4‐アイデンティティー
問題児に絡まれた日から数日後、秋良は非常事態に陥っていた。
マフラーが、なくなったのだ。
絶対に無くしてはならず、絶対に手放してはならないものだった。
あれから、秋良はまた問題児達に絡まれたときのために、マフラーをつけないようにしていたのだが、冬の木枯らしが身に染みるこの時期、食料もままならない生活を送っている 秋良が、他の防寒具を買い求められるはずがなかった。
その上、父親があてにならないのは分かりきったことだ。
仕方なしにその日はマフラーを身につけて登校したのだが、体育を終えて教室に戻り、着替えていると、マフラーがないことに気づいた。
秋良は探し回り、クラスの全員に知らないかと聞きまわった。
終いには先生にまで訴えたが、とうとう見つからなかった。
クラスメイトたちは、マフラーがなくなったぐらいで取り乱す秋良を物珍しげに見ていたが、誰も探すのを手伝おうとはしなかった。
みどりも、そんな秋良をじっと見ているだけだった。
アパートに帰った秋良は、座り込んだままじっとしていた。
どこをどう探してもマフラーは出てこなかった。
諦めるという選択肢はないものの、ここまで探して見つからないとなるとさすがに疲れが出た。
次第にどうでもいいような気もしてきて、家に帰った。
すると、人気のないがらんとした部屋にさらに嫌気が差して何をする気も起きなくなった。
座り込んで数十分後、窓の向こう側から、いつの間にかしとしとという音が聞こえてきた。
気づけば、すえた様な、生臭い様な匂いが、どこからか部屋に侵入している。
うんざりとした。
雨の日は大嫌いだった。
洗濯物は乾かないし、サッカーだって思うようにできなくなる。
何より、気分を最悪にさせるような湿気た空気が堪らない。
「今日は厄日かい」
ははっと笑って、呟くとさらに気分が落ち込んだ。
父が大事にしている秘蔵の酒を割って憂さ晴らしでもするか、と立ち上がったとき、ドンドン、と扉を叩く音が狭い部屋に響いた。
それほど強くもない調子だったのだが、期限の悪い秋良には途方もなく耳障りな音となって聞こえてきた。
「誰や!」
自然と口調が乱暴になるが、構わなかった。
今日は誰とも話したくない。
怒って帰ってくれるのならそっちのほうが秋良にとって万々歳だった。
「私。…七倉」
小さな声だったが、薄い扉越しには十分聞こえる声が届いた。
相手を知るなり気分が最低に達した。
秋良は、これ以上があるか知らないが、それでももう気分を滅入らせたくはなかったので、
無視を決め込むことにした。
みどりと会ってしまえば更に最悪なことになるのは目に見えていた。七倉みどりは、秋良とどうあっても馬が合わない人間だと、これまで嫌というほど思い知らされているのだ。
「ねぇ、開けてよ」
図々しい言葉が、独り言のようにくぐもって聞こえてきた。
誰が入れたるか。
心の中で毒づいて秋良は座りなおす。
みどりは何の反応も返ってこない様子に観念したのか、「分かった」と言って、
「じゃああんたの探してたもの、私がもらうから」
それを捨て台詞に、みどりは帰ろうとした。
「なんやと」
秋良は聞き捨てならないと、すぐさま追いかけようと腰を浮かせた。
がしかし、もしかしたら自分と顔を合わす為の方便かもしれないと立ち止まる。
けれど、みどりが立ち去ろうとしていることを表すぎしぎしという廊下の軋みが耳に届くと、秋良は反射的に部屋を飛び出していた。
「おい!」
秋良はすぐにみどりに追いついて呼びかけたが、みどりは気づかないかのように
すたすたと外へ出ようとしている。
「ちょお、待てや!」
憤慨して、肩に手をかけて強引に振り返らせた。
憮然とした表情のみどりは、そこでようやく立ち止まった。
「なによ」
挑戦的な声だった。
秋良はさらにむかっときて声を荒げた。
「ほんまに見つけたんやろなっ」
するとみどりは、すっと通った鼻筋の付け根に皺を寄せて、水色の小さな紙袋を
秋良の胸に強く押し付けた。
「本・当・に、見つけたわよっ、はい!じゃあね!」
そうして、みどりはさっきよりもさらに肩をいからせて早足で行ってしまった。
秋良は、苦虫を噛み潰したような顔になって、上下に激しく揺れる背中を見送った。
受け取った紙袋を見下ろすと、中から安っぽいあずき色のマフラーがのぞいていた。
取り出して確認すると、確かに自分のものだった。
端の方に、白い糸で小さく名前が縫い付けてあるからだ。
秋良はそれを見るとほっとして、思わず表情を緩めた。
胸の中に、表現し難い様々な感情が溢れて、さっきまでぽっかりと穴が開いていた心が急激に満たされていくのを感じた。
中でも一番大きいのは、深い安心感だった。
それが分かると同時に、ふとみどりの顔が思い浮かんだ。
秋良が声をかけたとき、みどりは怒りの表情を顕わにしたが、秋良はそれだけではなかったような気がしていた。
目の奥で、傷ついたような悲しみの光が宿っていたようにも見えた。
そこまで考えて、秋良は、くそっ、と毒づいて急いで消えた背中を追った。
アパートを出ると、そぼ降る雨の中、みどりはすぐに見つかった。
彼女は何故か、傘も差さずに道の途中で立ち止まっていて、目の前に見える家に入ろうともせずに雨に打たれていた。
秋良はなんとなく声をかけづらい雰囲気に躊躇いを覚えて、自分も何分か背中を見続けていた。
「……どこに、あったんや」
ようやく声をかける決心がついたのは、水に飛び込んだように全身ずぶ濡れになった頃だった。
みどりはびくっと肩を震わせると、ゆっくりと秋良の方に向き直った。
驚いたように目を見開かせているので、どうやら秋良がいたことに気づいていなかったことが窺われた。
みどりは濡れて張り付いた髪の毛を気にもせず、僅かに唇を震わせている。
そのまま何も言わないので、秋良もさすがに居心地が悪くなったとき、みどりは口を開いた。
「その…マフラーさ、なんでそんなに大切にしてるの?」
それは質問の答えではない。
秋良は横を向いて視線を逸らす。
みどりはその様子に、軽く溜息をついた。
「また無視?…いいけどさ」
嫌われていることを知っている者特有の、投げやりな声だった。
「秋良くんて、自分がどれだけ目立つか分かってる?そうやって、自分のことは誰にも分からせないって態度がどれほど悪目立ちするか。…それが秋良くんのやり方だっていうなら仕方ないけど、大切にしたいものがあるならもう少しうまくした方がいいよ」
「…なんやそれ、説教か」
「そうじゃないって!ただじれったくて見てられなかったから…」
もどかしそうに告げるみどりの瞳には諦観の眼差しがあった。
「まあ、確かに私が口出しすることじゃないけどね。…それ、早引きした松田くんが間違って持ってっちゃったんだって。今度はランドセルの中にでも入れておいたら」
秋良は、すっかり水を含んで黒い色になったマフラーを見下ろした。
松田という奴がどういう顔の奴かは、おぼろげにしか思い出せない。
けれど、あずき色なんて趣味の悪いマフラーをしている人間がクラス内にいるとは、秋良には思えなかった。
だがそれもまた推測に過ぎないのだ。
するとみどりの言ったことが、染み入るようにじわりと秋良の心に入り込んできた。
『大切にしたいものがあるならもう少しうまくした方がいいよ』
認めたくない。
こんな奴の言うこと。
しかしそれは、どう否定しても正論だった。
「…七倉」
寒さに震え、かすれた声は、数歩先に進んだみどりにかろうじて届いたようだった。
「なに?」
みどりが振り返ったのかどうかは、俯いているため分からない。
それでも、秋良は口にした。
「おおきに」
ザー。と音をたてる雨は、秋良の声を遮ったかのように思われた。
だが、陰鬱な空気を晴らすような「うん」という澄んだ声が聞こえてきて、それきりあたりは雨音に包まれた。
秋良は結局、みどりの顔を見送ることができなかった。
何故かそれが、どうしようもないほど悔しかった。悔しくて堪らなかった。
まるで痛いしっぺ返しを食ったような気がした。
その思いを噛み締めて、重い足取りで震える体を引きずり、アパートに戻った。
気分は、みどりが来訪した時よりも最低に達していた。