂らずに直行したのは、誰にも邪魔されたくなかったからだ。
神経質な私は、独り部屋に入ると内側から鍵を閉めた。
……遊佐くんの絵を、見るのだ。
遊佐くんが遺していった描きかけの絵は、片隅の暗がりで彼を待ち続けている。
中央に描かれた物乞いの老人。全体的にくすんだ色合いだが、絵自体のイメージはぼやけていない。モチーフがキャンバスを乗り越えて存在を主張しているようだ。巧いだけじゃない、綺麗なだけじゃない彼の絵。完成像を予想させない、独特の筆運び。
私の絵をはじめて誉めてくれたのも、遊佐くんだった。
異性に惹かれて、という半ば不純な動機で入部した私は、そういった部員にありがちな実力で以て、周囲から少し浮いていた。
ヘタクソ、なだけならまだ良い。それ以前に私は、描けなかったのだ。
もちろん、小中とあった絵の授業を、すべてサボりたおしていたようなつわものではない。そういう場面ではぬるい空気にまぎれて無難な絵をそこそこに生産していた。
しかし、美術部である。絵にしろ立体にしろ、何かを創作するために生徒があつまってくる場所。青臭くて荒削りな創作意欲が、常にうずまいているその場所で、私は筆を動かすことができなかった。
不純な入部動機に対して、引け目を感じていたのが原因だったように思う。そんなことあるのかと問われそうではあるが、実際にあったのだからしょうがない。私は委縮してしまったのだ。自分がその場にふさわしくないと、勝手に悩んで苦しんでいたのだ。不純であっても、ありがち。そんな人間自分だけじゃなかったろうに。私は案外真面目なのかもしれないと、その頃気づいた。
入部したての頃、顧問から新入生に課題が出された。自己紹介も兼ねて、自画像を一枚描け、と。絵には外見だけでなく、その人の人となりが現れる、自己紹介には最高なのだと、先生はにこやかに語った。新入生たちは苦笑いしながらも、白地に自分を描いていった。
そんな力作にしなくてもいい、個々人の制作もあるだろうし、一日で仕上げるようにと期限が設けられた。私は困った。困り果ててそのまま退部しようかと思った。なにせそれまでに部でしたことと言えば、同級生との雑談くらいだったから。構想に悩んでいるなどとのたまってノートに文字を散らしているのも、そろそろ限界だと思っていた。
しかし私はどうにか、自画像を描き始めた。他の部員と比べ、ひとりだけ中学生のようなレベルだった。完成が見えなくても、タッチのおぼつかなさですぐに実力はバレた。少し気まずいような空気になって、それでも、私はじわじわと描き進めた。
そこで逃げなかった真面目さが、裏目に出たと言えば良いのか。
輪郭を描き切ったところで、私の筆は完全に止まった。自宅に持ち帰っても描けず進まず、深夜を経て翌朝、昼休み、そして時間切れ。私は、のっぺらぼうの自画像を部員に晒すはめになってしまったのである。
私は、からっぽだった。表現欲も表現技術も無い、部員にふさわしくないでくのぼうだった。
放課後、部員の集まった美術室。私は自画像を提出し、顧問が顔をしかめるのを見届けて席に戻る。新入部員たちの自画像が出揃うと、顧問はそれらを一枚一枚掲示していった。彼女はその都度かんたんな品評を行った。色合いが素晴らしいだの、タッチが素直で良いだの、荒削りの作品から良いところを探して誉めた。
みんな巧かった。少なくとも私よりは。そして素人眼にもわかるくらい、ずば抜けて巧い絵が二枚あった。遊佐くんの絵と、水村の絵だった。
そしてどういう配慮なのか、私の絵は貼られなかった。
観るに値しない、ということなのかな。そう思った私は鞄からルーズリーフを取り出して退部届をしたためる。シャーペンを持つ手が、震えた。
そのときだった。
「先生、一枚貼り忘れていますよ」
遊佐くんだった。
先生は少し慌てた様子で私を一瞥する。私は顔を伏せた。
「柚原瑞樹さん、この絵、完成しているの?」
悪い先生ではないと思った。先生なりに配慮して、晒し者になるのを防いでくれたのだ。
「今日描き終えられるかしら。ちゃんと完成したものを見たいのよ」
「わたし、それ以上描けません。からっぽなんです。昨日持ち帰ったけど、何も進みませんでした。時間の問題じゃないんです」
先生を困らせるような返答になってしまったけど、それが本心だった。
私の発言に先生が黙ってしまうと、遊佐くんが言った。
「絵の完成を決めるのは描き手です。彼女がもうそれ以上描けないと言っているなら、完成だと思います」
「うーん……それもそうね」
かくして私ののっぺらぼうは部員のみなに披露された。
遊佐くん、妥協を許さない姿勢はわかるけど、私には酷だよ。
私は俯いたまま嫌な空気に沈んでいた。早く終われ。早く終われ。
「ええ、と、この絵は輪郭の描き方が……」
「良い絵じゃないですか。先生」
先生が継ぎ言葉に困っていると、遊佐くんが割り入った。
「『自画像』というテーマに対して、誰よりも真摯に向き合っている」
私はびっくりして顔をあげた。みんなきょとんとした顔で遊佐くんをみていた。あたまが熱くなるのを感じた。私はただ目の前で展開する場面を追う、傍観者になる。
「柚原さんは、『からっぽだ』って言いました。だから『からっぽ』なんです。正解で、正答。彼女がいくら悩んでも次の線が描けなかったのは、これが答えだったからではないでしょうか。『自画像』を、どう捉えるかの問題ですよ。本来的に、僕たちに『自分』なんてものはない。だから自分探しなんてしてもしょうがない。制度の中で育ってきたたかだか十六、七のガキに、確固たる自我なんてあるはずがない。そういった感覚の表象として、彼女の自画像はのっぺらぼうに仕上がった。何も物理的に観測可能な身体的特徴を描くのが自画像ではない。そんなこと先人たちが幾万通りも実践しています。だけど僕たちの自画像はみんな、表現方法が素直すぎる。先生に与えられたテーマというよりも、慣習や経験の中に自画像というものを位置づけてしまった」
なにやら難解そうなことを並べているが、私を擁護……いや、誉めてくれているのはわかった。
「しょうじき、ひいき目にみても、技術があるようには見えない。ありていに言ってしまえばヘタクソだ。だけど、表現されているものがここにある以上、巧拙についての議論がすべてではないと思います」
「そうです。ヘタクソなんです。だから描くのが恥ずかしくて……」
思わず口を挟んでしまい、私は後悔した。私に注目が集まる。絵と共に晒し者だ。
「恥ずかしいと思うなら、それが表現を邪魔するなら、巧くなればいい」
遊佐くんはさっきより少し落ち着いたトーンで言った。
「ヘタクソな自分を受け入れること。実力を見つめること。まずはそれからはじめればいい。ここはそれなりに描ける人が集まっているから、恥ずかしいと思うのかもしれない。だって授業では描けているよね。なんか手抜きっぽいけど」
遊佐くんがそこまで言ったところで、顧問の先生が話を巻きにかかった。
どうやら私ののっぺらぼうは作品として認められたらしい。
活動開始の号令がかかると、妙な空気はあっというまに薄れていった。
みんながそれぞれの作業をはじめて、部屋の中に雑音が散らかっていく。
遊佐くんが、私のとなりにやってきた。
「ヘタクソなりに、そのときどきの限界値で、とにかく描き続けるしかないんだ。なんなら、僕が見てやってもいいよ。人の絵を見るのは好きだし、人が上達していく様子を見るのは、もっと好きだから」
この人はずっとそういう心持ちでやってきたんだろう。だから巧い。でもそれ以上に巧い。努力する天才だ、凄いな。かっこいいな。ていうかイケメンだし。
私は馬鹿でからっぽだった。だからといって、恥じ入る必要もなかったんだ。
詭弁にも聞こえたけど、彼はありのままの私を認めてくれた。
あの日私は、絵にも恋にも、本気で向き合っていこうと決めたんだ。
…………。
遊佐くんの絵をみて、遊佐くんを思い出して、いろいろなことを思い出した。
思い出に深く浸りすぎて、私はまどろんでしまったようだ。昼休みも残りわずかしかない。
水村やその他のエトセトラによって粗雑に扱われることのないよう、羽箒でほこりをはらい、なるべく邪魔にならない場所へ絵を移動させる。彼の使っていた道具の入ったダンボールも整理して、「厳重に取り扱うこと」と注意書きした。
最後にもう一度、と思って私はキャンバスに目を遣る。
するとあることに気づいた。
物乞いが硬貨を投げ入れてもらっている缶詰、そのうちのひとつが、閉ざされている。
むろん、これは絵の話に過ぎない。それに実際の(現代ではそうは居ないだろうが)状況を考えたときどちらが当たり前なのかは知らない。そもそも缶詰を幾つも並べている時点でおかしい気もする。それでも、缶詰に未開封のものがあるのは、不自然なように思えた。
「開かない、のかな」
私はふと自分の缶詰を連想する。よく見ると、絵の中の缶詰はどれも微妙に大きさが異なっているようだ。未開封のものがいちばん小さくて、他の缶詰は、ひとまわりずつ大きいような……。
背筋に寒気が這い上がった。
まさか……いや、そうだとしてもその先を知らないのだけど。
私はたった今閉めたばかりのダンボールを開封し、モチーフに使われていた缶詰をとりだした。
絵に描かれているのは全部で四個。そのうちひとつが未開封だ。そしてダンボールから出てきた缶詰は三個。ぜんぶ空き缶だった。重ねてみると、マトリョーシカのように綺麗に収まる。
おそらく、「あかない缶詰」がもうひとつあったはず。遊佐くんはそれを、どうしたのだろう。そして私の缶詰との奇妙な共通点は、何を意味しているのだろう……。
私は空き缶をダンボールに戻し、判然としない頭で教室に戻った。
水村が騒いでいる。私をチラリと見遣った。私は気にとめる余裕もなく、無感動に昼食をかきこむ。どういうことなのだろう、どういうことなのだろう。ぐるぐる。
けっきょく何もわからないまま、一日は過ぎていった。