迫りくる一歩
「初めまして、坂上愛莉と言います。好きです、付き合ってください!」
朝、出勤途中にいきなり告白された。駅の構内で僕は改札に向かっていた。
目の前にはセーラー服を着た女の子が立っている。今はどうかは知らないが、僕が高校の頃はこの辺で一番可愛いと人気が高かった女子の制服だ。学生鞄にぶらさげられているふわふわしたピンクのマスコットが目立つ。
その学生鞄を行儀よく両手で持ち、顔全体を真っ赤に染め、潤んだ黒目がちの瞳で見上げてくる様は大層可憐で健気に映る。高1ってとこか?
「えーと」
視線を女子高生の頭の天辺からつま先へと順に降ろしていき、また顔の位置まで戻してから口を開いた。
「実年齢は22、3ぐらいだけど激しく童顔で常に年下に見られていて、電車でいつも一緒になる僕を前からいいな、とか思っていて告白しようと一大決心して、なんとか印象に残る演出をしようと昔着ていた制服を引っ張りだしてきて高校生コスプレしてきたとか?」
「違います。ナマ女子高生です。18です!」
「元気いいねー」
僕はなるべく表情を作らず、無愛想に見えるようにして言った。
「年下は嫌いじゃないけど、ロリコンじゃないんだ。僕は25。歳が離れすぎてるよね。というわけでゴメンナサイ」
じゃあ、と言い置いて彼女の反応も確かめずにまた歩きだした。ここで下手に罪悪感を見せてはいけない。
断言しておくが、僕は特に冷たい人間というわけじゃない。やんわり断ろうと優柔不断な態度を取るよりも、キッパリ言ってあげた方がよほど諦めがつきやすく、本人のためになるはずだ。
と、信じる道を突き進むように前をめざしていると、妙に周りの視線がうるさいことに気付いた。つうか痛い。突き刺さるように鋭い。
「なにあの男」「あの子カワイソー」「あんなカワイイ子に人間じゃないよな」などの本人に隠す気がまるでないヒソヒソ声まで届いてくる。
なんなんだよ一体!
後ろを振り向いてこけそうになった。
泣いている。子供から老人まで、どこの国のどんな立場の男でも女でもあらゆる全ての人間が間違いないと断言できるであろうほど、分かりやすく泣いている。
しゃがみ込んで脇に学生鞄を置いて、両手で顔を覆って離れた距離でも判別できるくらいにしゃくり上げている。
こめかみを、つー、と冷たい汗が一筋流れた。
怖いぞ最近の女子高生。奥ゆかしさとか恥じらいとかどこへ忘れてきた?
そもそもがこんな衆人環視の中で告白してくるとかないだろう。断られた時のいたたまれなさとか何割増しだ。
突っぱねられたからって大勢の中で泣き崩れることないだろう。そういうことはトイレの個室にでも入って人知れず、こっそり敢行して青春のアルバムに隠しとくもんだ。
ああくそ、お節介な見知らぬ女共が慰めながらこっちを睨んでやがる。これじゃ僕が非情な遊び人みたいじゃないか。心外な。一介の会社員なのに。
これもお前の作戦か、特攻女子高生め。ああ負けたよ。
コンチクショウと口の中で毒突いて、僕は踵を返した。
「ちょっとすみません、失礼します――ほら、ここじゃなんだから」
愛想笑いを貼りつけながら、険しい目つきを寄越してくる女共を散らす。
泣きじゃくる女子高生の腕を掴んで立たせ、鞄を取り上げて、僕はこそこそと壁の陰へ向かった。
今日は遅刻だ。
「ええと、坂上さんだっけ?」
「そんな、遠慮せずに愛莉って呼んでください」
うん、遠慮なんて全くこれっぽっちもしてないから。女子高生はパッと顔を上げると、今まで泣いていたのが嘘のようにすかさずそう宣った。
もしかして、今までの憐れな態度は演技か? でも目尻にはまだ涙が溜まっているし頬もぬれている。目薬か? それとも女は女優ってやつか?
「坂上さん」
僕は名字を強調して再び呼んだ。もう一度泣かれるかもしれないが、かまうものか。この女子高生は確信的に厄介な性格をしている。下手に情けをかけて懐かれでもしたら、この先面倒なことになりそうだ。
「せっかく勇気を出して告白してくれたのは本当に嬉しいんだけどね? いや、25にもなってこんな年下の女の子に好意を寄せてもらえるなんて――」
「好意を寄せるなんて表現じゃ生温いです! 愛しちゃってます! すぐにでもお嫁に行けます!」
「うん、もうちょっと声落とそうか。僕の言うこと最後まで聞いてね?」
「はい、すみません!」
「いや、だから音量小さく――まあとにかく。過剰なくらい好意を寄せてもらえるのはありがたいんだけど、残念ながら女子高生と付き合う気はないんだ。ぶっちゃけ僕の守備範囲は上下2~3歳ぐらい」
「どうしてですか? 一緒にいるとオジサンと女子高生で周りから援交に見られるとかって心配だからですか?」
「えんこ……ていうか僕、そこまでオヤジに見える?」
「いいえ! とっても若々しくてカッコイイです! 大人の魅力にくらくらきちゃいます!」
だからもうちょっと声落とそうよ……
僕は脱力を表すためと、チラチラとこちらを眺めながら通り過ぎていく多数の目を視界から消すために、手で顔を覆って深々と溜息を吐いた。駄目だ、会話がかみ合わない。
大体、どうしてこの僕がここまで熱烈に好かれなきゃならないんだろう? 会社でも出世コースに乗っているわけでもない、顔も悪いとはいわないが際だって良いわけでもない。さらには背の高さも平均ときている。
こちらからアピールしたわけでもないのに誰かを強烈に引き寄せる要素を持っているとは、お世辞にも思えない。
一方の女子高生はというと――顔を覆った指のすき間から改めて観察する。
この歳になると、好き嫌いは別にしても若いというただそれだけで女子高生は眩しくてかわいく目に映るものだ。が、オヤジ的私見を差し引いても器量よしな子だと思う。肌は綺麗で、大きな目には吸引力がある。彼女の学校は制服が可愛いだけでなく偏差値も高い。だから僕は行けなかったのだ……それはともかく。ただ、18にしてはやや幼い印象か。
一瞬、この女子高生と付き合っている自分を想像してみた。そして目眩がした。せいぜいが、仲良く買い物に行く兄妹の図しか浮かんでこない。スタイルは発展途上という感じで、全身を眺めてもそそられない。はっきりいってしまうと欲情しない。それどころかそういう邪な想いを抱くこと自体、犯罪のような気がしてくる。僕は父親か?
さっきは脊髄反射で即座に断ったが、今度は総合的に判断してはっきり決意した。
やはり、あり得ない。
さて、どうやって言い聞かせて学校へ追いやろうか。
「あの……」
考えを巡らせていると、今までとは打って変わった控え目な調子で声をかけられる。僕は顔から手を外した。
女子高生が、不安そうに僕を見上げている。
「もしかして、迷惑でしたか……?」
こちらが内心では狂喜乱舞しているとでも思っていたのかこの子は。
ひどく的外れな問いかけに面食らったものの、微笑を浮かべて「ちょっとね」と返答した。ちょっとどころじゃないけど、そこまで本音を晒すのはさすがに大人げない。
「そうですよね……」
女子高生が口元に手を当て俯いた。心細げな仕草に僅かだけ罪悪感が心を掠めるが、これで納得してもらえたという安堵感やら解放感の方が大きい。
女子高生がガバッと顔を上げた。
あれ、どうして君は疑問が氷解したかのような満面の笑みを湛えているのかな?
「こんな風にいきなり告白されたらビックリするのも無理ないですよね!」
それ違うから……!
声を抑えてほしいと思う余裕もなく、僕は心の中で泣きたくなった。
誰かこのポジティブ女子高生をなんとかしてくれ。自分が心の底からフラれているという可能性をどうして考えてくれない?
「じゃあ、今日は顔と名前を覚えていただけたってことでよしとします。愛してます、三浦奏太さん!」
周囲の目をいやというほど集める大きな声で何度目かの告白を残し、また明日! と手を振って、女子高生は軽やかな足取りで去っていった。
え、また明日もこの嫌がらせを受けるの?
僕は彼女が改札の向こうに消えるまで呆然と見送った。
――つうか、なんで君は僕の名前を知ってるんだ女子高生?
僕が勤めている会社は『北山情報管理システム』という。社名から想像がつく通り、企業や団体が運営に使うシステムを構築、提供することが主な業務内容となる。北山というのは社長の名前で、それだけを聞くとなんだかこぢんまりした会社を想像するとは思うが、これでも公共システムを担っていたりと中々規模は大きい。自分でも、よくこの会社に入れたものだと不思議に思う。ちなみに僕の部署はシステム1課。職種はSE兼プログラマだ。
と、この話にはあんまり関係ないだろうと思うものの一応僕のプロフィールとして説明しておく。
「よう色男」
職場の部屋に入り自分の机に近付いていくと、途中で行く手を遮られた。
同僚の高橋がキャスター付きの椅子ごと後ろへ下がって通路を塞ぎ、軽く手を挙げてくる。整った顔でスケベオヤジのようににやにや笑っていた。合コンで女共には決して見せない表情だ。
「あの女子高生とはどうなった? せっかく課長には欠勤だと報告してやったのに」
ホワイトボードを見ると、僕の名前の横には休みと書かれてあった。
「そんな余計なことするより助けてくれよ。見てたんなら」
「見てた見てた。いやぁ、三浦君の冷血っぷりには正直肝が冷えたね。知り合いだとは絶対思われたくなかったね。ホテルにでも行って優しーく慰めてやるのかと思ったのに」
「あんな子供に何しろって? 大体あそこまでキッパリ断ったのに、また明日も繰り返すつもりだよあの子」
「お、ガッツがあるねぇ」
高橋は背もたれをギシギシいわせ、組んだ足をぶらぶらさせながら感慨深く言った。
「若いっていいねぇ」
「勘弁してくれ」
僕は視線を遠くへさ迷わせてから言った。
「しばらくは電車を二本早めるようにするさ。いくらなんでも避けられてるってことが分かるだろ」
「二本……ね。かわいそうに。どうせ別れたばっかで彼女ナシなんだから、気が済むまで付き合ってあげりゃいいのに」
「子供に? 冗談。デートで晩メシにファミレス行って、しらふで七時には家に送り届けろとでも?」
「うわっ、三浦君の高校生観がよく分かるな。いつの時代だよ! って突っ込まれるぞ。今時どころか俺らの時代でもなかっただろう、門限七時なんて」
「五つ下の妹はそうだった。とりあえず、妹よりも年下の子なんてゴメンだね。ただでさえあれの我が儘に振り回されてきたってのに。ましてやまだ高校生って保護者か」
「成長期を舐めちゃいけないな、三浦君。奴らは一週間もあればあちこちデカくなったりするんだぞ。精神面なんて余計に顕著だ。きっかけ次第で大きく変わるもんだって」
「成長期? まあ18も成長期といえば成長期だろうけど」
「え、18?」と高橋が目を丸くする。
何に今さら驚いているんだこいつは。実際に歳を聞いてやっと年齢差の不味さに気付いたのか、遅いだろ。
「あ、ああそっか、そういうことか」
高橋は首を傾げて一瞬考える素振りをした後、合点がいったように頷いた。
そしてまた無責任なことを言いだす。
「まあ可愛い子だったからいいじゃない。いっそのこと三浦君好みに育ててみたら?」
「その発想、オヤジ以外の何者でもないですよ、高橋主任。馬鹿なこと言ってないで通してくれ。遅刻届書くからハンコくれ」
資料の入った重い鞄をズッシリと頭に乗せてやりながら言うと、高橋はキャスターをカラコロいわせながらおとなしく机に戻った。
――と思ったら。
「遅刻理由はなんて書く? 痴情のもつれ?」
顔にからかいの表情をありありと浮かべていそうな声音で訊いてくる。
「身内の用事!」
すでに通り過ぎていた僕は振り向かないまま、声を抑えて噛み付くように言った。「三浦君の嘘つき!」と野太く高い、気持ち悪い声が返ってきた。主任の承認がないと各種届は課長に提出できない。素直に押さなかったらハンコを奪い取ってやろう。
高橋は大学時代にカナダへ留学していたため一年休学していて、同僚ではあるが一つ年上だった。
態度はふざけているものの仕事に関しては真面目で、親しみやすい性格も相まって顧客から気に入られている。同期の中では一番出世に近い。実は既婚者で、一昨年に授かり婚をした。家に帰るとオムツ替えから寝かしつけまでこなすらしい。顔がいいので時々合コンに駆り出されるが、浮気もせずに一次会で帰る。意外なことに奥さん公認で、信用されているらしい。
何はともあれ、しばらくは早起きしなくちゃな。寝不足になりそうだ。
大きく息を吐き、僕は遅刻届を取って自分の席に着いた。
「おはようございます、奏太さん!」
「……なんで坂上さん、君がいるのかな?」
「うわ、名前覚えててくれたんですね、すっごい、感激。でも愛莉って呼んでくれた方がもっと嬉しいです!」
僕の返事に一通りの感想を述べた後、女子高生は問いかけに答えた。
「もちろん、私もこの駅を利用するからです。路線だって同じなんですよ。私の方が三つ早く降りますけど」
「坂上さん?」
「はい、なんでしょう?」
女子高生が可愛く小首を傾げる。
昨日決意した通り、僕は三十分ほど早起きをして、二本どころか三本前の電車でも乗れる余裕を持って駅に辿り着いた。そうすると、昨日と同じく改札の手前でどこからともなく女子高生が現れて、またもや大きな声で元気よく挨拶してきたというわけだ。
少し早い時間帯なのに昨日の騒動を知っている通行人もいるようで、「お、あの二人」「今日もやってる」とか聞こえてくる。好きでこんなやりとりをしてるわけじゃない、と誰にともなく喚き散らしたくなった。
「坂上さんはいつもこれぐらいの時間に登校してるの?」
荒れて高ぶろうとする心をなんとか落ち着かせ、近所の女の子に接する優しいお兄さんという設定を無理矢理自分に刷り込ませて言った。
「僕は今日、偶然、たまたまこんな早い時間になっちゃったんだけど、昨日の方が奇遇だったのかな? それとも今日の出会いがイレギュラー?」
「いやです奏太さんったら、そんな冗談言って!」
女子高生がうふふと華やかに顔を綻ばせ、僕の胸をとんと突いてきた。軽い力だったにも関わらず、僕は物理的な要因だけでなくよろめいた。
「素敵な奏太さんをいつも見ていたからこそ、昨日ホラー映画をまっ暗な部屋で観賞するぐらいの勇気を出して告白したんじゃないですかー。あ、私そういう心霊系って昔からダメなんです。でも、奏太さんと一緒なら苦手なお化け屋敷も余裕で突撃できます。むしろここぞとばかりに抱きつく正当な理由が出来ますから、今度のデートはそこへ行っちゃいましょう!」
「いや、行かないしデートもしないし。それにホラー映画観賞を告白の勇気に例えるって変だから」
「そうですか?」
「普通、清水の舞台から飛び降りる、とかじゃない?」
「今時それ、使いますか?」
「オッサンで悪かったね……」
「問題ありません、それでも大好きですから!」
オッサンって部分はこの子にも認められているのか……! 否定されないことで微妙にショックを受けている僕を余所に、女子高生は輝かんばかりの表情で請け負った。
いや、そうじゃなくて。
「話がずれてる。じゃあ君は、普段は僕と同じく二十分以上遅い電車に乗ってるわけだ。どうして今日はこんなに早く?」
「そんなのもちろん」
女子高生はピンクのマスコットを付けた鞄を胸に抱きしめるという、急にしおらしい態度にチェンジして恥ずかしそうに言った。
「奏太さんに会いたいからに決まってるじゃないですかー」
「いや、ちょっと待とう」
僕はどう考えていいか分からず、頭を押さえて掻き乱された脳内を整理するよう務めた。
自分が対象であるという事実をそうだと認識するのは非情に面映ゆいものがあるとはいえ、好きな男を前にした十代女子として、女子高生の態度は間違っていない。こちらもつられて忘れ去ってしまった何かを思い出しそうで、なんだか甘酸っぱいような気分が湧き出しそうになる。
でもしかし、なんかおかしくないか? どっか違くねえ?
腕を組んで頭を捻り、駅の天井を仰いで床のゴミを眺めてを何度かくり返してやっと思い当たった。
「前提が、間違ってる」
「前提ですか?」と女子高生が不思議そうに瞬く。
「そうだ」
僕は女子高生を真剣な目で見据えた。
「どうして坂上さんは僕が今日早く来るって知ってたの? そもそも、なんで僕の名前を知ってる?」
いささかキツめの声を出して糾弾したつもりだった。
ところが何故か、斜め下にある双つの目はうっとりと僕を見つめ返すだけだった。
また何を考えているんだこの子は? 不審に思い、僕は眉をしかめて尋ねた。
「――何?」
女子高生は陶然と呟くように返事する。
「そんな凛々しい眼差しで射貫かれたら私、どうにかなっちゃいそう……」
「じゃあ僕はこれで。そろそろ電車が来てるだろうから」
「待ってください! 真面目に答えますから!」
さっさとこの場から立ち去ろうとすると、腕を抱かれて縋るように引き止められた。
胡乱げに見下ろす僕に、「いえ、さっきのも真面目ではあったんですけど」と引き戻すのに全力を使ったのか、息を乱しながら女子高生がなおも言い募る。
とりあえずは抱き込まれている腕を離してと言うと、「ごめんなさい!」と慌てた様子で女子高生は退いた。こういう反応は年相応で健全だ。ついでに付け加えると押しつけられていた膨らみはやはり成長過程にあり、僕の好みとしては物足りない――色々と顰蹙を買いそうなのでこれ以上は言及すまい。
何はともあれ段々おちょくられているような気分になってきた。女子高生の戯れ言は無視して僕は再び訊いた。
「で、どうして知ってたの?」
「私、実は占いが趣味で毎日奏太さんのことを占ってるんです。その結果に今日は奏太さんが電車を二本早めるって出てて。私、奏太さんのことなんでも知ってるんですよ?」
「やっぱもう行くわ」
「待って! 待ってくださいってば! ――おかしいなぁ。毎日占うほど想われてるってことで、健気だな、とかなんだかグッときたりしませんか? この子はそこまで僕のことを? とか一途さに胸打たれたりしないんですか?」
「それ感覚いっちゃってるから。むしろストーカーめいてる。まとわりつくような陰湿さを感じて、引くを通り越して怖い。この個人情報保護の時代に見知らぬ人間からいきなり自分のことをなんでも知ってるなんて言われたら、通報レベルだから」
「見知らぬ人間なんてそんな、冷たい!」
女子高生は一瞬悲劇に見舞われたように口元を手で覆った。が、次の瞬間には「――でも」と立ち直って晴れ晴れと笑っていた。この子の相手はとても疲れる。
「引かれるのも嫌われるのも、好きな人に警察まで連行されるのもトラウマになりそうでイヤです。だから内緒だって約束だったけど、情報ソースあっさりバラします。高橋さんに教えてもらったんです。奏太さんの名前もです」
「高橋!?」
思わぬ名前を聞いて、耳を疑った。
「高橋って、会社の?」
「やだなあ。駄目じゃないか愛莉ちゃん、二人だけの秘密だったのに」
突然割り込んできた声に身体全部が伸び上がった。驚いて背後をふり返ると、行き交う忙しない通行人を背景に話題の人物が立っていた。
高橋――!
僕は怒気を含んで同僚の名前を構内に轟かせようとした。ところがその荒声は、女子高生の可憐で花のような声に上手いことかいくぐられたようだった。
「高橋さん! いつも『今日の三浦さん情報』ありがとうございます」
「なんのなんの」
高橋は嫌みに整った顔を女受けする形に崩し、鷹揚に手を振った。
「愛莉ちゃんのためなら同僚を売る裏切り行為の一つや二つぐらいなーんとも」
「あ、その愛莉ちゃんって名前で呼ぶの止めてくださいってば。それは奏太さんだけの特権です」
「またそんな堅いこと言って。あれだけ協力してんだよ? それぐらい、いいじゃない」
「うーーーーー」
女子高生は『考える人』のように額へ手を当て、悩ましく唸ってから言った。
「分かりました。妥協します」
「そうこなくちゃ」
同じレベルできゃいきゃいはしゃぐ高橋と女子高生を視界の隅に捉えながら、僕は目線と心を遙か彼方へ漂わせた。あれだけ協力って、他に何を教えているんだ高橋よ……
「あ、三浦君。そろそろいかないと今日も遅刻だ」
高橋が呆けている僕の腕を取りながらせっつく。
「大変、さすがに私も連日遅刻はイヤです。奏太さんとこのままデートってことならサボリも全然オッケーなんですけど!」
「若い子は正直でかわいいよねえ、三浦君」
僕は二人に引っ張られるがまま、操り人形のように改札を抜けた。思考を放棄していても、習慣化された身体は定期を出すという役目を忠実にこなすようだった。
その後僕と女子高生のやり取りが駅の名物と噂されるようになるまでに、そう時間はかからなかった。