(教皇の大罪)
彼は、教皇の青いローブの左のたもとから、右手を出す。痩せて筋張った腕だった。筋肉も衰えているようで、動作も緩慢であった。
彼が右手に握る物。それは、窓から差し込む外光を受けて煌めく。
「アナタ、何を……」
彼の右手に握られていたのは、青い宝石が柄に飾られた小ぶりなダガーナイフであった。
教皇の右手は震えている。齢百五十歳を超える彼には、護身用の『大神官ナイフ』は重すぎるのだ。
『大神官ナイフ』は、代代の教皇に受け継がれている神聖なるナイフである。
アナスタシアは驚いて、彼から体を離す。
彼の発する猛烈な殺意に、体を固くしまっていた。刃先が彼女を向いていたからだ。
「ふふ、手の震えが収まらないよ。百五十二年生きたワシも、いささか、き、緊張をしているのだな」
教皇は、彼女の方向に顔を上げて見せた。最初に見た時よりもやつれ、青白い顔はより一層不健康な濁った青色の印象を与えていた。
そうして光の消えた緑の瞳は、果ての見えない深淵へと続く、漆黒に変化していた。
闇の感情が、彼を支配していると感じ取ったアナスタシア。
聖なる教皇の所業は、悪に充ち満ちていた。
「抵抗しても無駄ですよ、教皇さま。ワタシは、瞬時にアナタを拘束する。そうして、ティマイオス国会の作る弾劾裁判所で証言をしてもらいます。外の世界への協力者は、アナタだけでは無いでしょう。その全てを、告白して頂きたいのです。その時には、臨時王やアナタの娘さんが訴追されることになる。そうして、全ての真実が白日の下に晒される」
「フッ、真実とな――」
アナスタシアの言葉を聞き、彼は口の端を少し上げて力のない微笑みを浮かべた。
彼の右手がダラン――垂れ下がる。
大きく伸びきったその腕。彼女はナイフを取り上げようとして、一歩踏み出した。
「――全ては、闇の中だ。今行くよ、ダイアナ」
彼は手に持ったナイフを、逆手に持ち替える。そうして、頭の上に大きく振りかぶっていた。
「教皇さま、何を!」
アナスタシアは一瞬躊躇した。それが不味かった。ただちに拘束魔法を繰り出していれば、結果は違っていた。
教皇さま――彼女は彼を、親愛を込めてこう呼んでいた。
少しの間の二人の会話だったが、友好的な関係を築けたと思っていたのだった。
――それが、壊れる。
「う、ううう……」
教皇の胸部の真ん中、みぞおちに付き立つ『大神官ナイフ』の柄。
飾りの青い宝石。それに絡みつくような金色の二匹のヘビの彫刻。
教皇の間に降り注ぐ太陽光。それを受けて、装飾がキラキラと光っている。
――ドサリ。
教皇は、床にスローモーションのように仰向けに倒れていく。彼がゆっくりと両目を閉じると、口の端から大量の血液が流れ出した。
そうして胸部の傷口から溢れた血が、白い床の上に赤い溜まりを作る。
「教皇さま、何を! 自殺は、アナタたちの宗教では、禁じられているはず!」
アナスタシアは教皇の横に駆け寄り、顔面蒼白となる。
床の血池は段段と大きくなっていく。目の前の小さな老人から、みるみると精気が奪われていく。
教皇の青年の容貌は消え、皺だらけの顔になっていた。
(な、何をすればイイ)
キョロキョロと眼を動かして、部屋の内部を見る。止血に仕えそうな道具は皆無だった。
制服のスカーフを右手で掴むが、こんな小さくて薄い布でどうするのだ――彼女は首を振る。
頭から流れる汗が、周囲に飛び散っていた。
「そ、そうだ! アタシも、治癒魔法を使えるようになっていた!」
その事実に気が付くまでに、幾分かの時間を浪費していた。
学業優秀な彼女だが、こういった場面では人生経験の未熟さが露呈する。
母は立派だった――危機に際しても、的確な判断をし続けていた母親のアレクサンドラを尊敬する。
自分は、その足元にも達していないのだ――痛感する。
床に両膝を付き、両手をかざす。『大魔導師』のレベル99となったアナスタシアも、強力な治癒魔法をマスターしていた。
やっと、その行為まで辿り着くことが出来た。
彼女の額からは、大量の汗が流れ出す。
ゴクリ。
喉の渇きを覚える。
「ハハハ……これは、自殺ではないよ。あ、アレクサンドラの娘よ。これでオマエは、教皇殺しの汚名を着せられる事になる。こうしてキミは、永遠に『女王』には……ましてや『皇帝』など、なれるはずもない……」
教皇は力無く言った。
ゆっくりとしゃべる度に、彼の口から血が吐き出される。
「待って! ナイフを抜く。そうして、治癒魔法を使えばアナタを瞬時に回復できる。その後にアナタを拘束します!」
「パトリシアすまない……ワシは悪い父親だった。マリーよ、これでオマエが女王さまだ。そして……ダイアナ……ああ」
「何て事!」
アナスタシアの悲痛な声。
それを無視して、教皇チャールズ十三世は、ゆっくりと言って満足げな微笑みを浮かべていた。
聖職者にはあるまじき顔。まるで、凶悪な殺人者の顔。
「し、死なせないわよ! 死なせてやるモンですかぁ!!」
彼女は叫び、教皇の胸のナイフに手をやった。彼の心臓近くの太い血管を傷つけている凶器を抜き取って、治癒魔法を使えば良いだけだ。
――その時だった。
「お父さま、何事ですか? 護衛の兵士たちが全て眠らせられている――これは、緊急をようする異常事態の発生です!」
教皇の間に響くのは、パトリシア・アレン枢機卿の声であった。澄んだ、良く通る音であった。
彼女には『幻影の霧』の首飾りの効果の及ぶ時間は少なかったようだ。日頃から欲望に満ちた生活をしているパトリシアには、無駄な効果のようであった。
ペタペタ。
素足のまま、大理石製の階段を昇る彼女。踊り場に眠る近衛兵団の部下たちを、蹴飛ばしてどかした所だった。
パトリシアは、素肌の上に短い丈の青いローブをまとった姿である。
細くて長くてスタイルの良い足。子供のような身長ではあるが、そこが大人の青色人の特徴であった。決して幼児体型ではない。
彼女は階段を昇りきり、教皇の間に出る。
「あ!」
アナスタシアとパトリシア――二人の視線が交差した。
「お、おのれ暴漢! 父に何を!」
ティマイオス国教のナンバー2である枢機卿の切れ長の目が、大きく見開かれる。
「こ、これは……」
アナスタシアは固まる。その後、瞬時に転移魔法で逃走すれば良かったと、後悔する。
しかし、全てが遅かった。
丁度、教皇チャールズ十三世の胸部に突き立った『大神官ナイフ』を抜いた所であった。
しかし、パトリシアの目には、アナスタシアが教皇にナイフを突き刺した姿に見えるのだった。
「サイモン!」
パトリシアは叫ぶ。
「何でしょうか、お嬢さま」
瞬時にマリーの執事でもあるサイモン・ペイリーが、彼女の背後に出現した。全く持って、謎の多い執事の彼だった。音もなく現れたのだった。
「賊を拘束しなさい!」
パトリシアの右手が伸び、しなやかで長い人差し指が、アナスタシアを指し示す。
「ち、違う! これは!」
そう言って自分の右手を見る。場違いに豪華な『大神官ナイフ』の両刃の刃先からは、教皇の血が滴り落ちていた。
(誰が見ても、殺人の現行犯よね)
アナスタシアは、逃亡を決心する。
「て――」
転移魔法と叫ぼうとして、声が出なかった。
「時間凍結!」
彼女の背後から声がしたと思ったら、意識が無くなっていた。
ゴチン!
そのままアナスタシアの体は床に倒れ込む。
大きな氷が落ちたような音が、教皇の間に響いていた。
◆◇◆