(プロローグ・王宮の危機)
――早朝のティマイオス王宮に、鐘の音が響く。
一時間ごとにカランと鳴る知らせの鐘ではなく、大音響で鳴り続けていた。
女王の戴冠式の時も、結婚の儀の時も、第一子の生誕の時も、その音色は歓喜に溢れており、このような必死さはなかった。
天が落ちるか!
地が裂けるか!
緊急事態の発生を告げているのは確かだった。
国家存亡の危機――王宮で働き暮らす全ての人々は、寝ぼけ眼をこすりながらも確信し、それぞれの持ち場に急いでいた。
王都の中心部に位置している王宮。
空から見ると、五角形の城壁に囲まれている城塞だ。その三面に接して大きな運河が流れている。深い堀割は城塞を守る壕となっている。
王宮の中央には六階建ての四角いニコラエ宮殿がある。国の政治の中枢機関である宮殿。その横、大きな丸天井を持つ、ソフィア大聖堂の軒下をねぐらにしていた小鳥たちは驚き、いっせいに羽ばたいて逃げていった。
朝もやに煙る王宮。目にも鮮やかな緑色の芝生が、短く刈り込まれている広い中庭。そこに面した宮殿の一室の大窓が開けられる。
「何事ですか!」
女王アレクサンドラ・ニコラエヴァは、夫と眠る寝台を抜け出し、絹製のガウンを身にまとう。下着は下半身を覆う小さなショーツだけだ。薄いシルクガウンからは真っ白な陶器のような肌が透けて見えている。
金髪碧眼の理知的な顔立ちの女王は、窓から身を乗り出して外の様子を探っていた。
左のアゴの下にホクロのある女王。普段はメイクで隠しているが、そんな時間が無かった事が分かる。
「誤報だよ、誤報。この前もあったじゃないか、『魔法カラス』がうっかりと魔法結界に触れてしまったんだよ。魔法、魔法で、がんじがらめにされているこの世界への警鐘だ。ふぅ……」
パジャマ姿の夫のニコルはそう言って、天蓋付きベッドの羽毛枕に顔をうずめた。ナイトキャップからのぞく金色の髪の毛は、軽くウェーブをしている。
『魔法カラス』とは魔力を有した三本足のカラスの事。凶事を知らせるという、不吉で禍々しい存在だ。普段、人の多い場所には決して現れないが、最近は王宮近くでも目撃例が相次いでいるという。
人間と動物とモンスターたちが、同時に存在する世界。それが、この国だ。
「そうだとよろしいですわね、ニコル公。でも、国と国民を守る女王は、わずかな可能性でもあれば、全力でそれに対処せねばなりません」
ベッドにうつぶせの夫に向けて、知的で意志の強い、金色の太い右眉を上げてみせる。
ニコル公は、この国の王様の地位にはない。女王アレクサンドラと結婚し、ニコラエヴァ家に婿養子に入っていた。今も、四大貴族のハノーヴァー家の公爵の身分のままだ。
その為、ニコル公は国家の政治には関与していない。
アレクサンドラは、国家の――いや、大陸『ティマイオス』全土を治める女王のつとめとして、危機の場合には最善を尽くさなくてはならない――常に自分に言い聞かせていた。
その危機が、今なのだ。
彼女はガウンの上に、女王専用の絢爛豪華な赤いローブを羽織ってニコラエ宮殿の執務室に向かう。赤いローブに小さな王冠。これが、女王としての正式な服装だ。
執務室は、宮殿内の女王謁見の間の階下にある。
謁見の間の隣が、女王の寝室だ。先ほど窓を開いたのが、この夫婦の寝室だった。
女王と家族が年に一回、数万の国民と触れ合う中庭。そこに面した地上五階の部屋。
夫のニコル公も妻にならい、細身のストライプスーツの上下に着替えていた。赤い蝶ネクタイの曲がりを、廊下の姿見の前で直していた。
「この、うるさい鐘の音を止めさせなさい!」
階段を降りると、執務室に向かう廊下があった。広くて長くて天井の高い廊下。城を警護する兵士たちが、険しい表情で走り回っている。その間、鐘は鳴り続けていた。
女王が命令すると、直ぐに実行される。
早朝――午前五時二十五分の王宮に、やっと静寂が訪れる。
「アレクサンドラ女王陛下。王宮近くの運河に、『黒龍』が侵入したとの報告が!」
鈍色に光る鎧を着込んだ大柄な戦士が、状況を告げる。鎧の胸には炎の紋章が描かれていた。
戦士が体を動かす度に、鎧がカチャカチャと音を立てる。
執務室の背もたれの高い椅子に、ゆっくりと腰掛けるアレクサンドラ女王。長くて美しい足を組む。膝まである丈の金糸銀糸に飾られた赤いローブの乱れを直す。
その前にかしづいたのは、王宮の近衛警護隊の隊長である、アンドレ・ブルゴーだった。
『黒龍』とは170メータルの長さと13メータルの幅がある、海中の巨大モンスターだ。海上から見ると黒一色の恐るべき姿をしている。だが、目撃者は少なく、謎の多い未知のモンスターである。
『黒龍』は、三年前に海洋都市『エナリオス』を一晩で滅ぼした、強力で凶暴な怪物なのだ。
(※注 1メータル≒1メートル)
「あの『黒龍』が、ですか……。その侵入場所はどこなのです? 大戦士アンドレ・ブルゴー」
女王は立ち上がり、ローブを持ち上げている大きな胸の前に、右手のひらをかざした。そして、短くハッキリと言う。
「ステイタスカード、起動!」
女王の顔前に、少し長めの長方形の、茶色い縁取りのカードが現れた。カード全体が青白い光りを放ち、それを右手でつかむ。
カードの裏には、ニコラエヴァ家の紋章が描かれている。
紋章は、女王の謁見の間に大きく掲げられた旗にも刺繍としてほどこしてある。
二匹の龍が向き合う、ニコラエヴァ王家の家紋だ。
右が青色の水竜。左が赤色の火竜である。二匹が丸い大地を掴み支えている。
紋章が浮かび、白く明滅するカード。
そのステイタスカードには、カード所有者の名前に性別、職業やレベル、所有している武器や防具のアイテム名などが記されている。
「ハッ! 王宮中心部より1キロメータルの近距離です。運河の物理防護網が破られていました。魔法結界も、中和魔法で突破されました」
ブルゴー近衛警護隊長の、カブトからむき出しになっている赤褐色の肌に、こめかみからあごにかけて大粒の汗が伝う。
「そんな近距離に? 城壁の直ぐ近くではありませんか。物理障壁、魔法障壁の二重の結界も、突破されたのですか?」
「ハイ、報告を受けたときには、王都の中心部近くにまで『黒龍』の進入を許してしまいました。警護隊の、まことに悔やまれる失態です」
深く頭を垂れるブルゴー隊長。
運河は50メータルの幅と30メータルの深さがある。所々の水門が、往来する船の関所となっているが、水中からの侵入は想定されてなかった。
水中では、鋼鉄製の網を張ってはいるが、それを易々と突破した『黒龍』であった。
「今は、反省をしている暇などありません。その『黒龍』に対して、コチラ側から攻撃は行われているのですか?」
女王は、手に持ったステイタスカードを顔に近づける。肩に羽織った、豪華な王家の紋章の刺繍が入ったベルベットのローブが、足元に落ちる。
「防具、『エメレオン』起動! 装着!」
カードは激しく明滅後、白く強く発光する。
「イイエ、警護隊の主任魔法使いと賢者たちの防御魔法で押さえ込んでいるのが現状です。『黒龍』は運河に深く潜ったままで、物理攻撃も、攻撃魔法も届きません」
女王からは顔を背け、うつむけるブルゴー隊長だった。大量の汗が、毛足の深い赤絨毯の上に落ちていく。
白い光りと共に現れるのは、王家に伝わる伝説の防具『エメレオン』だった。女王はシルクガウンも脱ぎ捨てて、上半身裸になる。
四人の姫と一人の王子――五人の子供を産み、育てている女王。それでも若さと張りを失わずに、形の良い上向きのおっぱいが露わになっていた。
上等な白桃のような、穢れのない白さを保っている。
「大戦士アンドレ・ブルゴー、姫たちと王子を王宮の地下深くに避難させなさい。そこには『黒龍』の都市破壊攻撃も届かないはずです」
女王は、戦士に向けて優しく言った。ずっと険しく上がったままだった女王の眉が、少し下がり柔らかい表情になった。
家族を愛しているという、証拠だった。
その女王の豊満な身体に装着される防具『エメレオン』。白銀色の鎧であるが、女性の大切な部分はむき出しのまま……。
そう、女王陛下のおっぱいは丸見えで――その羞恥心を強大な魔力へと変換する、エッチな防具だった。
それを知る警護隊長は、アレクサンドラ女王陛下の姿を真っ直ぐには見られなかった。
頭を下げたまま、恐る恐る言葉を発する。
「しかしワタシは隊長として、王宮警護の指揮を続けなければ……」
「通信魔法によって、わたくしが直接指示します。あなたは、子供たちの待避を最優先させて下さい」
「陛下が指揮を……ですか?」
「そうです。海洋都市『エナリオス』滅亡の報告書を読みました。被害は地下80メータルまで及んでいます。今なお、草一本生えない廃墟となった『エナリオス』。幸い、王宮の地下構造物は120メータルの深さがあります。姫たちと王子が生き残れば、大陸国家『ティマイオス』に未来が残されます」
「ならば陛下、移動魔法で王宮全部の人々の避難を……」
顔を上げて進言するブルゴー隊長。目の前には、防具によって強調された女王のおっぱいが……その綺麗なピンク色の乳首に目が行ってしまった。
思わず顔をそらす隊長。見てしまった者には目が潰れてしまう神罰が与えられるかのように、強く目をつむる。
「防具『エメレオン』の、物理・魔法結界を最大にして張りました。半径800メータルの内の人々は、外部への移動は不可能になったのです。移動魔法と言っても、空に飛び上がって、その場所まで空中移動するだけですからね。今は王宮の防御を優先させます」
女王はウインクする。こういったお茶目な面も、国民からの人気と支持のある証拠だった。
「了解しました。姫さまたちと皇太子殿下は、私が命に替えてもお守りします」
ブルゴー隊長の強い意思と言葉。
彼は立ち上がり、四人の王女と王子の眠る三階の部屋へと大股で向かった。
「アンドレ、あなたはいつも頼もしいですね。では……『ブルカ、報告を!』」
大戦士の背中を見送り、アレクサンドラは王宮警護の主任魔法使い、大魔法使いのブルカ・マルカ男爵を通信魔法で呼び出す。
『女王陛下、今のところ黒龍に動きはありません。ですが、こちらも手を出せずに、こまねいている状況です』
女王の耳に、遠距離からの女性の声が直接聞こえる。通信魔法を駆使できる大魔法使い同士だけが使える能力だ。
ちなみに、女王アレクサンドラ・ニコラエヴァは大魔法使いのレベル90であった。到達可能レベルは98。大陸国家『ティマイオス』の魔法使いの中でも最高レベルにある。
到達可能なレベル98を目指し、今も研鑽中の身だった。
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