ひとつめ
缶詰を積んで崩していた頃に書いた話。(初稿:2012年)
缶詰があかない。
曲がってしまった百均の缶切りを放り出して、改めて缶詰を眺める。
何もプリントされていない、まっさらな銀色だ。ちょうどツナ缶のようなサイズで、指で叩けばコッコッと小気味よい音が鳴る。特別に分厚いスチールのようには見えないけれど、缶切り、千枚通し、ドライバー等々、我が家の武器はことごとく跳ね返されてしまった。
持ってみると、見た目の印象よりずいぶん重い。同じ大きさのレンガくらいの重量はあるだろうか。缶詰風に加工された金属の塊という可能性もある。でも、口では説明できないのだけど、何かを秘めた存在感が私の好奇心をくすぐっている。
私の非力に問題があるのだろうか。たしかに私は貧弱な文化系女子だ。ひねもす絵ばかり描いて、美術室にこもりきりの根暗女だ。ちなみに缶詰はすでに十枚ほどスケッチした。帰り道で拾ってからかれこれ六時間、私はこの扁平な丸顔と見つめあっている。
とりあえず、高校に持っていってみるか。三人寄れば文殊がなにやら、私の周りにいる馬鹿な男たちも、こういうときくらいは役に立つだろう。中から金塊でも出てきたら配分に困るけれど。奴らがごねれば、法廷で争うのもやぶさかではない。この場合所有権は私にあるのかな、そうだといいけど。あ、でも、拾ったものって自分のものにしちゃいけないんだっけ?
次の朝、私は缶詰を鞄に忍ばせて部屋を出た。雑誌とか化粧品はともかく、缶詰を持ちこむ女子高生というのは全国でも非常にレアなケースだろう。マニアも垂涎だ。玄関の扉を開けるとき、昨夜見た奇妙な夢がフラッシュバックした。夢の中で私は小さな部屋に居た。飾り気のない四角い部屋で、壁にひとつだけ扉がついていた。扉には取っ手の代わりに穴が開いていて、私は手に持っていた缶切りをそこにひっかけた。しかし、どんなに力を込めても、扉は開かなかった。どうしてもその先に行かなければならないという気持ちがあって、私は焦った。開かないことに絶望して、錯乱して、目が覚めた。
缶詰が開かないせいで見たような夢だった。私は、自覚している程度を超えて缶詰に囚われているらしい。中身が気になるという思いが、あの妙なイメージを作りあげたのだ。
私は教室に着くと、缶詰を出して机に置いた。スチール缶ってどれくらいの温度で溶けるんだろう。屋上から落とせば破裂しないものか。しばらく缶とにらめっこしていると、すでに登校していた水村が近付いてきた。
「おはよう瑞樹。何それ、昼飯?」
こいつは美術部の部長だ。双桑綴という奇っ怪なペンネームで活動している。努力しないので技術はないが、センスだけで喰っていけるような奴。才能というものはつくづく憎らしい。口の悪さに似合わず童顔で、そのせいか美術部顧問の熟女教師には気に入られている。
「私の弁当はもっとアートでファンシーだよ」
「それは残念だ。おまえほどサバの味噌煮が似合う女はいないのに」
「缶詰食品なら、鯨の大和煮のほうが好きかな」
私が缶詰を手で隠すと、水村は身を乗り出して覗きこんできた。
「ちなみにそれはなんの缶詰めなの?」
「わかんない。拾ったの。そして、どうしても開かないの」
私は家から持参した缶切りを水村に差しだした。
むろん、昨日使用した百均の缶切りである。
「なんだよこれ壊れてるじゃん。これで開けろと?」
「めちゃくちゃ堅いんだよこいつ」
「とりあえずやってみよう」
水村は捻じれた刃先を器用にひっかけて、グイと力を込めた。
コシュ、と音が鳴り、缶にあっけなく穴が開く。
「えっ!」
「すごくスムーズに開いてしまったわけだが……」
缶切りは咀嚼するように顎を動かし、グイグイと亀裂を広げていく。それはあっというまに一周し、缶の蓋がぷつりと落ちた。
「どれどれ」
水村が蓋をはがし、中身を確認する。
私はあぜんとしてその様子を傍観していた。
「あはは。これ面白いな。缶詰の中に缶詰が入ってるよ」
「えっ!」
「おまえさっきからその反応ばっかだな」
水村は蓋の開いた缶詰めを逆さにして、トンと底を叩いた。
重力に従って中身が落下する。中に入っていたのは、一回り小さい点を除けばまったく見わけがつかないような、銀色の缶詰だった。
「なにこれ。マトリョーシカみたい」
「おまえホント変なもの拾ってきたな」
「限界まで開けてみようよ」
「僕に任せておきなさい」
水村は二層目の缶詰に刃を付きたてて、力を込める。
「んん……あれ?」
「どうしたの?」
「これ、堅いぞ。瑞樹、ちょっと押さえててくれないか」
今度は私が缶を押さえ、水村が缶切りに体重をかける。刃先が滑らなかったから、力は効率よく垂直に伝わったはずだ。それでも、缶詰には凹みひとつできない。
「だめだ。こんなガラクタじゃ開けられそうにない」
「昨日私が開けようとしたときも、こんな感じだったよ」
「でも、さっきは簡単に開いたよ?」
「それが不思議なんだよね」
私は缶詰を手にとって質感を確かめた。
さっきよりも、幾らか軽くなった気がする。それ以外の点で、違いはわからない。
「美術室にいけば、機具がたくさんある。放課後、試してみようか」
「そうだね」
だけどたぶん、この缶詰は開かない。開かないときはどうやっても開かない。だけど然るべき時にはあっけなく開いてしまう、そんな性質を持っているような気がする。
私はもやもやと缶のことを考えながら、順調に授業を聞き流した。不真面目というわけでもないけど、強制されたカリキュラムには器用に応戦したい。勉強なんかより大切なことが、なんて言えば小綺麗な理屈にもなる。私が言えば明らかな空論だけれど。
放課後の美術室は、学校中でいちばん居心地のよい空間だ。
日に日に巧くなる吹奏楽部の演奏、遠くで聞くとなんだか切なくなる、野球部のかけ声。廊下を通る生徒たちの雑談、静寂を埋めるような、控えめな自然音。それらすべてが、薄い膜を隔てたような絶妙の距離感で響いてくる。複雑に混ざり合ったインクのにおい、少し傾いだ控えめな陽光。散らかった画材や、思い思いに作業する部員たちを、一歩さがって眺めてみる。
私はここが好きだ。
部屋の片隅に、少し古びたキャンバスが放置されている。
古びているといっても多少ほこりをかぶっているだけで、いわくつきの古美術品というわけではない。そこには描きかけの絵が、寂しそうに完成を待っている。
描かれているのは、空き缶を並べて地べたに座り込む、物乞いの姿だ。
客観的に悲惨であって、主観的に悲惨でない。その境遇にありながら、男の眼には光が宿っている。ありきたりな楽観ではなく、信念の宿った眼だ。私にはそう見える。
描いたのは、同級生だった男子生徒。遊佐佑央くん。彼は絵にとりかかると、完成まではひたすら没頭して描き続けるタイプの人だった。授業をさぼるのなんてザラだった。欠席したはずなのに、放課後美術室に来ると彼はそこに居た。
水村、もとい双桑が才能だけでやってる絵描きなら、彼は努力もする天才だった。水村に言わせれば、彼には「努力する才能」があって、自分にはなかったんだと。天才が論じる天才論は、神は二物も三物も与えるという現実を残酷につきつけてくる。
私が美術部に入ったのは、遊佐くんがきっかけだった。それを説明するために、めんどくさい口上を述べる必要もない。私は彼と、彼の描く絵に惚れていたのだ。
しかし彼はある日、突然学校に来なくなった。
何かの病気で、眠ったまま意識が戻らなくなってしまったそうだ。
天才は神様に愛されちゃうって、わりと信憑性のある俗説だと思う。水村は、うーん。微妙なラインだろう。
私はいつもの机に座って、一息ついた。鞄から缶詰を取り出して、机に置く。
特徴がまるでない金属のかたまり。モチーフとして活かすには、もっと歪みや表情が欲しい。だけどどうして、こんなに存在感があるのだろうか。
十一枚目、ちょっとだけ趣向を変えて、缶詰の裏側をスケッチしてみる。表となにも変わらないけど、裏って思えばそっちが裏になるというか、だいたいそんなニュアンス。しばらく鉛筆を動かしていると、工具を携えた水村が現れた。
「ペンチ、電動ドライバー、そして筋肉バカを連れてきた」
「おい水村、ひねり潰すぞ」
水村の首に太い腕がかかる。連れてこられたのは、柔道部の横山だ。眉が濃くて彫りが深い、いわゆる男前。ちなみにまったくタイプではない。
「そんなノリだから脳筋とか言われんだよ」
「いや、横山って水村より勉強できるでしょ?」
「こいつは文武両道という言葉すら知らんみたいだからな」
学年順位中の下の横山が頭脳を誇る。ちなみに水村は下の中だ。
「うるせぇな二人とも。さっさと缶詰開けるぞ」
私が缶詰を横山に渡すと、彼はじろじろとそれを眺めまわした。
「なんか、特徴がないのが特徴って感じの缶詰だな」
「ほい。まずはペンチ。よろしく頼む」
横山は水村からペンチを受け取ると、缶の端を挟み、グイとひねった。
ビクともしない。
「マジで堅いみたいだな。本気出すわ」
今度は体重をかけるようにして、引き出せるだけの力をペンチに注いだ。
「がっ……堅ぇ……」
「おいおい横山でも無理ってどういうことだよ」
「あ、ごめん、無理しなくていいよ」
顔を真っ赤にして踏ん張る横山を見て、なんだか申し訳なくなってきた。
だって私、どうせ開かないだろうとか思っちゃってるし。
「万力ってあるか?」
「たしかあっちのほうに……」
横山に尋ねられ、水村は部屋のすみを指さした。遊佐くんの絵が置かれた一角に、備え付けの万力が一台、誰にも使われずにひっそりと眠っている。
「どうせなら、やれるだけやってみるわ」
どこから持ってきたのかわからない潤沢なやる気を輝かせて、横山は燃えていた。
万力で固定してこれでもかといじめたら、さすがにあの缶詰も負けてしまうかもしれない。なんとなく開かない気がしているというだけで、開いたならもちろん嬉しい。逆にそれでも開かないのであれば、さらなる物理的手段を講じる余地はなくなる。
「ぶっ壊せ、ぶっ壊せ、よっこやまー」
水村が阿呆な掛け声を出しながら横山を万力の場所へと案内する。私も後ろからぼんやり着いていくのだけど、他の部員たちに怪訝そうな顔をされて、微妙な背徳感。
万力の周りにある机やらがぞんざいに掻き分けられて、スペースが作られる。遊佐くんの絵が壁に向けられて、その脇に置いてあった私物も、さらに隅へと追いやられる。
「ちょっと……水村、遊佐くんの物なんだから、丁重に扱ってよ」
「俺なりに気を遣ったつもりだったが、すまない」
「なんだそれ、ゴミじゃないのか?」
横山はかごに詰まった絵筆や絵の具、汚い帽子や錆びた空き缶を指さして言った。
「それな、遊佐が絵のモチーフにしてたんだ。ずっと学校には来てないけど、あいつはいまでも美術部員だし、絵は完成を待っている。だからそのままにしてるんだよ」
「空き缶って、さすがにこれはゴミでもいいと思うけどなあ」
太い腕で空き缶をつまみ上げ、何か言いたげに品評眼を向ける横山。触らないでほしい。
「ま、いっか。開いた缶には興味ねえ」
そう言うと彼は空き缶をかごに戻し、私の缶詰を万力にセットした。缶詰めの腹が上になるように挟んだため、少々噛み具合が心もとない。逃げ場を失った缶詰は、しかし、隙など見当たらないように見えた。
「どれ、ちょっとまだ腕がしびれているから、先に電動ドライバーを試してみるか」
水村が助手のようにせかせかと動き回って、横山にごついドライバーを渡した。スイッチが入れられ、ドライバーはぎゅいいいと走り始める。「えい」と気の抜けた声を、横山。鋭利な先端が薄い金属の皮膚に押し付けられる。
だが、面にぶつかった瞬間、その切っ先は横山の腕ごとはじき返された。
手ごたえをもとに再度試みるも、腕の力と缶詰の圧がぶつかり、ドライバーの回転が止まる始末。出力を最大にしても変化はない。横山はドライバーを置いて、ペンチに持ち替えた。
「ん……がっ……堅ってぇ…………!」
「なんでさっきは簡単に開いたんだ、これ」
「私に訊かないでよ」
横山は頑張った。たぶんガードレールとか道路標識だったらぐにゃぐにゃになるくらい力が加わっているように見えた。それでも缶詰に歪みどころか傷一つできなくて、私たちは諦めた。
力技が通用しなかったのが悔しかったのか、横山は缶詰を背負い投げして 「一本、俺の勝ち!」と捨てゼリフを吐いて消えた。
水村と横山および騒音を被った部員たちに謝罪した私は、さらに四枚のスケッチを仕上げたところで活動を切り上げて帰途についた。
手の中で、缶詰を転がす。水村が開けた外側の缶詰を鞄から出して、はめなおしてみる。なんだか脱皮したみたいに思える。脱皮を繰り返して、より強い缶詰が生まれていく仕組みでもあるのだろうか。だとしてもそう何層も作りこめる品物ではないだろう。いったい何度開けると、「中身」と呼べるようなものに辿りつけるのか。そしてそれは何なのか。労苦が重なるにつれ、期待値も高まっていく。
とりあえず、開封以外のアプローチを模索してみよう。拾った場所に行ってみるとか。
拾った場所なんて言っても、毎日とおる通学路なのだけど。
やがて私は缶詰を拾った月極め駐車場の前に辿り着いた。別に駐車場に特筆すべき何かがあるってわけじゃなくて、ここが地域のゴミ収集場所になっているというだけ。拾った日は缶や瓶を集める日の翌日だったから、誰かが捨てたものだという仮説が立つ。
でも、今日はゴミひとつ落っこちていない。
私は駐車場のフェンスによりかかって、缶詰をじっと眺める。すでに陽は沈んでいて、艶やかな銀色は街灯を生々しく反射している。
「中に誰か、いるの?」
なんて阿呆なことを呟いてみたりしていると、これが存外楽しい。私って危ない奴だ。
「お嬢さん」
「ひっ!」
缶詰の中の人が返事をした。たしかに聞こえた。返事をした。客観的に考えるとたぶんこれは幻聴で私が帰るべきは民家ではなく精神病棟だが……?
「お嬢さん、それは」
「あ、はい」
視線を上げるとすぐ目の前に小さな老紳士がいた。缶詰の精、というわけでもないだろう。小さいといっても缶詰に入るようなサイズじゃない。女子の平均、私と同じくらいだ。別にサイズによって判断するものでもないと思うけれど。
「何をしているのですか?」
彼は濃緑の外套を羽織り、柔らかな笑みを浮かべていた。尋問するような口調ではなく、やんわりと問いかけてくる。
「ええと、私、ここでこの缶詰を拾いまして。なんの缶詰かなあ、と」
缶詰から声が聞こえるなどと考えていたなんて、とても話せない。
「いま、拾ったのですか?」
紳士は見透かしたように質問を重ねた。私はうすら寒い不安を感じながら、答える。
「いや、拾ったのは昨日で」
「では、すでに『開けようとした』ことは……あるのでしょうね」
彼は少し悲しげな表情になった。私をはかなんでいるようだ。
しかし話が一方通行だ。まさかこの人、缶詰について何か知っているのだろうか。
「中身が気になって、開けようといろいろ試しているんですけど。開かないんです」
「ああ……」
「えっ」
意味深な嗚咽を漏らさないでほしい。
「仕方ないことです。缶詰の中身は気になるものです」
「あの、もしかしてこれ、貴方の物なのですか」
「いえ、私のものでもありません」
「でも何かご存知で」
「缶詰は、缶詰です」
喰えない人だ。私は返答に窮して、再び手元の缶詰に視線を落とす。なんとなく落ち着く。
「あなたはすでに、魅入られてしまったのでしょう」
「……いわくつきの物には見えないんですが。工業製品というか」
「もう、その缶詰が開くまで、あなたは逃れられない」
「すいません、あの、貴方はなんなんですか」
私は俯いたまま会話を繋ぐ。威圧感こそないものの、妙な恐怖でお腹が痛い。相手が紳士風でなかったら、逃げ出していたかもしれない。
「私もかつて『あかない缶詰』に囚われ、多くの時間を失ったものです」
しわ枯れたため息が落ちる。まっすぐに見つめる視線を感じて、私は顔を上げることができないでいる。
「おじいさん、中身、知っているんですか」
「中身は、お嬢さん、あなた自身であり、世界のすべてでもある」
わけのわからないことを、とりあえず意味深に言いやがって。
事情通を気取るような口ぶりが、嫌だ。起伏のわかりやすい物語の主人公にされたような気分だ。謎の缶詰に、謎の老紳士。次は謎の美少年でも出て来てくれるとありがたい。
「できるものならば、いますぐに手放してしまいなさい」
「できないだろ、って思ってるんですか」
「……できないでしょうね」
煽るような返答にイラっときて、私は顔を上げて老紳士を睨んだ。
「できますよ!」
思わず、大きめの声が出た。予想外の反応だったのか、老紳士はびくりとのけぞって笑みを崩す。私は大きく振りかぶって、缶詰を放り投げた。
缶詰は弧を描くように宙を飛び、駐車場脇のドブにぼちゃりと落ちた。
「ああ、なんてことを」
「捨てろと言われたから捨てたまでです」
私は少し得意げに答えてみた。なんだか、勝った気分がする。
「探す手間を考えれば、あなたはこうするべきではなかった。しかし、安易にそそのかした私にも非がある。全面的に詫びましょう。ですから、私の忠告をきいていただけませんか。いますぐ拾いにいったほうがよろしい」
「大丈夫です。それでは、失礼します」
立ちつくす老紳士を残して、私はその場を去った。
もやもやが残るどころか、清々しい気分だった。だいたいあのおじいさん、タイミングが良すぎる。怪しいことこの上ない。全部、彼が仕組んだ悪戯なんじゃなかろうか。そう考えるのがいちばん論理的だ。ネットで調べれば、悪戯の被害報告とか、都市伝説化した噂とか、何かしらの情報が出てくるに違いない。ていうか私は何故それに気付かなかった。わからなかったらまずググれ、情報社会の鉄則だ。
早くググって知的欲求を満たしたい。私は帰り道を急ぐ。
缶詰の情報に飢えているという意味では、まだ抜け出せていないのだろうか。
でもこれって、昼間ひっかかってた「別のアプローチ」ってやつだ。私、進歩してる。
苦労して得た情報や知識、観点が、ネットでサクっと手に入るようなものだったとき。 過程がどうとか関係なく、損したような気持ちになってしまう。その点で、私は空振りを楽しんでいた。どんなワードで、どんな条件で検索しても、参考になるような情報がまるでない。キーボードを叩きながら私はほくそ笑む。少しぐらい手ごたえがないと、昨日今日の私がむくわれない。
どぶさらいのような方法では捕まえられないとわかって、私は別の手段に移った。オカルト系の掲示板で質問するのだ。手始めに過去ログを漁ってみたが、缶詰に関する都市伝説は見当たらない。成熟したネット社会、ネットにない情報は存在しない――間違っているとはわかっていても、そんな感覚はたしかにある。だけど、拾いやすい情報ばかりが肥りに肥って、本当に手に入れたい情報が埋もれている。情報へ触れる皮膚のようなものがあるとして、それは広がる一方で、鈍くなってしまったんじゃないかな。
そんなわけで、見つけにくい情報は自分から掴みにいかなくちゃならない。だから質問、っていうのはあまりに他力本願だけど。
ときおり更新ボタンを押しながらレスがつくのを待っていると、携帯が着信した。水村からだ。
「なに?」
「あのさ、俺いろいろ調べてみたんだけど、硝酸と塩酸を混ぜてつくる『王水』とかいう液体で、金属を溶かせるらしいぞ。化学のことよくわかんないけど、学校に材料あるんじゃないか?」
調べるという回路が私と似通っていて若干不快だが、彼もずいぶん缶詰にご執心らしい。
「そんな開け方して、中身まで溶けちゃったらどうすんの」
「あっ、うーん。じゃあ最終手段かな、王水は」
「まあ、ありがとう」
「瑞樹は、何か手ごたえあった?」
「……手ごたえも何も、捨てちゃったし」
「はぁ?」
「なんか気味の悪い人に絡まれたの。詳しくは明日話すよ」
「なんだそりゃ、やっぱりいわくつきの品だったのか」
捨てようと思っても捨てられない缶詰。でも私はあっさり手放した。
「……そんなたいそうなもんじゃないと思うけど」
「なんか煮え切らない態度だなあ」
「はいはいすみません。じゃあ切るよ。おやすみ」
「もっと話したいなどと女々しいことは言わんぞ、俺は」
「そういうフリじゃないから」
「はい」
王水、か。なになに、金でも溶かす凄い液体。かつては錬金術師にも弄ばれたのか。しかしそれでもあの缶詰が溶けるイメージが湧かない。
私は先ほど質問した掲示板に再アクセスした。くだらないレスばかりが並んでいる。「この缶詰かた~い…開けらないよぉ……」みたいなニュアンスで受け取ってる阿呆は皆くたばってしまえ。柔道部にも手伝わせたと書いてあるだろうが、ああもう。
現物があるなら写真をアップしろという指摘が多い。捨てる前に写真くらい撮っておけばよかったと、少し後悔した。でももう捨てたんだ、有力な情報がなければ、忘れるのが賢明だろう。
気づけばもう深夜だ。家族はすでに寝静まっている。私は携帯をベッドに放り投げて、衣服も脱ぎ棄てて、風呂場まで全裸で闊歩する。軽くシャワーを浴びると、微妙なもやもやが晴れてすっきりした気分になった。
自室に戻り、気の抜けた下着を穿きながら、姿見に目を遣る。そうだ私は女子高生じゃないか。缶詰なんかにこだわってる場合じゃない。頑張らなきゃいけないことは、他にもたくさんある。
ほど良い徒労感と解放感に抱かれながら、私は眠りに落ちた。