2‐バッドコミュニケーション
近所の商店街でバイトを頼み込んできたものの、全て空振りに終わって腐っていた秋良は、 父が家に戻るまでの間、アパートの空き地でヘディングして時間を潰していた。
サッカーボールは秋良にとって優秀な遊び相手であり、唯一の充実感を与えてくれる物だ った。
物心ついた頃からサッカーボールに慣れ親しんできた秋良は、テクニックをみがいてはいるものの、それを誰かに披露するようなことはしなかった。まして、サッカークラブや、 サッカーで遊んでいる少年たちの輪に加わるなどしようとも思わなかった。
何故なら、どこにいようと秋良を受け入れる輪がないことを直感で悟っていたからだ。
同年代の子供たちと秋良のサッカーに対する思い入れは微妙に食い違っていて、それにより人と楽しもうとは思えなくなっていた。
暗闇が町を覆い、ボールの影が地面に濃く浮かぶ頃、そろそろ引き上げようと思った秋良はボールを一際高くあげて、右ひざでキャッチし、更にワンバウンドさせて軽く前方に蹴った。
すると、ボールは向かいのアパートの開いていた窓に見事に吸い込まれて、畳の上を5、6回跳ねたあと、静かに転がって壁際に収まった。自分もその後に続こうと窓枠に手をかけようとしたとき。
ガサッ。
後方から、気配の動く音がした。
秋良は咄嗟に振り返った。
後方に積まれている木材の向こう側に、誰かの影が見える。
秋良は不気味に思って、それを振り払うように声をかけた。
「誰や」
不安からかつい声が荒っぽくなる。
木材の隙間から微かに見える影は、びくっと反応して小さく声をあげた。
「あ、あの」
聞き覚えのある声だが、誰かまでは特定できない。だが、知り合いだということが分かると不安が取り除かれ、逆に誰なのか確かめたいという重いが湧いてきた。けれど、声の主は動こうとせず、仕方なしに秋良木材の裏に歩いていくと、そこには予想外の人物が立ちすくんでいた。
「お前…こないなとこでなにしてんねん」
秋良の驚いたような声に、所在なげな瞳をよこしたのは、隣の家に住む七倉みどりであった。
塾かなにかの帰りなのか、両手で抱きしめるように平べったい茶色の鞄を持っている。
「ごめん、あの、覗き見するつもりはなかったんだけどね、話しかけるタイミング逃しちゃって、結果的には覗き見てたんだけど…」
強張った笑みを浮かべたみどりは、まくしたてるようにしゃべり始めた。
「今日、ピアノ教室に行くはずだったんだけど、どうしても行きたくなくてね、でもどこに行けばいいのかも思い付かなくて、家のまわりぶらぶらしてたら高馬くんがボールで遊んでるの見かけて、なんか意外だなって思って見てたら、ボールがずっと地面に落ちないからいつ落ちるんだろうって思って見てたらそのまま…」
別にそれほど後ろめたい行動でもなかったはずだが、彼女にとって覗き見るという行為はまれなことだったらしく、やたらと申し訳なさそうに状況を説明していた。
秋良はみどりが自分に対して挨拶以上の言葉を話しているのが珍しく、なんとなく見守ってしまった。それからみどりは、ピアノが好きじゃないことや、その原因がピアノの先生にあることなど、しなくてもいい話まで全て語って聞かせた。その長い説明が終わる頃には、既に日が暮れていた。
「………」
「………」
いったん話が途切れると、いつもの気まずい空気が二人を包んだ。
秋良にとって、みどりが自分を覗き見ていたことは別に怒るようなことではなく、どうで もいい事だった。邪魔したり五月蝿くしないのなら居ないのと同じだ。
みどりがどういう経緯で、どういった考えで見ていたかなどは関係ない。興味もなかった。
「そろそろ父ちゃん帰ってくる頃や。ほな」
本当は父がいつ帰ってくるかなどは知れたことじゃないのだが、秋良はそれを口実にして 帰ってしまおうと思った。
これ以上ここにいる理由もないし、覗かれていたからといって特に言うべきこともない。
再び背を向けると焦ったように「待って」という声が聞こえてきた。
「なんや、まだしゃべることあるんか」
面倒そうに振り向けば、逡巡したような表情のみどりが立っていた。
「あの、…その」
はっきりしないみどりの声に、秋良は苛立った。
「はよう言うたってくれへんか。俺ははっきりせんのが一番腹立つねん」
すると、みどりはごくんとつばを飲み込んで、意を決して言った。
「あのさっ、みんなと一緒にやってみたらどうかな?」
「はあ?なんのこっちゃ」
「だから、サッカー!」
興奮したようなみどりの声に、秋良はぴくりと眉を跳ね上げて目を細めた。
みどりはそんな秋良の様子には気づかず、興奮を抑えきれないのか早口でまくし立て始める。
「私、サッカーのことなんてよく分からないけど、でもそれでもすごいよ、高馬くん。
どうやったら一回も地面に落とさないでボール上げられるの?それってさ、みんなに見せたら絶対びっくりするよ。好きなんでしょ、サッカー?だったら、こんなとこで一人でやってないで、みんなでやればいいじゃん。きっともっと楽しいよ。私、サッカークラブの子に友達いるから、紹介してあげるよ」
みどりは、それを、まるで自分が楽しくなることのように話して聞かせた。
秋良は急激に怒りと軽蔑が湧いてくるのを感じた。
「そんなん俺の勝手やろが。よう分からんのやったら余計な口出しすんな。迷惑やぜ」
冷たい秋良の一言がよほどショックだったのか、みどりはそれまでのはしゃいだ様子をぴたりとやめて凍りついた。
「え、で、でも、だってさ…」
不自然な微苦笑を貼り付けさせるみどりに、秋良は容赦なく畳み掛ける。
「大体な、何を基準に楽しいと思えるんや。こん町のサッカークラブの試合は越してきた日に見さしてもろたが、あんなんサッカーにもなってへん、ただの玉蹴り遊びやないか。あんなしょうもないチームに混ざれやと?冗談やない。寝言は寝てから言うてくれ。ほなな」
にこりともせずに早口で言い切って、踵を返す。
罪悪感は微塵もなかった。秋良の事情など何一つ知らない癖に興味半分に面白がっている少女の鼻を明かした爽快感でいっぱいだった。
言いたいことを全部言えてすっきりした。
だが何故か妙に胸がざわついているような気もした。
「なによ、えばりんぼ!」
数歩もいかない内に少女の高い大きな声が背中に叩き付けられた。
「なんやと」
振り向いて牙を剥く秋良に、みどりは怯むことなく詰め寄った。
「あんたって何様のつもりなの?そんなにサッカーが上手いのが偉いわけ?そんなに、お母さんがいないのが特別なワケ?二人暮らしで大変って周りに言いふらしたいわけ、自慢したいわけ!?あんたがそんな風だったら、いつまでたっても友達なんか出来ないんだから!」
その言葉で、秋良は完全に頭に血が上った。
みどりの白いセーターの襟ぐりを掴むと、乱暴にぐいっと引き寄せた。
「やかましいわい!俺が友達出来ようが出来まいが、サッカーやろうがやらまいが、お前には一切関係ないんじゃボケ!目障りなんやったら近寄ってこんかったらエエやろが!俺かてそっちのがせいせいするわ!分かったら、二度と俺に知った口きくんやないでっ」
そこまで言うと、秋良は突き飛ばすようにしてみどりの襟元から手を離した。
よろめいたみどりは、目にいっぱいの涙を浮かべて、悔しそうに言い返してきた。
「なによ…っ。確かに関係ないわよっ、口もききたくないし顔も見たくないわよ!だけど、 私はあんたのクラスメートで、お隣さんで、嫌でも一緒にいなくちゃいけないのよ。それなのに、高馬くんがそんなだったら、あたしは、みんなだって嫌いなままじゃない。そんなの、なんだか…。高馬くんだって嫌でしょ?だからっ…」
秋良は遮るように言った。
「でっかいお世話や。いい子ぶりたいんやったら他あたってくれ」
憎々しげな一瞥をやると、みどりは眉間に深く皺を刻んで睨んだ。
「分からず屋!高馬くんなんて…」
「それと!軽々しく人の名前呼ぶんもやめろや。吐きそうになる」
またも遮って、いかにも気持ち悪そうな顔で言い捨てると、秋良はもう振り返ることなく窓を跨いで部屋の中に 入った。
窓を閉めるとき「バカ秋良!二度と名前なんか呼ぶか!」という罵声が聞こえてきたが聞こえないフリをしてぴしゃりと窓を閉めた。
第二印象は、最悪のものとなった。