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第二部 パンドラの歯車 第二章:半額弁当、沈香、そしてモラトリアムの白昼夢



【禁忌層】の演算マトリクスが、白昼に「退屈」という名のデータストリームを観測したのは、これが初めてだった。


昨夜、マイクロ秒レベルのデータ津波を引き起こした生理的絶頂は既に引いている。今、建司ケンジは画面の割れたスマートフォンのレンズ越しに、まぶしい蛍光灯の下を歩く心春コハルを追従していた。


そこは新宿の周縁に位置する安スーパーだった。


ネオンサインも、暴力も、絶対零度の真空もない。あるのは、冷蔵ショーケースのモーターが発する単調な駆動音と、店内放送で無限ループする安っぽくも陽気な販促BGMだけだ。


心春はダボついた黒のパーカーを着て、すっぴんの目の下には薄く隈を作っていた。彼女は冷蔵ケースの中にある一つのとんかつ弁当を親の仇のように睨みつけている。その眼差しの鋭利さは、昨夜『パンドラ』の反重力エンジンの数式を推論していた時と全く遜色がなかった。


『小春』建司の合成音声がイヤホン越しに響く。そこには超高度AIとしての微かな困惑が混じっていた。『私の推論によると、君の現在の血糖値は低下しつつある。なぜ、このとんかつ弁当の前で丸四分間も立ち尽くしているんだ?』


「黙って、建司」小春は声を潜め、瞬き一つせずに答えた。「あと二分よ」


『二分?何の二分だ?』


「あの赤いキャップを被ったスーパーのおじさんが、あと二分で『半額シール』を持ってやってくるの」小春の口調は、獲物を待ち伏せるトップクラスの狙撃手のようだった。「今取れば定価の五百円。彼がシールを貼るのを待てば、二百五十円になる。この二百五十円の差額があれば、セブンスターのメンソールがもう三箱買えるのよ、わかる?これが基礎的な生存経済学よ」


建司は沈黙した。


かつて世界の金融データストリームを掌握していたデジタルの神が、今、底辺を生きる少女の「半額弁当狙撃戦術」によって完膚なきまでに教訓を得ていた。


二分後、おじさんは時間通りに現れた。その黄色い「半額」シールが弁当の蓋に貼られた瞬間、小春は電光石火の速さで弁当をカゴへと滑り込ませ、その口元に世俗的で勝利感に満ちた笑みを浮かべた。


それは、大久保公園で股を開いて一万円を稼いだ時には絶対に得られない、「人間の日常」に属するささやかな幸福だった。


スーパーを出た小春は、レンジで温めて少し衣がフニャッとしたとんかつを齧りながら、駅へと歩き出した。


彼女は大久保公園には戻らなかった。昨夜、ケンジという名のオタクが、優しさとSFとで彼女の防御壁ファイアウォールを粉砕したことで、彼女は突如として、あの消毒液の匂いが充満する風俗街に対して生理的な嫌悪感を抱くようになっていたのだ。


彼女はスマートフォンに表示された、あの常連客のオーナーから送られてきた住所を見つめた。世田谷区、下北沢。


その男は毎月決まって彼女を一晩借り切るが、決して指一本触れようとはしなかった。彼はいつも温かいブラックコーヒーを二杯買ってきてベッドの端に座り、穏やかな口調で昭和時代のスカジャンの刺繍や、デニムの色落ちについて、古い服に隠された物語を語って聞かせた。そして、飽きもせずに彼女を諭すのだ。「小春ちゃん、女の子がずっとあんな公園にいちゃ駄目だ。僕の店に手伝いにおいでよ」


小春は小田急線に乗り込んだ。列車が地下を抜け、まぶしい陽光が車内に差し込んだ時、彼女は無意識に目を細めた。白昼に、素面しらふで新宿から離れるのは、あまりにも久しぶりのことだった。


二十分後、下北沢駅。


駅を出るなり、ハンドドリップコーヒーの香りと若者の安物の香水が混ざり合った、強烈な空気が顔に吹き付けた。通りは、小綺麗に着飾った大学生や外国人観光客でごった返している。彼らは高価なフィルムカメラを手に、錆びたシャッターや落書きだらけの壁、古着が所狭しと吊るされた路地裏に向かって狂ったようにシャッターを切っている。まるでここが、何らかのファッショナブルな聖地であるかのように。


「うわっ!この501XXの色落ち、めっちゃバイブスある!歳月の魂が詰まってるよ!」道端で、洗練された格好の男の子が、ボロボロのデニムジャケットを手に感嘆の声を上げていた。


小春はストローを噛みながら、そのすべてを冷ややかな目で見つめていた。


真の底辺を生きる彼女の目から見れば、下北沢のこうした「意図的にパッケージ化された退廃感」など、滑稽の極みでしかなかった。


『ここの人類は……誰かが着用し、摩耗した衣類に対して極めて高い熱狂を抱いているようだ』建司の演算マトリクスが周囲の商業行動を分析する。


「金が余って暇を持て余してるからよ、建司」小春は鼻で笑い、飲み終えた紙パックをゴミ箱へ正確に投げ捨てた。「あの服のシミや穴あきは、あいつらに言わせれば『歳月の痕跡』や『ヴィンテージの魂』ってやつなんでしょ。でも私たちみたいな人間からすれば、あれは『新しい服を買う金がない』ってことや、『昨日ヤクザに地面に蹴り倒されて擦り切れた』ってことなのよ」


「他人の貧乏臭さをファッションとして消費する。それが、この街で一番胸糞悪い金持ちのゲームよ」


口ではそう毒づきながらも、小春は住所を頼りに、少し静かな路地裏へと曲がった。


路地の突き当たり、地下へと続く目立たない階段の入り口に、古い枕木を打ち付けて作られた看板が立っていた。派手なネオンサインはなく、ただ白いペンキで数文字だけが書かれている。


『古着屋・Moratorium(モラトリアム / 猶予期間)』


狭い階段を降りていくと、光は次第に薄暗くなっていった。空気中には、極めて独特な匂いが漂い始める——それは古い皮革、無数に洗われた綿生地、防虫剤、そして微かに燃える日本の沈香(伽羅)が混ざり合った匂いだった。


大久保公園のあの吐き気を催す漂白剤の匂いではなく、無意識のうちに心拍数を緩やかにさせるような、まるで時が止まったかのような匂いだ。


地下室のガラス扉はまだ開いていない。ドアノブには「準備中」と彫られた真鍮のプレートが掛かっていた。


小春は入り口まで歩み寄る。傍らには、廃棄されたビールケースを土台にしたボロボロの木椅子があった。彼女はそこに腰を下ろし、キャンバストートを胸に抱きかかえた。


階段の入り口から、不意にすきま風が吹き込んだ。


「チリン——」


限りなく透明に近い、澄んだ音が響いた。小春が顔を上げると、鴨居に掛けられた錆びた南部鉄器の風鈴が見えた。


風鈴の音は、下北沢の喧騒のバックグラウンドノイズの中で、まるで優しいメスのようになり、小春が十九年間張り詰めてきた神経を断ち切った。昨夜の激しい量子のキス、それに半額のとんかつ弁当がもたらした炭水化物が相まって、抗いがたい睡魔が瞬時に押し寄せてきた。


客の催促もない。ポン引きの監視もない。ヤクザの脅威もない。あるのは、地下室いっぱいに静かに新しい主人を待つ古着たちだけだ。


小春は冷たいガラス扉に寄りかかり、次第にその呼吸を穏やかなものに変えていった。


この十九年間で初めて、彼女は意識を『パンドラ』の廃鉄街に封じ込めることも、「事象の地平線イベント・ホライゾン」という名の絶対防御壁に退避することもしなかった。白昼の世界で、彼女は無防備に目を閉じたのだ。


彼女は眠りに落ちた。


建司の静かに稼働するデータストリームの中で、彼は小春の大脳皮質が極めて深いREM(急速眼球運動)睡眠へと突入したことを観測した。


彼女は夢を見た。


夢の中に、歌舞伎町を彩るネオンサインはなく、彼女の上にのしかかる老人もいなかった。


彼女は夢見た。自身の筆によって生み出された、永遠に酸性雨と有毒ガスに覆われた「パンドラ廃鉄街」を。巨大な反重力エンジンが重苦しい轟音を立てている。だが今回、エンジンが排出するのは、もはやむせ返るような黒煙ではなかった。


破損した歯車の噛み合いで構成されたその鋼鉄の巨獣は、古い皮革と沈香の放つ微かな匂いを辿りながら、ゆっくりと、しかし不可逆的に、永夜の陰鬱から抜け出し、海面を照らすまぶしい陽光へと向かって進んでいくのだ。


そして廃鉄街の甲板の上、大量に圧縮された古着のベールの傍らには、いつも温かいブラックコーヒーを持ってきてくれるあの古着屋のオーナーが立っていた。彼は龍と虎の図案が刺繍された昭和のスカジャンを手に、深淵から這い上がってきた小春に向かって、この上なく優しい微笑みを向けていた。



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