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踏み出す一歩 1

 例えば、私がお姉だったら。

 そしたら、しょっちゅう携帯に連絡が入ったり、家にいる暇がないほど友達と遊びに出かけるのかな。

 クラスの湯山さんみたいに授業中面白いこと言って、みんなを笑わせたりできるのかな。

 男子にこっそり呼びだされて、告白されたりだとか?

 逆に、お姉が私だったら。

 そしたら、体育の時間に二人一組のペアを決める時、先生に組む相手を探してもらったりするのかな。

 お昼休み、みんなの中で一人ぽつんと食べるのがイヤで、人気のない場所にそそくさと移動したりするのかな。

 そこに賑やかな先客がいて、その日は結局食べられなかったりだとか。

 そんなの、ありっこないに決まってる。ある日突然私とお姉の身体が入れ替わっても、お姉はお姉で私は私だ。きっとお姉はあっという間に友達をたくさん作って、みんなから好かれて、私のクラスにも違和感なく溶け込む。

 そして私の方は、せっかくお姉が作った交友関係をダメにしてしまうんだ。


「あんたってばほーんと辛気くさ」


 突然部屋に入ってくるなり、机に向かっている私の背中にお姉が言った。


「部活にも入らないで帰ってきてすぐ勉強、休みの日だってどこへも行かずに本を読んでるか勉強。ウチ、そんな門限厳しくないじゃん。学校帰りに寄り道は? せっかくの日曜日にどっか出てったりしないわけ?」

「うるさいなぁ」


 シャーペンを置き、振り向く。腰に手を当ててふんぞり返っているお姉にうんざりしながら言った。


「お姉に関係ないし、ほっといてよ。なんで勉強してて怒られなきゃなんないの? 私ってば超いい子じゃん。大学だって行きたいんだってば」

「はあ?」


 お姉が大袈裟に目を見開く。かなり重ね塗りしてるけれど、ナチュラルにしか見えないアイメイクだ。


「あんたもう行きたいとこ見つけたの?」

「まだだけど……」

「まさか授業についていけないとか?」

「そうでもないけど……」


 答えるたびに、私の目線はどんどん下がっていった。お姉が鼻で笑うふふんという声が斜め上から聞こえる。


「寄り道できるような友達もいないんだ?」

「い……!」


 ――るもの! と続けるために顔を上げて、見透かしたようなお姉の眼差しを捉えて声が詰まった。

 自分だけを好きでいてくれる彼氏、たくさんいる友達、お化粧も上手でオシャレ。そんなものが全部ひっくるめてお姉の自信になって、普段取る態度にも表れてる。

 綺麗事は置いといて、人って何かのメリットを得るために誰かといるんだと思う。家族だったら安らぎを。恋人同士だったらはちきれそうな甘さを。友達同士だったら楽しさを。

 モテる子や人気のある子は、特別な『人にあげられる何か』を持ってるんじゃないかな。

 単純に顔がカワイイカッコイイというだけじゃ足りないんだよね。+αの要素かなんか。おしゃべりが得意だったら最高、気遣いができるのもポイント高い。一言では説明できないオーラのようなものとか、何よりも、人が寄ってきても気後れしない性質だとか。

 誰かからアクションを貰ったら、その人が期待する通り、時にはそれ以上の反応を返してあげることが重要だ。この人といると、特別な時間を過ごすことができると思えるような。


 私のパパは、娘から見てもどえらいイケメンさんだ。幼稚園の頃から運動会なんかで他のお父さんたちを見て、うちのパパが誰よりカッコイイと自慢に思っていた。先生たちもパパを見るとキャアキャアいっていた。

 私のママは、子供のひいき目で見ても他を圧倒する美人さんだ。テレビで美人女優が出てきても、ママの方が綺麗だといつも思っていた。まあこれは、ナマの女優さんを見たことがないからだろうけど。

 素材がいいのだから、二人からの遺伝子を受け継いで生まれた私もそこそこ整った顔であると思う。うぬぼれじゃないけれど、必要以上に自分を卑下したくないからブサイクとはいわない。ナルシストではないから自分をかわいいともいわない。

 でも、元々持っているもので勝負できるのなんてせいぜい小学校までだ。容姿がそれほどでない子も髪型を工夫して、顔の手入れをして、見違えるようになってく。可愛い雰囲気を纏っていく。

 そんな努力が周りを引き寄せる。元が良いお姉は大成功例だ。


 私はあまり活発といえる性格をしてなくて、見事に乗り遅れた。ハッと気がついて辺りを見回した時には、今までの友達とは話が合わなくなっていた。おとなしめの子も、我が道を行く子たちも既にそれぞれでグループを作ってる。そして私にはそこへ入っていく度胸がない。

 誰にも何かのメリットを提供できないまま、中学生活は終わった。やることがなくて勉強ばかりしてたから、高校は制服が憧れだったレベルの高い所に入れた。ちなみにお姉は入れ代わりの卒業生だ。

 高校に入って心機一転頑張ろう! と思ってはいたものの、すっかり引っ込み思案になってしまった私は、友達の作り方が分からなくなってしまっていた。たまにしゃべりかけてくれる子はいるのに、上手く会話を続けられない。こっちから話しかけるなんて絶対無理。 こんなので友達なんて出来るはずがなかった。

 幸い学校全体が穏やかな気風で、イジメみたいなものはない。その点はほっとしてるんだけど。


「あんた地味すぎるんだって。――ま、私には関係ないんだけどねー」


 小振りのバッグをプラプラさせながら、お姉が言う。白いニットにミントのフレアースカート。お姉は色々な系統の服をたくさん持っている。今日みたいな清楚風も、カジュアルも、ドレス系も出るところは出てるほっそりしたスタイルで着こなす。

 無意識に自分の身体をペタペタ触って虚しくなった。

 私の私服はいつもジーンズに、アースカラーのシンプルなカットソーだ。伸びっぱなしの肩口を過ぎた髪は黒いゴムで一つに括っているだけで、スタイリング剤なんてほとんど付けたこともない。

 無難な格好しか選べない私には、雰囲気を変えるなんて冒険はできない。でもそういう性格なんだもの。いきなり自分を変えるなんて恥ずかしいよ。

 自分とお姉の違いを考えて、なんだかイライラしてきた。

 ドアに指を突きつけて八つ当たり気味に言った。


「関係ないならデートでもなんでもさっさと行って!」

「はいはい」


 おーコワ、と肩を竦めて笑いながらお姉がドアの外へ出る。閉める寸前に顔だけを出した。

 なんだか、いたずらっぽく笑ってる。


「愛莉、早く友達か彼氏作りなよ」

「大きなお世話!」


 意地悪ではない、年上の気軽な忠告みたいに言われたのが癪に障って、手近にあったぬいぐるみを投げつけてやった。お姉にヒットする寸前にドアが閉まる。ふわふわのパグ犬が跳ね返って転がった。

 お姉はヒトゴトだと思って簡単に言ってくれる。

 そんなの、一番欲しいと思ってるのは私だ。



 朝、いつも乗ってる電車にイケメンさんがいる。

 Tシャツにジーンズというほどカジュアルじゃないけれど、いつもラフな格好をしてる。でも時々スーツを着ているこの人の職業は、一体なんだろう?

 歳は私から見てお兄さんと呼ぶかおじさん領域に括ったらいいのか、微妙なところだ。

 ギュウギュウ詰めの電車内でもその人は際だって見えた。これぞ人を引き付けるオーラってやつなのかもしれない。駅のホームで立っている間もよく女の人の視線を浴びている。時折声をかけられたりもしてる。吊革につかまっている薬指を見ると銀色のリングが光っていて、結婚してるんだと分かった。これって逆ナンを防ぐ効果もあるんだろうな。

 自然に視線が吸い寄せられるし目の保養にもなるから毎日こっそりウォッチングしている内に、友達らしき人の存在に気付いた――というか仕事仲間なのかな。


 その人も服装はあまりカッチリしてなくて、たまにスーツを着ている。イケメンさんとは結構気の置けない間柄という感じだから同い年なのかな。そう思うものの、見た目は2、3歳くらい下っぽい。結婚してるせいなのか、イケメンさんには妙な落ち着きみたいなものがある。だからそう感じるのかも。

 同じ路線を使ってるとはいえ、仕事仲間さんはイケメンさんと待ち合わせて出勤してるわけじゃなさそうだった。二人が同じ車両なのに離れた場所で乗っているところを、何度も見てる。

 大人の男の人はあんまりベタベタ馴れ合わないものなのかもしれない。

 ある日いつも通り人混みと一緒に電車へ雪崩れ込んで、どうにか位置を確保してから、さてと辺りを見回した。

 反対側の扉にいた。イケメンさんだ。

 ポールを片手で掴んで誰かと談笑している。ただでさえカッコイイのに、笑顔だとお得感がついてくるような気がする。

 今日はいいことあるかもしれない、と隣に視線をずらすと、仕事仲間の人がいた。割と背の高いイケメンさんの目線辺りに頭頂がきている。その人も、笑って何かを答えてる。


 ドクンと心臓が鳴った。

 あれれ?

 冗談抜きで、大きな音が響いた。周りに聞こえたんじゃないかとキョロキョロ首を巡らせてしまった。もうすぐ夏が始まるし、電車内は人いきれでむんむんしてるしであてられちゃったのかな。顔だってやけに熱くて火照ってる。頬に当てた手が冷たくて気持ちいいなあ。

 あまり気にせず視線を戻した。

 イケメンさんの全開笑顔に対して、ちょっと抑えたような、堪えきれないような笑い方だ。

 なんの話してるのかな? と頭の片隅が取り繕うように適当な疑問を作った。

 けれど他の大部分、きっと身体の細胞隅々までもがたった一つの、まぶたに焼きついてしまった映像に支配されていた。

 顔の造作は隣のイケメンさんの方が優れてる。大幅に、圧倒的に。身長だって負けてるじゃん。そうそう、暴走せずに冷静で客観的に考えなきゃね。


 そうやって否定的要素を見つけていっても、でも、と心の声が強く返ってくるのだ。

 充分背は高いと思う――少なくとも身長160センチの私よりは遙かに。

 細身だけどナヨっちい身体ってわけじゃないし――うん、私隆々とかガッチリ系ってあんま好きな方じゃない。

 しゃべってる唇の形もすごく整ってる。服装だってさりげにおしゃれっぽく見える。わざわざ時計でアクセントつけてる所とか。普通は携帯で時間分かるもんね。

 どうだろどうだろ。隣の人ほどじゃないけど、充分イケメンの部類に入るんじゃないのかな。それどころか、目元の印象なんてこっちの人のが断然強いんじゃないのかな。


 名前も知らない仕事仲間さんを食い入るように見つめていると、あっという間に電車は降りる駅に着いてしまった。名残惜しくふり返りふり返り、学校へ向かった。授業中も、あの笑顔を思い出してぽけっとしていた。ノートはなんとか取れたからテスト対策は大丈夫だ。


 その日から、私の目はイケメンさんそっちのけで仕事仲間さんの方を探した。調子がいいもので、あれほど目立ってると思っていたイケメンさんは私の視界に存在しなくなった。仕事仲間さんの目線をふと辿ると、いつの間にか隣にイケメンさんがいたという具合だ。

 駅に着いた瞬間から仕事仲間さんを見つけられたらもう言うことなし。その日は一日絶好調に気分がいい。垣間見る何気ない仕草の一つ一つがツボにはまって、全部好きだと再確認していた。学校でひとりぼっちで食べるお弁当もなんのその。

 逆に、姿が見られない日は最悪だ。心象風景をブルー一色に染めて沈んでいた。

 すごいな。今までは、なんとも思ってなかった人なのに。チカンから助けてもらったりだとか、落とし物を拾ってもらったりだとかそんな特別なキッカケがなくても、遠くから見る笑顔一つで恋って落ちちゃえるんだ。



 私の学校は進学校だけあって、月イチで土曜日に模試がある。休みの日にわざわざ制服を着て学校へ行くなんて面倒ではあるんだけれど、やることもない私は特に不満を感じてなかった。

 夕方には試験も終わった。書店に寄って参考書を買ってから、帰りの電車に乗ってホームに降りた。

 それほど混雑してない人波に従って歩いていく。友達同士らしい楽しそうな三人グループを眺めて、羨ましいなとか鬱なことを考えながら。

 階段の降り口手前で横を歩く人をなんの気なしにチラリと見上げ、あ、と声を出してしまった。

 小さな声だったのに届いてしまったみたいだ、隣の人が私に顔を向ける。


「あ」


 近くで見ても粗探しの難しい顔が、ちょっと驚いたような表情で言った。


「いつも三浦君見てる子」


 お声も素晴らしいんですね、イケメンさん。 

 とか余裕ぶっこいて逃避してる場合じゃない。

 思いもかけない事態に私は目一杯動転した。どれほどかというと、頭の中をお神輿担いだはっぴ姿の人が、そいやそいやと走り回ってるイメージが駆け巡ったくらいだ。


「あ、あの」


 鞄を握る手の平に汗をかき、しどろもどろに私は言った。


「その、三浦さんてもしかして」

「うん」


 イケメンさんが少し屈んで、私に向かって愉快そうに笑いかける。


「オジョーサンが一心不乱にアツーイ視線を送ってる彼の名前」


 うわーー!! 恥! 消えたい! 今すぐ床のコンクリにドリルで穴あけて埋まってしまいたい!

 目の前の顔を直視できなくて、私は視線をバシャバシャと泳がせまくっていた。今日のイケメンさんはボタンダウンのシャツにチノパンという、いつも通りカッチリしすぎない格好だ。


「なんで! 私コッソリ! 気付かれないようにって!」

「あれだけガン見しといてこっそりはないでしょーよ。いくらなんでも」


 あああ……。私の中では、好きな人を遠くから控え目に見つめる可愛い高校生の図だったのに。これじゃ、物陰から気付け気付けと怨念を撒き散らす怖い女だ。

 理想と現実のギャップに打ちのめされてしょげ返る私を憐れんでくれたのか、「ああ、けど――」とイケメンさんが声をかけてくれた。この場合、逆接の続きは私に都合がいい台詞のはず。


「三浦君は分かってないと思うよ。彼、結構鈍いから」

「本当ですか!?」

「ほーんとほんと。――ただねえ」


 頷いて保証してくれていたイケメンさんが私の正面から僅かに顔をずらし、チロリという感じで視線をくれる。こういうのを流し目っていうのかな。私がもうちょっと大人になったら色気とか感じるのかな?


「そこで安心してるようじゃどうかと思うけど、オニーサンとしては」


 なんとなく、『オニーサン』という部分を強調されたような気がする。こんな顔がいい人でも高校生からの呼ばれ方とか気になるのかな、と余計なことを考えながら訊いた。


「どういう、意味ですか?」

「さっき言った通り、三浦君てもう激ニブよ? つか、自分が興味ある物事にしか感心示さないよ? そっちからアピールしない限りオジョーサン、一生三浦君に存在認識してもらえないよ」


 ここでイケメンオニーサンは含むところがあるみたいに、ニヤリという擬音が聞こえそうな感じで唇の端を持ち上げた。イジメッ子な印象たっぷりの笑い方だ。それなのに、むしろもっと他の表情を見たいと思わせてくれるところがなんというか侮れない。


「それに俺もそうだけど、三浦君て職種上残業が多いのね。ちなみに俺は休日出勤でその帰り。三浦君はまだ残って頑張ってる。ただその分、手当で給料もそれなりに貰ってるわけだ。こんなこと言ってもまだ高校生のオジョーサンにはピンとこないかな。顔も悪くない、そこそこの給料を持ち帰る、そういう相手は綺麗どころのオネーサマ方が目を光らせて狙ってるのさ。今は彼女もいないけど、ぼやぼやしてる内に多分すぐかっ攫われちまうよ?」


 説明されて初めて気がついた。そっか。私には私の生活があるように、当然三浦さんにも三浦さんを取り巻く日常ってのがある。その場所にいるのはお姉よりもまだ大人で、外見や接し方も三浦さんの年齢にずっと相応しい女の人たちのはず。

 そんなオネーサマ方を押しのけて割り込めと?

 私はぷるぷると小刻みに首を振った。


「ムリ、ムリですそんな、私まだ子供だし」

「確かに25の三浦君とは大分離れてるとは思うけど。ちなみに歳いくつ?」


 私が学年と歳をぼそぼそ告げると、イケメンさんは複雑そうに腕を組んでうーんと唸った。――ですよねー。


「それに、好きだって知られること自体、やっぱり恥ずかしいです」


 目を伏せ気味にして答えた。口を衝くマイナス思考な言葉が、視線だけじゃなくて私自身を引き摺り落とすことは分かってるんだけど。


「私、結構引っ込み思案な性格で……告白なんて考えたこともないですし……」

「まあ、恋に恋してるってやつで、見てるだけで満足っつうならそれでもいいけど。ああ、安心していいよ。三浦君には言わないから」


 一応コレ、と言ってイケメンさんはパンツのサイフから名刺を取りだし、胸ポケットからペンを出して何かを書き込んだ。ハイと渡された名刺の裏には、携帯番号とアドレスが書かれてある。しげしげ眺めていると「それ、私用のヤツだから」と言い添えてくれた。


「高橋……真司さん?」

「そ、俺の名前。せっかくだから、オジョーサンの名前も教えてもらえると嬉しいかな」

「あ、すみません。私、坂上愛莉と言います」

「了解。坂上さんね。じゃあ、可憐な女子高生の名前をゲットさせてくれたお礼を一つ。三浦君の下の名前は奏太と言います」

「三浦、奏太さん……」


 小さく、口の中だけで名前を呼んでみた。誰にも秘密な宝物の存在を、耳から全身に知らせてあげてるような誇らしげな気分だった。途端に心臓がバクバク騒ぎだし、頭がのぼせたようになる。

 ただの、名前なのに。

 好きな人の名前って、こんなにもぶっちぎりに心の中を爆走してしまうんだ。好き放題、縦横無尽に駆け抜ける。今の瞬間から三浦奏太という名前は、星よりも高い格別の位置で、燦然と輝くようになった。


「かーわい」


 高橋さんが目を細めて揶揄する。――そういえばこの人いたんだっけ。


「俺の名前口にした時と反応が全然ちがう。ここまで区別付けられると文句言う気も起きないな」


 改めて赤面する思いだった。そんなあからさまだったかな。私は顔を俯けて、鞄に付けてあるヒヨコのキーホルダーに視線を集中させた。雑貨屋さんでなんとなく目に入って買ったもので、今ではすっかり愛着が湧いてしまっている。モフモフの手触りがお気に入りなんだけど、目やクチバシが小さすぎてパッと見ピンクの毛玉でしかないんだよね。


「じゃ、気が向いたら連絡ちょうだい。また三浦君のこと色々教えたげるから。あ、仕事の時間もあるし、なるべくならメールの方がいいかな」

「あの」


 焦げ茶のヒモ革シューズが動きかけたので、急いで顔を上げて呼び止めた。


「どうして初対面の私にこんな親切にしてくれるんですか。携帯まで教えてくれるって」

「なんでってそりゃ――」


 あごを指でかき、ちょっと上を向いてから高橋さんがこっちを見る。


「男は若くてカワイイ子には優しくしてやりたいもんよ」


 ――この人絶対モテる。

 向けてくれた微笑を見て、不謹慎にもそう確信してしまった。生来の抜きん出たご面相だけじゃなくて、表情の作り方が秀逸すぎる。こちらの胸に重しを乗せないゆとりある面持ちが、普通なら寒すぎて鳥肌立ちそうな台詞にがっつりハマッてる。

 経験値高そうだなあ。こういうの慣れてるんだろうなあ。大人の人ってすごいなあ。

 三浦さんに魂奪われてなかったら、このまま高橋さんに憧れてたのかもしれない。や、でもそれだったらこうして話すこともなかったかな。

 じゃね、と手を挙げて立ち去る高橋さんが、階段を二段降りたところで振り向いた。


「あ、それから坂上さんは引っ込み思案てのとはまた違うと思うよ。ちゃんと俺相手に言いたいこと言えてるし。それにほんとに引っ込み思案な子は、好きな男をあんな堂々と凝視できないって」


 そうかなあ……

 全く同意できず、首を捻る私に手を振って、高橋さんは今度こそ階段の向こうに消えていった。



 部屋に帰りついてから制服を着替え、模試の問題と参考書を机に投げ出す。本当なら問題の復習をしたいところだけれど、今はそんな気になれない。

 私はもらった名刺を片手に、ドサリと仰向けでベッドに寝転んだ。西日が壁にレースカーテンの細かい模様を映し出している。この部屋はこれからの季節、家の中で夕方最も暑い場所になる。そして冬は一番寒い。そんなみそっかすな部屋でも、自分のテリトリーだから居心地いいと思えるんだよね。

 光の動きで網戸越しの窓から微風が入ってきているのを確認しながら、名刺に書かれてある印刷ではない数字と記号の羅列を眺めた。

 日常と非日常は境目も曖昧に、常に背中合わせで存在している。駅であった出来事は、私にとっては疑いようもなく非日常といえる出来事で。この名刺に至っては、未知の領域に踏み込むための切符と表現したっていいくらいだった。


「あの人のこと」


 ほとんど唇を動かさずに呟いてから、続きを胸の内で言葉にした。――色々教えてくれるって言ってた。

 すでに、名前だって教えてくれた。あの人こと、三浦……あ、うわだめだ。

 心の中でフルネームを思い浮かべようとして、咄嗟に架空の手でバラバラに散らしてしまった。なんでいきなり心拍数上がってんの。これどんだけ乙女思考?

 自慢じゃないけれど、恋なんて今までにも何度だって経験してきた。全部片思いだったけど――それはともかく。

 初恋は幼稚園の時だった。組で一番足が速い子で、幼心にも大好きだった。でもある日、ママに可愛いゴムでくくってもらった髪を引っ張られてぎゃあぎゃあ泣いて、次の日からはその子が世界で一番嫌いになった。


 小学生の時は休み時間、中庭に友達同士で集まって、私は誰が好きだとかわいわいきゃっきゃと教え合っていた。中学では一緒に騒げる友達もいなくなり、自分だけの一方通行恋愛をひっそり敢行していた。一人は三年間同じクラスだった目立つタイプの男子で、もう一人は逆にずっと別のクラスの男の子だった。

 クラスメートの方は二年の終わり頃に彼女が出来てしまい、まあそんなもんだよねと妙に納得して諦めた。もう一人の方は委員会が同じで、会うとわざわざ挨拶してくれるからなんとなく気になって目で追ってたんだけれど、結局なんの発展もないまま卒業式を迎えてそれっきりになった。


 私って自己完結型というか、見てるだけばっかだったんだなぁ……

 名刺を持ってる手をシーツにぱたりと下ろして、鼻から小さく息を吐いた。高橋さんが言っていた、恋に恋するってこういうことなのかな。

 一人で盛り上がって、どんな人なのかと色々想像して、外から終止符を打たれたらもういいやと放り投げる。


 これじゃまるで、気持ちの使い捨てだ。思い通りにいかなくなれば、用意してたゴミ箱へポイ。

 今はエコリサイクルの時代なのにね。ゴロンと寝返りを打ち、肘で身体を支える俯せ状態になって、枕の柄を見つめた。白地に紺色で葉っぱや茎が描かれてる、シンプルなやつだ。

 三浦さんへの気持ちも、このままでいったら使い捨てになっちゃうのかな。最終的にはただの憧れだったと片付けたりとか。

 高橋さんは協力すると言ってくれてるけれど、私から行動を起こさない限りはこれ以上何もしてくれないような気がする。そこまで一から十まで世話を焼いてくれるようなタイプじゃなさそう。

 私は枕に顔を突っ伏して、重ねた両手を心臓に当ててみた。腕が身体とベッドに挟み込まれる感触は、どことなく安心する。胸から伝わる音はさっきよりも随分と落ち着いていて、トクントクンとゆっくり打っている。


「――でも」


 強めに呟いてみた。

 今までとはなんか違うような気がする。今までの片思いが心の一部分をほんのり色付かせただけのものだとしたら、今回のは私という人間をまるごと染め直したかのような。誰か――そうだ、三浦さんに一から全て作り替えられてしまったんだ。

 だとしたら、色が変わった部分だけをむしり取って廃棄するなんて不可能だ。大体、下の名前を思い浮かべるだけでじたばた暴れたくなる恋なんて、そんなの初めてだもの。

 高橋さんって頼りになる味方を得たのも、何かの運命だとしか思えない。


「――って運命って!」


 私はまたもや鼓動を早くして、ベッドから跳ね起きた。

 実生活ではまず使わない言葉の響きに、何言ってんだろうと呆れながらもすっかり酔ってしまった。もうこれしかないとその気になった。

 ――連絡、してみようか。

 携帯に打ち込んだ番号・アドレスに間違いがないか名刺と何度も見比べて、震える親指で登録完了ボタンを押す。ほとんど家族の名前しか入ってない電話帳に、今日知り合ったばかりの人の名前が並ぶなんて今朝の時点では想像すらしなかった。

 そしていざ新規のメールを作成しようとしたところで――下の階から大きな声でごはんだと呼ばれた。ママだ。


 その声で、ハッと我に返ってしまった。

 まだ文字が打たれてないメール作成画面を見て、何浮かれてるんだろうと冷静になる。どれだけ高橋さんに援護してもらえたところで、あんな大人の男の人に私が相手してもらえるはずないじゃない。

 ――私、バカかも。

 自分を諫めるためにべちべち頬を叩きながら電源ボタンを押して、携帯を待受画面に戻した。机に置いた参考書に名刺と携帯を乗せる。

 自嘲気味な自分を追い出すべく、うーんと身体を伸ばしてから私は階下へ降りていった。


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