5‐ファーストコンタクト
雨の別れから、二人の仲が良くなるようなことはなかった。
しかし、何がしかの接点のようなものは、以前より多くなったかもしれない。
少なくとも、秋良はそんな気がしていた。
例えば秋良家の食生活を心配したみどりの母が、みどりに料理を届けさせたりだとか、回覧板をみどりが届けに来るようになったりだとか。
その事実があるだけで、そこから何かが芽生えるわけではない。
けれど、そんなことが続くと、秋良はいつしか嫌悪感なくみどりの来訪を受け入れるようになっていた。
その頃から、みどりは秋良を「秋良」と呼ぶようになった。
くん付けされるのが気持ち悪いと言ったら、遠慮なしに呼び捨てにしてきたのだ。
二人が顔を合わせると大半がケンカ別れで終わったが、その交流の中でも、二人が得るものは多少なりあった。
互いのやり方を否定しながらも、それを徐々にではあるが受け入れられるようになっていった。
それが、多分最初の一歩だった。
「…おい。それどないした」
聞くまい聞くまい、と思っていた秋良だったが、ついに好奇心が理性を上回った。
いつものように回覧板を届けに来たみどりが、玄関先で目を丸くしたのが分かった。
「なにが?」
みどりは、心底不思議だとでも言うようにまじまじと秋良を見た。
恐らく、普段意図して話しかけないようにしている秋良が、みどりの様子を聞いてきたのがよっぽど予想外のことだったのだろう。
秋良は自分が一瞬で珍獣にでもなったかのような気分になり、撫然として回覧板を受け取った。
だが、目をまん丸にしているみどりの口元を再度見ると、やはり言わずにいられなかった。
「口の端んとこ。切れて血出てんで」
そっぽを向いて言うと、みどりははっとなってぐいっと唇を拭った。
強い調子だったので傷に障ったのか、「イタっ」と言ってみどりは口元を抑えた。
「アホ。そないにぐいぐい押し付けたら痛むの当たり前やろが」
秋良の呆れた口調にむっとしたようだが、みどりは反論してこなかった。
見かねた秋良は「ちっと来ぃ」と言って強引にみどりの腕を掴んで部屋の中に引き入れた。
「え?ち、ちょっと?」
戸惑った様子のみどりに構わずに、秋良は部屋に唯一生活感を与えている戸棚の中段をごそごそと探り出した。
秋良が目的のものを見つけて振り返ると、みどりは手持ち無沙汰にサッカーボールを転がして遊んでいた。
秋良は近づいてさりげなくボールを取り上げ、みどりの前にどん、と木箱を置いた。
緑の十字マークが描かれたそれは、どう見ても救急箱のようだった。
「秋良?」
みどりは、救急箱とみどりの顔を交互に見て、それから首を傾げた。
救急箱が出てきたとなると、それが何を意味するのか流れからいってみどりに分からないわけがなかった。ただ、あの秋良がまさかという思いが邪魔をして事の成り行きに思考が追いつかないよいだった。
秋良は無言で救急箱を開けて丸い缶の塗り薬を取り出すと、蓋を開けて指で掬い取り、それをみどりの口端におもむろに塗ろうとした。
みどりはとっさに避けた。
自然、秋良の指は宙を掻く。
あ、と声をあげたみどりは、どうやら自分の行動に自分で驚いているようだった。
そんなみどりを呆れたように見て、秋良は僅かに眉根を寄せた。
「なんぼなんでも、この状況でカラシ塗りたくるような真似はせんて。
安心して大人しゅう座っとれ」
そして、みどりが体を反らした方へ手を伸ばす。
今度こそ半透明の薬は傷口に塗られた。
秋良は、慎重に、なるべく傷に触れないように、ゆっくりと指を動かしていく。
塗り終わると、身じろぎしたみどりを制して絆創膏を取り出した。
包装紙を剥がして再度口元へ手を伸ばし、両手でそっと貼る。
作業が終わると、どちらのものと知れない息が漏れ、空気が緩んだ。
すると、示し合わせたように二人の視線が互いを捕えた。
その時初めて、秋良はみどりの顔をじっくりと見た。
色白の肌と形の良い目鼻立ちの持ち主である少女は、こうして見れば整った顔に見えなくもない。
それだけに、口元の絆創膏というやんちゃなアイテムにはかなり違和感があった。
そんな風に思いながら見ていたら、ふとみどりがなんともいえない表情をしているのに気付く。
秋良が治療を施している間、まるで置物のように瞬き一つせず座っていたみどりは、
治療を終えたにも関わらず未だに体を硬くさせていた。
秋良はそんなみどりの様子がどことなく可笑しくて、ふっと笑みを漏らした。
すると、みどりの顔はたちまち真っ赤になった。
どうしたことかと秋良が目を見張ると、みどりは慌ただしく立ち上がって玄関へと向かう。
心なしか逃げ出すような行動に見受けられた。
「別に、こんなのほっとけば治るよ」
靴を履きながらそう言ったみどりの言葉は、秋良にはあんた一体どうしたのと言っているかのように聞こえてきた。
「ま、いつも食いモン貰っとるしな。お前の母ちゃんの手間はぶいたっただけや」
「これぐらいは自分で出来るわよ」
怒ったような声で顔を向けず言い放つみどりを、秋良は戸惑いながら見やった。
何故そんなにむきになるのかさっぱり分からない。
感謝されこそすれ、怒られるようなことをした覚えは全くないのだ。
「なに怒ってんねん。相変わらず可愛くないやっちゃな」
「怒ってない!」
そう叫んで、みどりはドアを力任せに開けると振り返ず帰っていった。
開けっぱなしのドアを渋々閉めながら、秋良は行ってしまったみどりの態度に首を傾げる。
「思っきし怒っとるやんけ…」
遣る瀬ない怒りを抱いた秋良だったが、すぐに同時に湧いた疑問の方へ興味が移った。
治療を施す事の、一体何がそれほど癪に障ったのだろうと。
それに、聞きたかった傷の理由もそういえば分からず終いのままだ。もしかして誤魔化された?
腑に落ちない点がいくつも浮かんでくると、秋良は段々と考えるのが面倒になってきた。
そもそもみどりの事情など秋良には関係のないことであり、どうでもいい事のはずだ。
あの様子だと、食い下がったところで教えて貰えそうもないみたいだし。
確かにみどりの言った通り、放っておいても構わないような傷だったのだ。
理由もどうせ些細なことに違いない。
そう判断すると秋良はもう気にしないことに決めた。
余計なことをしたと後悔したが、終わってしまったことなのでこれもまた気にしない様にする。
救急箱を片付けて部屋を見渡せば、殺風景な中に白黒のボールがぽつねんと寂しそうに転がっているのを見つけた。
気を紛らわせるため、ボールの相手をしてやることにした。
外へ出た秋良はすぐさまボールの相手に夢中になった。
だから、みどりとの些細なやりとりなど、10分後には綺麗さっぱり忘れられたのだった。