150年の奇跡 - 君へ捧げる空
エピソードタイトルが【文字】は過去、【数字】は現在
最終エピソードは、過去と現在の交わり
【君へ】
ありがとう……
……またいつか会える日まで
あの日 僕らはどうして出会ったのだろう
もし出会わなければ どうなっていたのだろう
そんなこと 考えたことねえって
きっと君なら そう言うだろうね
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【01】
太陽の光が木々の間からこぼれ落ちる。
夏とはいえ、やはり山の中は暑さを凌ぐにはちょうどいい。
それでも長いこと山道を歩いていれば、うっすらと額に汗が浮かびあがる。
麓から歩いて3時間後、ようやく目的地へと到着した。
平坦で開けた場所。
空を仰ぎ見ると、雲ひとつない青空が広がっている。
高木がないせいで、ここには日陰になるところがない。
太陽の光が降り注ぎ、徐々に体温が上がってくる。
とりあえず、撮影地として問題なさそうだ。
明日に備え、ここに夜営すると連れの助手に告げた。
「本当にこんな場所でいいんですか? あっちのほうが撮影場所としてはいいような」
「いいんだ、ここで」
数百メートル離れている場所から視線を戻した助手は、あからさまに怪訝な顔だ。だが助手の言うことは間違っていない。
彼のいう『あちらのほう』とは、俺たちの場所からも見える岩場のことだ。確かにあの場所のほうが撮影には適していると、俺のプロとしての勘も言っている。
だから自分に念を押すように、助手に言う。
「明日になれば、分かる」
そう、明日のなれば。
俺たちが今いる場所は、アイツがベストポイントと決めた場所。
本当であれば、一緒に来る予定だった。
「それじゃ、準備しますね」
助手がしぶしぶ背負っていたリュックを降ろし、夜営の支度をし始める。
明日の朝、150年振りの奇跡と言われている自然現象を、この山から撮影する。
アイツとの約束を果たすために。
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【アイツ】
15年前、俺はアイツと同じ高校だった。
同じ学年でもクラスが違うと全く接点がない。
部活も違ってはなおさらだ。
あっちは美術部、俺は写真部。
その接点のない俺たちが、ある日を境に交差した。
いきなりアイツが写真部の部室を訪ねてきて、『モデル』になって欲しいと。それまでの俺は、あっちの存在すら知らなかったというのに。
「はぁ、モデル? 断る」
当然だが、見も知らぬ相手にやすやすと応じることはしない。それに部員仲間が妙に囃し立てるのが気に入らなかった。
アイツは男で、美術部のオタクらしいと、その時に知った。もちろん相手が女でもモデルの話は断った。
モデルは楽じゃないことくらい、写真部の俺ならよく知っていた。相手の要求に応えられる素質が必要だ。そんなのは、俺の柄じゃない。
断ったにも関わらず、アイツは諦めなかった。
毎朝校門の前で待ち伏せし、休み時間にはクラスにまで押しかける。とうとう根負けした俺は、期限付きという条件で『モデル』になることを承諾した。
誰かの要求に応えるなど、らしくもなかった。アイツの情熱に、どこか懐かしさを感じたせいかもしれない。
「なぁ、かっちゃん、知ってる?」
「知らね」
「まだ何も言ってないって」
キャンバスに向かっている顔から、笑みが溢れているのが垣間見えた。
琥珀色の瞳と口元がやわらかに弧を描く。
俺はアイツの笑った顔がなぜか好きだった。ふわりと笑う顔を撮りたいとさえ思った。
「それより、いつまでこんな格好をさせる気だ」
「もう少しで終わるから、待ってて」
大きくため息をつく。
上半身裸の状態でローマ風の衣装を着させられ、片腕を上げ立ちっぱなしで既に数時間は経っていた。
アイツの『もう少しで終わる』は、もう少しでは終わらない。
「やっぱ、かっちゃんって、いい体してるよな」
誰が『かっちゃん』だ。馴れ馴れしい。
まだ2回ほどしかモデルをしていないのに、アイツは初めから俺を『かっちゃん』と呼んだ。
なんだかくすぐったい気持ちだった。
「描きながらエロいこと言うな」
「ごめん、ごめん。なんかスポーツやってたんだよね?」
中学時代、水泳を習っていた。
選手にも選ばれ、大会では何度も入賞した。
将来の夢は世界一になること、なんて無謀な夢を見た時もあった。
体を壊すまで。
それ以来、何に対しても情熱を持ったことはない。
「前にも言っただろ……」
「あっ、そうだったね……ごめん」
「それより、さっき何言おうとしてたんだ?」
「えっと……あ、そうそう。かっちゃんは、虹雲って知ってる?」
「虹雲……もしかして、彩雲のことか?」
「さいうん?」
「色彩の彩に雲」
「ああ、彩雲! そうそう! で、見たことある?」
「まぁ、たまにだけど、写真も撮ったことあるぞ」
「えっ、マジで! 今度見せてよ!」
彩雲とは、太陽の近くにある雲が虹色になる現象のことだ。雲の中にある水分に太陽の光が反射することで虹が発生する。
頻繁に見られる現象で、このときアイツがそんなにも興奮する理由が俺には分からなかった。
**
後日、彩雲を撮った写真をアイツに見せた。
「すげぇ綺麗な空。かっちゃんが撮ったんだろ、これ? すげぇ」
手持ちで適当に撮った写真。
誰にでも撮れる、大した写真じゃない。
それなのに、何度も凄いを連発するアイツ。
そんなに喜ぶなら、次からはちゃんと構図も考えて撮ろうと思った。
「俺も見たいなぁ」
熱のこもった琥珀が写真をじっと見つめた。
「彩雲は条件が整えば、いつでも見られる現象だ」
「でも、俺……見たことないし」
アイツの細い指が印画紙の上を何度も往復した。
「欲しけりゃ、それやる」
「えっ、本当に? いいの?」
「ああ」
無防備な笑顔。
なんて顔をするんだ。
「ねぇ、かっちゃん。彩雲が空一面に現れる時があるって知ってる? どこか海外らしいんだけど……」
「へー、そうなんだ」
「うん、そうなんだよ……」
アイツが本当は何を言いたかったのか、あの時の俺は分からなかった。
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【02】
助手と一緒にテントを張った後、俺は機材をセッティングし、助手は夕飯の準備をした。キャンプ慣れしているだけあって、なかなか美味い飯だった。
食事も終わり、明日の準備も終え、いまは静かな時間のみが流れていく。
湯を沸かしている炎が時折パチパチと音を立て、遠くからは虫の声が聞こえる。
「あのぉ前島さん、明日、本当に出ますかね? 150年ぶりだって言うし、……本当に奇跡なんて起こるんでしょうかね?」
助手がこちらに顔を向けて話しているが、俺は炎をじっと見つめていた。
「お前は信じてないのか?」
「えーっと、それは……」
顔を上げて助手を見ると、さっきとは反対に相手が俯いていた。
炎のゆらめきが顔に当たっている。
その表情は光に照らされながらも陰っていくのが分かった。
「あっちの場所には、人がわんさといる。奇跡を信じてなかったら、あんなに集まらないだろ。それでももし明日、奇跡が起きなかったら、みんなショックだろうな」
「……そう言う、前島さんだってショックじゃないんですか? ずっとこの日のために準備してきたんですし」
「……さぁ、どうだろうな」
ショックになるかどうかより、漠然とした自信はあった。
明日は必ず奇跡、いや、現象は起きると。
もちろん不安がないわけじゃない。
特に自然現象は条件が整えば出現する話だ。100パーセント起こる保証はどこにもない。
それでも生きていれば、奇跡だろうがなんだろうと、挑戦する価値はある。
いつかどこかに置き忘れてきたようなことは、もうしたくない。
鍋から湯気が立ち上り、湯が沸いたと知らせてきた。
助手がそれぞれのカップに注ぐ。
両手にじんわりと熱が伝わってくる。
珈琲の豊かな香りが鼻の奥をくすぐった。
そういえば、アイツは珈琲が苦手だったことを、ふと思い出した。
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【珈琲】
学校でアイツのモデルをするようになって、自然と昼飯を一緒にすることが多くなった。
食後にいつも俺は缶珈琲を飲む。
その俺を見るアイツの視線が気になって仕方がなかった。
「かっちゃんて、珈琲好きだよな。いつも飲んでるし」
「まぁ、美味いからな。飲んでみるか?」
缶を渡そうと手を伸ばす。
なかなか受け取ろうとしないアイツ。
「ほら」
手を伸ばし、缶を受け取り、そのまま口へ持っていく。
ひと口、ごくっと喉が動いた。
「うーやっぱ俺、苦いの無理……」
琥珀の瞳が潤んでいる。
「そんなに苦いか?」
アイツは首を縦に振る。
俺は砂糖ミルクなしが好きだ。
でもアイツは珈琲自体が嫌いだったと後から知った。
だったら飲まなきゃいいのに。
そういえばモデルとなった絵を美術展に応募したらしいと誰かから聞いた。なぜアイツ本人が俺に言わないんだと、少し腹が立った。
だからアイツに黙って見にいって、からかってやろうと思った。
全国学生美術公募展。
何度か写真展を見に来たことのある会場だ。
東西南北、地域ごとに展示が分かれていた。
どれも秀作な出来。
風景写真を主に撮る俺には、やはり風景画が好きだ。
逆に抽象画にはあまり関心が向かなかった。
理由は単純に、意味が分からないからだ。
俺をモデルにした絵を見つけた。
思わず首を捻った。
そこには幾何学的図形にされた俺。
いわゆるキュビスムという手法で描かれてあった。
これなら別に俺がモデルをしなくても良かったんじゃないかとも思った。
額縁の下には、入賞を示す金紙が張ってあった。
それを見て俺は、絵の評価というものがますます分からなくなった。
写真は写真機を通じて、目の前にある物を正確に写し撮る。
画像編集ソフトによって写真家が意図通りに編集し直すことは可能だ。
それでも絵画と写真は違う。
同じ芸術でも違う。
それは俺たちにも言えたことだった。
**
あれは高3年の冬。
ひんやりとした美術室。
何がきっかけだったのかは、思い出せない。
覚えているのは、琥珀の瞳が揺れ、真っ赤な顔のアイツ。
俺はアイツを壁に押し付け、唇を合わせた。
瞳から流れる涙を見て、咄嗟にごめんと呟いた。
押さえていた体を離すと、アイツは教室から飛び出して行った。
どうしてこんなことをと自分を責めた。
でも何もかも遅い。
その時は、本当にそう思った。
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【03】
テントから抜け出すと、夜空は満天の星に覆われていた。
自然とカメラを空へ向けた。
ひと昔と違い、星と風景を一緒に撮る『星景』がジャンルとして確立されつつある。
ただ今いる場所は、広い天空しなかい。
カメラのシャッターを開けっぱなしにして長時間露光する。
北極星を中心に星の軌跡が輪になる写真が撮れる。
まるで星たちが追いかけっこをするように。
煙草に火をつけ、ヤニを肺へと流し込む。
はぁーっと吐き出すと、白い煙が星へ吸い込まれるように昇っていった。
明日の天気はどうだろうか。
気休めにスマホで天気予報を確認する。
曇りのち晴れ。
なら大丈夫と思いたいが、明日のことは、明日にならないと分からない。
150年振りと言われる自然現象。
この土地は特殊で、朝日に雲が掛かると、空一面が虹色に染まるという。
運が良ければ、見られるだろう。
運が良ければ、もしかして俺たちのように……。
アイツに口づけをした日、もう接点はないと思った。
卒業まで俺を避けるようになったし、卒業後の進路は互いに知らなかった。
それなのに、偶然街で再会した。
いや、再会したというより、見つけたと言ったほうが正しいかもしれない。
信心深いほうではないが、あれが運命というものなのだろうか。
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【遭遇】
プロの写真家になって、数年経った頃だった。
広告代理店からの撮影依頼。
ファッション雑誌に載せる新発表の服を着たモデルを街で撮る仕事だ。
行き交う人々を背景に、構図を決めていく。
「前島さん。この背景で大丈夫ですか?」
現在とは別の助手が俺についていた。
助手が決めた場所を、ファインダーを覗いて俺が確認する。
「あの人」
「えっ?」
「ほら、あそこ座ってる」
本当だったら誰も気づかないくらい小さな存在だった。
まさに俺が指摘するまで、助手はまったく気づいてはいなかった。
気になるその人物は、小さなイーゼルの前に座っていた。
誰も座っていない椅子が一つ、イーゼルの横に置いてある。
たぶん似顔絵を描く仕事だろうか。
「場所を移動してもらうよう言いましょうか?」
どうせ出来上がった写真の背景はボケる。
わざわざ移動をお願いするまでもない。それなのに——。
「そうだな、頼めるか?」
助手が駆けっていく。
後ろ姿をずっと見つめ、気になる人物へと近づいて行く。
なぜか不思議と心が騒ついた。
お辞儀をするアシスタント。こちらをチラチラみながら説得している。
しかし相手は微動だにしない。
遠くから見ていても移動する気配は微塵と感じられなかった。
助手が俺のほうを向く前に、足が勝手に動いていた。
モデルをしていた時に焼きついたアイツの姿が重なった。
「かっ……ちゃん?」
俺が近づくと、アイツが言った。
長い前髪の間から、大きく見開いた琥珀の瞳。
「久しぶりだな」
顔をそむけ立ち上がるアイツ。
また逃げられると思い、とっさに腕を掴んだ。
高校の時と比べ、やせ細った腕。
見上げる顔はやつれ、目の下にはクマができていた。
俺の心はざわついた。
腕を離しては駄目だと、頭の中で警笛が鳴る。
手早く仕事を終わらせ、近くのカフェへと連れていく。
いまどんな状況なのかを知るために。
アイツはなかなか言いたがらなかった。
やっとのことで話を聞き出した時には、外は暗くなっていた。
両親はすでに亡くなり、父親が経営していた会社の借金を清算するため実家を売った。
大学は中退し、いまはシェルターで生活している。
仕事は似顔絵を描くこと。
それしか思いつかなかったらしい。
不器用なのは相変わらずのようだ。
なら一緒に住もうと提案したが、すぐに断られた。
アイツが俺に『モデル』を頼んだ時のことを思い出す。
今度は俺が毎日付き纏った。似顔絵を描く場所へ通い、シェルターを突き止め待ち伏せした。
アイツが根負けするまで。
一緒に住み始めて、やっと色んなことが分かった。
高校に入ってすぐに、アイツは俺が好きになったこと。
口づけも嬉しかったが、怖くなって逃げ出したこと。
後悔していると言った。
ならその後悔をチャラにしようと俺から言った。
いま思えば、あれは求婚の言葉だった。
互いを生涯の伴侶とすることに時間は掛からなかった。
毎日のように抱きしめ、愛を確かめる。
ここまで来るのに、だいぶ遠回りした。
だからずっと二人で幸せに暮らせると思った。
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【夢を語る】
一緒に住んでから、俺は朝飯を食うようになった。
毎日、美味そうな朝食がテーブルに並ぶ。
もちろん欠かさず珈琲は淹れてあった。
俺好みの味。
朝の会話は、いつもニュースの話題から始まった。
「ねぇ、かっちゃん。150年の奇跡って知ってる?」
「ああ、今朝の新聞で読んだ。あれだろ……」
「彩雲!」
琥珀の瞳がキラキラと輝いている。
高校の時に見た、俺の好きなアイツの笑顔。
彩雲を見ると運気が上昇し、願い事が叶うという。
それが空一面に見える時が、150年振りに訪れると新聞に書いてあった。
「一緒に見に行かない?」
「は?」
「かっちゃんって風景写真家になりたいんだろ? いいチャンスだって、俺思うなぁ」
プロになったとはいえ、自分の好きなジャンルで飯が食えるようになるとは限らない。
俺はもっぱら、ファッションや物撮りの商業カメラマン。
「空一面の彩雲。綺麗だろうなぁ」
熱のこもった琥珀の瞳で新聞記事を眺めるアイツ。
俺はこの瞳に弱い。
公的な伴侶となって数ヶ月。
世間でいう新婚旅行に、俺たちは行っていない。
これもいい機会だと思った。
「……分かった。行くか」
「ほんと? やったー。じゃ、一緒に計画しよう!」
150年の奇跡まで1年近くある。
その間に仕事を上手く運んでおけば、2週間くらいは余裕で休めるだろう。
アイツの仕事も最近は順調だ。
もともと絵の才能があったから、一緒に住み始めてすぐにプロの画家へ転身した。
悔しいが、俺の稼ぎよりいい。
アイツの絵は心象風景とでもいうのだろうか。
自然をテーマにした作品が多く、固定ファンもいる。
最初はSNSを使って、作品を紹介していた。
いまはギャラリーでの個展もやっている。
順風に見えた俺たちの生活。
それに影が差すようになるだなんて、誰が想像しようか。
なんでも忘れたことにやってくるという。
アイツが幼いときに完治した病が、再びアイツの体を蝕んでいった。
異変だと思わなかった。
頭痛や咳は、ほとんどの人だって罹る時があるからだ。
しかし個展中に倒れたとスマホに連絡が来た。
仕事を助手に任せ、俺は病院へと急いだ。
そして医者から言われたのはーー
ーー余命3ヶ月
150年の奇跡までまだ半年以上ある。
病室のベットに横たわるアイツの寝顔は苦しそうで、見ているのが辛かった。
意識が戻ったら連絡するということで、一旦家へと帰った。
玄関を開けて家へ入るなり、俺は泣いた。
声を出して泣いた。
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【04】
残された時間、アイツは150年の奇跡の計画を立て続けた。
撮影場所を現場も見ずに、ここだと指定した。
いま俺は、その場所に立っている。
「前島さん、もうそろそろ昇ってきますね」
助手が腕時計を確認しながら言った。
漆黒の闇が太陽によってオレンジ色へと彩られていく。
それはまるで、過ぎ去った白黒の時間から、現在という彩りある時間へ移行するように。
カメラのチェックを何度もする。
風景写真は自然が相手だ。
予期せぬことが起きるのは当たり前。
準備万端でも何が起きるか分からない。
病院でアイツが言ったことを思い出す。
『かっちゃん、一瞬だからね。だから絶対にシャッターチャンスをモノにしてくれよ』
気分がいい時、アイツはベッドに起き上がって、パソコンと睨めっこしていた。
太陽が完全に昇って少しすると、ある変化が見られると。
それは、この場所からしか見られないと、真剣な眼差しで言っていた。
どうしてアイツはそんなことを断言したのだろう。
見たこともないくせに。
「前島さん、太陽出てきました!」
太陽の薄い光が地平線へ触れる。
地球がまわり、光が増え続ける。
試し撮りも含め、何度かシャッターを切る。
太陽の光が増すごとに、露出を変えていった。
広角、望遠がセットされた複数のカメラで撮っていく。
通常の彩雲は、太陽の近くにある雲が虹色になる現象のこと。
雲の中にある水分に太陽の光が反射することで虹が発生する。
しかし今回は特別だ。
150年の奇跡。
奇跡は起きるのか? それとも?
邪念を振り払うように、頭を振った。
余計なことは、考えるな。
どこからともなく雲が太陽を覆い隠す。
その分量は多くても少なくても駄目だ。
この場にいる俺たちも、他の場所で見ている奴らも、空一面の彩雲を待っている。
太陽が半分、地平線から出てきたときに奇跡は起こった。
空と地上が一体になり、光が溢れていく。
他の場所いる大勢の人の歓声が聞こえた気がした。
アイツの言葉が頭に蘇る。
『空と地上が一体になって、彩雲が広がっても、まだ終わりじゃないからね』
太陽が完全に昇りきった。
気のせいか、冷たい風が辺りを包み込む。
それと同時に、バサバサと音が聞こえてきた。
「これなのか?」
心臓の音がうるさい。
ドキドキして、指が震えそうになる。
カメラを三脚で固定しているとはいえ、震えてた手でシャッターを切れば、ピンボケになる。空いているもう片方の手を、シャッターに置いている手の手首を掴んだ。
夏だというのに、とても風が冷たい。
手が震えそうになる。
空と地上が一体となり、全体が虹のように輝いている。
そして彩雲の中を、大量の鳥が飛び立った。
ほんの一瞬。
アイツが言った通り、一瞬の出来事だった。
ファインダーから目を離さず、連写でシャッターを切っていく。
涙が出そうになるのを我慢し、シャッターを切り続ける。
「見てるか? お前の言った通りになったぞ」
150年の奇跡は、たった数分で終わった。
次の奇跡は150年後。
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【05・一年後】
150年の奇跡から既に1年が経過していた。
その間、俺は自然風景写真家としても活躍していた。
俺が撮った150年の奇跡は、国内外問わず、あらゆる賞を総なめにし、代表作ともなった。
全てはアイツのお陰だ。
150年の奇跡は、空と地上一面の彩雲だった。
彩雲を見た者には幸運が訪れるという。
自然風景写真家として成功した俺には、彩雲は確に効果があったといえる。
でもーー、
ーーもうアイツはいない。
俺の心にはぽっかりと穴が空いたままだ。
写真家として忙しくしていれば、少しは埋められると思った。
ようやく落ち着いた頃、俺はやっとアイツの遺品を整理することにした。
アトリエは、二人で住んだマンションの一室。
ずっとドアを開ける勇気がなかった。
俺の中では、まだアイツの死を受け入れられなかったからだ。
もし時間を戻せるなら、戻したい。
ドアノブに手を掛けた。
涙が溢れそうになる。
静かにドアを回して開ける。
絵の具の匂いが、部屋に充満している気がした。
この部屋の主であるアイツは、一度か二度くらいしか戻っては来れなかった。
描きかけの絵がイーゼルに立てかけてある。
箱の中には、何枚のもキャンバスが収められている。
一枚、一枚がアイツが存在した証。
その箱の中に、丁寧に布で包まれたキャンバスを見つけた。
これは誰かに届ける予定だった作品だろうか。
確かめようと、布を解いていく。
現れたのは、高校時代、俺をモデルにした《《あの絵》》だった。
キュビスムの俺。
ふと、この絵を見たあの時の感想を思い出す。
『モデルは、俺じゃなくてもよかったんじゃないか』
いや、俺じゃなくちゃ駄目なのは、今ならよく分かる。
アイツはどんな気持ちで、この絵を描いていたのだろう。
時折感じたアイツの眼差し。
情熱を秘めた琥珀の瞳を向けられていたことを、今なら実感できる。
絵と一緒にアイツがよく持ち歩いていたスケッチブックを見つけた。
最初のページには、『お金に困ったら、賞を取ったこの絵を売って欲しい』と書いてあった。
「売れるわけないだろ、馬鹿野郎」
何気なくスケッチブックを捲る。
思わず口に手を当てた。嗚咽がこぼれ落ちないように。
スケッチブックには、いろんな俺が描かれてあった。
キュビスムではない俺だった。
カメラを覗く俺。
料理をする俺。
アイツが見た、いろんな俺だ。
最後のページには、一面の彩雲と飛んでいる大量の鳥が描かれていた。
それはあの時、150年の奇跡で俺が見た風景とほぼ同じだった。
アイツはすでに見ていたのかもしれない。
ページを捲ると、絵の裏にはこう書かれてあった。
『最愛の克陽へ
君へ捧げる空
彩より』
俺はスケッチブックを抱きしめた。
アイツの温もりを感じられるように、そっと抱きしめた。
<了>
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