羊は最期に何を思う?
痛くはなかった。これは彼女の情けなのか…
そんなことが思い浮かび消えていく…
焼けた鉄が痛みを伴わず体に流れ込んでいくかのように。
感覚が重く、鈍くなっていく。
指の一つさえ、これほどまでに重い。
視界が霞んでゆく。
彼女と暮らした日々の記憶が駆け巡る。
数々の記憶が、思い出が、油を浸した薄い紙に火を灯したように、一瞬で炎が燃え上がり消えていく。
俺の命は間もなく費える。
薄目に、彼女の姿が見えた。
ああ…ここは彼女の腕の中。
俺が死んだらあなたはどんな顔をする。
出会ったばかりのころのように不機嫌な顔を見せるのだろうか。
いつか出会う他の誰かにも、
無理やりに俺を抱きしめて、身勝手に笑うそんな姿も見せるのだろうか。
「アガツミ……」
彼女の顔に伸ばした手は届かず、落ちる。
…それでもいい、だから頼むから、そんな顔はしないでくれ。
その日、俺は愛しき勇者の手により、殺された。
目を開けると、既に太陽は高く昇っていた。
昼間は大体開けっぱなしの縁側から、日が差し込み灯りはついていないが畳の目さえ数えられる。
清潔な白いシーツに包まれ横たわっていた。
ベッド、姿見。乱雑に置かれた本の海が広がる畳の部屋、そこに俺はいた。
サイドテーブルにはランプと水と懐中時計。
ベッドの横にある木製の椅子には、畳まれたひざ掛けが残っている。
本を踏まずに、部屋から出るには一苦労するだろうその部屋は、いつも俺と彼女が寝ていた部屋だった。
俺は…、乱雑に置かれた本を押しのけ
一瞬、足を止め鏡を見てから、唇をきゅっとして部屋を出る。
畳の部屋から、一歩踏み出すと
ミシッと木の床が軋む音がする。
ああ…、何も変わらない。住み慣れた勇者の家だ。
「おはよう」と女性にしてはややハスキーな声が聞こえた。
声の聞こえた方に顔を向けると、
そこには見慣れた、人ならざる美貌があった。
ああ…愛しき勇者、我が主。
また会えるとは思っていなかったその人に駆け寄り
俺は…拳を振るった。
「なっ、急にっ、なにをするんだっ!」
風が巻き起こり、風圧で無造作に置かれていた書類の束が吹き飛び、
彼女の後ろにあった食器棚にはひびが入る。
想像以上の勢いが出て驚いたものの、俺なんかの拳が今代の“勇者”に届くはずもない。
彼女は最小限の動きで、拳を避け、急に殴りかかられたことに、無駄にオーバーな表現で文句を表現する。
あ…ほっぺたを膨らませた…可愛い…じゃ、ないっ!!
「何をするんだっ、じゃっ、ないでしょうっ」
殴りに加え、蹴りを加えるも避けられる。
飾られていた花瓶の投擲を行うも避けられる。
それどころか、その花瓶を体を回転させながら避けつつ、体の背面でキャッチ。
殊更に丁寧に机に置き、続く動作でその場からほぼ動くこともなく拳と蹴りをさばいていく。
しまいには、段々楽しくなって来たらしく、途中から口元を緩ませだした。
右手の裏拳から、肘打ちと連撃をたたきこもうとしたところで、
「どーん」というふざけた声とともに、胸元を両手で押され、
俺は、あっさりと体勢を崩され、床に倒されてしまう。
起き上がろうとしたが、
同じように倒れこんだアガツミに抱きしめられ、身動きを封じられた。
身をよじるも、びくともしない。
背に感じる体温、柔らかな肢体。頬にあてられる手の滑らさと熱。
甘くも胸のすくような花と薬草の匂い。
無邪気な彼女のくすくすという笑い声が耳朶をくすぐり、脳を痺れさせていく。
こうなると、すっかり、抵抗する気は失せてしまう。
俺がまだ幼い時、俺が不機嫌になると、アガツミはこうやって俺を抱きしめた。
姉のような、あるいは母のような、その温かさに俺は逆らえない。
だから…、たったこれだけで、殺されたときのどうしてという戸惑いや悲しみ。裏切られたような怒りは、
噓みたいに溶けて消えてしまった。
もう、彼女を責める気はすっかり失せていて、でもやっぱり聞かないではいられなかった。
ぽしょぽしょと確かめるように、俺は聞いた。
恨み節なんて言えない、これじゃあまるで拗ねているようである。
…絶対殺したアガツミが悪いはずなんだけどね!!
だから訴えを持った呟きは拗ねるような響きをもってしまった。
「アガツミ、貴女、俺を殺しましたよね」と。
指の一本も動かす気力のなくなった俺は
彼女の腕に抱えられたまま、不機嫌を装って、アガツミに問う。
抱きしめられたくらいで、いいように、許してしまうなんて
知られたら恥ずかしいし、悔しい。
墓までもっていくのだ、…もう死んでるが。
しばらくの沈黙の後、アガツミは沈黙など無かったかのようにあっさりとこう言った。
「うん。ごめんね。」
そう小さく答える声色は笑っていて、
それどころか媚びるような、誘惑するような甘さで。
ああ…これはズルい。
ただの悪夢ならという俺の淡い望みはあっさり否定され、
返ってきたのは、度し難い不誠実な回答。
ああ、なんと彼女らしいことだろう。
アガツミはやはり、俺を殺したことなど反省してないらしかった。
少し、苛立ちが戻ってきて、頬を手で挟み込みながら俺は聞く。
「…理由ぐらい聞かせてもらえるんでしょうね」
彼女は不服そうに眉を顰めるが、これを聞かないわけにはいかない。
少し沈黙が下りる。俺の思いが変わらないことを察すると、アガツミは諦めたように口を開いた。
「…んぅ…ひひふぁ、ゆふふぇえふえうあえ」
「……」
俺が手を外すと、アガツミは立ち上がり、今度はそっぽを向いて
やや不機嫌そうに聞いた。
「んー…。君は、許してくれるかい?」
溜め息をつきながら応える。いつも通り応える。
「…俺の命は貴女のものです。それは、貴女に救われたあの時から変わっていません。」
気持ちとしてはともかく。これまで、どんな無茶苦茶も、この言葉で許してきた。
そんな俺の、心と理性のぐらつきを知ってか知らずか、アガツミは答える。
「君は…死んでも変わらないんだね……よかった」
「…え?」
震えた声が聞こえた気がした、それは僕の知っているアガツミの声ではない。
普段の彼女ならば、きっと無邪気に、もっと無神経に笑って…
「……」
気づけば、あまりに困惑して立ち尽くす俺と、床に崩れ落ち嗚咽を漏らす彼女が居た。
「嫌われたんじゃないかって怖かったよぉおおおおお~えっ、ぐ…えっ、っぐ…」
細い肩を震わせ、顔をくしゃくしゃにして俺の胸で鼻水を拭くアガツミは幼く見えた。
理を捻じ曲げ、望むままの世界さえ手に入れることのできる世界最強の生き物、勇者。
ああ、どうして、どうして彼女は俺を殺したのだろう。
懐中時計の日にちは、俺が殺された忘れもしないあの日から一週間を指していた。
それにもかかわらず、「喉も乾いておらず。」「姿見に映るは青白い肌。」
そして、「どれだけ動いても汗をかかず、息の上がらなくなった体。」
この馬鹿で、倫理観がなくて、寂しがりやな、この人は。
何を思って、俺を殺し
…そして人ならざるものとして俺を生かしているのだろうか
本気で謝るこの人の姿に、
俺はこの事がようやく只事でないとわかってきた。
そして、悟った。
「ああ…、俺は本当に、死んだんだ…」
ただ、死んだのではない。
きっともうアガツミは俺を人として生き返らせる気すらないのだろう。
なんとなく彼女の様子からそう直感した。
ただ何よりも直近の問題としては、このままでは泣き続ける
彼女の涙で木の床が弱ってしまいそうだということで、
俺は少し、目元を拭うと
彼女の背を撫で、ひたすらに宥めるのだった。




