石壁風呂
「かぽ~ん」
どこからともなくそんな音がする。なんでも火精霊の仕業とも水精霊の仕業だともいわれているが、未だにそれを知るのは精霊だけである。
「はぁ…きもちいねー、……ふぇると君?」
そう。二人は風呂に入っていた。
今の時代には、やや古風な石壁に囲まれた風呂。
照明もランプ一つだけ、壁のくぼみに置かれたそれが優しい光源となっている。
薄暗く、それなりに広い湯舟。
ここでくつろぐ時間はすごく心地がいい。
本来ならば、そんなまったりと心安らぐ時間な筈なのであった。
「ふぇると君、お~い。ふぇ・る・と・くーん?」
「うっさいな、きこえてますよ、こんだけ近いんだからわざわざ耳元近づいて話す必要ないでしょう。んっ…じゃないっ、やめてくださいっ。ああもうっ、ほんっとおねがいします!!」
そう、アガツミと一緒である。
こうなったわけは、少し戻る。
…結局、アガツミが泣き止んだのは
日がとっぷり沈み、夜を迎えたころだった。
泣き止むや、「べちゃべちゃで気持ち悪い…」
「…そりゃ、貴女。あれだけ泣けば、涙と鼻水とよだれでべっちゃべちゃでしょうよ…ああっもうカーテンでぬぐわないでくださいっ、ほらティッシュありますからこれでチーンして、チーン!」
…というわけで片づけの方は家精霊にお願いし、風呂に直行というわけである。
風呂自体の準備はアガツミが魔法で水を出し、魔法でお湯にするだけなので
一人でさっさと用意して入ればいい話なのだが。
何を思ったか、風呂場に連れてったところで
羽交い絞めにされ、問答無用とひん剥かれ、
抵抗むなしく、気づいた頃には、二人湯の中である。
「顔真っ赤だけど、大丈夫?」
「ええ!そりゃそうでしょうよ!!お風呂ですからね、ここ!そりゃあ血色もよくなりますよ!?」
「ふーん」
俺が多少の羞恥を感じる反面、この人は恥じらい一つない。
言ってしまえば、育て親であり、子の裸を見ているようなものなのだろう。
…野菜とでも入ってることにしよう。
「かぼちゃ、大根、とまと、にんじん、キャベツ…」
「…お腹減ったのかい?」
「お腹撫でないでください。」
唸れ、俺の理性!!!
閑話休題☆
そんなこんなしてきたが、
抵抗むなしくわしゃわしゃと飼い犬のように洗われたあたりで慣れてきた。
うん、逆らうのは無駄だ…流れに身を任せるのじゃー。
うん。今なら悟りすら開ける気がする。
だから、背中を交代で洗いだしたあたりで話を切り出してみた。
フランクにさりげなく。泡はしっかりと立てながら。
「…というか泣き止んだんですから、…俺を殺して”人でないもの”として生かしている理由。聞かせてもらえますよね?」
「うん…?あー、いいかんじだよ。」
「よかったですねー。…で、答えてくれます?」
「…そうだねぇ。晩御飯は味が濃いものがいいなぁー」
「聞け、話!!!」
「うん、どこから話そうか。」
そう彼女が話し出したのは
たっぷりと話をはぐらかし
体を洗い流し(抵抗むなしく最後まで洗われた)
再び、二人浴槽に浸かったところで。
もう、すっかり気恥ずかしさは感じなくなっていた。
久しぶりだから慌てたが、なんてことはない。
彼女は育ての親で、長い付き合いだ。
背中越しに抱きしめられる。
感じるのは熱と柔らかさ。
耳朶に響くは、声の震え。
そこに来て気づく。
ああ、こんなにベタベタするのは心細かったのか。
やはり肌と肌の触れ合いは、単純だが安心する。
幼いころのように、共に風呂に入ったのはそんな不安からだったのだろうか。
ポチョンと落ちる水滴に話を切り出す口を見出したように
彼女はこぼす。
「嫌われたかと思った」と彼女は言った。
それはさっきも聞いた。
嫌われるのが嫌なら殺さなきゃよかったろうに。
全能のこの人が俺を殺さなきゃ達成しえなかったことはなんだろう。
何が俺を殺すまでにこの人を追い込んだのか。
反響する石壁。結露した雫が落ち、揺れる湯。
静かなその音が聞こえるぐらい小さな声で、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。
まだ、日は十分昇りきっていない。
布団の中で眠いからだを少し捩ってから、一呼吸おいて体を起こした。
本を倒さないよう、廊下に出て、洗面所に向かい顔を洗う。
棚からきれいに畳まれたタオルを取り、顔を拭いて、肩にかける。
「おはよう」
いつものように居間に行くと、アガツミが居る。
彼女は戸棚からコップを取り出しテーブルに置かれた水差しから水を注ぎ、俺に渡す。
「ありがとうございます」と彼女に礼を言って、受け取ったそれで喉を潤す。
時節は春に入りかけた頃。室温に置かれた水はまだ十分に冷たい。
机には家妖精が焼いたパンや、ベーコンに目玉焼き、色とりどりの季節の果実などが並ぶ。
食事をとっていると、その日は、珍しいことに手紙が届いた。
手紙と言っても、古くからある“文字刻印型連絡魔道具”いわゆる“刻連”だ。
勇者に家にあるのは、小型の暖炉の様な形で、中に紙を置いておくと、外部から来た信号を受け取って文字がじりじりと焼かれるように紙に刻印されるという代物である。…なかなか可愛い形をしている。
この国、ナーファエル・フェニクスには、当然伝話などの他の連絡手段も普及しているのだが、アガツミがあまり新しい魔道具を好まないためこの家には置かれていない。
だから、この刻連が最も落差のある崖にそびえたつ僕らの住む“勇者の家”に届くほぼ唯一の連絡手段となっている。そして、その連絡は大抵アガツミに対する仕事の依頼だったりする。
アガツミがじりじりと焼かれるように刻印された紙を軽く振って熱を逃がしちらと見る。読み終わるや紙を宙に放られた手紙は一瞬強い青い光を放つや、灰すら残すことなく燃え尽きる。
「仕事だ、君も一緒だ」とだけアガツミが呟く。
久しぶりのお出かけという情報につい喜び勇んで、パンを喉に詰まらせかける。
アガツミは基本、ふらりと出かけては仕事や買い物をして帰ってくる。
だから基本一人で留守番になることが多いのだ。
「っん、んぐ、ぷはっ、いつですか…?」水でパンを胃に押し流し、聞く。
「今日の夜には出る」
「…夜ですか?」
「急患だ、私は必要な薬を用意する、君は昼寝でもしておくといい。」
「昼寝…」
その夜、俺は1万メドルの崖を飛び降りていた。
「うぁあああああああああああああああああああ」
「口をあけていると舌を噛むよ、あと漏らさないで…あっもしかして、もう漏れてたりするかい?また小さい頃みたいにおしめ替えようか?」
「んぐっ、もう咬みましたぁああああああああ、…いや、誰が漏らすかぁああ‼…あとおしめ替えてもらった覚えはな…んっが、あいっ…ひゃぁ…」
「あー、このままじゃ、つく頃には血まみれだね。仕方ない。『減速』『防風』」
「はぁはぁ…最初からっ、やって、くださいよ……」
「風を感じるのが気持ちいんじゃないか!!」
「1万メドルの崖、自由落下は、正気の沙汰じゃねえんですよ!!」
「あっ、でも顔面蒼白の白と、血の赤ってもしかして縁起がよかったかな…?」
「それ俺死んでませんか…!?あと縁起とか担ぐ必要ないでしょ貴女。」
「んー、それもそう。まぁーいつぞやのより自由落下なだけましじゃないかい?」
…ああそれは確かにと納得しかける。以前、一度だけ“起きて”アガツミと出かけた際は
こんなものではなかった。
自由落下ですら、“生温い”と『加速』とか言い出したのだ、この勇者は。
…あまりの尋常でないスピードに耐え切れず、腹を空っぽにして以来、
寝ているうち(もしくは気絶させられたのち)に荷物のように運ばれていた。
思えば、どうして今日は違うのだろう…?
そんな俺の表情に気づいてかアガツミがぽつりと続ける。
「…いや、そろそろ君も大人だからね。」
「え?」
「誕生日だよ。おめでとう、ふぇると君。」
「はい?」
俺は、自分の誕生日を知らない。
だから、アガツミが俺を拾った日が俺の誕生日となっている。
そして彼女は、意外なことに毎年忘れず律義に祝ってくれる。
ただ一方で俺自身となると、たびたび忘れてしまう。
勇者の家には一応暦はあるのだが、外界から閉ざされたあの家にいるとつい時間の感覚がなくなってしまうのだ。だから、今年も言われるまで今日がその日だとは気づかなかったというわけである。
聞けば、俺がアガツミに拾われてから、今日で8年。
拾われたのがおよそ7歳だから、15歳で成人の儀だから、どうやらとうとう大人になるらしい。
何か胸のあたりに熱いものがこみ上げこぼれそうになる…
いつもは振り回されてばかりだけど、この人が俺を拾ってくれなかったらここまで生きられなかっただろう…
今日ぐらいはお礼の一つぐらい…
「アガツミ、あり…」
「だからね、少し厳しくしようかとね。」
「……はい?」
「ほらそろそろ着地だ。私は、手を貸さないから着地してみなよっ、ほらっ『解除』……『加速』」
「なるほど…え?いやっ、急ですってぇ!!ねえ、今加速ってぼそって言いませんでした!?死ぬ死ぬ死にますぅうううううっ!!!!!」
……なんとか風魔法の発動には間に合い、死を免れた僕は、脱臼した肩の痛みに震えながらも、無事成人を迎えられた事に内側から熱い何かが湧き上がってくるのを感じていた。
…いや、これ痛みで発熱してるだけじゃないですかね?
「いってぇ…」
アガツミが苦笑いを浮かべ回復魔法をかけようと駆け寄ってくる。
…目の端に涙浮かべながら大笑いしてた気がしたけど。見なかったことにした。
本当に、どういう神経してんだ。
そう心の中で悪態をつきながらも、どこか許してしまう自分がいる。
感謝はしているのだ。
アガツミに拾われてから始まったような人生。
死にそうなところを救われて、
大人になるまでの月日が経ったというのはそれなりに感慨深い。
痛みに耐えながらも立ち上がるために気合を入れるために、俺は小さく呟いた。
「…ハッピーバースデー、“ふぇると”」
小休止をはさみつつ移動を続け、日が昇るころ、その街に到着した。
検問を通って、大通りを歩く。
日はまだ昇り始めたばかり、店はまばらに開いている。
もう少し経てば、仕事の前に食事をとりに多くの労働者が集まるだろうか。
ちらほらと朝食を求める人や道行く人を呼び止める商人の声が飛ぶ。
鳥ガラ系のスープのにおい、蒸し饅頭屋から立ち上る湯気。
俺はアガツミの少し後ろについて道を歩く。
街の規模を考えれば、相当に優秀な薬師がいてもおかしくないはずだがと、アガツミに問えば、どうやら知り合いの薬師から街にいる薬師では手に負えないと連絡を受けたらしかった。
彼女は一般の肩書は薬師ということになっている。世間一般に知られているほどではないが、業界では素性の一切は不明、腕は随一の薬師として語られているそうだ。なんでも、ごく一部の薬師に連絡手段を伝えているとかで、自分の手に負えない難病だと判断した薬師がこうやって助けを求めてくることがある。
今回は、アガツミのかなり腕のいい知り合いの薬師から助けを要請されたらしく、急を要するとのことらしかった。
「着いたよ、ここだ。」
地図を見ていたアガツミが間違いないと言う。
一般的な借り家で、ノックをすると母親らしき人が出てきた。
相手からしてみたら、まず目に入るは、顔を面で隠し、体のラインが隠れるローブを羽織っている怪しげな格好をしている何某か、そりゃあビビられる。
母親は一瞬おびえたような顔を見せるも、アガツミが軽くフードを上げ、薬師だと言うと通じたようで、すんなりと迎え入れられた。
患者は6歳の娘で、かなり高熱が出ているらしかった。
額に汗を浮かべ苦しそうに寝息を立てている。
アガツミがいくつか質問を行ったのち、母親を部屋の外に出した。
アガツミはいつものように診察を行い、
俺は、いつものように彼女に指示されたとおりに薬の調合を行う。
幸いにも、手に負えないと判断した年寄り薬師が即、助けを求めたこともあり、
何やらアガツミが処置をした後、薬を飲ませると、容体は落ち着いたようだった。
「まったく腕がいいのかそうでないのやら…」と思わず呟く。
少女が助かったのはよかったが、こんなにあっさり容体が落ち着くと、
わざわざアガツミがくるまでもなかったのではと思ってしまう。
「いいさ。あの爺さんが手に負えなかったのはこの病気が傷から来るものだからだな」
「…?」
「ふぇると君は回復魔法があるこの世の中で、薬師はなぜ存在していると思う?」
「それは…、回復魔法では病気は治せないからでは?」
「そう。上級回復魔法であれば一部の簡単な病気は治せるが、それでもほとんどの病気は治せない。傷を治すのと病気を治すのは全く別の事だ。」
「はい」
「そう。逆にだ。薬師は病気は直せても、傷は治せない。回復魔法の素養があるものは少ないとは言わないが多くはないし、努力をすれば誰でもなれる薬師にわざわざなる必要はない。」
「つまり、この病気には回復魔法と薬師の知識の両方が必要だったと。」
「ああ…“邪風邪”(じゃかぜ)だろうな。魔物の血が人型種族の体内に入ることで感染する。おそらく未熟な冒険者が魔物の血を十分拭わず街に入り、彼女は血が落ちた場所で転ぶかなんかしたんだろうな。普通は、ここまで酷くはならないんだが、イレギュラーな症例だな。爺さんは回復魔法の素養はないが、知識はある。一目見て、邪風邪に類するものと判断し、治療には薬師の知識を持ち、高度な回復魔法の使えるものが必要だと判断したんだろう。」
部屋の扉が空き、少女の母親が入ってくる。
どうやら娘が心配で部屋の前で待っていたらしい。
話は聞こえていたようで、少し震えながら、母親が話す。
「…私、私には手に負えないって聞いて老薬師様に対して、怒っちゃたんです。…ちゃんと謝らないと。……あの娘の容体は?」
「ひとまず大丈夫だ。あと、あの爺さんはたぶん気にしてない。酒でも渡してやればいい。薬を渡すから、あとは、この紙の指示に従って与えてくれ」
「ああよかった。…薬師様、娘を救っていただいて、本当にありがとうございました」
感極まる母親に対してアガツミは答える。
「…そのあたりは君に任せるよ、私は報酬が貰えれば問題ない」
これだから、この人は…。
驚いた顔をする母親に
「すみません。この人いつもこうで、誤解されやすくて本当に困っています」
と釈明すると、なんとなく人付き合いが苦手な人だというように理解してくれたらしく
笑ってくれた。
「良かったですね。」
「なにがだい?」
「そんなの……娘さんが助かったことに決まってるじゃないですか。」
「なんだいその間は?…はぁーん、さては土産にもらったこれだな!」
アガツミが行っているのは母親が持たしてくれた手作りの焼き菓子である。
「貴女じゃないんですから…」
「だめだぞー、おやつは夕食後なんだからな。」
本当は、勇者であるこの人は、望めば、それこそ目の前の病気なんぞ
超常の理をもって治すことなんてわけないのだ。
だからこそ嬉しくなってしまう。彼女、アガツミが異能に頼らず、自らの力で多種多様な医学と薬学を身に着け、その力を使って、こうして薬師として人に交わっている。
望まずして人ならざる力を得た者が、人として生きている。
その事に…胸が熱くて。
胸が熱く、て……?
そこまで話したところで、アガツミが黙った。
湯は精霊の力のおかげで、まだまだ熱を保っている。
灯りも変わらず壁を照らす。
ただ…。入り始めた頃よりも明かりが暗い気がする。
湯気で光が拡散しているせいだろうか。
視界が曇る。
ピチョンと天井から、水滴が落ちた。
彼女の話は婉曲的で、核心を突く話が出てこない。
なぜ俺はアガツミに殺されたのか。
そこが分からない。
怒らせた覚えもない上に、嫌われていた…わけではないとは思いたい。
だってあの後はむしろ確か…
視界が曇る。
風呂の戸を開けよう。
息苦しい。
湯気を払えば、少しは気が楽に…と立とうとすると。
強い力で体を抱きしめられる。
肺がきしみ、息が吸えない。
痛い。
「…」
掠れる息が耳元で漏れる。
その音は徐々に聞き取れる大きさになっていった。
どうやら、また話が始まるようだ。
「っだ、大丈夫かい!?あ、ど、ど、どうしよう。ああっ、まずは薬っ、いや念のため診察をもう一度?この薬との食い合わせは…副作用は…ええっと……」
部屋に一つしかないベッドに横たわる俺を前に、アガツミが取り乱していた。
あまりに頭を抱えるものだから、自慢の淡い翠玉色の長髪はぐちゃぐちゃだ。
あの日、俺は家に帰るや倒れこんだ。
先刻の少女と同じ症状、邪風邪だ。
少女のようにどこかで転んで魔物の血に触れたわけではない。
ただ……崖からは落ちた。
脱臼するぐらいだ。擦り傷は当然のこと、落下地点に魔物がいたとすれば、弾け飛んでいただろう。暗闇で見えなかったが、擦り傷に魔物の血が触れた可能性は十分にあった。
少女に続いて偶然、特殊な型というわけでは流石にないと思いたいが、
勇者の家があるような場所の近くに住むような魔物である。同じ型でもおかしくない。
適切な治療なしでは、短期間で死に至る病である。
いざかかってみると、
つらさはそれなりなはずなのに妙に頭は冴えていて、むしろそれが恐ろしく思えた。
これはかかり始めの症状なのだろうか…。
ガシャンと何かが割れる音
ドスンと思い何かが落ちる音
バラバラと崩れる音、本…かな…?
「……おち、つい…てく、ださい。」
「ああっ、こんなにっ…苦しそうにぃ…」
「落ち着…ごほっごほっ…」
「ああっ、わかった…わかったとも。もう喋らなくていい。私が…、落ち着けば、いいんだな、…わかったわかった。落ち着くから。……そうだ私は勇者だ。私に…出来ないことはない…」
「…」
「と思うんだ…」
「大丈夫…あなたは、優秀な薬師でもあるんですから…」
俺は笑い、その言葉に息を少し吸って…少し笑うアガツミ。
アガツミが一つゆっくりと息を吐きだして言う。
「…ああ、私に任せろ。」
そう言う彼女からは迷いはもう感じられなかった。
アガツミに拾われて、8年。
もう少しで
アガツミと過ごした日々がそうでない年月を越そうとしている。
それくらい長い付き合いだ。
衣食住をもらった。
それどころか生きていくために必要な知識を、全てのものをこの人からもらった。
親から本来もらう筈だったであろう親愛の情も何もかも。
それなのに俺を看病するアガツミは、一度も見たことのない顔をしていた。
とうに記憶から抜け落ちていた、女の顔が重なる。
彼女を通して、俺は今は亡き母を見た。
ぼやける視界。焦点が定まらない。
今なら、手を伸ばせば届くのに…
力が入らない。
かあ…さん?
懸命に僕を救おうとする彼女の姿が
瞼に確かに焼き付き…
しだいに俺の意識は睡魔に落ちていった。
喉が渇いていた。
俺は、部屋に一つしかないベッドで大の字になって寝ていた。
寝巻は夜来ていたものと変わっていた。
寝汗をかいていたのをアガツミが着替えさせてくれたらしい。
陽はすでに高く昇っている。昼を過ぎたころだろうか。
ベッドサイドのテーブルにはランプと水と懐中時計が置いてあり、
俺は一息でグラスに注がれた水を飲み干した。
手が少し震えたかもしれない。
それぐらいに喉が渇いていた。
ひりついていた喉に冷たい水が少し染みて、体中に染みていった。
懐中時計で日にちを見ると、俺が熱を出した夜から数えて2度目の昼らしかった。
たくさんの本が積まれやや出にくい部屋から出る。
本はベッドに積んでおいた。
ソファの背から長髪が見えており、可愛らしい“いびき”が聞こえている。
ふぁぶーってなんだ…
俺は、彼女を起こさないようにゆっくりと立ち上がると、
若干の頭痛とふらつきを覚えながらも頑張った彼女のために朝食を作るのだった。
ご~ご~
邪風邪が治って数日後の夜。
ご~ご~
いつものように俺はアガツミの髪を温風の出る魔道具で乾かしていた。
風呂上りの今日のアガツミは足をバタバタとさせ、しばらく何事か考えていた。
いつもは髪を乾かす途中で気分で首を振り出したりするので、
いつもこのぐらい動かないと助かるのにとか考えていると、アガツミが口を開いた。
「私もかかってみようかな…」
「はい…?なんです?」
「邪風邪」
「なにを…」
「いやなに、君だいぶ辛そうにしていただろう。私は病気の類はかからないからどんな感じなんだろうと思ってね。…ああっ、ふぇると君。髪をわしゃわしゃするのをやめたまえっああ温風を当てた後に冷風を当てないでくれっ固まってしまう。」
その日は、他愛もない、いつものきまぐれな好奇心だと思っていた。
それが…本当に、気まぐれだったのだ。
「…貴女っ、本当に邪風邪にかかるなんて何考えてるんですか!?第一貴女病気になんてかからないでしょうがっ!」
「うう、それは勇者の力を使ってだね……」
「あ?」
「…無理やりかかってみたんだ。…これは、なるほどつらい」
「あ?もしかして、病気の感じ方まで同じになってるんですか!?ほんっとに馬鹿なんじゃないですか!?何考えてるんですかっ!!?」
「…大丈夫、だ、私は…勇者だからね、死にはしな…い。」
「でもっ…、ああ…もうっ。…俺がやるしかない。邪風邪の処置は近くで見た。薬の作り方は…えっと、ここら辺に本が?ああっもう似た本が多いっ、…なに?これじゃなくて、アレですか…?え?これって…ああもうカバーと中身が違う‼あっ、これの本の袋とじ?なんで?ああっ、もうっ……はぁ、とりあえず本は見つかりました。すぐに…とはいかないかもしれませんが、絶対に助けるので…もう少しだけ待てますか?」
「ああ…君が、私のために、頑張ってくれるんだ…こうやって、待つのも悪くな…い。いくらでも、待つ、さ…」
「ああっ…もうこのお馬鹿っ!」
お湯はまだ温かい。
黙って聞くのが、少し居心地悪く、
ばちゃ、ばちゃと自らの肩にお湯をかける。
湯の熱を十分に帯びたはずの手は少し震えていた。
アガツミの話はなんだかやたらと遠回りで
理由は未だ分からないまま、焦れて彼女に核心を問いかけようと、口を開こうとした。
その瞬間、首筋に結露した雫が落ち、その冷たさにびくと身を震わせる。
水滴に体をはねさせ湯を揺らす俺を見て、アガツミは一瞬驚き、微笑んだ。
その顔は慈愛に満ちていて、母親のようで。
俺は思わず、頭を湯に叩きつける勢いで落とす。
それをアガツミは誤解したんだろうか。
今更、照れたとでも思ったんだろうか。
からかうように俺を手を伸ばし、抱き寄せる。
「まだまだ子供だね」なんて言って。
ああ、良かった。
どうやら潤んでしまった瞳はごまかせたらしい。
なんで、この人に俺は殺され、
人ならざるものにされたんだろうか。
彼女からそれだけの怒りを買ったのではないか、と
どうやらまだ怖かったらしい。
でも、彼女がに向けるあの目は…優しげなそれで。
「あっ、痛いっ痛い。ふぇると君?強い強いちょっと力、強いって…ってあれ?…泣いてる?えぇ…今度は君が泣くのかい?…ああっこんなところでそんな泣いたら、脱水症状になっちゃうぞって…ああもうっ、よしよーし、泣きやめぇ…泣き止むんだぁ。」
せっかく隠せた涙はもう止められない。
心臓を抉りだしてしまいたいほどのこの疼きは、痛みは気づいたら一人ではいられない。
…もう大丈夫。この人の事だ、どうせくだらない理由だろう。
怖さよりも、熱を帯びた感情に俺は身を震わせ、ただひたすらにそう、願った。




